表面的な教え

多くの人は、「教わりたい」と感じることがあるだろう。

これは単なる予想であって確信ではないので、「そんなことないです」と反論されたらすなおに引き下がる。

しかし、たとえば、本当に優秀な人というのは得てして「教わりたがり」なのではないか、と思う。

いや、待て。

優秀かどうかに関係ない。人はみな、本質的には教わりたがりなのではないか。

ああ、「本質的には」と書いてしまった。

自己嫌悪がおそってくる。

何事にも本質があると考えるのは典型的な短絡思考だ。

本質的の反対語はなんだろう。「表面的」? 細胞のことを考えると、皮膚にしても消化管にしても、表面ほど分化する。表面をあなどってはいけない。表面から得られる情報は膨大だ。深部の変化を反映したなにかが露出してくる場所こそが表面である。逆に言えば「本質」なんてものは、すぐに病変に針を指して内部の細胞を観察すれば診断がつくと思っている人間の使いがちなつまらん言葉である。表面を語れ! 表面こそ語れ! 表面で語れ!

話がずれた。

人はみな、人柄のごく一部か大部分かの差はあれ、「教わること」を待っている。表面的にはそう見える。本質とか内心とかをいったん忘れてもらって、表面で見る限り、だれもが教わりたがっている。ぼくからはそう見える。内面までは見えないが。




さて、ふしぎなもので、あちこちにいる「教わりたい人」が、「教えたい人」から教わることは少ないのではないかと思う。

教えたい人は自分が言いたいことしか言わない。それが良くないのだと思う。

教えたい人から教わるには技術がいる。テクニックが必要だ。「めちゃくちゃ優秀、かつ、教わりたい人」は、「教えたい人」からもいろいろ学ぶ。ラカンとかは結局そういうことを言っているのではないかと思うこともある。や、うーん、どんな人であっても、「教える立場の人」さえいれば、なんらかの形で学びは発生するのかもしれないが。

少なくともぼくは、「教えたい人」がまず登場するような場所で何かを教わることは、難しいなと感じている。

「教わりたい人」がまずあって、そこから引っ張り出されるようにして教えが発生する。この前後関係というか順番が重要なのではないかと思う。

今のくだりを表面的にくりかえしておく。

「教わりたい人」がまずあって、そこから引っ張り出されるようにして教えが発生する。



教えることは難しい。

「教わりたい人」の存在なくして、自分が「教える人」にはなれないと思うことが多い。

ぼくが「教える人」になるためには、「教えてもらいたそうな顔」をしている人と出会うことが必要だ。

自分が「教えたいなあ!」と思っても、そうかんたんには「教え」は発生しない。

自分から教えたいなーと思うとすべる。

教わりたくなさそうなタイミングの人に教えをぶつけても表面で跳ね返ってしまう。

「教わりたいです!」と顔面から醸し出している人がやってきてはじめて、「あっ、教える側に回れるかも……」という期待が出現する。

カギは、表面にある。

顔だ。

「教わりたい顔」をしている人のおかげで、ぼくはときどき教える人になれる。極めて表面的に。

教えを引っ張り出してもらうことができるのだ。表面の、少し奥のあたりから。