わからないことにおめでとう

「とてもむずかしい言葉をたくさん使いながら、いかにも口が脳に追いついていないのだというそぶりで、ものすごい早口で、日本語と英語とドイツ語をごっちゃにしながら、肝臓の小葉構造について、15分という持ち時間なのに32分も使ってねっとりとしゃべりきったあとに、まだ語り足りないとばかりにぶぜんと引き下がる元大学教授の現役病理医」のミニレクチャーを笑いながら聞いた。いいよねーこういうの。

この研究会、かつてオンサイト(現地)で開催していたときには、400人とか500人とかいうレベルの出席者がいたはずだが、今こうしてZoomでやってるのに150人程度しか参加していない。マニアックすぎるからか。勉強する人の数が減っているわけではなく、勉強する場所が多すぎて互いに客を奪い合っているのだろう。それでもがんばって見に来た人たちは今の病理のレクチャーをどう聞いたかな。笑ったかな。寝たかな。



50年以上前から解剖学や生理学を基礎研究としてごりごりやってきた人たちの話は、哲学の本を読んでいるときのようにわかりづらい。言葉を受け取るために必要な前提知識が多すぎる。通り抜けてきた努力の質も違う。これが哲学書であれば学徒たちは、むずかしい一文を何度も繰り返し読み返すことで伝達に挑み続けるであろう。しかし、症例1例にかんする解説やミニレクチャーの内容を、繰り返し聞き直すことはむずかしい。

病理学者も最後には哲学者のようなしゃべり方になるのだが、哲学のふるまいでやっているわけではないから、あるいは、哲学とは別の意味でむずかしい。

それでも必死で「聞きにいく」ほどのモチベーションを保てるかどうか。

もう少し「我々の普段の文脈でわかる」ものを追いかけたほうがよいのではないか。

現代の科学は必ずしも、かつての英雄たちの言葉を必要としないだろう……なんて、逃げ出したくもなる。




そもそも、日頃の診療において暫定的に納得し、あるいは混乱したまま放置している解剖・生理・病理学的な疑問は、現代の科学の文脈の中に立ち上がったものである。いまさら古い手法によって解析される余地があるとは思い難い。最新の画像や免疫組織化学、遺伝子検索によって、執拗に撃破されたクリニカル・クエスチョンのなれのはて。焼け野原に立ち枯れる木の残骸のようにずたぼろの形で残った燃え殻。それらを令和も6年目になろうという今、連続薄切や樹脂による鋳型標本作成、実体顕微鏡とトレーシングペーパーによる細工仕事のようなかつての形態学で解説できるとは誰も思っていないだろう。

実際、そんなに甘くはなくて、老練の方々の言葉をすべて書きとって何度も読み返しても、当座悩んでいることがそのまま解決するということはまずない。



しかし、古くてむずかしいことを古くむずかしいままに受け止めることは、想像以上に思考を明るくしてくれる。

より見えづらい暗がりに気づくための強い光のようだ。

あるいは、自分の思索の道のりの、けもの道を執拗に踏み固めたつもりだったところを、さらにきれいにならしてくれるような強い圧でもある。

それらを受けていると、あるとき急に、「ああそれで! 肝硬変のときにはああいう線維化が生じるのか!」とか、「なるほどそれで! 肺と肝臓では小葉構造の考え方が異なるのか!」みたいに、現代の科学が解明しきっていないはずの四次元の人体病理学に「言葉にするのが難しい深部での洞察」が得られたりする。




この世のどこかに真実やら真意やらがあって、言葉はそれを単に伝達するものである、というありふれた考え方から距離をとったのがベンヤミンだそうだ。

言葉はなにかを伝達する記号なのではなく、言葉自身を伝えるものであり、言葉自身をすべて伝えるものである。誰かの言葉がむずかしいと感じるとき、「真実はもっと簡単に言い表せるはずだ」と言って逃げ出すのではなく、「なるほどむずかしい言葉が選ばれたことを寿ごう」と立ち向かうこともときには必要なのだろう。ベンヤミンの言葉はむずかしい。ベンヤミンを参照して何かを語る人たちの本を立て続けに読んだがそれらもむずかしかった。それが今のぼくにとってはなにかの祝福であるかのように感じる。