音のほうを守る

「待ちに待った」みたいな表現って、ほかに何かあるかな。

ぜんぜん思いつかなくてひとまずぐぐる。「待ちに待ったみたいな表現」。我ながら雑な検索ワードだ。今の時代、プロンプトが甘いと「IT宝」を持ち腐れる。生成AIブームによって、世間は「使う人のレベルによってIoTの出してくるもののレベルがかわる」というつらい事実に直面した。ぼくなんか典型的な持ち腐れタイプである。持っててもむだ。断捨離。

しかしこの雑な検索によって、ロシアではたらく日本語教師のブログが出てきて、結果的に疑問はうまく解決した。重複によって強調する表現はほかに;

・食べに食べた

・泣きに泣いた

などがある。言われてみればたしかになあ。


「食べに食べた」も「泣きに泣いた」も普段はあまり使わない。その点、「待ちに待った」は、一段深くぼくの生活に浸透していると思う。「マチニマッタ」みたいなひとつながりの音として認識されているくらいだ。食べるよりも、泣くよりも、ぼくは待つことを重ねることが多いのだろうか。「待ちがち」なのだろうか。だから「待ちに待った」がこころにしみ込んでいるのだろうか。


言葉や概念をとりあげる頻度が多いと、それらの用法が、ほんらいの字義や成立過程などから離れて浮き上がってくるように思う。たとえばこのブログの冒頭で、ぼくは「ぐぐる」と書いたが、元がグーグルなのだから、略したとは言え「ググる」と表記すべきだろう。しかし、日常で数えきれないほど検索してきて、「ググる」ことがぼくのこころに浸潤し、あちこちの隙間をうめてがっちり食い込んで安定した今、心の中では「ぐぐる」と書いたほうがしっくりくるようになっている。元の意味とか由来とか関係ないのだ。「ぐぐる」ほうがニュアンスに合っているとすら歪んで思う。だってぐるぐるかき回すじゃないか。


粘稠、という言葉がある。なんと読むかご存知だろうか。ぼくは長年「ねんちょう」と読んでいた。……こうやって書くということはつまり、この読み方が間違っているということである。試しに当ててみてほしい。「ねばっこい」を意味する、少し硬い言葉。どういうときに使うかというと、病理診断で、細胞の背景基質に「間質性粘液」があると見て取ったときに使う。こんな感じだ。

粘稠な基質を背景に、紡錘形や多角形状を示す筋上皮細胞が索状~孤立散在性に増殖しています。」

この「粘稠」をずっと「ねんちょう」だと思っていたわけだが、じつは間違いなので、PCでねんちょうと入力しても出てこない。年長、年帳などが出るばかりだ。ああそうか、医学用語だから普通の変換ソフトには対応していないんだと思って、変換ソフトの手書き単漢字表示機能を使って「稠」を呼び出し、粘液の粘とくみあわせて、「ねんちょう」という音をむりやり単語登録して使っていた。

ある日、粘稠という言葉を論文で使うにあたって、いちおう本来の意味も調べておこうと思ってぐぐって見てびっくり。この言葉はねんちゅうと読むのである。

PCはもちうろんスマホであっても、ねんちゅうと入れればただちに粘稠が表示される。これで「ちゅう」と読むとはなあ。

稠という字は「濃い」「びっしり詰まっている」という意味。のぎへんがついているように、「穀物がみっしりと生い茂る」のイメージだ。読みは、つくりの周「しゅう」から「ちゅう」に通じたのだろう。


それでだ。


ぼくは今でも顕微鏡を覗いて粘稠な基質を目にすると、「ああ、ねんちょうだなあ」と瞬間的に感じてしまう。粘稠をねんちゅうと読むことがわかった今でも、リクツが思念をコントロールする前に情感が「ねんちょう」を引き連れて思索の荒野に躍り出る。Alcian-blue染色の神経質な青色と「ねんちょう」という音は、脳の中で勝手に結びついてしまって剥がすことができない。アスファルトのひび割れにしっかりと根を伸ばしてもはや剥がすことのできないセイヨウタンポポ。心のすきまにがっちりと食い込んで取り外しようがなくなったねんちょう。

一時期、病理診断を書くときに、どうしても「ねんちょう」という音を使いたかった。なにがねんちゅうだよ、新参者は認めねぇからな! と鼻息を荒くした。結果、「粘調」という言葉を編み出した。発赤調(ほっせきちょう)だねえ、単調(たんちょう)だなあ、C調ってやつだね、みたいなニュアンスで、「粘調(ねんちょう)な病変です」と書いていたのである。

意味を正しく伝えるために言葉を選ぶべきなのに、脳にこびりついた音を守るために、その音にあった新語を作り出した。でもまあ、この言葉、見るほうにとってはわかりやすいらしく、特にお叱りを受けることもなかった。調子に乗ったぼくはある日、「じつは粘調って言葉もあっていいんじゃないだろうか……」と思って、粘調でぐぐってみた。結果、出てきた記事がこれであった。



https://www.kango-roo.com/work/7389/


よくないそうです。