バーチャルスライド。PC上でミクロ画像を見ることができる特別なシステム。
顕微鏡の対物レンズ40倍相当(接眼レンズとトータルすれば400倍の拡大倍率)で、標本すべてを写真撮影してある。マウスとモニタで組織を自由に拡大・縮小して、すみずみまで観察することが可能。自宅にいようが海外にいようが病理診断ができる(理屈上)。
このシステムを用いれば、診断が難しい症例を、遠くに住むコンサルタントに気軽に相談することもできる。若手病理医が、出張先で診断に迷ったとき、自施設にいるボスに診断のヒントをたずねることもできる。
診療、研究、教育、いずれにおいても役に立つ近未来ツールだ。
いや、未来ではない。すでに多くの病院に、プレパラートをバーチャル化するための専用機器が導入されている。
ただ、まあ、当然、金がかかる。
初年度にだいたい2000万、その後も毎年1000万くらいかかるシステムが一般的である。ここ最近は円安と物価高の影響でさらに高くなっていて、私が導入したいと考えていたシステムはいまや初年度に3000万くらいの出費が必要となる。
このバーチャルスライドシステムは診療報酬上の上乗せがない。いくら使っても、そのままでは病院にもうけは生まれない。
バーチャルスライドシステムがあるとちょっとだけ病理医が元気になる。診断に対するやる気も増す。学問的な伸びしろも出てくる。そういうのがめぐりめぐって、長い目でみたときに、その病院の財産になり、所得になる……と、病院経営者側が考えられるかどうかである。
入る病院には、ぽんと入る。
入らないところには、いつまでも入らない。
ねえねえ、うちはどっちだと思う? ウフフ……。
A. _______(あなたの答えを書いてください)
ドロロロロロ ジャン
正解!
A. いつまでも入りません!
というわけで当院にはスキャナはない。もっぱら、他の病院でスキャンしたプレパラートの画像が送られてくる。
たとえば私が誰かに病理診断のことを質問しようと思った場合、プレパラートを郵送する。このときお手紙も添えておくのが礼儀だ。
一方で、私に何かを質問したい人は、スキャナで取り込んだデジタル画像をメールでポコンと私に送ればそれで済む。圧倒的にラクだ。
私のもとにはメールがくる。私のもとからは手紙が出ていく。
非対称である。多様性である? 不公平である。
今日もコンサルテーションがやってきた。ギガファイル便のリンクをクリックしてダウンロード。しかし、10分経っても終わらない。圧縮しているはずなのにこのチンタラ感。
当院の仕事用ネット回線は激弱だ。書いていて赤面してしまう。
いまどきPOPやSMTPを用いているというのもいろんな意味で弱い。そのくせファイヤウォールがどうとか言って大半のメールアドレスをそのまま使えない状態に設定している。IoT時代にまったくついていけていない。
この先、もしバーチャルスライドスキャナが導入されても、この回線速度だとクラウドへのファイル保存ができない。
当院にデジタルパソロジーを導入するにはいくつもの壁がある。
先日、1年ちょっと勤めた日本デジタルパソロジー研究会の広報委員長の座を辞退した(まだ任期は残っていたのだがもうがまんできなかった)。ほかの役員にすごい怒られた(なんでやめるんだ! もっと仕事してほしかったのに! 的に)けれど、仕方がない。当院にデジタルパソロジー環境がないのに、私がどのつらさげて委員長をやって、やれテレパソロジーがどうだとかAIがどうだとか、歪んでいるし馬鹿げている。
同じ日本のどこかでは5G時代が到来しているというのに、田舎の中規模病院は世の発展に取り残され、病理診断科主任部長はガラケーを打つようにアナログな顕微鏡に向かっている。海外の病理医からのメールにこう書いてあった。「ドクターイチハラ、また教えてもらいたい膵臓生検検体があるのだがちょっと見てもらえないか。WSI(whole slide image。バーチャルスライドのこと)を送ります」。日本で見たことのないタイプのバーチャルスライド。海外仕様のビューアー。至れり尽くせりのメールの案内を必死で読んで環境を整える。なるほどよくできている。細胞の拡大にも視野の展開にもストレスを感じない。うらやましい。膵臓の診断にかんする参考意見をちょろちょろと書く。書きながら思う。
「俺よりいい環境で仕事してる人に、この先、あっというまに追い抜かされるだろうなあ」
いまどきの武道家は、スマホの電波が通じない山奥に暮らす達人の下に教えを請いにはいかないだろう。一方で病理医はいつまでWSIスキャナのない病院の病理医にコンサルテーションを続けるのか。メールに返事を書いている私の顔は、山林の奥の茅葺屋根に住む合気道の達人のそれである。時代錯誤だ。委員長失格。技術についていけなくなって、口先ばかりが達者になっていく。メール送信したがすぐにエラーで返ってきた。ああ、もう、置いていかれてばかりだ。せめて人一倍勉強しないと、ここにこのまま居続ける許可が得られない。許可? ここで働くのに誰かの許可が必要なのか? もちろん必要である。私は私に、「ここにいていい人間かどうか」という許可を出す。毎月更新制である。ちょっとでも怠ったらすぐに失格。インターネット全盛時代にアナログで生き残るための資格。取得単位は膨大だ。ゆめゆめ、サボってはならない。