長年本を買い集めて、本棚に入らないので前後二列に並べて、そこからもはみだして、机に積み、床に積み、書斎がゴミ屋敷みたいになってもそのまま暮らし続けていた男が、あるとき引っ越して本棚を整理してみたら、あると思っていたの本がごそっとなくなっていた。
「この裏に入っていたはずのマンガはどうしたんだろう。たしかに最近見ていなかったけれど。いつ捨てたんだろう」
そういう感じだ。
印象深く刻印されている黒歴史ですらこのありさま。
まして、かつての日常など、まったく思い出せない。
思い出はアルバムの中にしまった。しかし、ときおりアルバムを開いて、つどの感想を持つたびに、印象を上書き保存してしまい、だんだん思い出そのものではなくなっていく。
当時を知る人間と10年ぶりに再開して酒を飲み、問わず語りにそのころのことをしゃべってしまったが最後、家に帰って寝るころには、「今日の飲み会で昔のことを語った記憶」によって、アルバムのそのページや周りのページすべてがリマスタリングされる。
鳥山明が死んだと聞いた時、ドラゴンボールのアニメ主題歌を思い出し、あれは名曲だったなと、脳内で「つかもうぜ!」をリピート再生しながらGoogle検索をかけた。いざ再生すると音色が記憶とわりと違う。ボーカルの声に違和感はあまりないが、令和にはもはや使わない楽器を使っているのだろう、聞き慣れない音色に耳がびっくりする。脳内で鳴らし続けているうちにアレンジが進んで原曲を少しずつ離れていたのだ。ふしぎの海のナディアのエンディングソングを探して聞いてみる。メロディもリズムもほぼ記憶のままのように感じるけれどシンセサイザーの音にやはり驚く。
とはいえ音楽はまだいいほうだ。覚えているのだから。
音楽があるから、かろうじて私はかつての私と「一連」なのだと感じることができる。
でも、アニメの主題歌を覚えている今の私が当時の私と「同一」なのだと実感するところまではいかない。せいぜい「強く関連」しているのだなと納得するくらいまでのことだ。
自己同一性を担保するのは、あるいは記憶ではないのかもしれないとふと思う。人間は記憶を有することで因果を持ち歴史を持ち、自分が自分であり続けることを納得できるようになった生き物だというが、本当にそうだろうか? 私はかつての私が恥ずかしかった出来事もつらかった出来事も、喜んだエピソードも安心していた場も次々に忘れているし、もしすばらしい記憶媒体によってあの頃はこうだったよと見せられたところで、「こんなアスペクト比だったかなあ」と違和感をもつだけなのではないかと思うが、それでも、なんというか、「同じ心に搭乗し続けている」感覚自体がゆらぐことは今のところない。黒い歴史も白い歴史もすべて忘れて、当時の私に感情移入することもできなくなった今も、あのころの私がえんえんと歩いた先にいるのがちょっとしょぼくれた今の私であるということ自体は心の深い部分で納得しており疑うこともない。これは本当に記憶の為すわざなのだろうか。
記憶といってもいろいろあって、エピソード記憶とか意味記憶とか、このうち私がどんどん忘れているのはエピソード記憶のほうであって意味記憶のほうではなく、意味記憶が同一だとつまりそれは個性として同一だということになるのだろう、みたいな解釈もできなくはない。でもそういうことを言いたいわけではないのだ。シナプス間隙のざわめきが高度だから私は私でいられるというのは、生命のなりわいを少々侮りすぎているのではないか、ということ。私は何も覚えていなくても私なのだと、もう少し、エピソードも意味もない場所でまっすぐ発声してもよいのではないか、ということ。