徹頭徹尾肛門の話

まだあまり腹具合がよくないのかな、とは思った。目が覚めて、トイレに行きたいなと思いつつまずはうがいをし、しょぼついた目でスマホをみるとまだ2時だ。えっ、この時間に起きちゃうんだ、いやだな、まあ、腹の叫びってことかな。ひとまず寝直して、次に目が覚めたら7時18分である。さすがに驚いた。今日もいつもどおり5時に起きて、6時半過ぎには家を出て2時間運転するつもりだった。これはどうやっても取り返せない。先方2箇所にいつごろ、どの順番でお詫びとリスケをお願いするかを考えつつ、のんびり飯を食う気持ちにもなれずヨーグルトだけ食べて血圧とコレステロールの薬を飲んで、すぐに着替えて家を出た。絶対に間に合わない。ここで急いでもどうしようもない。

明日は早朝から新千歳空港に向かって伊丹に飛ぶ。来週は羽田経由で中国だ。これらの出張で寝坊していたら本気でまずかった。ある意味、今日でよかった、と言える。しばらくは寝ながらも緊張していて寝坊することはないだろう。

というか、驚きがまだ収まらない。私はこのようなタイミングで寝坊する人間だったのか、と気づかされた。これまで、性格的にも体調的にも、なにか大事なストッパーをここんところ壊してしてしまったのかもしれない。いろいろと自分が心配である。



ここまで書いて急に仕事がしたくなり、して、終えて、さっさと寝てしまった。今度はさすがにちゃんと起きた。伊丹についたら梅田に向かう。グランフロントの地下でさっとしゃべって、すぐに伊丹に戻る。空港の書店で『魔力枯れのダークエルフ』が大展開されているのをみてすかさずKindleで購入した(こんなやりかたでは書店はかわいそうだ、申し訳ない)。機内ではまず『戦争と差別について哲学は何を言えるのか』の続きを読む。このKindleを読むのは北海道に帰ってからになるだろう。まあ、よい。本とはそういうものだ。

本の買い方についても何かストッパーを失っているかなとは思う。本を買うのに前よりも躊躇がなくなった。ブランド品、車、家、そういったものを買うことはなく、服飾、雑貨、食品、そっちもべつに買わないが、本は買ってしまう。ただ私は積ん読が性格的に苦手なので買って積むことは基本的にしないが、今読みたい、と思ったタイミングで電子にデータがあれば買う。あるいは、だいぶ昔の医学書が、古本で高額で出ていたとして、それを読みたいと思ったら古本屋のもくろみどおりの高値で買う。たいして値段を吟味するわけでもないのでそこで損をしたことはきっと何度もあると思う。これは、気持ちよく散在するというのでもなく、豪儀に目下のために金をつかってやってるというのでもなく、「まあいいや、どうだって」のヤスオカ的メンタルではないかと思う。我ながら罪悪感というか、壊れた穴から水がちょろちょろ出ているプランターを見てため息をつくときの気持ちというか、そういうやるせなさが伴う。自慢できる話ではない。



ストッパー、あるいは括約筋のようなものが壊れたり緩んだりしている。よくない歳のとり方をしている。老化、呆け、前頭葉がくたびれてきたのかも。



サザエさんで、波平が新聞を読み、ある著名人(山本雄三?)の訃報に際し、「『子孫に美田を残さず』、すばらしい、ワシの考え方といっしょだ」と言う。するとカツオが「さ と せ の違いだね」と言う。「美田を残せず」。波平は怒ってカツオを追いかけていく……。

私は、小学生のころだったか、そのマンガを読んで、「美田を残せず」とはつまり「宵越しの金は持たない」みたいなものかなと、よくわからない理解をしたのだけれど(カツオの他虐ではなくそういう格言があるのかと思った)、今の私は、うらぶれてわびしくも小さなプライドにかかずらって日々をしぶとく生きている落語の世界の江戸っ子のメンタルにとらわれて、「ストッパーなんてたいしていいもんじゃない」と自分に言い聞かせている……、のではないか……と、メタに眺めてぞっとしている。

括約筋が緩んで人にとってうれしいことなど一つもない。肛門にしろ、食道胃接合部にしろ、涙腺にしろ、あっいや、涙腺には括約筋はなかったかもしれない。あと、細かいことをいうと、食道胃接合部に括約筋は存在せず、複数の筋肉や靱帯が共同して結果として括約機構を果たしているだけだ。ていうか肛門括約筋というのも、じつはそういう筋肉がひとつあって肛門を締めているわけではないかもしれない、なんてことを、近頃の解剖学は追求しているという。ブログで読んだ話だけれど学会でも聞いたことはある。括約筋っていう概念はすごくわかりやすいけれど、すごくわかりやすいだけに、じつは形而上学的な概念なのかもしれない。脳内の思考の括約機構もまた、複数のメカニズムが結果としてせーのでなにかを押し留めているだけで、老化やあきらめと共に複数のものがいろいろと動いていく過程で、「何が壊れたかはわからないが、結果としてたれながし」になっているのかもなあというイメージを喚起させる。だとしたらそれは修理は不可能だ。そして私はべつにそこは直さなくてもいいかなと思っている。寝坊だけはいただけないが。

ルーティン

病理解剖をやっている。私も手伝いに行きたいのだが今日はべつの当番があるのでデスクで待機している。オンコールの仕事が終わったらすぐに手伝いに行こう。病理解剖にはやることが多い。直接執刀だけでなく、周辺業務もたくさんあるし、その場に脳をひとつ増やすだけでもだいぶ役に立つ。病理解剖は死者を真ん中に置いたキャンプファイヤみたいな側面があって、みんなが遺体の奥底の事情に思いを馳せながらこれまでの医療やこれからの医療について、解析半分、検証半分、独白半分の、あわせて1.5倍の思考をする。そこには脳がなるべく多く存在したほうがいい、だから私は自分の当番ではなかったとしても病理解剖の様子を見に行くようにしている。

タイムラインにりくりゅうとトクリュウの話が交互に上がってきている。

病理解剖をやっている。まだ自分の役目が終わっていない。デスクで待っている。こういう時間がめったにない。猛烈に眠くなる。やるべき仕事はいくつもあるのだが、今日やるつもりでなかった。空き時間がぽんとできたならば直ちに仕事をここに差し込むべきである。しかしなんだか、ひどく頭がぼんやりとしていて使い物にならない。早く当番の仕事を終えて病理解剖の手伝いに行きたい。

AIに話しかけている。

病理解剖は終わった。結局一瞬しか見に行けなかった。着替えることもしなかった。申し訳ない。しかし解剖は、解剖して終わりではない。ここからの検証がさらに大切だ。その部分にコミットするために、一度だけでも顔を出しておくことができたのは、まあよかった。

AIが毎回ちがうことを言う。

燃え殻さんが、毎朝かならず1200字ずつ書く、と書いていた。私はこのブログでだいたい何文字書いているのだろう。ここまでをカウントするとだいたい700字だった。すごいなと思う。今日の私は、700字くらいでもう、いいかなと思ってしまっている。

AIが毎週月曜日にわたしにリマインドをしてくれるそうだ。8週間以内に迫った各種の研究費・助成金を書け書けと教えてくれるのだという。よろしくと答えた。それで仮に研究費をとれたばあい、それはもはや、私がとった研究費ではなく、AIがとってきた研究費なのではないかと思った。なぜなら人は、「やれやれ」と言いながら立ち上がるときこそ一番人だからで、その、立ち上がる部分をAIに仮託してしまったら、それはもう人として大事なことをひとつ失っているのではないかと思うからだ。

病理医ヤンデルの所見

細胞をみて言葉にすればするほどAIが過去の文献をうまく探してきてくれる。しかし、言葉の選び方がしょぼいとなにもできない。「クロマチンの増加した異型核を有する腺系の腫瘍細胞が管状・乳頭状・索状構造を形成して増殖しています。浸潤性の腺癌です。」病理医が納得するためだけに書かれたこんなエクスキューズの所見からは、AIは何も探してこない。クロマチンの増加していない腫瘍細胞を探すほうがむずかしいからだ。異型核という言葉はじつはなにも情報を付け加えないからだ。腺癌が管状・乳頭状・索状を呈するのは極めて一般的だからだ。弁別の役に立たない質問を繰り返すアキネーターのようだ。そんな所見のとりかたでは、世界がひそかに思い浮かべる人物の名前は、永遠に出てこない。

細胞を

みたときに

どうやって

表現するか。

ここで必要とされるのはオリジナリティではない。自分だけが考えた最強の言い回しは、過去に報告されていないわけだから、さすがのChatGPT proでも検索効率が落ちてしまう。もちろんAIは勝手に言い換えをしたり、言葉と言葉の関連からおそらくこういう意味だろうと推し量ったりをやってくれるのだけれど、その手間が加わるぶん、数千万くらいのトークンが無駄に消費され、手の上の産毛にあたってあらぬ方向に転がっていく水滴のように、答えがわずかにずれる感覚がある。病理所見は、詩であってはだめだ。では、細胞をみたとき、どうやって表現する? 「病理診断がものすごく上手で、細胞像の描写に過去イチ長けた書き手が用いたであろう言葉、そしてそれに感化されて、まねして、多くの病理医が過去に文献上で用いた言葉」を知っておく必要がある。そのような言葉の中からさらに、「ある疾病や病態を言い表すときに特化して使われた言葉」を選び取ることが求められる。それは、ひとつの言葉AのとなりにBが高確率で存在するだろうという、言葉と言葉のつながり・連想で導き出される言葉であってはならない。あくまで細胞の、細胞を薄く切ってエオジンとヘマトキシリンで意味ありげにお化粧したものの、意図もりもりに生成されたところの「細胞像」と、直接共鳴するような言葉でなければならない。その像をみた人がこの言葉を用いるならば「納得」する感覚、なるほどそれは後世に残せばきっと便利に使われるであろうなという言葉を探しに行く。いわゆる「言語化」という言葉とはニュアンスが少しずれているのかもしれない、みたいなことも少しだけ思う。

こういったことをしっかりやれている間は、生成AIを用いた病理診断がかなり有益になる。逆にいえば、このような「所見の練り上げ」をやらず、やれ石灰化があったとか、やれ二層/相構造が消失したとか、やれCD8陽性T細胞が何割あったといった、定性的・定量的な記載だけで生成AIを使おうと思っても、じつはあまり役には立たない。いや、役には立つのだろうが、それはなんか、あまり、おもしろくはないものだな、と感じる。おもしろくなくてもミスや不備が減るならそれはすばらしいことなのだけれど。


ふくよかなはらわた

ドパオジ状態でぼうっとXを見ている。見たことのない話題、興味を持ったこともない話題、というのはあまり流れてこない。今日はひたすら関西弁の話、関西弁の人間たちの会話はほかの地域とちょっとちがうという話が流れており、ほか、エヴァを全編みなおした人のシン・ゴジラの感想、作者の名前が思い出せないがよく目にするウェブマンガ、中国のロボットが陸上を疾走する動画などが延々と流れて、それのどれにも全く心は動かされないのだがフリックに必要なくらいの振動が脳に与えられており、結果として15分ほど無為に過ごした。ドパオジだな、と思う。思えば倍速再生でもなんでも、ひとつのコンテンツを腰を据えてみるという行為のほうがよっぽど有意な時間になるよなあ、と、声にはせずとも文字にして思い浮かべてみると、そうかな、べつに、どんな体験もしばらくすれば均等に砂になって崩れていくのではないかな、という冷静な返答が、文字としてではなく声として聞こえてくる。報酬系のこと。報酬。報も酬も、訓読みは「むくいる」と読む。むくいるという言葉はむくいぬを思わせる。むくいぬは漢字で書くと尨である。さっと伏せた犬の象形文字であることはあまりにも有名。なんかこれ、ポスト向きだな、と思ってXにそのままポストする。


反応を待たずに仕事をはじめる。報酬をもらわないまま報酬系に奉仕している。奉も仕も、訓読みは「つかえる」と読む。うそである。奉はたてまつる・まつる・うけたまわる。うけたまわるという言葉はだいたひかるを思わせる。だいたひかるとはいったいどういう漢字を書くのだろうと思って検索したら「代田」であった。しろた、じゃないんだなと思う。しろたひかるだったら、白く光るふんいきだったろうな、と思うし、だいたひかるだと、紫立ちたる雲の細くたなびきたる、を思わせて、こちらのほうが名前としてはふくよかだな、と、声にはせずとも文字にして思い浮かべてみる。


「ふくよか」とは漢字でどう書くのかなと思って調べたら、二件が該当した。「脹」と「膨」である。なるほど、膨張ってことか……としばらく納得していたのだが、よくよくみると、膨張という字の張はゆみへんである。「ふくよか」のほうは、「脹」だ。「脹」? 大腸、小腸、の「腸」とも似ているが、ちょっとちがう。「腫脹」の脹。へえ、キータッチしているときはあまり気にしていなかったけれど、「膨張」と「腫脹」という言葉の、「ちょう」の部分はちがう漢字を用いるのだな。膨張という言葉は非生物にも使うが、腫脹という言葉は基本的に生命・臓器に使う、だからにくづきなんだろう、それにしても、私はおそらくこれをPCでなく自分の手で書いたら、今の歳までずっと書き間違っていたかもしれない。あまり意識していなかった。

脹という字はふくよか。腸という字ははらわた。ふーん。しかし、字面だけみてみると、脹という漢字のほうが、「長さ」を含んでいるぶん、消化管っぽい。大腸の腸が「ふくよか」という訓読みを持っていたら、おもしろかっただろう。私は病理医としての専門性のかなり上位に大腸病理があるのだけれど、もし大腸の腸が腸ではなく脹だったら、「私はふくよかな世界を専門としています」みたいなことを言えただろう。文字ではなく実際に声に出して言ってみる。「私はふくよかな世界を専門としています」どうしてだろうか、肌が喜ぶような感覚を得た。これは肉体からの報酬なのか、文化からの報酬なのか、単なる誤認なのか、ドパオジのドーパミンはドパドパ出るからもはやよくわからない。

つまり治ったということだ

夜中に目が覚めたら治っていて、えっ、治るんだ、と思った。安心というよりもむしろ狼狽してしまった。昨晩、10時ころ、腹が張るなあと思いながら晩飯をつくり、食い、食器を洗っている間もずっと腹が張っていて、痛みも伴っており、かつ、あまり腸が動いていないと思った。うすうすわかってはいたのだがたくさん晩飯を食い、椅子で一息入れているときもずっと腹の緊張がとれなかった。胃腸が麻痺していると思った。大腸癌で閉塞している可能性もいちおうは考えた。でもまあ麻痺だろう。

今日はとにかくずっと忙しかった、カンファやミーティングの合間にすこしずつ曜日当番の生検をすすめた。大学の病理検体の量はあまり多くはない。20年選手の病理医ならば1日でこなす仕事量としては平均くらいだ。診断のレベルがすごく高いかというとそれもそこまで突飛なことを求められるわけではない、普通に秀才であれば十二分に対応できて、凡人でもがんばればなんとかなる。だから私がこうして働けている。レアな症例がすこし増えた気もするが、それも気の所為かもしれない。だからそこまで言うほどストレスフルではないのだ。それでも、今日はとにかくずっと気が抜けなかった。日中、一度すこし便意があったが、こんな時間にのんびりトイレで座っていられるかと思って、交感神経で抑え込んだ、振り返ればあれがよくなかった。いつもだと、帰りに車のイグニッションを押す(昔は回すと言ったものだ)あたりで屁が出始めるのだが、今日はそれがないのでおかしいなと思った。そして寝るまでずっと腹は痛かった。サブイレウス状態か、いやだなとすこし考えた。夜中に嘔吐したら救急車でいいかなと思いながら、二度ほど寝返りをしている間に寝た。そして午前2時、ファズギターも聞こえない暗闇のなかでふと目が覚めて、数秒ほど状況を確認し、腹が痛くなかったので、私は驚いたのであった。

人間というのは治るのだ。それがすごいなと思う。デスクにも戸棚にも、ワイシャツにもサンダルにもできないことだ。PCにはちょっとできる。そこがPCのすごいところだ。しかし人間の治り方というのはもっとすばらしい。創傷治癒とキスしよう。そうしよう!チュ! まあ治るといってもからくりがあり、たくさんの酸素やら栄養やらをひっきりなしに摂取して補充しているのでタダで治っているわけでもないのだが、外部からの補給は電化製品程度ならばあたりまえにやっているわけで生命だけが特段ずばぬけているわけではない。でも治るというのは別格だ。ああ、人間というのは治るから立派だ。まあ、「治る」という概念を換骨奪胎して、「これが 治る ですよぉ!」と自分なりに定義した結果、言えることなのかもしれないという気はちょっとする。なぜなら、腹は相変わらず重い、しかしこれならば、もう一度寝直して起きたらきっと使い物にはなっているだろう、つまり治ったということだ、という読み替えを無意識にやっている。閾値の設定、ゴールラインの移動。それが人間を美しく見せ、尊厳を高める。

腹がコーヒーを期待している。このあと学生の勉強会でコーヒーが出る。それでまた胃腸はすこし動かなくなるのかなと思う。