ふりかえり

言葉が言葉を連れてくるだけの文章をつねづね打ち込んでいると、ときに、プロットからしっかり練り上げたであろう文章に対する畏怖の念というか、「手間かかってるなあ」という気持ちが抑えきれなくなる。物語はもちろんだが随筆・随想についてもだ。それこそブログなどで、自説を補強するためにいくつかの適切なエピソードが引用されていたり、過去に誰かが言ったことと自分が今考えていることとを比較検証したりと、一歩一歩山道を登っていくように論理が展開されているものを読むと、うーん、すごい、のけぞる、真似できないなと思う、一方で、こういう文章を書くことを目標にしていたら、私はきっとブログを毎日更新することはなかった。私はこうしてそのとき心に浮かんだ一行を書いてそこから一定時間の連想をつなげてエントリにするということを、思えば長く続けてきた。クオリティという意味でもレスポンスという意味でもたいしたものにはならなかった、ともあれ、それはどうして「そうすることが当たり前」になっていったんだったかなあ、と思う。最初は自己顕示欲であったと思うし今は若干の意固地のためかなとも思うが、果たしてそれだけで続くものだろうか。意固地というのは人間という生命体が80余年にわたってずうずうしく世の酸素を消費するために必要な心性の根っこにあるものだと思わなくもないが、それはそれとして。

ブログごとき、毎日更新するメリットはない、それはまあ、そうだ、しかし、毎日何かを書き留めているということが結局何だったのかと言うと、それは私の体感を細かく振動させ続ける行為であった。震えは私という管腔の滞留や閉塞を知らぬうちに解除し続けてきた。便秘は震えると少し良くなるのだ。さらに、私の表面に塗ってあった古いニス、その下の塗料のようなものが、小刻みな震えによって毎日少しずつぱきぱきと剥がれ落ち、地の素材がところどころチラ見えするようになった。私はひどく不格好だ、紫外線にやられてできたしみ・そばかすと共に、塗料の剥がれ、錆、緑青みたいなものもきっちりとまとっている、それでも振動のおかげで皮膚呼吸ができるくらいの通気性は保たれている。振動によって私自体が鋭く研ぎ澄まされることは残念ながらなかったが、私という遊軍が世の中に多少の貢献をできる程度にはくるくると動き回れるようになった。書いたものそれ自体が誰かの心を動かしたり資料として世にストックされたりはしなかったが、私の書いたものはタクトとしてリズムを刻み、私の指、手のひら、手首を強引に牽引することで私の体にもなにかのリズムを与えた。





昨日のエントリでいまから30年前に私が書いていたものを貼り付けたが、あのあと、いくつか当時の文章を読んでみて思ったのは、当時の私が書いていたのは日記ではなくて手紙であるな、ということであった。端々に、「これを読むであろうごく少数の知り合い」に対する符丁がわりと目立つ感じで配置されていて、ほら、わかるでしょ、あのことだよ、読んでくれてるんだよね、あのときはありがとう、どう、これを読むともう少し、オレのことを「好きになる/受け入れる/許してもいいかなという気になる/一目置きたくなる」でしょう、みたいな感情があまり隠しもせずに散りばめられている。SNS以前の私は、インターネットが「どこかの誰かのもとに飛んでいくかもしれないもの」とは、言葉ではわかっていても体はそうは捉えていなかった。それはあくまで手紙の延長で、私はとにかく「インターネットを介しながらも、実際には自分の目の届くところ、指先の届くところにいる誰か」の気持ちを引きたくてしょうがなかったのだと思う。

知らないうちに手紙を書きたがっていた私の心は、ホームページの終了とSNSへの移行を堺に少しずつゆっくりと変化する。当時のTwitterというのはまさに「現実には出会うことのないどこかの誰かに飛んでいくかもしれないもの」であった。だからそれは「宛先不明の手紙」であることを求められていたしそれがかっこいいとする風潮もあったと思う。しかし、かっこいいと思ったからといってすぐにそうなれるわけではないのだ。私から出てくる文章は確かに少しずつ変化したがそれはあくまで変奏でしかなかった。今、私の自認として、私が書くものは手紙ではなくなっていて、これはやはり日記になっているだろうと思うのだけれど、でもそれも本当は変奏の範疇なのかもしれない。30年という月日を要して私の文章は「日記になりたがっていた手紙」から「ポストに投函しない手紙」へと移り変わっていった。恥ずかしかった青年期の努力が今の私を立派な恥知らずに育てている。





知人に向けて書いていたものだと納得してしまうと、逆に違和感を纏って立ち上がってくるのは、あのころ私のホームページに反応した見知らぬ人たちのことだ。関西に住む当時おそらく50代くらいの、ハンドルネーム「ミニトマト」という方のことを当時の私はわりと恐れた。私が身近な人間に向けてのわかりやすい暗号を送っているだけのホームページを見て、ときどき掲示板に感想を書いてくれる人、そこに私は不思議な浮遊感と少しの掻痒感を覚えた。「リンク集」なども設置した懐かしのホームページでは少しずつ、「現実では会わない人たち」とのつながりも増えていき、当時の私は「現実の自分では届かない場所にいる人になにかが伝わることがある」という、今やすっかり過去に遠ざかった近未来にはじめて触れることになったが、その勢いは決して爆発的というものではなかった。あの頃産声をあげた「ほぼ日刊イトイ新聞」の若きライターたちが見たこともない経路を通って次々とふしぎなネットワークを作り上げていくのを見ながら「私はなかなか、こうはなれないな」と肩を落としつつ、そんな中で私に温かく声をかけてくれていた少数の見知らぬ人のことを私はシンプルにおそれていた。10万人、20万人が見に来る場所にいるならわかる、しかし、この数名はなぜ世界のいろいろを飛び越えて私に声をかけているのだろうという仕組みがわからず、そのわからなさが、私の書き続けていた手紙を次第に「宛先のないもの」へと押しやっていったのかなという気がする。その怖さが、私の書き続けていた手紙にある種の「公共」みたいなものをちょっとずつ植え込んでいったのかもしれないと思う。今、あの人たちがすべて、完全な幸せの日の中にいることを心の底から願う。

かわいいだけでいいです

車のイグニッションを押すと外気温が表示されるのだけれどどう見ても6℃と書いてある。そうか、そうか、そういう季節か、そうだよな。外は真っ白く霧にむせんでいて、その霧がなぜか魚介の臭いを含んでいるように感じる。霧といえば釧路、釧路は海沿いだから潮の香りがするのはまだわかるがここは旭川だ。なにかバグっている。前回のアップデートでよくわからないパッチをあてて、町の背景情報にミスが出たのかな、などと感じる。そのうち修正プログラムが送られてくるだろう。

体調は悪いままだが仕事のスピードはどんどん早くなる。余計なことを考えなくていいからか、あるいは、風邪を理由に人と話していないからかもしれないが、スッス、スッスと片付いていく。それだけ片付けてもまだまだとうぶん山積みなのだけれど、ま、いいことなのかもしれない。今日はスーパーが開いている時間に帰れそうだ。少しでも多く寝て風邪を治そう、それと、買い物もしておくのがよいだろう。歯磨き粉がそろそろなくなるはずだ、2本くらい買っておくのがよい。冷凍餃子も切れていた、買い足しておくとよい。先日の大須賀覚先生との月例ミーティングで、彼は料理もだいぶやっていると行っていた。パートナーが海外出張の間はワンオペで子育てしながらグラントの申請書も書くことになる、それが忙しいと言って笑っていた。立派なものだ。私も料理はするが今の料理はもっぱら自分の気持ちを落ち着かせるためだけのもので、人に食ってもらうようなものではないからだいぶ楽をしている。今日は少し長めにダイコンをふかしてみようかと思い立つ。

PCをもう一台買えば、家でも原稿が書けるようになるな、ということをぼんやり考える。


近頃、こうしてブログは日記となった。30年前の私がはじめてホームページを作ったとき、そこに書くものが日記ではつまらないなという自意識があったように思う。けれども今は普通に日記を書くようになった。こうやって収まっていく。

10代の終わりの私が作ったホームページには、メインの随想コーナーと、書評のコーナーがあった。高校出たての男のコが好みそうな音の単語選び。ほほえましい。ちょっと前まで昔の自分のことを「恥ずかしい」と思っていたけれど、今はもうなんだかほほえましい。極端さ、見えてなさ、見過ぎ、「何者か」になろうとするあがき、そこに飛びかかってくる、すでにもうオマエは「何者である」と断定してくる社会との摩擦熱で毎日顔をやけどしていた。

随想コーナーには、当時の私がめいっぱいに詩情をのせた文章を3日にいっぺん。それは日記のように見えるかもしれないけれど、私の中ではそれは単なる日記ではなくて「旅日記」だったのだ。私は常に旅がしたかった。根っこは沢木耕太郎や椎名誠の書くものへのあこがれであり、旅が好き、というよりも「旅が似合う人間になりたい」という自我があった。日常の日記なんてつまらないが「旅日記」はよいものだと思っていた。ちなみに今思い出したが、「がんばれゴエモン外伝」のセーブが「たびにっき」で、私はそういうところにも細かく影響を受けていた。

あのころの掲示板によく訪れてくださった幾人かの方々とは全員没交渉だ。そのうち幾人かは、あるいは亡くなってしまったのではないかとも思う。

ホームページはずいぶんと長くやっていたのだけれど、前の結婚がだめになったとき、まず私が家を出て、そのうち前の妻子も家を出ることになって、私はまだローンが残っていたマンションを売った。中古のマンションだったが立地がたまたまよくて、買ったときよりもわずかに値上がりし、ローンは完済できたしなんなら奨学金の返済にもあてることができた。そのとき、契約していたプロバイダを解約したら、プロバイダに紐づけていたサーバもすべて契約終了となり、私のホームページは次の日から一切みられなくなった。あっ、と思ったが、まあ、生活も変わるし、いいか、といってそれっきりになった。そのとき使っていたPCにはまだホームページのデータが残っていたはずなのだけれど、「まあいいか」の余勢で暮らしているうちにPCを買い替え、そうこうしているうちにホームページのデータはどこにも見当たらなくなってしまった。

それっきり私は自分のホームページをもつのをやめた。何度かブログをやって、「脳だけが旅をする」で少ししっくりと落ち着いたのだが、ほら、今更だけど、やっぱり旅をしている。私は何も変わらない。



あのころのホームページを見る方法がじつはひとつだけある。Webarchiveを用いるのだ。当時使っていた短縮アドレスを打ち込むと今でも断片化したホームページのデータを見ることができる。このことに気づいたのはつい最近だ。画像のたぐいはほとんど消失してしまっているけれど、「旅日記」はいくつか辿ることができた。そのうちの一つを貼っておく。



<ボールパークと野球場>

(1999. 3. 21. updated)


"Take me to the ballpark"という歌をご存じだろうか。

アメリカメジャーリーグにおいて、7回ラッキーセブンの前に

多くの球場で流されている歌である。

「私を野球場に連れてって。」

・・・「スキーに」ほどのインパクトはない?

いやいや。


アメリカでは、ベースボールのことを別名

"National passtime"

と呼ぶ。

国家的な、暇つぶし。

ほほう、と、思ってしまう。

アメリカにはアメフトというもう一つの国民的スポーツがある。

それをふまえて、

ベースボールというスポーツの位置どりが決まっている。

地域に密着しつつも、

歴史的な数々のスターを輩出している。

ミクロ、マクロという言葉を問わないスポーツだ。


さらに、野球が行われる球場、いや、

ボールパークにはそれぞれの特色が色濃く出ている。

ファールグラウンドが狭く、ファールボールをサードの選手から

直接手渡されるようなボールパーク。

外野スタンドが3重にも4重にもとりまく、

さながら摩天楼のようなボールパーク。

外野でバーベキューをしながら野球を見たり、

プールに入りながら野球を見たりできるボールパーク。

隣接するマンションの管理人が日銭を取って屋上を開放し、

すぐそばのボールパークで行われている野球を見せているような所もある。


ボールパークとは、すなわち、パーク・ウィズ・ボール。

アメリカの国民は、ときに憩うために野球を見に行く。


高校3年の春。

親父様がオレと弟を2つの野球場(日本の)に連れていってくれた。

かたや、東京ドーム。

もう一つは、千葉マリンスタジアムだった。


テレビで見る野球の熱狂は、

私達が憩うためではなく、燃えるために、

野球を見に行っているような感覚を覚えた。

だから、「アメリカのボールパークの方をみたいなぁ」

などとよく思っていた。

バーベキューしながら野球を見てぇなぁ。


ところが千葉マリンスタジアムを見て。

こんなにきれいなスタジアムが日本にあるのか、と思った。

なんかいいかんじ。すみっこまでエンターテイメント。

テレビで見るのとは違う。

当然球種も選手の顔も見えない。

でも野球を見ている気がした。

そしてオレは憩っていた。


東京ドームを見て。

グッズの販売はすごかった。

試合前の練習から見ていると、

なんかすごくほのぼのした。

遠くから遙かに見える背番号で、

選手の顔も表情も見えるような気がした。 

そしてオレはなごんでいた。


そして今。

オレはテレビを見ながら、ビールを飲みながら、

ときに解説者になりながら、

野球を見るのもまた好きだ。


日本にはにほんの。

アメリカにはあめりかの。

野球場とボールパークの違いは歴然だ。

日本はごみごみ。

アメリカはのびのび。

でもそれでいい。


しかし、バーベキューしながら野球を見るのは

未だに楽しみな夢のひとつ。

いずれのほほんとアメリカに行って、

そのときの事をこのコーナーに書こう。




かわいいな。俺……。

サイトカインの助言

まさかの風邪である、まあまさかというけれどたぶん鹿児島出張だろう。鹿児島空港から羽田への機内で斜め後ろの中年男性がずっと咳込んでいて、振り返って確認はしなかったけれどたぶん今の時期だ、マスクも何もしていなかったことだろう。少しいやだなと思って頭上の空調を私の背中にあたるくらいの位置に向けて「エアシャワー」的に咳きが跳ね返されないかなとか考えていたのだがまあ無理だったのだと思う。不幸中の幸いというか、その後、妻が泊まりの仕事にでかけ、私もさっさと家を後にして少し早めの仕事に向かったのはよかった、誰も計算はしていなかったがトータルではファインプレーだ。その夜からなにか喉に違和があり、そこから今まで延々と不調が続いている。あそこで妻と普段通り過ごしていたらうつしていたかもしれない。幸い妻の体調は好調でまあそれは本当によかったなと思う。

喉に何かへんな感覚がまとわりついているなと感じた夜、私にしては珍しく、ずっと眠れなかった。朝までうとうとしては起きる、うとうとしては起きるを繰り返し、細切れに睡眠はとっていたのだとは思うがじつに奇妙なざわつきだった。今にして思えばあれは体の中でウイルスが跋扈し、私の免疫がサイトカインの狼煙に火を付けて回っていたまさにそのタイミングだったのかなと思う。血液の中のざわつきが目を冴えさせたのだろう。次の日はまず全身の痛みからスタート。喉は大したことがなかったが昨日の夜のあれが「侵入者の痕跡」だったのだろうなと感じた。ただ熱がないのでそこまでつらくはなかった。なんだ、この程度で終わっていくのかと思いきや、そこから2日、体の痛みが引くと今度は喉がだんだん痛くなってきた。2種類くらいのウイルスに時間差でやられていた可能性もある。喉はだいぶよくなってきたけれど未だに痛みはある。今週はずっと調子が悪かった、なるべく人に合わないように働き、結果、講演もでき、抄録も書け、ある教科書の原稿もゼロからいっきに8割のところまで仕上がった。サイトカインのざわめきのたまものだろうか。

ついにメガネのイケメンからメールがきて、例の本の執筆をはじめることになる。サイトカインと話して決めたことなんですが、今回の本、本格的に書き始めたら、書き終わるまでブログの更新をお休みにする気がします。どうもそれくらい集中しないと書き上がらない気がする。ただ今日すぐやめるというわけでもない、まだ書かなければいけない原稿が3本あって、ひとまずはその3本を書き終えてから、本の原稿に取り組む予定だ。今のところ執筆開始予定は11月末から1月末のどこか。そこでこのブログもいったんおしまいです。

指先のリアリズム

ひさびさにまとまった強さの風邪をひいている。熱が上がらないのでなんとなく出勤できてしまうのだけれど(同室に基本的にスタッフがいないというのも自己隔離の必要性を下げる)、体が重く、関節が痛く、喉が腫れたり治ったりを繰り返す3日間くらいを過ごしておりスタッフミーティングも最小限にしている。タイミングが悪いことに先日かなり多額の研究費の分担金をいただけることが決まり、割り振られたタスクをやり遂げるためにも、その後の研究に続けるためにも、資金をいかに使ってラボを発展させ、ひいては本学のまわりの講座やたくさんの教員たちにもなんらかの形で還元をしつつ、学術の発展に地道に寄与する、そのための地ならしのメソッドを、朝から晩まで考えながら通常業務をこなす。コンサルテーションをする。教科書の原稿を書く。プレゼンを作る。自分の名前が乗らない上に直接私の専門性とはあまり関係のない仕事であっても頼られたらうなずいて粛々すすめる。前の職場の関連病院の研修医が出る発表に同席するために東京での授賞式をキャンセルすることにした。「優先順位」という言葉を用いて幾人かに諭されたのだけれど、今も昔も基本的に私の優先順位は「頼まれた順」ということにしている。10年ほど前、札幌の研究会に出るからと言ってフランスでの発表を断ったとき、チャンスを失ったねと言われたが、そのころやりとりをしていた多くのドクター(札幌も、フランスも)とは今も仲良くやらせていただいているわけで、まあ、なんか、そんなに失ってはいないのかなと思う。

失ったのはおそらく人間味だ。料理以外にはもうなにもしていない。SNSのおすすめフィードはひどいものになってしまった。これがおすすめだというならば私はもうSNSには適合していないのだろう。世間との価値観のずれを感じる。みんなといっしょのほうが大多数の人が喜ぶコンテンツを楽しむことができて得だろうなと思う。

「エルマーとりゅう」に出てきたのだと思うが、おばあさんが少年に向かって、「指先というのは話す相手に一番近いところにあるものだからきれいに保ちなさい、爪はきれいに切りなさい」と言っていたのをずっと覚えていて、職場という職場に爪切りを置いてしょっちゅう爪を切っている、という話をよくこのブログでする。これはこのことが私の心に深く刻まれているから何度も書く、というわけではなく、こうしてブログを書いているときに「あっ、爪、じゃまだな」と感じることが多いからそうやって書く機会も増えるということだと思う。逆に、ブログ以外のキータッチ作業、たとえば診断であるとか助成金の申請であるとかといったときには私はおそらく爪を気にしていない。ガチガチ音がしてもそのままキータッチを続けてしまっている。できれば私は爪を気にするほうの人間でい続けたいと思うのだけれど、人間味を失うことで清潔感とか倫理まで失っていくのだとするとそれはけっこうしんどいことだなと感じる。

浅生鴨さんのnoteが更新されると通知がくる。先日の小説「キーホルダー」は、構造としてはどこかで見聞きしたことがあるような話なのだけれど、詳しくは言わないが、途中、「2段階にわけて世界が解除される」。これまで私が読んできたこれ系の物語では、世界の解除は通常、最も見せ場となりやすいラスト付近で1回起こるだけのことが普通だ。なぜ鴨さんは解除を2段階にしたのだろう、と思ったし、理屈はよくわからないのだがなんらかの異界から現実に戻ってくるときに超えるべき境界が1つではなく2つだというのは、なにか、リアリティを超絶したリアリティのようなものを感じて、私は早朝からぞくっとした。

病理診断だけは

80代後半になってもまだ学会でめちゃくちゃ発言する病理医というのがいて、困ったものだと思われたり、一心に尊敬を集めたり、多重の反応を媒介しており、長く生きて活きることでこれだけの化学反応を同時に起こしている時点で是非なくひたすら偉いと私なんぞは思う。その病理医が、最近とある学会で一年にひとつずつ、私に説教をしてくださる。けっこうな幸運ではある。

昨年は、久留米で、「君の病理解説は形容詞が多い」と痛いところをご指摘くださった。ぐうの音も出なかった。私はこの言葉に一年間悩まされた。たしかに私は、「たくさん形容できることこそ病理医のスキル」と思ってやってきた。「組織形態からいかにたくさん言葉を引き出せるか」がテーゼであった。多弁であることがプロの仕事だと感じていた。そこを的確に刺された。

悩みながら一年経ち、今年、鹿児島にて、今度はこのように言われた。「結論までの流れを思い浮かべながら顕微鏡を見ないとだめだ」。昨年とはまた違った意味でものすごくむずかしい注文である。また一年深々と悩むことになる。

だいたいそうやって今は暮らしている。一年後、私は今年とも去年とも違った病理医になっているはずで、その違いがたとえば私とその老病理医くらいにしかわからないようだとだめで、多くの人から見て「ああ、あいつ変わったな」と思われなければなあ、ということを考えて暮らしている。


飛行機のシートポケットに『胃と腸』の最新号を置き忘れてきた。しまった。また買い直さなければならない。NISAもiDECOもやらずに本ばかり買っている。しかもそれは適切な買い方というわけでもなく、このように無駄も多い。垂れ流している。見る人が見たらたぶんすごく説教したくなるだろう。でも、私は私の生活によって「誰かのためになろう」とは思っていない。私は私の生活のことを人前でプレゼンすることもない。病理診断とは違うのだ。だから、病理診断のように私に説教をしてくれる人がいない。一年後、私の金の使い方はぜんぜん変わっていないだろう。昨年と今を比べても何も変わっていないように。

そう考えると私の病理診断というのはものすごく恵まれている。あちこちに師がいる領域でのみ、私は変わる。ほかは変わらない。ほかはずっとこうだ。

や、まあ、師がいない分野においても、人間というのはそこそこ変わる、でも、違うのだ、師のいる場面においての変わり方というものは、ちょっと、なにかが違うのだ。それは「変えてみましたけれど、どうですか?」と、おずおずとたずねて、「おい何をやっているんだ、ぜんぜんだめじゃないか」と、変えたことを怒られ、だから変え、しかし怒られ、その繰り返しの先にいつの間にか、えらく分厚く、ひどくしなやかに、まるで別物に、どうにもいい感じになっている、そういう変わり方であって、誰にも叱られるでもなくただのらりくらりと変わっていくようなものとは決定的に違うのだ。私の病理診断はそうやって変わってきた。だから私の生活よりも、性格よりも、趣味嗜好よりもはるかに、私の病理診断だけは、別様の異形に育っていくはずなのである。