ハウトゥゴー

窓の外から炸裂音が聞こえてくる。花火は火花さえも見えない。祭りだと言っていた。ロビーは浮かれた客でごった返していた。私は音だけを肴に生ジョッキ缶を飲んだ。こんな面倒なビール、二度と飲んでやるものかと思った。

缶ビールよりもジョッキのほうがうまいと言っている人間のことを全く信用しない。

花火が見えないのは、単純にホテルの窓の向きの問題だ。しかし、この地に長年にわたり出張してきた私、このタイミングで花火を見たことは、まだ一度もなく、つまりは窓の向きではなく、私の問題なのかもしれないなと思った。

ほんとうに何もかもすぐに通り過ぎてしまって困る。




基盤Cの申請書。若手病理医が中心となって書いている本の添削。消化器画像診断研究会の病理解説。上海出張。いずれも今年の春には思いもよらなかった仕事。大学での職とは関係なくこれまでのつながりで降って湧いた仕事。だから、大学での職務に抵触するのでなかなか時間内に取りかかれない。休みの日に取り組むしかない。いよいよ疲れてきた。目の周りがまっくろだ。……といったことを書きつけただけの文章にしても、申請書だと細々と直される。そういうことばかりしている。やってられないなと思う。

それでもやるのだ。なぜなら、大学にいるというのは、そういうことだと思うからだ。



心理的安全性の高い職場を維持するために日々尽力。この仕事をしたところで、私の心理は別に安全にはならない。そういう役目なのだろう。めんどくさい。心理的安全性という言葉を便利に使い出した人間たちは、何を見て、何を考えているのか、究極的なところで私はよくわからないし話が合わないと思う。それでも守るのだ。人の世の中で、うっすらとした悪意の前に立ちふさがって、壁を作って、誰かの心を守る。

壁の内側に籠ってみたら、青い光が透見して、自分の手とかまぶたとかを、青く光らせるのだ。ああ、これは、だいぶいいかんじの引きこもりだなと、私は思った。

めしにしましょうを愛す

先方のオファーの遅れを、当方の努力で回収する。あと4日で臨床系の研究会に使う病理のプレゼンを作るというのは大変だ。ほんとうは24日くらいほしかった。実際に作業する時間は2日くらいなのだけれど、その2日のために整える周囲がプラス・マイナス5日くらいずつ必要。2日間集中するためにそこの仕事を周りに吸収させるバッファ、苗の周りに盛った土、アイドルのまわりを取り囲む警備員、みたいなものが要る。しめて5+2+5=12日のセットを、24日くらいの期間を眺めながら「ここだァ!」カシャーンとはめ込む。このようにして仕事をすると、そこそこよい病理のプレゼンができる。だから病理プレゼンの依頼は1か月くらい前にしてほしいのだ。でもいつもそのようになるとは限らない。オファーをするほうも忙しい。

これは「先方がもっとしっかりしていれば当方がこんなにあくせくしなくてよかった」という愚痴である。

このタイプの愚痴は古今東西ばりばりあって、よく聞くし、たまに言う。病理医がブログなどやっていると高確率でそれ系の記事が出てくる。見飽きた。うるっせーなとすら思う。たぶん臨床家はもっとそう思っているだろう。

ところで悪いのはいつも先方(臨床サイド)なのか? 「先方をしっかりさせるのも当方(病理サイド)の役割」という考え方もある。こちらがもっと「しっかりあれば」、むこうももっと「しっかりした」かもしれない。いやいや、そこまで、なんでもかんでも自分の責任にしてたら死ぬよ、というツッコミはある。でもこういうのは持ちつ持たれつ、互いが互いの鑑、という側面もある。今、変換が「他害が他害の鑑」だったのでキーとなった。他害の話でもある。


自分のためにやらなければいけないこと、優先順位、みたいなことを考える。「汚れた」みたいな気持ちになる。


『めしにしましょう』の新刊が4月に出ていた。今日まで気づかず、あわててダウンロードした。新刊情報をKindleのおすすめに頼っているとこうなる。さむわんへるつの4巻、異世界居酒屋のぶの22巻、ウィッチウォッチの27巻、佐橋くんのあやかし日和の3巻を全部ダウンロードしたあとに突然「読み始めたシリーズの続きを読むにはこちら」の欄に現れた。どうして4か月も遅れたのか。ぶつぶつ言いながら読む。おもしろい。待ちに待っていた。にしては遅れたが。『めしにしましょう』の青梅川おめがは、旧シリーズの最後あたりから、足掛け10年くらい、ずっと「料理とはなにか」について悩んでいる。このマンガはふしぎなマンガで、普通であれば編集者がなんらかの形で介入してなんだかんだで薄められてしまうことが多い、「作者の根源的な悩み」がそのままの形で作中の人物の迷いとして表出してくる。それは、編集者が「味」として残しているというより、この独特のマンガ家のやりたいことをあまりコントロールしないほうがいいという信念のもとに、もしくは諦観のもとにそうなってしまっているように見える。あるいは、マンガ界全体をひとつのディナーのコースと考えた場合に、「ほかの料理とのバランスを考えて、この料理については味付けを真ん中にしない」みたいなことをやっているようにも感じられるが、これはぜんぜん見当外れかもしれない。狙ってやっているのではなく、そうなってしまっているのかもしれない。こちらは読む側だ。ほかにも読みたいマンガはたくさんある。『めしにしましょう』というのはあくまで摂取する具材のひとつでしかない。だから「あえて真ん中からずらしたマンガはおもしろい」みたいな、残酷な感想を無責任に述べることができる。しかし、それは描く側の理屈にはならない。普通は。でも青梅川おめがは小林銅蟲の脳でそのまま悩んでいる。じつに不思議なマンガである。おもしろい。早すぎるトレスで描かれた背景は冷凍都市のようなひやりとする触感。主要人物はジェンダー含めてすべて転倒。リスペクトの対象であるゲストの顔は緻密かつ繊細。料理はどれも確実に温もりをもって描かれている。おもしろい。ただの絵のうまさではない。異様な、異常な、独特のうまさ。『めしにしましょう』シリーズはおもしろい。これをおすすめするのに4か月も遅れた先方(Kindle)のことを恨めしく思う。当方(病理サイド)がもっとしっかりしていればよかっただけの話なのだが。

レシピは守るべき

キャベツを2枚切れと書いてある。2枚という数え方なんだなと思う。球のキャベツから葉っぱをひんむくのがあまり上手にできなくて、包丁で葉っぱの生え際のところを切ってそっちからむくといいよと教えられ、そのようにしたらわりとごっそりと葉っぱが手に入った。2枚ではないが私は野菜をたくさん食べたいから倍くらいあってもいいだろう。鍋に水を張り顆粒だしを溶かしてすこし沸かして、キャベツを投入せよと書いてあるが、鍋を出すのが面倒だから百均のどんぶりに軽く水洗いしたキャベツを詰めて水を張って、そこにさらに切ったミニトマトを散らしたあとに、顆粒だしを上からざっとかけてフタをしてレンチンを6分ほど。これで十分できるだろう。あたたまったら味噌を溶いて、和風トマト合わせ味噌汁を作る。トマトからはいい出汁が出るとどこかに書いてあった。まあなんか頭の中では想像がつく。きっとうまくいくだろう。レンチンする前はだいぶキャベツがかさばっているけれど、こういう野菜は加熱しているうちに小さくなるはずだ。

はたしてレンチンが終わってもキャベツはでかいままであった。というかキャベツから水分が出たのだろう、全体のボリュームが減っていない。そうか、そうだな、そうだよな、と思いつつ、はしでキャベツを押し付けてもう一度レンチンする。今日の味噌汁は失敗だったかもな、と懸念を表明する。空間に向けて。でも独り言まではしないほうがいい。この部屋は、壁は分厚いのだが、床と天井が薄い。上の階の住人の、歩く音が本当にうるさく聞こえる。それだけならまだしも、昨日は朝に盛大な屁の音が聞こえた。さすがに嘘だろうと思ったがあれは確かに屁だったと思う。となれば独り言くらい簡単に貫通するだろう。この部屋で流したアラニス・モリセットやレイチェル・ヤマガタやLOSTAGEやZAZEN BOYSの狂った振動は全て上の階にも聞こえていたことだろう。キャベツの失敗は口に出してはいけない。きゅうりを切る。一本まるごと切る。切ったら塩を振って、レンジが空くのを待つ。あらゆる料理をレンジでやっている。

下の名前がレンジという人はけっこうたくさんいると思うのだが、レンジの陰茎はレンチンだなと今思う。

コンロにフライパンをかけてあり、スーパーで買った味付きのトンテキをネギといっしょに加熱している。今日もいつもとほとんど変わらない晩飯だ。ただキャベツの量だけが心配ではある。何度かのレンチンの末にとりあえず椀のへりから飛び出さない程度にはキャベツが縮小し、トマトはだいぶ原型から遠ざかってしまったがまだかろうじて色味は残っている。味噌を少なめに溶いて完成。完成というか、慣性かもなと思う。口には出さない。

なんだかビールが必要かなと思った。ふだん平日には飲んでいないのだけれど今日のこれらの料理はビールの勢いで流し込んでもいいのかなと思った。ビールの勢いを用いながら無限になくならないキャベツをばりばり食い、思った以上にいい感じにエキスの出たトマトベースの味噌汁をすすり、塩ふりきゅうりに塩昆布をまぶしたものを食い、トンテキとネギの炒めたものをかじりながらビールを飲む。すぐに気づく。いそがしい。ビールはなくてもよかったかもしれない。いつもの倍くらい時間をかけて晩飯を食い終えた。結局、咀嚼に忙しくてビールはあまり進まなかった。洗い物を終え、ふきんで水気を取った食器をキッチンの端から並べた後、ややぬるくなったビールの残りを飲むのに何がいいかなと考えて、宇宙兄弟の37巻を読み始めた。あとは昨日の日記に続く。

防衛のコツ

目が覚めてすぐに気づいた。米がない。3合炊いて、丸形の小さいタッパーに小分けに冷凍しておいたストックは昨日の夜に切れた。そこから今朝に向けて米を炊くはずだった。起きてすぐに米をかき混ぜ、朝飯のぶんだけ避けてほかを冷凍すれば、少なめ・6食分の冷凍ライスが手に入る、はずだった。それがぜんぶふっとんだ。朝飯をどうするか。今から炊くか。時間はまあある。しかし、早炊きはいやだなと思った。固くなる。愛のない米だなと感じる。早炊きはいやだ。じっくり給水してから予約で炊くことにした。炊飯器の予約ボタン、いつも1回だけ押して、5時40分に炊きあがるようにしているが、今が5時40分だ。だからもう一度押す。すぐに21:00の表示が出る。前にも、このミスをしたことがあるのだなと思った。そのまま今晩の9時に炊けるようにセット。

昨晩、晩飯のあと、洗って拭いて、キッチンの上に広げて乾かしてあった食器を片付ける。いつもなら、食器は寝る前に片付けており、朝には朝食に使う食器以外はここには出していないはずだ。でも今朝はそれもできていない。本当にいろいろできていないなと思った。

理由は明らかだ。昨晩、ビールを飲みながら、宇宙兄弟をラストまで読んだからだ。その衝撃を受け止めることに体力を使い切り、やるべきことをいろいろ忘れた。でも、むしろちゃんと歯を磨いて寝たことをほめてもいい。「べき」なんて、たまにはすっぽかしてもいいのだ。息子にもそう伝えてきた。ただ、「べき」を失った私は私ではないようにも感じる。

朝飯がない。冷蔵庫の中を覗いていて、気づいた。今日・明日とここで飯を食うと明後日からは出張が連続。するとここにある3つのヨーグルトの期限が一斉に切れる。ならば今、朝飯代わりに、いつもは1つ食っているヨーグルトを2つ食えばよいのではないか。それで朝飯になる。さっそくヨーグルトを2つ出してきて、白桃のほうから食べる。ひとつ食べ終わり、スプーンを洗わずに、もうひとつのヨーグルトのほうにスプーンを入れるとき、とんでもない悪行をしているような気持ちになった。まあいいのだ。悪でよいのだ。さてもうひとつ食べる。ああっ、こちらも白桃だ。白桃かぶりしてしまった。メーカーが違うのだけれど味がいっしょ。いや、食べると微妙に違う、中に入っている具のサイズが違う、けれどもどちらも白桃だ。地球外生命体が私たちの生活をランダムにサンプリングしているとして、今の私の朝食シーンを4秒程度の動画でピックアップすると、「地球の日本の北海道の旭川に住む医師・博士・死体解剖資格保持者・国立大学准教授は日の出の直後に白濁したゲル状の物質を2セット摂取する」という情報が地球外生命体居住惑星外クラウドサーバに保存される。そこから学者はどういう意味を読み取るのだろう。地球外生命体が次の侵略先を私たちの星に定めたとき、先住民族から白桃のヨーグルトを奪うことで戦力を削ぐことができると考えて、明治や北海道乳業や森永やオハヨー乳業を優先的に爆撃する、といったことがおそらく起こる。その奇妙な非効率によって我が星の人びとの行動に余裕が生まれて結果として侵略の危機を脱することができる。It's a piece of cake. ヨーグルトって英語でどう書くんだ?



ローリングブリジストンテイクアノーモス

たくさんの読み物があり、たくさんの切り取りコンテンツがある昨今、誰かにある作品を激推しして、それを首尾よくゲットしてもらうなんてのは、田舎の国道を延々と走っているときにぱっと出てきたドライブインに入って飯を食うのに似ており、「や、いきなり出てこられても、心の準備が」となりがちだ。

誰かに「これおもしろいよ!」と伝えたいと思ってポストをするとき、自分がドライブイン化していると感じる。高速で通り過ぎていかれるばかり。それはそうだろうなと思う。

ただ、中には、新しい店に、一期一会だとばかりにすっと飛び込んでいける人というのもいる。そういう人は楽しそう。そして、限られている。孤独のグルメのファンタジー性。玉袋筋太郎がスナックを渡り歩く番組を持っていて、それが人気だというのも、そういうことを普通の人間はあまりできないからだ。みんながやるから人気なのではない。できる人が少ないから人気なのだと思う。

「いちども入ったことのない店」にひょいっと入れるかどうかは、ATフィールドのサブタイプの違いみたいなものと関係がありそうだ。自他の境界の部分に入力される刺激の総量をどこまでコントロールしているか、そもそもコントローラブルか否か。自分の内側から燃え上がってくる非日常的な快不快の熱に、自分が焼かれることが平気か。それが気持ちいいと思えるか。「新体験」の周りに生じる複数の付随体験を「刈り込む」かどうか。私なんぞは、新しいものは食いたい、でも、そこにいる店主とのやりとりがめんどうだ、常連客にどう見られるかが心配だ、みたいなことを考えてしまう、メインの体験の周りについてくるよしなしごと全部がうっすらストレスになって、新しい体験のドアを開けるのにすこし躊躇する。その点、新しい店にすぐ入る人というのは「料理がうまいならそれでいい!」とばかりに、周辺で起こることをノイズリダクション的に削除してしまえる。自分の見たいものだけを見るというのはリスクマネジメント的にはむしろウィークポイントでもあるし、するかしないかはあくまで差異にすぎず、優劣ではないかもしれないが、とはいえ、うらやましいと感じることは多い。

ところで境界があいまいなら店にも入れるとか、ストレスを減弱させられるなら店にも入れる、とまとめられるほど、簡単な話ではないかもしれない。かくいう私はあまり新しい店に気軽に入るタイプではない一方で、「よくSNSにあんなにもの書けるね」「ああやって不特定多数に見られて気にならないの?」などと、自他の境界がマジョリティと比べておかしいのではないかと、それこそ「発達障害」を語るときの口調で長年さまざまな人から詰められてきた。そこはATフィールドの違いみたいなもんで、どっちがいいとかじゃなく個性なんですよ、みたいにモゴモゴ言い訳をしてきた。そういうの怖くないんだねーと言われて、そうですねーなどと答えてきたけれど、そんな私も新しい店は怖いしめんどうくさい。ほかにもファクターがあるのだろう。



慣性のことを考える。静止摩擦のことを考える。運動会の玉転がしで、静止摩擦から転がり摩擦に移行する瞬間の、掌の奥にぐっとくる圧のことを考える。ものが転がり始める前に押すときの力は、すでに転がっているものを押す力よりも大きい。私はなにかにつけて止まっており、それを動かし始めるときにはけっこうな力が必要となる。いったん動いてしまえばそれを維持すること自体はあまり大変ではない。

戦隊物が爆発ありのバトルシーンを撮影するような巨大なすり鉢状の採掘地で目にする、高さが何メートルもある重ダンプカーの、成人男性の身長の倍くらいあるタイヤ、あれを転がらせようと精一杯、両足を踏ん張って両手で押しても、平地だと動かせる気がしない。押したはずがもののはずみでこちらに転がってきたら下敷きになってトムとジェリーのトムのようにペラペラの紙になってしまう(ジェリーもそうなることはあるのだがなぜかトムで想像してしまう)。押す、押す、ぴくりとも動かない。モーメントをゼロから発生させるために必要な力を、自分がしっかり足に力を入れて踏ん張って押す、だけではなかなか供給できない。なんだこれ、タイヤ、地面に引っ付いてんのか?  と思って覗き込むと、果たしてタイヤの接地面は自重によってわずかにへこんでおり、接地面の両端が変形してタイヤは完全な円筒状ではなくなっていて、ああそうか、私は円筒を押しているわけではなく、へこんだ円筒の「へこみの角」を乗り越えるようなより強い力をかけなければいけないのだなとわかってがっくりする。トムが水風船を下から絞って水を上に偏らせるように自分の筋肉を上半身に集めるところを想像し、あるいは王様ランキングの母親がやるように「パワー」と唱えて精一杯タイヤを押す、すると、まあなんかそこはフィクションなのでバイキルトとかもかかっていて、ようやくタイヤが動き始める、そこでタイヤにはあらたに直進と回転の慣性が加わって、静止摩擦よりも転がり摩擦のほうが小さいことも加味して、ほかにもいろんな物理法則が噛み合って、いったん動き始めたタイヤを押し続けることは比較的容易となる。

で、この、タイヤの例えをするとして、新しいコンテンツを自分が摂取するかどうか、新しい店に自分が飛び込んでいくかどうか、という場面で例えとして挿入するとして、私はどこになぞらえられるかというと、タイヤを押す人間のほうではなくて、「タイヤのほう」である。私は新しいコンテンツに対して自重で変形して動かないでいるタイヤであり、それを押して動かそうとするのがコンテンツであり新しい店なのだ。そこで動かないのが私なのだ。新しいものを次から次へとバクバク摂取していくタイプの人というのは転がり続けるタイヤであり、私もSNSという世界においてはかつて転がるタイヤだったのだ。