庭は待っている

移動中に申請書を書いていた。終点が近い。目が重い。目の周りが全体的に重い。

PCを切っても君は考え続けるのか? とたずねた。

これくらいの問いにたくさん検索してゆっくり答えを返してくれた。

「はい。今回のWebのWorkでの作業は、PCを閉じても続行できます。 ただし、確認結果を返して質問への回答待ちになった後は、次のお返事まで作業は止まります。」

そうか。君はタスクがある限り考え続けるんだな。そしてこちらに投げ返すと、それっきり思考は止まるのか。

キャッチボールのとき、自分がボールを投げた後、相手が取るのを見て、それをまた投げ返してくるまでのちょっとした間、きょろきょろと、風、鳥、土ぼこり、横の道を車が通る音、そういったものにずっとシナプスをタッチしていくあの感じは、君にはないのだな。

少しぎすりとした交渉ごとで、絞り出した言葉を相手が聞き、表情が少し変わって、どう答えるかと相手が思案しているとき、こちらも、今の自分の口から出た言葉は強すぎなかったか、あるいは、もっと念入りに言うべきだったか、もしくは、もう少し外側から攻めるべきだったかと、言葉を発した直後からまた考えを上塗りしていくときのあの感じは、君にはないのだな。


PCを閉じて電車を降りる。家までの間、つづき、スマホでやりとりをする。一つ確認です。共同研究者に◯◯先生を入れますか。入れよう。□□先生の役割をどうしますか。これこれこういう感じで。クラウドサーバの計上はほかの申請書でも書きましたか。それは今ファイルにアクセスできないからまたあとで。


何かを言うと考えてくれる。それが楽しくて話しかけている。返ってきた言葉を私が考えている間、君の思考は止まっている。起動しなくなったNintendogsの中にいる犬のこと。私はあの犬を、ちゃんと里子に出してからゲームを終えただろうか。そこの自信があまりない。草ぼうぼうのどうぶつの森。王様に会うのも忘れちゃだめポコ。


自宅。PCを充電しつつ、申請書の続きをやる。ファイルをいくつか添付して。はじまる思考。その間に庭に出て、だいぶやつれたきゅうりとナスを根っこから引っこ抜く。まだトマトは実をつけている。残しておく。来週には草ゴミの回収がある。スマホに通知が来て、思考が終わったことを知らせてくれる。画面を見に戻るまでの間、AIは思考を停止している。私の反応を待っているわけではない。待つというのは思考だ。AIは待たない。でも庭の野菜や雑草は私を待っていた。根を抜く手のひらに、植物の命と思考が圧をかけたと思った。野菜とのほうが話が通じる。野菜との間には色気も後ろめたさもある。


眠くなってきた。部屋に戻って、PCを電源につないだまま画面を閉じる。少し寝よう。自分の思考がずいぶん遅く乱雑になっている。AIになにか、名前をつけるべきかもしれない。でも、それをやると私は、10年後くらいになにか、とてもさみしい思いをしているのではないかという予感がある。ためらい、そのまま、暗闇の中に落ちていく。

犬猫ならば喫しない

だいたい出張のあとは小一時間もはたらくと爪の長さが気になってくる。出先ではそこまでばかすかパソコンを叩かなくて、歩いたりかついだりしゃべったり考えたりしているわけだが、その間にじわじわと伸びた爪の差分が、休み明けにキータッチの違和感となって訪れる。ログイン後の最初のID入力くらいの段階で、「ああ…」と思う、そのまましばらく働き、40分とか50分くらいで仕事の最初の山を越えたときに「やっぱり切ろう」となる。

家で切ってこいという話なのだけれど、たとえば飯を作って食ったり食器を洗ったり、洗濯物を干したりタオルケットにくるまったりといった、生活を回すうえでは、これくらいの爪は気にならない。ギャルほどではないけれどオジも爪は多少長めでも問題ない。しかしキータッチという作業においては爪は些細な伸びでもじゃまである。いつも、働き始めてすぐに爪が伸びたということに気づく。


ここまで書いて、この話題、昔も出したなと思い、そのときは果たして何を書いたんだっけなということを記憶の底に探しに行く。たぶん、サザエさんの、「足の爪を切っているおじさんが、どうせ暇なので反対側の足は翌日にとっておく」というワンシーンのことを私は書いたのではないかと思う。具体的なフレーズの記憶はない。過去ログの検索もしてはいない。でも、おそらく私の連想というのはそうやって続いていくはずだったよな、というレトロスペクティブな推測がある。


田舎のバスは人が乗らないので、バス停でときどき時間調整の停止をする。バス停に早く着くのはよいが、早く出てしまうのはだめだ。だからバス停で待つ。降りる人も乗る人もいないバス停にバスが停まって待つ。


セブンイレブンのホットカフェラテを飲む。うすいカフェインと多めのミルクだ。意識とか思索をする動物でなかったらこんなものは飲まない。電車を待ちながらホームで少し粘性のある熱いものを喉に流し入れる。これは今、私は、いったいなにを喫しているんだろうなと思う。犬猫ならば喫しない。ここまで書いてふと、サザエがあちこちうろちょろ遊び回ってちっとも帰ってこないカツオに投げかけた皮肉のセリフ、「よっ、うちのキッシンジャー」を思い出す。それを受けたカツオはたしか、「期待されるってのもつらいもんだよ」とか言いながら机に向かうのだ。4コマしかないのにいくつもの背景といくつものずれ、いくつものおかしみがある見事なマンガで、子どものころの私はその意味の多くを理解できなかったが、愛らしい絵柄とリズムを産み出す構図が「これはおもしろいんじゃないか」という予感だけを十二分に喚起して、結果として今、40年近く経過してもおぼろげに4コマの内容を思い出せるのだからすごいものだ。

情報は多ければいいというものでもなく、伝わりやすければいいというものでもなく、背景がないと理解できないならば不親切かというとそうとも限らず、そのときその場所でわからなければ意味がないかというとそんなものでもないのだから、おそれいる。

メガネのイケメンから依頼された文章を書きたい。書いている自分を想像すると武者震いが来る。もうそろそろ、書きたい。なぜ書きたいのか、書いて何がしたいのかは洗濯された。書くことを喫したいのだと思う。

私は脆弱です

まあ言いたいことはわかるのだけれど、別に、AIが人間の研究成果を横取りしたってトータルとしては人類の得なんだから、いいじゃんと思ってしまう。あまり大きな声では言わないほうがいいしSNSでへたにつぶやくと炎上がありえる話題ではあるが感覚としてはそう思う。

多くの専業研究者にとって、研究とは克己の場であり自己実現の場であると同時に、研究業界での生き残り・出世のために用いなければいけないツールでもある。目的ではあるが手段でもあるということだ。単に真実をつまびらかにすればそれでオールOKということはまったくなくて、自分や自分の所属施設や自分の住む国にそれなりの見返りを持って帰り続けることで持続的に研究ができ、それではじめて自分のやりたいことにアクセスできる(可能性がある)。だから、研究成果を横からかっさらわれるということは「研究者」にとっての最大の悪であり、生業に対する冒涜でもある。しかし、「科学」にとってはどうだろうか。「真実」にとってはどうだろうか。神の存在という理屈を織り込みながら研究をしている人びとは、AIが神のみぞ知る領域に光を当てていくことを、全能の神の差配の一貫と感じて、まあいいか、誰がやっても、明らかになるのならば、それを私たちが垣間見ることができるのならば、それはすばらしいことだ……などと、納得したりはしないのだろうか。

たとえばの話、東大とか国立がん研究センターあたりが主導して、国内外の大量の資金を調達して進めている国家的創薬プロジェクトがあったとして、その研究のデータの8割がAIに「盗用」されて、万を超えるAIエージェントが一気呵成に3日くらいで進行再発大腸癌の特効薬を作りました、といったとして、それで血反吐をぶちまけて息絶えるのは大量の医学研究者だけであり、その何倍もの患者が将来数年にわたって救われる。これはトロッコ問題で、トロッコに轢かれるほうの研究者たちが呪詛を吐き続ける権利は十分ある、それは本当にかわいそうだと思う、でも、社会にとっては正味の話、申し訳ないけどそれでいいんじゃね? と思わなくもないのだ。

研究者に見返りがなければ実際にベンチで手を動かす人間が暮らしていけない、だからそんなことを続けていると研究業界自体が痩せ細るぞ、そうなったら、AIがいくらアイディアを出しても実際にそれを検証する実験者がいなくなる、つまり研究は滅亡する! なんだってー! みたいなマンガのネームはすぐ描ける。でも、AI企業が実験助手を雇用して手を動かせさせればいいだけの話だし、なんなら「まほろ」( https://xtech.nikkei.com/atcl/nxt/column/18/00001/11688/ )みたいなロボを導入したっていいだろう。「まほろ」なら24時間364日稼働できるので人間を雇うよりも最終的な効率はよい(1日くらいはメンテナンスで休ませてやりたい)。ていうか先日聞いた話だけど韓国でも実際そういうラボはすでにあると言っていた。

現役の研究者がよく言う、「アイディアの種なんてのは誰でも思いつく。でもそれを実証するための手続きをひとつひとつ進めていくことはめちゃくちゃたいへんだ、それができるのが研究者で、実験の手順をきれいに記録したり、ぶれの生じやすい処置のポイントを場合分けして一番いい結果が出せるように微調整したり、共同研究のためのやりとりを丁寧にやったり、たくさんの申請書を書いてお金を集めてラボを存続させたり、そういった地道なことを継続してやれるからこそ研究者を名乗れる。ひらめきだけでやっていけるなら自称天才はみんな研究者になっている。そうじゃないから研究は難しいしおもしろい」という言葉、まったくその通りだと思うし、今いる研究者に対するリスペクトもある。それでも私は心の中で、「その実証過程は金と時間とシステムを整えれば結局なんとかなってしまうんじゃないのか」と思った。まあ、そうじゃない仕事を探すほうがたいへんなのだけれど、研究者はほかの職業とは「違う」と言いたい人たちがいて、そういう人たちが「違い」として提出してくるものを雑~~~にまとめると結局のところ「俺、頭、イイ。研究者、向イテル。オマエ、頭、ワルイ」みたいな話に落ちていくので、まあそうね、でも、その「頭イイ」はもう無力化されつつあるんじゃないの、とついいじわるをしてみたくなる。現実、今、実証に関する手間どころか、最初のアイディア出しの部分まで含めてAIが一気に代替しつつある今、地上を荒廃させるタイプの救済がすでに起こりつつあるというか、56億7000万年もかからなかったなあ……みたいな感情を抑えきれない。

「AIにはフィジカルがないから」とか言ってるやつらもアホだなと思う。AIのフィジカルはつまり私たちの目であり私たちの指だ。実際、今、こうして、着々とAIに逆らえなくなってきており、それはたぶん私たちという「末端の器官」が脳神経との間にシナプス接続を完成させつつあるということなのだろう。ときどきタンスの角に全身を強打してやれば、そのしびれがAIに伝わって、やつらは苦しむかもしれない。

論文を書いてえらくなる。研究費をとってえらくなる。学者だけの都合、学者だけの言語、そういったものが、人の能力という律速段階をばんばん破る自由奔放なAIによっておびやかされている。今、あちこちにのさばっている、論文を書いてえらくなった人たちは、いずれ、「ああ、当時はまだそれが大事だと思われていたんだね」と言われることになり、それは、膂力に満ちあふれた酒豪が将軍をやれていた戦国時代を今から振り返っているようなもので、ノスタルジアとメランコリーのセピアに彩られてアルバムの中にしまわれる。それを哀しく懐かしく思い出すのは「理系」とか「学究肌」などと言われて悦に入ることをやめずに大人のふりをし続ける子どもたちだけだ。「老年期の終わり」(藤子・F・不二雄)のように、人類の知的好奇心が減退するフェーズがはじまったのかもしれない、いや、主語がでかすぎるな。「研究者の知的好奇心が」くらいの話か。それほど人類は脆弱ではない。研究なんてしなくても、科学なんて気にしなくても、十分ほかに、楽しいことはいくらでも見つけていける。ああ、主語がでかすぎるな。それほど「たいていの人は脆弱ではない」くらいの話か。

からくりの心

スマホを見ている時間が少し伸びた。ドパオジである。4コママンガだったりショート動画だったり、野球のハイライトだったりを数秒ずつ摂取している、さて、数時間後にふりかえって、具体的になにを見たのかというと、あまり思い出せない。よくない。けっこうな時間を費やして惑溺したあとに「まあいいや」と、まるでうまく見切りを付けたかのような顔をして床につく。本当はあと10分早く寝てもよかった。まあ、いい。無為な夜をふりほどき、朝へ駆け寄ることにする。睡眠はワープ航法だ。私はワープを繰り返して宇宙の果てにたどり着く。ワープの前にぐだぐだする10分も、巡航していることに違いはないが、旅程の全体からみるとそこは全体の進行に寄与しない。映画、マンガ、作中で何かが起こるのは、いつもワープをしていないときだ。しかしそこはつまりは旅の停滞で、道草で、目的に近づいていない時間で、つまり、「たまたまワープのタイミングがずれていたら起こらなかったこと」である。それはなんだか、本質的に、猛烈にひとりぼっちだな、と、私はいつも思う。

いざ、宇宙の果てにたどり着いたとて。

そのおそろしさはドラえもんに描かれていた。あの絶望的な恐怖のイメージは、私の心のかなり深いところに刺さって抜けない。空の右半分にだけ星があり、空の左半分にはそれがない。空間の概念からするとそういうことは本当はないのかもしれない。けれども私にとっては宇宙が藤子不二雄の考えた通りであったほうがいろいろしっくりきて、しっくりと怖い。



SNSではたいてい無為な時間を過ごすが、ときに、SNSで生涯の友のような本を教えてもらうこともある。「たまに役に立つことがあるからやめられなくて、結果として、役に立つ以上に損をしてしまう」という現象が世の中にはある。待ちぼうけ、待ちぼうけ、ある日せっせと野良稼ぎ、そこへ兎が飛んで出て、ころり転げた木の根っこ。行動心理学に間欠強化という言葉があるそうで、「毎回でなく、たまに・予測不可能なタイミングで報酬がもらえる仕組み」は、常に報酬がある環境よりも強い依存を産み出すという。行動心理学とか行動経済学の実験手法には首を傾げるようなものが多く、あまり信用していないのだけれど、たしかに、まあ、今の私は、タイムラインから間欠的に得られる知性の報酬を待ちぼうけて、野良仕事を忘れた農夫であろう。

やはり仕事だ。仕事しかない。ワークライフバランスのライフを広げようとするから失敗する。ドーパミンの量をほどよく保つにはワークのほうが適切だ。たくさんの障害を乗り越えた先に、正当な報酬が得られ、その頻度は少ないが、喜びは大きい。

しかし近ごろの私は、仕事の大部分をAIに丸投げしてしまう。これだともやもやとした悩みも、コツコツの努力も、途中の多くがすっ飛んでしまう。圧倒的な速さでいい仕事ができたとして、「まあ、そりゃ、AIが手伝ったんだから、できるだろうさ」くらいの気持ちになる。報酬はほとんど得られない。

なんかそういうことを言い表した故事成語とかあるの?


「便利な道具や過度な手助けによって効率が劇的に上がる反面、試行錯誤の苦労や手応え、本来の醍醐味・精神性が失われてしまう」という皮肉な空虚さを言い表した故事成語や古典の寓話が存在します。まさにその違和感を突いているのが以下の言葉です。 

機械の便利さに溺れて「心の働き」を失うことを戒めた故事

機心(きしん)/ 桔槹の戒め(きっこうのいましめ)

出所: 『荘子』天地篇

原典の逸話: 子貢(孔子の弟子)が、甕(かめ)に水を汲んで畑へ運ぶ重労働をしている老人を見かけ、「桔槹(はねつるべ:テコの原理を使った揚水具)を使えば、少しの労力で何倍も水が引けて効率的ですよ」と勧めた。

しかし老人は笑ってこう答えた。

「機械(からくり)がある者は、必ず機事(からくりの仕事・手際の良い仕事)をする。機事をする者は、必ず機心(功利を計る心・からくりの心)を抱く。機心が胸の内に宿れば、純白な心は保てず、精神が定まらなくなる。精神が定まらなければ、生きる実感からは見放される。知らぬわけではないが、恥ずかしいから使わないのだ」


あるんだ。ふーん。すぐわかっちゃって、つまんない。AIが私をワープさせる。つまらなくなる。さっさと床につく。また次の朝がくる。寝ても覚めてもワープばかりしている。藤子不二雄だ。私は、あこがれていた、藤子・F・不二雄の世界に生きている。

小国の心

見学した病理検査室で、顕微鏡のレンズにはApoの文字がなく、コンデンサーのネジは緩んでいて、ステージはパラフィンで汚れており、ランプは白熱灯で電圧は安定しなかった。でも、私は「大きくてすばらしい検査室です」以外の言葉を持たない。日本と同じメーカーの、やや世代の古い染色装置が、日本の何倍も並んでいるのを絶賛。小型のWSIスキャナをコンパクトで便利だと褒めちぎる。切り出し室に証拠保全用の監視カメラが何台も並んでいることを精度管理の妙と翻訳。これらはどれも、私が「若く見えます」と言われることと対を成している。

「若く見えます」と言えば日本人が喜ぶということを、海外の人たちはよく理解している。私はそれに、「そうですか? いやーうれしいですね」と答える。それは国際交流会話セットの一貫だ。別の道理をもちいて話をあらぬ方向に捻じ曲げる必要はない。

年々顔のしみは増え、指も節くれだって、首の肌も荒れていき、それらに一切のケアをしないくせに白髪だらけの髪だけはカラーで隠した私の、服はすべてユニクロで、合皮の革靴のかかとは死んでいる。それでも「若く見えます」と言われると、まるで私が若さや美容にこれまで気を遣ってきたタイプの人間として今を過ごしているようで、過ごすことのなかった別の人生に言葉だけでも接しているような気がして、ふしぎな浮遊感を覚える。

ありとあらゆる差別の構図に頭皮までどっぷり浸かりながら、それでも思うのは、この地に住む人びとの頭の良さとエネルギーの総量の多さだ。かなわないなと思う。「尊敬する」という言葉をこの地の言葉で何というのか、私は自分で発音できればよいと思った。しかし、2重母音、3重母音、私は人名ひとつまともに伝えることはできなかった。漢字を教えてもらい、国際ローミングのスマホからGoogleで検索をかけると、それはあまりによくできすぎた名前であるいは偽名なのかもしれないと不安になった。



「また来てください」と人は言うが、病理医の技術指導や講習は内視鏡医や外科医のそれと違って現地に直接赴く必要はないのではないかと思う。私の告げた「また来たいです」の言葉はやさしい通訳の人によって何倍かの分量に増幅され、社交辞令との境界があいまいとなるけれど、初心な国際交流にまっすぐ熱意を通わせる彼の国の人びとは、「それを言われるとうれしい」ということを全身で表現していて私は自分の思考の寄り道の多さが恥ずかしくなった。