猛スピードで読者は

人の気持ちを書く作家の小説を立て続けに読んでいる、理由というか動機がやや不純で、こんどの学会で彼の講演の座長をするからだ。作品を読んでいないというのはまずい、と思って一夜漬け的読書をここ一ヶ月くらい続けている。もっとも、彼の作品を全く読んでこなかったわけではない、代表作と呼ばれるものを含めて小説2冊くらい読んだことがあったし、そのどちらもおもしろく、納得の、すごい作家だなとこの縁がなくても私は勝手に思っていた。さらに言えば、彼が別名義で書くエッセイのほうは小説よりもはるかに、かなりたくさん読んできて、つまり私は元々彼の愛読者と言っても過言ではない。ただ、愛読などと言っても、20年以上にまたがってぽつり、ぽつり、なことには違いないし、それはたとえば小川洋子とか梨木里帆などについても、サラ・ピンスカーとかアンディー・ウィアーについても言えることなのだけれど。私は彼の作品をこれまで読んできたし、きちんと好きだ、しかし、人生の時間を溶媒にして密度を測ってみれば、この体験はまだまだそこまで濃いものではない。座長をできるほど読み込んでいるとは言えない。だから今回はしっかり読んでみることにした。研いである白刃にさらに付け焼き刃、という感じである。

昔読んだもの、まだ読んでいないものなど、つぎつぎとKindleで購入。ありがたいことに、ちゃんとおもしろい。まあそれはそうなのだ、有名なプロの作家なのだ、そんなことはみんなが知っている、でも、つまらない作品というのがほんとうにぜんぜんなくて、どれを読んでもちゃんときちんとおもしろいので私はほっとしたし、それに対して少しぞっともした。

言葉が色とりどりで、たくさんの画角でカメラを向けてカット割りを豪勢にした映画のようだ。でも過剰とは感じない、じっくり据え置きのカメラで微弱な首のかしげかたを丁寧に撮影したドキュメンタリーのようでもある。読んでいると私の目も視神経も大脳新皮質も、それぞれ「まだやれる、私、まだやれます!」と叫んで、世界をこれまで以上に細かく華やかにみようとしはじめる。

私は本が好きだけれど実際には「小説のない期間」をけっこうな頻度で生きていて、そして、ふだんは「まあなんか小説って体力使うし一気に読まないとなんかついていけなくなるからまとまった時間も注ぎ込まなきゃいけないしちょっと面倒」とか言いながら、瞬間をだらだら積み上げる感じでSNSを見て結局本が読めたくらいの時間をつぶしてしまっているけれど、たまにこうして小説を読むと、読み終わってからしばらくの間、私自身が小説家となって私の登場する世界をきちんと描写してやらないと私という登場人物に悪い、という気持ちになる。あからさまに影響を受けまくる。ちょっと恥ずかしい。けれどそれこそが小説という媒体のもつ力なのかなと思う。

あらゆる小説が読者を小説家然とさせる力を持っているわけではなかろう。物語の世界から抜け出てこられないほどその後の登場人物に思いを馳せさせられる小説もあるし、小説家の技法・技術・作者性の部分に魅入らされる小説もある。そして今回は、「世界はもっと丁寧にみることができるのだなあ」ということを、ホームランを打った直後の確信歩きのようなドヤ顔の念押し的にじんわりと実感させられる、そういう体験をしており、これもまた小説なんだな、みたいなことを毎日うれしく味わっている。

沮授を待つ君の横で僕は麴義を気にしてる

呂翔が「今、春が来て君は紀霊になった」 みたいなことを言う同人誌もどこかにはあるのだろうと思いながら目が覚めた。寝る直前に袁紹軍のことを考えたからだと思う。朝から耳の中で鳴っているのはクラムボン。これは昨日クラムボンの有名な曲と同名のマンガを読んだからである。昨日か一昨日の目覚め、どっちだったか忘れたが、とにかく朝焼けのきつい5時15分にサカナクションが鳴っていた、それはたぶん寝る前に櫻井翔の顔を見たからで、櫻井翔→夜会→アイデンティティのサビ、という連想が、寝ている間に牛歩の遅さで進行し、目が覚めた瞬間にちょうどイントロが流れ出すくらいの状態になっていたのだろうと思う、ただし脳内オンエアはアイデンティティじゃなくて怪獣だったので途中に若干の混線は生じている。そういったことが自分の脳では頻繁に起こる。そういったことは誰の脳にも起こっている。だろうと思う。ではないかと勘ぐっている。みんなが私と同じかどうかは本当はわからない。それは比べようがない。アフロ脳科学のいうクオリアだかエモリアだかキシリアだかはさておくとしても、私の体感が同じ速度、同じ質感で誰にも生じているかどうかは本当に、比べようがない。BPMが速ければ速いほど音楽として優れているというわけでもないのだろうが、私の思考のBPMはじつはハチャメチャに遅いのではないか(※「ハチャメチャ」に「遅い」を接続した瞬間に一般的な字面からの違和が生じたが、シナプス間の電気信号の総和としての思考を考えると、ハチャメチャであればあるほど遅くなるだろうとは思う)、みたいなことを、現実と夢の境界に倒れ込む夜、スキップ、夢と現実の境界から顔を出す朝、の双方にふと思う。目覚めて、意識が無意識を覆い隠すまでのわずかな時間、天空から無意識に向かってかぶさる帷のすきまから見える中空に、循環しながらくるくると上空に駆け上がっていく雲雀の軌跡、その残像が心の開放6弦を振動させて音圧の強いノイズ。


異動の際に、前の職場のメールアドレスが使えなくなるというので、3か月くらいかけて、それまで仕事でつきあいのあった人たちにメールを送り、これからはこっちのメールに返事をくださいねえ、とやっていたのだけれど、やはり、もれがあって、このたび、「ちっとも返事がこないと思ったら職場が変わってたんだねえ」みたいなメールが来て、ごめんねってなった。でも、昨年12月に私に連絡がつかなかったなら、そこで電話なりなんなりしてくれればいいじゃん、だって日ごろ、私はだいたい15分とか30分とかでメールに返事してるでしょう、それが来ないなんて不思議だとは思わなかったんですか? みたいな不満をちょっとだけ漏らす。いや、ま、みんな、誰とどうやりとりしてるなんて、互いに、べつになんにも気にしてない、ていうか覚えてないよね、メールだって、コミュニケーションを取りたくて送るんじゃなくて、その場のタスクをひとつクリアするという気持ちで送信ボタンを押しているに過ぎなくて、それはマリオがクリアまでの間にファイアバーをいくつジャンプしたかなんていちいち覚えていないよね、ってことだと思うのだ。倒した敵のことだって、長く記憶されるのは、1-1の冒頭のクリボーと、8-4ではじめて遭遇するクッパ、あとはそうだな、1-3くらいで、はじめて足場にしたパタパタくらいのもので、あとはなにを踏んづけたのかなんてぜんぜん記憶していないよね、メールってそういうもんだからさ、みたいな声が、ノイズの中から急に認識できるカクテルパーティ効果的なもので立ち上がってくる。

忘れなw

あと12分で研究会がはじまるのでヘッドセットをつないだ。もう頭にかけてしまう。直前でいいのだが、内側から脈動してくる熱が頭蓋骨を破裂させそうで、早めにヘッドセットで抑え込んだほうがよさそうだった。研究活動スタート支援の学内書類締め切りが来週に迫っている。同じ日に病理学会総会がはじまりたくさんの細かな仕事が待っている。飲み会の店の予約を3件ほどした。そのすべてに私はいかない。全国から集まってくる病理医のためにいい店がないかと聞かれて、はい、おまかせください、と言いながら食べログで適当に検索して行ったことのない店をつぎつぎとあてがった。私は別に札幌の飲食店には詳しくない。そんなに飲み食いした記憶がないからだ。うまいものはうまいと思う。けれども「うまい店」というのがどれだけあるのかいまだによくわからない。「きれいな店」に行きたいならば、きれいな店以外ではたちまち機嫌が悪くなる人びとにたずねるのが一番よく、「めずらしいものを食わせる店」に行きたいならば、ありふれた料理を食うとすかさず機嫌が悪くなる人びとにたずねるのが賢い選択で、私はそのどちらでもなくて、こ汚い店でも飯は食えるし毎日同じものを食っても満足はしてしまう。こういう私のような人間は飲食店を覚えない。人の顔も覚えない。先日、ある珍しい病理診断をして、カンファレンスで「これはじめて診断しました」と言ったら、「先月も全く同じような症例を紹介して『これはじめて診断しました』って言ってたで」と言われて笑ってしまった、私はなにも覚えない。ちなみに今のくだりも、もしかしたらすでにブログで書いていたかもしれない。


何か月かに一度だけ、寿司やらうどんやらの画像をポストしている人、というのにフォローされた。何か月かに一度というのがいいと思った。こういう使い方は人には刺さらないかもしれないが、おそらくあとでふりかえったときに、自分の表皮の角質層あたりに軽く刺さることがある。垢といっしょに剥がれていく程度の記憶である。


ぎちぎちに詰め込んだ予定の中で優先順位を付けて、とにかく来週までにいったん書き終える必要がある、その後おそらくさらに手直しをするにしてもまずは来週とにかく第一次提出をしなければいけない書類、これを先にこなすべきだということは完全にわかっている。ただしわかっているというのと覚えているというのは別のことである。たくさんのタスクをすっぽり忘れて、岡山から送られてきたプレパラートをバーチャルスライドに取り込み、癌の深部に存在する血管の弾性板と平滑筋を眺めてスクショを撮ってパワポに組む、この作業に7時間ほど費やしている。先ほどすべての記憶が一時的に戻って私はパニックになった。な、なぜ私は今、こんなに手間のかかることを、なぜ今、えっ、どうして、まだ、来月やっても間に合うのに、ちょっと、なにを、みたいな右往左往をして、忘れて、またPCに向き合って延々と論文を検索している。忘れなければ、思いが入らない。忘れないでいると、過去にやり終えた満足の境界線で自分を囲い込んでロックしてしまう。忘れることではじめて、忘れているからこそ、忘れられるだけに、私は私を変貌させながら、そのじつ、同じことに何度も心を動かされているだけなのだとはしても、なんだかずっと遠くに向かって歩いているような錯覚に浸っていられるのだ。

コスレプイヤー

 子どもでも知っているような野菜。にんじん、だいこん、ピーマン、たまねぎ、ナス、キャベツ、白菜。こういったものは、やっぱり、名が知られているだけあって、食えるなあ、食いやすいなあ、みたいなことを考える。ふつうのもの。よくあるもの。あたりまえのもの。それらはすべて、生き延びてきたもの。すり抜けてきたもの。調味料にも言える、レシピにも言える。有名どころにはわけがある。


そしてこの、「有名どころにはわけがある」というセリフ自体も、さまざまなところでさんざんこすられていて、よく聞く。つまり、生き延びてきたものなのだな。表現にも言える、しぐさにも言える。


先日読んだマンガ『サラウンド』の中に、トイレでゆっくり過ごす姉の話が出てきた。そこをよく描いたな、と思ったし、わりと何度も見聞きした話でもあるな、と思った。けれどよく考えると、この、「トイレにマンガを置いといて、そこで長く過ごす」みたいな話、聞きはするけど実際にそうしているという人に会ったわけではない。つまりこれは、「遠くで語られる系の話」なのかなと思う。本人の口からは聞きづらいエピソードではある。


思えば私が覚えている話の大半が、この、「直接体験した当人から聞いた話ではないのだけれど、どこかからか誰かの話が流れ流れていつのまにか耳に入った話」ばかりだ。


技術によって体を拡張し続けた結果、体験したはずのものがどれもみな、体から遠くにあるようになってしまったのかな。



ある学会の会議に出ていた。あまり興味はなかった。終わりがてら、遅刻してきた一番偉い人が、学会の事務にあたるスタッフにいきなりブチ切れた。

「仕事が遅いんだよ! こっちはみんながまんの限界なんだよ! プロの仕事をしなさいよ!」

あーよく聞くけどこれ目の前で見たのはじめてだな、と思った。でもZoomの中で起こっていることは、べつに目の前というわけではないのだ、本当は。接続を切ったらまた一人でいる。首元の鈍痛を何度も何度もこする。

病理学

私の脳が環境をみて理解しようとするとき、私が振る舞うように世界も振る舞っているのだろう、私の則っている法にもとづいて世界も動いているのだろうと、私はあまり深くを考えぬままに前提を用意する。そのようなフレームの内部で環境の解析をする。

私の脳が私の外縁に私の暮らしやすい環境をつくるとき、私と違うものを私に接続することはせず、私の延長たるものを、私を敷衍したものを、私に近い順番に配置して、私から通電できる範囲で通電して、それを環境と呼び、世界と認識する。

これらはいずれも、私の脳が、フレーム問題を回避するために遠い遠い先祖から受け取ってきたべんりな仕組みのひとつである。

もし、世界が私の思いの及ばないところで、私の体のなにかに例えることができないかたちでも駆動しているとしたら、うん、それは確実にそうなのだけれど、かくある私の脳が、「そんなことまで考えなければいけないとしたら」、すなわち、私がふだん自分を動かすのに使っていない理屈まで勘定に入れながら日ごろの思考を組み立てようとしたら、脳のキャパシティはすぐに足りなくなる。命の続く時間のうちに思考を終わらせることができなくなる。AIならばそうやって、隘路の先で無限小に収束するような思考に惑溺することもあるのだろうけれど、限りある時間のなかでいくつかの欲望を満たすために思索をこねている私の脳はそういうわけにはいかない。フレームを小さく切り取るために、私は「世界を私として理解する」ように、自然となっている。


『ラス・メニーナス』の天井の暗がりにもなにかが描かれていることに気づいたとき、私はそれに光をあてることを「科学」だと感じた。しかし、灯りがあてられ視線が向けられたところが「見えている」、そうでないところが「見えていない」、この両者は、私を介してあたかも差があるように感じるけれど、実際にはそのありようにはなんの差もなくて、それはすでに世界にとっては同じように明らかであったものたちにすぎなくて、私が私のやりかたでのみ、明るさと暗さとを感じていただけにすぎなくて、グレースにとっては差があるように感じられていたかもしれないがおそらくロッキーにとっては対等に感じられていたものだろう。

そこの光のあてかたをもって「科学」というならば、おそらく科学というものは世界をあきらかにするための道具なのではなく、自分をあきらかにするための道具なのだろう。