余地

腰痛がえぐくてヨチヨチ歩いている。ヨチヨチ歩いている自分が愛おしい。赤ちゃんがヨチヨチ歩くのは、体幹の筋肉が育ってないからなんだなということが今更わかる。解剖学は日常をよりカラフルに彩ってくれるすてきな雑学になりうる。本当は実学なのだけれど雑に扱っても味がする。


科研費をみんなでとろうねという話をした。みんな肩を落とす話題だ。でもまあ、そういうこともしていこうと思う。せっかく大学にきたのだから。この「せっかく」が私をせっかちにする。


夏にビアガーデンに行くのは義務ではないが、「せっかくだし」という感覚にはそこそこの強制性がある。より込み入ったことをいうと、「せっかくだし」という言葉はそんなに暴力的ではないんだけど、「せっかくの機会なのに……」の攻撃性はけっこう高い。否定的に用いた瞬間に威力が出る言葉というのがある。


小牧の空港をうまく使えると気持ちがよい。ホテルの朝食会場が開くより先に出てタクシーに乗る。斜めに差し込む陽光が顔を焼く。もう蝉の声がする。信号で、少女が、赤信号を待つ少女が、交差点に背中を向けていた、たぶんまぶしいからだろう。日傘も差さず、しかし彼女の短い髪はからすの色で、輪郭はGペンの筆圧であった、ナンバーガールの歌詞のようにこれから帰るのかもしれないし、単に朝番のバイトに向かう早起きな学生なのかもしれないが、彼女は一心にスマホに何かを叩き込んでいた、腰痛がえぐくてヨチヨチ泣きながら、私は知らない少女の1日の平穏を願った。そういうのもぜんぶハラスメントですと昨日の懇親会で名前を覚えられなかった教授は笑った。

ゆで差延

情と関係性で仕事をしてきた人たちに、めずらしくこちらからお願い事をしたら、私のお願いは聞き入れてくれなかった、ということがあった。魚心あっても水には心はない。まあそうか。水には心はない。お湯にはある。でもお湯だと魚はゆだってしまう。ままならない。一晩くらい悔しがってもよかったのだが、腰痛がけっこうひどくて、30分もすると腰のほうにかかりきりになって、人と人との関係の話はいったん忘れた。

腰がひどすぎてどうにもならない。筋肉をつけないと慢性的な悩みは解消しないだろう。したがって、解決策として、キン肉マンの22巻と23巻をダウンロードして読む。

「ゆで理論」という言葉があったが、このたびあらためてキン肉マンを精読して気づいたのは、マンガゆえの理論の破綻よりもむしろ、「一度描いたものを少しずつ微修正していくさま」の激しさだ。ネプチューンマンとネプチューンキングがマスク・ジ・エンドで逆回転して時間を戻す理屈に昔は大笑いしたものだが、今はべつにそういうのは気にならない。そんなことよりも、たとえば、一度リングから逃げ出そうとしたキン肉マンが、(バッファローマンのロングホーンが埋め込まれた)左腕に引っ張られてロープを自然と掴んでしまうシーンで、キン肉マンとロープとの距離がコマごとに違うこと。あるいは、アポロン・ウインドウロックのシーンで前方後円墳のサイズがコマごとにどんどん違うこと。そういうところにすごく「ゆで性」を感じる。「ゆで修正」こそがこのマンガの唯一性に寄与しているのではないか。

キン肉マンというマンガには絶対的なものさしがない。ある事象が描かれるとき、それは一コマごとに違うパース、違う輪郭、違う解釈を与えられている。戦っている超人たちがまだたどり着いていないはずの真実を実況が大声で叫んでいたりすることもある。そういった設定のソフトさや落ち着かなさで、読者が迷子になるかといったらそういうことはなく、ときおり解説役を担当するロビンマスクやブロッケンJr.や、改心するとなぜか目が宝石になったアシュラマンなどが、「それっぽくまとめて語る」。すると、ふわふわしていた設定がかなり大きめの飛躍を経て、まるで確固たる物語が最初から存在していたかのように突然ビシッと落ち着き、キン肉大王やミートくんや、あきらかにアシスタントが描いたであろうモブの観客たちが「オオオオ」と理解して納得して感動する。これこそが「ゆで時空」の本当の奇妙さで、マンガの魅力の本籍地なのだ。キン肉マンはおもしろい。「ゆで修正」はこのマンガを無二なものとして完成させている……いや、まあ、おそらく、このマンガは一生完成しないだろう、なぜなら描かれるたびに細部は変貌していくからだ。


むかし、実家にキン肉マンがとびとびであった。悪魔将軍を倒す巻と、超人タッグトーナメント編の最後の2巻、そして、フェニックスとの戦いの終盤で「ドブ川を清流に変えるフェイスフラッシュがビビンバに照射されるところ」まで描かれた巻。この4冊だけがうちにあった。今にして思うと絶妙な4冊だった。プリンス・カメハメのこともよくわかる。しかしなぜこの4冊だけがあったのか。もはやまったく覚えていないが、自分で選んで買ったわけではなかろう。父親が買ってきてくれたのかもしれないが、どうだろう。あるいは同級生からの誕生日プレゼントだったかもしれない。あのころ、小学生どうしが集まって数百円レベルのプレゼントを渡し合うような場では、マンガの最新号を送り合う習慣があった。だからうちには聖闘士星矢の途中の巻が1冊だけあった(たしか16巻とかそのあたりで、ポセイドン編の途中であり、「アッペンデックスのキキ」という名前がいじられる巻だったと思うがちゃんとは覚えていない)し、ファミコン風雲児も4巻と5巻だけがあった。ちびまる子ちゃんは3巻と6巻だけがあった(プサディ―が出てくる巻が6巻だったかと思う)。

マンガの途中の巻だけを読むというのは、とても不思議な読み心地である。親に頼んで前後の巻を買ってもらえばよいのだけれど、あの頃の私と弟はどうしてかわからないがそのような発想を持たなかった。途中の巻だけを何度も何度も読んで、かつその前後を想像するわけでもなかった。そのような体験が、私のその後の人生になにか影響を与えている可能性はある。途中で知り合い、途中で別れる関係を、あとから幾度もこするのだけれど、それでいてその関係をさらに拡張しようとはしない、電話やメールで旧交を温めることもせず、それでいてあの頃のあの人たちはどうしているのだろうと「思うことだけはやめないでいる」私の性格の、根本はマンガの途中だけ読んでいたあのころに醸成された可能性がある。

Facebookで昔の知り合いの名前を検索してみる、というのを昔ちょっとやってみたことがある。しかしそうやって検索をすると、仮に友人申請などを送らずとも、アルゴリズムが勝手に相手のタイムラインに私の名前を表示することがあると知って、私はFacebookで人を検索するのをやめた。13巻しか読まなかったマンガ、17巻しか読まなかったマンガ、31巻しか読まなかったマンガ、大人買いをすれば前後をすべて読み返すこともできるのだ、でもそれをしないでいる。いや、違うか、人生はマンガではない、Kindleでまとめ読みをするように誰かとの関係をまとめて読み返すことなどできはしない。なぜなら私は読者ではなく、もちろん作者でもなく、誰かの描いたマンガの中で毎回ちがう設定で描かれ続ける登場人物のひとりにすぎないからだ。


すごく科学的な話

人間はトポロジー的には「管」である、みたいなことをドヤァ的に語っているアカウントを定期的にみるのだけれど、さて、どうかな、もうちょっと複雑なのではないかな。

触手でもいいしミクロの探査船でもいいのだけれど、人体の表面からずっとなぞっていったとき、クチの中から食道、胃、十二指腸、小腸、大腸と這っていって肛門から出ることができるので、つまり消化管の粘膜は「外表面」ということができる。ほかにも人体の中にもぐりこんだ「外表面」はいっぱいあって、それは鼻から入っていって気道を通って肺胞まで行ってもいいし、耳の穴から入っていってもよい。尿道から入っていって膀胱を辿って尿管を上行して腎盂粘膜までたどり着いて、そこから尿細管をどんどん遡っていくのもオツなものだ。

ここまではいい。ただ、じつは男女でひとつだけ違いがある。男性の場合はどの穴から入っても「腹腔」(臓器が入っているお腹の中のスペース)にたどり着く方法はない。しかし女性は別で、膣から入って子宮頚部をさかのぼって子宮内膜から両側の卵管をたどると、最終的には卵巣の手前で卵管采が腹腔内に開口するのだ。つまり、女性の場合、「お腹の中にも外から直接たどり着くことが理屈上はできる」のである。実際には途中に粘液の壁があって、ビックバイパーが泡面をばちばちに撃ちまくって突破していくかのうように粘液を突き破っていかないとそう簡単には腹腔内までたどり着けはしないのだけれど、少なくとも、「男性の腹腔は完全な閉鎖腔」だが「女性の腹腔はわずかに外と交通する手段がある」ことは事実である。つまり男性は「管の壁の中に腹腔という隠しスペースがある」のだが女性はそうではないのであった。つまり男性と女性では微妙に管の複雑さが異なるということになる。

では人体の中に完全な閉鎖腔はないのか、というと、一般にはあると考えられていて、それは血管内と髄腔内である。血管に穴が空いていたら出血して死ぬだろうからそれはそうだろう、と私も長年考えていた。でもよくよく考えると、腹腔内を循環している微弱なリンパ液が腹膜表面のリンパ管から吸収されて静脈に帰っていく経路がある。ここを使えば女性の場合は体外からがんばって血管内にアプローチすることが可能は可能だと思う。くりかえすが途中には子宮頸部の粘液があるし、卵管内だって線毛によるベルトコンベア的メカニズムが働いているので、そう簡単に腹腔にはたどり着けないけれどそういった障害をミクロの根性(?)で乗り切っていけば、膣から虚仮の一念で血管内に侵入することも夢ではないだろう。

では髄腔はどうだろう。髄液は最終的には上矢状洞付近のくも膜顆粒から吸収され、静脈に合流するはずであり、静脈を逆走すれば髄腔内にも入り込むことはできる。

女性の場合はもはや「どことも交通していない腔」というのを探すのは困難である。一方で男性の場合は、腹腔と外界との交通がどこにもないので、腹腔も、胸腔も、血管腔も、髄液腔にも外部から直接たどり着くことはできない。パイプやちくわを変形させていけば女性の体は作れるが男性の体は作れない。

男性の胸に使いもしない乳首があることをもって「人間の体は女性がベース」と考えるのはかなり有名だけれど、神様がいたとして、その神様はきっとチクワ的なものからまずは女性を先に作った。それを神的にいじりまくっているうちに、一部の穴とか精神とかがふさがって、いっけねと思っていろいろ抑えたり引っ張ったりしているうちになんとか男性ができた。ただまあ言ってみれば男性はアレンジ版というか2P色というか、二次創作というか公式同人なので、いろいろと不具合があって、女性より長生きできないし、いくつになっても基本的にバカである。

おかか

日中どんな感じで働いてますか、と聞かれて、即座に「トイレをがまんしながらですね」と答えたら救急医っぽくていいかなと思ったけれど、今の私の年齢と立場でそれをやるとパワハラでもモラハラでもセクハラでもイチハラでもありえるのでやらないほうがいいと判断。尿管結石になりますよとか訳知り顔でつっこまれても腹が立つ。でもこういう話題のときに「すぐ下ネタに流れるんだから~」みたいなことを言う人間の、「下ネタ」という概念の粒度が粗すぎることにはうっすら嫌気がわいてくる。嫌気が差すタイプの菌を嫌気性菌といいます。働いている間ずっと集中していて、その集中をとぎれさせるのが基本的には尿意もしくは便意なので、ふりかえってみると一日の中で記憶に残っているシーンがトイレをがまんしている部分なんですよね。☆細かく説明すればしただけむなしくなる話というのも世の中にはあると知った―――。もうちょっとちゃんと答えてくださいよ、ていうか、それで病理医としての矜持が伝わりますか? いや伝えなくていいだろそんなもの。しかしこういう仕事をしていると、たまに「病理医としての矜持をお教えください」みたいな依頼がくることもある。まあ、そうだな、他人を物語ろうとしたら、「プライドで化粧したペルソナ」という視点で話題を組んでいくというのも、ときには必要なのだろう。


優秀な人というのは世の中にはたくさんいる。とても優秀でちやほやされているタイプの人が、学会や研究会が終わったあとの懇親会で、列席者からあまりにほめられすぎて、かえって居心地が悪くなってしまったのだろうか、急に横にいた私に話をふって、「や、でも、私はこの市原先生ほど上手にしゃべれませんし」という流れの謙遜をすることがある。その瞬間、たしかにこの人はしゃべりでやらかしているなあと、妙に納得するし、申し訳ないがなんだその程度の思考の深度で人のほめられに晒されていたのかとがっかりもするし可哀想にも思う。思考や業績は一流だけど人前でのふるまいはまだまだ、というよそ行きの自意識のねっこには、自己評価が周囲との評価と釣り合わなかった時期に、「俺の脳がすべて表現できればお前らはみんな俺を尊敬するはずなのに」と、かつて自室で煩悶を爆発させていた時代の、ほつれてくたびれた部屋着の自意識が顔を出している。ちょっと人からちやほやされた程度で存在の属性にかかわる脆弱性を簡単に露出してしまっていて、中学の学校指定ジャージ並みに防御に不向きだ。膝のところはテカっておりシルエットはやぼったく、チャックは硬くて布が妙に分厚く洗って干しても乾燥に時間がかかる。ふと思い出したが「ぬののふく」はぼうぐではないけれど「かわのよろい」はなかなかのぼうぐだなと思う。剣道なんてまさに「かわのよろい」で身を守る武道だからな。


どうやったらそんなにポンポンしゃべれるんですか、と聞かれて、こんな半分揶揄みたいな質問をする失礼な人に真顔で向き合ってもしょうがないんだけど、どんな人にも嫌われるとめんどくさいしどこから刃物が飛んでくるかわかったものでもないので真剣に考える。口から飛び出す言葉というのはカツブシをカンナで削ったときにふわふわ舞い散る断片化した削り節のようなものだ。カンナの刃を紙一枚、高さを揃えてきれいに出して、そこにカツブシの頭部の部分から一定の方向、一定の向きでリズミカルに削ってはじめてきれいな削り節ができる。このときカツブシが乾燥しすぎているとうまく削れず粉になる。もととなったカツオの大きさや価格はじつはさほど味に関係するものでもない。乾式発酵のプロセスの成否にかかわるファクターは膨大な経験知と職人のフィーリングによるところが大きく極めて複雑だ。本枯節のいいやつだとご飯に乗せるだけでもしみじみうまいが、廉価なバッグのものだからといって味が劣るというのでもない。ひとつ言えるのは、カツブシの削り節というものはそもそも、カツオがありそれを干したものがなければ、カンナだけあっても絶対にできない、そして、ご飯の前に削ってもあらかじめ削って保存しておいてもいいが、「カンナでカツブシを削る」という行為自体が、楽しい食事の時間になり得るということ。

西部で買い物はしない

ラボにおける教授とその「右腕」のはたらきかたを、むかしの商売における主人と番頭になぞらえて、しばらくここにいろいろ書きつけていたのだが、だんだんリアルすぎる話題になってしまって、消した。爪でも切って落ち着こう。「丁稚→手代の経験がない人間が番頭をやってもだめだし、ひとつの店でしか丁稚をやったことのない手代は使い物にならない」みたいなことを書いているうちにだんだん冗談にならなくなってきたのである。なぞらえればいいというものではない、例え話を使えば避けられる類の話でもない。

なにかを語るならばいちいちぼかしてばかりいないでまっすぐ書けばいい。あるがままを丁寧に描写するだけでも人は勝手にその裏側を見たいと思って回り込んだり、その奥底を知りたいと思って考え込んだりするものである。なのに私は「誰かに何かを考えてほしい」と望むときにすぐ例え話に逃げてしまう。悪い癖だ。



日ハムがソフトバンクに全く勝てない。今シーズンは特にひどいが昨シーズンもその前も、基本的にソフトバンクにだけは勝てていないよう。格ゲーでいうところのブランカはE・本田にはダイアグラム的になかなか勝てない、みたいな話で、その背景に理屈があるかというと、もちろん理屈はいろいろあるのだろうけれど、野球というスポーツを解析重視で楽しむつもりもないのでどちらかというと、ポケモンのほのおタイプはこおりタイプにはよく効くけどみずタイプにはあまり効かない、的に、それはもうそういうもので、田尻智が最初にそう決めたからそうなったという世界の理は動かしようがないとあきらめるしかない。このあきらめは北海道の人間にとってはそろそろ慢性化しつつあり、何かのきっかけで一気に爆発するというか、あるいは潮が引くように冷めていくというか、どのような物理現象が起こるかはなってみないとわからないが、とにかくソフトバンクに勝てなくてソフトバンク戦がつまらないからテレビも見なくなるという日はすぐそこまで迫っている。ソフトバンク戦のときだけ内野スタンドがガラガラになるとかエスコンの入場料が1500円引きになる(入場券に至ってはワンコイン以下になる)とかソフトバンクの契約者が北海道北広島市では0人になるといった話も結してありえないことではない。私自身、白状すると、携帯電話にかけたときに向こうからプププッと音がするとなんだソフトバンクユーザーか、なら敵だな、と感じて電話をやめてしまったことが1回ある。1回だけだがその1回で私は今なにをしているんだろうと呆然としたのでよく覚えている。嘘でもなんでもない。私たちはそれくらい、ソフトバンクという野球チームに対する恐怖と忌避が植え付けられつつあり、野球チームだけではなくそのサポーターである会社とそこの商品のユーザーにもうっすらとした嫌悪感が生まれている。「うっすらとした嫌悪感」なんてものはスイカの塩みたいなもので愛情を増強するスパイスみたいなもんだよね、と、周りの人には説明しており、話術的なもので当座の笑いをとってごまかているけれど、わりと本気でソフトバンク製品は北海道では売れなくなっているんじゃないかなという妄想が止まらないし私のような考えの人は決して少数ではないと思う。



例え話をせずに具体的な話をはじめたら妙に怖いことを書いてしまった。人間たるもの、ぼかして語ったほうが安全である。それはたとえば、24色入りのクレヨンというものを、買って数年使ってみて、その中でいちばん使わない色というのがどうしても出てくるわけだが、その色に相当するのが職場における自分の姿だとしたときに、その色を「なるべく使うようにしむける」べきか、もしくは「24色あるということに価値があるのであって、その中のクレヨンのすべてを使う必要はまったくないし、むしろすべてを使うと描きあがる絵が汚くなる」みたいな話にするべきか、みたいな話を延々とブログに書いていくということだ。それはそれで怖い。