Wiiはハードオフで売ってしまった

無為の奥山を明日越える。けふはあさきゆめのなかにいた。スタートアップ科研費の前段として民間の財団の助成金を申請するための書類を書いている。正直、この程度のものにみんなヒイヒイ言っているのかと拍子抜けする思いはある。もちろんほかにもやることがいっぱいある中で書かなければいけないので時間はぜんぜんない、しかし、こんな、「書けばあとは査読次第」みたいな書類になぜそんなにみんなエフォートをとられているのかまだよくわからない。自分がラボの責任者になって、人を雇うために朝から晩まで必死になって研究費の書類を書きまくる、ビッグラボのPIだとか教授だとかならまだわかるのだが、ただ自分の業績に色を付ける程度の目標で研究費をとっただのとらないだの、その書類がめんどくさいだの、ほんとうに、多くの人は事務作業が苦手なのだなと思うし、私はそういう人たちがちっとも苦手にしていない社会性とか協調性とかコミュニケーションといったものがぜんぜんできないぶん、かわりにこういう事務仕事が苦にならないので、結局トータルとしてはみんな普通の人間だし私も普通の人間だなと感じる。


デザインが派手でちょっと趣味が悪いワイシャツを水曜日や木曜日くらいに着る。オンラインの会だとちょっと派手なくらいでちょうどいいのだけれど、オンサイトの会でこれを着るといかにもワイシャツのたたき売りみたいな場所で適当に買った見切り品だなという感じがあってはずかしい。リアルイベントはたいてい週末なのでそこにあまりこういうタイプのワイシャツを着ていかないように、ローテ的に週の真ん中でなるべくへんなシャツを着るようにしている。捨てろよ、という感想でもあるが、ちかごろ、ワイシャツも高いのだ。平気で4500円とか5500円とかする。そこまでのものかよ、と思う。思うが、この値上げの分で、ワイシャツの製造にかかわったたくさんの人の時給が1円くらいずつ上がるのだろうな、ということも思う。ならば私はこれからも若干攻めたストライプのシャツを買ってオンラインで人と会うような日に積極的に着ていかなければならないだろう。その時給のあがる人々というのが果たして日本国内にどれだけいるのかはわからないが、ベトナムであったとしてもインドネシアであったとしても、誰かが少し幸せになるならいいだろう。なんとなく、そういうところにこの値上げ分は届かないような予感がしっかりあるけれども、いや、届く、と信じることくらいしか末端の買い手である私にはできない。


母から昨年もらった無印良品のフリーズドライの味噌汁・スープのたぐいを少しずつ飲んでいる。夜は自分で汁物を作るのであまり使わないのだが朝飯といっしょにお湯を注いで豚汁だとかつくねと生姜のなんちゃらだとかテールスープだとかを喫するのは悪くない週間だ。それほど安いものでもないので普段だと手に取らないけれど、めちゃくちゃ高いというわけでもないので親からもらうとすごくほどよくうれしい。自分もいずれ息子にこういうものをたまに送りつければよいのだな、ということを学ぶ。金というものは別種の価値にトランスフォームしてなんぼだと、小学生もしくは奨学生なみの感性で今も私は考えているけれど、金を使って金を増やしたり、金を溜めて価値をためたと感じたりする人々がインターネットにはたくさんいて、そういう人たちは果たして私の金の使い方をどう見ているのだろうなということをたまに気にする、それは、憂いか、いや、憂いくない。別に憂いくない。

そういう異常

学会の年会費を払う。12000円。まあこんなものかなと思う。特にこの学会からは何もよいことはされていないのだけれど、たまに発表することがあって、そのショバ代として上納している。そういう金はたくさん回っている。たいていは、学会の、あまり熱心ではない事務員とか、熱心でやさしい事務員などの時給になって、社会に還元されていく。自分で稼いだ金ではあるが、それも、よく考えると、たくさんの人が整備した環境の中で獲得した給料であることにかわりはなく、自分だけで稼いだ額面なんてきっと給料の3割にも満たないのだ、しかしそのことを私は普段あまり意識せずに暮らしていて、ああ、今月も自分ひとりの力でこんだけ稼いだなあと悦に入ったりしているわけだけれどとんでもないことで、だから、社会から預かった金というのはそこで留めることなくきちんと社会に循環させていかなければ人倫に悖る。先日、すでに紙で買い揃えているマンガをKindleで書い直した。これを「無駄な出費」ととらえるのは簡単だが、「末梢の循環が良好」ととらえるべきである。金銭を送受する毛細血管の抵抗が少なければそれだけ金銭を循環させるポンプにも負担はかかりにくいし金銭から価値を削ぎ落とす腎臓にも金銭から毒を抜き取る肝臓にもよい。学会の年会費は、いま、あわせていくら払っているのだろう、計算すればすぐわかることなのだが、こういうのは計算ばかりしていてもメンタルにとっていいことはあまりない。


スーツを買いたい気もするのだが、親しい人たちからこぞって、「今ので十分だよ、そんな細かいところ誰も見てないよ」と止められる。なるほど一理あるなと思って買うのをやめる。このスーツを買わなかったお金を、ほかにどういう用途に使えるかというと、おそらくそのまま別にスライドできるというわけでもなく、いったん頭の中で固まりかけた5万とか8万とかいう額は、数日くらいかけて風化して、移動中のおにぎり代の400円とか、学会のランチョンをスキップしたときの麻婆豆腐代の1280円とか、ポロポロと表面から剥がれ落ちるようになくなっていって、3か月もすると、高揚感も達成感もなしにいつのまにか手元からなくなっている。そのなくなった場所には次の収入と支出のリストが次々とcsv.ファイルで流れ込んできて、結局私は何を買った気にも何を稼いだ気にもならないまま、本来は得られるはずであった抑揚を失う。この、一連の、「抑揚を失う」ことこそは、買おうと思ったものを買わないことの最大のリスクなのではないかと思う。このような言い方をすると、往々にして人は、抑揚ばかり求めるギャンブル依存的逸脱のことをやたらと心配するけれど、凪いだまま暮らせと命じつつ、人としての凹凸や輪郭を発揮せよと期待する社会の二面性に、あまりまともに取り合ってもいいことはない。私は決して、スリルがほしいわけではない。循環する手稲プールに浮き輪で流されながら景色が変わっていくのを楽しみ日差しをぽかぽかと感じる、ただそのような生き甲斐を、そこそこの節制とエイヤの発散とを織り交ぜながらほどよく生活に組み込んでいきたいと願うこと、それを、他者がとどめることに対して、どこか釈然としないものがある。とはいえ結局スーツは買わないのだ。2台めのNintendo Switch 2を買おうと思ったがそれも止められた。それはなんかまあそうだなと私も納得した。


現在のポジション的に若手のバイト先・収入源のことをわりと毎日考える必要がある。外勤日の上限、外勤先での負担、やりたいこと、やりたくないこと、金額、回数、移動距離、業務とのかねあい、本人の成長のための機会、本人の成長のための投資、そういったものを3か月くらいおきに微調整しながら、かつ、いったん安定した振り分けができてもそこで安心せずに、「年次があがるごとに少しずつ額面も増えるような体制をいつでも見据えておくこと」などを考えて、さまざまな病院・医療機関と交渉をする。たとえばとある研究関連の出張を、私が行くのではなく若手に行ってもらおうと考えるとき、日程の候補の中に定例の外勤が組み込まれていた場合には、「外勤を一日中止して出張に行ってもらう」という選択肢はもってのほかである。それは本人が生涯に得られる収入を少し削るということにほかならないからである。その共同研究によって本人が将来どれだけ恩恵を受けるかなどとは関係なしに、金額という一側面だけで、その日程は候補から外れる。調整者としてそういったことを毎日考えているが、自分の出張に関しては平気で、「この病院にごめんなさいして一日おやすみにして、自腹でこの研究会に行ってこよう」みたいなことをやっている。外勤のバイト代が◯万円もらえなくて、研究会(日帰り)の往復航空券が◯万円かかって、参加費、食費、職場を不在にした分の仕事をあとでやるしわよせ、そういったものを、自分が自分に課す分にはなんのストレスもなく一気にやれてしまう。耳垢がごっそりとれたときのような。摩擦係数を超えたずり応力に伴う微弱な振動が心根を適度にマッサージしているかのような。そんな快感がある。なんらかの逸脱ではあるのだろう。しかし、やめられない。

ワーイフクバスランラ

土日も含めて働いているけれど、以前ほどずっと働き詰めだという感覚がない。ようやく仕事には慣れてきたけれど右往左往している時間が多く、いわゆる「名前のつかない仕事」ばかりしているというのも、あるいは自分が「あまり働いてないなあ」と感じやすい一因だろうが、それよりも大きいのは、毎日帰宅してから料理をしていることだ。料理のタイミングでかなりリセットされている。

職場のデスクのPCを落としてから寝るまでだいたい2時間半。この2時間半。まず部屋の暖房を付ける。少し暖かくなるまでクイックルワイパーなどを軽くかける。脱衣所も含めて人が死ぬ気温を脱したタイミングでシャワーを浴びる。あがってから料理をはじめる。作って食って食器を洗うまでおよそ1時間だ。ここんとこずっと、冷凍しておいた米、焼いた魚もしくは肉、キャベツもしくは白菜を使った温野菜的なにか、そして大きめの椀に入れた汁物、という陳腐なセットをずっと作り続けている。調理の大多数はレンジを使い、たまにフライパンなどを用いる。15分で作れたら理想なのだがまだ手がそこまでくるくる回らないのでなんとなく25分くらいかかっている。そして10分くらいで食う。洗い物をする。この間に髪の毛がまあまあ乾く。洗濯をする日は料理をはじめるときに洗濯機のスイッチを入れると食べ終わって食器を洗っているあたりでだいたい終わっているのでちょうどいい、干す。洗い物がなければちょっとラッキーな日だなと感じる。その後、お茶を入れる。やすいほうじ茶。洋風の急須でちょっと多めに作る、マグカップで1.5杯分くらいのお茶が入る、それをゆっくり飲みながら、夜更けのテレビを見たり、スマホでRTA in Japanの過去動画や米粒写経の談話室などを見たり、Podcastを聴きながらAmazonでマンガの新刊を探したりしているうちに、意識が朦朧としてくるので、髪が乾いていれば寝るし、乾いていなければ乾かして寝る。これでだいたい2時間半である。平日、酒は一切飲まない。ここで酒を飲むと2時間半のリセットが体感として1時間半くらいに短くなってしまう。それはやっぱりもったいないと思う。

私はこの2時間半と、睡眠7時間、起床してからの1時間半、あわせて11時間、仕事から身を離している。これだけ離れていると、さほど「働き詰め」という感じはしない。私にはいまや、仕事以外の人生が半分弱もある。それは豊かなことだなと思う。ただこれらの時間ではなかなか本が読めない。読むのはもっぱら電車や飛行機での移動中だ。出張がなくなると本も読めなくなるだろう。





前の職場のメールアドレス、北海道厚生連から支給されたものは、職場内部でなければ送受信ができないし、職員IDを失った時点でもうワークしていない。完全に死んだアカウントだ。このアドレスの受診トレイを、メールソフトの左側のカラムにまだ残している。当然メールはこない。でも、未だに、目が行く。このことを利用して、「今週は対応しなくていい案件」のメールをいったんこの受診トレイに移動する。

今週対応する必要があるWeb会議、返事を送らなければいけないメールなどは、使用頻度の一番高い、現行の大学アドレスの受診トレイの中に入れておく。対応が終わった順番から、細分類フォルダの中に次々ぶちこんでいく。こないだ数えたら1000を超えていた。病院ごと、学会ごと、イベントごとにフォルダをわけている。

で、まあ、こうやって書いても、現物を見ないとよくわからないだろうが、まあいい。私がわかればいい。一番上の、アクティブな受診トレイに、[3]と書いてある。対応案件が今、3つあるということである。今週中にこの3つをなんとかする。次の、北海道厚生連の受診トレイには[5]とある。つまり来週以降に出席するウェブ会議などが5つある……ということなのだがそのうち1つは私が私に送ったメールだ。タイトルは「温泉旅行」。だいぶ先になるけれど、どこかのタイミングで温泉にでも行きたい、でも、今のペースでえっちらおっちら、毎日交互に足を出すような感じで働いていると、私はいつの間にか何もかも通り過ぎて誰もいない道をひとり歩いてしまう、だからこうして、「タスクリスト」の中に温泉であるとか、旅行であるとか、正月であるとか、そういったことを自分でリマインド代わりに格納しておくのだ。Gmailから自分にメールを出し、それを自分で受け取って、上から2番目のフォルダに入れておく、そうすれば私は毎日仕事場で、このタスクリストの上から2番目に目をやって、そうそう、温泉でも探さないとな、という気持ちになるわけである。


意味からはじまらないのに伝わるもの

エルヴェ・ギベールというフランスの作家の、エッセーになるのだろうか、『ぼくの命を救ってくれなかった友へ』を読んでいる。唐突に出てくる固有名詞、ミシェル・フーコー、50年近く前のフランスや世界の医療の状況などについて、単行本裏表紙の解説、さらにはWikipediaなどを見ないと、文章だけではあまりよくわからないのだが、それはべつにこのような本に特有の現象ではなく、たとえばファンタジー風RPGの文脈をもたずに『ダンジョン飯』を読むとあきらかに説明不足と感じられるのと同じで、その時代、その文化、その背景、その文脈を共有できていない人間は、独白にも物語にも入っていけないものだ。人間というのは、閉鎖された共同体のドアを無理やりこじ開けようとする欲望を持っている。しかし、このドアは、おそらく、私には開けられないタイプのものだ。それでもなぜか読み進めている。ふしぎな本である。


かつて、ロブ=グリエ『迷路のなかで』を平岡篤頼と縁のあるサンキュータツオさんから教えてもらって読んだとき、単語の意味はわかるのだが総体としての意味はわからない文体に、なんだか哲学のような本だなと、最初は雑に思っていたのだけれど、読み進めていくうちに、意味はわからないままなのだが自分の周りにすこしずつ、粒度の粗い霧のような、浮いている霰のような、作品の持つ雰囲気が漂い蓄積をしはじめるような感覚があった。それは、文字や単語が順列となって意味をつくりだしていく日常のコミュニケーションベースの言葉とは違うもので、つながりとか連携ということを介さずに、顆粒のような文字がスープの中に染み込んで総体としてなんらかの味わいになっていくのである。その味をただ飲み込んで胃の粘膜下層あたりで温度を知覚し、有機体が有機体と拡散によって混在するときの流圧のようなもの、それが気管とか横隔膜とかを妙におしつけて「体感」となっていく、なるほど、そういう文学体験があるのだなと、私はそこで確実に驚いて、言葉というもののむずかしさに絶句した。私はロブ=グリエのことも、平岡篤頼のことも、なにもわからないままに読んだ、つまりそれは、国産の西洋系ファンタジーが50年かけて語ってきたエルフに関する文脈を一切もたない非・オタクが葬送のフリーレンを読むようなものだった。そのような状態での『迷路のなかで』の読書は、意味とか、いわゆる「スジ」と呼ばれるようなものを私に与えはせず、しかし、舌圧子で口腔内をおさえられたときのような「押される感じ」を私に与えた。


エルヴェ・ギベールの読書はそのときのことを私に思い出させる。それはもしかすると単に、フランス語圏の文学を翻訳されたものの文体に共通するクセを雑に探っているだけの話なのかもしれないけれど、どうも、私は、思索の「索」というつながりの部分を切断されても人間の思いはなにか別のものをすくい取ることがあるのではないかということが気になりはじめている。かつて、そこを言語化できないままに考え始めるきっかけとなったロブ=グリエの著作と、『ぼくの命を救ってくれなかった君へ』とが、共鳴したり干渉したりしながら私の幼稚な読書を、そして生をゆさぶっている。それは今の私が、「うまく意味に落とし込めないところからはじまり、そこから結局意味までたどり着くことがないのに、なにか終わりを見せようともしている塊状のもの」に、興味を惹かれているということを意味する。

枠の交渉がいる

「人集め」が当座のタスクとなりそうだ。うちにくればいろいろ楽しいことができるよ、めんどくさい仕事は私が代わりにやるからさ、という触れ込みで、私たちのやっているめんどくさい仕事の一部を分担してもらう戦力を探す。建前の伽藍で方便のシュプレヒコールみたいなことになっている。そんなことで人が来てくれるだろうか。

「めんどくさい仕事を私が代わりにやる」に嘘はない。しかし、実際には「私の代わりにやってもらいたいこともある」ので、ちゃんと話すとだんだんうさんくさくなってくる。いや、まあ、就職というのはそういうものだ。お互いがお互いの得意なもので勝負できれば、それでみんながほどよく貢献できれば、それが一番いいことだろう。ただ、これもひとつの綺麗事である。あまねく人類が共通して得意なこと(例:ストレスなくチヤホヤされること)がある一方で、ほぼすべての生命体が苦手なこと(例:確定申告)もある以上、分担というのはニコニコだけで乗り切ることはできない。お互いにうまく融通し合う、なんていうのはひとつの幻想だ。誰もがやりたがらない仕事が全員から等間隔の場所に積み上がっているシーンは、どんな職場にも必ず存在する。スクラムを組んだって足元にスペースは生まれる。どうしたって、誰かが、えいやっとしんどい思いをしてその隙間を埋めに行かなければいけない。

そういうめんどくさい仕事の多くは、私がいれば、私が担当する。でも、私が毎日いるわけではないし、私だけではさばききれない仕事を手伝ってもらうことも出てくる。

こういうことを粉飾なしに語ると、仕事を探している人間は、たいてい引く。でも、普遍的なことである。



「なぜ俺がこんなことをしなければならないのか系の雑務」というのが世の中にはたくさんある。うちの職場の場合、そういうのは私がやるし、私はわりとそういうのが得意だ。そして、私と一緒に働いている人間は、ああなるほど、そうやってうまく感情を使わずにやっていけばいいのだな、と、学ぶこともあるだろう。あると思う。わからない。ぜんぜん通じていないかもしれない。すべての人がそういう雑務のこなし方を学ばなくてもいいだろう。それは得意な人がやればいい。

問題は、「自分でやらないと成長できないと言われてしまうタイプの事務」のほうだ。ここではドラクエが比喩になる。仕事を「敵」ととらえた場合、倒したときに得られるものはゴールドとEXだ。このEX集めのほうがメインになるシーンは必ずある。ダーマくらいでいったんレベル上げしないとだめだな、ってなってメタルスライムを狩りに行った記憶を思い出せばいい。そういう敵……仕事を私が代わりにやってしまうというのは正直よくないと思う。ただ、これを、「ゴールドの効率が悪いからやりたくない」というタイプの冒険者がけっこう多いなという印象がある。

医者の場合、専門医をとればそういう「素材集め」とか「収集タスク」からは卒業できると思っている人間が一定数いる。それが間違いだとは言わないがちょっと見通しが甘いと思う。レベル20になれば一人前、うん、それはダーマで転職できるという意味ではそうだけれど、えっ、まだカギもぜんぜん集まってないしオーブだってこれからなのに、いいの? いいという人は確かにいる。でもそれってドラクエIIIやってる楽しさの10%にも届いていないと思うんだけどな。



ところで最初に書いた「うちにくれば楽しいことができる」というのも、保証というわけではなく希望でしかないし、ほかでもない私が楽しいと思っているだけで他人からみたらそうでもないということも十分にあり得るので、じつはここも、若干誇大なコピーである。合う・合わない問題。響く・響かない問題。進路を決めるというのはどのみちそういう話だ。事前の触れ込み通りに快適な生活を100%送れる勤め先、なんてものは世の中には存在しない。たくさんの不確定要素があって、それらのどれかは人によっては許容可能で、またどれかは人によっては絶対に共存できないNG項目であったりする。ああ、人集めか、難しいな。春からは当科の専攻医が3名になる、これはほんとうにありがたいことで、全国の病理部からすると「そんなにいるのかよ」と驚かれるレベルだ。「人集めが難しい」なんてよく言えたものだなとおしかりを受けるレベルだ。でも私はもっとたくさんのことをやりたくてここに来たのだ。札幌厚生病院でできることは一通りやってきた。それをまっすぐ延長、するだけではなく、横方向に伸ばしたり接ぎ木したりして、立体的にぼこぼこ広げていきたい、そのためには、私と似たようなことを考えてくれる人を、あと2800名くらい雇えたらベターだなと考えている。