どうしてそんなに

共著者からものすごいスピードで査読対応の返事が返ってきた。まったく隙のない原稿がこのスピードで戻ってくるから間違いなくAIによるものだ。まったく悪いことではない。そしてこの世界とてもつまらなくなったなと感じる。

先日、職場の見学にいらっしゃったある方は、病理診断の毎日を充実という言葉を用いて語った。その一方で、いつか、この仕事を続けているといつの日にか、飽きてしまうのではないか、ということを遠回しに語っておられた。

私はそれを聞いて胸が詰まるような気がした。

藤子・F・不二雄に『老年期の終わり』という話がある。科学の進歩、世界の拡充が進んでいくうちに、人類は未知なるものに対する興味や感心を失っていく。低体温、低代謝となった社会はまるで老いのようで、それを絶望の方向にぶち抜いて進んでいくラストシーンは、今も心に残っている。

見学者の方が車越しに語っていた目線は、なぜかあのマンガの、ラストで老人が座り込んでいるほうの星を向いているような気がしてならなかった。

私たちは少しずつ進歩の先、未来に薄暗いなにかをみるようになってきている。その不安のようなものは、私の年代よりも、より下の代でおそらく強いのだろうなということを、私はしみじみと実感した。そして、なにか、そこに、気休めでもよいので熱量のようなものを与えられないものだろうかと、ずっと考えている。まあ、そううまくはいかないのだが


夜中になっても帰る気がしない。フル課金したAIが施行を続ける間、私は適切な文献を引用もできず構造化したインデックスも設けられない思考を続ける。


買った魚の賞味期限が今日切れる。冷凍をする。これで長持ちする。そう信じてまだ考えている。



北大で教養の学生むけに講義をした。マンガから読み解く医療、医学、みたいな話。クラインマンの3セクター理論と、「医療の六面体」の話を入れつつフラジャイルの宣伝をする、という授業である。評判はよい。終わったあと、どっと疲れる。いろいろ考える。私はなぜ今このような仕事をしているのだろうということをけっこう考える。将来がうすらぼんやりと暗く感じているかというと、なぜか私は、そうでもない。私がそこまで未来を悲観していないのはなぜなのだろう。新しい環境で働いて刺激がいっぱいあるからか。そういう感じでは、必ずしも、ない。


むかしの人は未来に希望をみていた、という。腕時計型のコンピュータ、そらとぶ車、そういうSF的な未来予想図を、ちかごろの民衆は持っていない、という。それはそうだ。これだけたくさんの科学技術に囲まれた今を生きている私たちが、これよりもさらにすごい未来の科学を思い浮かべるためには、必要な「サイエンティフィックな思考」のレベルが昔よりもはるかに膨大になっている。要は、サイエンティストくらいしか夢みたいな未来を夢想できなくなっている。SFは庶民の手を離れた。……という、説。

それが本当なのだとしたらずいぶんとつまらない話だ。専門的でなければ夢もみられないなんてひどい。

でも私はこのことを、じつはちょっと前からすごく考えている。だから、がんばって、専門的でいようとしているのかもしれない。ずいぶんと我欲にみちた研究の毎日である。

クレアボヤンスもドラえもんで知った

「あまりに仕事ばっかりだと話がつまんなくなるよ」と言われてまあそうだなと思う。トム・クルーズの出演する最新映画「Digger」を見に行きたい、アメリカで大コケしたという話だが米粒写経の映画談話室で語られているのをみるとおもしろそうだなと思う、あんまりヒットしなくてさっさと映画館から撤退しそうだから早めに行かないと。でもカレンダーを見ても映画館まで行って見て帰る合計4時間程度を捻出できそうな日がなくて落ち込む。先日買ったリズム天国は1面のリミックスまでしかやれていない。ゴエモンセレクションに至ってはマッギネスだけ1日やってあとは放置となってしまった。私はつまらなくなっている。まあこれらを全部やったところで映画の感想とゲームの話しか出てこないのでどちらにせよつまらないのだが。車の点検を催促するメールがじゃんじゃんくる。「じゃんじゃん電話!」のときのドラミちゃんの顔を思い出す。あのシーンがわかる人は私の同年代にはたくさんいると思うのだけれどそうでもないのだろうか。そうでもないのだろうな。話の通じない世の中はつまらない。

共同研究者のすごい人(ほぼ同い年)は今年のグラントの打率が3/6だと言っていた。去年は1/5だったのでうまくいっている、との談。確かにすごい割合で見事だなと思うが、驚くべきはそこじゃなくて、額面だ。分担まで含めた獲得金額はおそらく今年だけで期間通算20億以上。ひくほどすごいが、アメリカにいる大須賀先生(同い年)もそういう感じなので、世界的な研究者というのはみんなこのレベルで着実に研究費を取りまくっていて、決してフィクションの世界とか遠い世界の神話などではなくて現実なのだと感じる。金があればなんでもできるかというとわりとなんでもできるし、金がなければなにもできないのかというと実際なにもできない。研究費についてはとっていない人間よりもとった人間のほうがしっかりと偉い(この偉いというのはヨシヨシ偉い偉いナデナデという感じの偉さ)。逆に、気持ちは研究をしたいが研究費がとれないからストップしているという研究者は大学にも研究所にもたくさんいて、そういう人たちが「金はなくても気持ちでなんとかやります」と言って研究ができるかというと、できない。気持ちがあるなら努力して研究費をとる、それ以外のやり方はないんじゃないかなと思う。だから毎日研究費のことを考えている。自然と脳内はKawazanyou 6.1 ウルトラになる。つまらないだけでなく、偏っていく。偏った上でつまらないというのは方向性を間違えた芸人のようなものだ。最低だということだ。これだけなにもかも犠牲にしてまだ論文のFigureひとつも作っていないのは悲しいことである。

旭川の家は狭いがそれ以上にものを置いていない。テレビは30代のときに一人暮らしの部屋で買った14インチくらいの小さなものしかなくて、食卓から見下ろすと番組表の文字はおろかバラエティ番組の字幕もぎりぎりみえるかみえないかといったところだ。テレビのある暮らしが好きなのだが近頃はなにも見ていない。たまに札幌でテレビをみると相変わらずおもしろい、それは民放の町ブラロケだろうがマツコ・デラックスと有吉弘行がただしゃべっているだけの番組だろうがどれもいいのだが、旭川の家でじっと見ているとコンテンツが頭蓋骨を越えて入ってきてくれないように感じる。「あまりに仕事ばかりだと話がつまんなくなるよ」というのはこういう意味でもあるのかと今さらだが感じる。どうでもいいけれど私はこのブログで「感じる」とか「思う」とか「考える」をとても高頻度で使うのだけれど、最近、すぐ「ぼんやり考えている」と入力してしまい、また同じようなことを書いたなと思って消す機会がとても多い。実際ぼんやりしているのだろう。最初にぼんやりというオノマトペを開発した人のことを思う。ぼやぼや、ぼうっと、ほんのり、そのあたりとの連動性が感じられるが、「ぼんやり」の秀逸なところは「り」の発音ひとつで状態性をにじませているところと、「んにつながるぼ」のところの口の動きがまさにぼんやりしている人間のゲシュタルトそのものであるところだなとうっすら思う。

真剣に遊ぶべき

寝ても起きても次の仕事のことを考えており回廊の中にいる感覚。出勤してさあ! すぐにPCを開いて昨日の仕事の続き! となるのは調子がいいときで、たとえば今日みたいな日はしばし呆然としてしまう。そういうときにどうするか。答え:始業時間になったら診断しようと思っていた、昨日の夜に専攻医が持ってきた下書き済みの病理診断を、デスクに着くなりすぐに始めるのである。毎日クソほど練習しなければいけないサッカー選手が、今日も膨大なトレーニングメニューをこなさなければいけなくて朝ちょっとやる気が出ないんだけど、横からボールがポーンと飛んできておもわずリフティングしてしまい、ポンポコ蹴り続けているうちになんだか頭が目覚めてくる、みたいな感じである。

マッペの中にぎっちり詰まっているプレパラートの右上の一番端っこの、断端部の標本を1枚、顕微鏡にカシャンと置いてLEDの電源を付け、端からスキャンを始めているうちに脳の中にばちばち熱が行き渡っていく。日本語変換ソフトはスリープ中だがフォトフォルダだけは起動した状態だ。違和や差分が視野の中で前景化するモードによって病理診断が半自動的に遂行されていき、昨晩の自分と今朝の自分との違いもまたじわじわと感じられるようになる。

15分も顕微鏡を見ていると、脳の外縁まで血が行き渡ったような感触となる。診断のチェックを終えるころには外眼筋もほぐれている。



『病理トレイル』を書いていたころ、仕事に慣れていくうちに知的作業が少しずつ自動化し、さほど思考を回さなくても反射的に働けるようになった状態を「一人前の医者になった」と勘違いするのはいやだ、ということを念入りに考えていた。救命センターに運ばれてきた患者を前に、「考える前に体が動く」ことに研修医たちはあこがれる。それは患者にとってはすばらしくありがたいことで、仕事の目的にも合っているが、でも私は、自分の仕事が「考えなくても動く体」によって半分自動的にこなされていく日が来るなんてさみしくないのかな、とを思っていた。勉強して、実践して、努力して、反省して、その繰り返しの先で、やってきた仕事に対して「できる限りの出力で考え続けて、いい方向に進めていく」ことができるからこそこの仕事はおもしろいんじゃないのか。それなのに、「今はもう考えなくても体が勝手に動くよ」なんて、それ、患者が治って金が得られる以外にメリットがあんのか。だいたいそういう意味のことを本1冊ぶんくらいをかけて書いた。

今、とうとう、「考えなくても反射で診断ができる状態」を利用して、起動の遅くなった古いPCのような脳を無理やり奮い立たせるようなことをやっている。恥を知るならばこうして知ればいいというお手本のようだ。デスクに座ったら姿勢をこの角度にしてプレパラートをこの位置において、顕微鏡のレンズをこの倍率からはじめて画面の右上から左下に向かって縦・縦とスキャンしながら目が拾った違和の領域にすかさずプロッキーでマークをつければ自動的にマッピングが終わり病変の全貌が見えてくる。やっていることは作業ゲーだ。このマップに入ったらこのコマンドセットをアプライしておけば勝手にEXPとGDと素材が溜まって4時間もすれば最上位の防具が手に入る。まるで一緒だ。私は自分のキャリアを作業ゲーができるところまで重ねてきた。無視できないほどの嫌悪感がありいったんブログを書くことにする。反射で診断する医者は下から二番目だ。まあ一番下ではない、最下位は、反社で診断する医者だ。そこまでではない。でも、その上くらいだ、今の私がたまに、朝、やっていることは。明日からはもう少し朝飯を入念に取ろう。仕事以外の時間を設けることで、仕事に向かい合うときにもっと脳が生きている状態にしよう。仕事ばかりしていると仕事のためにならない。遊ばないで仕事ばっかりしているなんて、そんなことで本当に仕事をする気があるのかね?

クォドエラトデモンストランダム

知らないうちによくわからんウイルスにかかったり微弱なアレルギーになったりしている(んだろう)。うっすらノドが乾く日、どんより頭が重い日、これらの異常をぜんぶ鋭敏に拾っていると、私の毎日はいつも体調不良である。一方で、ベースラインとしての重さやきしみをサブトラクトして、「こういうものである」と納得すると、私は常に健康である。絶対値のばらつきを、相対値からなる枠組みに押し込んで健康を定義する。漢方薬が効く人と効かない人がいる、というままならなさの、一部はこういう、「どこからが病気か、の感覚が人それぞれに違う」という前提に回収されるようにも思われる。ところでどうでもいいけどプチ鹿島局員は「一方で」を口語で使うが、「一方で」を口語で使う人というのはモノマネをされる覚悟をしているんだろうなと思う。

私の左目は中学生くらいのころからずっと視力0.3だ。右目は1.2である。これはほぼ変化していない。右目はやや遠視で、左目はやや近視であり、フォーカスを合わせるスピードは両目ともに低下していわゆる老眼の状態である。幸い乱視がないので裸眼で生活ができている(メガネは伊達メガネである)。ちなみに両眼視すると視力は1.5になる。0.3+1.2=1.5。アホな目だなあと思う。かつて左目のほうだけ矯正するメガネを買った。当然そのほうがいいだろうと思った。でもメガネをかけてみると、右目と左目のいずれもがものすごく疲れてしまって、なんだかいやになってすぐかけるのをやめた。私の健康は左目0.3、右目1.2なのだった。なお老眼はしっかりあるのだが多くの人に比べるとそんなに気にならない。なぜかなと思ったのだけれどおそらくナチュラル・ボーン・遠近両用状態だからではないか。べんりな目である。デスクワークを長年するために生まれ持った目なのだろうとうそぶいている。こんないい目を与えてくれるならば、ついでに「何時間デスクにいても平気な腰や大腿」を生まれ持たせてくれればよかったのに、と思うこともある。そこまではうまくいかない。


博多大吉のポッドキャストがおもしろいなと思って最近よく聞いている。ホークスが勝ちまくっている昨今は福岡がうっすらと憎く、福岡方面の息吹が感じられるコンテンツを心の中で全体的に下げているのだが、聞けば博多大吉のうまれは神戸だというではないか。おまけにポッドキャストではルチャ・リブレとかレトロゲームの話が多く、孫正義ばんざいみたいな話は出てこないのであまりストレスがかからない。今後、我々の住む地域ではソフトバンクの契約率が2%を切りました、ドコモがんばれ、au負けるな、みたいな精一杯の抵抗を、全道一丸となってやっていかなければいけない中、博多と名のつくコンテンツに惑溺するなんてのは魂を中洲に売り払ったくらいの恥ではあるのだけれど、まあ、神戸ならいいだろう。だいたいこれくらいの言い訳をして暮らすのがデフォルトで、私の精神は相対的にも絶対的にも健康であることが完全に証明されている。

ゆくすえを振り返る

つけあがった病理医からの連絡が相次ぐ。自分が世界の主人公という自認でこれまで何十年もやってきた人間たちだ。幸せな輩。ただまあ自分こそが主人公と思い込むというのは生命としては当然のことであり、プロゴルファー猿的には「そのとき病理医は動物的な本能で我欲を優先した。」とナレーションが入る場面で、責めるようなものでもない。それでいいのだと思う。動物はつけあがっているのではなく、未来にあずける忖度をしたり過去を汲んだ伏線回収をしたりしないだけのことだ。インプットとアウトプットの間のノイズが少ないだけのことだ。人間だけが今この瞬間をはみ出た部分に思いを馳せる。「この一言を告げることで相手は自分に対してこう感じるだろう、そうするといつか、何ヶ月か何年かあとかはわからないが、将来、この人は自分を優先順位の下において、自分がやってほしいことをやってくれなくなるかもしれない。それは面倒だしもったいないから、きちんと相手の都合も斟酌して、気持ちも考えて、こちらの要求をただ押し付けるのではなくきちんと調整しなければならない」――なにをぐちゃぐちゃ言っているのか、ああ人間って本当にめんどうくさい。動物のほうがわかりやすい。つけあがった病理医たちはみな動物。それも野生の動物ではなく実験動物。いや、実験動物に失礼か。つけあがった病理医たちはみな実験動物的な本能に立ち戻ったクソったれな人間である。かごの中で常に条件づけしながら餌付けして、餌が出る合図を体に染み込ませた状態で、あるタイミング以降は、合図だけをするが決して餌が出てこないような仕組みにして、激しい飢餓に苦しみながら絶命させたい。慰霊祭もやらない。


つけあがった病理医たちがたまにいて、心の中でだいたい上記のような文章の中に埋め込んでいる。


中国出張の予定があるが先方からタイムスケジュールが何も送られてこない。たくさんの人が「中国はだいたいそうだよ」というのでこれはもうこういうものなのだろう。空路だけは確定したので前後の仕事についてはあまり問題はない。ただ当日、何語でしゃべるのかがまだわからない。国際学会だから英語でしゃべるものだと、私も、この出張を取り仕切る日本人スタッフも思っているが、中国では直前になって「日本語でしゃべってください、同時通訳するので」みたいになることが普通にある。言語が変わると発表時間も微妙に変わってしまう、それが気になるが、しょうがない、今ここで気に病んでもどうにもならない。なるようにしかならない。

ときおり現地で見せてもらうのだが、中国のAIベースの翻訳アプリは本当にすごい。まあ、あんなむずかしい母音と漢字を使う国がAIをぶんまわせばそりゃそれくらい発展するわな、という感じだが、向こうの人は本当にこの1年くらいで言葉の壁をがんがん越えてくるようになった。日本はもちろんだが英語圏やスペイン語圏の人びとも中国の進歩のスピードにはさすがにかなわないように思う。でもこのような技術が世界で用いられるのも時間の問題だろう。今の私が学会で、「英語がめんどうだなあ」などと気にしていること自体が、令和一桁年代までのプロブレムに過ぎず、あと数年もすると、「プレゼンテーターが何語でしゃべろうが、会場の人たちは好き勝手に自分の耳のイヤホンを通じて自分に都合のいい言語に変換している」という状態になる。次の展開がわかっているのに、番組側の都合でその前の展開をだらだらひきのばしているドラマというのはつまらなく感じる。早く救出に行けばいいのにいつまでオカマの軟体芸を見せているんだ、と思ったら、アジア大会の影響で放送が2週間休止するから、いったん「第2シーズン前半終了!」などと、本来ならば必要のない区切りを入れざるを得なかったドラマのことを思い出す。どうせもうすぐ「耳元の相互通訳」が達成されるのだから今この状態でのコミュニケーションエラーに気をもんでもしょうがない。前半終了! 


いつか世の中はもっとよくなる、という見通しは腸管内容物といっしょで、すっきり開通してめでたしめでたしとはならない。いつも何かは滞留しており、たまにすっきりしてもすぐに次の懸念が蓄積していく。「早く次の世の中に突入しないかな」と思っていたころの懸念は本日全て解消しており、それでいてまだまだ私たちは途上の中にいる。




時のオカリナの告知映像を見た。すばらしかった。こういうゲームの告知映像、発売されて、全部やって、それから告知映像を見たら、「あああー! なるほど! ここを告知に使ったのか!」となってそれはそれですごく楽しいんだろうなと思う。それを今の私が体感したければ、ブレワイやティアキンの発売直前のティザー映像を今見直せばいいのだ、そうすればいかに任天堂の広告部門ががんばったのかがわかることだろう。でもそれをわざわざやることは少ない。過去に感じていた未来への目線を、未来からふりかえるというのは、なんか、もう、うん、いいかな、ってなることが多い。それはそうかなと思う。私たちはどこか動物的で、来し方をおしはかり行く末を振り返ることをなんかちょっと過剰でうっとうしいと、一段下に見ているときがある。