しんどいらーのリスト

重くない講演などないのだけれども、それにしても、これから半年くらいの講演の準備はずっしりと腹にたまる感じで、寝ても覚めてもいつも心のどこかで気にしている。胃にピロリ菌はいないので胃に穴が開かないが、かわりにあちこちの筋とか腱とかが痛んでクンクン鳴いている。還魂。

今の還魂とは「かきくけこ」を揃えるために探した単語だ。しかし還魂とはなんとも味のある字義の言葉である、ただ、その字義はともかく字面は……「魂が還ってくる」という感じには……あまり見えない。私の主観なのでピンとこない人はさっさとブラウザを閉じてスイカゲームにでも興じたらいいと思うが私には、「還魂という字の形状は、還魂なかんじがしない」と感じられる。なんだろうな、この、堅苦しい、あちこち角がある漢字と、魂、ソウル、ゴースト、そういったものとの相性の悪さ。還魂という単語の形状だけをみると、税金の還付みたいな、堅苦しくて融通がきかない雰囲気をすごく私は感じてしまう。字義と字面のゲシュタルトが合わない。そうでもないと感じる人が多いのか? いや、でも、私と同じように違和感を覚える単語だからこそ、世にあまり広まらなかったのかもしれない。選択圧を乗り越えて世にはびこる言葉というのは、見た目と中身とがどことなく寄り添っているものだ。燃焼という単語はボンボン燃えさかっている感じがすごくあるし、怪我という単語はいかにもあちこちにぶつかって七転八倒した雰囲気を纏っている。あ、でも、「纏っている」の「纏」は、あまりまとっている感じではない、どちらかというと、モンハンを200時間くらいプレイしたときの装備のような、まとっているというよりも重装備に埋もれてしまっているような感じがする。だから流行らないのだろう。そういうところだぞ。

閑話休題、と書きつつブログに閑じゃない話も題も別にないので閑話休題と書かなくてもいいとは思うが書いてしまった、話を戻す。「しんどい講演」の話だ。30代のときはいわゆる「しんどい講演」が、ありがたいことに、1年に1回ずつくらいの頻度で襲いかかってきて、いや、1年に1回ずつくらいしか経験しなくて済んでいて、今にして思うと、それは周りがゆっくりじっくりと私を育ててくれていたのだなと、まあ誰もそこまで意図してはいなかったのかもしれないけれど私にとっては結果的にそういう意図を感じざるを得ないくらいに、なんだかうまい具合の頻度で、着実に一歩一歩、経験を積んでいた。そんな私は運が良かった。ああなるほど。運が良かったんだ。こんなに運が良かったんだ! 振り返ってみると運が良かったんだ! 振り返らなければ思い出せないくらいだからありがたみはぜんぜんないけれど、ここでありがたがっておかないと、私の人生のラッキーだった部分をあとでリストアップしたときに、思いつく候補が減ってしまう、それはいかにももったいない。まあ人生のラッキーポイントをリストアップして悦に入る日が来るかというと、そんな日はこない気もするけれど。

今こうして、しんどい講演、しんどい研究、しんどい診療をミルフィーユ的に積み重ねて大口を開けてばくばく食っている日々も、あとで振り返ったら「あのころはラッキーだったな」と感じることになるのだろう。たぶん、なるんだろう。ならば私はやはり運が良い。なんかすごくそういう気がしてきた。やったやった! 「やったやった!」とはしゃぐとバカっぽい、と書いてあったのはなんのマンガだったか、もう覚えていないのだけれど、たまに「やったやった!」と声に出すと、私はもちろんだが周りにいる人たちもみんな苦笑して、苦笑の輪が広がって、なんだか温かい空間になっていく、それがわりと好きなので、私はよく「やったやった!」と口にする。そういうところも含めて全部、なんか、私は運が良いのだ。やったやった! あとでこのラッキーも数えられますように。あとでどのラッキーもぜんぶ、数えられますように。忘れようとしても、思い出せないものを、覚えていられますように。

1992年発売

そこそこしんどい頭痛になってしまい、いつもより早めに職場をあとにした。この職業、かつては頭痛や肩こりは日常茶飯時だったが、ここ数年はあまりそういう不調はなかった。今日は珍しいほうだ。顕微鏡の角度とかパソコンの角度とか(大事なのはとにかく角度)、そういったものの調整が完璧にうまくいっている今、なぜ、今さらこんな症状が出るのかなと思ったがなんとなくカロリー摂取が足りていないのかな、という雰囲気を察した。おなかが空いている。晩飯の食材といっしょにクッキーを買ってみる。


晩飯を作って食っている間に症状は落ち着いた。この程度で治るならまだ働けてたのにな、ということをちらりと思う。今日読んだメールの中に、「昭和の働き方をするスタッフへの指導をしなければならない」という舌打ちのようなワンフレーズが書かれていて、もし私がこの人の下で働いていたとしたら、私も舌打ちの対象だったかもしれないなということを思う。


君は働きすぎだからなんとかしないとね。ところで留学してみない? みたいな話がきた。ケルベロスのような脳なのだろうか。


二週間に一度、しょうもない焼き鳥屋でビールを飲む、くらいの暮らしに自分を落ち着けることができなかったなあ、なんてことも思う。決して、選べないルートではなかった。なぜ私はこんなに仕事できつきつの方に狭く狭く掘り進めて進んでいるのだろうな。


今日、ようやく、ニラ玉を作った。スーパーにまだ食材が多くある時間に帰れたからニラを買えた。うちにはごま油やみりんがないがめんつゆとレンチンで作ってしまえばよい。半年以上待ち望んで食べたニラ玉はふつうにニラとたまごとめんつゆの味がした。途中、コショウを振ってみたが、そこにコショウの香りが加わっただけであった。


物足りずにクッキーを食った。クッキーの味がした。HPは5くらい回復したのではないか。


なじみの編集者が、「生成AIで書かれた文章を、その人らしい文体に調整する作業のことをひそかにバグ取りと読んでいる」と書いていた。でも私はどちらかというと人間らしさのほうがバグめいているように思う。「摩訶摩訶」というスーパーファミコンのソフトがあって、これがものすごくバグまみれで有名だったのだが、私はあのソフトをクリアしたときになんだか人間だなあと思った。もう、30年以上前の話なのだけれど、なんだか覚えている。


人の書くもののバグを延々と取り続けていくと生成AI風の文章になる。バグなんてのは多少残しておいたほうがいい、なんでもかんでも切って捨ててばかりもいられないのだ。虫垂だの農家の四男坊だのはやたらに切っちまっていいもんじゃないだろう。このフレーズ、ただしかったっけな、と思って検索したら自分のブログが出てきて笑ってしまった。https://dryandel.blogspot.com/2018/05/201.html 読みやすくはない。でも、この頃の私も、今と同じように、狭い方へ狭い方へ、突っ走ってはいたんだなということを、なんとなく感じ取る。

キャベツはあきらめた

ぽろぽろとAIに対する愚痴を書いていたのだが、消した。自分の心が盛り上がらない。AIがすごいこともAIが大したことないってことも、AIによってすごかった人があまりすごく感じられなくなったということも、AIによってすごくなかった人がすごい人っぽく振る舞えるようになっていることも、全般的にどうでもよく、飽きている。冷笑というよりは湿ったため息。いじり続けてもどこにも火が灯らない。熱が上がっていかない話題を書くこと自体は別に嫌いではないのだけれど、じめっとカビてしまいそうな話題を書くのもどうかなと感じた。

今日は冷蔵庫に少量の味噌以外何も入っていない。いろいろ買って帰らなければいけない。早めに職場を後にすれば春キャベツがまだスーパーに残っているのではないか。何度訪れてもキャベツが買えない。ニラも卵も売り切れてしまう。今日こそは。こんなブログを書いているひまがあったら、さっさとこの自己研鑽の時間をおわりにして職場を後にすればいい。

でもなんだか数カ月後の飛行機の予約をとるだとかビジネスホテルの予約をとるだとか、再来月がしめきりの原稿の準備をするだとかに、5分、7分、10分と、時間をちまちまむしって使っている。こういうことこそAIに……いや、やめておこう。

ふと今思い出したのだけれど、かつて、ブルシット・ジョブという言葉を生み出した人がいた、私はあの言葉のせいで、世の中のメンタルの総和がかなり悪い方向に進んだのではないかということを何度か考えたことがある。そんな言葉を作ったらすがりたくなる人がたくさんいるじゃないか。そんな言葉、ほんとうは生み出されないほうがよかったのではなかろうか。やる価値のない仕事、過ごす価値のない時間、生きる意味のない人間、そういった言葉を作ってしまったら最後、該当するものを探してしまうのが人の性というものだ。なにかというとすぐにブルシット・ジョブという言葉を使うタイプの人間を見ていると、自分の手に特殊な光をあててそこに暮らす常在菌を可視化してしまいぎょっとする人間と同じものを感じてかわいそうな気持ちになる。わざわざそこをはっきりさせなくてもよかったろうに。


なんてことを書いていたら昔なじみの編集者からLLMにかんする質問が来た。おもしろい話だったので40分くらいかけて返事を書いた。おもしろい話? さっきまでつまらんつまらんって言っていたのにな。誰かと語り合えばつまらなくなくなる、ってだけの話なのかな。

直球の悪口

咳が出てきたのでマスクをする。ラウンジには曇り空を貫通する微弱な紫外線が降り注いで、体表のなんらかのなんとか神経をなんかいやな感じで経由して私の脊髄をじわじわ焼いており、その反射でのどがかゆくなったのだろうと想像する。そういうことはおそらく起こっていないのだが昨日テレビでほんまでっか!?TVを見ていたらあまりに根拠薄弱なトンデモ医学が大量にテケテケテッテテッテレーテテーテン!と披露されていてちょっとうらやましくなってしまったのだった、私も観覧希望サクラたちの「えー!!」に包まれながら破綻したちょいブル医学情報を訳知り顔で語りたくなってしまったのだ。毎朝お茶漬けとヨーグルトを食べるとお腹の中で混ざってお茶ルトとヨーグ漬けに再編されてしまい、お茶ルトは胃で吸収されずに生きたまま肛門まで届き、ヨーグ漬けは若者の青春をショート動画まみれにするという、そんな報告が昨年出たんですよ。「ほなら来年くらいにはそういう商品が出てくるってことか!?」「えー今の頭皮には間に合わないってことですやん!!」ドッ。ワハハ。誰も見なくなったテレビのシュールな物語がじわじわおもしろい。今、テレビがおもしろい。確信をもって言える。なにがいいってまずカメラの解像度がいい。あと照明がすばらしい。全方向が完全に明るい。そして音声。YouTuberには絶対にできないレベルの映像づくりをして、YouTuberでも言えるようなことを、YouTubeほどアクセスが簡単ではないインフラでばりばり放映してTVerでもう一度みろと迫ってくる。滑稽で、哀愁だ。この文化を看取る世代としての責任がある。しっかり見続けていきたい。


強く生きることを決めた人。自分を世に屹立させることしか考えていない人。人の間と書いて人間と読むことを知らない、もしくは、見過ごすことにしている人。なぜそんなに無知なままいられるのだろうと思うが、先日読んだあるエッセイストもいい歳なのに「私が私でいるために」みたいなことをいい続けていたので、一部の人はそうやって死ぬまでずっとそうなんだろうなと考える。昔、橋本真也が、「いつの時代も俺は俺風」という歌をうたっていたなあと思い出す。彼のミドルキックは重そうだった。パンタロンが音を増幅していた。入場曲もめちゃくちゃ強そうだった。でも、「俺は俺風」は超絶ださかった。


空港で、Kindleで、マンガを2つダウンロード。朝イチの飛行機でそのまま出勤する、スマホの充電は午前中くらいまで持てば十分だから、機内ではずっとKindleを読んでいられる。逆に言えば近頃は、スマホの充電が気になってしまうから、旅路の前半ではあまりKindleを使えなくなった。そろそろ機種変更をしなければいけない。機種変更をするたびに、さほど使っていないアプリを選別して切り捨てていく、脱皮をするタイプの動物の、肌の表面の常在菌との別れを思う。まあ、ときどき機種変したほうがいいんだろう、我々はそうしないと、古いこだわりからいつまでも決別することができない。

低気圧ボーイ

AIがなんでも上手にまとめてくれるから、あらゆる講演がクソつまらなくなりつつある。特にお薬屋さんのしかける弁当会、あれはもう、過渡期というか、大黒柱の底がまさに抜けたところというか、クオリティがまじでやばくなっていてこの先いろいろ変わっていくだろう。今とにかく大事なのは「声の張り」だったり「しゃべりのテンポ」だったりするのだが、そういった「発し方」についても今後はAIで分析されて指導されて似たようなかたちに揃っていくのだからもう始末に負えない。ただ。

思うのだがそもそも社会とはAI前からいつもそうだったではないか。先日、人気タレントが書いたあるエッセイを読んだのだが、それが見事に当代の人気エッセイストのそれとそっくりなので、私は途中から「これはつまりオマージュなのかな?」と勘ぐってしまった。もしや、AIで壁打ちした編集者とのアイディア出しの末に書かれたものか、もしくはAIが選んで売って世に広まりやすくなったものかとも思ったが、奥付を読んでみるとそのエッセイの初出は2020年くらいで、それはつまりAIが市井に降りてくるより前のものなのだ。となると、私がこのエッセイに感じたAIみというのものは、じつは単に時代や社会の選択圧を乗り越えて私のもとに届くものがたいてい似通っているよねというだけの話であるのかもしれない。

似たものばかり。似たものばかり。j-POPだってファッションだってファミコンだってアニメだってずっとそうだった。詩ですら、絵画ですらそうなのだ。それをAIがモノマネしているだけの話。私の話もどこかで読んだことある部品ばかりでできている。オリジナリティを出そうと思えば自分の体験に立脚させるほかない、体験に根ざしたものから芽を出させて花を開かせればその実は間違いなく自分から出てきたものだ、でもその体験はプランターの土みたいなもので、ホームセンターで売っていて、石灰も肥料もぜんぶ売っていて、実のなりやすい苗というのは基本的には接ぎ木なのである。体験すらコピペ。神が生き死にできた時代がうらやましい、と、現代の哲学者は言うだろう。

AIが「よりただしい結果」を出すためのプロンプトをいかに上手に打ち込むか、みたいな小さな競争があちこちで起こっていて、つまらないのでやめろという。かつて、山下達郎が、紅白歌合戦に出てきた美空ひばりのCG✕AIに激怒して、あれは冒涜だとラジオで言っていた。なにを小さいことを言っているのだろうと私はそのときおかしくておかしくて仕方なかった。でも今は彼の言いたいことの先がすこしわかる。山下達郎の歌ほどAIが学習しやすいものもじつはないだろう、彼の歌は世代を超えて浸透するくらいには「人のこころの最大公約数にマッチするもの」なのだから、つまりそれはものすごくAI的だということで、したがって彼はもし今後新たな歌を出さなくなったらとたんにAIによって彼の作ったような歌を量産される運命にある。それを冒涜と言い切れるのは山下達郎を体験し山下達郎に立脚した山下達郎だけだ。山下達郎は自分を守るためにとことんただしくAIにNOを突きつけた。それは滑稽かもしれない、しかし切実だ。でも私は山下達郎ほどには真剣になれない、なぜならAIは私を学習に足る人間だと認識しないような気がする。私は冒涜される価値すらない。だから私は山下達郎の放言に今もうっすらと白けているのである。