病理医の話です

全員のメールアドレスがCCに表示されている「メール審議」の文章の末尾に「ご賛同等お返事をいただければと思います」と書かれてあり、はいよ、と思って送信者だけに返事をする。「賛同します」。先方の送信時刻から15分ちょっとで返事をしたのでたぶんだいぶ早いほうだろう。その後、半日以上にわたって、ぽつ・ぽつ・ぽつとメールが来る。「賛同します」、「賛同します」、ほかのメンバーの多くは「全員に返信」を用いて返事をしているのでいちいちその結果が私にとどく。ぶっちゃけ迷惑だなと思わなくもないのだけれど、そもそもこの、「メール審議」というものは、従来は会議室に全員が顔を合わせてどうするどうしようこうするこうしようと決めていたものが魔改造されたものなのであって、自分の意見を委員全員に周知すること、それがどんなに些細な「首肯ひとつ」程度であったとしても、その首を縦に振る姿をみんなが目撃していること自体に会議の意味が存在していたのだから、じつは、メールの返事を送信者にしか送らない私のほうがまちがっているのだ。あっている・まちがっている、でいえば、まちがっているのだ。ポケットモンスター あっている/まちがっている。ファンはどちらも買う。そして両者の違いを比べながらどちらも細かくクリアする。まちがっている、というのはその程度のことである。あっていると対比することで両者ともに価値が立ち上がる。そして私は、このたび、まちがっている。

正しさというものは世の中には本当に少ない、もしくは、受粉時期の極めて短い花のように一瞬だけ首をもたげて周囲にアピールをし、短い旬が通り過ぎたら散って砕けて蟻に運ばれていく。

どうしたらいい、こうしたらいい、しかしそういう私たちも200年後には菌の培地になったり維管束の中を流れていたりするのだからどうでもいいではないか、というタイプの俯瞰と冷笑、そっちのほうに逃げて行きたくなることも正直ある。ただ、私たちは、なにか、理屈はわからないけれど相対性理論とかそういう複雑な物理の計算を問いた先に暮らしていて、自分が暮らす数十年以外のことは正直頭にうかばないような都合のいいマヌーサをかけられているから、そうやって司馬遷とかノストラダムスとかの目線で先々のことや昔々のことを考えようとしてもぼんやりと焦点が合わなくて結局そんな広い範囲を観察することに飽きてしまうのだ。自分の記憶が渉猟できる「気の届く範囲」に相当するたかだか5年、もしくは2年とか、へたをすると2か月くらいの範囲を、パン生地を回して伸ばしてピザの台座にするような感じでぐんぐんと拡張して、上に具材を乗っけていく、そういうかんじで世界を認知して応答をし、世界にちょっかいをかけてツッコミを入れられる。腹に入ってしまえばみなおなじ、あっている・まちがっているもなければ、どうも・こうもない、そんなことはわかっているのだけれど、その短く狭く屋根の低く温度の高い妙な窯のようなところでこんがり変性しておいしく焼けましたになるまで、私たちはみな、正しいとかあっているといった誤謬に、まんざらでもない顔をしながら付き合っていく。

正しい診断なんてものはマジでない。しかし、正しい診断だと言い切るだけの間違いを背負わなければいけないときはけっこうある。

人とはパソコンである

9か月ほど前に梱包した段ボールのガムテープを剥がそうと思ってもうまく剥がれない。糊が浸透してしまっている。爪の先でテープを持ち上げたときの、あの、粘性の下にもぐりこんで引き剥がしていくときの、あの圧が爪にぜんぜん伝わってこなくて、ぺりっぺりっと小範囲で紙が千切れていくだけなので、ちょっとひっかいてもうあきらめてしまった。はさみを持ってきてガムテープの真ん中にあてがってモーゼとなる。長軸方向を切り拓くのはかんたんだが、短軸方向のテープと交わるところでははさみを一度引いたくらいではうまく切れなくなっており、ここでも少し苦労をする。上からあてがったり、下からこすりあげたり、いろいろやってようやくふたが開く、そしてこの段ボールはもう使い物にならないのだ。相次ぐガムテープの貼り付けでへりのところがダルダルになっていて、次になにかをしまい込むにはかなり不格好だし、おそらく湿気とか虫とかさまざまなものを跳ね返せなくなっている。代謝を終えた皮膚のようである。

中にはおかざき真里先生の絵やロロイチさんの線画などが入っている。前の職場を引き払う準備には3か月以上かかったのだが、その、一番最初のころに、幡野さんの写真だとかおかざき先生の額装ジークレーだとかは先に梱包してしまった。次の職場でデスクが落ち着くまでは開けられないだろうなと思ってしばらく家に置いていた。このたび、赴任して半年が経過して、ようやくあらゆる引っ越しが終わったので満を持して絵を壁に飾った。緩衝材がわりに入れておいた複数のひざかけ、ああ、ここに入っていたのか、いそいそと取り出してさっそく太ももを覆う。窓から冷気が降りてきており、部屋は温かくても窓の近くだけは朝晩は寒い。こういうのはなんというのかな、輻射熱、というのもへんだしな、と思ってちょっと検索をかけると、「冷輻射」という言葉があるらしい。たしかにGoogle変換でも一発で表示されるから、AIの作った嘘というわけでもないのだろう。窓になにか、断熱用のシートでも貼ろうか、でもせっかく明るい場所に移ったのだからこのままにしておきたいな。ブラインドを開けることはじつはない。ニコンの連携会社であるホクドーに長年勤めていた、前の職場からずっとお世話になっている顕微鏡担当のSさんが強めに私に注意した。「いいですか先生、この窓開けちゃだめですよ。顕微鏡というのは直射日光はだめなんですよ。特にこの、レンズに直射日光が入り込むと、中を光が通って痛みますから。だからこのブラインドは二度と開けないでください」。明確な注意を私はしっかりと記憶した。このブラインドは私が退職する日まで開くことはない。木漏れ日未満のわずかな線状のあかり、そして、隙間からしっかりと降りてくる冷輻射、この2つは前の職場でも全く同じように体感していた。ただし前は右からだった、今度は左からだ。あるいは私の頚椎症も、今後は左右が入れ替わってくるかもしれないなと思う。

何もしないのに膝が壊れた。PCだったら鼻で笑えたのも今は昔、ちかごろのPCやスマホは勝手にアップデートするから何もなくても壊れるということが普通に起こり得るので、このフレーズは笑えるものではなくなった。つまり、ということは、私の膝も夜の間になにかセキュリティの脆弱性を回避するためのパッチプログラムかなにかをインストールしたのだろう。睡眠とはシャットダウンと再起動に似ている。新しい概念を聞いて覚えたあと、寝て起きると不具合になっているということはままあって、それはおそらく、再起動のときに既存のアプリとなにかで競合してうまく立ち上がらなかったりしたのだろうな、ということをよく考える。

喜望峰では左巻き

気持ちの踊り場にいる。なんだか今日は午前中いっぱいヒマになる。ここぞとばかりに申請書を仕上げておくべきだと思う。すぐに働き始めないと、どうせこういう日には思いも寄らない新しい仕事などが飛び込んでくるものなのだ、しかし、どうも目のまわりが重いのでなんかゆっくりでいいかなと思ってスマホでジャンプの目次などをちらちら眺めたりしている。

気持ちの駐車場にいる。エンジンを止めて運転席で黙って座って息をついているとすかさず運転席の横の窓とかフロントガラスの右半分とかが曇り始める。私は車に「ここに用もないのに長く座っていてはいけません」と叱責されたような気分になる。リクライニングも思った角度にはならない。ハンドルも脚を組むには邪魔だ。飲み物もない。小腹を満たすものもフリスクくらいしかない。だったらそろそろ歩き始めないと。ドアをあける。バタンとしめる。ドアノブのマークに親指を重ねてキーをロックする。風がしっかり冷たくて、やっぱり車の中でもう少し待って体をあたためてから動き出すべきだったのかなと早くも後悔する。そうやっていつも自分のひとつ手前の行動に小さな後悔を浴びせかけるようにする。上鼻甲介もつんとする。

職場の部屋の席替えがあり、人も入れ替わるので、これから毎週月曜日と、あと火曜日の午前中くらいは、部屋に私しかいない、ということがある。これまでずっとPCはミュートにしていたが、これからは小さく音を出してもいいかな、と思う。メールにもすぐ気付けるようになる。タスク管理ソフトからのアラームも効果的に使えるようになる。椅子があまり合っていないが、そこまで外してもいない。モニタとの距離、いまだにこれが最適なのかどうかわからない。いつまで「慣れない環境」のことを言い続けているのか、自分でも若干、言い訳がましいかなと思う。

秒針は止められるが時間は止まらない。砂漠の半月状の砂山が、風に吹き散らされながら、かつ、新たに飛んできた砂を巻き込み続けていて、定常でも平衡でもないのに概念として均一である、その砂山の、ふもとに寄ってしゃがみこんで、砂粒を見ていると、じりじりと熱せられるような焦燥感を覚える、そういう、堆積と消失のないまぜになったものが時間である。

気持ちの交差点にいる。気持ちのヨドバシカメラにいる。気持ちのマトリゲル培地にいる。悪意はないのだろうが善意の涵養が足りていない他人の気持ちが未必の故意で肩先にぶつかってきて心の鎖骨を骨折し、私は間葉系細胞の発する混濁したサイトカインによって自律的に集簇して内向きの分化勾配を呈するオルガノイド化してその場でゆるやかに回転をはじめる。気持ちの排水溝に流れていく。右回りの螺旋。北半球にいるのだな、とふと思う。気持ちの北半球にいる。

イージュー

自分の論文にも他者の論文にも言えることだが、ここのところあきらかに、査読で指摘される「箇条書きの項目」の量が増えた。やけに構造化されている。人間味が感じられない。まあ、どう考えてもこれは、AIを用いて査読されているのだろう。100%AIが書いたものだとはさすがに思わないが、体感で40%くらいはAIのアイディアなのかなと思う。

投稿者が「自分の最新の研究ネタをAIに学習されたくない」と思って必死で自力で執筆したところで、けっきょく査読者が軽い気持ちでAIに流し込んでいるのだ。もちろん、有料版だから大丈夫だとか学習禁止の設定が強固だから大丈夫だとか、「査読者は善意でやっている、一円ももらっていないのだ、だからせめてこれくらいラクをさせろ」とか、いろいろ言い訳はあるだろう。でもトータルではなんだか切ない話だ。しかも世界中でそういうことが一気に行われているのだろう。一流の医学雑誌よりも三流のハゲタカジャーナルのほうが100倍くらい掲載論文数が多いこと(※想像)を考えると、たぶん、えらい学者さんたちが「論文の原稿やその査読をAIにやらせるなんてとんでもない!」などといくら吠えたところでとっくに手遅れであり、AIという名の最大公約数はじきだしマシンには今日も清濁両方のデータが流し込まれている。

その結果、AIがどういう方面の判断をするようになるのかは、私にもよくわからない。危ないとか怖いとかじゃなくて、「よくわからないものを出してくるツール」になるんじゃないかなという予感はずっとある。だいたい人間という生き物だってそうだろう。みんなが似たような義務教育を受けてもトータルで見るとわかっていたりわかっていなかったりする、それをできるだけ「いいほうに」向かうようにコントロールすべく作られた学習指導要綱で、世の中の平均的な知性は確実に向上してはいると思うが、それでも人間たちはときどき集団でびっくりするような勘違いや、後出しジャンケン的に言うところの判断ミスをするではないか。


若いころ、学問で大きな発見をしたとして、その結果を作法にのっとって学術誌に投稿する段の作業量が多すぎるなと、ぐちぐち文句を言ったものだった。なんか、コンピュータが自動でやってくれねぇのかな、そしたら発見をもっと気軽に世に広めることができるのになと、夢想していたというか、韜晦していたというか、そういう言い訳・言い逃れみたいなことを言うタイプの人間だったからこそ、今この程度の学術業績しか持ち合わせていない。頭が痛いし自業自得だ。でも、かつてなんとなく思っていた「あとはコンピュータのほうでやっといてくれ」がまさに達成されようとしている今、乾燥した大福みたいないやな舌触りが心に残る。私たちは考えることをほかに投げてはいけなかった。アドレナリンとかセロトニンとかが心を興奮させたり撫でつけたりすることに惑溺し、モルヒネの噴射されるスイッチをみつけたマウスのようになって、金属のボタンを何度もパシパシ叩くのに忙しく、代わりにいろいろなものを放り出してしまった。試行錯誤や探索や折衝や困惑や、やりきれなさや歯痒さやもどかしさや、幅広い心を、くだらないアイデアを、軽く笑えるユーモアを、うまくやりぬくかしこさを、眠らない体を、すべてほしがる欲望を、おおげさにいうなんで途中から奥田民生に吸収されてしまったのか。なんの学習の結果なのか。

逃避の行動学

来るときは一気に来る、という感じでエクストラの仕事の依頼が来る。老若男女問わず、働いている人というのはたいていこれと似たようなことを言う。つまり今のこの状態は、特段私が忙しいというわけではなく、「働くとはつまりそういうもの」なのだと思う。

とはいえ、自分が考えていなかった仕事が次々ふりかかってくる状態というものは確実にストレスではある。そういうのがいやで仕事が続けられなくなったりする人もいるだろう。かくいう私も、別に特段イレギュラーに耐性があるタイプというわけではなく、キャリアを重ねる中でそういうことが起こる回数が次第に増えてきた、つまり、徐々に慣らされてきたから今ちょっと平気になっているだけであって、働きはじめの最初のころにこういう生活をしていたら、私は仕事が嫌いになっていただろう。

それは当時の上司がうまく調整してくれたから、すなわち、「恩」として語ることができる話だ。ただ、恩知らずなことを言えば、私は単に運が良かっただけなのかな、と思うこともある。仕事が長続きしない人の話を聞いているとだいたいいつも思うのだが、社会においては「こんな使われ方をしていたら私だっていやだ」と共感することのほうが若干多い。「そこはがんばって、ちょっとがまんすればいいのにな」と説教したくなることはまずない。じゃあそれを上司がどうにかできたらよかったのかとか、そういう話かというと、違うと思う。どこの誰に理不尽なエクストラ・ワークが降りかかるかは、恩ではなく運だ。私は運が良かったのだ。運良くこの年齢まで働けている。だったらその運を縁に変換し、社会に返還していくのが筋だろう。


寝ても覚めてもタスクリストが頭の中にあるがその順序を、こっそりと、ズルをするかのように、入れ替えていることがある。「これは……本当は今日やることだったけれど……来週でいいか!」そのズルを、叱るのも、あきれるのも、自分だから、別にこっそりとなんてする必要はなくて、堂々とサボったりゆるめたりすればいいのだけれど、私はそこで誰にも見られていない心の内側で背中を丸めて右手で手刀を作り、不知火幻庵みたいなポーズでメンゴメンゴとエクスキューズを積む。申請書は本来であれば今日の夕方くらいまでに書く予定だった。締め切りが1か月後だからだ。でも、来週にしようと思う。デッドラインはまだまだ先なのだから問題はない、とはいえ、こうして少しずつ締め切りに対する間隔を伸ばしていくと、いつか締め切りという名の亀に追い越されるアキレスとなるだろう。呆れるアキレス、略して、れるレス。今年の北海道日本ハムファイターズもレイエスががんばってくれると思う。このように、逃避というものは、頭皮の上で音韻をすべらせるように横にずらしずらししていくことで形成される。