差別

早朝の空港行きバスに乗るべく妻に車で送ってもらう。手を振って別れてバス乗り場に行くと目の前で一本前の始発便が発車したところで、15分後に次のバスは来るのだけれどどうせ間に合うなら始発に乗ればよかったなと思ったが次の瞬間にはうしろにごっそり人が並び始めたのでこれは考えようによっては甘寧一番乗り状態だからよかったなと朝から少し上機嫌になる。バスに乗り込んでわりと前のほうの席に座り、カバンに入れてあった本の雑誌の最新号を取り出すが、忘れていた、今日はしおりがない。バスに乗っている間だけでは読み終わらないだろうからさてどうするかな、降り際になってしおりのかわりにカバンから名刺なりタクシーチケットなりを引っ張り出して挟むと、移動中に落っことしたりして、名刺を出先で落とすのは気持ち悪いしタクシーチケットだってもったいない。ならばしおりを作ろうと思い、仕事のためにもってきた書類の一部をぴりぴりとやぶって簡易なしおりにする。結果、バスに乗った瞬間に書類を手でやぶりはじめるおそろしいおじさんとなっている。乗ってくる人たちにはなぜか若い女性が多い。そういうのを気にしている中年男性がいるという事実だけで世の多くの人は慄然として叩き始めるのかなということも思うのだが実際気にする、なぜなら、このバスが満席となったときに私のとなりに座る人がちょっとでも不快な思いをするとしたらやりきれないからで、今日こうしてバスの中に女性が多いというのはおそらく偶然ではなくて飛行機にのってどこかに若い女性がたくさん移動するようなイベントがたぶんあるのだろう、それはアイドルのライブかもしれないしお遍路めぐりのイベントかもしれないしスマホアプリの祭りかもしれない、そういうのはまったくわからないけれど今日はとにかく若い女性のための日であって私のような人間はできるだけ存在感を消して移動しなければいけない。憂鬱な気分になりつつさっそくしおりを自作していた自分のキモさを反省してあまり目立たないように暮らしていこうと心に決める。バスが動き出してからものの5分で眠気が襲ってきて空港まで一眠りする、起きると隣には案の定女性が座っていて、私が寝ている間にいびきとか歯ぎしりとか寝返りとか寝っ屁などでこの女性が私を血祭りに上げる2秒前みたいなことになっていなかったかどうかと気が気ではない。空港について乗客が次々と降りていくがその荷物はみな大きく、中にはカバンに自作のぬいぐるみなどをぶらさげている人も多くいて、やはり今日はなにがしか大きな出来事が起こっているのかも知れないなという気持ちを新たにする。空港についてもまだ女性が多い、それも20代前後くらいの若い女性ばかりで私は少しずつ気味が悪くなってくる。そういうアニメの世界に入った夢を見ているのではないかと思うがANAのアプリはエラーばかり吐き出していて確実に現実である。仙台行きの飛行機を待つ搭乗待合でもほんとうに女性ばかりでぞっとする。仙台 ライブ などで検索をしてみると、明日、仙台では手越祐也くんがライブをする予定で、まあ彼は人気があるだろう、でもバスに乗っていた女性がぶらさげていたぬいは2人分あって、それはおそらくソロのアイドルを推すために付けているものではないだろうと私は思っていたので、たぶん手越くんを見るためだけにこんなに札幌やら新千歳やらに女性が集まっているというわけではないはずなのだ。どうしてなのだろうか。答えはわからず伏線は回収されない。それは長い長い「まんが道」の連載の中でかずかずの伏線らしき出会いが描かれつつも「愛知り染めし頃に」が2014年に完結するまでほぼすべての伏線が回収されなかったことと全く同じでリアルな人生そのものだなと思った。仙台行きのAIR DOは満席ちかく、私のとなりに座ろうとした女性が離陸までの間、ずっと中腰で自分の前の席に座っている女性とべらべらしゃべっていて、その女性の身につけているカーゴパンツかもしくは持っているカバンのどちらかが妙に汗臭くて私はびっくりする。風呂キャンセル界隈もしくは洗濯キャンセル界隈なのだろうか。早く座って落ち着いてほしいなと思いつつ「こういうことを考えている中年男性」というだけで世の中は猛烈にバッシングするのだろうということを明確に恐れて私は目を閉じ、しかし、まあさっきも寝たからな、と思ってまた目をあけて、紙をびりびり破っただけのしおりを挟んだ本の雑誌をとりだして続きを読む。今度は20分くらい起きていられた。ドスンと音がして目が覚めると仙台空港である。スーツのジャケットを脱がずに外に出ると猛烈な湿気で、気温は大したことがないのだが周りを見回すとたしかに軽装の人が多くて、このまま上下ごりごりのスーツのまま移動すると私からも周囲に迷惑をかけそうな臭いがただようことになりそうだな、というところでふと気がつく。空港線の電車に向かう通路がおじさんばかりになっている。さっきまで私はほんとうに、今日は周りが女性ばかりだなと思っていたのにいつの間にかすれ違う人もおなじ方向に向かう人もみんなおじさんなのだ。汗臭いおじさん、肩周りがふけだらけのおじさん、抜けた頭髪を頬にひっつけているおじさん、妙にでかい傘をふりまわして歩いているおじさん、短パンに革靴を合わせているおじさん。私は急にすべての緊張から解き放たれた。車内に入ってもまだおじさん確変中である。臭ってもまったく納得だ、なぜならこの車両はおじさんだらけだからだ、そしてこの臭いを「不快だ」と顔に出してもなんなら声に出してもかまわない、そのことを社会は叩かないからだ。すごくラクになった。とても癒された。仙台駅行きの電車の、4人がけのボックスの奥に縮こまって座って、本の雑誌の続きを読もうとしていたところで通り過ぎたひとりのおじさんが通り過ぎた直後に床になにかがひらめいた。それは切符なのだ。このおじさんが落としたのかなと思い、席から立って切符を拾って、私から少し離れた席に座ったおじさんに「こちら落としましたか」とたずねると、彼はキョドりながらもしっかりとした声質で「いえ、私ではないですね、私はICカードで乗ったので」と答える。たしかにいまどき切符なんて買わんよなと思って「承知しました」と答え(なんでこんなに仕事口調なのかと自分で自分がおもしろかった)、切符をもったまま自席に戻り、窓際に切符を置くと、いつのまにか通路を挟んで反対側に座っていた女性二人組が、ああ、ここにはまだ女性がいたのだ、若い女性二人のうちの一人が、「それ……」といって私と目を合わさず窓際においた切符に目を伸ばすのである。そうかこの女性のだったのか、「ああ、どうぞ」と言って切符を手渡すと、女性の掌にはいまから塗ろうと思っていたのであろう日焼け止めかクリームかなにかのかたまりが、まだ伸ばされないままに収まっていて、その方の指先が私の持った切符を丁寧につまんで、なんだ、世界には男女とも同数いるんだな、と妙に納得したところで妻が階段を降りてくる音で目が覚めて、ちょっと寝坊したけど、今から準備をして仙台に向かうことになる。そしてすべて夢で見た通りのことがまったくそのまま起こったなあと感慨深く、今、私は仙台駅のカフェでやけに冷めるのが早いカフェラテを飲みながらパソコンを叩いている。

こうやってすぐ前の話題を忘れて没頭してしまうのもよくない

ちょっとやりすぎたかなと思っていることとして、出張先のデスクの引き出しに、自分のお気に入りのボールペンはともかく、爪切りや耳かきもしのばせているということがある。そのほうが快適に仕事ができるからというだけの理由だったのだけれどよく考えると当地の人びとは怖がるだろう。「なんで出張先で爪を切るの? 家で切ってこいよ」「どうして人の職場で耳掃除をするの? 家でほじってこいよ」、ごもっともである。なんかこういうところのずれみたいなもの、私がこの歳になるまで抱え込んだ気質というか欠陥だろう、まあ、これで直接ひどい目にあったことがあるかというと、あったかもしれないけれどあまり記憶にはなくて、でも、おそらくこれで嫌な思いをした人がこれまでもけっこういて、それはたぶん静かに眉をひそめたとか、そっと去っていったとか、私にフィードバックがかからない形でのリアクションがおそらくあったのではないかと思われる。

今度職場で歓迎会がある。いろいろずれこんでしまったが事務担当者ふくめてこれでようやくフルメンバーである。だからこんな季節に歓迎会をやるのだが、うっかり北海道外の大学と研究のミーティングをする予定を同じ日に入れてしまっていた。先日の広島出張の際に話をした東北の人とその場でスマホのスケジュールを見ながらここならいいですよと答えて、しかし、職場に帰ってみるとカレンダーにはしっかり「歓迎会」と書いてあったのでなんでこれをスマホに入れなかったのかなと頭をかかえた。さあここでリスケすべきか、しかし案件の重要性を考えるとこのミーティングはここでやってしまったほうがいい、したがって、歓迎会に45分だけ出て、お酒を飲まないようにしておいて、車で職場か家に戻ってそこでミーティングに出るのがよいだろうという結論に達した。よいもなにも、よくはないのだ、結論というが、それで結していいとも思わない、しかし、この綱渡りはバランスが崩れていてもエイヤッとダッシュしてさっさと渡りきってしまったほうがよいなという決断をしてしまった。決断というがほんとうに断じる感じだ、もっとまとわりつくような思考をしばらく重ねてもいい内容である、が、そこを断じて振り切ってしまう。私以外の人間がけっこう大好きな言葉に「選択」というのがあるけれど、選択というと「選ばれるほう」が主役になるが「決断」というと断って捨てられるほうにスポットライトが当たる。人生における大きな選択、みたいな言葉の使い方をする人は「何を捨てたのか」を語っているわけで、「あそこであれを切ったのが私の人生を決めたんですよね」みたいなことを鼻をふくらませながら言っている人たちを見ていると精神の暴力性が高いなとちょっと引いてしまう。選択なんてろくな行為ではないのだ。そして私は今回、歓迎会とミーティングとをダブルブッキングしてそのまま両方に出るという選択をしたのだから本当にろくな人間ではない。ブルースである(ろくでなし)。



別件に心をとられてしばらく画面から目を離しており、今あらためてこれまで書いたものを読み返すと、気づかないうちに使わなくてもいいカタカナことばをわりと使っている。最近の自分の思考は、AIの提示してきそうなうすっぺらいカタカナ仕様になっている。なにをするにもAIに話しかけるタイプの人間が「壁打ち」という言葉を使うのだけれど私はこの単語をみると、壁に手足を打ち付けられてパチンコの玉で打たれているようなシーンを思い出す。これ元ネタがあったな、なんだっけ……あの……ファミコンのソフトを題材にしたマンガばかりがたくさん載ったアンソロみたいなコミックスで……うーん……

と思って20分くらい検索してたら見つけた。


しかし問題はこれが何に載っていたのか思い出せないことだ。『ファミコンまんが大全集』シリーズにも見覚えはあるがこれではなかった気がする。Vol. 6とか8とかくらいまで出ていたようにも思うけれどタイトルが思い出せない。ツインビーとかキン肉マンとかじゃじゃ丸君とかも載っていて、オチもなにもないおもしろさのよくわからないマンガが多くて、うーん、弟にたずねてみれば何か覚えているかもしれないがこんな用件でLINEをするのもはばかられる。

アラフィフサウザンド

早朝と深夜のどちらがいいかと考えて早朝を選んだ。24時間開いているスタンドで週末の移動に向けてガソリンを入れる。毎週欠かさずガソリンを入れている。車をポートに寄せすぎた、車体にジャケットのすそをこすらないよう体を気持ち横にして移動する。交通系IC以外の使い勝手が悪い。ポイントも何もつかないのでちょっと損した気分になる。

満タンを選択して給油口のキャップを開け、ノズルを手に持ってどっしりと運び、給油口に差し込んだらしばらくカチカチと引き金を引き続けるとそのうちセルフ給油を見守っているセンターの人がわかったわかったとばかりに安全装置を解除してくれて、給油がはじまる。近すぎる車体を眺めると表面にうっすらと黄砂と花粉のブレンドされたものが、雨だれのかたちにたくさんへばりついていて、洗車というこの世で一番醜く愚かで生産性のない行為のことを思い出して憂鬱になる。気持ちよい風が吹いているが東から浅い角度で照らす朝日が革靴を焼いている。頭寒足熱だなと思う。


出勤したらまず働く前にブログでも書こうかと思った。デスクに着くと診断用のPCがついていて、昨日帰り際に電源を消し忘れたということに気づく。診断室の入口にセキュリティがなかったらこういう些細なミスもすべて問題となっただろう。ただし業務上の問題の大半は、人が生み出したルールを人がうっかり踏み越えたことによって生じるため、人を黙らせてルールを無視すれば問題ごと消えてなくなる。どこまで許し、どこまで緩くするか、この部分でだけなぜか思考を止めてバカになるタイプの秀才が世の中にはごまんといる。ごまんといる、という言葉のごまんとは五万なのだろうか。軽く調べてみたがおなじみの「諸説あり」に発散していた。

語源というものはよく諸説が出てくるものだが、これは「正解がわからない」のではなくて、「おそらく複数の要素がそれぞれ正解」なのかなと思うことがある。というか、より細かいことをいうと、「複数の解釈によってより幅広い人びとに許容された、もしくはより多くの人びとの頭にひっかかるような重層性をもった言葉・言い回しが後世に残りやすい」のかなと思う。ネットでは池上彰やチコちゃんが何かをいうたびに「ちげーよ」「適当いいやがって」のような炎上が生じるが、たぶん彼らがいうことも「納得のひとつのプラトーを形成する要素」であって、ただそれがすべてではない、だからその説明を聞くとけっこうな数の人びとが「えっそうなの? 本当くさいことを言われたけど、でも、私は違うと思ってた」のように反応する、そうやって反応する人が多い話題のほうが盛り上がる、という仕掛けなんだろうなと考えている。

ちなみに働く前にブログを書こうと思ったが、夜のうちに届いていたメールのいくつかがかなりクリティカルだったので、悩んで返事を書いているうちに朝は終わってしまった。今のこれは深夜に書いている。ガソリンを入れてからごまん年くらい時間が経った気がする。

代替可能のゆくすえ

投稿論文にくっつけたcover letterが下書きのままだった。投稿したときに精製される「おめーが編集部に出した書類を一冊にまとめるとこれだぞ! いいか! ちゃんと確認せえよ!」というPDFがあるのだけれど、そのPDFをダウンロードだけしてろくに読まずに投稿ボタンを押して、完了、よーしひと仕事したなーと思って、ああそういえばPDFもあったなと思っていちおう開いて見てみたら、冒頭のletterの部分が、Wordの校正が終わっていない状態で赤線とかが引かれまくっている。うわあやっちまった。赤入りのゲラを入稿したようなものだ。あわてて編集部にメールをするが、週末のあいだはとうとう返事がこなかった。まあそうなのだ。どこの国も土日はしっかり休んでいる。月曜日、ようやく「しょうがねーからもう一回投稿させてやんよ」というメールが届いた。メンゴメンゴと再投稿の手続きに入る。

今回の論文は小さな症例報告だが、アクセプトされる前にいろんな学会で概念を話して回った。いま、似たような論文が次々と投稿されているのではないかと思う。あんまりちんたらしていると、「大切な私のアイディア」が、つぎつぎと他人に指摘されて、新規性のないものになってしまうだろう。

まあ、でも、「大切な私のアイディア」なんて、その程度のものである。

それまで誰も気づいていなかったようなアイディア、自分だけが考えついたアイディアというのがあるとする。それはたまにあるように見えるし、実際にあることもある。でも、そのアイディアの源泉となっているのは、近々の学術集会で提供されていたセッションのムードとか、直近の学術雑誌に掲載された研究とかであったりする。すなわち「私のアイディア」の構成成分の9割以上は、世の中のたくさんの人が共有している空気感によって半ばできあがりつつある。

ジグソーパズルのピースを、角は角、へりはへり、青っぽいものは青っぽいものどうし、白っぽいところは白っぽいものどうしで集めて、広い部屋の床にざっと並べて、わかりやすい模様から順番に組んでおいて、あとは細かく目と手を動かしてパズルを完成させるだけ、というシーンに例えた場合、「私のアイディア」の「私」というのは最後の「細かく目と手を動かす」の部分に主に存在する。ジグソーパズルの元絵の製作、ピースへの分割、その仕分けまでは、その時代の専門領域の抱え持つニュアンスがすでに作り上げている。

このことはべつに、論文にだけ言えることではなくて、小説だとか、ドラマだとか、マンガだとか、音楽だとか、絵画だとか、たいていの創作物に言えることだろう。ただ、今、こうして書いてみて、論文を小説やドラマやマンガと同列に扱うべきかどうかをちょっと悩んでいる。なんか違う。でも何かどう違うかと言われると意外と難しい。読む人、見る人のために書くという点ではいっしょだし、人と同じことをやっていてもだめだというのもいっしょだ。扱うものがマニアックでもオーソドックスでもそこは構わないというのもいっしょ。アイディアのオリジナリティが必要だがメソッドのオリジナリティは必ずしも必要ない(でも、それがあってもいい)というのもいっしょだと思う。強いて違いをあげるとすれば、論文は金を払って投稿するもので、掲載されてもとくに金銭的な見返りはないところか。でもそれも根本的な違いではない気がする。彫刻あたりはそこも含めて論文とよく似ている。ああ、でも、そうか、論文はがんばれば誰にでも書けるな、そこはほかの創作物とは違う。あと、AIが手助けすると基本的によくなるというのも論文だけの特色だろう。

大切な私のアイディアがじつは既存の概念の寄せ集めで、巨人の肩の上でシュプレヒコールをがなっているだけだったとして、それで「大切な私」が毀損されるわけではない。ただ、「AIが手助けするとよくなる、大切な私」というのはなかなかハードな文字列である。

気遣いの津波

結局Switch2にゴエモンもリズム天国も入れないまま過ごしている。というかSwitch2が手元にない。だらしない日常を送っている。仕事と仕事の合間で、スマホに入ってる古いKindleの、何度も読んだマンガを順々にローテーションして、だらだら眺めているうちに次の仕事の予定がやってきてまたそっちに取り掛かる。体幹の筋肉がやせおとろえて、座っているだけでなんとなく全身がたるんで、ジャバ・ザ・ハットのようなシルエットになっている。体重は減ったのに輪郭が広がっている。全体的にエントロピーが上昇している。ヒコロヒーはエントロピーが低いほうの人類だなと最近よく思う。

AIに作らせた文章を読んでいるときのつまらなさを日常からもじわじわと感じ始めている。最適化されたアプリに囲まれて、80点満点中の80点の暮らしを達成している。100点を目指して暮らすのがよいとは思わないけれど、100点を遠くにみながら55点とか83点とか、上下に揺れながらやっている感じが楽しかった。今、そういうのがちょっと感じづらくなっている。



先日、飲み会で、ロードスターに乗っているという人がふたりいて、ああ、それはカッケーなと思った。私は自分の乗る車に興味がないが、人の乗る車についてはわりと興味があって、デザインにしてもスペックにしても語られることは楽しい。京都の町中に大雪が降った日に、ロードスターの上にどっさりと積雪したところをスマホの動画で見せてもらった。ヘッドライトをパカっと開けて雪をどける感じがチャーミングで楽しかった。ほかにもその飲み会には、RX-78みたいな名前の(違ったと思うがそこは覚えていない)レクサスに乗っているという人もいて、その日ははからずも車の話に花が咲いた。そして、そういう流れだから当然のように、私にも「何に乗ってるんですか?」と質問がくる。私が国産のよくある普通の車に乗っていますと答えると、その場の人たちはきちんと空気を読んで、「ああ、◯◯、いいじゃないですか!」とこちらを褒めてくれる。そこで、すんと気持ちが冷めた。私は、ロードスターやレクサスが「いい車」だと思っている。その観点でいうと、◯◯なんてちっともいい車じゃない。私は「自分から見ていいなと思う車」というのはしっかりあって、それはそれとして、いい車に乗りたいという気持ちがないから◯◯に乗っている。私は自分の車を「いい」から選んで乗っているのではない。「よくない」けど「これくらいでいい」と思って乗っている。自分の車を「よさ」で選んでいない。こういう場面で周りが気遣いながら「いい車ですよね」なんて言葉を選ぶとき、そのやさしさをありがたいと思う気持ちが8割だが、いや、そんなわけないじゃん、と感じる気持ちがしっかりと2割ある。あなたの車をいいと思う感性の持ち主が乗って喜ぶ車なわけないじゃん、と思う。

私は自分が乗る車については55点でいいのだ。45点でも35点でも構わない。でも、やさしさの満ちる場ではしばしば、「55点が考えようによっては80点になる理由(ワケ)」みたいなものがどこかからか湧き上がってきて、私の人生をむりやり80点に揃えようとする。湿度と粘性の高い津波のような気遣いで空間が満たされる。そのほうが傷つく人が少ないのだろう。そのほうが悲しい思いをする人が減るのだろう。世の中はいつも持続性のある方に向かって調整されていく。今のこのほうがたぶん総体としてはいいことが多いのだろう。つまらないなと思う。私は、自分の車はそっちのけで、他人のかっこいい車の話をしていたかった。