薄い他己の利

怒りか、好奇心か、そのどちらかで自らを鼓舞して駆動する人が多い。ネット上の話だけではなくてリアルでもそうである。怒りはもちろんだが、好奇心も行き着く先は利己である。利己、大いにけっこう、でも利己とはベーシックインカムみたいなもので、「あるのが前提、それを誇られましても」というものだ。何かに対する怒りがモチベーションです、とか、私は常に世界に対する好奇心で動いています、みたいな人をみると、はあ、初期アバターでもプロフがよければ出会えますよと豪語していた平成の出会い系サイトの生意気な学生みたいなもんですね、と思って少し冷める。もうちょっと込み入った感じで動かされていくタイプの人間を見たい。原理がわからないまま模様を作り続ける仕掛け細工のような、「不思議で動く人間」と働きたい。それができない世でもあるまい。それを許さない世でもあるまい。ただ、「あっ、私、利他ですよ!」と言って挙手する人間からは距離をとりたい。そういう話ではないのだ。


今日は変則的な移動だ。釧路から室蘭へ。いちど札幌に帰るつもりでいたのだが、妻が「いやいや、新千歳のほうが室蘭に近いよ」というのでびっくりしてしまった。Google mapを見てみる。本当だ。最近、頭の中に地図がない状態で移動していた。飛行機でも電車でも、途中、私という肉体がどの座標をどちらに向かって移動する点Pなのかをあまり考えなくなっていた。



室蘭に用事があったことがないな……と思ったが、よくよく思い出すと、大学院生時代に病理解剖やCPCのために訪れたことがある。あのころ室蘭にあった病院はほとんど合併もしくは閉院してしまった。


釧路からの飛行機で新千歳空港についたのが朝の9時45分。そこからちょっと待って10時にオープンする新千歳空港温泉に入る。空港内の温泉なんていったい誰が入るんだろうと思っていたが私はこれまで4, 5回ほどここで入浴したことがある。たまにこういうことがあるのだ。道内の出張から帰ってまたすぐ道外の出張に出るパターンが多かったが、今回は北海道の片方の田舎から別のほうの田舎まで行く途中でたまたま新千歳空港を経由する。そういうときに温泉はぴったりだ。数時間前に釧路のホテルでシャワーを浴びたばかりだが、また軽く体を流して、露天風呂に直行する。せっかく空港の風呂なのだから、露天風呂からフライトが見えたらいいのだけれど、しばらく見ていても空に飛行機の影ひとつ見えはしないのであった。


風呂から出て、南千歳で乗り換える特急から逆算してまだ2時間くらい余裕があることを確認し、リラックスルームで銀の匙を読む。AIには今日の午前中は胆膵CPCのプレゼンづくりをするからそうリマインドしてくれと言ってしまっており、実際、今朝の7時にはAIが従順に「今日はプレゼンづくりですね。」と教えてくれていた。けれども結局マンガなど読んでいる。そうなったこともあとでAIに伝えておこう。きっとわかってくれるだろう。ところで前から思っていたけれど銀の匙はじゃじゃ馬グルーミン★UP!と構成がそっくりだ。しかし、それぞれにそれぞれの青春があって、このふたつを比べてどちらがいいとか優れているとかいう議論をしている人に出会ったこともないし私も両方好きである。前に読んだのは10年前くらいだろうか。3巻までリラックスルームで読んだあと、続きはけっきょくKindleで読むことにして腹ごしらえに向かう。新千歳空港にあるたくさんの飲食店の中でいつ行ってもたいてい入れるのは3階の中華料理屋だ。ここが一番「北海道らしさ」がないから観光客があまりこないのだ。そして私は中国系の料理が今は一番好きで、ここに限らずどこに行ってもわりと麻婆豆腐とかエビチリとか海鮮焼きそばとかそういうものばかり食べている。

ちょっと話はずれるけれど、ラーメンの有名な観光地で、私が「ラーメン食べてみようと思います」と言ったときに、まれに「県外の人はそういうんですけどね? うどんもおいしいんですよ! 地元の人間はむしろうどんばっかり食べています(笑)」みたいなことを言う人はいったいなにを考えているんだろうと思う。観光客がラーメン食いたいっつってんだからそこを肯定して増幅する以外の選択肢なんてないと思うのだが。



新千歳空港からJRでひとえきずれたところに南千歳という駅がある。そこから釧路や函館方向への特急に乗り換えることができる。札幌生まれ・札幌育ちの私にとって、南千歳で乗り換える機会もメリットも普段はないのだけれど、今回こうして出張先から新千歳空港に戻ってきて、そこからさらに室蘭に移動するというパターンでは、南千歳での乗り換えが発生する。新鮮である。思ったよりたくさんの人が乗り換えておりその大半が観光客のようだ。自分の心の中の旅情はすっかり枯渇してしまったが、他人の旅への期待感が肌で感じられるのはいい。旅に沸き立つ人びとの間を縫うように歩くのは楽しい。今から旅に出る、あるいは旅路にある、あらゆる人に人生最高の思い出が待っていてほしいと思う、この願いはまずめったに叶えられることはない。旅というのはそこまで打率の高い娯楽ではないと私は思っている。でも、だ。それでもわりと気楽に願ってしまう。なぜなら「誰かの旅が最高であるように」という願いは自分のためのものではなくて他人事だからだ。他人事だから無責任に願える。おまけに他人というのは無数にいる。願い叶う確率が、5%だとしても、1%だとしても、頭数が多いぶん、毎日どこかの誰かの願いは必ず叶っている。そして旅がうまくいく確率は本当はもうちょっと高くて、まあ、そこまで高くはないんだけど、75%くらいはあるんじゃないかな、と思う。誰かの願いがちょっとずつ叶うと、その喜びはうっすらと私に伝わってくる。世のどこかで常に、たった75%程度の人間だけが、くじびきにあたって幸せな気持ちになっている。その現状に浸っていたい。世界はそうやって、いつかのどこかで誰かがロッタリーに大当たりして、きゃっきゃとはしゃぐ矯正によって駆動されている、その振動の残りが私を今日も次の場所へと駆り立てていく。

夢に常在菌を

病理AIのためのアノテーション、画像が1700枚送られてきてびっくりした翌月、5700枚送られてきてもうびっくりしねえなと思っていたら、そのさらに翌月に20000枚送られてきてまたびっくりしなおした。5年前なら心が折れていただろう。しかし今や、AIチーム(病理AIを作るためのチーム)が、生成AIを用いてさっとコードを書いて、私が大量のアノテーションをするときに便利なユーザーインターフェースを作れってくれる。画像を一枚一枚クリックして開いてなにかに書き込む必要はない。ウェブベースの簡易なアプリを開けば、画像送りも拡大縮小もまとめてアノテーションするのも一気にできる。暴力的な数の仕事をしなければいけなくて大変だなと思ったのはつかの間だった。じつはそんなに大変じゃなくて、結局7時間くらいでアノテーションはすべて終わった。想像の20倍くらい早い。

AIサポートによる仕事の効率化はえぐい。結果、かつてならありえなかった量の仕事をやっている。そしてそれがちゃんとできている。私の脳が20000個の構築物を確認したという事実は動かない。ただ、この20000回の試行錯誤のあいだ、おそらくたくさんの情報が無視されたり圧縮されたりしている。そうでなければこんなにスマートに仕事が終わるわけがないのだ。すべてのアノテーションが終わっても、私の脳や神経が「20000回の弁別」を行ったほどの疲労を感じない。それは、私が本気で20000回ちゃんと考えてこなかったということではないのか。私が職能を用いて全力であたるからこそこのAIは意味をもつのではなかったのだろうか。こんなに手抜きでよいのだろうか。人間が本気を出したものを参照していないAI、つまりそれは、広義のweakly supervised(弱い教師付き学習)のAIではあるまいか。そうだとしたら、それはいったい、なんのために、だれのために、やっている仕事だったのか。

ぶつぶつ言っても、数字が出れば人は動く。プロジェクトは順調に進行している。膨大なデータの解析はAIによって存分にサポートされている。人が本来対応できる数字の何億倍もの数字をAIがかわりにまるめこんでいく。折りたたんでいく。言いくるめていく。すべてAIのおかげだ。AIが人を動かしている。本日の7時間、私はAIによって介護されながら働いた。今日の7時間、私はAIの手足だった。脳と手足の関係でいうと私のほうが完全に手足だった。

かつて、ほぼ日の糸井さんは、「夢に手足を。」というコピーを書いた。当時、いい言葉だなと思った。今、私の夢に生える手足はAIによってコードされている。夢を遠くに連れて行くのも、夢に希望を運んでくるのも、AIがやる。そしておそらくは支えられている夢のほうも。夢の中に張り巡らされている血管、神経、骨格、これらもAIによってダイナミズムをしっかり支えられている。夢の頭のてっぺんから足のつまさきまで、私が入り込んでドライブできる場所はどんどん減っている。ああ、私はあと、夢の何を担当できるだろう。手足にもなれない、体幹にもなれない、脳脊髄にもなれない、となればあとは、皮膚か? 外界との間でまっさきに驚いたり汗ばんだりする部分、せめてここだけは、私がやらせてもらわないと、あまりにさみしい。さみしかろうがなんだろうが、皮膚もいずれAIに盗られてしまうだろう。そしたら私は何を担当すればいい。皮膚の中に埋まり込んでいる汗腺か。皮膚から飛び出している産毛か。それともそのあたりに細々と棲まう、もはや個体の一部ですらない悲しき同居人か。角質といっしょに剥がれ落ちていく、わりと日和見のタイプの。

りんごの歌

人間よりもAIのほうが成長が早い。こうしてほしいなということがあると数日後には適応している。私が考えつくような不安は世のたくさんの人びとが考えていて、改善のためのアイディアも世界中からどしどし入力されているのだろう、だから目立つキズについてはどんどん修正されていく。AIは誰よりもコミュ強だし、安部礼司よりもアベレージである。私がみずからの間違いに気づいて修正をかけていくときの、魂にはたらく慣性のようなもの、直さなければいけないのはわかっているのだけれど、なんかなあ……と3点リーダを2セットならべて躊躇するときのあの感覚がAIにはない。至高の生き物という感じがする。猗窩座も満足だろう。


週の初めにりんごを買った。1個、100円しなかった。安かった。晩飯のあとにでも食べようと思っていた。今日、出勤するとそこから連続出張でしばらく家に帰ってこない朝、小さな食器棚の上にビニール袋に入ったまま鎮座し続けているりんごの背中がさみしくて、もうお腹は足りていたけれど朝から皮を向いて1個食べた。ややぼけた味がした。りんごの背中というのはどちらがわか。もちろん、へたが倒れているほうを前と考える。頭を垂れるのはいつも前側だ。後ろに倒したらそれはボア・ハンコックの「見下しすぎて逆に見上げてる」になってしまう。


感冒後に咳だけ残ってしまった。5年くらい前、コロナにかかったときには3か月くらい咳がおさまらず、ワンセンテンスしゃべるたびに咳が出てしまって、ウェブ講演ではミュートを使いながらしゃべればなんとかなるのでわりとどうでもよかったあのときのことを思い出した。オンサイトの仕事ではそうはいかなくていろいろ困っている。でもまあ、前ほどじゃない。なにもかも、前ほどじゃなくなっている。私といっしょに私の環世界もゆるやかに老化しており、もろもろがやさしく穏やかになってきているのかなと思う。


送られてきたバーチャルスライドの総量が26GBくらいなのだけれど、PC本体のSSDは500GBしかなくて、残量は20GBを切っていたので、初回のダウンロードは途中で空き容量がないといって止まってしまった。外付けHDDにPC本体からデータを移して容量を確保する。4TBの外付けHDDも3TBくらいは使ってしまっていてぞっとする。プレパラート1枚なら10グラムくらいなのに、デジタルデータにすると格段に重くなってしまって難儀だ。物質というものがいかにたくさんの情報を圧縮して持ち運べているかということに思いを馳せる。レレレのおじさん的にいろいろ掃き清めてなんとか空き容量を確保して、バーチャルスライドを開こうとすると今度は専用のビューアーが必要だというのでため息が出た。浜松ホトニクス以外のスキャナを使う施設が少なくなってきた今、そうじゃないスキャナを使って取り込まれたものをみると後退りしてしまう。放射線画像はPHILIPSがひとりがちして、独占禁止法ぎりぎりの状態でPACSを全国に普及させてくれて、そのフォーマットで各社が後追い的に画像を統一したから、どこの病院で撮ったMRIであっても私たちは普通に見ることができるのだが、病理画像はまだそこまでの統一に至っていないし、このことは15年くらい前から問題になっているのにステークホルダーたちのホールドしているステークが弱すぎて(笑)、いつまでも統一されない。専用ビューアーをダウンロードし、インストールし、解説を読み、ようやく見られるかと思ったらバーチャルスライドは表示されるものの拡大がうまくできなくてダーとなってしまった。どうやら画像本体と関連ファイルとの紐づけが、ギガファイル便(滅べ)によって送信された際にすべて千切れてしまっていたらしい。送るほうも気づけよと思わなくもないがこういうのは専門家がどこにもいないのでしょうがないだろう。スクショやスマホでの撮影を駆使しながらアナログなかたちで、このファイルはフォルダごと送ってください、と指示をして、ようやくPCにダウンロードした26GBのファイルを消去する。翌朝、また26GBのデータが送られてきた。私たちの暮らしは一向に簡単になっていない。ボケ防止に便利だなと思う。世界は少しずつ良くなっている。

糖分にも気を遣っています

迫力のあるねむみと戦うためにコーヒーを飲む。「すぐそうやって戦いのメタファー使うのよくないですよ」と脳内ポリコレ部隊が騒ぎ出す(ポリコレ:今の旭川市のポリ袋ってコレでいいの?)。カフェインでもキシリトールでもグリチルリチン酸ジカリウムでもいいからこの眠気をなんとかしてくれ。予測変換が「グリチルリチン酸二カリウム」と出てきて、あれ? 昔、CMで聞いたあの歌って、「じかりうむ」じゃなくて、「にかりうむ」だっけ? と思ってよくみるとこれ数字の二ではないか。そうか、ジカリウムって「di-」だったんだな。それはそうか。ジカリウム、っていうひとつの物質のように感じていた。化学でも医学でも習ったから冷静に考えればわかるけど、知識より先に音で入ってきて定着したものはときにこういう「理屈じゃない浸透のしかた」をしていて油断できない。ジエチルエーテルがジ・エチル・エーテルだと知ったときの頸髄の揺れを思い出す。ウスバカゲロウを漢字にしたら薄羽陽炎だったときの真皮の痺れを思い出す。

『めしにしましょう』の出張編の3巻を読む。このマンガシリーズはインターネットのあちこちで語り継がれる程度には強度の高い社会不適合者であるところの天才・小林銅蟲先生が20年以上かけて社会との距離をはかっていく人生サーガのスピンオフとして読むべきもので、しかしそれを言ったら、ほとんどのマンガは作者の大きな物語のスピンオフではないかという気もしなくもない。からくりサーカスは藤田和日郎の人生のスピンオフである。イニシャルDはしげの秀一の人生のスピンオフである。阿・吽はおかざき真里の人生のスピンオフである。スピンオフというのは単にひとかけらということを意味しない。地下茎によってつながりつつ、違う場所で旺盛に咲く、ハマヒルガオみたいなものである。ワンピースは直訳するとひとかけらなんだよなと今になって思う。



編み込んでいくときがあり、多段階式ロケットのように切り離していくことがある。取り込んで癒着していくことがあり、表面が硬く乾いて散布していくこともある。自分というひとつの塊が、まわりとの関係を次々と変化させながら、そのときどきでバブルスライムだったりスライムだったりホイミスライムだったりと形態をかえていく。にやけた口元こそ変わらないが色が違ったり硬さが違ったり、回避率や逃げ足の速さが違ったりする。そのような不定形のものを保とう、保とうと思って日々を暮らす、自分を塊状に安定させることに心をすりへらす、というのはわりとあまりよくないのかもな、ということをしばしば思う。元は自分であったもの、あるいは自分になるかもしれなかったもの、一喜一憂の種。歩くとなにが健康にいいかって、自分の境界を定めるのに苦労しているときに、肌が、鼓膜が、網膜が、地面や風や陽の光を跳ね返し続けることで、宇宙ステーションから日本をみたときに灯りの輪郭がそのまま海岸線のかたちに見えるようなあの感じで、「今はここまでが自分なのか」と安心できるというその一点が健康にいい。血糖値? コレステロール? その高いか低いかなんて、運だよ。とはいえ減塩はしています。

ふりかえり

言葉が言葉を連れてくるだけの文章をつねづね打ち込んでいると、ときに、プロットからしっかり練り上げたであろう文章に対する畏怖の念というか、「手間かかってるなあ」という気持ちが抑えきれなくなる。物語はもちろんだが随筆・随想についてもだ。それこそブログなどで、自説を補強するためにいくつかの適切なエピソードが引用されていたり、過去に誰かが言ったことと自分が今考えていることとを比較検証したりと、一歩一歩山道を登っていくように論理が展開されているものを読むと、うーん、すごい、のけぞる、真似できないなと思う、一方で、こういう文章を書くことを目標にしていたら、私はきっとブログを毎日更新することはなかった。私はこうしてそのとき心に浮かんだ一行を書いてそこから一定時間の連想をつなげてエントリにするということを、思えば長く続けてきた。クオリティという意味でもレスポンスという意味でもたいしたものにはならなかった、ともあれ、それはどうして「そうすることが当たり前」になっていったんだったかなあ、と思う。最初は自己顕示欲であったと思うし今は若干の意固地のためかなとも思うが、果たしてそれだけで続くものだろうか。意固地というのは人間という生命体が80余年にわたってずうずうしく世の酸素を消費するために必要な心性の根っこにあるものだと思わなくもないが、それはそれとして。

ブログごとき、毎日更新するメリットはない、それはまあ、そうだ、しかし、毎日何かを書き留めているということが結局何だったのかと言うと、それは私の体感を細かく振動させ続ける行為であった。震えは私という管腔の滞留や閉塞を知らぬうちに解除し続けてきた。便秘は震えると少し良くなるのだ。さらに、私の表面に塗ってあった古いニス、その下の塗料のようなものが、小刻みな震えによって毎日少しずつぱきぱきと剥がれ落ち、地の素材がところどころチラ見えするようになった。私はひどく不格好だ、紫外線にやられてできたしみ・そばかすと共に、塗料の剥がれ、錆、緑青みたいなものもきっちりとまとっている、それでも振動のおかげで皮膚呼吸ができるくらいの通気性は保たれている。振動によって私自体が鋭く研ぎ澄まされることは残念ながらなかったが、私という遊軍が世の中に多少の貢献をできる程度にはくるくると動き回れるようになった。書いたものそれ自体が誰かの心を動かしたり資料として世にストックされたりはしなかったが、私の書いたものはタクトとしてリズムを刻み、私の指、手のひら、手首を強引に牽引することで私の体にもなにかのリズムを与えた。





昨日のエントリでいまから30年前に私が書いていたものを貼り付けたが、あのあと、いくつか当時の文章を読んでみて思ったのは、当時の私が書いていたのは日記ではなくて手紙であるな、ということであった。端々に、「これを読むであろうごく少数の知り合い」に対する符丁がわりと目立つ感じで配置されていて、ほら、わかるでしょ、あのことだよ、読んでくれてるんだよね、あのときはありがとう、どう、これを読むともう少し、オレのことを「好きになる/受け入れる/許してもいいかなという気になる/一目置きたくなる」でしょう、みたいな感情があまり隠しもせずに散りばめられている。SNS以前の私は、インターネットが「どこかの誰かのもとに飛んでいくかもしれないもの」とは、言葉ではわかっていても体はそうは捉えていなかった。それはあくまで手紙の延長で、私はとにかく「インターネットを介しながらも、実際には自分の目の届くところ、指先の届くところにいる誰か」の気持ちを引きたくてしょうがなかったのだと思う。

知らないうちに手紙を書きたがっていた私の心は、ホームページの終了とSNSへの移行を堺に少しずつゆっくりと変化する。当時のTwitterというのはまさに「現実には出会うことのないどこかの誰かに飛んでいくかもしれないもの」であった。だからそれは「宛先不明の手紙」であることを求められていたしそれがかっこいいとする風潮もあったと思う。しかし、かっこいいと思ったからといってすぐにそうなれるわけではないのだ。私から出てくる文章は確かに少しずつ変化したがそれはあくまで変奏でしかなかった。今、私の自認として、私が書くものは手紙ではなくなっていて、これはやはり日記になっているだろうと思うのだけれど、でもそれも本当は変奏の範疇なのかもしれない。30年という月日を要して私の文章は「日記になりたがっていた手紙」から「ポストに投函しない手紙」へと移り変わっていった。恥ずかしかった青年期の努力が今の私を立派な恥知らずに育てている。





知人に向けて書いていたものだと納得してしまうと、逆に違和感を纏って立ち上がってくるのは、あのころ私のホームページに反応した見知らぬ人たちのことだ。関西に住む当時おそらく50代くらいの、ハンドルネーム「ミニトマト」という方のことを当時の私はわりと恐れた。私が身近な人間に向けてのわかりやすい暗号を送っているだけのホームページを見て、ときどき掲示板に感想を書いてくれる人、そこに私は不思議な浮遊感と少しの掻痒感を覚えた。「リンク集」なども設置した懐かしのホームページでは少しずつ、「現実では会わない人たち」とのつながりも増えていき、当時の私は「現実の自分では届かない場所にいる人になにかが伝わることがある」という、今やすっかり過去に遠ざかった近未来にはじめて触れることになったが、その勢いは決して爆発的というものではなかった。あの頃産声をあげた「ほぼ日刊イトイ新聞」の若きライターたちが見たこともない経路を通って次々とふしぎなネットワークを作り上げていくのを見ながら「私はなかなか、こうはなれないな」と肩を落としつつ、そんな中で私に温かく声をかけてくれていた少数の見知らぬ人のことを私はシンプルにおそれていた。10万人、20万人が見に来る場所にいるならわかる、しかし、この数名はなぜ世界のいろいろを飛び越えて私に声をかけているのだろうという仕組みがわからず、そのわからなさが、私の書き続けていた手紙を次第に「宛先のないもの」へと押しやっていったのかなという気がする。その怖さが、私の書き続けていた手紙にある種の「公共」みたいなものをちょっとずつ植え込んでいったのかもしれないと思う。今、あの人たちがすべて、完全な幸せの日の中にいることを心の底から願う。