病理医ヤンデルの所見

細胞をみて言葉にすればするほどAIが過去の文献をうまく探してきてくれる。しかし、言葉の選び方がしょぼいとなにもできない。「クロマチンの増加した異型核を有する腺系の腫瘍細胞が管状・乳頭状・索状構造を形成して増殖しています。浸潤性の腺癌です。」病理医が納得するためだけに書かれたこんなエクスキューズの所見からは、AIは何も探してこない。クロマチンの増加していない腫瘍細胞を探すほうがむずかしいからだ。異型核という言葉はじつはなにも情報を付け加えないからだ。腺癌が管状・乳頭状・索状を呈するのは極めて一般的だからだ。弁別の役に立たない質問を繰り返すアキネーターのようだ。そんな所見のとりかたでは、世界がひそかに思い浮かべる人物の名前は、永遠に出てこない。

細胞を

みたときに

どうやって

表現するか。

ここで必要とされるのはオリジナリティではない。自分だけが考えた最強の言い回しは、過去に報告されていないわけだから、さすがのChatGPT proでも検索効率が落ちてしまう。もちろんAIは勝手に言い換えをしたり、言葉と言葉の関連からおそらくこういう意味だろうと推し量ったりをやってくれるのだけれど、その手間が加わるぶん、数千万くらいのトークンが無駄に消費され、手の上の産毛にあたってあらぬ方向に転がっていく水滴のように、答えがわずかにずれる感覚がある。病理所見は、詩であってはだめだ。では、細胞をみたとき、どうやって表現する? 「病理診断がものすごく上手で、細胞像の描写に過去イチ長けた書き手が用いたであろう言葉、そしてそれに感化されて、まねして、多くの病理医が過去に文献上で用いた言葉」を知っておく必要がある。そのような言葉の中からさらに、「ある疾病や病態を言い表すときに特化して使われた言葉」を選び取ることが求められる。それは、ひとつの言葉AのとなりにBが高確率で存在するだろうという、言葉と言葉のつながり・連想で導き出される言葉であってはならない。あくまで細胞の、細胞を薄く切ってエオジンとヘマトキシリンで意味ありげにお化粧したものの、意図もりもりに生成されたところの「細胞像」と、直接共鳴するような言葉でなければならない。その像をみた人がこの言葉を用いるならば「納得」する感覚、なるほどそれは後世に残せばきっと便利に使われるであろうなという言葉を探しに行く。いわゆる「言語化」という言葉とはニュアンスが少しずれているのかもしれない、みたいなことも少しだけ思う。

こういったことをしっかりやれている間は、生成AIを用いた病理診断がかなり有益になる。逆にいえば、このような「所見の練り上げ」をやらず、やれ石灰化があったとか、やれ二層/相構造が消失したとか、やれCD8陽性T細胞が何割あったといった、定性的・定量的な記載だけで生成AIを使おうと思っても、じつはあまり役には立たない。いや、役には立つのだろうが、それはなんか、あまり、おもしろくはないものだな、と感じる。おもしろくなくてもミスや不備が減るならそれはすばらしいことなのだけれど。


ふくよかなはらわた

ドパオジ状態でぼうっとXを見ている。見たことのない話題、興味を持ったこともない話題、というのはあまり流れてこない。今日はひたすら関西弁の話、関西弁の人間たちの会話はほかの地域とちょっとちがうという話が流れており、ほか、エヴァを全編みなおした人のシン・ゴジラの感想、作者の名前が思い出せないがよく目にするウェブマンガ、中国のロボットが陸上を疾走する動画などが延々と流れて、それのどれにも全く心は動かされないのだがフリックに必要なくらいの振動が脳に与えられており、結果として15分ほど無為に過ごした。ドパオジだな、と思う。思えば倍速再生でもなんでも、ひとつのコンテンツを腰を据えてみるという行為のほうがよっぽど有意な時間になるよなあ、と、声にはせずとも文字にして思い浮かべてみると、そうかな、べつに、どんな体験もしばらくすれば均等に砂になって崩れていくのではないかな、という冷静な返答が、文字としてではなく声として聞こえてくる。報酬系のこと。報酬。報も酬も、訓読みは「むくいる」と読む。むくいるという言葉はむくいぬを思わせる。むくいぬは漢字で書くと尨である。さっと伏せた犬の象形文字であることはあまりにも有名。なんかこれ、ポスト向きだな、と思ってXにそのままポストする。


反応を待たずに仕事をはじめる。報酬をもらわないまま報酬系に奉仕している。奉も仕も、訓読みは「つかえる」と読む。うそである。奉はたてまつる・まつる・うけたまわる。うけたまわるという言葉はだいたひかるを思わせる。だいたひかるとはいったいどういう漢字を書くのだろうと思って検索したら「代田」であった。しろた、じゃないんだなと思う。しろたひかるだったら、白く光るふんいきだったろうな、と思うし、だいたひかるだと、紫立ちたる雲の細くたなびきたる、を思わせて、こちらのほうが名前としてはふくよかだな、と、声にはせずとも文字にして思い浮かべてみる。


「ふくよか」とは漢字でどう書くのかなと思って調べたら、二件が該当した。「脹」と「膨」である。なるほど、膨張ってことか……としばらく納得していたのだが、よくよくみると、膨張という字の張はゆみへんである。「ふくよか」のほうは、「脹」だ。「脹」? 大腸、小腸、の「腸」とも似ているが、ちょっとちがう。「腫脹」の脹。へえ、キータッチしているときはあまり気にしていなかったけれど、「膨張」と「腫脹」という言葉の、「ちょう」の部分はちがう漢字を用いるのだな。膨張という言葉は非生物にも使うが、腫脹という言葉は基本的に生命・臓器に使う、だからにくづきなんだろう、それにしても、私はおそらくこれをPCでなく自分の手で書いたら、今の歳までずっと書き間違っていたかもしれない。あまり意識していなかった。

脹という字はふくよか。腸という字ははらわた。ふーん。しかし、字面だけみてみると、脹という漢字のほうが、「長さ」を含んでいるぶん、消化管っぽい。大腸の腸が「ふくよか」という訓読みを持っていたら、おもしろかっただろう。私は病理医としての専門性のかなり上位に大腸病理があるのだけれど、もし大腸の腸が腸ではなく脹だったら、「私はふくよかな世界を専門としています」みたいなことを言えただろう。文字ではなく実際に声に出して言ってみる。「私はふくよかな世界を専門としています」どうしてだろうか、肌が喜ぶような感覚を得た。これは肉体からの報酬なのか、文化からの報酬なのか、単なる誤認なのか、ドパオジのドーパミンはドパドパ出るからもはやよくわからない。

つまり治ったということだ

夜中に目が覚めたら治っていて、えっ、治るんだ、と思った。安心というよりもむしろ狼狽してしまった。昨晩、10時ころ、腹が張るなあと思いながら晩飯をつくり、食い、食器を洗っている間もずっと腹が張っていて、痛みも伴っており、かつ、あまり腸が動いていないと思った。うすうすわかってはいたのだがたくさん晩飯を食い、椅子で一息入れているときもずっと腹の緊張がとれなかった。胃腸が麻痺していると思った。大腸癌で閉塞している可能性もいちおうは考えた。でもまあ麻痺だろう。

今日はとにかくずっと忙しかった、カンファやミーティングの合間にすこしずつ曜日当番の生検をすすめた。大学の病理検体の量はあまり多くはない。20年選手の病理医ならば1日でこなす仕事量としては平均くらいだ。診断のレベルがすごく高いかというとそれもそこまで突飛なことを求められるわけではない、普通に秀才であれば十二分に対応できて、凡人でもがんばればなんとかなる。だから私がこうして働けている。レアな症例がすこし増えた気もするが、それも気の所為かもしれない。だからそこまで言うほどストレスフルではないのだ。それでも、今日はとにかくずっと気が抜けなかった。日中、一度すこし便意があったが、こんな時間にのんびりトイレで座っていられるかと思って、交感神経で抑え込んだ、振り返ればあれがよくなかった。いつもだと、帰りに車のイグニッションを押す(昔は回すと言ったものだ)あたりで屁が出始めるのだが、今日はそれがないのでおかしいなと思った。そして寝るまでずっと腹は痛かった。サブイレウス状態か、いやだなとすこし考えた。夜中に嘔吐したら救急車でいいかなと思いながら、二度ほど寝返りをしている間に寝た。そして午前2時、ファズギターも聞こえない暗闇のなかでふと目が覚めて、数秒ほど状況を確認し、腹が痛くなかったので、私は驚いたのであった。

人間というのは治るのだ。それがすごいなと思う。デスクにも戸棚にも、ワイシャツにもサンダルにもできないことだ。PCにはちょっとできる。そこがPCのすごいところだ。しかし人間の治り方というのはもっとすばらしい。創傷治癒とキスしよう。そうしよう!チュ! まあ治るといってもからくりがあり、たくさんの酸素やら栄養やらをひっきりなしに摂取して補充しているのでタダで治っているわけでもないのだが、外部からの補給は電化製品程度ならばあたりまえにやっているわけで生命だけが特段ずばぬけているわけではない。でも治るというのは別格だ。ああ、人間というのは治るから立派だ。まあ、「治る」という概念を換骨奪胎して、「これが 治る ですよぉ!」と自分なりに定義した結果、言えることなのかもしれないという気はちょっとする。なぜなら、腹は相変わらず重い、しかしこれならば、もう一度寝直して起きたらきっと使い物にはなっているだろう、つまり治ったということだ、という読み替えを無意識にやっている。閾値の設定、ゴールラインの移動。それが人間を美しく見せ、尊厳を高める。

腹がコーヒーを期待している。このあと学生の勉強会でコーヒーが出る。それでまた胃腸はすこし動かなくなるのかなと思う。

診察がすごく雑だったがむしろそうでなければならないとひどく納得した

いちおうPCを持って歩いていたのでコメダに入ってたまごサンドなど注文し、カフェオレは普通サイズにして、しばらく開いてぱたぱたやっていたのだけれど、カフェオレが先に届いた時点ですぐPCを閉じた。働ける気分ではなかった。しかしSNSをだらだら見続けるのもしゃくだ。チー付与のコミックスを1巻から読み直したりもしていたのだけれど、途中でまあまた他の日でもいいかという気になった。


プレゼンも原稿もしめきりはだいぶ先だ。助成金の申請も今は落ち着いている。気を抜くために一食一食をすこし多めに摂取している。米をいつもの二倍食べたり、おにぎりのあとにパンも食べてみたり、サラダを三倍食べたり、味噌汁を四倍食べたりしている。


体重がようやく下げ止まった。このタイミングで健康診断がある。終わってから食べまくればよかったかもしれない。まあよいのだが。


常にどこかの筋肉が傷んでいるけれどそれをどうにかしようという気持ちがぜんぜん湧いてこない。ドラッグストアで売っていた部屋着のデザインがもう少し私好みだったら意味もなく今日買っていただろう。


寝ているうちに小さな地震があり、目が覚め、家人と目が合い、揺れたね 揺れたね と言ってまた寝た。夢で私は飛行機に乗っており、着陸、となりの人を先に降ろさなければいけないので通路でうまいこと身を捩って躱さなければいけないのだけれど、どうがんばっても中学生くらいの女の子が横を通るときに私に触れてしまいそうで、それはよくないことなのでさらに身を捻ってがんばった。みんなより遅く飛行機を降りて砂浜まで走っていくと、定置網とか大漁旗とか、たくさんノイズのある風景の向こうに日が昇って、ああ、この風景をみるためにたくさん飛行機に乗ったのだけれど、見てみるとまあ普通に予想のとおりだな、と思った。


2時間かけて出勤。到着と同時に膀胱が限界だったのでトイレに向かう。その後、今日は健診だ。健診だった。そうだった。さっき排尿したばかりだけど30分もしないでまた排尿しなければいけない。腎臓というのはそんなに素早く尿を精製できるものなのだろうか? 「尿を精製」と書いて、なにが精製だよゴミ処理なのによ、と毒づくも、腎臓の機能を思い浮かべるとたしかに尿というものは「精製」という言葉がしっくりくる程度には細やかな調節の末に排出されるもので、となると余計にもう尿なんてそう出てこないだろうと思うも、トイレに行くときちんと尿が出るので心底驚いてしまう。これって残尿? まったく排尿欲がないときでもがんばるとそれなりに尿が出てしまうというのはいったいなんのためのバッファなのか? 健診のためか? 神は人に健診を受けさせるために膀胱の内容を一度にぜんぶ流しきらないように三角部を膀胱の最下端ではなくすこし上のあたりに設定した? 神もびっくりだろう、こんなかたちで名指しされるなんて。

一人前おまち

思えば高校、大学、大学院、そして病理医になりたてのころ、あるいは30代なかば、40代に突入してからと、けっこうな長い期間にわたって私は「自分の裁量で自分の仕事を動かせること」を目標としていたし、待ち望んでいた。それが私にとっての幸せというものなのだろうとばくぜんと思っていた。

たとえば私が病理診断というものを書くとき、キャリアの浅い病理医の書くものはあくまで「下書き」で、それが主治医や患者に対して直接送信されることはない。必ず上級医のチェックを受け、書き直されて、臨床側に送信される。私はこの「下書き」までしかできない状態を、ストレスと感じていた。早く一人前になりたい、とずっと思っていた。

今、当たり前のことを書いている。

料理人が自分の作ったものを客に出すのを目標にするのと、病理人が自分の作ったものを客に出すのを目標にするの、一文字しか変わらないし、内容は一文字分の違いすらないと思う。普遍的だ。




気づけば今の、48歳である私は毎日、生活時間の5~6割くらいを自分で動かしている。そうか、今が、望んでいた状態だなと、書いていてふと感じた。私は今、間違いなく一人前であるし、まあそうじゃないといろんな人が困るだろう。

もちろん、ネットワークの中で暮らしている以上、他者の依頼、他者の都合、他者の理屈から自分が切り離されることはない。10割自由に働けるわけではない。たぶんそんな日はこない。でも、自分以外の誰かの関与が必要な仕事を、これ以上減らしたいとか、それに私が縛られているとまでは思わない。

そこの感覚はきっと、料理人も同じなのではないか。古い言い方で「一国一城の主」などというが、客商売はそもそも、自分がやりたいようにやっていては回らない。「主」ヅラでは商売はできない。自分の手で握った寿司とか、自分のナイフで整えたケーキとかが、客にそのまま出ていくというのはとても自由で解放されているが、とはいえ、業務とはだいたい自分と相手の間のスペースで行われるものだ。客のオーダーによって仕事の内容は毎日変わる。仕出しの弁当を作るとかイベントに自作を出品するといったときにはオファーの内容によって自分の得意な技術すらもアレンジするだろう。仕入れ、衛生管理、税金、設備投資、そういった話も、自己の裁量だけで回そうと思うとかえって不安定だし危険だろう。


私の今の仕事のうち、病理診断に割く時間はだいたい3割といったところ。この診断を思ったように書けるという点、ここが、私がかつてからずっと目指していた部分である。では、病理診断に関する業務はぜんぶ自分の能力でやりきれるかというとそんなに簡単なものではない。「英語がしゃべれるようになりたい」と「病理診断ができるようになりたい」は似ている。病理診断とは言語だ。相手ありき、だし、それを使って何を語るかのほうが肝要だ。

そして、ほかの7割、研究協力や学術活動、教育、そして事務、こういったものはもはや、「自分でやっている」とは思えない。特に事務作業、膨大な事務作業、大学に来てからは特に増えた。先人たちがいうとおりだ、大学は忙しい。でも、ここまでの社会経験によって「まあ、こんなものだろう」と感じていた分量を大きく超えるものではなかった。分量が問題ではない。引っかかるのは常に他者との関係だ。

だからだろう。あれだけあこがれていた「一人前」になった今、そのことを毎日喜んでいるかというと、そんなことはなかった。ぶっちゃけ忘れていた。一人前、という言葉も軽く思える。それがどうした、という感じだ。

じゃあ、目指した「自己裁量」の分量がたかだかこれくらいのものだったからと言って、今の私が何かそこに足りなさを感じているかというと、そんなわけでもない。こんなもんだろうと思う。

私は、現実の落としどころとして無難なかたちで、自分がなりたかった私になった。




ごく平均的な社会人が取り組む仕事というものは、そもそも自分ではコントロールできない部分がこんなにたくさんあるのだな。自分の裁量でぽんとプロダクト(笑)やらコンテンツ(笑)やらアート(爆)やらを提示すればそれだけで食っていける、なんてことはまったくなかった。

心身をすり減らしながらも、なんとか立ち向かってやりすごしていく時間がすごくたくさんある。ははあこれが働くということなのだ。



自分の裁量だけでは働けない。私はそう思う。一方で、社会には「我を出す」タイプの人はたくさんいる。自分の裁量を押し通そうとする。ひとりの自立した人間なのだから尊重しろというふるまいをとる。間で働くということをしない。自分に引き寄せるか相手に押し付けるしかできない人たち。そういった人たちに、あたかも「自分がやりたいようにできていると錯覚してもらいながら」、そのじつ、みんなと融和した状態で、摩擦なく、咎なく、そこそこの結果を出し続けていただくためには、幾人かの枯れた人間が間でずっと調整をはかりつづけていかないとならないと思う。「そんなワガママな人間など切り捨ててしまえ」と言えるのは人が余っている業界だけだ。

で、そういう調整が行われていることをいいことに、「なら自分は、ワガママを言うほうとしてあと数十年を生き延びよう」みたいなことになっている人がたくさんいる。

いるけれどそっちを選ばない、というのは私の見栄なのだろうと思う。見栄以外になにか堂々とした哲学や思想がほしいという気持ちはある。せめて見栄を張るのではなく見得を切るようにふるまえたらよいと思うのだが。