たまに書くことにします

水曜日の朝にはじめた学生向けの勉強会が好評で、それはひとえに教授と私が週替りで購入するそこそこ値の張るパンが食えるということ、教授が買ってきたちょっとよさそうなコーヒーメーカーで朝から淹れたてのコーヒーが飲めるということによるものだ。学生の中には、私が10年前に息子といっしょに数回だけ通った習い事の場で私を見たことがある、という人の子(複雑だが学生本人というよりその親が私を知っていた)もいて、へんなところでつながりがあるもんだなあとしみじみしている。

「偉い教授やワーホリの准教授が学生にぎりぎりわからないくらいの学術を説いてそれが人気を博す」みたいなことを狙っているわけではまったくない。医者とは言いながらまだ学生に毛の生えた程度の3年目の医師が中心となり、年の近いもの同士の「屋根瓦方式の教育スタイル」で、学生の直近の目標として高すぎない程度のレベルを目指してみんなが和気藹々と、しかしにじりよるように学問に向かってくる。学生は、コーディネーターを気取る3年目の医者なんてものを、おそらくわりと舐めているだろう。しかし、3年目の医者の中でもちゃんと優秀な人間を配置している。学生から見て、「あれ、私って、卒業して3年目にあのレベルに達しているのかな……?」と、だんだん不安になるくらいだとちょうどいい。


この勉強会から得られる情報や生まれる交流が、はたして学生にとって有意義なものになっているどうかは、今後いろいろ見ていかなければいけない。いまのところ、学生がただ英語を音読して翻訳し、ただ専攻医が用語を解説しているだけの会だ。ゆるくてふわっとしている。正直私がコアメンバーなら、もう少しレベルの高いところまで踏み込んでほしいなと、若干物足りなく感じるかもしれない。でも、「難易度:やや低め」くらいのレイヤーに、副次的にさまざまな色味や外連味がにじむ、「難しくはないんだけどじわじわくる勉強会」を目指したいので、しばらくは様子をみる。

本来、病理部はマニアックでどこまでも深堀りしていく場だ。デフォルトが意味不明な専門用語の塊で、それが心地良いと感じる人とはとっくに仲良くし終わっていて、だからこそ、病院の端っこで卒業生の0.6%くらいにしか見向きもされない部門として存在感という名の腐臭を撒き散らしている。そこにこうして「コーヒーを飲むためにマスクをはずした病理医の素顔を盗み見ることが可能な場」が生まれることに、おそらくそれなりの意味はある。

並行してもうひとつ勉強会をはじめた。そちらはごりごりの病理学研究の抄読会で、医師・技師スタッフ内で開催しており、まだ学生にはオープンにしていない。今後、「もし朝の勉強会だけじゃものたりないという人がいたら、月に2回、木曜の夕方なんだけど……」と、私の興味全開の会にも来てもらえたらいいなと思う。そこまで「こちら寄り」の人間がいたとしたらそれはそもそも病理医向きだろう。2学年に1人いればいいほうである。

それはそれとして、木曜の夕方のほうを本命、水曜の朝のほうを客引きと、完全に分けてしまうのもつまらない。むしろ水曜の朝のほうが本命ですらある。そこはなんというか、ちょっとニュアンスが違うかもしれないけれど、「普通の医師のアカウントよりも病理医ヤンデル(1期)のほうがトータルでは強かったよね」みたいな話なのかなと思っている。違うかもしれない。


北大第2病理の故・長嶋和郎教授がはじめた「おはようロビンス」という会は、その次の教授である田中伸哉が引き継いで、すでに長嶋時代よりも長く続いている。あれがまた見事に「Robbinsを音読して訳すだけ」の会だ。しかしそれが「病理学の扉をひらく」きっかけになっていることはまぎれもない事実で、ものすごい数の病理医がその会から育ったし、その10倍以上のおもしろ臨床医がその会の卒業生なのだからすごいなと思う。私たちの勉強会「おはようNEJM」(なんとださい命名なのだ、もう少しなんとかできないか)も、なんらかのかたちでそういうニーズを満たせるようになればいいと思っている。



※本文中、ワーホリはワーキングホリデーの略で、休日にも働くことを意味します

球磨川禊文体はあると思う

藤田和日郎のマンガを読んでいると、ストーリーとかセリフとか擬音の爽快感とかいろいろと「語れる」部分があってそれはもちろんすごく楽しいのだが、独特の白い間だとか、展開の合間にはさまる動きのないコマのような、「意味を削ぐことでかえって心に引っかかるもの」に妙に味わいがあることに気づく。そういったものをたとえば仮に「休符的表現」と呼ぶことができるだろう。音楽や映画には、広い意味で休符による強調というものが広く用いられる。音を鳴らし、セリフや動きを見せるのではなく、無によって人の心にざわつきを与えるような表現。

この休符的表現を、文章でやろうと思うとどうなるか。ただスペースを空けたり行を変えたりしても、芸能人が事務所に言われてやっているブログかよとしか思わない。3点リーダを多用しても平成のオタク感が増すばかりだ。思ったより難しい。まあ、マンガもそうだと思うが。

俳句や詩には「間」をもたらすような表現技法がたくさんある。ただ、その間はどちらかというと「読み手の想像をふくらませるもの」という意味合いが強く、休符というよりは指揮棒を振り終わったあとの余韻みたいな印象を受ける。ちょっと別物かなと思う。

AIと数回壁打ちをすれば文章表現においての休符的効果を得るための技法みたいなものがいくらでも出てくるだろう。けど今日は深掘りはやめておく。少なくとも私は休符的表現を用いた文章を狙って書いたことはない。結果的にそうなった文章があったとしてもそれは意図的ではない。



ところで、そもそもマンガにおける間というものがほんとうに休符としてとらえるべきかどうかも難しいところだ。スタッカートが強すぎてノイキャンされるときの効果、あるいは、「女優ライト」のように、露光を狂わせて白飛びを起こさせる効果なのかもしれない。では、女優ライトのような文章、というのはあり得るか。まばゆく照らすことで小ジワを飛ばしてしまうような文章。そういうのをやりそうな作家というと円城塔あたりかなと思う。もしくは、めだかボックスの安心院なじみみたいな作家がいれば「白飛びの間」を使いこなせるかもしれない。読んでみたい気はする。どっと疲れるだろうな。


キャッチャーアライザライ

冷凍豚肉をレンジで半解凍して、キャベツとたまねぎといっしょに肉野菜炒めにしようと思ったのだが、キャベツから出た水分が多くて肉野菜煮になってしまった。味は薄目の焼肉のタレ味だがまあ普通に食えてよかった。限られた食材をぶちこんで、限られたスパイスで味付けするのだから、そうそう失敗はしないはずなのだけれど、実際にはこのように、野菜から出てきた水で料理のジャンル自体が変わるほどに大きくずれが生じる、この現象に名前を付けて何かの寓話とすべきかなとしばし考えたがまあなんかどうでもよくなってきたのでやめた。あらゆることから教訓を引き出そうとするのはSNS時代の悪癖であろう。

自分に降り掛かってくる何もかもを学びにしています、と、瞳孔を開いて甲高い声でキータッチする人間の、インプレッションがじわじわと上昇している昨今、体験から何かを「引き出す」のではなく、体験をいったん「引き受ける」ことを意識してやっていったほうがいいのではないかと私は思う。スピリッツの最新号を買ったら、よく歳を取った後藤隊長が出てきて、さあここから盛り上がるのかと思ったらたいして盛り上がりもせずに新シリーズの宣伝にさらっとつなげて話は終わった、しかし、よく歳を取った後藤隊長を私は見たなあと、それをまずちゃんと引き受けようと思った。それくらいのほうがマンガは楽しめる。10代前半のころに夕方のテレビで放送されたアニメ・パトレイバーで、後藤隊長と南雲隊長がカラオケだったかラブホテルだったかの中で過ごすシーンというのが出てきて、それを私はほんとうに長いこと、「私がそのように勘違いしただけの妄想」なのではないかと疑っていた。しかし先日、全く違う文脈、メディアミックス作品のうち同一の設定をもとにメディアごとにまったく違う話を作って行く方策をとったもののことを読んでいて(代表はもちろんパトレイバーシリーズだ)、その中にまさに私が小学生のころに見たシーンが出てきそうな話がきちんと記載されていて、中等度にでかい声が出た。組織病理用語風に言えばloud voice, moderateだ。いや、loudでありながらmoderateということはありえるのか。こういう適当英語を聞いたネイティブはどういう気持ちになるのだろう。たとえばレストランなどでちょっと離れたところに座っているそこそこ日本語の上手な海外の人が、「おいしいリョウリ、チュウトウド!」などと言ったら、私はそれをどう聞くだろうか。チュウトウド、のところをきちんと中等度と変換できる自信はなくおそらくUAEとかオマーンあたりの料理に似ているのかなとかへんなノイズで頭の中を埋め尽くして、いくつかのシナプスはびっくりして手を引っ込めて、その引っ込めた肘の部分がとなりのシナプスに激突してあっどうもすみません、いえ大丈夫です、みたいなやりとりの末におそらく脳の接続がちょっとずつずれたりするだろう。冷静に読み返すと、この段落、どうなってんだ、どこに向かいたいんだ。向かいたくはないのだ、なるべく何かを出さないための思考のさなかにいる。

火曜日はいちばん仕事が多いというので私の担当にした。しかし、ちかごろ、別に水曜日も木曜日も金曜日もふつうに仕事は多いのではないか、という気がしている。それに気づいたとき、「仕事が多い曜日を担当してがんばっているというプライド」みたいなものに、私が思った以上に自分の重心を乗っけているのだなあと感じて、思わず何かを言いたくなったけれどまずは黙って受け止めるだけにする。

深呼吸しただけだヨ

電車にたくさん乗る出張のおかげで、読もうと思っていた本や雑誌を一気に読み進めることができた。2日間で6時間くらい乗っているから、途中、多少PCを開いてメールの返事などをしたとしても、十分に読書の時間をもうけることができる。近頃はこういう「読書くらいしかすることがない時間」をなかなか設定できなかったので、やはり出張は多少面倒でもときどき電車にしたほうがよさそうである。でも、一気に読みすぎて、旅の途上で読む本がなくなってしまった。もう一冊、サラ・ピンスカーの第2短編集も持ってくればよかったのだが、荷物が重くなるのが嫌だったのと、なんだかまあ今回はいいかなと思って置いてきてしまった。サラ・ピンスカーの第2短編集は、第1短編集の非凡極まりない完璧な出来栄えと比べると、「おそらくこちらのほうが書きたいことなのだろうが、それほど心を動かされない話も多い」みたいなことになっている。そのため、1/3くらい読んだところでいったん保留としている。おもしろくないわけではない。でも、ちょっと説教臭い。教訓めいて、教訓めきすぎて、めきめきしていて、すこし鼻につく。はっとするようなおもしろい短編もあるので、最後まで読むとたぶんまたお気に入りの本になってくれるんじゃないかなとは思うのだけれど、買ったばかりの頃の期待値をまだ越えていない。そのことが確定してしまうかもしれないと思うと、なんだかあまり急いで読み進められない感じだ。私のメンタルが抜群に調子のいい日に読もうかなと思っている。そんな日がいつくるのかはわからない。

書いていて思うけれど最近の私はブログになにかを書くときに微妙に不機嫌な気がする。

PCを後ろから覗き込んでも画面が見えなくなるシートをオンラインで購入。そこまでせんでも、と思っていたけれど、メールだけならいいかな、なんて考えだったけれど、ちかごろは臓器が出てくる論文に目を通しながらコメントを付けていくといった仕事もあって、さすがに公衆の面前で誰もがうっかり目にしてしまうような状態を放置するのはまずい。「マグネットでPCにくっつけることができるやつ」を選んだ。それはいいのだが気になるのは「ブルーライトカット」というところだ。「マイナスイオンたっぷり」「ポリフェノール入り」「マイシグナルで安心」あたりは同じ箱の中に入れている。

ほらまた不機嫌だ。加齢によって前頭葉の機能が低下して、何かに不満を持ったり怒りを覚えたりしやすくなってきたのだろうか。

出張先のホテル、朝、フロントに向かうべくエレベーターに乗る。ドアが開くとそこには3名のがたいのいい高校生がいて、朝食会場でも見た、なにかの部活の大会で宿泊しているのだろう、バドミントンあたりをやっていそうなジャージを着ている。男性3名。ひとりはエレベーターのボタンの前に陣取っていて、残る2名は反対側で、「小さい前ならえよりも近い距離」でぴったりと縦列に並んでいる。入る場所はその1名と2名の間のところしかない。無感動のまま彼らの中に挟まるかたちでドアに正対する。1名のほうが「おい……」という。2名、しゃべらない。なんかくすくすと言っている。悪ふざけの途中で私が紛れ込んでしまったからなんとなく3名ともそのまま静止している、といった感じである。なんの意味も生産性も物語もない時間が1分ほど流れる。男子って、こんな感じだったよなあと、妙な感慨を覚える。ところで『アオのハコ』のバドミントンのシーンってぜんぜん読んでないし誰が誰とくらべてどれくらい強いかもぜんぜん覚えてないんだけど、青春ってどっちかっていうとバドミントンのラケットを左後方に放り出すように伸ばすときの足が左右逆だったな、みたいな人生の岐路でもなんでもないどうでもいい選択の繰り返しだったわけで、青春を描いたマンガのそういう細かいところが全然頭に入ってこない時点で私はもう青春を見聞きする資格も能力も失っているんだなあと、深くため息をつくけどこれは別に不機嫌でついたため息ではないヨ。

専門の話なので読まなくても大丈夫です

前の職場を辞める前の5年くらいは、病理解剖の報告書をだいたい3週間くらいで書いていた。一般的に解剖の報告書は3か月から半年以内に出すとまあ合格、くらいの感覚とされていて、私の報告の出し方はすごく早かった。ただ、これは私が優秀だとか熱心だとか神だとかいう話ではまったくなくて、ひとえに、「臨床検査技師が通常の検体と同じくらいの速度で解剖の標本も処理してくれるから」という側面が大きかった。

解剖後、2日で切り出しをして、そこから1週間以内にすべての標本が上がってくるとわかっているからこそ、毎回同じペースで検索をすすめてレポートを書き、写真をとり、パワポをつくり、プレゼンまでまとめることができる。一気呵成の3週間だ。臨床医がレポートを読んで理解して、患者の遺族に説明をしたり、科内で相談をしたりして、だいたい2か月もすると臨床病理検討会(CPC)を開催し、研修医たちを招いてごりごりディスカッションをする。解剖後、3か月くらいの時点でCPCができると、担当医たちが次の勤務先に移動していなくなっているということもないし、何よりみんな、その患者についての記憶が新しいから、議論もすごく深まる。

解剖を十分に活用するにはとにかく早く検討を終えるに越したことはないのだが、ここでおそらく(私にとって)一番大事なのは、「切り出しを早く済ます」ことと、「技師さんがものすごく早く標本を上げてくれること」であった。標本ができてくるのが遅ければ遅いほど、解剖の後に入った仕事に忙殺されて、なかなか解剖関連の業務までたどり着けない。非常にいやな言い方をすると、「すでに亡くなっている人の検索と、今生きていて、これから生き死にに関わる選択をするかもしれない人の検索」だと、後者を優先せざるを得ないところがある。したがって、解剖関連の業務というのは、とにかく大事な部分を一刻も早く、急いで急いでやっていくことが肝心であり、そのスピードを可能にするのは臨床検査技師の強力な支援なのであった。

じゃあ解剖臓器の標本のできあがりが遅い病院は、技師がちゃんと働いていないのか、といったらそういうわけでもない。それはもう、バランスなのだ。バランス。一般的な患者の検体にかんする作業が一日の中にどれほど詰め込まれているかというのは、その病院の検体量と技師の数、さらにはその技師が病理以外の業務にどれだけ従事しているか(生化学や一般検査や細菌検査などのサポートに入っている病理技師も多い、当直もしているかもしれない)、さらに、マンパワーだけでなくマシンパワーの問題もある。病院が大きくて技師がいっぱいいればなんとかなるというものでもなくてとにかく配置とバランスなのだ。前職場で、私が在籍していたころは、検体量は爆裂に多かったが技師の業務が大変うまく回っていて、解剖の標本もきちんとルーティンの業務の中で回せるだけの体制になっていた。だから私はあのスピードで解剖関連業務がこなせていたのだなということがよくわかる。

今はさすがにむずかしい。3か月はかかってしまう。臨床サイドには申し訳ないなと思っている。切り出しもだいぶ早くやったし標本も相当早く出してもらっているが、そこからなかなか先に進まないことが多い。この職場にもう少し慣れたら、もう少し早くなるとは思うのだけれど、慣れる・慣れないなどと甘えたことを医者が言っている間にも、患者は生き、そして死んでいく。申し訳ないなと思っている。