一人前おまち

思えば高校、大学、大学院、そして病理医になりたてのころ、あるいは30代なかば、40代に突入してからと、けっこうな長い期間にわたって私は「自分の裁量で自分の仕事を動かせること」を目標としていたし、待ち望んでいた。それが私にとっての幸せというものなのだろうとばくぜんと思っていた。

たとえば私が病理診断というものを書くとき、キャリアの浅い病理医の書くものはあくまで「下書き」で、それが主治医や患者に対して直接送信されることはない。必ず上級医のチェックを受け、書き直されて、臨床側に送信される。私はこの「下書き」までしかできない状態を、ストレスと感じていた。早く一人前になりたい、とずっと思っていた。

今、当たり前のことを書いている。

料理人が自分の作ったものを客に出すのを目標にするのと、病理人が自分の作ったものを客に出すのを目標にするの、一文字しか変わらないし、内容は一文字分の違いすらないと思う。普遍的だ。




気づけば今の、48歳である私は毎日、生活時間の5~6割くらいを自分で動かしている。そうか、今が、望んでいた状態だなと、書いていてふと感じた。私は今、間違いなく一人前であるし、まあそうじゃないといろんな人が困るだろう。

もちろん、ネットワークの中で暮らしている以上、他者の依頼、他者の都合、他者の理屈から自分が切り離されることはない。10割自由に働けるわけではない。たぶんそんな日はこない。でも、自分以外の誰かの関与が必要な仕事を、これ以上減らしたいとか、それに私が縛られているとまでは思わない。

そこの感覚はきっと、料理人も同じなのではないか。古い言い方で「一国一城の主」などというが、客商売はそもそも、自分がやりたいようにやっていては回らない。「主」ヅラでは商売はできない。自分の手で握った寿司とか、自分のナイフで整えたケーキとかが、客にそのまま出ていくというのはとても自由で解放されているが、とはいえ、業務とはだいたい自分と相手の間のスペースで行われるものだ。客のオーダーによって仕事の内容は毎日変わる。仕出しの弁当を作るとかイベントに自作を出品するといったときにはオファーの内容によって自分の得意な技術すらもアレンジするだろう。仕入れ、衛生管理、税金、設備投資、そういった話も、自己の裁量だけで回そうと思うとかえって不安定だし危険だろう。


私の今の仕事のうち、病理診断に割く時間はだいたい3割といったところ。この診断を思ったように書けるという点、ここが、私がかつてからずっと目指していた部分である。では、病理診断に関する業務はぜんぶ自分の能力でやりきれるかというとそんなに簡単なものではない。「英語がしゃべれるようになりたい」と「病理診断ができるようになりたい」は似ている。病理診断とは言語だ。相手ありき、だし、それを使って何を語るかのほうが肝要だ。

そして、ほかの7割、研究協力や学術活動、教育、そして事務、こういったものはもはや、「自分でやっている」とは思えない。特に事務作業、膨大な事務作業、大学に来てからは特に増えた。先人たちがいうとおりだ、大学は忙しい。でも、ここまでの社会経験によって「まあ、こんなものだろう」と感じていた分量を大きく超えるものではなかった。分量が問題ではない。引っかかるのは常に他者との関係だ。

だからだろう。あれだけあこがれていた「一人前」になった今、そのことを毎日喜んでいるかというと、そんなことはなかった。ぶっちゃけ忘れていた。一人前、という言葉も軽く思える。それがどうした、という感じだ。

じゃあ、目指した「自己裁量」の分量がたかだかこれくらいのものだったからと言って、今の私が何かそこに足りなさを感じているかというと、そんなわけでもない。こんなもんだろうと思う。

私は、現実の落としどころとして無難なかたちで、自分がなりたかった私になった。




ごく平均的な社会人が取り組む仕事というものは、そもそも自分ではコントロールできない部分がこんなにたくさんあるのだな。自分の裁量でぽんとプロダクト(笑)やらコンテンツ(笑)やらアート(爆)やらを提示すればそれだけで食っていける、なんてことはまったくなかった。

心身をすり減らしながらも、なんとか立ち向かってやりすごしていく時間がすごくたくさんある。ははあこれが働くということなのだ。



自分の裁量だけでは働けない。私はそう思う。一方で、社会には「我を出す」タイプの人はたくさんいる。自分の裁量を押し通そうとする。ひとりの自立した人間なのだから尊重しろというふるまいをとる。間で働くということをしない。自分に引き寄せるか相手に押し付けるしかできない人たち。そういった人たちに、あたかも「自分がやりたいようにできていると錯覚してもらいながら」、そのじつ、みんなと融和した状態で、摩擦なく、咎なく、そこそこの結果を出し続けていただくためには、幾人かの枯れた人間が間でずっと調整をはかりつづけていかないとならないと思う。「そんなワガママな人間など切り捨ててしまえ」と言えるのは人が余っている業界だけだ。

で、そういう調整が行われていることをいいことに、「なら自分は、ワガママを言うほうとしてあと数十年を生き延びよう」みたいなことになっている人がたくさんいる。

いるけれどそっちを選ばない、というのは私の見栄なのだろうと思う。見栄以外になにか堂々とした哲学や思想がほしいという気持ちはある。せめて見栄を張るのではなく見得を切るようにふるまえたらよいと思うのだが。

空のカーリング

浄瑠璃ってすごく水分含有量が多い言葉だ。みたいな一文からブログを書き始めるとき、あとのことは何も思いついていなくて、ただ、そこに一文書き込んでみて、それを眺めて思ったこと、連想したことを、思いついた順番にポコポコ打鍵していくと、いつのまにか文章がすこしずつ伸びていって、最終的には別にそこまでおもしろくはないがおもしろみがないと言えなくもない、くらいの文章の束ができてくる。そうやってブログを書いている日がだいたい2/3くらいある。2月3日ではなく三分の二である。

そうじゃない日のブログは、文字にまだしていない情念みたいなものがゴツンとあって、それを周りから掘っていくために言葉という彫刻刀をふりおろしていく。削るたびに言葉が舞って、それを置いていくと文章が伸びていって、最終的に何か形のあるものが見えてきたかな、くらいのタイミングで手首も肘もすごく痛くなってこれ以上掘れないな、と思ったあたりでブログの記事ができあがる。これが30%くらいある。

あと3.3333...%は!? と、すかさずつっこんでくれる人がどこかにいる。一人は息子だ。もう一人はさむわんへるつの登場人物であるミメイくんである。あとは知らない。見たこともない。




人がコツコツ作ったなにかに対して、あとから「そこが歪んでる」とか「そこの色がへん」だとか、「そこは見たことがあるからつまらない」とか「そもそもこれ要る?」みたいに、つっこむのはすごくラクだ。何かをみると、すぐに脳内に、「もっとこうあるべき」みたいなものが、全体像は決して見えないのだけれど断片的に浮かんできて、その断片と目の前に存在している実物とを見比べて差分をとる。するとなにがしかいいことが言えるようになる。これはほんとうに、一番さもしいことだなと思う。人間の営みの中でもぶっちぎりでさもしいことだなと思う。


こういうことって誰か偉い人は前に言った、とAIに聞いたら、消える気があるど、煮えたぞすちぇ、得す著ペンは植えるが出てきた。どれも前に読んだことがあるようでたぶん私はぜんぜん読んではいないのだ。眼球結膜の表面に流れ続ける涙の膜に文字をサーフィンさせたくらいの記憶しかない。私のまなこは哲学の渚。波打ち際でぱしゃぱしゃやっていても得られるものは紫外線くらいのもので、海の広さにも深さにも到底迫れるものではない。まあ、人間は、陸で生きたほうが。



ぜんぜん話は変わるのだが、先日、「タイトル未定」という札幌のアイドルユニットのメンバーのひとりが、出身地である妹背牛町(もせうし・ちょう、と読む)を訪れる、というTV番組をみた。妹背牛町は札幌から旭川に行く途中にある深川という町のすこし西にあって、難読地名という以外には私も詳しいことはぜんぜん知らなかった。でも、良さそうな施設がいくつかあって、キャンプやグランピングなどにも向いていそうだ。のどかで、清潔だ。いい町なのである。飯もうまそう。ここにはカーリングの施設もあり、大手カーリングチーム・フォルティウスが観光大使をやっていたりもする。本州の人はおそらくびっくりするだろうけれど、北海道の、特に札幌以外の地域ではけっこうカーリングを趣味にしている人が多くいて、釧路や稚内、北見などに住む知人には、社会人サークルに入ってカーリングをやっているという人が思いのほかたくさんいる。


とはいえカーリングは冬季スポーツで、大掛かりなスケートリンク的競技場がないと遊べない。そこで、「ユニカール」という代替スポーツが考案されている。モルック的な動きで遊ぶカーリング、といったらよいか。モルックもカーリングも知らない人にとっては申し訳ないことだが、そうだな、「輪投げ」を、輪ではなく、輪を入れるほうの棒を使ってやる、という感じである。余計わからないかもしれない。


で、そのユニカールがTV番組で紹介されていたのだけれど、「ユニカールとは別名、陸のカーリングとも呼ばれており……」のところでさすがにつっこんでしまった。「別にカーリングも陸だから!」と。しかしそのつっこみは誰にも届くことなくこうしてインターネットの虚空にまぎれて私は消える気があるどに殴られるのである。



妹背牛町: https://moseushi.jp/

究明以下だ

スヌーズ、という言葉からほのかに犬を感じるなあと思っていたがなんのことはない、スヌーズ以外にスヌではじまる言葉をスヌーピーしか知らないからだ。手で書くとマリリン・マンソン的なおもしろみがあるスヌーズ。未知の可能性がある。「マソソソ・マソソソ」と書いてもすぐに理解するオタクたちが、「ヌヌーヌ゛」がスマホの画面に表示されたとして、あっ、スヌーズのことか、とピンとくるかというと、それは微妙だと思う。スヌーズ。よく知られた言葉のわりに誰もその深みを知らない。SNSの有名アカウント(笑)くらいのポジションだと思う。生まれ変わってもスヌーズになりたいとは特に思わない。スヌーズになる、スヌーズである、という表現はおそらく間違っているのだろうが、どこがどう間違っているのかを深堀りしたいとも思わない。言葉の世界ではモブにあたる。


Bing壁紙のチョイスがだんだん雑になってきている。そんなにちらちらたくさんの色を入れられるとデスクトップアイコンが見づらくてしょうがない。AIでそれくらいなんとかできないのか。さんざんAIを振りかざしているくせに肝心なところでAIを使えていない。まるで病理学者のようだ。


虫を殺した。なんの躊躇もなかった。


複数の研究に関わっている。「ご意見番」的なポジションを担当するときと、「小間使い」としての役割を頼まれるときがある。これらはいずれもほぼ同じ意味で、「研究代表者が考えていることを邪魔してはいけない」という共通点がある。遮ってもいけない。異論を唱えるなんてとんでもない。なぜなら研究とは「仮説を証明する」という順番で行われるもので、ご意見番にしろ小間使いにしろ、道化にしろ救世主にしろ、仮説がすでに立ち上がったあとに参画する人間に残された仕事は「証明する」の部分しかないからだ。仮説を見直したほうがよいのでは、というセリフは、理論上は可能なはずなのだが、これが通ることはめったにない)。ドラクエIVで「傭兵」を雇うことができる。金を払って雇うと戦闘のときに自動で戦ってくれる。しばらく働くと戦闘が終わった後にさっといなくなる。冒険の行く先を決めるのはトルネコ(プレイヤーの親指)であってそこに傭兵の意図は一切存在しない。私もああいう感じかなと思う。ただ金は払われないからその意味では傭兵以下だ。「傭兵以下だ」がドラえもんに出てくるある道具と似ているなあと思った。答えは「救命イカダ」。なんでこれ、カタカナなんだっけ、と思って元画像をみるとデザインがイカだ。そうか。これ、ギャグだったんだな。そういうことに気づけるよりも幼いころからドラえもんを読んでいたもんな。


「アイディアだけなら誰でも思いつく」の話をつい先日もここで書いたが、アイディアにも深度や彩度や明度があり、今、世の中で重要なポジションについている人の多くはアイディアの深度に定評がある。超一流の研究者はアイディアの彩度が高い。一方で、たまに明度だけで勝負しているパターンもあって危なっかしいなと思う。

同じ細胞を見ても人によって思いつくアイディアが異なる。一見、似たようなことを考えているなと思ったとしても、そのアイディアの具体性がどれほどか(深度)、ほかの現象と比べたときの線引をどこまでクリアにできるか(彩度)、その考えを世の中に上手に発信できるだけの言葉にできているか(明度)、みたいなところに差がある。基礎研究者も細胞を使って実験をするが、日頃からずっと細胞を見ているとはいっても病理医とは観察の深度にかなりの差があるので、深度勝負であれば細胞生物学の世界に病理医の居場所は確実にある。一方で、実験的手法を用いてある細胞と別の細胞との違いを明確に表現するとき、その手法に明るくない病院勤めの病理医は、思った以上にアイディアの彩度がぼやけていることがある。明度についてはなんというか、カリスマ性みたいなもので、どこで何をしてきたから明度の高いアイディアを持っている、みたいなことは一般には言えないように思う。

色の三要素でいうと色相に触れていないけれど、研究アイディアにおける色相というのは「いくつかちがうジャンルの研究を同時に進めているかどうか」みたいなところに関わる気がする。ひとつの研究を取り上げたときには色相という言葉を私はうまく使えない。


チクワとネギを入れた耐熱容器に水を張り、豆腐といっしょに500Wで3分40秒加熱し、味噌をとくと、チクワの出汁でいいかんじになった。ネギは甘い。豆腐は味が染みていないがまあレンジで作るならこんなものだろう。腹いっぱいになる味噌汁。主食であるはずのサバが付け合わせのサイズだ。キャベツの適当切りにパックのカツブシを載せて上からふりかけをかけた雑サラダを添えて晩飯とした。筋肉がどんどん減っているのがわかる。そのぶん、脳が育っているならばよかったのだが、なかなかそういうわけにもいかず、ただ、中年が小柄化していくだけの一年を過ごしている。

AIにやらせなかった結果

早朝、札幌から旭川に向かう高速道路で、砂川と深川の間あたりに、「蝉の声に満ちた空間」を通過するタイミングがある。なんとも言えない不思議な感覚になる。車での走行中に聞こえてくる音というのは基本的に「通り過ぎる音」だろう。そのとき耳は自動的に「あのへんからだいたい聞こえてくるなあ」という感じで、音の発生源を感じ取り、さらに、その音が移動することで、自分が今どちらの方向に移動しているかも感じ取る。

しかし、蝉の声に満ちた空間ではこの感覚がおかしくなる。高速道路の両脇に広がる森のほぼすべてで蝉が猛烈に鳴いているために、「場を通過する数秒の間、車の周りの全方向から蝉の声が聞こえてきて、そのせいで音が空間を満たしていると感じるし、車がまるで静止したかのように錯覚する」のである。

図解するとこういう感じだ。


セミが1箇所にいる場合


セミが五兆箇所にいる場合


病理解説をしているときもよく思うのだが、この世には、図で解説するとかえってわからなくなるものがある。逆にそこを文章でがんばって説明しようとした『音の聴こえるメカニズム』は名著だと思う(むずかしいけれど)。



なつがれ俺らの猿と

急な仕事でビリヤード。カンカンぶつかって、最終的にポケットに一個も入らない感じである。ずれを直す気もしないので身をまかせるしかなかった。帰宅時間が読めない。明日の出勤時間もわからない。昼からの予定も未定となり、明後日の朝の目覚めも予測がつかない。そこまでじゃないんじゃない、というツッコミが、過去や未来の自分から届く。今の私はそのすべてをベルクソンの円錐で打ち返す。グリップが細くて握りにくいな。先、折れちゃったな。

あと3分で次の仕事。


3時間経って戻ってきた。ブログの編集画面はもはや他人事にしか見えない。急な仕事でビリヤードってなんだよ。思わず読んで10秒ほど無駄にしてしまう。私の書いたものだから、私にはそのたとえがよくわかる、それでもこの違和感なのだから、私ならぬ人が読んだらはたしてどれほどガクンガクンとつんのめるのだろうか。つんのめればいいと思った。みんなつんのめればいいんだ。そのほうが地に足がついているところも見えるし反動で空も仰げる。

オンラインで医長連絡会に出ている。来月の医長連絡会もしくは病院運営委員会で議題を提示しなければいけないかもなと思う。ワークライフバランスを保つための議題。まあなあ、というかんじ。必死で働く人たちには冷たい世の中だ。しかし、必死で働いている人たちは、そのぶん体温が高いので、世の中が冷たいほうが気持ち良い、くらいまである。

ちいかわは見に行っていない。おもしろいんだろうな。そうかな。私はあの、アニメの、時間の使い方、会話の、間の長さが、あまり得意ではないような気もする。先日、ある技師とアニメの話をしていて、その方はワンピースを1000話くらい、一気に何ヶ月かで見てしまうというのでとても驚いた。一日に何話くらい見るとそれが達成できるんだろう。すごいなあ、と相槌を打っていたら、「でも先生はマンガを読むんですよね。マンガでワンピース全巻読むほうが大変じゃないですか?」と言われたのでもっと驚いた。いやいや、マンガのほうがはるかに早く読めるだろう。そうじゃないのか? アニメのほうが早い? 倍速視聴とかを使いこなせばマンガを読むよりも早い、とでも? いやあカルチャーショックだなあ。びっくりした。でもそういうこともあるのかもな、と思った。人それぞれである。ちょっとこれから議題の説明。そのあと発議。


終わって戻ってきた。喉が渇いている。おしっこに行きたい。なんだかままならないバランスだ。人体というのはなかなかむずかしいものだ。偉い人が「夏枯れ」という言葉を出した。「いまのところ夏枯れの兆候はないようです」と言った。そうか。そうか。よかったなあ。夏に枯れている。