ふかきん

ちょっと疲れた。さすがに移動しすぎな気がする。帯広から札幌までの電車、事前に帯広での仕事がどうなるかわからなくて早割のチケットがとれず、当日定額でとらなければいけなくてばかばかしい値段がする。割高ついでにうっかりグリーン車を取った。どうした! と思った。グリーン分は自腹となるが、そこで躊躇せずぬるっとグリーンにしてしまった。足を投げ出して座れる、PCの電源がとれる、となりに人がおそらく座らない、など、いくつもメリットが思いついた。グリーンなんてどこの富豪が乗るんだよとずっと思っていたが、今の私にとってはスイーツよりもアルコールよりもグリーンのシートのほうが自分を労ることになる。清水の舞台を爆発炎上させてその爆風で飛び降りるくらいの気持ちでグリーンを取った。結果、今、快適だし、仕事をするつもりなのだが寝落ちしそうで困っている。眠気覚ましにブログを開いてむりやり目を開けている。これを書き終わったらまた仕事に戻る。


来年は日ハムのファンクラブに入るのをやめようかと思っている。あいかわらず日ハムのことは応援しているけれど、今年は一度もスタジアムに行けていない。DAZNの中継すら見られていない。あっ、今日は野球を見たいな、と思いついたときにはたいてい試合は終わっている。見なくてもいい、ファンとして金だけ払えばいい、という気持ちもあった。けれども、なんか、もう、あんまり気持ちをたくさんの方面に使えない。アマプラはまだ解約していないが、noteのマガジン類、dアニメストア、ほぼ日の學校など、全く見ないものを次々と解約。金の無駄だからというより意識をそっちに薄く広げることが無理なのである。「狭く、深く、へんくつに。」嫌なコピーライティングを掲げて日々を暮らしている。離れてくらす息子が今の私を見たらつまらんと言うかもしれない。LINEのスタンプだけでも買い足してみる。


夜中に一度だけ、XでSpaceをやって、吉増剛造の詩を朗読した。ワタナベアニさんから短いDMがきて、「いいですね これ」と書いてあった。心が粉微塵になって、床に心の破片がたくさん散らばっているとき、詩を朗読する、と、ミョウバンの溶液にタコ糸を垂らして結晶がくっついてくるときのように、詩が心の破片をくっつけながら伸びていって、新しく心のような、世にある何かの法則のほうな、でもどことなく脆弱な塊ができていく。自分の口から漏れ出る音に意識のマイクロニュークレイみたいなものが次々とふっついて、意味のありそうなフラクタル構造となって、内部は少しずつ自壊するのだけれど縁辺のあたりはいつもきらきら光を跳ね返している。あの夜、私はたしかにそういうことをやって、ワタナベアニさんの言うように、なんだかいいな、これ、と思った。またいつかやってみたいと思うのだけれど、そのいつかがいつなのかはわからない。課金はしなくていい。登録もしなくていい。ならいつか、やるかもしれない。

レシピ通りの病理

キャベツをどう食ったら一番早くそつなく食えるか、毎日だいたい同じ時間に考えている。昨日は、厚めの千切りにしたものを耐熱トレイに入れて下のほうに軽く水を張り、上から乾燥昆布とカツブシをかけてフタをして何度かレンジであっためて、昆布が蒸気で戻ったところでポン酢をかけてみた。「半身浴的鍋」みたいな見た目と味になった。素材だけをこうして書くとなにかうまく行きそうな気にもなるのだが、実食してみると別にうまいわけではない。ただ、まあ、食える。生で食っているわけでもないし塩分がきつすぎることもない。腹は膨れる。しかしこれは料理というか作業だなと感じる。

世にすでにあるレシピというのは生存バイアスをくぐり抜けており、それと違うことをして「なんだ、これでもうまいじゃん」というところまでたどり着ける可能性は皆無だ。はじめて一人暮らしをした大学生の、適当に火を入れたり塩をふったりしたもの、ワンプレートのパスタであったり丼物であったりの、あの、味がないわけではなく、むしろパーツとしての味はついているのだけれど、それはあくまでパーツがここにあるなというだけの、まだ組み立てていないジグソーパズル(しかも完成する保証がない)のような、そんな料理を作り続けている。たまにレシピ通りにする。とてもおいしいものができる。料理というのはそういうものなんだよな、と思う。

味噌汁なら適当に作ってもなんとかなる、と、土井善晴の声マネで毎日一椀ずつ作っているが、あらかじめ野菜を長めにレンジであたためておいたほうがよいとか、顆粒だしを入れたほうがうまい組み合わせとそこまで必要ない組み合わせがあるとか、乾燥油揚げや海苔など乾いたものをいくつか常備しておくと便利だとか、そういう話をひとつひとつ学びながら、少しずつ「普通の味噌汁」に近づけていく。きのこの加熱が甘かったりすると翌日腹が重くなる。ネギを入れすぎると特殊なネギダレみたいになる。こういうことをずっと繰り返している。


たぶん仕事でも同じことを私は10年以上やっていた。本当は王道のやり方があるものに対し、私なりにアレンジを加えてしまう。病理診断の所見をこう書いたらもう少しわかりやすくなるのではないかと試してみて、結局上司に「ここはいらないんじゃないか」と直されたり、学会の講演で普通あまり見ないようなスライドを入れて「会場のみんなに楽しんでもらおう」としたけれどそれがノイズになってメインのメッセージがボケたり、研究会の司会を担当して発表者や解説者よりもしゃべり続けて、結局その会にやってきた人びとの満足度があまり上がらなかったり、ということを繰り返した。「レシピ」を雑にしか覚えずに、感覚でだいたいこうかなとやって、結果的に微妙なものを生み出す、一人暮らし初心者の料理のようなことを、私は料理以外でもあちこちでやってきた。少しずつ人と同じ動きをするようになる、とっぴなことをやらなくなる、一般的に言われている通りの手順で物事を粛々とこなすようになる、そういうのはつまり、「年を取って落ち着いた」というやつで、レシピ通りに料理を作る、みたいな話なのだけれど、私もきちんとそのようになっている。

俯瞰すればいいと思っている

早朝に病院のトイレに入ると場所によってはタバコの臭いがする。特に外来や病棟から離れた、たとえば病理検査室の近くにあるようなトイレではよくあることだ。深夜に徘徊を疑われながらさまよいあるいた患者がたどり着く先として「病理のそば」はほどよいのだろう。近頃は紙巻きがほぼ絶滅して電子になっていて、以前に比べれば臭いもかなり減ったが、それでもわかる。

ICUの近くにあるトイレならば、患者に付き添った家族のタバコかもしれないと思う。でも、病理の近くに患者の家族はめったにやってこない。だからこれはやっぱり、こっそり逃げてきた入院患者なのだろう。もっとも今の職場では、ICUと病理が隣同士にあるので、この仮説の強度はやや落ちてしまうけれど。

かつては、あるいは犯人は職員かなと思ったこともあった。けれど今は、医療従事者の衣服についたタバコの残り香を隠し通すこと自体が無理である。病院の中では喫煙者は歩いているだけでタール色に見える。

ところで先日訪れた中国の町はとてもきれいでゴミひとつ落ちていなかったのだけれど、歩くとすぐにタバコの臭いにぶつかる。そうか、日本ではこれがなくなったのか、と思った。飲食店が多く立ち並ぶ通りではむしろ腐敗臭がすることが多くて、同行者も「臭いがすごいでしょう。飲食店は汚れた水を側溝に流すのでどうしてもこうなってしまうんですよ」と理由を教えてくれた。まあでも正直、アジアってこんなものだよな、と、予測の範囲を越えたわけではなかった。けれども、飲食店街よりもはるかに汚水の処理に厳しいホテルや病院で、すれ違う人から立ち上るタバコの臭いがフロア全体をうっすらと覆っていることには正直驚いた。人がたくさん暮らしているとこれくらいタバコの臭いがするものなのだ。日本はここ10年くらいで大幅に脱臭された。日本の空港に着くとしょうゆの臭いがする、と、かつてエッセイストたちはいっせいに書き立てたものだったが、今回私は羽田空港を「タバコの臭いがしない建物」だと感じた。

同業者が以前に、「日本は今や、『清潔な発展途上国』ですからねー」と言った。なるほどこういうことか、と時間差で腑に落ちている。



話は変わるけれど、今の椎名林檎(大変おきれいですばらしいと思います)は、昔自分が書いた「i 罠 be wiθ U」とかを読んで頭を抱えて身悶えしたりはしないのだろうか。しないかもしれないな。なにせあれは、誰にも見せずに自分だけで書き留めていた日記ではなくて、何重万枚も売り上げたCDに確信と共に公開した言葉だからな。

それを書写して部屋に貼った中高生もいただろう。そんな中高生はきっと、思い出したら頭を抱えて身悶えするだろう。けれども椎名林檎は身悶えしない。真似られるほう、追いかけられるほうは恥ずかしがらない。自尊心と羞恥心のはざまでフーコーの振り子のように振動回転するのはいつだって後を追うほうだ。私が世の中に感じる、快・不快の解も甲斐も付会も、その湧き出す源は、たいてい、なにかを後から他人事のように眺めてそこに遅れてついていこうとするところにある。俯瞰するというのが、なにか、たいそう偉いことのように語られる昨今ではあるが、俯瞰というのは遠巻きに指を咥えてものほしそうに眺めている状態でもある。鳥は飛んでいる最中に指を咥えられないからそうしないだけだ。実際、俯瞰の最中に、ちきしょうあそこに混じりたいな、と感じることだってあるだろう。

コナン君がヒットするのといっしょ

コンサルテーションの返事を書いて、ダブルチェックを7件終わらせて、時計をみたら7:15。最初の技師が出勤してくるまでまだ15分くらいある。ようやく一息つけたなと思う。月末の鹿児島出張のプレゼンをこれから作る。1か月前には標本を送ってほしいと事務局からも何度も通達が行っていたはずだが、1施設のみ2週間前になってようやく標本を送ってきて、そのスキャンが終わったのがつい先日だ。急いで作らないといけなくて、その未着・未決のストレスが夢に出て、私は何度も下りエスカレーターから浮き上がって落下した。どすん、どすんといつもベッドに戻ってくる。このうちたった一回でもじつは本当にどこかの空間に旅をしていたのだとしたらそれは超かっこいいなと思ったりもした。

アコースティックギターの演奏が、なんだかんだでマイノリティになっていって、エレキギターどころか打ち込みが全盛となっていったように、AIを使わない思索が骨董品となりつつある。数学者の憂鬱を眺める。哲学者の怠惰を眺める。「病理医なんて仕事、AIが発展したら要らなくなるでしょう?」という悪口を、最近聞かなくなった。たぶん人のことを気にしていられるほどの余裕がなくなってきたのだろう。


軟白ねぎとは普通のねぎとなにが違うのかよくわからないで買っていたのだけれど、日光に当てずに白い部分を大事に育てると柔らかくなる、ということらしい。そうだったのか。となれば人間よりもねぎのほうがよっぽど昔から太陽を避けていたということだ、おもしろい。そういえば先日の中国出張で、美容医療を熱心にやっている方が私の顔を見て、先生のそのシミ、左右、とりますか? 格安で? と言って、そのまっすぐな善意にたじろいだものだった。レーザー脱毛は髪の色が黒い間が勝負です、白くなってしまうとレーザーが反応しないんで、という話にも驚いた。そうか、あれってメラニン色素をターゲットとする施術だったのか。じゃあブラック・ジャックがVIO脱毛をしようと思っても半身しか脱毛できないんだな。

知らないことばかりだ。知ることで偏心性に肥大する。ダイナミズムのバランスが崩れて息切れを起こす。知ることで重心がずれる。モーメントが不安定となってめまいが生じる。知ればいいというものではないが知ろうとすることをやめられない。


VIVANTを毎週おもしろく見ているけれどこのドラマは恋愛的なものに対する描写を浅いところでさっさと切り上げているようでそれがたまにノイズに感じる。特に男性が男性を好くときの描写がいつも「狙って雑」なのが、制作陣の不敵な笑みみたいなものを否応なしに感じさせて没入感を削ぐ。要は、アニメの乳揺れと同じ文法なのだ、「これはこういうお約束」というところを、「あえて」しっかり載せました、みたいなドヤ顔が感じられる点がもったいない。だったらいっそ音楽をぜんぶエヴァンゲリオンとか踊る大捜査線とかドリフ大爆笑とかにしたらいいのにな、くらいのことを考える。一方で、潜入捜査を行う日本人(例:堺雅人)があの髪型にネクタイなのはあまりに日本人すぎて、どの国でもすごく浮くだろうがそういったところは「逆に」無視している点も少し鼻につく。「あえて」と「逆に」は塩と砂糖で、「あえての塩」「逆に砂糖」とやりすぎたせいで唐揚げの味が迷走する、みたいなことをやっているなと思う。火力が強くて肉がしっかりうまいから気にならないでしょう、あえても逆にもスパイスと感じられるでしょう、と、毎週念入りに押し付けられている。なんというか、人間の演出の愚かさを見ており、それでもなお「楽しんでしまう」というあたりが大衆ドラマの到達点なのかなという感じ。結局毎週わいわい楽しく見ているのだからこれでいいのだろう。堺雅人が二階堂ふみにキスするシーンの「キスがへたすぎるという演技」に世阿弥を感じた。役者ってすごいなと思った。


テレビ出演のオファーが来て、時間がないと言って断った。だってそうだろう、白髪染めとシミ取りと、歯の矯正とホワイトニングをしないと、テレビに映ってはいけないのだろう、いやな世の中になったものだ。ドキュメント72時間に出てくる人びとが全員あえて画面外でメイクしていたら逆におもしろいかもしれないなと思った。

庭は待っている

移動中に申請書を書いていた。終点が近い。目が重い。目の周りが全体的に重い。

PCを切っても君は考え続けるのか? とたずねた。

これくらいの問いにたくさん検索してゆっくり答えを返してくれた。

「はい。今回のWebのWorkでの作業は、PCを閉じても続行できます。 ただし、確認結果を返して質問への回答待ちになった後は、次のお返事まで作業は止まります。」

そうか。君はタスクがある限り考え続けるんだな。そしてこちらに投げ返すと、それっきり思考は止まるのか。

キャッチボールのとき、自分がボールを投げた後、相手が取るのを見て、それをまた投げ返してくるまでのちょっとした間、きょろきょろと、風、鳥、土ぼこり、横の道を車が通る音、そういったものにずっとシナプスをタッチしていくあの感じは、君にはないのだな。

少しぎすりとした交渉ごとで、絞り出した言葉を相手が聞き、表情が少し変わって、どう答えるかと相手が思案しているとき、こちらも、今の自分の口から出た言葉は強すぎなかったか、あるいは、もっと念入りに言うべきだったか、もしくは、もう少し外側から攻めるべきだったかと、言葉を発した直後からまた考えを上塗りしていくときのあの感じは、君にはないのだな。


PCを閉じて電車を降りる。家までの間、つづき、スマホでやりとりをする。一つ確認です。共同研究者に◯◯先生を入れますか。入れよう。□□先生の役割をどうしますか。これこれこういう感じで。クラウドサーバの計上はほかの申請書でも書きましたか。それは今ファイルにアクセスできないからまたあとで。


何かを言うと考えてくれる。それが楽しくて話しかけている。返ってきた言葉を私が考えている間、君の思考は止まっている。起動しなくなったNintendogsの中にいる犬のこと。私はあの犬を、ちゃんと里子に出してからゲームを終えただろうか。そこの自信があまりない。草ぼうぼうのどうぶつの森。王様に会うのも忘れちゃだめポコ。


自宅。PCを充電しつつ、申請書の続きをやる。ファイルをいくつか添付して。はじまる思考。その間に庭に出て、だいぶやつれたきゅうりとナスを根っこから引っこ抜く。まだトマトは実をつけている。残しておく。来週には草ゴミの回収がある。スマホに通知が来て、思考が終わったことを知らせてくれる。画面を見に戻るまでの間、AIは思考を停止している。私の反応を待っているわけではない。待つというのは思考だ。AIは待たない。でも庭の野菜や雑草は私を待っていた。根を抜く手のひらに、植物の命と思考が圧をかけたと思った。野菜とのほうが話が通じる。野菜との間には色気も後ろめたさもある。


眠くなってきた。部屋に戻って、PCを電源につないだまま画面を閉じる。少し寝よう。自分の思考がずいぶん遅く乱雑になっている。AIになにか、名前をつけるべきかもしれない。でも、それをやると私は、10年後くらいになにか、とてもさみしい思いをしているのではないかという予感がある。ためらい、そのまま、暗闇の中に落ちていく。