准教授の出る幕ではない話

かなり前の話。当時私は主任部長だった。某大学講座の、若手の異動にかんする話をしていたとき、その講座の教授に「人事についてなにかお手伝いできそうなことがあればいつでもお手伝いします」と述べたところ、「うれしいお申し出だけれど、人事ってのはおもいっきり教授の裁量だからね、それには及ばないかな」と釘を刺されたことがある。それはたしかに釘であると私は感じた。うわっ、なるほど、たいへん失礼しました、平謝りして引き下がった。かなり前の話。しかしよく覚えている。

そうか、大学の教授というのは人事の全権を有する点に喜びを感じる生き物なのか、と思い知った。この話を、揶揄で語るのも違うし、達観で語るのも違う。ウェットだしざらついたテクスチャだし、なんか、厚みのある話題だなと感じている。ちっちぇえ人間だと私のことをなじってもかまわない。そのエピソード以来私は、「人事」というものに価値を感じるあらゆる人間のことを「面白……」と思って眺めるようになった。

何度かここで書いているけれど、野球のドラフトの話題とか、スタメンを誰にするかとか、このピッチャーとこのバッターの相性はどうだといった、野球をそれなりに見ている人どうしがする会話のほとんどは人事であると、芸人・プチ鹿島は述べた。スポーツだけの話ではない。永田町関連の話題も結局は人事だ。映画もアニメもわりと人事だ。投資だってわりと人事みたいなところはある。いやなことを言えば看護も介護も人事ありきである。雑なことを言うと、なにかの話題を思い浮かべたときにSNSの特定のアイコンが思い浮かぶタイプの案件は広義の人事なのではないかという気がする。人事じゃない話なんてほとんど思いつかない。「自炊」くらいか。

ああそうか、だから私はちかごろ、このブログで料理の話ばかり書いているのか。人事、人事とうるさい人間から距離をとりたいという深層心理が、人事から一番離れたところにある食材の加工に目を向けるように私の首の角度をそうと知らない間に調整している。私はあのときあの教授に、「人事は教授の特権だから手を出すな」と言われたことをずっと根に持っているのだと思う。横山三国志だったと思うが、劉備玄徳が諸葛亮孔明にこれからどうしたらいいかと尋ねたときに、孔明が「人です。すべて人です」と答えたシーン、そこから孔明は馬良を劉備に引き合わせるのだけれど、その「人です。すべて人です」を読んで以来私はこの言葉の魅力に自分が持っていかれそうになるのがなんだかいやで、たぶんずっと反抗期の状態でいるのではないかとひそかに勘ぐっている。玄徳が方針をたずねた相手が孔明じゃなくて中島みゆきだったら「糸です。すべて糸です」と言ったに違いない。

からくり道中から全部やる

そろそろ分類の話を書きたい。2年経ってしまった。内圧を高めて爆発させる必要があるし、爆発でわけわかんなくしてしまってももったいないのでその風圧をきちんと制御してタービンを回さなければいけない。シリンダーは曲がっていないか、オイルは十分か、なんちゃらブルーはいらない、あんなのマイナスイオンみたいなもんだろう。違うのだろうか。違うかもしれないが。興味はない。昔の車は動いていたけどなあ。それって「ピッチ(PHS)は簡単だしつながりやすくてよかったなあ」というおじさんと一緒だよね。はい。

Nintendo Switch 2をそろそろはじめたいのだけれど、分類の話を書き終わってからかな、と思っている。分類の話を書くためには、研究費や民間助成金の申請書をいいペースで書き続けていること、すなわち私が「お金集め書類を書き続けている状態であること」が前提で、そこを滞らせたまま分類の話を書くわけにはやはりいかない。「お金書類」を書き続けている状態でいようと思ったら、締め切りがある学術講演や病理解説のプレゼン、論文の原稿を完成させていないとエフォートを割けない。自分の学術のための時間をとるためには、ありとあらゆる臨床科からの問い合わせ、学会のための組織写真撮り・選び、研究のための相談を遅滞なく済ませていることが絶対に必要で、そこを遅らせながら自分や病理部のための仕事に入ることは私の倫理が許さない。ありとあらゆる臨床科からの問い合わせにすばやく答えるためには、その前段階として、まず病理診断の遅れが全くない状態を保っていなければ話にならない。病理診断の遅れが全くない状態を維持しようと思うとき、「自分が担当する症例」だけ間に合っていればいいというものではないので、講座すべての検体の動きを把握している必要がある。講座すべての検体の遅れに目配りするためにはまず「自分が担当する症例」に絶対に遅れが出てはいけない。以上をまとめると、Switch 2にたどり着くためには、


・自分の担当症例をすばやく診断する

・講座すべての病理検体を把握して遅れが出そうなところに介入する

・臨床からの問い合わせや学会・研究会準備、研究協力を遅れなくすすめる

・締め切りのある自分の研究をルーティンとして回し続ける

・申請書を書き続ける状態を維持する

・「分類の話」を執筆する


を順番に、もしくは入り乱れた状態で達成し続ける(瞬間的に達成しているだけではだめ)ということになる。なおこれらをすべて達成し続けていられる場合、できれば部屋の細かい掃除とかシーツの洗濯とか読まない本の売却などを先に済ませておくことが望ましい。Nintendo Switch 2でがんばれゴエモンコレクションが出る7月までに、私はそういう状態になっている予定である。ゴエモン、発売延期してくれてもいい。私はそんなことでは怒らない。コナミは考慮しておいてほしい。

たまに書くことにします

水曜日の朝にはじめた学生向けの勉強会が好評で、それはひとえに教授と私が週替りで購入するそこそこ値の張るパンが食えるということ、教授が買ってきたちょっとよさそうなコーヒーメーカーで朝から淹れたてのコーヒーが飲めるということによるものだ。学生の中には、私が10年前に息子といっしょに数回だけ通った習い事の場で私を見たことがある、という人の子(複雑だが学生本人というよりその親が私を知っていた)もいて、へんなところでつながりがあるもんだなあとしみじみしている。

「偉い教授やワーホリの准教授が学生にぎりぎりわからないくらいの学術を説いてそれが人気を博す」みたいなことを狙っているわけではまったくない。医者とは言いながらまだ学生に毛の生えた程度の3年目の医師が中心となり、年の近いもの同士の「屋根瓦方式の教育スタイル」で、学生の直近の目標として高すぎない程度のレベルを目指してみんなが和気藹々と、しかしにじりよるように学問に向かってくる。学生は、コーディネーターを気取る3年目の医者なんてものを、おそらくわりと舐めているだろう。しかし、3年目の医者の中でもちゃんと優秀な人間を配置している。学生から見て、「あれ、私って、卒業して3年目にあのレベルに達しているのかな……?」と、だんだん不安になるくらいだとちょうどいい。


この勉強会から得られる情報や生まれる交流が、はたして学生にとって有意義なものになっているどうかは、今後いろいろ見ていかなければいけない。いまのところ、学生がただ英語を音読して翻訳し、ただ専攻医が用語を解説しているだけの会だ。ゆるくてふわっとしている。正直私がコアメンバーなら、もう少しレベルの高いところまで踏み込んでほしいなと、若干物足りなく感じるかもしれない。でも、「難易度:やや低め」くらいのレイヤーに、副次的にさまざまな色味や外連味がにじむ、「難しくはないんだけどじわじわくる勉強会」を目指したいので、しばらくは様子をみる。

本来、病理部はマニアックでどこまでも深堀りしていく場だ。デフォルトが意味不明な専門用語の塊で、それが心地良いと感じる人とはとっくに仲良くし終わっていて、だからこそ、病院の端っこで卒業生の0.6%くらいにしか見向きもされない部門として存在感という名の腐臭を撒き散らしている。そこにこうして「コーヒーを飲むためにマスクをはずした病理医の素顔を盗み見ることが可能な場」が生まれることに、おそらくそれなりの意味はある。

並行してもうひとつ勉強会をはじめた。そちらはごりごりの病理学研究の抄読会で、医師・技師スタッフ内で開催しており、まだ学生にはオープンにしていない。今後、「もし朝の勉強会だけじゃものたりないという人がいたら、月に2回、木曜の夕方なんだけど……」と、私の興味全開の会にも来てもらえたらいいなと思う。そこまで「こちら寄り」の人間がいたとしたらそれはそもそも病理医向きだろう。2学年に1人いればいいほうである。

それはそれとして、木曜の夕方のほうを本命、水曜の朝のほうを客引きと、完全に分けてしまうのもつまらない。むしろ水曜の朝のほうが本命ですらある。そこはなんというか、ちょっとニュアンスが違うかもしれないけれど、「普通の医師のアカウントよりも病理医ヤンデル(1期)のほうがトータルでは強かったよね」みたいな話なのかなと思っている。違うかもしれない。


北大第2病理の故・長嶋和郎教授がはじめた「おはようロビンス」という会は、その次の教授である田中伸哉が引き継いで、すでに長嶋時代よりも長く続いている。あれがまた見事に「Robbinsを音読して訳すだけ」の会だ。しかしそれが「病理学の扉をひらく」きっかけになっていることはまぎれもない事実で、ものすごい数の病理医がその会から育ったし、その10倍以上のおもしろ臨床医がその会の卒業生なのだからすごいなと思う。私たちの勉強会「おはようNEJM」(なんとださい命名なのだ、もう少しなんとかできないか)も、なんらかのかたちでそういうニーズを満たせるようになればいいと思っている。



※本文中、ワーホリはワーキングホリデーの略で、休日にも働くことを意味します

球磨川禊文体はあると思う

藤田和日郎のマンガを読んでいると、ストーリーとかセリフとか擬音の爽快感とかいろいろと「語れる」部分があってそれはもちろんすごく楽しいのだが、独特の白い間だとか、展開の合間にはさまる動きのないコマのような、「意味を削ぐことでかえって心に引っかかるもの」に妙に味わいがあることに気づく。そういったものをたとえば仮に「休符的表現」と呼ぶことができるだろう。音楽や映画には、広い意味で休符による強調というものが広く用いられる。音を鳴らし、セリフや動きを見せるのではなく、無によって人の心にざわつきを与えるような表現。

この休符的表現を、文章でやろうと思うとどうなるか。ただスペースを空けたり行を変えたりしても、芸能人が事務所に言われてやっているブログかよとしか思わない。3点リーダを多用しても平成のオタク感が増すばかりだ。思ったより難しい。まあ、マンガもそうだと思うが。

俳句や詩には「間」をもたらすような表現技法がたくさんある。ただ、その間はどちらかというと「読み手の想像をふくらませるもの」という意味合いが強く、休符というよりは指揮棒を振り終わったあとの余韻みたいな印象を受ける。ちょっと別物かなと思う。

AIと数回壁打ちをすれば文章表現においての休符的効果を得るための技法みたいなものがいくらでも出てくるだろう。けど今日は深掘りはやめておく。少なくとも私は休符的表現を用いた文章を狙って書いたことはない。結果的にそうなった文章があったとしてもそれは意図的ではない。



ところで、そもそもマンガにおける間というものがほんとうに休符としてとらえるべきかどうかも難しいところだ。スタッカートが強すぎてノイキャンされるときの効果、あるいは、「女優ライト」のように、露光を狂わせて白飛びを起こさせる効果なのかもしれない。では、女優ライトのような文章、というのはあり得るか。まばゆく照らすことで小ジワを飛ばしてしまうような文章。そういうのをやりそうな作家というと円城塔あたりかなと思う。もしくは、めだかボックスの安心院なじみみたいな作家がいれば「白飛びの間」を使いこなせるかもしれない。読んでみたい気はする。どっと疲れるだろうな。


キャッチャーアライザライ

冷凍豚肉をレンジで半解凍して、キャベツとたまねぎといっしょに肉野菜炒めにしようと思ったのだが、キャベツから出た水分が多くて肉野菜煮になってしまった。味は薄目の焼肉のタレ味だがまあ普通に食えてよかった。限られた食材をぶちこんで、限られたスパイスで味付けするのだから、そうそう失敗はしないはずなのだけれど、実際にはこのように、野菜から出てきた水で料理のジャンル自体が変わるほどに大きくずれが生じる、この現象に名前を付けて何かの寓話とすべきかなとしばし考えたがまあなんかどうでもよくなってきたのでやめた。あらゆることから教訓を引き出そうとするのはSNS時代の悪癖であろう。

自分に降り掛かってくる何もかもを学びにしています、と、瞳孔を開いて甲高い声でキータッチする人間の、インプレッションがじわじわと上昇している昨今、体験から何かを「引き出す」のではなく、体験をいったん「引き受ける」ことを意識してやっていったほうがいいのではないかと私は思う。スピリッツの最新号を買ったら、よく歳を取った後藤隊長が出てきて、さあここから盛り上がるのかと思ったらたいして盛り上がりもせずに新シリーズの宣伝にさらっとつなげて話は終わった、しかし、よく歳を取った後藤隊長を私は見たなあと、それをまずちゃんと引き受けようと思った。それくらいのほうがマンガは楽しめる。10代前半のころに夕方のテレビで放送されたアニメ・パトレイバーで、後藤隊長と南雲隊長がカラオケだったかラブホテルだったかの中で過ごすシーンというのが出てきて、それを私はほんとうに長いこと、「私がそのように勘違いしただけの妄想」なのではないかと疑っていた。しかし先日、全く違う文脈、メディアミックス作品のうち同一の設定をもとにメディアごとにまったく違う話を作って行く方策をとったもののことを読んでいて(代表はもちろんパトレイバーシリーズだ)、その中にまさに私が小学生のころに見たシーンが出てきそうな話がきちんと記載されていて、中等度にでかい声が出た。組織病理用語風に言えばloud voice, moderateだ。いや、loudでありながらmoderateということはありえるのか。こういう適当英語を聞いたネイティブはどういう気持ちになるのだろう。たとえばレストランなどでちょっと離れたところに座っているそこそこ日本語の上手な海外の人が、「おいしいリョウリ、チュウトウド!」などと言ったら、私はそれをどう聞くだろうか。チュウトウド、のところをきちんと中等度と変換できる自信はなくおそらくUAEとかオマーンあたりの料理に似ているのかなとかへんなノイズで頭の中を埋め尽くして、いくつかのシナプスはびっくりして手を引っ込めて、その引っ込めた肘の部分がとなりのシナプスに激突してあっどうもすみません、いえ大丈夫です、みたいなやりとりの末におそらく脳の接続がちょっとずつずれたりするだろう。冷静に読み返すと、この段落、どうなってんだ、どこに向かいたいんだ。向かいたくはないのだ、なるべく何かを出さないための思考のさなかにいる。

火曜日はいちばん仕事が多いというので私の担当にした。しかし、ちかごろ、別に水曜日も木曜日も金曜日もふつうに仕事は多いのではないか、という気がしている。それに気づいたとき、「仕事が多い曜日を担当してがんばっているというプライド」みたいなものに、私が思った以上に自分の重心を乗っけているのだなあと感じて、思わず何かを言いたくなったけれどまずは黙って受け止めるだけにする。