マナーあざっす

猛烈に忙しいが、自分で自分を忙しくしている部分が必ずあるので、この忙しさを誇ってもだめだし達成感を覚えるのもちょっと違う。自分で自分を忙しくしているというのは、「やらなくてもいい仕事を仕事だと思っている」とか、「ほかの業務とかぶっているはずのものを別個の業務とカウントしてしまっている」とか、「まかせておけばいいのに自分の正義感や使命感だけで自分の仕事だと認識して勝手にコミットしている」など、基本的には落ち度、そしてこの落ち度はあとで振り返るとかなり恥ずかしいタイプのものだ。忙しい忙しい、と言っていたころの自分というのがこれまで◯年ぶり◯回目といった感じで周期的におとずれるのだけれどそのすべてが何もかもみな恥ずかしい。したがって今の私もおそらく数年後には恥ずかしく思い出されることになる、そのことに、胸を張って開き直るのではなく、やや背中を丸めて自覚的に頬を赤らめていたいものである。

にしても恥知らずが多いよな世界には。ほんとに。いや違った、恥じらうのは自分のほうだ。



PCの壁紙、毎日自動的に入れ替わるやつにしているのだけれど、今日はモノクロのかっこつけた写真で、ヨーロッパの山脈のふもとの渓流、みたいな風景が広がっている。しかしPCの壁紙がモノクロだとなんだかすごくかっこつけてる感があってこれも恥ずかしい。今日はいちいち恥ずかしい。



カレンダーをみると年末までずっと仕事続きなのだがたしかにこれは自業自得である。ある人に私の専門領域ではない分野の講演をたのまれ、きびしい仕事だなあと思いつつもそれを引き受け、がんばってがんばってなんとか講演のプレゼンを作ったころ、ふたたびその人に会ったときにぜんぜん違う話題で、「市原くんはそろそろ仕事を絞ったほうがいいよ。特に前の病院でやっていた、画像と病理を対比するようなやつとかはそろそろ減らして、もうちょっと大学っぽい仕事をしたほうがいいと思う」と言われたので、「では先生からご依頼のあった例の講演をまっさきにお断りしたいのですが、よろしいでしょうか」と返事できたらだいぶかっこよかったけどできなかった。萩野先生にはこないだ「知ってますか? 大学に勤めたら何を言われてもわかりましたとしか答えちゃいけないんですよ」的なことを言われたがなるほどわかりましたと思って実際に毎日そのようにしている。どんな電話がかかってきても引き受ける。どんなメールもちゃんと返事をする。それが「自分で巻いた種」だと言われればそのとおりである。自分で自分を忙しくしているというのはつまりこういうところに根ざしている。あ、おもいだした、「まなざしている」という表現は、校正の人からすると見慣れなくて直したくなるものなのかな。私はこの「まなざす」という動詞はけっこう使いやすいなと思って最近よく使うのだけれど、これもまた、あとから振り返ると「なんか覚えたての言葉ばかり使って恥ずかしい時期だったな」みたいになってしまうのかもしれない。

正しい味

雪印メグミルクの(どうでもいいけど雪印って今は雪印メグミルクなのか)、「恵」と書かれたヨーグルトがあり、4つパックを買ってきて食べている。白桃が2つ、ゴールドキウイ(?)が2つというセットを今回は買ったのだが、この、ゴールドキウイというやつだけなんだかシャーベットというかジェラートっぽい食感である。ほかの会社のも含めてヨーグルトはたいていヨーグルトヨーグルトしているのだけれど、ゴールドキウイの恵だけシャベシャベジェラジェラしている。なんだか冷たさも増すように感じられる。その謎を解くため特派員たちは恵をさらに1パック買って奥地に向かった。ゴールドキウイと白桃を、同時に食べてみればよいのである。そんな豪華なことをできる日が来るとは思わなかった。ヨーグルトを、いちどに2個も食べるなんて! 血糖値とか血圧とか大丈夫なのだろうか? そこまでのものではないが? ゴールドキウイ。うむ。白桃。ほう。白桃のほうがちょっと入っている実がでかいな。なるほど。果物の実の成分が、ヨーグルト本体に比べると弾性があって塊感があって、舌にまとわりつく感じが少ないため、実の部分が入っていればいるほどヨーグルトは「わずかにぬるく感じる」のだということを今回知った。つまりゴールドキウイのほうには実が入っていないのだ。キウイの成分らしきものがペースト状となりヨーグルトと混ぜられていて、わずかに舌先にざらつきを感じる程度でいわゆる「キウイの実」を噛みしめる時間がない。全体が泥状のヨーグルトだから粘性も手伝って舌の表面にしっかりと冷たさを運ぶ、だからゴールドキウイのヨーグルトはほかより冷たく感じるのだろう。他の人は知らんが私にとっての真実はそういうことだ。「正しい診断」といっしょだ。その人の中のストーリーにはまっているかどうかだけで正しさは決まる。「正しい診断」は必ずしも学術的な妥当性とは一致しないし、まして、その診断が「正しく人を導くもの」とはまったく限らない。ゴールドキウイのヨーグルトが冷たく感じるのはキウイの実が粉微塵に砕かれていてヨーグルト自体の粘稠度と舌への密着性を高めているためである、これは私にとっては正しい、しかしYAZAWAはなんていうかな? いかんいかん、つい反射的に古いミームで満足してしまう。

人間たちの話

エキセントリックな人間たちの話を毎日しているなあと思った。

頭のなかで「エキセントリックな人間たちの話」という言葉をレイアウトしているうちに、柞刈湯葉「人間たちの話」はおもしろかったなということを思い出す。そう、人間たちの話は、おもしろいのだ。語り手によっては。それをおもしろがれないでいるということは私はよき語り手ではないのだと思う。部族とか集落とかの奥まった大きなテントで暮らしている長老とか酋長とかの中にもおそらく話がおもしろかった人とかおもしろくなかった人とかがいて、おもしろいことを言える長老がうまく三世代くらいつづいた場所ではその集団の歴史がきちんと語り継がれる一方で、おもしろいことを言えない長老があいだに挟まってしまった場合は、理解がむずかしいエピソードが歴史の中に異物として入り込んでしまって、物語が中だるみしてしまう、みたいなことも、あったとかなかったとか。ナホトカ。

どうだろう。それは。下手な語り部がいたことのある集団のほうが、歴史の重層化が起こって後世からするとかえっておもしろくなったりもするのではないか。大和朝廷とかもそういう感じだったんじゃないか。


このあと旭川から帯広まで運転をする。挨拶に行くのだ。むかしは、このルートに飛行機が飛んでいたという。今の旭川や帯広の市長に何度も何度も相談したら、また飛行機を飛ばしてくれるだろうか。もしそうなったらそれぞれの都市はどれくらい発展するだろうか。たいしてしないだろうなあ。けど、帯広とか釧路に暮らす高校生たちが、旭川の大学に来るのがちょっと楽になるだろうな。参考までに、旭川・帯広間は自家用車で3時間、バスだと3時間半ちょっとかかる。JRだと札幌乗り継ぎになるので、旭川→札幌で1時間半+札幌→帯広で2時間半の合計4時間。飛行機だとたぶん40分くらいである。空港までの移動を考えてもだいぶ短縮できる。まあそんなことを言い出したらきりがない。女満別と釧路だって飛行機で結んでほしかった。ぜんぶの組み合わせにぜんぶ飛行機が飛んでいたら私たちの仕事はどれだけ楽だったろう。世界に石油がどれだけあっても足りない。


手土産のお菓子を買いに行かないとな。壺屋でよいだろうか。壺屋の店員はやさしい。ただ、箱詰めのお菓子を買う人が少ないのか、セットを頼むとそこからえっちらおっちら、ひとつひとつお菓子を箱に詰めるところからはじめてくださる場合があり、急いでいるときはちょっと困る。まあそういうのをあまり扱わない店に行っている私が悪いのであって、大きな店舗に行けばよいのだろうが、こういう店選びというのは基本的には車が停めやすいところにあるかどうか、通り道にあるかどうか、みたいな基準で考えているのでしょうがない。あ、今、段落ふたつぶん、人間たちとはさほど関係のない話をしたなと思う。気づく。はっ、とする。それくらい私は日ごろほとんど人間たちの話ばかりしている。

ゆくすえを振り返る

清水研先生の『こころの傷つきをなかったことにしないでください』という本がすごいのでまずは読んでほしい。医者はとくに。

さてもイレギュラーな日々、じんわりと首に迅雷が走る。最初は頸椎症が再発したのかと思ったがどうも違うようだ。筋力が落ちて首を1日支えているのがつらくなっている、というかんじだ。首をゴキと鳴らす。いつかこのまま折れてしまうのではないかという想像をして、もう鳴らすのはやめようと思う。 

作家からメールが来たのだがようすがおかしい。あてなが、私と一文字違いの女性になっている。内容は、その女性が送ったメールに対する返信なのだが、返信なのになぜ送り主ではない、送り主と名前の似た私のところに送られてくるのかなと思う。まあ、なんか、こういうメカニズムかな、というのはぼんやりわかるが、ともかく、私はその間違いメールを見ながら、「名前が似ていると、似た作家のことを好きになるのだなあ」という、よくわからない幸福感につつまれた。

タマゴ10個パックの賞味期限が明後日に迫っている。まだ5個のこっている。あしたはなにかを卵とじにしよう。もしくはオムレツでもいい。私はこれまでオムレツを作ったことがないのだけれど、にんじんと、白菜と、たまねぎと、豆腐、そして納豆、このへんのどれかを入れてオムレツを作ってみればよいのかなと思う。だしでまとめたらへんかな。それってオムレツじゃなくて卵焼きだよな。

清水先生は元気かな、と思う。またいつか会いに行こう。そのときまで私は、ときどき私を振り返るだろうけれど、それは私の過去を彼に話したいからではなく、私のゆくすえの話を彼としてみたいからなのかなと思う。

インタールード

学会あけの仕事を粛々とこなしている。今日は本当はもう少し働きたいのだけれど、冷蔵庫に何も物が入っていないから、スーパーが開いている時間に職場を出てすこし買い出しをしないといけない。あまり閉店まぎわに行くと葉物野菜がぜんぜん残っていなかったりするので気をつけなければいけない。


と、こんな感じで書いてしまうと、職場でブログを書いていることがばれるからあまりよくない。今日はにちようびだ! いい天気だ! ごろごろしている! 畳最高! とかじゃないとだめだ。


夏休みを5日とらなければいけない、と言われてひっくり返ってしまった。働き方改革というのは、休みたい人が休めることと、働きたい人が働くこととを両立するからこそ改革なのではないか。


だいたいにして、改革とか改善といった言葉ばかり使う人間というのは信用できないものである。「だいたいにして」というのは方言だろうか。「きっともって」は方言な気がする。地方特有の言い回し、というもののうち、飲み屋でしか出てこないタイプの表現なんかもあって、そういったものを私はまだこの土地で収集しきっていない。というか札幌市北区北17条あたりの居酒屋でしか収集できていないのだけれど。


夏すぎには今の職場のめんつとも飯を食いに行ったり酒を飲みに行ったりできるだろうか。なんとなくだけれど、それくらいになるとさすがに私も、いろいろ慣れているのではないかと期待している。今はまだ、いろいろとやることが多くてそういう気分にはならない。