旅に出ている息子から写真が送られてきており、それは誰もが何度も撮影したであろう駅の電光掲示板の、とりたてて珍しいものでもなくすぐに忘れてしまいそうな断片ではあるのだが、私はそれを見てまるで自分が旅に出ているかのような気になった。少し前になにか読む本がないかとたずねられたとき、果たして今の時代にも通用するものなのかということをあまり考えずに『深夜特急』のKindleのリンクで送り、その後、どうせ送るなら直接的な旅の随筆風小説よりもいくつかひねったSFなどを送ってもよかったかもしれないと少し後悔したのだけれど、彼はあれを読んだから旅に出るのだろうか、それとも旅に出るような気持ちだったから本を探していたのだろうか。折しも、サラ・ピンスカーの新刊が私の手元にとどいている。あるいはこれをきちんと読み、おもしろかったらそのときには息子に送るという手もあるだろう、今回の彼の旅には間に合わないけれど。
毎日デスクとベッドを往復して体重を1日に100グラムずつ減らしている今、私の旅は誰かに仮託するものになりつつある。しかし本を勧めるという行為はどこか旅支度のような心の使い方を要求する。私は居ながらにして旅をしている。
知人がいまさらXをはじめるという、私のアカウントを教えろというので、そのスマホを借りて「病理医」で検索をしてみせる。ほら、ここに出てくるよ、と言いたかったのだけれど、病理医で検索しても私のアカウントは出てこなかった。今はそういう仕様(例:Bioに書いているかどうかを優先し、アカウント名を検索対象からはずす?)なのか、それとも、私のアカウントがこのタイミングでBANされていたからなのかはわからなかった。そして私は急速に自分が半透明になったような気になって、思わずうきうきとしてしまう。昨日、三日前、その前の午前中など、連続で講演をし、三回中二回で座長が「市原先生は病理医ヤンデルとしても有名でSNSでご活躍をされており」という挨拶をしてくれて、まあ、もう、ちっとも活躍なんてしていないのだけれど、人の紹介というのは得てして二周りとか三周りとか遅れた状態で行われるものだよなということを考える。そういえば今日は職場の送別会があり、そこで私は去っていく人間たちになにか言葉をかけなければいけない、冒頭にあいさつを頼まれているのでどうしてもなにか言葉をかけなければいけないのだけれど、大学を去っていく人間に対して大学にいるときの印象でなにかを語るというのは、つまり周回遅れなのではないかという気がする。滑稽だし、気持ちの置きどころがなくなるだろう。お互いにとっていやな時間が流れるかもしれない。だったら、こういうときはやはり、故事成語などを用いて煙に巻くのがいいだろう。その人の具体的な昔話などしないほうがいいのだ。たとえば、こうだ。むかし、Bloodthirsty butchersという人たちがいまして、そのボーカルでありギターをやっていた吉村秀樹という人は、顔はそこまで似ているというほどではないんですが髪型とか着ている服が若干ジャイアンで、言動はもっとジャイアンだったんですが、その彼は、ギターを弾くに当たって弦をいくつか押さえないままノイズを込めてジャーンとやって爆発的に広がった音を出すんですね、でも押さえている弦については、とてもメロディアスな押さえ方をするので、それはつまり適当にやってはいるのだけれどその適当というものが自分の聴覚を通じて違和とかズレとか不快とかが生じないぎりぎりのレベルで適当にやっている、すなわちプロにしかできない適当だったと、私は思うわけです。これからの人間というのはこの、「プロにしかできない適当」を心がけていくのがいいんじゃないでしょうか。おわりです。新天地でもがんばってください。乾杯! いや、乾杯の音頭は私の担当ではない。乾杯! で締めると次の乾杯担当の人が困ってしまうだろう、まあいいか、乾杯!