帰路

広島から羽田に向かう飛行機の機材が変更になった。国内線機材から国際線機材に変わったらしく、なら映画とか見られるのかなと思ったが、あとで実際に乗ってみたけれどべつにそういうことはなかった(提供するサービスまで変更になるわけではないのだろう)。

問題はフライトが45分遅れてしまったことである。機材の変更に伴いおそらく座席調整が必要となったのだろう。15分くらいまでならまだしも45分遅れてしまうと、羽田で旭川行の飛行機に乗り換えることができない。アプリには、私が本来乗るはずだった飛行機のスケジュールの下に、一本遅い時間のフライトが表示されている。こちらに乗れということか。しかし、二次元バーコードが出てこないので、この変更手続が自動で終了しているわけではない。「予約はアプリからは変更できません」と表示されている。カウンターでの手続が必要、とある。広島のホテルで私はしばし考えたがここでできることがほとんどない。とにかく空港に移動しなければ何もできない。

今回のチケットを、往復・乗り継ぎの早割というやつでとっているのが仇となった。予約の変更ができない。復路便のうち、広島→羽田だけを取り消して、新幹線で急いで羽田に移動すれば、本来の旭川便にぎりぎり乗れるかもしれなかった。でもアプリから予約の変更ができない。

こうなると腹をくくるしかない。旭川に戻ったあと、夕方に出勤して、夜中までかけて水曜の午後から金曜の昼までの仕事を一気に片付け、明日の朝に札幌に移動して地方会に出る予定だったがそこをいろいろ見直す。抱えている仕事は多いが急いでいる仕事はない、それはこういうトラブルがいつ生じてもいいように、常日頃からTATを早め早めに回していることの賜物なのだけれど、とはいえ、今日このあとやるべきことができなければ、それは来週の頭の私にタスクをたくさん残して次の出張に行かなければいけないということであって、正直、気が重い。気が重いけれど、腹をくくるのだ。不可抗力、自分ではどうにもできないこと、それはしょうがないとあきらめるのだ。というか、仮にこれが「自分でどうにかできること」だったとしても、なんでもかんでも自分で解決しなければいけないという義務感に首をしめられる必要も本当はないのだ。多少、ゆるんだほうがいい。ひどい目にあっているときは、腹をくくってその状況を受け入れて、あまりあれこれ思い悩まずにうまいものでも食う、それくらいでちょうどいいのだ。

PCを開いてメールに返事をする。共同研究の話、コンサルテーションの話、講習会の案内、打ち合わせのスケジュール合わせ、その中に、スタッフからさっき届いたばかりのメールが入っていて、「今週の私の仕事が少ないので、なにか見るものをくれないか」という内容のことが書いてある。そうか、優しいな、と思った。この二泊三日で私のタスクが積み上がっているのをみて気を回してくれたのだろう。仕事をしてくれることがうれしいというよりも、そうやって気を配ってくれていることがうれしいなと思う。

さてなんと返事をしたものかと少し考える。



もみじ饅頭の入った紙袋が指に食い込んで、私は少し汗ばんでいた。空港ロビーのキッズスペースから親が制御できない声で大騒ぎしてドタバタ遊び回る嬌声が響き、それがいつしか悲鳴に変わって、興奮した子どもたちが頭でもぶつけたのか大泣きして、周りの大人たちの空気が失笑半分、同情半分に変わっていくのが肌に伝わる。札幌行きの飛行機が今から飛ぶとアナウンスされ、あれ? 私もこれに乗れば帰れるんじゃないか? と気づいてカウンターに歩いていって、「すみません、遅れて乗れないと言われたんですけれどこの飛行機には乗れるんじゃないですか」と尋ねる。地上係員は、そんなことあるんだろうか、という気持ちを隠しながら対応をはじめる。しかし私は途中で気づく。札幌行きに乗ってもだめなのだ、私は今日は旭川行きに乗らなければいけないのだから。あっと声を出して係員さんを呼び止め、すみません、間違えました、私は旭川に行くんでしたと言って謝り、その場を辞する。青森行の飛行機が遅れているというアナウンスが流れる。緑色の髪の毛をした人が数十メートル先の椅子に座っている。眼の前に座る中年男性が靴を脱いだ。私はなんだか、猛烈にさみしい気分になり、しかしまあ、さみしさに気づいているときのほうが、さみしさに気づかないでいるときよりもマシなんだよな、と思った。

病理医アサイーボウルです

何周回ってそこなんだ、と思われてもしかたないのだが、最近、トマトってすばらしい野菜だなと思う。トマトを買って料理をすると、その日の晩飯がなんだかすごく厚みが出る。ほかの野菜にはない味、ほかの野菜とも合う味、両方を達成している。おまけに調理法が幅広い。切るだけでもそもそもうまいし、なにかとあえてもいいし、加熱してもいい感じだ。保存もラクである。だいたい年中手に入るのもよい。家庭菜園で作れるというのもぐっとくる。幼稚園児に「やさいの名前、言える人~?」とたずねたらしばらく後にはトマトの名前が上がるだろう、そういう、幼子にとっても知名度の高い野菜というのにはやっぱりそれだけの実力がある。

いんげんも見直した。あいつらレンチンだけで見違える。ちょっと塩を振って魚のヨコにしのばせてフライパンでいっしょに加熱するだけでも「料理」という感じだ。使い勝手がいい。トマトに比べると幼子における知名度は低いだろう、しかし、とうのいったおじさんにとっていんげんというのは実に便りになるいぶし銀だなと感じる。

ナス。ありがたい。だいこん。さすがだ。玉ねぎ。頼りになる。きのこ。すごいやつらだ。

「定番にはわけがある」というキャッチコピーを、むかしテレビで聞いたことがあるかもなと思って検索したけれど、都合のいい読み替えとハルシネーションでなんだかよくわからなかった。でも、まあ、そういうことなんだろうな、と思う。選択圧とか生存バイアスの話をたまにするけれど、現代において「有名」なものというのは、たくさん人びとに試された末にそうして残っているものなのだから、たくさんのメリットを有し、複数の場面で役に立ち、デメリット的にも許容できるものばかりである。


私自身がさほど興味を持てないでいるけれど、野菜なみに世の中にたくさんあって人びとの信用を得ているものはほかにもたくさんある。たとえば整髪料だ。私は中年男性がなぜ髪の毛にいろいろ塗ったりするのかいまいちわからないでいるのだけれど、たぶんそれも、自炊をしていなかった時期のトマトみたいなもので、自分で使ってみればその使い勝手の良さというのが次から次へと明るみに出るものなのだろう。ほかにもたとえばマッサージなんてのもある。貴重な休みの日に1時間も消費して体をもみほぐしてもらったからなんなんだという気持ちがずっとあって、なぜみんな医療におけるtime toxicityみたいな考え方をしないのかと不思議でしょうがないのだが、いざ、自分が受けてみればきっとすごくいいのだろう、だって社会にこれだけ定着しているのだから。ゴボウなんて皮を剥くのがめんどうで買う気がしないよと言った私に「皮ついたままでもうまいよ」と妻が言ったとき私はほんとうに天地がひっくり返るほどの衝撃を受けたし実際皮付きのゴボウはうまくて、かつ汁物に入れてもいいしサラダに入れてもいいしでその使い勝手はとてもよくてさすが有名な野菜だなと改めてゴボウを尊敬申し上げたりしたものだ。マッサージもそれといっしょなのかなと思う。あとちょっとニュアンスは違うけれど、タバコとかパチンコのような、現代においてはそろそろ悪とみなされつつあるものについてもきっと、なんか、理屈も感情も両方にいい感じで刺さってくるものもあるんだろう、ただまあさすがに今の私がこれらに手を出そうとは思わないけれど、残っているものにはそれだけの芯の強さがある。


むりに記事をまとめる必要はないがこういう話を考えているときにたまに思うのは、「病理医ヤンデル」はトマトではなかったな、ということだ。チアシードとかキヌアとか、それくらいの存在ではあったかもしれない。しかし少なくともそれはオクラではなかったしチンゲンサイでもなく、豆腐とか海苔にはまるで叶わなかった。なんの話をしてるんだと混乱している人がいるかもしれないが知ったことではない。私は本当は、病理医ヤンデルを、アロエとかナタデココくらいには育てたかったんだよなと、あの頃を思い出して下を向く。

自分大好きっす

次々と人に会う日、まったく人に会わない日、そういうのが交互にやってくる。あるいは、ある一定の期間はずーっと人に会うんだけどまた別の期間はずーっと人に会わない、みたいなことがまま起こる。

人に会ってなにかを成し遂げるのにはたくさんの才能と努力が求められる。

一方、人に会わずになにかを成し遂げるのにもたくさんの才能と努力が求められる。

両方とも、「成し遂げるには才能と努力」だ。でも、「成し遂げ」じゃない部分、「遂げる前」の部分、すなわち過程においては、才能でも努力でもなくて心がけとかattitudeとか、あるいは運とかめぐりあわせといったものがものを言う。

才能と努力で切り開いていく、というのはじつはうそなのだ。人柄と功徳。流れとラック。そういったものが日常の時間には満ちている。そっちのほうばかり体にぶち当たってくる。

そして、最後の最後、結果だとか成功だとか数値だとか目標みたいな場所にやってきたときにぽんと顔を出して存在感を発揮するのが才能と努力である。

だから、才能と努力については、なんだよーという、ちぇっという、そういう気持ちで向かい合っている。

結果が必要な人間にとっては才能と努力が気になるだろう。

そうじゃない場合は才能も努力もわりとどうだっていい。

途中の感情を大事にするなら気にするべきは「自分が意識して・無意識にまとう雰囲気」と「偶然のいたずら」のほうなのかなと思えてならない。




妻に言われてそうだなと思ったのだけれど私はちかごろ人や場所のニオイをやたらと気にしている。飛行機で隣にすわったおじさんの汗がくさい、とか、タクシーの運転手がさっきまで吸っていたタバコがさあ、とか、そういうことをよく言っているらしく、「気になるんだねー近頃は」と言われてなるほどと思った。なぜ周りのニオイを気にするかというとそれはおそらく自分のニオイが気になっているからだ。誰かと会って話すとき、自分の汗とか口のニオイで相手がひそかに嫌がっていないかということが気になる。別に相手がにこにこ応対してくれているのだから、たとえ私がなんらかのニオイを発していてそれが相手に届いてしまっているとしても、少なくとも笑顔でやりとりしてくれている間は大丈夫……と、考えたほうが精神衛生的にはよいのだと思うけれど、どうにも割り切れない。理屈ではなく感覚の話として、もし自分がなんらかのニオイを発していたら、それによってなんらかの功徳を失うような気がしてならない。それは、人に会う期間だけでなく、人に会わずに仕事をしている間もずっと気になっている。誰にも会わずに部屋にいるだけなのだが自分からなんらかのニオイが漂っているかと思うときついし嫌だと感じる。心のありようだとか、運だとかいう以前に、ひとまず体とか口の中をしっかり清潔にしなければ、「過ごしている最中」がくすんでしまうように思う。こういう話を人にしたところ、ほぼ即座と言っていいスピードで、「自分が大好きなんだね」とリアクションされたのだけれど、そうなのだろうか。自分のことが気になってしょうがないってことでしょ、とのことなのだが、果たして、そうなのだろうか。

人前でしゃべるのが平気だってことは自分が大好きってこと。SNSで一人語りするってことは自分が大好きってこと。ブログなんて書いてるってのは自分が大好きってこと。そうなのだろうか。「自分が好き」ではなく「自分が大好き」には悪意が感じられるが、果たして、私のやっていること・気にしていることはどれもこれも、「自分が大好きだからだね」で片付けるべきことなのだろうか。それもちょっと雑な気がする。とはいえここで、「私は成功とか達成とか最終目的地ばかりを気にしているのではなく、過程において誰かと関わり、また一人で考えることを豊かにしたいのであって、そのときに必要なのは自己愛とはたぶん似て非なる自己分析であり、なんなら私は自分のことがうっすら嫌いで」などと抗弁しても、はいはい、語れるくらいには自分が大好きなんだね、と言われてあじゃぱーとなる。そうじゃないんだけどな。たぶん。

市原ハラスメント略して

羽田空港で乗り継ぎの飛行機を待つ間、ラウンジに行くと白Tにジーンズで平成の江口洋介みたいな髪型をした男が電話スペースで大声でずっとしゃべっているのだ。しかもほとんど同じ見た目が二人。二人とも電話をずっとしているのである。背丈くらいしか違わない。「飛行機で移動する合間に延々と電話をしているのがかっこいいと思っているのであろう服装」だなあと思った。この時代にそんなにネチネチ電話しないと働けない職種ってなんなんだろう。メールとかSlackとかで書けばいいのにそうしないのはどういうことなんだろうか。相手がクライアントだというならわかるが口調はタメ口、それもかなり偉そうなタメ口であきらかに指示出しである。飛行機で移動するスケジュールの最中に電話をしないと部下を動かせない程度の働き方をしているのか……とだいぶバカにして眺めていたのだけれど、まあ、他業種の実状なんて私にはわからないこともいっぱいあるだろうし、文字にすると証拠になるから基本電話、というパターンもあるかもしれない、書き言葉と話し言葉ではニュアンスがかわって仕事のアウトプットに差が出るという業務も世の中にはきっとあるだろう。だからそんな、何もしらないくせに、あまり人をコケにするものではない、それはそうなんだけれど、だって、ここ、公共のラウンジだぜ? そこでこの声量でよいと思っているタイプの男だぜ? ならきっとバカだろう。そのバカが働く仕事だって大したことはないんだ、きっと。人をおとしめるたびにチャリンチャリンと金銭が発生するような類の、どぐされディベロッパーとかアングラ投資家とか、右で売っていたものを右で無償配布していたものと拡大解釈して左で売りさばく系の悪徳業者とかだろう。さっさとラウンジから出ていってくれねえかなと思ったがなかなか電話を切らないので私が出た。共有スペースというのはどれだけ運用側が気を遣っていてもこういうリスクが発生する。静かにすべきところで静かにできない、しない人間というのは一定割合でいる。私もそういうのをすごく気にするタイプではないと思っていたけれど、結局こうしてブログに書いてしまったし、たぶん自分で思っている以上にいらいらしたのだろうな。やだな、声と顔のデカいタイプの人間。


で、そういうことを、自分もどこか違うシチュエーションで、違うペルソナで、やってしまっているかもしれないなということを常に考える。常に考えたほうがいいだろうと思う。


自分の思い通りにならないときに人前でぐんぐん不機嫌になっていく人間のことをふと思い出す。さっきのラウンジの男とはまるで違う見た目、性格、人あたり、だけど「公共」の場において我を通すという意味で同じハコにぶちこんでしまうなあ。


飛行機の時間が近づいてきた。知人LINEがきて、リュックにお守りをつけたら翌日にはなくなっていたというので、それはなんか、誰かにとられちゃったのかもしれないなと思いつつ、厄落としという言葉でこれをなぐさめてよいものかとしばし悩む。まあ、いいんだろうな、と思って「厄落としだと思えばいいよ」とLINEをした直後に、「どう思えよ」「これこれこのように思えよ」というLINEを軽々しく送ってしまう私もまたなんらかのハラスメントの基質を持っているのだろうなと思う。

しゃべるく損

研究費を次々申請したいし次の講演のプレゼンも作りたい。日常の診断ルーティンは増える一方で指導やチェックの役割も右肩上がりだ。だから私は「がんばれゴエモン大集合!」を買うことにした。令和にゴエモンばっかコスんな、とナナシノにたしなめられても構わない。ほんとうはダビスタとかスターフォックスとかもやりたいんだけどまずはゴエモン。こうやって書くとはっきりわかる。私は今、過去に生きている。

過去に生きているよなーと思う。

ちかごろまわりで見聞きする人びとの中で、過去を現在とブレンドしながら暮らすのがダントツに上手だなと思うのは燃え殻さん、より正確にいうと燃え殻さんの書き出している書籍内の燃え殻さんの人格。実際に彼がそのように暮らしているかどうかは私にはわからない。でも、あの、文章上のスタンスこそは、過去を現在と撚り合わせながら生きるやりかたのどまんなかだと思う。

それに比べると私は、ずいぶん前に通り過ぎたゴエモンに拘泥して自分を立て直そうとしながら、来週のために、来月のために、来年のためにと未来のことで頭の中を埋め尽くしている。過去と未来が肥大して、谷間に挟まれた現在が狭小化して、円錐が収束していく先の、点の部分に、うまく視界のフォーカスがあわなくてぼやんとしていて、それで私はいつもあっちを向いたりそっちを向いたり、顔をクルクル右に左に動かしていなければならなくて、DFやCFがちゃんと仕事をしていないときの負荷のかかったボランチみたいなやりかたで、おまけにたまにスペースに走り込んだりもするのでかえってバランスが悪くなってチームの失点が地味に増えていたりする。

現在を肥大させたいものだ、と思うがそれがそもそも間違いなのだ。過去や未来から瀉血して、ふくらんだむくみを解除して、それぞれの時制がひかえめに、あまり主張しすぎないようにしてやったほうが本当はいい。私はこうして、よく、間違いを間違いと認めずに、言い訳でとりつくろってかえって傷を深くして、不良肉芽と化した領域の熱感に自分の免疫の壮健さを思ってちょっと安心するなどしている。