ゆくすえを振り返る

つけあがった病理医からの連絡が相次ぐ。自分が世界の主人公という自認でこれまで何十年もやってきた人間たちだ。幸せな輩。ただまあ自分こそが主人公と思い込むというのは生命としては当然のことであり、プロゴルファー猿的には「そのとき病理医は動物的な本能で我欲を優先した。」とナレーションが入る場面で、責めるようなものでもない。それでいいのだと思う。動物はつけあがっているのではなく、未来にあずける忖度をしたり過去を汲んだ伏線回収をしたりしないだけのことだ。インプットとアウトプットの間のノイズが少ないだけのことだ。人間だけが今この瞬間をはみ出た部分に思いを馳せる。「この一言を告げることで相手は自分に対してこう感じるだろう、そうするといつか、何ヶ月か何年かあとかはわからないが、将来、この人は自分を優先順位の下において、自分がやってほしいことをやってくれなくなるかもしれない。それは面倒だしもったいないから、きちんと相手の都合も斟酌して、気持ちも考えて、こちらの要求をただ押し付けるのではなくきちんと調整しなければならない」――なにをぐちゃぐちゃ言っているのか、ああ人間って本当にめんどうくさい。動物のほうがわかりやすい。つけあがった病理医たちはみな動物。それも野生の動物ではなく実験動物。いや、実験動物に失礼か。つけあがった病理医たちはみな実験動物的な本能に立ち戻ったクソったれな人間である。かごの中で常に条件づけしながら餌付けして、餌が出る合図を体に染み込ませた状態で、あるタイミング以降は、合図だけをするが決して餌が出てこないような仕組みにして、激しい飢餓に苦しみながら絶命させたい。慰霊祭もやらない。


つけあがった病理医たちがたまにいて、心の中でだいたい上記のような文章の中に埋め込んでいる。


中国出張の予定があるが先方からタイムスケジュールが何も送られてこない。たくさんの人が「中国はだいたいそうだよ」というのでこれはもうこういうものなのだろう。空路だけは確定したので前後の仕事についてはあまり問題はない。ただ当日、何語でしゃべるのかがまだわからない。国際学会だから英語でしゃべるものだと、私も、この出張を取り仕切る日本人スタッフも思っているが、中国では直前になって「日本語でしゃべってください、同時通訳するので」みたいになることが普通にある。言語が変わると発表時間も微妙に変わってしまう、それが気になるが、しょうがない、今ここで気に病んでもどうにもならない。なるようにしかならない。

ときおり現地で見せてもらうのだが、中国のAIベースの翻訳アプリは本当にすごい。まあ、あんなむずかしい母音と漢字を使う国がAIをぶんまわせばそりゃそれくらい発展するわな、という感じだが、向こうの人は本当にこの1年くらいで言葉の壁をがんがん越えてくるようになった。日本はもちろんだが英語圏やスペイン語圏の人びとも中国の進歩のスピードにはさすがにかなわないように思う。でもこのような技術が世界で用いられるのも時間の問題だろう。今の私が学会で、「英語がめんどうだなあ」などと気にしていること自体が、令和一桁年代までのプロブレムに過ぎず、あと数年もすると、「プレゼンテーターが何語でしゃべろうが、会場の人たちは好き勝手に自分の耳のイヤホンを通じて自分に都合のいい言語に変換している」という状態になる。次の展開がわかっているのに、番組側の都合でその前の展開をだらだらひきのばしているドラマというのはつまらなく感じる。早く救出に行けばいいのにいつまでオカマの軟体芸を見せているんだ、と思ったら、アジア大会の影響で放送が2週間休止するから、いったん「第2シーズン前半終了!」などと、本来ならば必要のない区切りを入れざるを得なかったドラマのことを思い出す。どうせもうすぐ「耳元の相互通訳」が達成されるのだから今この状態でのコミュニケーションエラーに気をもんでもしょうがない。前半終了! 


いつか世の中はもっとよくなる、という見通しは腸管内容物といっしょで、すっきり開通してめでたしめでたしとはならない。いつも何かは滞留しており、たまにすっきりしてもすぐに次の懸念が蓄積していく。「早く次の世の中に突入しないかな」と思っていたころの懸念は本日全て解消しており、それでいてまだまだ私たちは途上の中にいる。




時のオカリナの告知映像を見た。すばらしかった。こういうゲームの告知映像、発売されて、全部やって、それから告知映像を見たら、「あああー! なるほど! ここを告知に使ったのか!」となってそれはそれですごく楽しいんだろうなと思う。それを今の私が体感したければ、ブレワイやティアキンの発売直前のティザー映像を今見直せばいいのだ、そうすればいかに任天堂の広告部門ががんばったのかがわかることだろう。でもそれをわざわざやることは少ない。過去に感じていた未来への目線を、未来からふりかえるというのは、なんか、もう、うん、いいかな、ってなることが多い。それはそうかなと思う。私たちはどこか動物的で、来し方をおしはかり行く末を振り返ることをなんかちょっと過剰でうっとうしいと、一段下に見ているときがある。

有名なんですか

カンファレンスルームで専攻医がコーヒーを淹れている。あと20分もすると学生が集まってきて勉強会がはじまる。N Engl J Medの記事を学生が音読し、その後翻訳し、専攻医が内容の説明をする、という、平成どころか昭和のスタイルの勉強会だが熱心な学生が何人もやってくるので、専攻医もはりきっているし教授もうれしそうだ。数年くらい前ならこういう準備も私がすべてやっていただろうがようやくこういう役割を任せられる人間がやってきて感慨深いものがある。ただ、なんというか、もうこういう役割をやらなくていいとなったときのさみしさのほうがいろいろと勝つかもしれない。さみしさはあらゆる感情の上位互換である。

いそがしい、いそがしい、早く終わらせたい、すぐに片付けたいと、たくさんのデューティの下で潰れそうになっている今も、ふと、こういう仕事もいつか下に任せるようになるのだなと、そのときの私はいったいどう思うのだろうと行く末をふりかえる。

サンジはどの島でも「行け!」ばかり言っている、彼は自虐と自己犠牲に惑溺している、だから覇王色の覇気が発現しない、というくだり(コミックス派の人間にとってはネタバレなのだけれど知ったことではない)、ああ、なんと残酷な設定なのだろうと、かなり興奮した。たかがマンガだ。でもとてもよくわかる話だ。自己犠牲タイプの人間の根本には自虐がある。病理医ヤンデルというアカウント名を選んだ私はこの話をする資格がある。自己犠牲タイプというのは人を引っ張っていく素質を欠くものだ。私は人を引っ張っていくタイプではあきらかにない。歳を重ねて、リーダーでないとなると、そのような人間は暮らし方をだいぶ丁寧に選ぶ必要がある。パブリックのために身を粉にする、それが一番いいことだろうと思ってやってきた。でもそのような精神を裏打ちする基底板は自虐染色に陽性となる。粘膜の剥落をもたらしかねない、危険な物性だ。

先日の出張先には若い人がたくさんいたのだが、私のことを知らない人間がかなり多くいた。へんな話だが長いことそういう経験はなかったので、そうか、ついにそうなったか、と思った。若い人たちはベテランに「この先生は有名なんですよ」と水を向けられ、シニカルに私にほほえみかけて「有名なんですか?」とたずねる。私は「はい」と答える。すると若い人たちは「否定しないんだ笑」と言って呵呵と笑う。そう、否定しないんだ、そのあたりのやりとりで定番の「いえいえ」「それほどでも」には飽き飽きしてしまった、何周も何周もやったからだ。そして一周目からサーキットに合流した若い人たちにとって私は「有名ですかと言われて否定しない痛い中年」以外の何者でもなく、ははあなるほど、このように入れ替わっていたのだなと、来し方をおしはかる。有名だった人間が次にやることはもっと有名になることだ。いや、そうだろうか? 問いを立てて否定し、次の問いを立てる。こういうやり方も古びてきた。ふるびの泉である。

薄い他己の利

怒りか、好奇心か、そのどちらかで自らを鼓舞して駆動する人が多い。ネット上の話だけではなくてリアルでもそうである。怒りはもちろんだが、好奇心も行き着く先は利己である。利己、大いにけっこう、でも利己とはベーシックインカムみたいなもので、「あるのが前提、それを誇られましても」というものだ。何かに対する怒りがモチベーションです、とか、私は常に世界に対する好奇心で動いています、みたいな人をみると、はあ、初期アバターでもプロフがよければ出会えますよと豪語していた平成の出会い系サイトの生意気な学生みたいなもんですね、と思って少し冷める。もうちょっと込み入った感じで動かされていくタイプの人間を見たい。原理がわからないまま模様を作り続ける仕掛け細工のような、「不思議で動く人間」と働きたい。それができない世でもあるまい。それを許さない世でもあるまい。ただ、「あっ、私、利他ですよ!」と言って挙手する人間からは距離をとりたい。そういう話ではないのだ。


今日は変則的な移動だ。釧路から室蘭へ。いちど札幌に帰るつもりでいたのだが、妻が「いやいや、新千歳のほうが室蘭に近いよ」というのでびっくりしてしまった。Google mapを見てみる。本当だ。最近、頭の中に地図がない状態で移動していた。飛行機でも電車でも、途中、私という肉体がどの座標をどちらに向かって移動する点Pなのかをあまり考えなくなっていた。



室蘭に用事があったことがないな……と思ったが、よくよく思い出すと、大学院生時代に病理解剖やCPCのために訪れたことがある。あのころ室蘭にあった病院はほとんど合併もしくは閉院してしまった。


釧路からの飛行機で新千歳空港についたのが朝の9時45分。そこからちょっと待って10時にオープンする新千歳空港温泉に入る。空港内の温泉なんていったい誰が入るんだろうと思っていたが私はこれまで4, 5回ほどここで入浴したことがある。たまにこういうことがあるのだ。道内の出張から帰ってまたすぐ道外の出張に出るパターンが多かったが、今回は北海道の片方の田舎から別のほうの田舎まで行く途中でたまたま新千歳空港を経由する。そういうときに温泉はぴったりだ。数時間前に釧路のホテルでシャワーを浴びたばかりだが、また軽く体を流して、露天風呂に直行する。せっかく空港の風呂なのだから、露天風呂からフライトが見えたらいいのだけれど、しばらく見ていても空に飛行機の影ひとつ見えはしないのであった。


風呂から出て、南千歳で乗り換える特急から逆算してまだ2時間くらい余裕があることを確認し、リラックスルームで銀の匙を読む。AIには今日の午前中は胆膵CPCのプレゼンづくりをするからそうリマインドしてくれと言ってしまっており、実際、今朝の7時にはAIが従順に「今日はプレゼンづくりですね。」と教えてくれていた。けれども結局マンガなど読んでいる。そうなったこともあとでAIに伝えておこう。きっとわかってくれるだろう。ところで前から思っていたけれど銀の匙はじゃじゃ馬グルーミン★UP!と構成がそっくりだ。しかし、それぞれにそれぞれの青春があって、このふたつを比べてどちらがいいとか優れているとかいう議論をしている人に出会ったこともないし私も両方好きである。前に読んだのは10年前くらいだろうか。3巻までリラックスルームで読んだあと、続きはけっきょくKindleで読むことにして腹ごしらえに向かう。新千歳空港にあるたくさんの飲食店の中でいつ行ってもたいてい入れるのは3階の中華料理屋だ。ここが一番「北海道らしさ」がないから観光客があまりこないのだ。そして私は中国系の料理が今は一番好きで、ここに限らずどこに行ってもわりと麻婆豆腐とかエビチリとか海鮮焼きそばとかそういうものばかり食べている。

ちょっと話はずれるけれど、ラーメンの有名な観光地で、私が「ラーメン食べてみようと思います」と言ったときに、まれに「県外の人はそういうんですけどね? うどんもおいしいんですよ! 地元の人間はむしろうどんばっかり食べています(笑)」みたいなことを言う人はいったいなにを考えているんだろうと思う。観光客がラーメン食いたいっつってんだからそこを肯定して増幅する以外の選択肢なんてないと思うのだが。



新千歳空港からJRでひとえきずれたところに南千歳という駅がある。そこから釧路や函館方向への特急に乗り換えることができる。札幌生まれ・札幌育ちの私にとって、南千歳で乗り換える機会もメリットも普段はないのだけれど、今回こうして出張先から新千歳空港に戻ってきて、そこからさらに室蘭に移動するというパターンでは、南千歳での乗り換えが発生する。新鮮である。思ったよりたくさんの人が乗り換えておりその大半が観光客のようだ。自分の心の中の旅情はすっかり枯渇してしまったが、他人の旅への期待感が肌で感じられるのはいい。旅に沸き立つ人びとの間を縫うように歩くのは楽しい。今から旅に出る、あるいは旅路にある、あらゆる人に人生最高の思い出が待っていてほしいと思う、この願いはまずめったに叶えられることはない。旅というのはそこまで打率の高い娯楽ではないと私は思っている。でも、だ。それでもわりと気楽に願ってしまう。なぜなら「誰かの旅が最高であるように」という願いは自分のためのものではなくて他人事だからだ。他人事だから無責任に願える。おまけに他人というのは無数にいる。願い叶う確率が、5%だとしても、1%だとしても、頭数が多いぶん、毎日どこかの誰かの願いは必ず叶っている。そして旅がうまくいく確率は本当はもうちょっと高くて、まあ、そこまで高くはないんだけど、75%くらいはあるんじゃないかな、と思う。誰かの願いがちょっとずつ叶うと、その喜びはうっすらと私に伝わってくる。世のどこかで常に、たった75%程度の人間だけが、くじびきにあたって幸せな気持ちになっている。その現状に浸っていたい。世界はそうやって、いつかのどこかで誰かがロッタリーに大当たりして、きゃっきゃとはしゃぐ嬌声によって駆動されている、その振動の残りが私を今日も次の場所へと駆り立てていく。

夢に常在菌を

病理AIのためのアノテーション、画像が1700枚送られてきてびっくりした翌月、5700枚送られてきてもうびっくりしねえなと思っていたら、そのさらに翌月に20000枚送られてきてまたびっくりしなおした。5年前なら心が折れていただろう。しかし今や、AIチーム(病理AIを作るためのチーム)が、生成AIを用いてさっとコードを書いて、私が大量のアノテーションをするときに便利なユーザーインターフェースを作れってくれる。画像を一枚一枚クリックして開いてなにかに書き込む必要はない。ウェブベースの簡易なアプリを開けば、画像送りも拡大縮小もまとめてアノテーションするのも一気にできる。暴力的な数の仕事をしなければいけなくて大変だなと思ったのはつかの間だった。じつはそんなに大変じゃなくて、結局7時間くらいでアノテーションはすべて終わった。想像の20倍くらい早い。

AIサポートによる仕事の効率化はえぐい。結果、かつてならありえなかった量の仕事をやっている。そしてそれがちゃんとできている。私の脳が20000個の構築物を確認したという事実は動かない。ただ、この20000回の試行錯誤のあいだ、おそらくたくさんの情報が無視されたり圧縮されたりしている。そうでなければこんなにスマートに仕事が終わるわけがないのだ。すべてのアノテーションが終わっても、私の脳や神経が「20000回の弁別」を行ったほどの疲労を感じない。それは、私が本気で20000回ちゃんと考えてこなかったということではないのか。私が職能を用いて全力であたるからこそこのAIは意味をもつのではなかったのだろうか。こんなに手抜きでよいのだろうか。人間が本気を出したものを参照していないAI、つまりそれは、広義のweakly supervised(弱い教師付き学習)のAIではあるまいか。そうだとしたら、それはいったい、なんのために、だれのために、やっている仕事だったのか。

ぶつぶつ言っても、数字が出れば人は動く。プロジェクトは順調に進行している。膨大なデータの解析はAIによって存分にサポートされている。人が本来対応できる数字の何億倍もの数字をAIがかわりにまるめこんでいく。折りたたんでいく。言いくるめていく。すべてAIのおかげだ。AIが人を動かしている。本日の7時間、私はAIによって介護されながら働いた。今日の7時間、私はAIの手足だった。脳と手足の関係でいうと私のほうが完全に手足だった。

かつて、ほぼ日の糸井さんは、「夢に手足を。」というコピーを書いた。当時、いい言葉だなと思った。今、私の夢に生える手足はAIによってコードされている。夢を遠くに連れて行くのも、夢に希望を運んでくるのも、AIがやる。そしておそらくは支えられている夢のほうも。夢の中に張り巡らされている血管、神経、骨格、これらもAIによってダイナミズムをしっかり支えられている。夢の頭のてっぺんから足のつまさきまで、私が入り込んでドライブできる場所はどんどん減っている。ああ、私はあと、夢の何を担当できるだろう。手足にもなれない、体幹にもなれない、脳脊髄にもなれない、となればあとは、皮膚か? 外界との間でまっさきに驚いたり汗ばんだりする部分、せめてここだけは、私がやらせてもらわないと、あまりにさみしい。さみしかろうがなんだろうが、皮膚もいずれAIに盗られてしまうだろう。そしたら私は何を担当すればいい。皮膚の中に埋まり込んでいる汗腺か。皮膚から飛び出している産毛か。それともそのあたりに細々と棲まう、もはや個体の一部ですらない悲しき同居人か。角質といっしょに剥がれ落ちていく、わりと日和見のタイプの。

りんごの歌

人間よりもAIのほうが成長が早い。こうしてほしいなということがあると数日後には適応している。私が考えつくような不安は世のたくさんの人びとが考えていて、改善のためのアイディアも世界中からどしどし入力されているのだろう、だから目立つキズについてはどんどん修正されていく。AIは誰よりもコミュ強だし、安部礼司よりもアベレージである。私がみずからの間違いに気づいて修正をかけていくときの、魂にはたらく慣性のようなもの、直さなければいけないのはわかっているのだけれど、なんかなあ……と3点リーダを2セットならべて躊躇するときのあの感覚がAIにはない。至高の生き物という感じがする。猗窩座も満足だろう。


週の初めにりんごを買った。1個、100円しなかった。安かった。晩飯のあとにでも食べようと思っていた。今日、出勤するとそこから連続出張でしばらく家に帰ってこない朝、小さな食器棚の上にビニール袋に入ったまま鎮座し続けているりんごの背中がさみしくて、もうお腹は足りていたけれど朝から皮を向いて1個食べた。ややぼけた味がした。りんごの背中というのはどちらがわか。もちろん、へたが倒れているほうを前と考える。頭を垂れるのはいつも前側だ。後ろに倒したらそれはボア・ハンコックの「見下しすぎて逆に見上げてる」になってしまう。


感冒後に咳だけ残ってしまった。5年くらい前、コロナにかかったときには3か月くらい咳がおさまらず、ワンセンテンスしゃべるたびに咳が出てしまって、ウェブ講演ではミュートを使いながらしゃべればなんとかなるのでわりとどうでもよかったあのときのことを思い出した。オンサイトの仕事ではそうはいかなくていろいろ困っている。でもまあ、前ほどじゃない。なにもかも、前ほどじゃなくなっている。私といっしょに私の環世界もゆるやかに老化しており、もろもろがやさしく穏やかになってきているのかなと思う。


送られてきたバーチャルスライドの総量が26GBくらいなのだけれど、PC本体のSSDは500GBしかなくて、残量は20GBを切っていたので、初回のダウンロードは途中で空き容量がないといって止まってしまった。外付けHDDにPC本体からデータを移して容量を確保する。4TBの外付けHDDも3TBくらいは使ってしまっていてぞっとする。プレパラート1枚なら10グラムくらいなのに、デジタルデータにすると格段に重くなってしまって難儀だ。物質というものがいかにたくさんの情報を圧縮して持ち運べているかということに思いを馳せる。レレレのおじさん的にいろいろ掃き清めてなんとか空き容量を確保して、バーチャルスライドを開こうとすると今度は専用のビューアーが必要だというのでため息が出た。浜松ホトニクス以外のスキャナを使う施設が少なくなってきた今、そうじゃないスキャナを使って取り込まれたものをみると後退りしてしまう。放射線画像はPHILIPSがひとりがちして、独占禁止法ぎりぎりの状態でPACSを全国に普及させてくれて、そのフォーマットで各社が後追い的に画像を統一したから、どこの病院で撮ったMRIであっても私たちは普通に見ることができるのだが、病理画像はまだそこまでの統一に至っていないし、このことは15年くらい前から問題になっているのにステークホルダーたちのホールドしているステークが弱すぎて(笑)、いつまでも統一されない。専用ビューアーをダウンロードし、インストールし、解説を読み、ようやく見られるかと思ったらバーチャルスライドは表示されるものの拡大がうまくできなくてダーとなってしまった。どうやら画像本体と関連ファイルとの紐づけが、ギガファイル便(滅べ)によって送信された際にすべて千切れてしまっていたらしい。送るほうも気づけよと思わなくもないがこういうのは専門家がどこにもいないのでしょうがないだろう。スクショやスマホでの撮影を駆使しながらアナログなかたちで、このファイルはフォルダごと送ってください、と指示をして、ようやくPCにダウンロードした26GBのファイルを消去する。翌朝、また26GBのデータが送られてきた。私たちの暮らしは一向に簡単になっていない。ボケ防止に便利だなと思う。世界は少しずつ良くなっている。