ゆくすえを振り返る
フラジャイルがもうすぐ終わります
読めば納得
あそこの教授、科研費の申請書を見てもらったとき、その日のうちにコメントくれて、アレって本当にすごいことだったんだな、としみじみする。
他人の申請書を読むのってすごい負担だよ。ただ読むだけでもすごいのに。教育的な視点まできちんと込めて愛情までのっけて返してくれたのか。超人だ。とんでもねえな。すげえ。
みたいなことをたまに考える。人間の本性の根っこのあたりから感謝の気持ちがふつふつとわいてくる。ああ、ちゃんとしよう、しっかりしよう、がんばろう、みたいなことを順番にしみじみ思う。こういうことは自分の中からわいてくるのが一番いい。人に言ったらハラスメントだ。市原・ハラスメント略してイチハラだ。このネタもう10回以上使ったけどまだ飽きない。飽きない、すなわち、人間の本性の根っこのあたりからわきあがってくるもの、ダジャレ。そういうことなんだろう。どういうことか。
『倫理という力』。いい本だなあ。
あまりに疲れて仕事が続けられないのでどでかいシュークリームを買いに行く。
買った。将棋指しの気分。この程度で棋士を名乗ってしまっては怒られるだろうか。病理医の世界では岸を名乗るのもセンシティブである。戦士の恥部はセンシチブである。本当に疲れている。限界である。
徹頭徹尾肛門の話
まだあまり腹具合がよくないのかな、とは思った。目が覚めて、トイレに行きたいなと思いつつまずはうがいをし、しょぼついた目でスマホをみるとまだ2時だ。えっ、この時間に起きちゃうんだ、いやだな、まあ、腹の叫びってことかな。ひとまず寝直して、次に目が覚めたら7時18分である。さすがに驚いた。今日もいつもどおり5時に起きて、6時半過ぎには家を出て2時間運転するつもりだった。これはどうやっても取り返せない。先方2箇所にいつごろ、どの順番でお詫びとリスケをお願いするかを考えつつ、のんびり飯を食う気持ちにもなれずヨーグルトだけ食べて血圧とコレステロールの薬を飲んで、すぐに着替えて家を出た。絶対に間に合わない。ここで急いでもどうしようもない。
明日は早朝から新千歳空港に向かって伊丹に飛ぶ。来週は羽田経由で中国だ。これらの出張で寝坊していたら本気でまずかった。ある意味、今日でよかった、と言える。しばらくは寝ながらも緊張していて寝坊することはないだろう。
というか、驚きがまだ収まらない。私はこのようなタイミングで寝坊する人間だったのか、と気づかされた。これまで、性格的にも体調的にも、なにか大事なストッパーをここんところ壊してしてしまったのかもしれない。いろいろと自分が心配である。
ここまで書いて急に仕事がしたくなり、して、終えて、さっさと寝てしまった。今度はさすがにちゃんと起きた。伊丹についたら梅田に向かう。グランフロントの地下でさっとしゃべって、すぐに伊丹に戻る。空港の書店で『魔力枯れのダークエルフ』が大展開されているのをみてすかさずKindleで購入した(こんなやりかたでは書店はかわいそうだ、申し訳ない)。機内ではまず『戦争と差別について哲学は何を言えるのか』の続きを読む。このKindleを読むのは北海道に帰ってからになるだろう。まあ、よい。本とはそういうものだ。
本の買い方についても何かストッパーを失っているかなとは思う。本を買うのに前よりも躊躇がなくなった。ブランド品、車、家、そういったものを買うことはなく、服飾、雑貨、食品、そっちもべつに買わないが、本は買ってしまう。ただ私は積ん読が性格的に苦手なので買って積むことは基本的にしないが、今読みたい、と思ったタイミングで電子にデータがあれば買う。あるいは、だいぶ昔の医学書が、古本で高額で出ていたとして、それを読みたいと思ったら古本屋のもくろみどおりの高値で買う。たいして値段を吟味するわけでもないのでそこで損をしたことはきっと何度もあると思う。これは、気持ちよく散在するというのでもなく、豪儀に目下のために金をつかってやってるというのでもなく、「まあいいや、どうだって」のヤスオカ的メンタルではないかと思う。我ながら罪悪感というか、壊れた穴から水がちょろちょろ出ているプランターを見てため息をつくときの気持ちというか、そういうやるせなさが伴う。自慢できる話ではない。
ストッパー、あるいは括約筋のようなものが壊れたり緩んだりしている。よくない歳のとり方をしている。老化、呆け、前頭葉がくたびれてきたのかも。
サザエさんで、波平が新聞を読み、ある著名人(山本雄三?)の訃報に際し、「『子孫に美田を残さず』、すばらしい、ワシの考え方といっしょだ」と言う。するとカツオが「さ と せ の違いだね」と言う。「美田を残せず」。波平は怒ってカツオを追いかけていく……。
私は、小学生のころだったか、そのマンガを読んで、「美田を残せず」とはつまり「宵越しの金は持たない」みたいなものかなと、よくわからない理解をしたのだけれど(カツオの他虐ではなくそういう格言があるのかと思った)、今の私は、うらぶれてわびしくも小さなプライドにかかずらって日々をしぶとく生きている落語の世界の江戸っ子のメンタルにとらわれて、「ストッパーなんてたいしていいもんじゃない」と自分に言い聞かせている……、のではないか……と、メタに眺めてぞっとしている。
括約筋が緩んで人にとってうれしいことなど一つもない。肛門にしろ、食道胃接合部にしろ、涙腺にしろ、あっいや、涙腺には括約筋はなかったかもしれない。あと、細かいことをいうと、食道胃接合部に括約筋は存在せず、複数の筋肉や靱帯が共同して結果として括約機構を果たしているだけだ。ていうか肛門括約筋というのも、じつはそういう筋肉がひとつあって肛門を締めているわけではないかもしれない、なんてことを、近頃の解剖学は追求しているという。ブログで読んだ話だけれど学会でも聞いたことはある。括約筋っていう概念はすごくわかりやすいけれど、すごくわかりやすいだけに、じつは形而上学的な概念なのかもしれない。脳内の思考の括約機構もまた、複数のメカニズムが結果としてせーのでなにかを押し留めているだけで、老化やあきらめと共に複数のものがいろいろと動いていく過程で、「何が壊れたかはわからないが、結果としてたれながし」になっているのかもなあというイメージを喚起させる。だとしたらそれは修理は不可能だ。そして私はべつにそこは直さなくてもいいかなと思っている。寝坊だけはいただけないが。
ルーティン
病理医ヤンデルの所見
細胞をみて言葉にすればするほどAIが過去の文献をうまく探してきてくれる。しかし、言葉の選び方がしょぼいとなにもできない。「クロマチンの増加した異型核を有する腺系の腫瘍細胞が管状・乳頭状・索状構造を形成して増殖しています。浸潤性の腺癌です。」病理医が納得するためだけに書かれたこんなエクスキューズの所見からは、AIは何も探してこない。クロマチンの増加していない腫瘍細胞を探すほうがむずかしいからだ。異型核という言葉はじつはなにも情報を付け加えないからだ。腺癌が管状・乳頭状・索状を呈するのは極めて一般的だからだ。弁別の役に立たない質問を繰り返すアキネーターのようだ。そんな所見のとりかたでは、世界がひそかに思い浮かべる人物の名前は、永遠に出てこない。
細胞を
みたときに
どうやって
表現するか。
ここで必要とされるのはオリジナリティではない。自分だけが考えた最強の言い回しは、過去に報告されていないわけだから、さすがのChatGPT proでも検索効率が落ちてしまう。もちろんAIは勝手に言い換えをしたり、言葉と言葉の関連からおそらくこういう意味だろうと推し量ったりをやってくれるのだけれど、その手間が加わるぶん、数千万くらいのトークンが無駄に消費され、手の上の産毛にあたってあらぬ方向に転がっていく水滴のように、答えがわずかにずれる感覚がある。病理所見は、詩であってはだめだ。では、細胞をみたとき、どうやって表現する? 「病理診断がものすごく上手で、細胞像の描写に過去イチ長けた書き手が用いたであろう言葉、そしてそれに感化されて、まねして、多くの病理医が過去に文献上で用いた言葉」を知っておく必要がある。そのような言葉の中からさらに、「ある疾病や病態を言い表すときに特化して使われた言葉」を選び取ることが求められる。それは、ひとつの言葉AのとなりにBが高確率で存在するだろうという、言葉と言葉のつながり・連想で導き出される言葉であってはならない。あくまで細胞の、細胞を薄く切ってエオジンとヘマトキシリンで意味ありげにお化粧したものの、意図もりもりに生成されたところの「細胞像」と、直接共鳴するような言葉でなければならない。その像をみた人がこの言葉を用いるならば「納得」する感覚、なるほどそれは後世に残せばきっと便利に使われるであろうなという言葉を探しに行く。いわゆる「言語化」という言葉とはニュアンスが少しずれているのかもしれない、みたいなことも少しだけ思う。
こういったことをしっかりやれている間は、生成AIを用いた病理診断がかなり有益になる。逆にいえば、このような「所見の練り上げ」をやらず、やれ石灰化があったとか、やれ二層/相構造が消失したとか、やれCD8陽性T細胞が何割あったといった、定性的・定量的な記載だけで生成AIを使おうと思っても、じつはあまり役には立たない。いや、役には立つのだろうが、それはなんか、あまり、おもしろくはないものだな、と感じる。おもしろくなくてもミスや不備が減るならそれはすばらしいことなのだけれど。