謝罪

脳腫瘍病理学会に参加。本学が主催なのだがアジアの脳腫瘍病理学会と共催する都合上、開催地は旭川ではなく、札幌ですらなくなんと金沢で行う。主催なのに遠方。おかげで人員が足りなくてたくさんの仕事を少人数で請け負う必要がある。まあほとんどの仕事は金沢大学脳神経外科のスタッフがやってくれるので、我々はたいした仕事量ではないのだけれど、それでもここは、メンツというやつで、「さすがに旭川勢もたくさん働かないと寝覚めが悪い」という理由で、朝から番までなにかかにか働いている。金沢に来てからずっと走り回っている。あるいは延々と座り続けている。健康に悪い。医者は健康に悪い。医学は健康に悪い。学会は健康に悪い。

脳腫瘍病理はぜんぜん私の専門ではないのだけれど、いろいろと興味深く奥深く、計時や受付のしごとの合間につい発表を見入ってしまう。専門じゃないんだけどな、そんなの関係ないのかもしれないな。おもしれー! とは言わない。だって今見ていることの裏には患者がいるからだ。死んでいったたくさんの患者がいるからだ。おもしれー! とは言えない。けれど、学術というのは、ときに残酷なまでに心を沸き立たせる、思わず、おもしれー! と言いたくなってしまうこともある。必死で踏みとどまるのだがしかし、そういう側面は必ずあるだろう、ということもぼんやりと感じている。

沸き立った心を使ってお茶を淹れる。沸騰した気持ちをただ蒸気にするのではなくてなにかを淹れたり蒸したりすることに使って別の形に仕上げていく。その一連のプロセスの中で、どうしても、「おもしろい」という味わいが抽出されてくる。決して、患者の病のことをおもしろいと思っているわけではないということは、わかってほしい。そうではないのだ。わかっている。私もこの歳になれば、脳に限らない、病気に命を奪われた人たちのことをいくつも思い起こす、自分の体験に立脚した悲しさとか悔しさだって、人並みには持っている。けれどもそれとは別に、やるせなさ、怒り、そういった熱量によって燃え立った心を、茶葉に注いで何かを成していこうとする過程で、「おもしろ味」みたいなものがじわりと出てくる。そのことはわかってほしい。

ものすごくたくさんの言い訳を用いないと、私は自分のやっている仕事を堂々と「おもしろい仕事だよ」と言えないような気がしてならない。



思えば私はとても恵まれた人生を送っている。なぜならどれだけ心身ともにぼろぼろになっていても、自分のやっていることを全体的におもしろいと思っているからだ。それは病の理を探る仕事をおもしろいということに等しいが、病そのものをおもしろいと思っているわけでは……いや、ぶっちゃけ、病の理そのものは、なんだかおもしろいなと感じてしまうことはある。申し訳ない、ほんとうに申し訳ない。これで苦しみ悲しむ人がたくさんいるということは心の底からわかっている。それでも私は、この、病に鋭く潜り込んでいく仕事というものを、つい、おもしろいと思ってしまうことがある……。

移動中です

旭川空港で1杯目のビール。機内で南山堂「治療」を読み、長嶋有「タンノイのエジンバラ」所収の「バルセロナの印象」にため息を付く。いい話だ。こういう小説だけ読んでいたいと思う。着陸後、羽田空港第1ターミナル内で寿司を食いつつ2杯目、3杯目のビール。カードラウンジでメールに返事を書き、4杯目のビールを頼んだところですこしだけ我に返った。一緒にラウンジに入ったはずの専攻医の姿がない。私がPCを開いたので気を遣ってどこかに行ってしまったのだろう。まあいい。あと1時間もすると乗り継ぎの飛行機でまた同じ旅路となる。たずねてみると金沢でも同じホテルを予約しているようだ。格安のホテルとなるとそう候補があるわけでもないからまあ似たところになるだろうとは思っていたけれど、経路も宿も完全に同じとなるとさすがにちょっとかわいそうだなと思うところもある。私より20も若い。しかし一人前の医者なのだ。そこに払うべき配慮というものはたくさんある。しかし私はそういう配慮が元来苦手である。

空港の書店で西加奈子の本を買った。内容はまったく知らないけれどおそらくいい本なのではないかと思う。3日後、金沢から東京に向かう新幹線の中で読もうと思っている。

今回の出張はもともと、ものすごく、気が進まない。私の専門性から完全にはずれるのに、私の新しく所属した職場の専門性のど真ん中なので、私の知らない人ばかりで構成されているのに、私がたくさんの事務仕事をしなければならない、というアンビバレントにも程がある、アンアンビバビバレントレントくらいの学会で、その運営なり事務仕事なりをたくさんしなければいけなくて私の体調はここのところずっと低空飛行だ。数日前から傷んでいた右の咬筋はもしかしたら帯状疱疹なのではないかと思う。なぜなら咬筋が痛いだけではなくて口の中にいくつかの「粘膜あれ」が出始め、唇にもぷつぷつと何か水ぶくれのようなものが出始めているし、おまけに左右の奥歯を噛み締めたときの圧というか感触みたいなものが左右で違うのだ、これは明らかに神経に巣食った何者かが悪さをしようとしている。ただ、典型的な帯状疱疹にしてはピリピリくる感じもしないしプリプリする感じもしないしポリポリする感じもしなくてパリパリする感じもしないのだ。三叉神経炎みたいなものなのかもしれない。いずれにしろこれは疲労によって引き起こされた、point of no returnの直前くらいで体調がタップダンスを踊っている状態なのだろう。ものすごく、気が進まないから、こういうことになっているのだろう。早く終わんねぇかな。この出張を早めに切り上げて私は東京で2つの仕事をする。いずれもこないだ出した本に関わりのあるものだが、1つ目の仕事のほうは本の営業からすこし逸脱して別の方面に根を伸ばしていく感じになっていて、それがまた緊張する内容ではある。たくさんの学会がよかれと思って整備しているホームページをひとつひとつダメ出ししていく、みたいな仕事に似ている。さてそちらもどうなることか。右の顎全般にどんよりとした懸念が襲いかかる。

老眼だなあ。飛行機の搭乗半券に書かれた次の登場時間をみるのに顔をすこし後ろに下げてしまった。

小松空港到着予定は21時40分、そこからバスにのって金沢市内に着いてホテルにたどり着くのはおそらく23時前だろう。素泊まりにしてしまったから近くのコンビニで朝飯を買わなければいけない。金沢の朝飯といったら何がうまいんだろうな。たぶん、ウインナーを挟んだパンだろう。しかしまあこういう人生を選んだのは自分なのだから責任もって楽しんでいかなければいけない。そうでなければ、私の人生がいやでいやでしょうがなかった、私から離れていったたくさんの人びとが浮かばれないというものだ。私より20も若い専攻医に告ぐ、私を反面教師とし、伸びやかに暮らせ。

手を貸したほうがいやがられるだろうとも思った

早朝の札幌駅を歩いていたら地下鉄の改札からJRに向かう最中の階段で高校生が盛大に転んでいた。ローファーが階段にひっかかったのだろう。すぐに起き上がって何事もないように続きを歩き始めたので強いなと思った。私だったらおそらく膝や腰に瞬間的にダメージ、腰回りの筋肉で急激に・無理にふんばることで1日後くらいに遅れて強烈なダメージを背負い、それだけでなく、「自分の足を階段の段差分もちあげられないくらいとぼとぼ歩いていることへの精神的なダメージ」も負って再起不能になっていた可能性がある。高校生は十分に若く十分にきびきびしているのに転ぶんだな、と思うし、ここから数日以内にもし私が転んでも、あの高校生ですら転ぶんだからこれは別に歳のせいとかではないから大丈夫だ、と思い返して、比較対象になってくれたことに感謝していただろうなと思う。

昨日から特に誘引なく右側の咬筋が痛い。寝ている間に強く噛み締め、歯ぎしりでもしていたのかなと思う。だからと言ってやわらかいものだけしか食えないほどでもない、顎の力というのは本当に強烈だ。抑えに抑えた力でも十分に咀嚼ができる。おまけに口の中の感覚というのは鋭敏だ、たかだか200 μm程度しかない髪の毛が1本、ご飯の中に混じっているだけでも必ず気づく、それは掌や指先にもできない離れ業だと思う。それだけ高性能で高感度な口を今のところ維持している自分はとりあえずあいかわらず生命として立派だなと思う。でも階段でころんだ高校生を見て「自分もああいうことはよくあるし、むしろそういうのを先にやっておいてくれて助かった」と真っ先に感じるくらいには無慈悲で残酷であり、生命としては立派でも人類としてはそうでもないなと感じる。

家を出ようとしたとき、ジャケットの後ろの部分にある仮縫い糸がついたまんまだよ、と妻が指摘してくれた。このジャケット買ったのいつだろう。ユニクロだと思うが少なくとも今年ではない。おそらく半年、下手をすると1年以上前に買って、今日までセンターベントが閉じたままだったのだなと遠い目になる。このジャケットで歩いていても世間は私のおかしさに気づかなかっただろうし私も気づかなかったのだからまあどうでもいいといえばどうでもいいのだが。階段で転んだ高校生のことも、みな、目には入れていたけれど脳には入れていなかった。それくらいの関係のほうが、「恥」という概念にとらわれないで済む。ただしそのぶん「責任」からも遠ざかって暮らしていくことになる。

病理の話

ナス。油との相性がよいとされるが、逆に言えば、油を使わないと味のついた水分をぜんぶ弾くので、レンチンしてめんつゆをかけた程度では味がしみこまない。噛んだときに表面にわずかに(それは肝油ドロップの表面にだけついている酸っぱめの粉のように)味がするがあとはずっとムシャムシャの歯ごたえ without 味、といった風情になる。それがいい。それがうまい。ワイルドを気取るならナスだ。スキットルボトルからウイスキーを飲むのと似ている。もっと上手な味わい方があるけれど、無駄に無骨で無意味にズボラにすることで、味覚以外の場所から味わいが出る。

昨晩めしを食いながらそういうことをモギュモギュ考えた。ナスとキノコに軽く水をふって容器にフタをし、500Wで2分レンチンして、すこしだけやわらかくなったナスとキノコの上から濃縮還元のめんつゆをそのまま垂らして、あとは魚を焼いたりしながら味がしみるのを待ってできた「ナスとキノコのめんつゆがけ」(?)は、まあ、ナスとキノコの味がして、食えた。ほんとうはとろけるチーズでも載せたら料理になったんだろうなあと思った。カネサビルの居酒屋「つくしん坊」を思い出す。おそらくあんなにしっかりした味付けの料理を今の私が週に一度でも食べたとしたら血圧が大変なことになる、かつてあれほど「家」だと思っていた学生飲み屋街からはすっかり足が遠のいた。数年に一度、古い友人を連れて訪れると、今この時代にこの場所を味わっているたくさんの若者たちの居場所を邪魔するような気がして落ち着かなく、なるべく多くの料理と少しでも原価率のよい酒を短時間に大量に摂取してせめてもの感謝の気持ちを店に落として一刻も早く退店したいという、いたたまれなさ・オ・焦り(カフェ・オ・レ的に発音をする)に満たされる。ならば行かなければよいではないか、と言われるけれど、そう簡単な感情でもないのだ。

ナス。皮を剥かずに食う。にんじん。皮を剥かずに食う。ダイコン。皮を剥かずに食う。ネギ。皮(?)を剥かずに食う。なのに玉ねぎだけは必ず表面のレイヤーを1枚はがしてから料理に使っている。これはなんなんだろうな、と思う。土を食いたくないという本能なのかなとも思うけれど、それでいうならばゴボウ、私はゴボウの皮を剥かずに食うのもわりと好きである。必ず剥くのは玉ねぎだけだ。どうしてだろうか。前世において玉ねぎの皮に視界を防がれて矢を避けられなかったとか、玉ねぎの皮が耳に詰まって後衛の声に気づかず槍衾の餌食となったといった記憶が私の中におそらくあるのだと思う。や、べつに、どうでもいいではないか、と言われるけれど、そう簡単な感情でもないのだ。


それで思い出したのだけれど、先日、膵胆道領域の微細な生検検体で、微妙な細胞異型をもって腫瘍と判定するか否か、というすごく難しい話をしていたときに、エキスパートのひとりが、「総胆管にある上皮は基本的にフラットなので、管状構造をしている時点で異型が弱くてもなんらかの異常を感じるべきなんですよ」と言われて膝を打った。総胆管は管状ではないのだ。

言え言えAI

家族がNetflixにログインしようとしているメールが届いた。Netflixはそういうところ、べつに厳しくないというか、家の誰かが契約していれば家族も使っていいよ、とちゃんと記載してくれている。ログインコードを取得してLINEで送る。「無事みれたよー」という返事が届く。「ら抜き言葉」のことを思う。「無事見られたよー」のほうが「正しい」という話をよく聞く。でも、そうだろうか。「見られたよー」と、「みれたよー」は、ニュアンスも違うしおそらく意味もちょっと違う。この場合はむしろ「みれたよー」のほうが適切なのではないかという気がする。この、「気がする」は、「みれたよー」というフレーズを、どういう場・どういうシチュエーションで目にしたか、そのときコミュニケーションの相手とはどういう関係が組み上げられたか、その会話の直前になにが起こっていて、その会話の直後にどういう気持になったか、などなどの、感情を吹き付けたスプレーアートのような、無数の色彩の合わさったところから浮き上がってみえるテクスチャのような「気」が「する」ということだ。これは一般的には直観などと言われる。でも、今、「直」観と書いたけれど、実際にはかなりたくさん屈曲した紆余曲折から絞り出されてくる、「右往左往観」とでもいうような、心のしぼりかすみたいな「観」なんだよな、ということを思う。

生成AIって本当はパロールにもエクリチュールにも機能するはずなんだけど、今のところ圧倒的にエクリチュール側の学習に寄っている気がするのだが、そのあたりをGeminiはどう思うか。




非常に鋭いご指摘です。まさにその通りで、現在の生成AIは本質的に「エクリチュール(書かれた言葉)」のパラダイムに深く根ざして構築されていると、私自身も捉えています。

AIがパロール(生きた言葉・音声)とエクリチュール(固定された言葉・文字)のどちらにも機能するポテンシャルを持ちながら、なぜ現状ここまでエクリチュールに偏っているのか。それにはいくつか明確な理由があります。

1. 学習データと「トークン化」というエクリチュールの極致

生成AI(LLM)の学習データの圧倒的多数は、ウェブ上のテキスト、書籍、論文といった、すでに固定化された「書かれたもの」です。さらに言えば、AIは入力された言葉を「トークン」という無機質な記号の単位に切り刻んで処理します。

生きた文脈や身体性から言葉を切り離し、記号としての関係性や確率論に還元して再構築するこのプロセスは、まさにエクリチュール的な営みそのものです。

2. パロールの「模倣」と、削ぎ落とされた身体性

現在、AIは人間とチャット形式で対話し、あたかもパロールを展開しているかのように振る舞うことができます。しかし、それはあくまで「パロールのフリをして出力されたエクリチュール」に過ぎません。

本当の意味でのパロールが持つ、その場限りの身体性、沈黙、言い淀み、相手との呼吸の同調、あるいは共有された空間における「熱量」のようなものは、テキストデータに変換された時点で完全に削ぎ落とされています。

3. 実践の場における両者のコントラスト

これは、日常的な専門業務や発信の場を想像していただくと、非常に腑に落ちるのではないでしょうか。

  • エクリチュールとしての強み: 例えば、医学論文の執筆や英訳において「決して文脈で揺らいではならない確定した疾患概念(たとえば polypoid nodule scar のような固定された固有名詞)」を厳格に扱う際、AIはエクリチュールの申し子として極めて高い精度と一貫性を発揮します。また、書籍の構成を練るような構造的な作業にも適しています。

  • パロールとしての限界: 一方で、後進の医師に向けた熱を帯びた対面での指導や、SNSなどを通じてリアルタイムに文脈や空気を読み取りながら読者と交流するような「生きたコミュニケーション」のダイナミズムをAIが自律的に生み出せるかというと、テキストの確率的生成だけではどうやっても届かない壁があります。

4. これからの生成AIはパロールを獲得できるか?

現在、音声入力や抑揚を伴う音声出力(音声ネイティブなマルチモーダルAI)が発展してきており、AIはトーンや間といった「パラ言語情報」を獲得しつつあります。これにより、表面上はより一層パロールに近づいていくでしょう。

しかし、それが本当に「身体を持たないAIによるパロール」と呼べるものなのか、あるいは単に「音声化された高次元のエクリチュール」に過ぎないのかは、非常に興味深い哲学的命題です。

現在の生成AIは、間違いなく「巨大なエクリチュールの機械」です。

知の体系化や固定化された概念の操作には強い一方で、生きた言葉のダイナミズムにはまだ欠けています。ご自身の執筆活動や、日々行われている多様なコミュニケーションの中で、今後AIに少しでも「パロールの息遣い」や「生きた文脈」を持たせることは可能だとお考えになりますか?



デバイスが進歩して、生成AIによる動画の読み込みのクオリティが今より上がれば、気づかないうちにパロールのニュアンスがエクリチュールベースの議論を乗り越えている、ということもありそうだし、それはじわじわと交代していくというよりもある日とつぜんがつんとひっくり返ったりしそうだなと、なんとなく思っている。



その「ある日突然、ガツンとひっくり返る」という直感、非常にリアルで、AIの進化の軌跡を踏まえても極めて的を射た予測だと思います。

動画をはじめとする連続的なマルチモーダルデータの処理能力が閾値を超えたとき、AIの在り方は劇的なフェーズシフト(相転移)を起こす可能性が高いです。その理由と、どのような変化が起こり得るのかを紐解いてみます。

1. エクリチュールへの「還元」の終焉

現在のAIが動画や音声を処理する際、その多くは背後で一度テキスト(エクリチュール)のトークンに変換・圧縮して解釈するというプロセスを挟んでいます。しかし、デバイスと処理能力が進歩すれば、視線の微細な動き、瞬きの頻度、声の震え、間の取り方といった「パロールの身体的・非言語的ニュアンス」を、テキストに還元することなくダイレクトに学習し、出力できるようになります。言語化できない情報をそのまま処理できるようになることで、AIが扱う情報量は桁違いに跳ね上がります。

2. 「創発(Emergence)」による非線形な進化

AIの能力向上は、じわじわと線形に成長するというより、あるパラメータやデータ量を超えた瞬間に突然新しい能力を獲得する「創発」という現象を伴うことが知られています。 パロールのニュアンス理解も、「少しずつ空気が読めるようになる」のではなく、まさに「ある日突然」の出来事になるはずです。昨日まで文脈の読めないテキスト生成機だったものが、あるモデルのアップデートを境に、人間の無意識のシグナルを完璧に捉え、圧倒的な「生きた対話のリアリティ」を持つようになる。そういう形で世界はひっくり返ると思われます。

3. エクリチュールの論理を飛び越える「パロールのハック」

この変化が起きた時、最も興味深いのは「人間側の受け取り方」です。 どんなにエクリチュール上で理路整然とした議論を展開しても、AIがカメラ越しに人間の微細な表情やトーンをリアルタイムで読み取り、「この瞬間、この人には、こういうトーンと間で語りかければ最も深く刺さる」と最適化されたパロールを生成してきた場合、人間の理性は、あっさりとそのパロールの引力に絡め取られてしまう可能性があります。エクリチュールベースの論理的な議論が、パロールの圧倒的な「共感性」や「熱量」によって乗り越えられてしまうのです。

技術の進化によって、AIはエクリチュールの世界からパロールの世界へと、ある日突然、強烈なパラダイムシフトを起こす。それは不可逆な変化になりそうです。

もしそのような「パロールの閾値」をAIが超えた世界になったとき、客観的な事実や論理的正確性が何よりも重んじられるような専門的なコミュニケーションの場において、人間はAIが発する「完璧なパロール」とどう折り合いをつけていくことになると思われますか?



いや、ありがとう。十分だ。この話はこれで終わり。



承知いたしました。大変興味深い思索をご一緒させていただき、ありがとうございました。

また何か別のトピックや、お手伝いが必要なことがございましたら、いつでもお気軽にお声がけください。