逃避の行動学

来るときは一気に来る、という感じでエクストラの仕事の依頼が来る。老若男女問わず、働いている人というのはたいていこれと似たようなことを言う。つまり今のこの状態は、特段私が忙しいというわけではなく、「働くとはつまりそういうもの」なのだと思う。

とはいえ、自分が考えていなかった仕事が次々ふりかかってくる状態というものは確実にストレスではある。そういうのがいやで仕事が続けられなくなったりする人もいるだろう。かくいう私も、別に特段イレギュラーに耐性があるタイプというわけではなく、キャリアを重ねる中でそういうことが起こる回数が次第に増えてきた、つまり、徐々に慣らされてきたから今ちょっと平気になっているだけであって、働きはじめの最初のころにこういう生活をしていたら、私は仕事が嫌いになっていただろう。

それは当時の上司がうまく調整してくれたから、すなわち、「恩」として語ることができる話だ。ただ、恩知らずなことを言えば、私は単に運が良かっただけなのかな、と思うこともある。仕事が長続きしない人の話を聞いているとだいたいいつも思うのだが、社会においては「こんな使われ方をしていたら私だっていやだ」と共感することのほうが若干多い。「そこはがんばって、ちょっとがまんすればいいのにな」と説教したくなることはまずない。じゃあそれを上司がどうにかできたらよかったのかとか、そういう話かというと、違うと思う。どこの誰に理不尽なエクストラ・ワークが降りかかるかは、恩ではなく運だ。私は運が良かったのだ。運良くこの年齢まで働けている。だったらその運を縁に変換し、社会に返還していくのが筋だろう。


寝ても覚めてもタスクリストが頭の中にあるがその順序を、こっそりと、ズルをするかのように、入れ替えていることがある。「これは……本当は今日やることだったけれど……来週でいいか!」そのズルを、叱るのも、あきれるのも、自分だから、別にこっそりとなんてする必要はなくて、堂々とサボったりゆるめたりすればいいのだけれど、私はそこで誰にも見られていない心の内側で背中を丸めて右手で手刀を作り、不知火幻庵みたいなポーズでメンゴメンゴとエクスキューズを積む。申請書は本来であれば今日の夕方くらいまでに書く予定だった。締め切りが1か月後だからだ。でも、来週にしようと思う。デッドラインはまだまだ先なのだから問題はない、とはいえ、こうして少しずつ締め切りに対する間隔を伸ばしていくと、いつか締め切りという名の亀に追い越されるアキレスとなるだろう。呆れるアキレス、略して、れるレス。今年の北海道日本ハムファイターズもレイエスががんばってくれると思う。このように、逃避というものは、頭皮の上で音韻をすべらせるように横にずらしずらししていくことで形成される。

カザーブ回顧録

飲み会がつまらないから行きたくないという人たちの気持ちはわからなくもない。だれか、猛烈に盛り上げる人が2,3人いて、話題は軽妙にポンポン移り変わっていくこともあれば、ふだんなかなか語れない深いところまでしっぽり落ち込んでいくこともあって、うまいものがさほど待たずに届き、それは自宅で作るのには手間がかかったり材料の無駄が多かったりするもので、がつんとボリュームと味があって酒に合うものと、なんとなく口がさみしいときにホイホイつまめるライトなスナックとが両方あり、寒い季節にはあったまる、暑い季節にはひんやりすっきりする、のどから体温を調節してくれるうれしさがあふれているし、アジアンな湿度のにおいが香ったかと思えば、イタリアンなトマ度(※トマトの度数のこと)のニオイがただよってくることもあって、鼻孔から脳髄にささやきかける焦らしが適度にワークしている、そして大事なのは、飲み物がなくなったらすぐ頼めるけれどべつに飲まずに待っていてもかまわないという空気である、それが部屋に満ち満ちていることである、そういったものが一塊になり、「飲み食い」という巨大概念すべてが大きなハレのムードを引き受けている状態。その祭典。その、うねるような、喧騒の中で心地よく揉まれているうちに、ふと「ノイズの中の静寂」みたいなゾーンに入ることがあってたまらない。自分の体から精神が半歩くらいずれて浮いて自分を見下ろしているわけだ。今、どうしてか、ふしぎなところにたどり着いているなあと、バガボンドの旅情のようなざわつく寂寥を楽しむことになる。そうしたら、隣の席とか斜め前の席あたりから、肉体的にはさほど距離が近いわけでもないのだけれど精神にそっと手を添えるような身振りで、「最近どうなの?」と、自分がしゃべる機会を振ってくれる理解のある知人がいるのである。そこで、普段だと話しきれないようなとりとめもなく山場もなくサゲもない「普通の冗長な話」をおずおずと語り始めてみればすなわち、みんながうんうんとうなずいて聞いてくれるのである。なんということだろう。ものすごい幸せではないか、と、これくらい、これくらい「揃った」飲み会じゃないと、たいていの人間はつまらないし行きたくないのではないかと思う。そんな飲み会なんてものは想像の中にしか存在しないのだけれど、外界の認知に願望の投影が強くかかって何もかもがディストーショナルである時代、すなわちハタチそこそこの、大学生あたりが今日もそのへんで開催しているあらゆる飲み会は、先の要素のどれかひとつだけ、あるいはひとつの半分(例:飲み会の途中で話しかけてくれる人はいるがやけになれなれしく肩に触れてくる、など)しか達成していない、しかし、その一要素があまりに効果ばつぐんなのだ。だから私たちはすぐ、「ああいう飲み会をまたやりたいな笑」みたいなことを心のどこかに栞のように挟んで大事にページを閉じたりときおり開いたりしているのである。それは、たとえばルカニを覚えた直後にちょうどぐんたいガニみたいなルカニの効きまくる敵が出てきて、「これからはルカニを使えば戦闘は楽になるなあ!」なんてすごく納得しつつも、その後、てつのおのみたいな武器でさっさと殴ったほうが早くなってルカニをあまり使わなくなり、でもバラモス戦の頃になると、ルカニもスクルトもピオリムもぜんぶ使っていかないと、「一要素」だけで楽しめる段階はとうに過ぎていて、強力な外敵に対処するにあたってあらゆるバフを複合的にかけていかないと太刀打ちできなくなっており、「ルカニがやたらと通るカニ(笑)なんつって(笑)」とか言って笑っていたあの頃が一番楽しかったなと思い出語りをしだす中年ファミコン探偵団、みたいな話である。ぜんぜん違うけれど。

そんなことにGeminiを使ってもじぇ意味ないよね

デスクの引っ越しをした。半年前に今の職場にやってきて、しばらくの間は仮住まいということで、それでもだいぶ広いスペースにどっかりとお店をひろげていろいろやっていたのだけれど、春になり、異動があって、ついに私の「これからのすみか」が決まった。ちょっとまだ棚とか少なくて、いや、まあ、本棚とかはむしろいっぱいあるんだけど、手にとどくところにチョイとなにかをしまうような「小さな棚」が少ない。今後はそういうものをちょっとずつ増やしていけたらいいかなと思う。とりあえず検索。デスク 棚 引き出し付き 横 なんという商品名なのかわからないのでひとまずそうやって入れて画像検索して、それっぽいものを見つけた、なるほどこれはデスクワゴンというのか。あらためてデスクワゴンで検索して一番安いやつを買う、けれど、これは出荷元はAmazonだけど販売元がぜんぜん読めない初期IDみたいな名前だなあ。商品の画像をみると別に普通の日本語なのだけれど、

「引き出しがスムーズ」

と書かれている、伸ばし棒の、「ー」のところが、「漢字の一」になっていて(明朝体だから気付いた)、なるほどこれはAIで描いた画像なのだなあとわかり、となればおそらく国を越えてがんばっている人の販売する商品なのだろうなあと感じ、まあそれでもぜんぜんかまわないけれど1000円だけ高いもうちょっとちゃんとした業者のやつを買うことにする。タイムセールで10%オフだ。よかった。でもこのタイムっていつからいつまでなんだろうな。


こういった買い物は、早晩、AIによって一気に変わっていくんだろうな、みたいな話をたまに読む。さとなおさんの本にもそう書いてあった。今回の私の買い方だって、途中までのプロセスをぜんぶGeminiにまかせてもよかったのだ。「あれ、なんていうんだっけ、デスクの横にくっつけて使う、引き出しみたいな」と話しかけて、「あんまりあやしくない業者、口コミがそこそこよくて国内できちんと使用実績があるメーカーを3つくらい教えて」とかやれば、今の私の試行錯誤なんてぜんぶすっとばしてそこそこいいメーカーのそこそこいい商品を教えてくれるんじゃないかと思う。そして、この、AIに選ばれるかどうかというのが、これから企業が生き残っていくために必要なことなんだ、というのがさとなおさんの主張で、私はこの感覚はとてもよくわかる。いや! 俺は別に! 買い物なんてものはAIを通さないぞ! それがこだわりだ! という少数のこだわり派の人はしかし、よく吟味して、これぞという商品を狙いすまして買うだろう、そういう人は市場の動向には思ったより影響しないのだ。世の中の経済を動かすのはいつだって、衝動買い、いらないのに買ってしまうアレ、ちょっとその場の気まぐれでカゴに放り込んでしまったアイスバーのような、そういうあまり知性を発動させずに情でヒョイっと買うような仕草のすぐ横に、スマホの皮を被ったAIがいつもいるようになる、そうしたらやっぱり経済の仕組みも広報の仕組みもいろいろ変わっていくんだろうなあということをなんとなく思う。


今度のデスクは部屋の奥だ。奥まっている。ドアのところをコンコンと、みんなノックしてくれるのだけれど、開けたままのドアのところから私の居場所は覗き込めないようになっていて、つまりこれから、幾人もの人たちが、私がいない部屋の入り口でコンコンとドアをノックしてしまう現象が起こることになる。「在室札」みたいなものを買わなければいけないような気がする。「在室札 かわいい」で検索するがあまりこれといったものが出てこない。画像をちらちら眺めているとなぜかこれが表示された。「在室札 かわいい」で出てくるものとしてはおかしいだろうと思う。




スクラビングパズル

思ったより順調に仕事が片付いた。19時から21時までWebで研究会に出て、それから札幌に車で移動して、明日は出張、というタイムスケジュールを当初は考えていたけれど、いやいや、これはもしや、いろいろポチポチ調整をする。今朝は7:00過ぎには出勤していたから、勤務時間を「通常」(8:30-17:15)から「早出B」(7:30-16:15)に変更すれば、時間休をとらなくても16:30には職場を出られる。そうすれば19時の研究会がはじまる前に札幌に着くことができる。そーかそーか。よーしよーし。そうしよう。助かる。これで週末に体力を残せる。早出の調整はすぐに終わった。あとは仕事をきりのいいところまで終わらせることだ。やっかいな電話がかかってこない限り大丈夫そうだ。切り出しも終わった、生検も片付いた、申請書はまだ書き途中だけれど、これはあと1、2時間で書けるようなものでもないから今日急いでもしょうがない。細胞診……に、ちょっと懸念する所見が出た、ので、臨床医に電話をする。おかしなことになっている。でも、これは今日どうこうできるものではない、じゃあまた相談しましょう、と言って電話を切る。暫定的に解決とする。網走から送ってきた封筒を開いて中の書類に目を通してサインをして返送の準備をする。精密機器を他大学に送る準備は機能終わっているから大丈夫。論文の病理の部分に手を入れてくれと言われて送られてきた原稿をあらかた手入れして送り返す。ああ、うん、大丈夫そうだ。

こんないい日もあるのだな。こんなうまくいく日もあるのだな。

フラグにならないように、ならないように、と思っていたけれど、やっぱりそんなにうまくはいかない。車を出したところまではよかった、しかし、深川を過ぎたあたりで日が落ちて路面が暗くなる、それはまあわかっていたことだけれど、驚いたのは猛烈なみぞれだ。これは聞いてなかった。ヘッドライトがみぞれに乱反射してステージの紙吹雪のように乱舞している、私の体感速度は、1.2倍くらいにぶち上がっている、今、うっかり120キロくらい出ているんじゃないかと思う、しかしスピードメーターを見ても105キロのままだ。そういう錯視がたくさん起こっている。そもそも105キロで走り続けるように設定しているのだから、それより早くなることはない。けれどもちょっと怖いなと思う。ハンドルを握る手にじわりと熱がこもり、腕、胸、肩まわりに数秒ごとにスリップダメージが蓄積していく。粒の大きなみぞれがばしばしフロントガラスを洗う状態で、いつもと同じ速度で走るのは無理だ。設定速度を5キロ落として100キロにする、しかし、そこでさらに予想していなかったことが起きた。車の前面についているセンサーにみぞれが付着し、車間距離とか車線との間隔をはかることができなくなったということで、運転アシストシステムが停止してしまった。まあそういう便利を用いずに、自分できちんとアクセルを踏んで速度を保てばいいだけの話だけれど、これが思った以上にしんどい。冬、猛烈な冬、なるべく高速道路なんて通らないようにしていたから、冬の高速運転は久しぶりだ。路面はとっくに解けているからなんの困難もないだろうと思って軽い気持ちでハンドルを握っていたから余計にだ。急にはこころの準備が伴わない。シューティングゲームのアーケードモード(HARDより上)のようだ。弾幕は絶対に避けられない。こちらのバリアがなくなった時点で残機はすべてなくなる。高速道路が橋のような高いところを走っているとき、私は必ず、車が欄干をぶちやぶって放物線を描いて下の川なり田んぼなりに飛び込んでいくところを想像する。

砂川でいったん停まってサービスエリアの担々麺を食べているうちにみぞれがやまないかな、と思ったが天候はさほど変わらない。担々麺というのはなぜこうも気道の変なところに入ってむせるのかと不思議に思う。年を取るとむせやすくなるというのは、年を取ると気道に変なところが増えるという意味だ。変なところとはどういうところなのだろう。隘路だろうか。袋小路だろうか。手術でも解剖でもそのような構造は出てこないが、人体というものは外から手を入れて見ようと思うととたんにわからなくなってしまうタイプの構造をじつはたくさん有している。担々麺が変なところに入ったまま車に戻る。

こんな日になるのだな。こんな土壇場で生きるか死ぬかの心持ちになる日もあるのだな。

残り1時間半くらいかけて移動すれば研究会には間に合う。ぎりぎり間に合わなかったとしても、Webだし、こっそり部屋の後ろから入るよりよっぽど静かに途中参加できるからあまり問題にはなるまい。イグニッションスイッチを押してからもなんだか走り出すまでの気合いがちょっと足りていない気がして、スマホからブラウザを開いてポッドキャスト熱量と文字数のバックナンバーをたどる。この半年、ちまちま聞き進めてきた過去回の、2014年くらいの新番組全部見てみた件(新全件)を再生してからアクセルを踏み込む。ややアニメ的なBGMに合わせてさっそくみぞれがフロントガラスを洗い始める。運転アシストはやはり稼働しないままだ。さっき車を降りているときにいったんセンサーのところを拭いておけばよかったか、しかし、センサーのところが稼働したりしなかったりを繰り返しているところを見ると、次から次へとびしょびしょの氷が付いたり離れたりしているのだろう、こういうのは拭いたところであまり意味はない。

すっかり夜だがはるか遠くの西の空、雲の切れ間にうっすらと、DFS染色のような色味が覗いていて、ああ、だんだん日の入りが遅くなってきてはいるのだな、春はもうすぐそこなのだな、と少しうれしく思う。猛烈な土砂降りの中、江別を過ぎて野幌のあたりで雨脚が弱まり、ようやく少し走りやすくなってきたけれど代わりに交通量が多くなってきて、それはそれで別のストレスだな、ああ、私はほんとうに、運転自体にはさほど興味がなく愛情もないのだな、ということをしみじみ感じる。運転も車も好きじゃないのに延々と運転をし続けている、そういうタイプの運転者もいる。早く自動運転の世の中になればいい、しかし、みぞれごときでセンサーがつぶれるような土地で、いくらAIががんばったからといってそんなに簡単に自動運転が達成できるものなのだろうか。AIというのはいつもそうだ。年末調整とか、学生実習の準備とか、同じ作業を延々と、少しずつアレンジしながらやっていかなければいけないタスクはちっとも自動化してくれなくて、本の細部をつぶしてあらすじだけ出してきたり、イラストの特徴をつぶして最大公約数的な画像だけ出してくる。


札幌に入り、Webの研究会に参加できる某所に移動する道すがら、ドラッグストアに寄る。明日の朝飯とヨーグルトを買う。要らないのにレモンサワーなども1本買ってしまう。車に戻る。そこでほんとうに驚いた。車がぴかぴかなのだ。そんなことがあるだろうか。みなさんもご存知だと思うが、雨だとか雪だとかは、どれだけどしゃどしゃ降っても車がきれいになることはまずない。いろいろはねたりくっついたりして、シャワーのように降り注ぐ中を突進しても車自体はべつにきれいになっていないことがほとんどだ。でも、今日のみぞれは違ったらしい、粘性のためか? わずかにねっとりと車の表面にくっついて、それが速度によって吹き飛ばされて、を適度に繰り返した結果、春先の汚れのついた車がまるで新品のように輝いている。こんな日があるのかよ。こんな目にあったのに最後はなんだかうまくおさまる日があるのかよ。

ラーメン屋には並ばないが

Notebook LMを用いてつくられているイラストをみると気持ちが萎えるようになった。みんなもわりとそうだと思う。一時期流行ったよねー、というやつだ。学会の講演などで一時期はいらすとやを用いたプレゼンが大流行し、急速に古びて、今は生成AI、それもまたあっという間に古びようとしている。「一周回って」「逆に」いらすとやのほうが程よくダサくて緊張を解く。「一周回った」のに「逆」というのはつまり、一周回っている間にねじれたということで、これは社会生活を営んでいるとわりとよくある。ぐるぐる回っていつしか同じところに戻ってきちゃったねー、今の考え、無駄だったねー、なんてことはない。思考が一巡する間に身体はなんらかの形でねじれる。堂々巡りの議論などというが巡り巡っている間に関係性の糸はもつれて絡み合う。それは別に螺旋というほど一方向にきちんと進行するようなものでもなくて、わりと、無秩序に、ぐにゃりと、ねじ曲がって元に戻らないような感じで。使い古したゾンデは決して元のまっすぐな形には戻らない、あれに似ている。


中の悪い人間同士が、お互いを悪しざまに罵る、その中間にいて、それぞれの思惑を聞く、ということをやることがある。右に左に風見鶏、行って帰ってシャトルラン、しかし、こうして話を何度も聞いているうちに、互いの言っていることが他害から違えてきたりするからおもしろい。人間と和解せよ。


今日は時間がたっぷりある。やることはちょっとしかない。珍しい日だ。そういうときこそブログを書こうと思う。そして、モニタに正対するが、おもしろいほど、何も出てこない。

日ごろ、由無し事は私の体を振動させて、がくがくなるのをなんとか抑え込もうとする、でもだめで、震えは体の端っこにどんどんつながっていき、それはまるでトムとジェリーのトムがフライパン的なものでガーンと殴られたときの、振動が尻尾のほうに伝染していくのと同じ、ように、私は普段世の中から全身を揺らされて、その余勢を駆って指先をばたばたと震えさせることで、何がしかのものを書いている。ときに診断を、ときに感想を。つまり世界の振動は何かを書くためのエネルギーになり、世界は私を振動させることでなにかを書き連ねるところの主体である。すると、つまり、世界が凪げば、書くこともなくなる。そういうときに何をする。何も書かない、というのは、まあ、そうなのだけれど、なんとなく、そういうときにも何か絞り出して書けないものかなと思う。無駄に立ち上がり、部屋の中を無駄に歩き回る。一周。二周。テンポを変えながら、遅く、早く、腕を組んだり、振ったり、うろうろとする。そうやっているうちに、凪いでいた思考が、遠心力的ななにかによって、よれていく。絡んでいく。繰り返しの渦の中で、覚えていなかった懸念、気にかけていなかった不安がふくらんで、しまい忘れた一筆箋、黄ばんだ基盤、たわわに実った不実なうらぎり、そういったものたちが、列を乱しながら脳内の定食屋の前に並んで、ときおりタバコを吸ったりスポーツ新聞を広げたりしていて、私はその横を自転車で通り過ぎながら口笛を吹きつつ震えだした世界に共鳴した指先がなにかをとぼとぼと書き始める。