子どもでも知っているような野菜。にんじん、だいこん、ピーマン、たまねぎ、ナス、キャベツ、白菜。こういったものは、やっぱり、名が知られているだけあって、食えるなあ、食いやすいなあ、みたいなことを考える。ふつうのもの。よくあるもの。あたりまえのもの。それらはすべて、生き延びてきたもの。すり抜けてきたもの。調味料にも言える、レシピにも言える。有名どころにはわけがある。
そしてこの、「有名どころにはわけがある」というセリフ自体も、さまざまなところでさんざんこすられていて、よく聞く。つまり、生き延びてきたものなのだな。表現にも言える、しぐさにも言える。
先日読んだマンガ『サラウンド』の中に、トイレでゆっくり過ごす姉の話が出てきた。そこをよく描いたな、と思ったし、わりと何度も見聞きした話でもあるな、と思った。けれどよく考えると、この、「トイレにマンガを置いといて、そこで長く過ごす」みたいな話、聞きはするけど実際にそうしているという人に会ったわけではない。つまりこれは、「遠くで語られる系の話」なのかなと思う。本人の口からは聞きづらいエピソードではある。
思えば私が覚えている話の大半が、この、「直接体験した当人から聞いた話ではないのだけれど、どこかからか誰かの話が流れ流れていつのまにか耳に入った話」ばかりだ。
技術によって体を拡張し続けた結果、体験したはずのものがどれもみな、体から遠くにあるようになってしまったのかな。
ある学会の会議に出ていた。あまり興味はなかった。終わりがてら、遅刻してきた一番偉い人が、学会の事務にあたるスタッフにいきなりブチ切れた。
「仕事が遅いんだよ! こっちはみんながまんの限界なんだよ! プロの仕事をしなさいよ!」
あーよく聞くけどこれ目の前で見たのはじめてだな、と思った。でもZoomの中で起こっていることは、べつに目の前というわけではないのだ、本当は。接続を切ったらまた一人でいる。首元の鈍痛を何度も何度もこする。