対比

ランチョンセミナーを抜け出してポコスコPCを叩いている。キータッチの効果音を「ぱそ…ぱそ…」と記した肋骨凹介(あばらぼねへこすけ)先生は天才である。コン、という音もおそらく鳴るだろうから余計にだ。しかし一方で私のPCはポコスコとしか鳴らない。どう叩いても撫でてもポコと鳴りスコと漏れる。パソコンではなくポコスコンなのだと思う。ポストコロナスーパーコンピュータの略だ。思いのほかハイスペックな話だ。

「AIに作らせたプレゼンを人力でちょっといじってAIの平均的なデザインからずらしたプレゼン」に飽きた。ちかごろ、すぐ飽きる。飽きの回転速度がどんどん早くなっていく。

それに引き換え飽きないのは◯◯だ――という文章をここで入れるのがいいかなと思った。しかし◯◯にあてはまる言葉がなかなか見つからない。流れとしてはここで「人間」を持ってきたいところだけれど、人間にもわりと飽きるというのはちょっと考えればすぐわかる。


プレゼンを作り込み、どれだけ細かくしゃべったところで、伝わらない、みんなそこまで読み切れていない、という指摘を、同日に違う人からべつべつの言葉で頂戴した。ただし、この同じ前提から導き出す結論は真逆であった。何かを説明するにあたって、自分の言いたいことを100言うようにしてもだめで(ここまではいっしょ)、

 →相手の受け取り方を見ながら相手にあわせてシンプルに説明すべき

 →どうやってもすべては伝わらないので相手なんて気にしないで自分のやりたいようにやるべき

と、それぞれの先生方が結論づけていた。どちらも反論しづらく、どちらも落ち着きすぎているように、私には思えた。

理想の伝え方というものはおそらく存在せず、あらゆるコミュニケーションは発信の側の体のあちこちにある腐葉土に根を張り幹を伸ばしたツタ植物である。その葉が生い茂りすぎればかえって生育は悪くなるし、ツタの絡む先によってはどこまでも横滑りして護岸のヒルガオのように風景のノイズとなるばかりだ。しかしそれらがどう転ぶか、どちらに転ぶかを、あらかじめ土の側がコントロールすることなどまず無理で、土としてはせいぜい自分が豊かにふくよかに堆肥していることを続ける以外の選択肢はないように思う。多弁なプレゼンテーションというのは顆粒の肥料を巻きすぎた土のようなところがありそれによって根腐れも起こす、だから私はまだ土としての調整ができていない、それはそうなのだが、とはいえ私は自分を水耕栽培方式に切り替えるとか、ホーマックでキロいくらで売っている肥料入りの土を買ってきてそこに巻くといったことよりもまず、耕すこと、うねを作ること、水を撒くことをするしかないのでは、と思って今のところこうしてやっている。

かわいいだけで大丈夫です

いろいろと込み入った話をしている中で「若さ・かわいげを武器にすることの是非」という話題になり、私はそれにいくつかの感想を述べた後、最終的にこのようなことを口にした。それは私が今までそこまで深く考えてこなかった内容であった。


「人間は個々にちょっとずつ違う方向を向いたベクトルである。そのため、出力全開で突っ走ると、初期の角度の違いがずれとなって、他の人から少しずつ離れていくことになる。『個人の全力』を出してしまうと孤立する。それは決して他の人が『付いてこられないから』という理由ではない。人間の馬力なんて、誰もそんなに変わるものではない。そうではなくて、『微妙なベクトルの差を補正する前に彼方にすっ飛んで消えてしまうと、あとで合流するのが難しい』というニュアンスである。

私たちは、出力全開で物事にあたるのではだめなのである。ひとりで猛然と飛び出していくのではなく、周りにいる人たち、特に、およそ似た方向を向いている人たちと、位置の補正をかけながら9割くらいの出力で進んでいったほうがいい。そのほうが、結果的に、多くの人と塊になって、より大きな仕事をすることができる。では、どうやって出力を9割に抑えるのか? 自分のあふれるエネルギーを無理やり抑え込むのか? それはもったいない。無駄も多い。そうではなくて、『結果として減速になり、周りからも見やすい状態になる』手段をとるのがいい。それはなにか?

安易な武器を振りかざすことである。若さでもいい。誠実さでもいい。かわいげでもいいのだ。これらは仕事のクオリティそのものには影響しないが、周りの耳目を集めたり、周りからの『安直な信用』を集めることに効果がある。自分の最大出力の1割くらいを、そういった、一見仕事にマイナスになるような、人間関係の潤滑油の部分に注ぐ。

その結果、『若さやかわいさで働いている』と揶揄されても知ったことではない。人から自分がどう見られたいか、ではない、それで仕事がどの方向に育つのか、である。『若さもかわいさもかなぐり捨ててフルスロットルですっ飛んで』しまったら、ほかの人間との距離が開いてしまう、それは仕事にとってはトータルでマイナスである。」


こんな言葉が自分の口から次々出てきたことにじつはかなり驚いた。自分でもこの理屈は十分に吟味できていないのだが、おそらく私の中には昔から、「若さとかかわいげとかを武器にして働くの、いやなんですよね」と述べる男女に対する根源的な「その程度の覚悟で仕事してんの?」という不満があるのだろう。プロダクトがどうなるかよりも、その仕事を通じてその人がどう見られるのかが最終的な目標になっている人をみると、仕事なめてんのか、と私は感じた。それがある種の偏りであり、ベクトルの初期状態のずれであることは自覚している。「わかりやすさ」「親しみやすさ」「気配り」「コミュニケーション」。これらをかなぐり捨てて全力で働いていると公言している人間の仕事を、私はおそらくあまり尊敬できていない。狭量なことだ。かわいいだけじゃだめですよ。でも、かわいいほうがいいですね、という話。

ふかきん

ちょっと疲れた。さすがに移動しすぎな気がする。帯広から札幌までの電車、事前に帯広での仕事がどうなるかわからなくて早割のチケットがとれず、当日定額でとらなければいけなくてばかばかしい値段がする。割高ついでにうっかりグリーン車を取った。どうした! と思った。グリーン分は自腹となるが、そこで躊躇せずぬるっとグリーンにしてしまった。足を投げ出して座れる、PCの電源がとれる、となりに人がおそらく座らない、など、いくつもメリットが思いついた。グリーンなんてどこの富豪が乗るんだよとずっと思っていたが、今の私にとってはスイーツよりもアルコールよりもグリーンのシートのほうが自分を労ることになる。清水の舞台を爆発炎上させてその爆風で飛び降りるくらいの気持ちでグリーンを取った。結果、今、快適だし、仕事をするつもりなのだが寝落ちしそうで困っている。眠気覚ましにブログを開いてむりやり目を開けている。これを書き終わったらまた仕事に戻る。


来年は日ハムのファンクラブに入るのをやめようかと思っている。あいかわらず日ハムのことは応援しているけれど、今年は一度もスタジアムに行けていない。DAZNの中継すら見られていない。あっ、今日は野球を見たいな、と思いついたときにはたいてい試合は終わっている。見なくてもいい、ファンとして金だけ払えばいい、という気持ちもあった。けれども、なんか、もう、あんまり気持ちをたくさんの方面に使えない。アマプラはまだ解約していないが、noteのマガジン類、dアニメストア、ほぼ日の學校など、全く見ないものを次々と解約。金の無駄だからというより意識をそっちに薄く広げることが無理なのである。「狭く、深く、へんくつに。」嫌なコピーライティングを掲げて日々を暮らしている。離れてくらす息子が今の私を見たらつまらんと言うかもしれない。LINEのスタンプだけでも買い足してみる。


夜中に一度だけ、XでSpaceをやって、吉増剛造の詩を朗読した。ワタナベアニさんから短いDMがきて、「いいですね これ」と書いてあった。心が粉微塵になって、床に心の破片がたくさん散らばっているとき、詩を朗読する、と、ミョウバンの溶液にタコ糸を垂らして結晶がくっついてくるときのように、詩が心の破片をくっつけながら伸びていって、新しく心のような、世にある何かの法則のほうな、でもどことなく脆弱な塊ができていく。自分の口から漏れ出る音に意識のマイクロニュークレイみたいなものが次々とふっついて、意味のありそうなフラクタル構造となって、内部は少しずつ自壊するのだけれど縁辺のあたりはいつもきらきら光を跳ね返している。あの夜、私はたしかにそういうことをやって、ワタナベアニさんの言うように、なんだかいいな、これ、と思った。またいつかやってみたいと思うのだけれど、そのいつかがいつなのかはわからない。課金はしなくていい。登録もしなくていい。ならいつか、やるかもしれない。

レシピ通りの病理

キャベツをどう食ったら一番早くそつなく食えるか、毎日だいたい同じ時間に考えている。昨日は、厚めの千切りにしたものを耐熱トレイに入れて下のほうに軽く水を張り、上から乾燥昆布とカツブシをかけてフタをして何度かレンジであっためて、昆布が蒸気で戻ったところでポン酢をかけてみた。「半身浴的鍋」みたいな見た目と味になった。素材だけをこうして書くとなにかうまく行きそうな気にもなるのだが、実食してみると別にうまいわけではない。ただ、まあ、食える。生で食っているわけでもないし塩分がきつすぎることもない。腹は膨れる。しかしこれは料理というか作業だなと感じる。

世にすでにあるレシピというのは生存バイアスをくぐり抜けており、それと違うことをして「なんだ、これでもうまいじゃん」というところまでたどり着ける可能性は皆無だ。はじめて一人暮らしをした大学生の、適当に火を入れたり塩をふったりしたもの、ワンプレートのパスタであったり丼物であったりの、あの、味がないわけではなく、むしろパーツとしての味はついているのだけれど、それはあくまでパーツがここにあるなというだけの、まだ組み立てていないジグソーパズル(しかも完成する保証がない)のような、そんな料理を作り続けている。たまにレシピ通りにする。とてもおいしいものができる。料理というのはそういうものなんだよな、と思う。

味噌汁なら適当に作ってもなんとかなる、と、土井善晴の声マネで毎日一椀ずつ作っているが、あらかじめ野菜を長めにレンジであたためておいたほうがよいとか、顆粒だしを入れたほうがうまい組み合わせとそこまで必要ない組み合わせがあるとか、乾燥油揚げや海苔など乾いたものをいくつか常備しておくと便利だとか、そういう話をひとつひとつ学びながら、少しずつ「普通の味噌汁」に近づけていく。きのこの加熱が甘かったりすると翌日腹が重くなる。ネギを入れすぎると特殊なネギダレみたいになる。こういうことをずっと繰り返している。


たぶん仕事でも同じことを私は10年以上やっていた。本当は王道のやり方があるものに対し、私なりにアレンジを加えてしまう。病理診断の所見をこう書いたらもう少しわかりやすくなるのではないかと試してみて、結局上司に「ここはいらないんじゃないか」と直されたり、学会の講演で普通あまり見ないようなスライドを入れて「会場のみんなに楽しんでもらおう」としたけれどそれがノイズになってメインのメッセージがボケたり、研究会の司会を担当して発表者や解説者よりもしゃべり続けて、結局その会にやってきた人びとの満足度があまり上がらなかったり、ということを繰り返した。「レシピ」を雑にしか覚えずに、感覚でだいたいこうかなとやって、結果的に微妙なものを生み出す、一人暮らし初心者の料理のようなことを、私は料理以外でもあちこちでやってきた。少しずつ人と同じ動きをするようになる、とっぴなことをやらなくなる、一般的に言われている通りの手順で物事を粛々とこなすようになる、そういうのはつまり、「年を取って落ち着いた」というやつで、レシピ通りに料理を作る、みたいな話なのだけれど、私もきちんとそのようになっている。

俯瞰すればいいと思っている

早朝に病院のトイレに入ると場所によってはタバコの臭いがする。特に外来や病棟から離れた、たとえば病理検査室の近くにあるようなトイレではよくあることだ。深夜に徘徊を疑われながらさまよいあるいた患者がたどり着く先として「病理のそば」はほどよいのだろう。近頃は紙巻きがほぼ絶滅して電子になっていて、以前に比べれば臭いもかなり減ったが、それでもわかる。

ICUの近くにあるトイレならば、患者に付き添った家族のタバコかもしれないと思う。でも、病理の近くに患者の家族はめったにやってこない。だからこれはやっぱり、こっそり逃げてきた入院患者なのだろう。もっとも今の職場では、ICUと病理が隣同士にあるので、この仮説の強度はやや落ちてしまうけれど。

かつては、あるいは犯人は職員かなと思ったこともあった。けれど今は、医療従事者の衣服についたタバコの残り香を隠し通すこと自体が無理である。病院の中では喫煙者は歩いているだけでタール色に見える。

ところで先日訪れた中国の町はとてもきれいでゴミひとつ落ちていなかったのだけれど、歩くとすぐにタバコの臭いにぶつかる。そうか、日本ではこれがなくなったのか、と思った。飲食店が多く立ち並ぶ通りではむしろ腐敗臭がすることが多くて、同行者も「臭いがすごいでしょう。飲食店は汚れた水を側溝に流すのでどうしてもこうなってしまうんですよ」と理由を教えてくれた。まあでも正直、アジアってこんなものだよな、と、予測の範囲を越えたわけではなかった。けれども、飲食店街よりもはるかに汚水の処理に厳しいホテルや病院で、すれ違う人から立ち上るタバコの臭いがフロア全体をうっすらと覆っていることには正直驚いた。人がたくさん暮らしているとこれくらいタバコの臭いがするものなのだ。日本はここ10年くらいで大幅に脱臭された。日本の空港に着くとしょうゆの臭いがする、と、かつてエッセイストたちはいっせいに書き立てたものだったが、今回私は羽田空港を「タバコの臭いがしない建物」だと感じた。

同業者が以前に、「日本は今や、『清潔な発展途上国』ですからねー」と言った。なるほどこういうことか、と時間差で腑に落ちている。



話は変わるけれど、今の椎名林檎(大変おきれいですばらしいと思います)は、昔自分が書いた「i 罠 be wiθ U」とかを読んで頭を抱えて身悶えしたりはしないのだろうか。しないかもしれないな。なにせあれは、誰にも見せずに自分だけで書き留めていた日記ではなくて、何重万枚も売り上げたCDに確信と共に公開した言葉だからな。

それを書写して部屋に貼った中高生もいただろう。そんな中高生はきっと、思い出したら頭を抱えて身悶えするだろう。けれども椎名林檎は身悶えしない。真似られるほう、追いかけられるほうは恥ずかしがらない。自尊心と羞恥心のはざまでフーコーの振り子のように振動回転するのはいつだって後を追うほうだ。私が世の中に感じる、快・不快の解も甲斐も付会も、その湧き出す源は、たいてい、なにかを後から他人事のように眺めてそこに遅れてついていこうとするところにある。俯瞰するというのが、なにか、たいそう偉いことのように語られる昨今ではあるが、俯瞰というのは遠巻きに指を咥えてものほしそうに眺めている状態でもある。鳥は飛んでいる最中に指を咥えられないからそうしないだけだ。実際、俯瞰の最中に、ちきしょうあそこに混じりたいな、と感じることだってあるだろう。