ゆくすえを振り返る
唇も赤くならない
リマインドみきや
まずいラーメンを食べた。味と器が合ってない。味と店が合ってない。味と店員が合ってない。この味ならば、西28丁目駅前からちょっと行ったところにある、「みきや」の店構えでなければだめだ。もやしから出た水分が、じゃぶじゃぶと味噌を洗っている、白菜から出た水分も、チャーシューをみずびたしにしている、控えめすぎるゴマの香り、生姜をいっさい感じないスープ、西山ラーメンより若干ぱさついた麦っぽい麺。そのハーモニーたるや、こんな、イオンモールのフードコートの、マクドナルドやペッパーランチや丸亀製麺と戦わなければいけない激戦区では風前の木漏れ日(互いに影響がない)。どうしてこの味で出店しようと思ったのか。私の舌はとっくにイオンモードになっていた。この味だというならなぜのれんを赤ベースに黒文字にしなかった。なぜ器を仰向けの乳房のようにつぶれてたるんだどんぶりにしなかった。どうしてちょっと色気を出してしまったのか。なぜ900円以上するラーメンの広告様式に染まってしまったのか。
まずいラーメンだ。どんどんいろいろ思い出す。あふれる。これはまずいことになった。
私はじつは大学に勤務するのがはじめてだ。これまでずっと市中病院に勤めてきた、医局に属しているというのでもなしに。それがいきなり大学のポジションにおさまったのだからいろいろと違和感がある。不具合がある。ずれがあり支障も出る。そんな中、「はじめて研究の資格を手に入れたのだから研究活動スタート支援に申し込むといい」と言われて、なんだそれはと調べてみると、研究資格を手に入れた初年度だけに応募資格がある科研費で、2年で300万、まあ基盤Cに似ているのだがそれより取得倍率が低くて狙い目だという。なるほど。一方で私は「若手」の資格はとうに消失している(学位をとってから18年以上経ってしまった)ので、そちらの応募資格はない。よーしいっちょやってやるかと新年そうそうからじっくり時間をかけて綿密に申請書を書いた。上司や先輩たちにも何度も何度も添削してもらった。大学の研究企画係の人にも夜討ち朝駆けでがんがん赤入れしてもらい、連休前、ようやく申請を出し終えた。さあ、人事は尽くした、あとは天命だと背筋をただしていたら研究企画係からメールが一通。なにかと思うと、
「ここまで気づかなかった私も悪いのですが、先生はスタート支援への応募資格がありませんでした」
しばらく横隔膜が止まってしまった。
「先生は大学勤務は初ですが、長く大学の客員研究員でいらっしゃいましたよね。それ、研究資格なので、もう先生は新人ではないのです」
私がe-Radの研究者番号をとったのは大学に入ってからだから昨年の秋だ。だから大丈夫なのかと思っていた。これはさすがにこたえた。しかしダメージに動じている場合ではない、まず、世話になった人びとに、深くお詫びをしなければいけない。メールをして回った。するとみな、やさしいのだ、それが必要以上に全員やさしい。それを見てなにより私は一番切なくなった。茶化せないレベルの失敗だったということだ。やらかしに対するリアクションにもいろいろある、それが、こうまでやさしさ一色に揃うということは、つまり私のやらかしが、ほんとうに哀れでしんどいものだということが、誰の目からみても明らかであったということだ。
市中病院の病理医を18年やってから大学、なんてのは型とかスタイルとかテンプレからは外れてしまう。だからだれも気づけなかった。王道、枠内、そういったものを外れて個性を出そうとするとこういうことになる。身の丈に合わないことをしている。本来すべきことからずれたことをしている。だからだ。
「みきや」のラーメンが無性に食べたい。あれは絶品なのだ。ほんとうにうまいのだ。ラーメン共和国とかラーメン博物館とかラーメンストリート的な場所ではあのラーメンは戦えない。でも、うまいのだ。あれほどうまいラーメン、そして、あれほどチャーハンと合うラーメンを、私はほかに知らないし、あのどんぶり、あのぺとぺとする床、あの日焼けしたGTOやバガボンドの置いてある店構えで食うラーメンとしてあれ以上の完成品などこの世には存在しないのである。
風呂
会議含め8時間くらいを見込んでいたのだが、ふたを開けてみると5時間程度できりのいいところまでだいぶ片付いた。まだ16時台だ! たまには明るいうちに帰ってみるかと思い職場をあとにする。朝は少し遅めだったけれど、祝日なので駐車場には余裕があり、玄関から近いところに車をとめられていて、そんな小さなことにも欠かさずうきうきしてしまう。まずはスーパーに寄って今日と明日の晩飯を調達しよう、明後日からはまた連続で出張があるからあまり日持ちのしない食材は買えないけれど、そうか、今日くらいは晩にビールをつけてもいいかもしれない。ここのところ、とんと酒を飲まなくなったけれど、飲みたくないわけではなくて、ビールまでたどり着かないというか、寝る前の飯としてもりもり野菜を食っているうちにアルコールへの興味を失ってしまっていた。でも今日はいいだろう。なにせ、祝日なのだから。
いつも閉店間際に駆け込んでいるスーパー、早い時間に行くとなるほど野菜が多い。つまりここは1日の仕入れとか管理がしっかりしていて、その日のうちに売り切りたいものをぴったり売り切っているということなのだろうけれど、私にとってはいつまでもニラとかキャベツが買えないのは少し困りものだった。今日は売っている! 帰る! しかし繰り返しになるが今日と明日に飯を食ったら明後日からはまた旅なのだ、となるとニラを2日で食うことになるが、そこまでニラに鋭く依存した2日間を過ごすつもりはないので結局ニラもキャベツも買わずに今日明日で食い切れそうな下味付きの肉と発泡酒を3本だけ買う。
今日のメールはなんだか全員無礼だったけれど気にならなかった。仕事が終わったから機嫌がいい、というよりも、バイオリズム的に最初から調子のよい日だったのかもしれない。ところで私はバイオリズムという言葉は嫌いではないがバイオリズムという言葉をやたらと使うタイプの人は普通に苦手である。まあ得意な人もいないだろうが。
帰宅してもまだ17時だ。なんとなく風呂にお湯を張ってみる。こうするとあがるなりビールのコースになってしまって、夜に本を読むでもなくすぐに寝てしまう気もするけれど、祝日に祝日らしく、予定とか計画とかにあまり左右されずにだらけて寝てしまうというのも一興だろう。自分でこうと決めた計画が崩れるととたんに機嫌の悪くなるタイプの人間のことをふわふわと思い出す。過去だ。忘れてしまってよいだろう。いろいろな人間がいる。かまわず、目配りせず、気配りだけは軽く、それくらいであまりかかわらずに、自分が機嫌のよくなれるところを目指してふらふらと。妻の顔を思い浮かべ、次の旅行で行きたい場所のことをあまり真剣にならないように気をつけながら雑に考えて検索などをしているうちに風呂が沸いた。風呂、飯作り、ビール、肉、本、旅行。今晩このあと仕事がないことに驚き、不安になり、不安とともに暮らしてきたことを思い、不安がないとそれはそれで不安になる人生ではあるなと笑って風呂に入る。
Xperiaから送信
マナーあざっす
猛烈に忙しいが、自分で自分を忙しくしている部分が必ずあるので、この忙しさを誇ってもだめだし達成感を覚えるのもちょっと違う。自分で自分を忙しくしているというのは、「やらなくてもいい仕事を仕事だと思っている」とか、「ほかの業務とかぶっているはずのものを別個の業務とカウントしてしまっている」とか、「まかせておけばいいのに自分の正義感や使命感だけで自分の仕事だと認識して勝手にコミットしている」など、基本的には落ち度、そしてこの落ち度はあとで振り返るとかなり恥ずかしいタイプのものだ。忙しい忙しい、と言っていたころの自分というのがこれまで◯年ぶり◯回目といった感じで周期的におとずれるのだけれどそのすべてが何もかもみな恥ずかしい。したがって今の私もおそらく数年後には恥ずかしく思い出されることになる、そのことに、胸を張って開き直るのではなく、やや背中を丸めて自覚的に頬を赤らめていたいものである。
にしても恥知らずが多いよな世界には。ほんとに。いや違った、恥じらうのは自分のほうだ。
PCの壁紙、毎日自動的に入れ替わるやつにしているのだけれど、今日はモノクロのかっこつけた写真で、ヨーロッパの山脈のふもとの渓流、みたいな風景が広がっている。しかしPCの壁紙がモノクロだとなんだかすごくかっこつけてる感があってこれも恥ずかしい。今日はいちいち恥ずかしい。
カレンダーをみると年末までずっと仕事続きなのだがたしかにこれは自業自得である。ある人に私の専門領域ではない分野の講演をたのまれ、きびしい仕事だなあと思いつつもそれを引き受け、がんばってがんばってなんとか講演のプレゼンを作ったころ、ふたたびその人に会ったときにぜんぜん違う話題で、「市原くんはそろそろ仕事を絞ったほうがいいよ。特に前の病院でやっていた、画像と病理を対比するようなやつとかはそろそろ減らして、もうちょっと大学っぽい仕事をしたほうがいいと思う」と言われたので、「では先生からご依頼のあった例の講演をまっさきにお断りしたいのですが、よろしいでしょうか」と返事できたらだいぶかっこよかったけどできなかった。萩野先生にはこないだ「知ってますか? 大学に勤めたら何を言われてもわかりましたとしか答えちゃいけないんですよ」的なことを言われたがなるほどわかりましたと思って実際に毎日そのようにしている。どんな電話がかかってきても引き受ける。どんなメールもちゃんと返事をする。それが「自分で巻いた種」だと言われればそのとおりである。自分で自分を忙しくしているというのはつまりこういうところに根ざしている。あ、おもいだした、「まなざしている」という表現は、校正の人からすると見慣れなくて直したくなるものなのかな。私はこの「まなざす」という動詞はけっこう使いやすいなと思って最近よく使うのだけれど、これもまた、あとから振り返ると「なんか覚えたての言葉ばかり使って恥ずかしい時期だったな」みたいになってしまうのかもしれない。