キャベツはあきらめた

ぽろぽろとAIに対する愚痴を書いていたのだが、消した。自分の心が盛り上がらない。AIがすごいこともAIが大したことないってことも、AIによってすごかった人があまりすごく感じられなくなったということも、AIによってすごくなかった人がすごい人っぽく振る舞えるようになっていることも、全般的にどうでもよく、飽きている。冷笑というよりは湿ったため息。いじり続けてもどこにも火が灯らない。熱が上がっていかない話題を書くこと自体は別に嫌いではないのだけれど、じめっとカビてしまいそうな話題を書くのもどうかなと感じた。

今日は冷蔵庫に少量の味噌以外何も入っていない。いろいろ買って帰らなければいけない。早めに職場を後にすれば春キャベツがまだスーパーに残っているのではないか。何度訪れてもキャベツが買えない。ニラも卵も売り切れてしまう。今日こそは。こんなブログを書いているひまがあったら、さっさとこの自己研鑽の時間をおわりにして職場を後にすればいい。

でもなんだか数カ月後の飛行機の予約をとるだとかビジネスホテルの予約をとるだとか、再来月がしめきりの原稿の準備をするだとかに、5分、7分、10分と、時間をちまちまむしって使っている。こういうことこそAIに……いや、やめておこう。

ふと今思い出したのだけれど、かつて、ブルシット・ジョブという言葉を生み出した人がいた、私はあの言葉のせいで、世の中のメンタルの総和がかなり悪い方向に進んだのではないかということを何度か考えたことがある。そんな言葉を作ったらすがりたくなる人がたくさんいるじゃないか。そんな言葉、ほんとうは生み出されないほうがよかったのではなかろうか。やる価値のない仕事、過ごす価値のない時間、生きる意味のない人間、そういった言葉を作ってしまったら最後、該当するものを探してしまうのが人の性というものだ。なにかというとすぐにブルシット・ジョブという言葉を使うタイプの人間を見ていると、自分の手に特殊な光をあててそこに暮らす常在菌を可視化してしまいぎょっとする人間と同じものを感じてかわいそうな気持ちになる。わざわざそこをはっきりさせなくてもよかったろうに。


なんてことを書いていたら昔なじみの編集者からLLMにかんする質問が来た。おもしろい話だったので40分くらいかけて返事を書いた。おもしろい話? さっきまでつまらんつまらんって言っていたのにな。誰かと語り合えばつまらなくなくなる、ってだけの話なのかな。

直球の悪口

咳が出てきたのでマスクをする。ラウンジには曇り空を貫通する微弱な紫外線が降り注いで、体表のなんらかのなんとか神経をなんかいやな感じで経由して私の脊髄をじわじわ焼いており、その反射でのどがかゆくなったのだろうと想像する。そういうことはおそらく起こっていないのだが昨日テレビでほんまでっか!?TVを見ていたらあまりに根拠薄弱なトンデモ医学が大量にテケテケテッテテッテレーテテーテン!と披露されていてちょっとうらやましくなってしまったのだった、私も観覧希望サクラたちの「えー!!」に包まれながら破綻したちょいブル医学情報を訳知り顔で語りたくなってしまったのだ。毎朝お茶漬けとヨーグルトを食べるとお腹の中で混ざってお茶ルトとヨーグ漬けに再編されてしまい、お茶ルトは胃で吸収されずに生きたまま肛門まで届き、ヨーグ漬けは若者の青春をショート動画まみれにするという、そんな報告が昨年出たんですよ。「ほなら来年くらいにはそういう商品が出てくるってことか!?」「えー今の頭皮には間に合わないってことですやん!!」ドッ。ワハハ。誰も見なくなったテレビのシュールな物語がじわじわおもしろい。今、テレビがおもしろい。確信をもって言える。なにがいいってまずカメラの解像度がいい。あと照明がすばらしい。全方向が完全に明るい。そして音声。YouTuberには絶対にできないレベルの映像づくりをして、YouTuberでも言えるようなことを、YouTubeほどアクセスが簡単ではないインフラでばりばり放映してTVerでもう一度みろと迫ってくる。滑稽で、哀愁だ。この文化を看取る世代としての責任がある。しっかり見続けていきたい。


強く生きることを決めた人。自分を世に屹立させることしか考えていない人。人の間と書いて人間と読むことを知らない、もしくは、見過ごすことにしている人。なぜそんなに無知なままいられるのだろうと思うが、先日読んだあるエッセイストもいい歳なのに「私が私でいるために」みたいなことをいい続けていたので、一部の人はそうやって死ぬまでずっとそうなんだろうなと考える。昔、橋本真也が、「いつの時代も俺は俺風」という歌をうたっていたなあと思い出す。彼のミドルキックは重そうだった。パンタロンが音を増幅していた。入場曲もめちゃくちゃ強そうだった。でも、「俺は俺風」は超絶ださかった。


空港で、Kindleで、マンガを2つダウンロード。朝イチの飛行機でそのまま出勤する、スマホの充電は午前中くらいまで持てば十分だから、機内ではずっとKindleを読んでいられる。逆に言えば近頃は、スマホの充電が気になってしまうから、旅路の前半ではあまりKindleを使えなくなった。そろそろ機種変更をしなければいけない。機種変更をするたびに、さほど使っていないアプリを選別して切り捨てていく、脱皮をするタイプの動物の、肌の表面の常在菌との別れを思う。まあ、ときどき機種変したほうがいいんだろう、我々はそうしないと、古いこだわりからいつまでも決別することができない。

低気圧ボーイ

AIがなんでも上手にまとめてくれるから、あらゆる講演がクソつまらなくなりつつある。特にお薬屋さんのしかける弁当会、あれはもう、過渡期というか、大黒柱の底がまさに抜けたところというか、クオリティがまじでやばくなっていてこの先いろいろ変わっていくだろう。今とにかく大事なのは「声の張り」だったり「しゃべりのテンポ」だったりするのだが、そういった「発し方」についても今後はAIで分析されて指導されて似たようなかたちに揃っていくのだからもう始末に負えない。ただ。

思うのだがそもそも社会とはAI前からいつもそうだったではないか。先日、人気タレントが書いたあるエッセイを読んだのだが、それが見事に当代の人気エッセイストのそれとそっくりなので、私は途中から「これはつまりオマージュなのかな?」と勘ぐってしまった。もしや、AIで壁打ちした編集者とのアイディア出しの末に書かれたものか、もしくはAIが選んで売って世に広まりやすくなったものかとも思ったが、奥付を読んでみるとそのエッセイの初出は2020年くらいで、それはつまりAIが市井に降りてくるより前のものなのだ。となると、私がこのエッセイに感じたAIみというのものは、じつは単に時代や社会の選択圧を乗り越えて私のもとに届くものがたいてい似通っているよねというだけの話であるのかもしれない。

似たものばかり。似たものばかり。j-POPだってファッションだってファミコンだってアニメだってずっとそうだった。詩ですら、絵画ですらそうなのだ。それをAIがモノマネしているだけの話。私の話もどこかで読んだことある部品ばかりでできている。オリジナリティを出そうと思えば自分の体験に立脚させるほかない、体験に根ざしたものから芽を出させて花を開かせればその実は間違いなく自分から出てきたものだ、でもその体験はプランターの土みたいなもので、ホームセンターで売っていて、石灰も肥料もぜんぶ売っていて、実のなりやすい苗というのは基本的には接ぎ木なのである。体験すらコピペ。神が生き死にできた時代がうらやましい、と、現代の哲学者は言うだろう。

AIが「よりただしい結果」を出すためのプロンプトをいかに上手に打ち込むか、みたいな小さな競争があちこちで起こっていて、つまらないのでやめろという。かつて、山下達郎が、紅白歌合戦に出てきた美空ひばりのCG✕AIに激怒して、あれは冒涜だとラジオで言っていた。なにを小さいことを言っているのだろうと私はそのときおかしくておかしくて仕方なかった。でも今は彼の言いたいことの先がすこしわかる。山下達郎の歌ほどAIが学習しやすいものもじつはないだろう、彼の歌は世代を超えて浸透するくらいには「人のこころの最大公約数にマッチするもの」なのだから、つまりそれはものすごくAI的だということで、したがって彼はもし今後新たな歌を出さなくなったらとたんにAIによって彼の作ったような歌を量産される運命にある。それを冒涜と言い切れるのは山下達郎を体験し山下達郎に立脚した山下達郎だけだ。山下達郎は自分を守るためにとことんただしくAIにNOを突きつけた。それは滑稽かもしれない、しかし切実だ。でも私は山下達郎ほどには真剣になれない、なぜならAIは私を学習に足る人間だと認識しないような気がする。私は冒涜される価値すらない。だから私は山下達郎の放言に今もうっすらと白けているのである。

唇も赤くならない

Xでフォロワーがほしいとつぶやいたら一晩で5000人くらい増えた。ありがたいことだ。フォロバしようと思ってBioを見て回る。知った顔がたくさんいる。有名人も恩人も混じっている。ありがたいし、申し訳なかったなと思う。前のアカウントは閉じざるを得なかった。あれは今考えても閉じるしかなかった。そして今はこうしてやり直しているわけだが、「ほらみろ」と呆れた人たちもいるだろう。でもまあしょうがない。やめた事自体はしょうがなかった。でもしょうがなくないこともある。それはこの2年ちょっとの間に私のほうがだいぶ変わってしまったということだ。思ってもみなかったが職場が変わった、でもそれはまあ私に対するストレスのかかり方が変わったくらいでさほど大きな変化ではなかったかとしれない、ただ仕事相手が単純に倍くらいに増えたので時間の使い方はけっこう変わった。そしてなにより、私のメンタルというか、私の対人スキルの根っこの部分がかなり変わった。端的に言うと人との距離感を詰められなくなった。今、なんとなく全員から遠い。誰からも遠い場所で新しいことを次々始めている。なんだかいよいよ凶人みたいだ。病理医っぽさが増したとも言える。

新しいことをするときには人と仲良くすべきだ。息子にはそう教えたい。 

さて、私が変わったのはいいとして、社会も少し変わっただろう。増えたフォロワーを見る。怒り狂った人の割合がきもち増えているなと思う。前は0.5%くらいだった、今は2%くらいではなかろうか。政治、経済、文化、そういったものに対して怒るために、また、怒る対象を探してブックマークするためにアカウントを運用している人たちの割合がちょっと増えた。

それはもちろんたくさんのバイアスの先にある観測結果だ。今の私がこうしてフォロワーを募るとき、そこには「正しさ」や「適切さ」に対する世間の忸怩たる思い、私をフォローする上で期待する方向性、みたいなものが乗っかる。笑ってしまうが実際そうなのだ。私はもはやダジャレの人でも旅行のおみやげを募集する人でもなく、大手の軟式アカウントたちとだらしない雑談(どうでもいいが雑談という言葉がどんどん苦手になっていく。)を繰り広げる人でも引用RTで天丼トークを続けていく人でもない。いらすとダジャレもやらないし、スポーツや映画の実況もしないし、医療以外で前と同じようにつぶやいていることがあるとしたらせいぜい本の感想くらいのものだ。したがって今の私は、15年前にTwitterをはじめたときとほぼおなじ、「医療系アカウント」にすぎず、「インフラの中の人」としてフォロワーを募ったことになった。だから自然とそういうことに興味のある人たちが集まりやすくなって、私の「フォロワー募集」の号令を、檄文を、かつて悪ふざけをしていた旧友たちが拡散してくれた先で、いささかまじめな方向に話が広がっていきやすくなっていて、だから私の新たなフォロワーの2%くらいはいつもなにかに怒っているタイプになる。そういうのはなんと言えばいいのか。魚である私が自分の泳ぐ湾の水温とかプランクトンの量とかが少し変化したことを察したとして、じゃあそこから泳いで泳いでぜんぜん違う海に行くかというとそんなことはない。せいぜい、相模湾から駿河湾に行ってみっか、くらいの移動しかしない。インド洋までは行かないし大西洋なんてめんどくさすぎる。でも。

さあどうしたものかなと思う。なにせ私はこれから、人との距離はさほど詰めないくせに社会をスモールパッケージホールドしようとたくらんでいる。私はこれから、AIに席巻されている世の中で人が無意識によい微調整を選べるようなインフラを作ろうという気になっている。傲慢なことだ。おこがましいことである。しかし、それを、48になる今年、やらないとしたら、私の30代のあの決意はいったいなんだったのか。私はかつて確かに、「自分が偉くなったら偉くなったときのことをやる。今は偉くなくてもやれることをやるのだ」と鼻息を荒くした。その場限りの言葉ではなかった。それはシャンパンの泡ではなかった。私はそのことを証明するためにここでやれることをまだやる。私はたくさんの頭のいい人、たくさんの性根のいい人、たくさんの趣味のいい人と、いったん距離をとっておきながら、そういう人たちにまた存分に甘えて甘えて甘えまくって、でも私の心はいっさい見せない酷い感じで、億兆の民衆のためになるちいさなちいさな仕事をいくつかするのだ。なあに、たいしたことではないのだが。

リマインドみきや

まずいラーメンを食べた。味と器が合ってない。味と店が合ってない。味と店員が合ってない。この味ならば、西28丁目駅前からちょっと行ったところにある、「みきや」の店構えでなければだめだ。もやしから出た水分が、じゃぶじゃぶと味噌を洗っている、白菜から出た水分も、チャーシューをみずびたしにしている、控えめすぎるゴマの香り、生姜をいっさい感じないスープ、西山ラーメンより若干ぱさついた麦っぽい麺。そのハーモニーたるや、こんな、イオンモールのフードコートの、マクドナルドやペッパーランチや丸亀製麺と戦わなければいけない激戦区では風前の木漏れ日(互いに影響がない)。どうしてこの味で出店しようと思ったのか。私の舌はとっくにイオンモードになっていた。この味だというならなぜのれんを赤ベースに黒文字にしなかった。なぜ器を仰向けの乳房のようにつぶれてたるんだどんぶりにしなかった。どうしてちょっと色気を出してしまったのか。なぜ900円以上するラーメンの広告様式に染まってしまったのか。


まずいラーメンだ。どんどんいろいろ思い出す。あふれる。これはまずいことになった。



私はじつは大学に勤務するのがはじめてだ。これまでずっと市中病院に勤めてきた、医局に属しているというのでもなしに。それがいきなり大学のポジションにおさまったのだからいろいろと違和感がある。不具合がある。ずれがあり支障も出る。そんな中、「はじめて研究の資格を手に入れたのだから研究活動スタート支援に申し込むといい」と言われて、なんだそれはと調べてみると、研究資格を手に入れた初年度だけに応募資格がある科研費で、2年で300万、まあ基盤Cに似ているのだがそれより取得倍率が低くて狙い目だという。なるほど。一方で私は「若手」の資格はとうに消失している(学位をとってから18年以上経ってしまった)ので、そちらの応募資格はない。よーしいっちょやってやるかと新年そうそうからじっくり時間をかけて綿密に申請書を書いた。上司や先輩たちにも何度も何度も添削してもらった。大学の研究企画係の人にも夜討ち朝駆けでがんがん赤入れしてもらい、連休前、ようやく申請を出し終えた。さあ、人事は尽くした、あとは天命だと背筋をただしていたら研究企画係からメールが一通。なにかと思うと、


「ここまで気づかなかった私も悪いのですが、先生はスタート支援への応募資格がありませんでした」


しばらく横隔膜が止まってしまった。


「先生は大学勤務は初ですが、長く大学の客員研究員でいらっしゃいましたよね。それ、研究資格なので、もう先生は新人ではないのです」


私がe-Radの研究者番号をとったのは大学に入ってからだから昨年の秋だ。だから大丈夫なのかと思っていた。これはさすがにこたえた。しかしダメージに動じている場合ではない、まず、世話になった人びとに、深くお詫びをしなければいけない。メールをして回った。するとみな、やさしいのだ、それが必要以上に全員やさしい。それを見てなにより私は一番切なくなった。茶化せないレベルの失敗だったということだ。やらかしに対するリアクションにもいろいろある、それが、こうまでやさしさ一色に揃うということは、つまり私のやらかしが、ほんとうに哀れでしんどいものだということが、誰の目からみても明らかであったということだ。


市中病院の病理医を18年やってから大学、なんてのは型とかスタイルとかテンプレからは外れてしまう。だからだれも気づけなかった。王道、枠内、そういったものを外れて個性を出そうとするとこういうことになる。身の丈に合わないことをしている。本来すべきことからずれたことをしている。だからだ。


「みきや」のラーメンが無性に食べたい。あれは絶品なのだ。ほんとうにうまいのだ。ラーメン共和国とかラーメン博物館とかラーメンストリート的な場所ではあのラーメンは戦えない。でも、うまいのだ。あれほどうまいラーメン、そして、あれほどチャーハンと合うラーメンを、私はほかに知らないし、あのどんぶり、あのぺとぺとする床、あの日焼けしたGTOやバガボンドの置いてある店構えで食うラーメンとしてあれ以上の完成品などこの世には存在しないのである。