ケチな暮らし

けっこうな額の研究費を獲得できたので、人事のことを考えている。こういうことを年がら年中やっている大須賀先生は偉いなあ。しみじみ思う。お金をとるだけじゃなく実際に手を動かして研究も推進しているから偉い。逆か。実際に手を動かして研究を推進しているだけじゃなくラボの人間の給料を集めるために研究費の申請をし続けているのが偉い。偉いというかすごい。すごい、尊敬する。尊敬するし、目指してみたいものだ。しかしそこにたどり着くまでにきっとたくさんの試行錯誤をし、たくさんの見取り稽古をし、明晰な千鳥足にて夢を現実にしてきたのだろう。彼はそういう感じだ。



老若男女にかかわらず、人間がなにか鋭い洞察をするなあと思ったとき、その口から出てくる言葉はたいてい、ネットのどこかの誰かが先に述べた言葉の寄せ集めである。しかし、それが借り物の言葉だからといって価値が下がるなんてことはなく、むしろ、言葉で言い表せないもやもやを、誰の言葉で語れば一番しっくりするかという終わりのない作業に着手してなにがしかの結果を出しているのだから、小さく拍手をするほかない。つまり我々はいつも借り物競争をしていて、ただしコースの中に落ちている指示票を拾うとその紙にはグラデがかった色が乗っているばかりで言葉は書かれていない。それは拾った人の心の中でほむらのかげりのようにもやもやと腰をくねらせる何かと、似て非なる、非なるが似ているものである。指示票と心の蠢きを重ね合わせ、差分を薄めでやり過ごしつつ、それと同じシルエットを示すさらに別のもの、この世のどこかにあるかもしれないしないかもしれない言葉を探して右往左往する。それを人より先に拾って世に提示すればいくばくかの拍手が得られるが、誰よりも遅れて言葉を見つけてひそかに胸ポケットにしまい込んだとして、その健気さに恥じるべきところはない。



ANAのアプリの仕様が変わったことを一番悪しざまに罵っているのは空港職員ではないかと思うことがある。今回の鹿児島出張ではめずらしくHISを通じてツアーで航空券とホテルを確保した(自腹で完遂するタイプの研究会ではたまにそういうことをする)。鹿児島から札幌までの空路はソラシドエア→AIR DOで、いずれもANAのコードシェアだから、ANAのアプリに旅程自体は表示されるのだが、以前はできたはずのアプリからのチェックインが一切できない。おまけに、航空券番号(ツアーでまとめて発見される)ではソラシドエアのチェックインはできるのだがAIR DOのチェックインがなぜかできずに、サイトをたらい回しにされてしまうのでほとほとあきれた。むしろこれはソラシドエアのQRコードでAIR DOにも乗れるのか? と思って羽田空港の乗り継ぎカウンターでコードを出してみたが案の定はじかれる。係員にわけをいうと係員はひどく申し訳なさそうな顔をして、「すみません……アプリが変わってからこういうのが多くて……」というのだ。なんだかそれで怒るにも怒れず、AIR DOの地上係員を呼んでもらって待っている間に、そういえば試してなかったなと思い、がんばってメールとアプリをクロールしてなんとか見つけ出した「予約番号」(航空券番号とは別)を使ってAIR DOのウェブサイトでチェックインしたらあっさりとQRコードが発行された。まいった。係員に謝って、乗り継ぎ口を通過する。地上係員は今頃ここに向かって足早に歩いているだろう、でも申し訳ないけれど、その方を待っている義理は私にはない。かわりに謝っておいてもらうしかない。ANAをやめたい。JALに変えたい。しかしANAでなければ飛んでいない空路もある。結局航空会社なんてのは時間と本数の兼ね合いによって浮かび上がってくるもので、どちらがいい・悪いというのはあまり関係なく、受動的に候補として立ち上がってくるばかりだ。ANAのマイルにも感心が失せて、近頃はANAクレジットカードを使う頻度が下がってきている。そもそもマイルとかポイントとかにかかずらうことで精神的に得をしたと感じることは極めて少なく、そういうのはもうやめようかなと思いながら今日もなんとなくd払いでdポイントをちまちまためている。生協でもトドックのイラストがかわいいちょこっとカードを必ず提示する。そんな自分があまりに愛らしくていやになる。

対比

ランチョンセミナーを抜け出してポコスコPCを叩いている。キータッチの効果音を「ぱそ…ぱそ…」と記した肋骨凹介(あばらぼねへこすけ)先生は天才である。コン、という音もおそらく鳴るだろうから余計にだ。しかし一方で私のPCはポコスコとしか鳴らない。どう叩いても撫でてもポコと鳴りスコと漏れる。パソコンではなくポコスコンなのだと思う。ポストコロナスーパーコンピュータの略だ。思いのほかハイスペックな話だ。

「AIに作らせたプレゼンを人力でちょっといじってAIの平均的なデザインからずらしたプレゼン」に飽きた。ちかごろ、すぐ飽きる。飽きの回転速度がどんどん早くなっていく。

それに引き換え飽きないのは◯◯だ――という文章をここで入れるのがいいかなと思った。しかし◯◯にあてはまる言葉がなかなか見つからない。流れとしてはここで「人間」を持ってきたいところだけれど、人間にもわりと飽きるというのはちょっと考えればすぐわかる。


プレゼンを作り込み、どれだけ細かくしゃべったところで、伝わらない、みんなそこまで読み切れていない、という指摘を、同日に違う人からべつべつの言葉で頂戴した。ただし、この同じ前提から導き出す結論は真逆であった。何かを説明するにあたって、自分の言いたいことを100言うようにしてもだめで(ここまではいっしょ)、

 →相手の受け取り方を見ながら相手にあわせてシンプルに説明すべき

 →どうやってもすべては伝わらないので相手なんて気にしないで自分のやりたいようにやるべき

と、それぞれの先生方が結論づけていた。どちらも反論しづらく、どちらも落ち着きすぎているように、私には思えた。

理想の伝え方というものはおそらく存在せず、あらゆるコミュニケーションは発信の側の体のあちこちにある腐葉土に根を張り幹を伸ばしたツタ植物である。その葉が生い茂りすぎればかえって生育は悪くなるし、ツタの絡む先によってはどこまでも横滑りして護岸のヒルガオのように風景のノイズとなるばかりだ。しかしそれらがどう転ぶか、どちらに転ぶかを、あらかじめ土の側がコントロールすることなどまず無理で、土としてはせいぜい自分が豊かにふくよかに堆肥していることを続ける以外の選択肢はないように思う。多弁なプレゼンテーションというのは顆粒の肥料を巻きすぎた土のようなところがありそれによって根腐れも起こす、だから私はまだ土としての調整ができていない、それはそうなのだが、とはいえ私は自分を水耕栽培方式に切り替えるとか、ホーマックでキロいくらで売っている肥料入りの土を買ってきてそこに巻くといったことよりもまず、耕すこと、うねを作ること、水を撒くことをするしかないのでは、と思って今のところこうしてやっている。

かわいいだけで大丈夫です

いろいろと込み入った話をしている中で「若さ・かわいげを武器にすることの是非」という話題になり、私はそれにいくつかの感想を述べた後、最終的にこのようなことを口にした。それは私が今までそこまで深く考えてこなかった内容であった。


「人間は個々にちょっとずつ違う方向を向いたベクトルである。そのため、出力全開で突っ走ると、初期の角度の違いがずれとなって、他の人から少しずつ離れていくことになる。『個人の全力』を出してしまうと孤立する。それは決して他の人が『付いてこられないから』という理由ではない。人間の馬力なんて、誰もそんなに変わるものではない。そうではなくて、『微妙なベクトルの差を補正する前に彼方にすっ飛んで消えてしまうと、あとで合流するのが難しい』というニュアンスである。

私たちは、出力全開で物事にあたるのではだめなのである。ひとりで猛然と飛び出していくのではなく、周りにいる人たち、特に、およそ似た方向を向いている人たちと、位置の補正をかけながら9割くらいの出力で進んでいったほうがいい。そのほうが、結果的に、多くの人と塊になって、より大きな仕事をすることができる。では、どうやって出力を9割に抑えるのか? 自分のあふれるエネルギーを無理やり抑え込むのか? それはもったいない。無駄も多い。そうではなくて、『結果として減速になり、周りからも見やすい状態になる』手段をとるのがいい。それはなにか?

安易な武器を振りかざすことである。若さでもいい。誠実さでもいい。かわいげでもいいのだ。これらは仕事のクオリティそのものには影響しないが、周りの耳目を集めたり、周りからの『安直な信用』を集めることに効果がある。自分の最大出力の1割くらいを、そういった、一見仕事にマイナスになるような、人間関係の潤滑油の部分に注ぐ。

その結果、『若さやかわいさで働いている』と揶揄されても知ったことではない。人から自分がどう見られたいか、ではない、それで仕事がどの方向に育つのか、である。『若さもかわいさもかなぐり捨ててフルスロットルですっ飛んで』しまったら、ほかの人間との距離が開いてしまう、それは仕事にとってはトータルでマイナスである。」


こんな言葉が自分の口から次々出てきたことにじつはかなり驚いた。自分でもこの理屈は十分に吟味できていないのだが、おそらく私の中には昔から、「若さとかかわいげとかを武器にして働くの、いやなんですよね」と述べる男女に対する根源的な「その程度の覚悟で仕事してんの?」という不満があるのだろう。プロダクトがどうなるかよりも、その仕事を通じてその人がどう見られるのかが最終的な目標になっている人をみると、仕事なめてんのか、と私は感じた。それがある種の偏りであり、ベクトルの初期状態のずれであることは自覚している。「わかりやすさ」「親しみやすさ」「気配り」「コミュニケーション」。これらをかなぐり捨てて全力で働いていると公言している人間の仕事を、私はおそらくあまり尊敬できていない。狭量なことだ。かわいいだけじゃだめですよ。でも、かわいいほうがいいですね、という話。

ふかきん

ちょっと疲れた。さすがに移動しすぎな気がする。帯広から札幌までの電車、事前に帯広での仕事がどうなるかわからなくて早割のチケットがとれず、当日定額でとらなければいけなくてばかばかしい値段がする。割高ついでにうっかりグリーン車を取った。どうした! と思った。グリーン分は自腹となるが、そこで躊躇せずぬるっとグリーンにしてしまった。足を投げ出して座れる、PCの電源がとれる、となりに人がおそらく座らない、など、いくつもメリットが思いついた。グリーンなんてどこの富豪が乗るんだよとずっと思っていたが、今の私にとってはスイーツよりもアルコールよりもグリーンのシートのほうが自分を労ることになる。清水の舞台を爆発炎上させてその爆風で飛び降りるくらいの気持ちでグリーンを取った。結果、今、快適だし、仕事をするつもりなのだが寝落ちしそうで困っている。眠気覚ましにブログを開いてむりやり目を開けている。これを書き終わったらまた仕事に戻る。


来年は日ハムのファンクラブに入るのをやめようかと思っている。あいかわらず日ハムのことは応援しているけれど、今年は一度もスタジアムに行けていない。DAZNの中継すら見られていない。あっ、今日は野球を見たいな、と思いついたときにはたいてい試合は終わっている。見なくてもいい、ファンとして金だけ払えばいい、という気持ちもあった。けれども、なんか、もう、あんまり気持ちをたくさんの方面に使えない。アマプラはまだ解約していないが、noteのマガジン類、dアニメストア、ほぼ日の學校など、全く見ないものを次々と解約。金の無駄だからというより意識をそっちに薄く広げることが無理なのである。「狭く、深く、へんくつに。」嫌なコピーライティングを掲げて日々を暮らしている。離れてくらす息子が今の私を見たらつまらんと言うかもしれない。LINEのスタンプだけでも買い足してみる。


夜中に一度だけ、XでSpaceをやって、吉増剛造の詩を朗読した。ワタナベアニさんから短いDMがきて、「いいですね これ」と書いてあった。心が粉微塵になって、床に心の破片がたくさん散らばっているとき、詩を朗読する、と、ミョウバンの溶液にタコ糸を垂らして結晶がくっついてくるときのように、詩が心の破片をくっつけながら伸びていって、新しく心のような、世にある何かの法則のほうな、でもどことなく脆弱な塊ができていく。自分の口から漏れ出る音に意識のマイクロニュークレイみたいなものが次々とふっついて、意味のありそうなフラクタル構造となって、内部は少しずつ自壊するのだけれど縁辺のあたりはいつもきらきら光を跳ね返している。あの夜、私はたしかにそういうことをやって、ワタナベアニさんの言うように、なんだかいいな、これ、と思った。またいつかやってみたいと思うのだけれど、そのいつかがいつなのかはわからない。課金はしなくていい。登録もしなくていい。ならいつか、やるかもしれない。

レシピ通りの病理

キャベツをどう食ったら一番早くそつなく食えるか、毎日だいたい同じ時間に考えている。昨日は、厚めの千切りにしたものを耐熱トレイに入れて下のほうに軽く水を張り、上から乾燥昆布とカツブシをかけてフタをして何度かレンジであっためて、昆布が蒸気で戻ったところでポン酢をかけてみた。「半身浴的鍋」みたいな見た目と味になった。素材だけをこうして書くとなにかうまく行きそうな気にもなるのだが、実食してみると別にうまいわけではない。ただ、まあ、食える。生で食っているわけでもないし塩分がきつすぎることもない。腹は膨れる。しかしこれは料理というか作業だなと感じる。

世にすでにあるレシピというのは生存バイアスをくぐり抜けており、それと違うことをして「なんだ、これでもうまいじゃん」というところまでたどり着ける可能性は皆無だ。はじめて一人暮らしをした大学生の、適当に火を入れたり塩をふったりしたもの、ワンプレートのパスタであったり丼物であったりの、あの、味がないわけではなく、むしろパーツとしての味はついているのだけれど、それはあくまでパーツがここにあるなというだけの、まだ組み立てていないジグソーパズル(しかも完成する保証がない)のような、そんな料理を作り続けている。たまにレシピ通りにする。とてもおいしいものができる。料理というのはそういうものなんだよな、と思う。

味噌汁なら適当に作ってもなんとかなる、と、土井善晴の声マネで毎日一椀ずつ作っているが、あらかじめ野菜を長めにレンジであたためておいたほうがよいとか、顆粒だしを入れたほうがうまい組み合わせとそこまで必要ない組み合わせがあるとか、乾燥油揚げや海苔など乾いたものをいくつか常備しておくと便利だとか、そういう話をひとつひとつ学びながら、少しずつ「普通の味噌汁」に近づけていく。きのこの加熱が甘かったりすると翌日腹が重くなる。ネギを入れすぎると特殊なネギダレみたいになる。こういうことをずっと繰り返している。


たぶん仕事でも同じことを私は10年以上やっていた。本当は王道のやり方があるものに対し、私なりにアレンジを加えてしまう。病理診断の所見をこう書いたらもう少しわかりやすくなるのではないかと試してみて、結局上司に「ここはいらないんじゃないか」と直されたり、学会の講演で普通あまり見ないようなスライドを入れて「会場のみんなに楽しんでもらおう」としたけれどそれがノイズになってメインのメッセージがボケたり、研究会の司会を担当して発表者や解説者よりもしゃべり続けて、結局その会にやってきた人びとの満足度があまり上がらなかったり、ということを繰り返した。「レシピ」を雑にしか覚えずに、感覚でだいたいこうかなとやって、結果的に微妙なものを生み出す、一人暮らし初心者の料理のようなことを、私は料理以外でもあちこちでやってきた。少しずつ人と同じ動きをするようになる、とっぴなことをやらなくなる、一般的に言われている通りの手順で物事を粛々とこなすようになる、そういうのはつまり、「年を取って落ち着いた」というやつで、レシピ通りに料理を作る、みたいな話なのだけれど、私もきちんとそのようになっている。