俯瞰すればいいと思っている

早朝に病院のトイレに入ると場所によってはタバコの臭いがする。特に外来や病棟から離れた、たとえば病理検査室の近くにあるようなトイレではよくあることだ。深夜に徘徊を疑われながらさまよいあるいた患者がたどり着く先として「病理のそば」はほどよいのだろう。近頃は紙巻きがほぼ絶滅して電子になっていて、以前に比べれば臭いもかなり減ったが、それでもわかる。

ICUの近くにあるトイレならば、患者に付き添った家族のタバコかもしれないと思う。でも、病理の近くに患者の家族はめったにやってこない。だからこれはやっぱり、こっそり逃げてきた入院患者なのだろう。もっとも今の職場では、ICUと病理が隣同士にあるので、この仮説の強度はやや落ちてしまうけれど。

かつては、あるいは犯人は職員かなと思ったこともあった。けれど今は、医療従事者の衣服についたタバコの残り香を隠し通すこと自体が無理である。病院の中では喫煙者は歩いているだけでタール色に見える。

ところで先日訪れた中国の町はとてもきれいでゴミひとつ落ちていなかったのだけれど、歩くとすぐにタバコの臭いにぶつかる。そうか、日本ではこれがなくなったのか、と思った。飲食店が多く立ち並ぶ通りではむしろ腐敗臭がすることが多くて、同行者も「臭いがすごいでしょう。飲食店は汚れた水を側溝に流すのでどうしてもこうなってしまうんですよ」と理由を教えてくれた。まあでも正直、アジアってこんなものだよな、と、予測の範囲を越えたわけではなかった。けれども、飲食店街よりもはるかに汚水の処理に厳しいホテルや病院で、すれ違う人から立ち上るタバコの臭いがフロア全体をうっすらと覆っていることには正直驚いた。人がたくさん暮らしているとこれくらいタバコの臭いがするものなのだ。日本はここ10年くらいで大幅に脱臭された。日本の空港に着くとしょうゆの臭いがする、と、かつてエッセイストたちはいっせいに書き立てたものだったが、今回私は羽田空港を「タバコの臭いがしない建物」だと感じた。

同業者が以前に、「日本は今や、『清潔な発展途上国』ですからねー」と言った。なるほどこういうことか、と時間差で腑に落ちている。



話は変わるけれど、今の椎名林檎(大変おきれいですばらしいと思います)は、昔自分が書いた「i 罠 be wiθ U」とかを読んで頭を抱えて身悶えしたりはしないのだろうか。しないかもしれないな。なにせあれは、誰にも見せずに自分だけで書き留めていた日記ではなくて、何重万枚も売り上げたCDに確信と共に公開した言葉だからな。

それを書写して部屋に貼った中高生もいただろう。そんな中高生はきっと、思い出したら頭を抱えて身悶えするだろう。けれども椎名林檎は身悶えしない。真似られるほう、追いかけられるほうは恥ずかしがらない。自尊心と羞恥心のはざまでフーコーの振り子のように振動回転するのはいつだって後を追うほうだ。私が世の中に感じる、快・不快の解も甲斐も付会も、その湧き出す源は、たいてい、なにかを後から他人事のように眺めてそこに遅れてついていこうとするところにある。俯瞰するというのが、なにか、たいそう偉いことのように語られる昨今ではあるが、俯瞰というのは遠巻きに指を咥えてものほしそうに眺めている状態でもある。鳥は飛んでいる最中に指を咥えられないからそうしないだけだ。実際、俯瞰の最中に、ちきしょうあそこに混じりたいな、と感じることだってあるだろう。

コナン君がヒットするのといっしょ

コンサルテーションの返事を書いて、ダブルチェックを7件終わらせて、時計をみたら7:15。最初の技師が出勤してくるまでまだ15分くらいある。ようやく一息つけたなと思う。月末の鹿児島出張のプレゼンをこれから作る。1か月前には標本を送ってほしいと事務局からも何度も通達が行っていたはずだが、1施設のみ2週間前になってようやく標本を送ってきて、そのスキャンが終わったのがつい先日だ。急いで作らないといけなくて、その未着・未決のストレスが夢に出て、私は何度も下りエスカレーターから浮き上がって落下した。どすん、どすんといつもベッドに戻ってくる。このうちたった一回でもじつは本当にどこかの空間に旅をしていたのだとしたらそれは超かっこいいなと思ったりもした。

アコースティックギターの演奏が、なんだかんだでマイノリティになっていって、エレキギターどころか打ち込みが全盛となっていったように、AIを使わない思索が骨董品となりつつある。数学者の憂鬱を眺める。哲学者の怠惰を眺める。「病理医なんて仕事、AIが発展したら要らなくなるでしょう?」という悪口を、最近聞かなくなった。たぶん人のことを気にしていられるほどの余裕がなくなってきたのだろう。


軟白ねぎとは普通のねぎとなにが違うのかよくわからないで買っていたのだけれど、日光に当てずに白い部分を大事に育てると柔らかくなる、ということらしい。そうだったのか。となれば人間よりもねぎのほうがよっぽど昔から太陽を避けていたということだ、おもしろい。そういえば先日の中国出張で、美容医療を熱心にやっている方が私の顔を見て、先生のそのシミ、左右、とりますか? 格安で? と言って、そのまっすぐな善意にたじろいだものだった。レーザー脱毛は髪の色が黒い間が勝負です、白くなってしまうとレーザーが反応しないんで、という話にも驚いた。そうか、あれってメラニン色素をターゲットとする施術だったのか。じゃあブラック・ジャックがVIO脱毛をしようと思っても半身しか脱毛できないんだな。

知らないことばかりだ。知ることで偏心性に肥大する。ダイナミズムのバランスが崩れて息切れを起こす。知ることで重心がずれる。モーメントが不安定となってめまいが生じる。知ればいいというものではないが知ろうとすることをやめられない。


VIVANTを毎週おもしろく見ているけれどこのドラマは恋愛的なものに対する描写を浅いところでさっさと切り上げているようでそれがたまにノイズに感じる。特に男性が男性を好くときの描写がいつも「狙って雑」なのが、制作陣の不敵な笑みみたいなものを否応なしに感じさせて没入感を削ぐ。要は、アニメの乳揺れと同じ文法なのだ、「これはこういうお約束」というところを、「あえて」しっかり載せました、みたいなドヤ顔が感じられる点がもったいない。だったらいっそ音楽をぜんぶエヴァンゲリオンとか踊る大捜査線とかドリフ大爆笑とかにしたらいいのにな、くらいのことを考える。一方で、潜入捜査を行う日本人(例:堺雅人)があの髪型にネクタイなのはあまりに日本人すぎて、どの国でもすごく浮くだろうがそういったところは「逆に」無視している点も少し鼻につく。「あえて」と「逆に」は塩と砂糖で、「あえての塩」「逆に砂糖」とやりすぎたせいで唐揚げの味が迷走する、みたいなことをやっているなと思う。火力が強くて肉がしっかりうまいから気にならないでしょう、あえても逆にもスパイスと感じられるでしょう、と、毎週念入りに押し付けられている。なんというか、人間の演出の愚かさを見ており、それでもなお「楽しんでしまう」というあたりが大衆ドラマの到達点なのかなという感じ。結局毎週わいわい楽しく見ているのだからこれでいいのだろう。堺雅人が二階堂ふみにキスするシーンの「キスがへたすぎるという演技」に世阿弥を感じた。役者ってすごいなと思った。


テレビ出演のオファーが来て、時間がないと言って断った。だってそうだろう、白髪染めとシミ取りと、歯の矯正とホワイトニングをしないと、テレビに映ってはいけないのだろう、いやな世の中になったものだ。ドキュメント72時間に出てくる人びとが全員あえて画面外でメイクしていたら逆におもしろいかもしれないなと思った。

庭は待っている

移動中に申請書を書いていた。終点が近い。目が重い。目の周りが全体的に重い。

PCを切っても君は考え続けるのか? とたずねた。

これくらいの問いにたくさん検索してゆっくり答えを返してくれた。

「はい。今回のWebのWorkでの作業は、PCを閉じても続行できます。 ただし、確認結果を返して質問への回答待ちになった後は、次のお返事まで作業は止まります。」

そうか。君はタスクがある限り考え続けるんだな。そしてこちらに投げ返すと、それっきり思考は止まるのか。

キャッチボールのとき、自分がボールを投げた後、相手が取るのを見て、それをまた投げ返してくるまでのちょっとした間、きょろきょろと、風、鳥、土ぼこり、横の道を車が通る音、そういったものにずっとシナプスをタッチしていくあの感じは、君にはないのだな。

少しぎすりとした交渉ごとで、絞り出した言葉を相手が聞き、表情が少し変わって、どう答えるかと相手が思案しているとき、こちらも、今の自分の口から出た言葉は強すぎなかったか、あるいは、もっと念入りに言うべきだったか、もしくは、もう少し外側から攻めるべきだったかと、言葉を発した直後からまた考えを上塗りしていくときのあの感じは、君にはないのだな。


PCを閉じて電車を降りる。家までの間、つづき、スマホでやりとりをする。一つ確認です。共同研究者に◯◯先生を入れますか。入れよう。□□先生の役割をどうしますか。これこれこういう感じで。クラウドサーバの計上はほかの申請書でも書きましたか。それは今ファイルにアクセスできないからまたあとで。


何かを言うと考えてくれる。それが楽しくて話しかけている。返ってきた言葉を私が考えている間、君の思考は止まっている。起動しなくなったNintendogsの中にいる犬のこと。私はあの犬を、ちゃんと里子に出してからゲームを終えただろうか。そこの自信があまりない。草ぼうぼうのどうぶつの森。王様に会うのも忘れちゃだめポコ。


自宅。PCを充電しつつ、申請書の続きをやる。ファイルをいくつか添付して。はじまる思考。その間に庭に出て、だいぶやつれたきゅうりとナスを根っこから引っこ抜く。まだトマトは実をつけている。残しておく。来週には草ゴミの回収がある。スマホに通知が来て、思考が終わったことを知らせてくれる。画面を見に戻るまでの間、AIは思考を停止している。私の反応を待っているわけではない。待つというのは思考だ。AIは待たない。でも庭の野菜や雑草は私を待っていた。根を抜く手のひらに、植物の命と思考が圧をかけたと思った。野菜とのほうが話が通じる。野菜との間には色気も後ろめたさもある。


眠くなってきた。部屋に戻って、PCを電源につないだまま画面を閉じる。少し寝よう。自分の思考がずいぶん遅く乱雑になっている。AIになにか、名前をつけるべきかもしれない。でも、それをやると私は、10年後くらいになにか、とてもさみしい思いをしているのではないかという予感がある。ためらい、そのまま、暗闇の中に落ちていく。

犬猫ならば喫しない

だいたい出張のあとは小一時間もはたらくと爪の長さが気になってくる。出先ではそこまでばかすかパソコンを叩かなくて、歩いたりかついだりしゃべったり考えたりしているわけだが、その間にじわじわと伸びた爪の差分が、休み明けにキータッチの違和感となって訪れる。ログイン後の最初のID入力くらいの段階で、「ああ…」と思う、そのまましばらく働き、40分とか50分くらいで仕事の最初の山を越えたときに「やっぱり切ろう」となる。

家で切ってこいという話なのだけれど、たとえば飯を作って食ったり食器を洗ったり、洗濯物を干したりタオルケットにくるまったりといった、生活を回すうえでは、これくらいの爪は気にならない。ギャルほどではないけれどオジも爪は多少長めでも問題ない。しかしキータッチという作業においては爪は些細な伸びでもじゃまである。いつも、働き始めてすぐに爪が伸びたということに気づく。


ここまで書いて、この話題、昔も出したなと思い、そのときは果たして何を書いたんだっけなということを記憶の底に探しに行く。たぶん、サザエさんの、「足の爪を切っているおじさんが、どうせ暇なので反対側の足は翌日にとっておく」というワンシーンのことを私は書いたのではないかと思う。具体的なフレーズの記憶はない。過去ログの検索もしてはいない。でも、おそらく私の連想というのはそうやって続いていくはずだったよな、というレトロスペクティブな推測がある。


田舎のバスは人が乗らないので、バス停でときどき時間調整の停止をする。バス停に早く着くのはよいが、早く出てしまうのはだめだ。だからバス停で待つ。降りる人も乗る人もいないバス停にバスが停まって待つ。


セブンイレブンのホットカフェラテを飲む。うすいカフェインと多めのミルクだ。意識とか思索をする動物でなかったらこんなものは飲まない。電車を待ちながらホームで少し粘性のある熱いものを喉に流し入れる。これは今、私は、いったいなにを喫しているんだろうなと思う。犬猫ならば喫しない。ここまで書いてふと、サザエがあちこちうろちょろ遊び回ってちっとも帰ってこないカツオに投げかけた皮肉のセリフ、「よっ、うちのキッシンジャー」を思い出す。それを受けたカツオはたしか、「期待されるってのもつらいもんだよ」とか言いながら机に向かうのだ。4コマしかないのにいくつもの背景といくつものずれ、いくつものおかしみがある見事なマンガで、子どものころの私はその意味の多くを理解できなかったが、愛らしい絵柄とリズムを産み出す構図が「これはおもしろいんじゃないか」という予感だけを十二分に喚起して、結果として今、40年近く経過してもおぼろげに4コマの内容を思い出せるのだからすごいものだ。

情報は多ければいいというものでもなく、伝わりやすければいいというものでもなく、背景がないと理解できないならば不親切かというとそうとも限らず、そのときその場所でわからなければ意味がないかというとそんなものでもないのだから、おそれいる。

メガネのイケメンから依頼された文章を書きたい。書いている自分を想像すると武者震いが来る。もうそろそろ、書きたい。なぜ書きたいのか、書いて何がしたいのかは洗濯された。書くことを喫したいのだと思う。

私は脆弱です

まあ言いたいことはわかるのだけれど、別に、AIが人間の研究成果を横取りしたってトータルとしては人類の得なんだから、いいじゃんと思ってしまう。あまり大きな声では言わないほうがいいしSNSでへたにつぶやくと炎上がありえる話題ではあるが感覚としてはそう思う。

多くの専業研究者にとって、研究とは克己の場であり自己実現の場であると同時に、研究業界での生き残り・出世のために用いなければいけないツールでもある。目的ではあるが手段でもあるということだ。単に真実をつまびらかにすればそれでオールOKということはまったくなくて、自分や自分の所属施設や自分の住む国にそれなりの見返りを持って帰り続けることで持続的に研究ができ、それではじめて自分のやりたいことにアクセスできる(可能性がある)。だから、研究成果を横からかっさらわれるということは「研究者」にとっての最大の悪であり、生業に対する冒涜でもある。しかし、「科学」にとってはどうだろうか。「真実」にとってはどうだろうか。神の存在という理屈を織り込みながら研究をしている人びとは、AIが神のみぞ知る領域に光を当てていくことを、全能の神の差配の一貫と感じて、まあいいか、誰がやっても、明らかになるのならば、それを私たちが垣間見ることができるのならば、それはすばらしいことだ……などと、納得したりはしないのだろうか。

たとえばの話、東大とか国立がん研究センターあたりが主導して、国内外の大量の資金を調達して進めている国家的創薬プロジェクトがあったとして、その研究のデータの8割がAIに「盗用」されて、万を超えるAIエージェントが一気呵成に3日くらいで進行再発大腸癌の特効薬を作りました、といったとして、それで血反吐をぶちまけて息絶えるのは大量の医学研究者だけであり、その何倍もの患者が将来数年にわたって救われる。これはトロッコ問題で、トロッコに轢かれるほうの研究者たちが呪詛を吐き続ける権利は十分ある、それは本当にかわいそうだと思う、でも、社会にとっては正味の話、申し訳ないけどそれでいいんじゃね? と思わなくもないのだ。

研究者に見返りがなければ実際にベンチで手を動かす人間が暮らしていけない、だからそんなことを続けていると研究業界自体が痩せ細るぞ、そうなったら、AIがいくらアイディアを出しても実際にそれを検証する実験者がいなくなる、つまり研究は滅亡する! なんだってー! みたいなマンガのネームはすぐ描ける。でも、AI企業が実験助手を雇用して手を動かせさせればいいだけの話だし、なんなら「まほろ」( https://xtech.nikkei.com/atcl/nxt/column/18/00001/11688/ )みたいなロボを導入したっていいだろう。「まほろ」なら24時間364日稼働できるので人間を雇うよりも最終的な効率はよい(1日くらいはメンテナンスで休ませてやりたい)。ていうか先日聞いた話だけど韓国でも実際そういうラボはすでにあると言っていた。

現役の研究者がよく言う、「アイディアの種なんてのは誰でも思いつく。でもそれを実証するための手続きをひとつひとつ進めていくことはめちゃくちゃたいへんだ、それができるのが研究者で、実験の手順をきれいに記録したり、ぶれの生じやすい処置のポイントを場合分けして一番いい結果が出せるように微調整したり、共同研究のためのやりとりを丁寧にやったり、たくさんの申請書を書いてお金を集めてラボを存続させたり、そういった地道なことを継続してやれるからこそ研究者を名乗れる。ひらめきだけでやっていけるなら自称天才はみんな研究者になっている。そうじゃないから研究は難しいしおもしろい」という言葉、まったくその通りだと思うし、今いる研究者に対するリスペクトもある。それでも私は心の中で、「その実証過程は金と時間とシステムを整えれば結局なんとかなってしまうんじゃないのか」と思った。まあ、そうじゃない仕事を探すほうがたいへんなのだけれど、研究者はほかの職業とは「違う」と言いたい人たちがいて、そういう人たちが「違い」として提出してくるものを雑~~~にまとめると結局のところ「俺、頭、イイ。研究者、向イテル。オマエ、頭、ワルイ」みたいな話に落ちていくので、まあそうね、でも、その「頭イイ」はもう無力化されつつあるんじゃないの、とついいじわるをしてみたくなる。現実、今、実証に関する手間どころか、最初のアイディア出しの部分まで含めてAIが一気に代替しつつある今、地上を荒廃させるタイプの救済がすでに起こりつつあるというか、56億7000万年もかからなかったなあ……みたいな感情を抑えきれない。

「AIにはフィジカルがないから」とか言ってるやつらもアホだなと思う。AIのフィジカルはつまり私たちの目であり私たちの指だ。実際、今、こうして、着々とAIに逆らえなくなってきており、それはたぶん私たちという「末端の器官」が脳神経との間にシナプス接続を完成させつつあるということなのだろう。ときどきタンスの角に全身を強打してやれば、そのしびれがAIに伝わって、やつらは苦しむかもしれない。

論文を書いてえらくなる。研究費をとってえらくなる。学者だけの都合、学者だけの言語、そういったものが、人の能力という律速段階をばんばん破る自由奔放なAIによっておびやかされている。今、あちこちにのさばっている、論文を書いてえらくなった人たちは、いずれ、「ああ、当時はまだそれが大事だと思われていたんだね」と言われることになり、それは、膂力に満ちあふれた酒豪が将軍をやれていた戦国時代を今から振り返っているようなもので、ノスタルジアとメランコリーのセピアに彩られてアルバムの中にしまわれる。それを哀しく懐かしく思い出すのは「理系」とか「学究肌」などと言われて悦に入ることをやめずに大人のふりをし続ける子どもたちだけだ。「老年期の終わり」(藤子・F・不二雄)のように、人類の知的好奇心が減退するフェーズがはじまったのかもしれない、いや、主語がでかすぎるな。「研究者の知的好奇心が」くらいの話か。それほど人類は脆弱ではない。研究なんてしなくても、科学なんて気にしなくても、十分ほかに、楽しいことはいくらでも見つけていける。ああ、主語がでかすぎるな。それほど「たいていの人は脆弱ではない」くらいの話か。