雨にかわるまでの話

重量のありそうなみぞれが先ほどからドスドス降り注いでいる。昨日の夜のことを思い出した。私はまたちょっと下を向き、いままであまり気にしていなかった意識の四隅の、くらがりにたまった綿埃のような粗相の数々を思い出す。彼は言った、「忙しそうにしている人間といっしょに何かをやるの嫌だよ」。彼女は言った、「あなたは人に対してはとても優しく接するようになったけれど、システムに対しては遠慮なく怒るでしょう、そういうとき、とても怖いよ」。まだまだ気が回っていないものだなと思った。ぜんぜんうまくやれていないなと思った。

三国志とか信長の野望とかを昔やったんですよ。わかります? わかる、ならちょっと変なたとえをさせていただくとですね、ああいうゲームで、たとえば武力99の関羽を使うでしょう。それはもう圧倒的に、一騎打ちとかだったらすごい強いんですよね。でも、他国に攻め入るときに、関羽だけで出陣してもたぶん勝てないですよね。頭数がいるじゃないですか。麋竺とか廖化とか、とらえたばかりの蔡瑁とか、そういう、武力が60台・70台くらいの武将をきちんと運用しないと、あのゲーム、すっすっと進めていくことはできないと思うんですよね。いや、まあ、関羽と張飛と趙雲だけでばっさばっさ敵国を切り開いていくこともゲームだからできなくはないんですけど、領地が広がっていくとそういう「個の部力」だけでは展開できなくなるので、そういうかんじでやっている人は中盤くらいでゲームそのものに飽きて天下統一まですすめないまま新しいシナリオをはじめちゃったりしますよね。仕事ってそういうところないですか。武力99の人間がいればいいってもんじゃなくて、さまざまな武力の人間とみんなでやっていかないと、武力99の一騎打ちがゲームの主眼ならまだしも、そうじゃないわけですから。

話し相手はわかるわかる、という顔をしていたが、その実、この話題でもすこし傷ついているのかもしれなかった。ふたことめにはASDがどうとかADHDがどうとかいうネットの語彙に引っ張られて、個性のでこぼこをとりまとめた集団のありようみたいな話のゆくすえがいつも、階段の踊り場程度のプラトーで安定してしまってそれ以上登っていけなくなることに、私はなんだかいらついているのかもしれなかった。

「やらなきゃいけないってのはわかってるんだけど、やらなきゃいけないって気持ちだけでやれるなら、やらなきゃいけないって思う前にできちゃってるんだよね。やらなきゃいけないって気持ちが出てくる時点で、それはもう、気持ちだけじゃやれない状態に、自分がなっているってことで、その場合、誰かの助けを借りるとか、誰かに引っ張ってもらうとかしないと、そこから先にはぜんぜん進んでいかないんだよね」

なんの反論もない話に私はとても納得し、かつ、なぜか、理由はわからないけれど、私はすこし傷ついているのかもしれないと思った。小さな傷がつくことで新品よりも説得力が増すタイプの商品というのがあり、それはたとえばバットであるとか、竹刀であるとか、革製のカバンであったりするのだけれど、「傷が味になるんだよ」なんてことを言い出す人間のことを私は徹頭徹尾、ぜんぜん、心の底から信用していない。

国際線ならまだギリわからなくもないが

前に立つ男のスーツがテロテロしている。高そうな生地だ。よくは知らないが私のよりは高いだろう。刈り上げた襟足の上に早朝しっかりセットされたサボテンが乗っている。上半身は微妙にむっちりとしている。下半身はやけにスリムなパンツ。年収が2500万を超えた更年期直前の男性にありがちなゲシュタルトである。ちんたらスマホを取り出して搭乗券の2次元バーコードを読み取り機に読ませる、その動作で私とその後ろに小さな列ができる。きびきびとしているのに無駄の多い動きをする。保安検査場の手前にあるカゴをいかにも慣れているといった手つきで3つとり、カバンを置き、カバンから取り出したPCとスマホ2台を置き、最後のカゴにジャケットを脱いで入れて、ブーツをスリッパに履き替えて靴カゴをジャケットの入ったカゴの上に載せた。いちいち後ろに小さな列ができる。ふと彼の腰に目をやると、「宮の沢」と書かれたクリーニングのタグが、ベルトを通す穴のあのヒモのところにしっかりくっついている。宮の沢から来たんだ。教えてやろうかとしばらく考えた。一言目はどうなるべきであろうか。「あのーすみません」。みすぼらしい中年から早朝にあのーすみませんで話しかけられる一日というのはあまりうれしくないだろうなと、なんだか気後れしてしまう。「お兄さん。ちょいとそこのお兄さん」。これができるキャラなら私の人生は落語的におもしろくなっていった可能性がある。「そこの少年」。800歳生きる何かの化身のロリババアならば今ここで口にしても違和感はない。いっそ英語でしゃべったほうが一周回ってお互いにわけわかんなくなっていいかもしれないなと思っているうちに男は保安検査を通過しようとしている。彼のタグが誰かに気づかれる可能性は低いだろう。冬だ。ジャケットを脱いで人前で一回転するようなこともあるまい。旅先で不倫などする場合には不倫相手に見咎められる可能性はあるだろう。ただその場合むしろ「かわいいところあるのね」とポジティブに受け止められて夜のアクセントになるだろうから別に悪いことでもあるまい。まあいいか。つけたままで。誰も困るまい。ピー。保安検査に引っかかったようだ。まさかあのタグが、と、一瞬思ったけれど、彼は左手に2個も腕時計をしていて、それらをじゃらじゃらと外してもういちど検査を通過して今度は普通にクリアしてジャケットを脱いでさっそうと保安検査場を後にしていった。時計2個してるやつ普通にキモいなと思った。

トータルリコール

春になると車での移動がふえ、公共交通機関に乗る機会がちょっとだけ減る。本を読む回数も減りそうである。かわりにPodcastを聴く時間が増える。まあそうなるだろうなと思っていたのだけれど、ちかごろはまだ冬なのに、本をあまり読んでいない。となれば春がきたらもっと読まなくなるだろう。

本を読まずに何をしているのか。かつて読んだマンガをKindleで再読してばかりいる。マンガも本だよ、とかいうツッコミもあるだろうが、何度も何度も読んだマンガ、実家にいけば全巻揃っているものをKindleで買い直したもの、というのは、なんだろう、本、というくくりの中にいれていいのかちょっと迷うところがある。とりあえず、新刊とか未読の本を入手して、サラの状態から読むということをこの冬はほとんどしていない。ドラゴンボール全巻、からくりサーカス全巻、日常にまぎれこませるように、毎日短時間ずつ、断片的に読み進める、ひとつの完結作品を読み終えるのに、軽く2週間くらいかかる。この間、ほかの本はまず読まない。この冬、そうやって昔のマンガばかり読んでいた。いちおう、いくつか新しい本を買ってはみたのだけれど、あまり当たりと思える本がなかった。昨年末から2月にかけて、私がmixi2の新刊書評コミュニティに投稿したマンガ以外の本は、映画評論家の松崎さんが書いた『アカデミー賞入門』だけ。もう少し読んだほうがいいとは知っていた。そのほうが成長できるとかなにかになれるというのではなくて、そのほうが私のトータルとしてのストレスが低くなる。トータルでうまくいかなかったなと思う。じわり、じわりときしみが始まっている。


夜中、鼻の奥の、鼻と喉の交差点のあたりが腫れ始めた。昼からすこし気配があり、ああ、これは5年とか10年くらいにいちど私がかかるタイプの風邪だなとピンとくる。寝ている間、乾燥した空気を吸ったり吐いたりすると直撃する場所、ばんばん腫れてつばが飲み込めなくなるから、口の中がびしょびしょになる。寝ている間中ずっと、明日は地獄だな、ここから熱が出るのかなと気分が散逸していく、その心配も加わって、眠りが浅くなる。ただ、この症状はたまに経験する、記憶がある、だから今回はこの夜の時点で、私の場合の最適解と思われる「葛根湯の顆粒を推奨量の2倍ほど空きっ腹に流し込む」を試した。寝て起きる。すこしだけ喉がよくなっている。腫れの原因が撲滅されたとはあまり思わないが、粘膜における水分の出し入れのバランスがよくなったのか、腫れそのものは微妙に引いた気がする。まだ痛いことは痛い、けれども起きていろいろと準備をし、おそるおそる茶漬けを流し込んでみると、あまり気にならない。ヨーグルトも食えた。出勤するころには喉の痛みは無視できるくらいにはおさまっていた。全身が痛くなりそうな予感だけがあるのだけれど、熱は上がらない。通勤カバンのなかに葛根湯と龍角散ダイレクトを二袋ずつ入れる。


葛根湯の倍量服用が、人体にとっていいことなのかどうかはわからない。「嫌なことがあったら酒を飲んで忘れる」なみに、トータルでみるとよくないことをして気をそらしている。ただ、この、「トータルでみると」というのが、人生においてはいわゆる浅知恵なのではないか、という発想が、今、この文章を書いている間に静かに私の中に運ばれてきた。トータルでみてはいけないのではないか。みるなら局所に限るのではないか。みるならクローズアップが望ましいのではないか。ロングショットはにおわせ画像と一緒だ。その画角でその光景をまとめて扱っていることに対し、観察する側の意識がフレームの中でどうしても偏る、その偏りをコントロールすることがロングショットの画像に商品価値を与える、つまりロングショットというのはクローズアップのいち手法に過ぎないのだ。ほんとうに現象のトータルをまるごと撮影してしまったら、それは一周回って「完結した作品をあとから一言で語る」ような無粋なことになる。私は、トータルでなにかを見てはつまらない。ただ、葛根湯の倍量投与は、トータルでプラスとかマイナスとかいう以前に、今日という一日、この一瞬、私の体に対して、相撲取りの分厚い掌で頬やまぶたの皮の部分をごしごし圧迫するような、それくらいにしとけよ、というような圧をかけている気もして、少なくとも一般の方々にあまり気軽におすすめしてよい内容ではない気もする。

サンもシンもスンとせん

「簡易書留・速達」という組み合わせである。苦肉の策だ。金で解決。気づけば明後日必着だったのだ。市内ならば直接持っていきたいところだが。助成金の申請書、もうすぐ通りそうな論文を参考文献欄に付けられたらいいなと思って待っていたらこんなにぎりぎりになってしまった。今日の午前中には投函しないとだめである。メールならあと2日待てた。しかし現物の送付が必要となれば仕方がない。まあ、わかる。メールなんてろくな文化じゃないのだ。たとえば、メールのために人の命が助かったことがこれまでどれだけあったろうか? 山程あったろうな。

それにしても、参考文献の一番上に、in pressという言葉が踊るやつを一度やってみたかった。「こないだまさに通したばかりの研究の続きをやりたいから研究費おくれーっ!」拳を突き出したウーロンの顔に天空からぱさと舞い降りる不採択通知。しかたがない、in pressはunder revisionと書き直した。under minor revisionのほうがいいか? いまさらぐちぐちと悪あがきする。しかし生きるとは本質的に、すべからく悪あがきである(誤用表現)。みなすべからく努力しておる(有名な誤用表現)。

すべからく、で思い出したが、かつてソレカラスというのがいた。シーンが移り変わるところで「そーれから?」と合いの手を入れるだけのキャラクタ。あれはなんだったろうか、魔神英雄伝ワタルか? 忍者ハットリくんか? おぼろげな記憶の輪郭をもしゃもしゃ探ってみるがなかなか思い出せない、どちらでもない気がしたけれど、いざ検索してみるとハットリ君だった。なんだ俺の脳も捨てたもんじゃないな。でも覚えていたキャラとぜんぜん違う顔だった。脳捨てるか。ワタルのほうはあれだ、エックスキューズミー! だ。いまさら思い出した。しかしキャラ名を知らない。検索してみるとEXマンだそうだ。ぜんぜん深く設定する気のない名前で好感が持てる。現在に語ることがないあまりにブラウン管の記憶を掘り探して書き連ねている、しかしその、過去の、確度の低さたるや、まるで未来のことを話しているかのようにおぼろげで頼りない。来し方をおしはかる。


自分が支払ったコストのことをやたらと強調するタイプの若者に多く出会う。かくいう自分も人からみると、いや、自分自身を「それに気づくようになった今の自分からみると」、そのようにみえる気もする。わざわざ、せっかく、いちいち、が口癖になっているときは要注意だ。払ったもの、手に入れたもの、の話ばかりする私たちはつまらない。「交換」をうまく語るというのはとても難しいことだ、なぜなら、それは所詮、案と因と運と縁と恩でドライブされるだけのものであり、勘と金と組んで拳をコンとやるものではないからだ。



ひさびさに治らないタイプの寝癖がついた。水で濡らしたりはしたのだけれど今もはねたままだ。今日は学生実習があるし、いくつか人と会う仕事もあるし、帰りにはスーパーに寄って米を買ったりしたかった。Under major revisionとする。Rejectされないようにやりくりをすることになる。

小田和正の7枚目のアルバムタイトル

もちつもたれつ? 因果応報? なんという言葉を使うのがよいのかはよくわからないのだけれど、私は、なにかを得る場合、代わりになにかをどこかで失っていなければバランスがとれなくてちょっと気持ち悪いと感じる。公平仮説的なことを言いたいのではなく、商品と料金みたいなことだ。たとえば、火力発電で電気を得るためには化石燃料を消費する必要がある、というのはシンプルでわかりやすい。そこまで生活から距離をとらなくても、それこそパンを買うなら代金がいる、みたいな話でもいいし、たくさん考えたら腹が減る、くらいのぼんやりとした「失い」であっても納得はできる。で、まあ、ほとんどのものはそういう、支払いモデルで丸くおさまるのだけれど、昔からかねがね、心のどこかで納得できていないのが「風力発電」だ。あれはなんというか、なにも失わずに電力だけ得ている、ズルいやりかただなという印象が、この年齢になってもずっと残っている。ひどい言いがかりみたいだけれど印象の話なのであまり目くじらを立てないでほしい。まあ、風力発電も厳密には失うものはあって、景観が壊されるだとか、希少な猛禽類がプロペラに激突して死んでしまう痛ましい事故があるとか、そういうことを言い出せば、「失わないことなんてないんだよ」みたいな話にまっすぐつなげていくこともできる。でもそういうことじゃないのだ。今ここで私が言いたいのは、倫理とか正義の話ではなく、もっとばくぜんとした、身も蓋もないコトをいうと「おとしまえ」とか「けじめ」みたいなものから風力発電は逃走している気がするなあと言いたいだけなのだ。いいとか悪いとかではなしに。

書くのがむずかしい話だなと思う。書くのが簡単な話というのがどれだけあるかはわからないけれど。

思えば、子どもが笑ってかわいいね、みたいなことは、書くのがすごく簡単だなと思う。いや、まあ、「よく読ませる」のはむずかしい。でも、書くこと自体は容易である。「子どもが笑ってかわいいね」と書いた言葉が、自分の心の動きを、雑ではあるが真ん中のあたりできちんと言い表していることが、「簡単に書ける(ただし繰り返すがそれが上手かどうかはまた別)」という感覚につながる。けれども、「風力発電はなんかずるい」みたいな話は、どうも、「なんか」も「ずるい」にしても、じつは「風力発電」にしても、ほんとうはそれが真ん中にある話じゃないんじゃないか、というニュアンスを、マントのように装着し、ひらひら翻していちいち目障りだ。こないだのブログで書いた諷喩の話、またそういう、寓意的なことをやりたいんだなと思われがちでもある。しかし私は、風力発電ってなんかずるいと感じるのって俺だけ? みたいなことを書きたかったわけだし、それをずらしてなにかに持っていきたいわけでもなかったのだ。にもかかわらず実際こうして書いてみると、「なんかずるいってのもへんな書き方だな、そうじゃないんだよな」となる。こういうのがまさに私にとっては「書くこと自体がむずかしい話」だなと思う。語彙があればいいのか? 文体が整っていればいいのか? そういうことなのかもしれないが、違うかもしれない。書いて、違うと、自分の反応を用いて、それをニトロとして次の爆発から推進力に変える、みたいなことなのか。それもいまいちずれている。うまく整理しきれていない。整理? 未整理のほうが筆が乗るということはないか? 筆? 炭のつながりの過程で文字が次の文字を連れてくるということもかつてはあったのだろう。それはもしかすると、きっちりと←送りバントを決める、のような、口にしっくりくるセットみたいなものとも似て、意味から文字が離れて踊っていく機会を増やすための仕組みだったのかもしれないし、意味から離れた文字のつらなりがかえって意味を照らし直すという効果にも繋がっていたのかも知れない。キーボードだとそのやりとりは失われただろうか。失われていないだろう。Tubular adenoma, low grade. という文字列をキーボードで打つときの、指の動き方はどこかバイエルをひく子どもの指先のようで、これをTubulovillous adenoma, low and high grade. と書こうとすると途端にぎくしゃくになるが、私はこの、Tubularのarのあたりからovviと指を打ち替えるときの、「よっこらしょ」のブレーキ感覚の最中に、顕微鏡で細胞配列が「管状」tubularのときと「管状絨毛状」tubulovillousのときの、なんとも言い難い、「重力加速度の違い」のような差、どこか体が一方向に持っていかれるときの不快もしくは快みたいなものを形態から感じ取るその瞬間の圧を、指にブレーキをかけるときの圧と重ね合わせて、細胞像をもう一度ふりかえるという「面倒」を乗り越えるための推進力にしている気がするのだ。つまり、違和があって、差異を見比べて、それを言葉にしながら待てよとふりかえる、その動き自体を私はけっこう歓迎している。でも、風力発電? っかあー! みたいなときの違和とか圧を私はべつにうれしいとは思っていないのだった。そこの違い。そこのずれ。そういう話を私はしたかったのか? そうかもしれないし、違うかもしれない。