ゆくすえを振り返る
シグナル伝達の不備
思い出の押し売り
「麦茶の量産体制に入った」というポストもしくはブログへの言及を2、3か月前にはしたと思うのだがじつは今シーズンはじめて麦茶を作ったのは昨日である。パックを買ったきり忘れていた。細長い容器、あれはなんという名前なのだろう、Googleに文章のかたちで聞くと「冷水筒」や「麦茶ポット」、「ピッチャー」と呼ばれます、と返事がくる。どれもしっくりこないが強いて言うならあれば麦茶ポットだ。麦茶以外にあの細長い形態でなにかを保存すると違和感がある。だし汁にしても、スムージーにしても。ともあれ、麦茶ポットをあらためて洗い直す。ところでここにパックを沈めたら取り出すときどうするんだっけ? 菜箸でつまむんだっけ? 大変そうだなあと思っていたが水を入れてパックを落としたら浮くのだ。麦茶パックは浮くのだ。そうか、そうだったか、だから今まで気にしたことがなかったのか、と感動する。念のためさらに検索すると知らんおじさんのはてなブログが出てきて、「麦茶のパックは浮くときもあるし沈むときもある」という回答が得られる。心底どうでもいいがいちおう元のページを見に行く。すると、
「麦茶パックが沈んだとき、箸でつまめるかどうか、みんなもやってみるといい。へえー、そうなるんだ、と思うから」
みたいなことが書いてあってチキショー読まされた、と思った。まあいい。こういう話ばかり書いているのは私もいっしょだ。あるいは私のブログも今後、どこかの誰かのよくわからない質問に答えるためのソースとしてひそかに暗躍することもないとは言えない。
麦茶は薄めに作るのが好きだ。薄めにしておけばパックは沈まない。
気温は高いが湿度がさほどない。部屋の空気を入れ替えようと思って窓を明けたらいわゆる肥の臭いがただよってきて慌てて閉めた。近くに畑があるのか。もしくはダメな犬の飼い主(ダメな、がどちらを修飾するかはTPOによる)が粗相を放置しているのか。この部屋は住んでみるといろいろ不満がある。夜中にラップ音も鳴る、でもそこはまあ慣れた。北海道に住んでいるとラップ音の一部は夜に建物の木材がきしむ音だなとわかる。ただし、伝え聞くところによるとホラーに出てくる洋館に響き渡るラップ音というのはもっと派手で金属的だという。
金属的な音というとかれこれ30年前、北海道大学の一般教養講義の際に教養棟の大講義室にいたら温水を流すパネルヒーティングのパイプがカン! カン! カン! とずっと鳴っていたことを思い出す。あれってなんの音なのかな。前にも検索した記憶があるが覚えていないのでもう一度。
30年前の北大の教養棟、冬の凍えるような大講義室に響くあの「カンカン」「ガンガン」という音ですね。冷え切った教室にようやく暖がやってくる合図のようなあの音の正体は、主に「スチームハンマー(ウォーターハンマー)現象」と「金属の熱膨張」という2つの物理現象が合わさったものです。
1. 蒸気と水が激突する「スチームハンマー現象」
最も大きな「カンカン」「ドン」という打撃音の主な原因はこれです。当時の大規模な建物の暖房には、高温の蒸気(スチーム)を配管にめぐらせる方式が多く採用されていました。
冷えた水(ドレン)の滞留: 暖房が止まっている間、配管内に残った蒸気は冷えて水(ドレン)になり、管の底などに溜まっています。
蒸気の突入と衝突: 暖房のスイッチが入り、そこに高圧・高温の蒸気が勢いよく送り込まれると、溜まっていた冷たい水と激しくぶつかり合います。
衝撃波の発生: 蒸気に押された水が壁となって一気に加速し、配管の曲がり角やバルブに勢いよく衝突します。これが、まるでハンマーで金属管を内側から叩いたような鋭い打撃音を生み出します。
2. 急激な温度変化による「金属の熱膨張」
もうひとつの「パチパチ」「カンカン」といった少し高いきしみ音の原因がこちらです。
金属の膨張と摩擦:
冷え切っていたパネルヒーターの金属本体や配管に熱水や蒸気が通ると、金属が急激に温められて熱膨張を起こします。 きしみ音: 膨張していく過程で、パネルの接合部や配管を固定している支持金具との間で摩擦が生じることで鳴る音です。全体が温まって金属の温度が安定すると、この音は自然と収まります。
つまり、あの音は「冷え切った配管内で高温の蒸気と冷たい水が格闘している音」であり、同時に「凍えた金属ヒーターが急激に背伸びをして関節を鳴らしている音」だったと言えます。
今となっては少し騒々しくも感じますが、北海道の長く厳しい冬の朝、大講義室がこれから間違いなく暖かくなることを知らせる、なんとも頼もしくノスタルジックな記憶ですね。
てっきり温水もしくはオイルが充填されていて、それがヒーターとの間を循環しているのかと思っていたが、ご家庭の小さな規模のパネルならばともかく、大学などの大規模なパネルに流したオイルをセントラルヒーティングで温めるというのはむりがあるだろう。そうか、スチームだったのか。今更知らないことが出てくる。ちなみに「もうひとつのパチパチ、カンカン」のほうについては記憶にない。そういう音もあったよねと、記憶に介入され、捏造され、ノスタルジックという感想まで与えられている。
私の記憶や体験が、微弱とはいえ収まっているはずの電子モルグは、私以外の言葉で満たされていて、私の言葉をあとから覆い隠し、「普通ならこの時代に生きていた人はだいたいこうだったよね」と、最大公約数の範囲内で在りし日を偲ばれる。
父方の祖母の先祖なので名字は市原ではないのだが、その墓を、父母はきちんと守っている。ただ、奇妙なことに、その墓のとなりの墓もいっしょに軽く掃除したりしている。聞くと、曽祖父の代に、身寄りのない人の墓が隣りにあるということで、墓触れ合うも他生の縁とばかりにまとめて世話をするようになったとのことだ。そんなことがあり得るのだろうかと、今となっては疑問が残る。残るがこの疑問はどれだけ検索しても解決しない。私が伝え聞いている話もどこでどのように刈り込まれたかは判然としない。50年か、80年か、それくらい前に亡くなった知らない人の記憶を、我が家が守れているかといえばそんなこともなく、ただしぶとい残響を消さないようにほそぼそと、つなぐ先もないままにつないでここまで来ている。空き家問題、墓問題、後継というものが成り立たなくなっているこんな時代に何かを託した人の気持ちを思うとむなしくなるが、いや、まあ、そんな気持ちなんて本当はなかったのかもしれない。石狩川に放精して子孫がいずれ自分の生まれた川から旅立ってまた戻ってくるという「認識」を、鮭たちが持つか、いやあ、めったなことでは、持たないんじゃないか、でもそれはすごい、すばらしいことかもしれませんね、SAMURAI。
町が止まったシーンも一度だけ描かれている
WorkFlowyにタスクリストを書き留めている。2か月先の講演プレゼンが完成していない。かつては半年先の講演もだいたい準備するようにしていた。着々と追いつかれている。自分の中での締め切りを緩めようと思ってこうしたのではなく、ここ1年くらいでどんどん進捗が遅くなってこうなっている。亀がアキレスにあっさり追い抜かれる瞬間のことを考える。
- 2026年10月14日(水)札幌胃と腸をみる会
- 30分くらいでミニレクチャー
- 2026年11月7日(土)◯◯大学 ◯◯と◯◯◯研究会
- 消化管のDR(大腸CT関連)と「虫垂と炎症」にかんする講演
- 臨床画像と病理診断のつながりを多面的に考える場
- 消化管(管腔臓器)を主題とする
- 臨床と病理の接点から見た診断の面白さや難しさ
- 2026年11月21日(土)◯◯◯◯◯研究会 ◯◯
- 講演:免疫染色について(Ki-67のみかた、p53のみかたなど)
- 2026年11月30日(月)アトラス胃癌第3版原稿
- 第4部-IV 「内視鏡医との連携」 2000字✕6ページ(図版は1点あたり400字)
- 決まった形式なし 指定小見出しなし
- 2026年12月5日(土)◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯学術集会 ◯◯◯◯◯◯◯◯◯
- 「BモードからMVFIまでわかる胆嚢の病理」50分
- 2026年1月18日~2月19日のどこか ◯◯◯◯◯◯大学
- 1コマ(45分)、医学部第3学年(121名)
- 仮タイトル「多面的に疾患を捕える-医学・医療・公衆衛生学等の視点から」
- 医学界新聞(2026年7号)に対談 どう届ける?いかに選ばれる?with AI医療コミュニケーションの対談記事を拝読し、「がんユニバーシティ まるごと人間しての患者と、医者と、私」の本を知りました。本学は、系統(臓器別)講義のカリキュラムの方向を今後充実させていく方向です。がんに向き合うとはどういうことか。多領域の視点から考えていく・捕えようとする、そのような姿勢は、AI時代の医師に最も求められるものの一つと感じています。当然、公衆衛生学・疫学もそもそもが実学よりで、医者患者関係、疾病登録等様々な領域が含まれています。ご講義頂きたいのは、「ある疾患をもっている人間」「疾患」に、多面的な視野も考慮して向き合うということ、市民向け・医療者むけの情報発信の整備も進められているとありましたので、「簡単に医学情報やとりあえずの回答を患者も医者も得られる時代」において「がん情報」にかかわる医療者が認識しておいた方が良い事など、ご講義いただければと存じます。
- 2027年3月5日(金)◯◯◯◯◯◯◯◯◯会(18:30-, ◯◯◯◯)
- 膵臓細胞診の講演(多少アレンジする程度でOK)
- 2027年3月6日(土)◯◯消化管◯◯◯◯研究会
- 16:00開場、17:00講演開始
- 2027年5月28日(金)~30日(日) ◯◯◯◯◯◯◯◯
- ドプラ検査の超音波診断 歴史が求めるもの、みらいが求めるもの 28日(金)
- 腫瘍のfeeding artery, drainage veinなどについての基調講演
- ◯◯◯◯◯◯◯◯対比セッションで畠先生に渡した(けど非表示にした)スライドを使うのがよいかも
- 胆道セッション 三輪先生 30日(日)にやる
- 2027年5月29日(土) ◯◯◯◯◯◯◯◯学会
- 胃底腺型腺癌は腺腫と癌を含んでいるという立場でお話する
- 2027年6月12日(土) ◯◯ ◯◯◯◯◯カンファレンス
- 「病理と内視鏡の密な世界観」
- 2027年6月27日(土) 13:30-17:00 ◯◯◯◯◯◯◯◯◯学会
- 講演: 除菌後胃癌の病理
- 症例検討
- 2027年7月2日(金)、3日(土) ◯◯ ◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯地方会
- 2日(金)の14:00- X線の症例検討(パワポ作製必要)
- 3日(土)の14:00-(90分) 肝胆膵の超音波講演
- 2027年8月7日(土) 第20回◯◯◯◯◯セミナー(◯◯◯◯◯◯◯◯)
- 2コマ(2時間) 途中休憩あり
アイディアを出すだけなら
Windowsのエクスプローラーがハングアップしている。ブラウザならまだしも、ふつうのファイルの入ったフォルダが固まるというのはちょっと珍しい。ただまあ今「ふつうのファイル」と書いたけれど、このファイルというのはバーチャルスライド、すなわち普通は顕微鏡で覗くプレパラートをPC上でぐりぐり見てしまえるデジタルファイルだ。対物レンズ20倍で簡易的に取り込んだものとはいえ、ひとつあたり200MBくらいはある。それが1症例につき10とか30とか60といったオーダーで入っている。あんまり普通のファイルではない。だからハングアップしたのかな。だとするとこのPCもそろそろ買い替えないといけないな。
4TBの外付けハードディスクだがもう半分以上埋まっていて、残りは1.5TBくらい。これを落っことしたときに失われる情報量、私の人生をすべて書き込んだ日記よりもたぶん多いだろう。それほど働いたという気はしないんだけどな。どうも、なんだか、どでかい数字の上でころころ笑ったり遊んだりしているだけのような、ハッタリというか、ハリボテというか、そういったものを感じる。
デジタル病理というのはとにかくハードディスクの容量が要る。近々、実験のためにPCを買う予定があるのだけれど、共同研究先に、「強いメモリ、でかい容量、強いI/O、強いGPU、そしてUSB 3.0のポートは必須」みたいなことを言われて笑ってしまった。40~50万くらいのゲーミングPCだったらエントリーモデルにはなりますよ、みたいなことも教えてもらって真顔になった。とあるラボの人は、「ふつうにスパコンを借りますよ、申請して、順番待ちをして」みたいなことも言っている。もう、そういう世界なのだ、病理というのは。誇らしい感じはしない。いじましいというか、さもしいというか、わびしいというか。
エルキュール・ポワロのように「灰色の脳細胞」だけで戦えたらどれだけよかったろうと思う。
アイディアを出すだけなら誰でもできるんだよ、実際に手を動かして、論文にして、たくさんの事務的な手続きを乗り越えて、業績にするまでが大変なんだ。先輩はそう言った。私はいまだに納得できていない部分がある。「診断」を出すだけなら確かに誰でもできる、AIでもできる。でも、診断に結びつけるための「所見」を拾う作業は、ほんとうに誰にでもできることなのだろうか。できるんだろうな。膨大なメモリとキレキレのCPUをぶん回せば、大学院生にもできることなのだろうな。
ぶつぶつつぶやきながら所見を拾って、ちまちまパワポに書いていく。誰にでもできること。誰にでもできること。彫刻刀で版画を掘っていくように。プレパラートの写真を撮ってならべて、画像と比べながら、どの染色を用いてどういう解説をしたら専門家がすぐにわかってくれるかを考える。誰にでもできること。誰にでもできること。もっとこういう検体の採取をしてくれたらいいのになという夢をみる。もっとこうやって画像を撮ってくれたらいいのになという希望を集める。逆に、私はこの病理をしゃべることで臨床医たちに何を尋ねられるだろう。何を求められるだろう。誰にでもできること。誰にでもできること。
いま、毎日ブログを書いていることだけが、あとで、私があのころ病理医であったという証明になる、そんな可能性は十分にある。誰にでもできること。誰にでもできること。
限界
帯広から札幌まで電車に乗っている間ほぼすべて書類をいじっていた。途中トンネルが多いのでしょっちゅうネットにつながらなくなる。が、あまり関係がない。結局のところ自分の頭で考えるしかないのだ。Geminiに聞いても状況は好転しない。
近頃の人間は猛烈ないきおいで進化しているように思う。AIの描いたイラスト全般に対するうっすらとした嫌悪感みたいなものが社会をあっという間に覆っている。ラッセンがうっすら嫌われていたときのものに近い。ゴッホより普通にAIが好き、というネタが人口に膾炙する日が来ればあるいは状況は変わるのかもしれない。
永野がいるのにナガノ名義で創作しようと思ったマンガ家は偉いと思う。
長いメールを書いた。オフラインだからうっかり途中で送信されることもない。病理医とは結局なんなのか、というお題に対して、今の私が思うこと、そして、作中のあの人物ならこう思っているのではないかという私の予測を書いた。読み返してなんだか泣けてきた。私はこういうことを考えていたのか、と思った。挫折、失敗、屈曲、蛇行。ワインドした私のこれまでが詰め込まれたような文面になっていた。心の内腔の鋸歯状の変化は外方に異所性の陰窩の形成を伴った。陰窩のコンパートメンタライゼーションが乱れて、私は不規則に拡張したり変形したり、一部で内反性に陥没したり、表層でふさふさとタフティングしたりした。
そろそろあの原稿が書けそうだなと思った。でも問題は時間がまったくないことだ。休みがない。一息いれるタイミングもない。ずっと緊張している。ゆるむのは腹筋ばかりだ。
毎日は過ぎていく、それはショート動画の倍速再生のように目まぐるしく移り変わっていく、ドーパミンが分泌される間もないほどのスピードで、だとしたら私たちはなんの分泌物も得ないままにこの濁流にもみくちゃになって、それでいったい何を得ているのかと、われにかえって悩めばよいのだがそれすらもしないままにただひたすら流されていく。三軸すべての回転を組み合わせて、宙返りしながら錐揉みするような感じで、上も下もわからなくなって流されていく、直観的に手を伸ばした先に筆の痕がついて何かを描いたような気持ちにさせられる。
ホテルに入る前にセブンイレブンで弁当、それと、「生ジョッキ缶」を2本ほど手に入れた。500 mL。缶ビールにジョッキの快感を求めたいと思ったことがないのでこれまで買ったことがなかった。プルタブを開けると缶の上面が一気に大きく開いて、すこし遅れて猛烈な勢いで泡が盛り上がってきて、私はあわてて泡を吸った。吸っても吸っても泡が盛り上がってきた。疲れ切った夜中にホテルにチェックインして一番おいしいはずの最初のひとくちが泡ばかりになってしまった。なにが生ジョッキ缶だ、二度と買うものかと思った。二種類のルーが入ったカレーを食いながらKindleでウェブ連載がまとめられたマンガをすこし読み、野球の結果だけをチェックしてさっさと飯を食い終えて、二本目の生ジョッキ缶を開けることなく、歯を磨いてそのまま寝てしまった。ホテルでゆっくり過ごすことすらできなくなっている自分に気づいたのは翌朝のことだ。どうもいろいろとよくない感じがする。旅に出たいとも思わない、服を買いたいとも思わない、ただ、息子とがんばれゴエモンでもやったらそれはきっと楽しいだろうなということを、近頃は毎日考えている。