ゆくすえを振り返る
こうやってすぐ前の話題を忘れて没頭してしまうのもよくない
アラフィフサウザンド
早朝と深夜のどちらがいいかと考えて早朝を選んだ。24時間開いているスタンドで週末の移動に向けてガソリンを入れる。毎週欠かさずガソリンを入れている。車をポートに寄せすぎた、車体にジャケットのすそをこすらないよう体を気持ち横にして移動する。交通系IC以外の使い勝手が悪い。ポイントも何もつかないのでちょっと損した気分になる。
満タンを選択して給油口のキャップを開け、ノズルを手に持ってどっしりと運び、給油口に差し込んだらしばらくカチカチと引き金を引き続けるとそのうちセルフ給油を見守っているセンターの人がわかったわかったとばかりに安全装置を解除してくれて、給油がはじまる。近すぎる車体を眺めると表面にうっすらと黄砂と花粉のブレンドされたものが、雨だれのかたちにたくさんへばりついていて、洗車というこの世で一番醜く愚かで生産性のない行為のことを思い出して憂鬱になる。気持ちよい風が吹いているが東から浅い角度で照らす朝日が革靴を焼いている。頭寒足熱だなと思う。
出勤したらまず働く前にブログでも書こうかと思った。デスクに着くと診断用のPCがついていて、昨日帰り際に電源を消し忘れたということに気づく。診断室の入口にセキュリティがなかったらこういう些細なミスもすべて問題となっただろう。ただし業務上の問題の大半は、人が生み出したルールを人がうっかり踏み越えたことによって生じるため、人を黙らせてルールを無視すれば問題ごと消えてなくなる。どこまで許し、どこまで緩くするか、この部分でだけなぜか思考を止めてバカになるタイプの秀才が世の中にはごまんといる。ごまんといる、という言葉のごまんとは五万なのだろうか。軽く調べてみたがおなじみの「諸説あり」に発散していた。
語源というものはよく諸説が出てくるものだが、これは「正解がわからない」のではなくて、「おそらく複数の要素がそれぞれ正解」なのかなと思うことがある。というか、より細かいことをいうと、「複数の解釈によってより幅広い人びとに許容された、もしくはより多くの人びとの頭にひっかかるような重層性をもった言葉・言い回しが後世に残りやすい」のかなと思う。ネットでは池上彰やチコちゃんが何かをいうたびに「ちげーよ」「適当いいやがって」のような炎上が生じるが、たぶん彼らがいうことも「納得のひとつのプラトーを形成する要素」であって、ただそれがすべてではない、だからその説明を聞くとけっこうな数の人びとが「えっそうなの? 本当くさいことを言われたけど、でも、私は違うと思ってた」のように反応する、そうやって反応する人が多い話題のほうが盛り上がる、という仕掛けなんだろうなと考えている。
ちなみに働く前にブログを書こうと思ったが、夜のうちに届いていたメールのいくつかがかなりクリティカルだったので、悩んで返事を書いているうちに朝は終わってしまった。今のこれは深夜に書いている。ガソリンを入れてからごまん年くらい時間が経った気がする。
代替可能のゆくすえ
投稿論文にくっつけたcover letterが下書きのままだった。投稿したときに精製される「おめーが編集部に出した書類を一冊にまとめるとこれだぞ! いいか! ちゃんと確認せえよ!」というPDFがあるのだけれど、そのPDFをダウンロードだけしてろくに読まずに投稿ボタンを押して、完了、よーしひと仕事したなーと思って、ああそういえばPDFもあったなと思っていちおう開いて見てみたら、冒頭のletterの部分が、Wordの校正が終わっていない状態で赤線とかが引かれまくっている。うわあやっちまった。赤入りのゲラを入稿したようなものだ。あわてて編集部にメールをするが、週末のあいだはとうとう返事がこなかった。まあそうなのだ。どこの国も土日はしっかり休んでいる。月曜日、ようやく「しょうがねーからもう一回投稿させてやんよ」というメールが届いた。メンゴメンゴと再投稿の手続きに入る。
今回の論文は小さな症例報告だが、アクセプトされる前にいろんな学会で概念を話して回った。いま、似たような論文が次々と投稿されているのではないかと思う。あんまりちんたらしていると、「大切な私のアイディア」が、つぎつぎと他人に指摘されて、新規性のないものになってしまうだろう。
まあ、でも、「大切な私のアイディア」なんて、その程度のものである。
それまで誰も気づいていなかったようなアイディア、自分だけが考えついたアイディアというのがあるとする。それはたまにあるように見えるし、実際にあることもある。でも、そのアイディアの源泉となっているのは、近々の学術集会で提供されていたセッションのムードとか、直近の学術雑誌に掲載された研究とかであったりする。すなわち「私のアイディア」の構成成分の9割以上は、世の中のたくさんの人が共有している空気感によって半ばできあがりつつある。
ジグソーパズルのピースを、角は角、へりはへり、青っぽいものは青っぽいものどうし、白っぽいところは白っぽいものどうしで集めて、広い部屋の床にざっと並べて、わかりやすい模様から順番に組んでおいて、あとは細かく目と手を動かしてパズルを完成させるだけ、というシーンに例えた場合、「私のアイディア」の「私」というのは最後の「細かく目と手を動かす」の部分に主に存在する。ジグソーパズルの元絵の製作、ピースへの分割、その仕分けまでは、その時代の専門領域の抱え持つニュアンスがすでに作り上げている。
このことはべつに、論文にだけ言えることではなくて、小説だとか、ドラマだとか、マンガだとか、音楽だとか、絵画だとか、たいていの創作物に言えることだろう。ただ、今、こうして書いてみて、論文を小説やドラマやマンガと同列に扱うべきかどうかをちょっと悩んでいる。なんか違う。でも何かどう違うかと言われると意外と難しい。読む人、見る人のために書くという点ではいっしょだし、人と同じことをやっていてもだめだというのもいっしょだ。扱うものがマニアックでもオーソドックスでもそこは構わないというのもいっしょ。アイディアのオリジナリティが必要だがメソッドのオリジナリティは必ずしも必要ない(でも、それがあってもいい)というのもいっしょだと思う。強いて違いをあげるとすれば、論文は金を払って投稿するもので、掲載されてもとくに金銭的な見返りはないところか。でもそれも根本的な違いではない気がする。彫刻あたりはそこも含めて論文とよく似ている。ああ、でも、そうか、論文はがんばれば誰にでも書けるな、そこはほかの創作物とは違う。あと、AIが手助けすると基本的によくなるというのも論文だけの特色だろう。
大切な私のアイディアがじつは既存の概念の寄せ集めで、巨人の肩の上でシュプレヒコールをがなっているだけだったとして、それで「大切な私」が毀損されるわけではない。ただ、「AIが手助けするとよくなる、大切な私」というのはなかなかハードな文字列である。
気遣いの津波
帰路
広島から羽田に向かう飛行機の機材が変更になった。国内線機材から国際線機材に変わったらしく、なら映画とか見られるのかなと思ったが、あとで実際に乗ってみたけれどべつにそういうことはなかった(提供するサービスまで変更になるわけではないのだろう)。
問題はフライトが45分遅れてしまったことである。機材の変更に伴いおそらく座席調整が必要となったのだろう。15分くらいまでならまだしも45分遅れてしまうと、羽田で旭川行の飛行機に乗り換えることができない。アプリには、私が本来乗るはずだった飛行機のスケジュールの下に、一本遅い時間のフライトが表示されている。こちらに乗れということか。しかし、二次元バーコードが出てこないので、この変更手続が自動で終了しているわけではない。「予約はアプリからは変更できません」と表示されている。カウンターでの手続が必要、とある。広島のホテルで私はしばし考えたがここでできることがほとんどない。とにかく空港に移動しなければ何もできない。
今回のチケットを、往復・乗り継ぎの早割というやつでとっているのが仇となった。予約の変更ができない。復路便のうち、広島→羽田だけを取り消して、新幹線で急いで羽田に移動すれば、本来の旭川便にぎりぎり乗れるかもしれなかった。でもアプリから予約の変更ができない。
こうなると腹をくくるしかない。旭川に戻ったあと、夕方に出勤して、夜中までかけて水曜の午後から金曜の昼までの仕事を一気に片付け、明日の朝に札幌に移動して地方会に出る予定だったがそこをいろいろ見直す。抱えている仕事は多いが急いでいる仕事はない、それはこういうトラブルがいつ生じてもいいように、常日頃からTATを早め早めに回していることの賜物なのだけれど、とはいえ、今日このあとやるべきことができなければ、それは来週の頭の私にタスクをたくさん残して次の出張に行かなければいけないということであって、正直、気が重い。気が重いけれど、腹をくくるのだ。不可抗力、自分ではどうにもできないこと、それはしょうがないとあきらめるのだ。というか、仮にこれが「自分でどうにかできること」だったとしても、なんでもかんでも自分で解決しなければいけないという義務感に首をしめられる必要も本当はないのだ。多少、ゆるんだほうがいい。ひどい目にあっているときは、腹をくくってその状況を受け入れて、あまりあれこれ思い悩まずにうまいものでも食う、それくらいでちょうどいいのだ。
PCを開いてメールに返事をする。共同研究の話、コンサルテーションの話、講習会の案内、打ち合わせのスケジュール合わせ、その中に、スタッフからさっき届いたばかりのメールが入っていて、「今週の私の仕事が少ないので、なにか見るものをくれないか」という内容のことが書いてある。そうか、優しいな、と思った。この二泊三日で私のタスクが積み上がっているのをみて気を回してくれたのだろう。仕事をしてくれることがうれしいというよりも、そうやって気を配ってくれていることがうれしいなと思う。
さてなんと返事をしたものかと少し考える。
もみじ饅頭の入った紙袋が指に食い込んで、私は少し汗ばんでいた。空港ロビーのキッズスペースから親が制御できない声で大騒ぎしてドタバタ遊び回る嬌声が響き、それがいつしか悲鳴に変わって、興奮した子どもたちが頭でもぶつけたのか大泣きして、周りの大人たちの空気が失笑半分、同情半分に変わっていくのが肌に伝わる。札幌行きの飛行機が今から飛ぶとアナウンスされ、あれ? 私もこれに乗れば帰れるんじゃないか? と気づいてカウンターに歩いていって、「すみません、遅れて乗れないと言われたんですけれどこの飛行機には乗れるんじゃないですか」と尋ねる。地上係員は、そんなことあるんだろうか、という気持ちを隠しながら対応をはじめる。しかし私は途中で気づく。札幌行きに乗ってもだめなのだ、私は今日は旭川行きに乗らなければいけないのだから。あっと声を出して係員さんを呼び止め、すみません、間違えました、私は旭川に行くんでしたと言って謝り、その場を辞する。青森行の飛行機が遅れているというアナウンスが流れる。緑色の髪の毛をした人が数十メートル先の椅子に座っている。眼の前に座る中年男性が靴を脱いだ。私はなんだか、猛烈にさみしい気分になり、しかしまあ、さみしさに気づいているときのほうが、さみしさに気づかないでいるときよりもマシなんだよな、と思った。