それでこそ世界

当番表をつくったら若いスタッフが「もっと働きたい」とか「市原先生の負担が大きすぎる、もっと減らしてください」などというのでおどろいた。馬齢を重ねて立場が上になることの一番のメリットが「自分にたっぷりと仕事を割り振れること」だったのに、こんなことを言われてしまうとはすごく残念だ。あまり予想していなかった。これからは、仕事をしたい人たちのために私の仕事を減らさなければいけないのだ。「働きたいように働く」なんていう日々はやってこない。そんな日々は夢まぼろしのごとくなり。4月と6月にふたつの学会が終わったら、私は私の仕事をすこし減らしてみんなに割り振ろう。ぜひにおよばず。「公平」ばかり求めてくる世界は残念だ。偏りと濃度勾配のなかで分化のベクトルに差がつく結果、合目的な機能をかろうじて発揮している、小腸絨毛陰窩のような私にとって、しみじみやりにくくてならない。


自我、しまっていこう。


急速に気温が高まってきてダウンでは不便になってきた。そこまで保温しなくてよくない? ほおん? そんなこと言うんだ? 虎杖悠仁の着ているタイプのマウンテンパーカーを出す。いろいろめんどうになった近年、ジャケットスタイルの日にもスーツスタイルの日にもこれを着ることでシルエットが一気に自認のずれた痛い中年になる。まあこれしか持ってないからしかたないよ、という感じで着ている。しかし今日、着てみると、ジッパーがうまく上がらないのだ。私がふとったとかそういう話ではなくて、ジッパーの機構自体がぼろついていて、引っかかったり角度が変な状態で留められたりしてしまう。生地自体はまだしっかりしているのにジッパーがだめだとなんだか全体がだめになったような気持ちになる。前開きで着ると、冬の北海道民が雪かきのときにだけ着る、DCMで売っている1980円のアノラックみたいに、フードの裾野が左右にひろがってすごくざんねんな風貌になってしまう。デザインがふるくなったとか飽きたとかじゃなく、チャックがちゃくっと閉められなくなったという理由で服を買い替えるのか。すごくいやだな。三井アウトレットパーク北広島あたりで格安の上着を探しにいくべきだろう。ユニクロでもいいのだけれど、大学内にはユニクロを着こなす先輩医師がたくさんいるのでいわゆるおそろが発生しやすいのがちょっと悲しい。見た目にこだわるかどうかという話ではなくおじさんペアルック、もしくはマークはせいぜい4種類だけど誰も気にしていなくてとりあえず数字が合っていたら取って捨てようおじさんババ抜き状態になるのがいやなのである。おじさんなのにババ抜き。おじさんだから、いいのか。


ヤサイマシ自我ヌキ。


公平、いらない価値観だ。ヨーロッパではいろいろ理由があってそうせざるを得なかったというだけではないか。今の日本の、北海道の、旭川とか札幌とか帯広とか釧路とか、そういった場末の土地の、病院とか大学とか、そういった限界の集落において、それは必要な法なのか。弱者のために必要な制度だと言われても、そもそも強弱を認定できる程度の価値判断をしている人間に、言われたくはない。気付いたものが汗をかき、知っているものがババを引き、わからないものは働かなくて、負担も感じず、それで日々たのしく知らずにやっていく。理不尽の中に巣を張り、凍えるものがいれば巣を明け渡して夜に飛ぶ。不可逆の川を船でわたり、溺れるものがいれば船をゆずって夜に泳ぐ。邪魔しないでくれ、平らすぎて加速度がつかないサーキットなんてつまんないんだよ。


3号車の自動ドアに手をかざす。休日なのに制服姿の女子高生が3人いて、特急の座席の向きをかえて4人がけにしようとわいわいやっている。うしろにおじさんがひとりつっかえていて、うん、わかる、この女子高生がじゃまで通路を通れないんだなと思ったら、おもむろにそのおじさんが、「ここ踏むんだよ」と言って座席の下のバーを足で踏むので私はびっくりした、お、お、おっさん、ここで話しかけるの超勇気あるな、捕まるぞ、と思ったら女子高生たちが口々に「さすが」「年の功」「つかえる」とか言うんでさらにびっくりして、じょ、じょ、常識高校生、そこで返事すんのかよ、と思ったらどうやらそのおじさんが引率の教員のようなのだ。私はその横を半透明になって通り過ぎ、5号車なかほどの窓際に腰を降ろす。4人がけの座席に4人で座った人間たちの嬌声が、深川を過ぎても、滝川を過ぎても、美唄を過ぎてもずっと続いていて、なんだかすごく不公平だなと思った。

くまのこ見ていたあまえんぼう

脱字をひとつ直して本登録してから裏側のPCに向き直る。こう書けば私には伝わる。今の職場で、私は向かい合うデスク2つを使って仕事をしていて、真ん中に椅子を1脚おいて日がな一日くるくる180度回転をくりかえしている。診断用のイントラPCと、私物のインターネット用PCとがそれぞれのデスクにおいてあるので、ネットで検索した論文を見ながら診断をしようとすれば後ろ・前・後ろ・前と半回転ずつしながら螺旋のように仕事を進めていく。このスタイルで5か月が経過したがうんざりしている。春にはまた席替えの予定があり、そこで前のような90度ずらしの配置に直すつもりではあるのだが、ただ、うんざりはしているのだけれど、頚椎症にはこれくらいのほうがちょうどいいのかもしれない。たかだか180度の回転であっても姿勢がそのときすこしよくなることで脊髄への負担をすこし軽くできている。誤字をひとつ見つけて無視してから表側のPCに向き直る。

「裏側のPC」といえばAIの作画だ。Copilotという無能なAIにパワポづくりのファーストステップを任せてみた。「周術期の肺検体の取扱い方」というテーマだけ与えて10分くらい待つ。なにかおもしろいイラストでも生成したらそれを使ってやってもいい、くらいの気分で待つ。はたして、雑な項目列挙のスライドが20枚ほど出力された。なかにはいくつかそれっぽいイラストも生成されている。使ってもいいがひとめでAIとわかるタイプのイラストはもう聴衆のほうが飽き飽きしているのでリスクしか感じない。そんなイラストの中に、白衣を来た研究者がこちら側を向いてなにやら調べ物をしている構図があったのだけれど、デスクトップPCのモニタが、研究者に相対するのではなく私たちのほうを向いていて、その中に「CANCER ANALYSIS(癌の研究)」と表示されていた。いや、この研究者、モニタの裏側見てんのかい、となる。イメージイラストだからこうしたほうがわかりやすい、というのがAIの判断なのだろう。しかし、人間としてはこういうイラストをみると「モニタの裏側にそんな眉根をひそめるような情報があるんか?」とおもしろがってしまう。PCの裏側といえばAIの作画。私もひと笑いしたあとで裏側のPCに向き直る。


仕事が増えるごとに機嫌が悪くなる人間というのが全国各地に散らばっている。その機嫌の悪さが低気圧となって上空を覆って地表に雪を吹き付ける。札幌では警報が鳴っている、札幌市LINEがそう教えてくれる。さっきからなんどもブーンブン、ブーンブンと鳴っている。札幌市LINEには返事をしたことがないので、つまり、私は札幌市に対してずっと既読スルーを繰り返していることになる。あるいは通知が来た3時間後くらいにスタンプでもぽんと返してやったほうがいいのかも。「LINEにすぐに返事をするのは中年ムーブ、相手のことをほんとうに考えているという雰囲気を伝えるならば、すこし待ってから返事をしたほうがよい」という、20代後半くらいの青年のコメントをテレビで見て、ははあ、上手に語るもんだなあ、うそつけ、と思いつつ、なんだか私はその現代マナーにちょっと共感するところがある。たしかに返事そのものよりも、返事がかえってくるまでのどっちつかずの時間のほうが、自分をしばっているなあと感じることはある。となればLINEの返事のタイミングこそは、意識・無意識とは関係無しに「そういう計算」の存在をほの見えさせるコミュニケーションの柱となるだろう、それを札幌市相手にやってどうするかという話でもあるが、私は基本的に自治体に対してはツンデレでいるくらいがちょうどいいと思う。つんけんしているけれど心の奥では感謝している。しかしまあそれは相手が自治体のLINEアカウントの赤いアイコンだから許されることで、人間相手にこれをやったら単なる人格破綻者だと思う。そもそも日常生活のベースが不機嫌の人間なんて全員頭がおかしい、ただ、じつは不機嫌がベースなのではなくツンデレがベースだとすると、ぎり許せる。許せるけれどぎりだ。「機嫌悪そうなのは『ふり』で、本当はもっと素直な自分を出していきたいけれど、なんらかの事情とか経緯、つらい過去などによって、そういった真っ直ぐな部分を表出する回路がさびついたまま今を迎えてしまったかなしい人」だと思えば腹も立たない、が、腹がぎり立たないだけで、そういうのは10代で終わりにしてほしい。どいつもこいつもコドナなんだから。人間と生きていくにあたって、上機嫌なペルソナ以外を使っているやつらは、そうやって他人に「じつはデレたがっている深層の自分」を引き出してもらおうとしているあまえんぼうである。SNSで愚痴なんか言うな、毎日ダジャレでも書いとけ、と私なんぞは思うのだが、まあ、みんな、あまえんぼうなのである。

アルフォートの亮太

きのこ・たけのこのシェフ監修つき高級バージョンを見ているうちに(食べてはいないのだが)知人のセリフを思い出した。

「たくさん金払ってうまいものを食えるのって当たり前じゃん、それはつまり金を出せば誰にでもできることだからむしろ平等じゃん。特別ではないじゃん。そうじゃなくて、日ごろからの目配りのよさ、目利き、そこに運をひとつまみ、それで、たいして金を払ってないけれどうまいものが食えるってほうが、よっぽど体験としては上級じゃん」。

最後に「上級」という評価基準が出てくるところはまあなんかかわいいところあるなという感じだけれど、ともかく、私はこの、「高い金を出してうまいものを食ってもつまらない」という考え方に反論するのはわりとむずかしいと思っている。まあ、それはそう……かな、と思うところがある。

似たようなことは服にも言えるのだが、服の場合、ある程度の金額までは値段に比例して布の質がよくなって、着心地とかシルエットとかが変わっていったりもするので、「安い金しか出さなくてもセンスさえあればいい体験ができる」は、飲食ほどはびしっとはまらない気はする。また、服というのは評するのが他者の目であり、自分が着た服を自分で見るにしても、目線は鏡なりスマホのレンズなりを介して他者化させないといけないというのが、飲食と同列には語れない理由としてある。「服の見た目が外からどう見えるか」。服から目にたどり着くまでの光路の途中に値札がピトピトぶら下がっている。どうやったって値札が見えてくる。一方、「味がどう感じられるか」は、値札がぶら下がるにしてもそれは皿の段階であり、口の中に入って舌やら喉やら嗅神経やらに接した段階で、他者からの目線ならぬ「他者からの味覚線」という感覚はかなりなくなっていて純粋性の高い「自分だけの体験」になる。そういう違いはあるのかなと思う。

これまで食ったものの中でそうとううまくて、しかも高かったものとなると、なんだろう。寿司か、うなぎか、あるいはコース料理の中の一品か。上限のない値段設定となっている一部の特殊な中華料理のようなものはさすがに食べたことがないし、中華でそのレベルのものは料理というよりもはや薬に近い。高い肉の良さはまったくわからない。安い肉のまずさはわかるのだが、安くてもうまい肉というのもけっこうあると思うし、安い肉をうまく調理したときの「高い肉との差」は脂肪の含有量以外はほんとうによくわからない。ウイスキーとか日本酒の類は、高いものは高いけれど、料理ほどの高さではないように思う。ワインはバカみたいに高いものを一度だけ飲んだことがあるが、うまいなーと思ったけれどどういううまさか表現できなかったので正直もったいなかった。その味をわかるためにたくさん金を使わないといけないんだよ、つまり、ほんとうにうまいものは金をかけないと味わえないんだ、と言っている人間はとても多いが、めちゃくちゃ欺瞞だなと思う。人生には欺瞞は必要である。

ところできのこ・たけのこのようなお菓子を長いこと食っていない。念のため、ここでいうきのこ・たけのこはもちろんそのままの素材のことではなく山、里のことであるが、最近のお気に入りはサラダ味、つまり塩味のせんべいである。血圧を気にして減塩ぎみの毎日だからかたまに食うと妙にうまい。ドラッグストアなどで売っていてたまに買う。これ、パッケージはよく覚えているのだが、商品名がまったく思い出せない。商品名を一切見ないで買っている。そういう商品がいくつかある。たまに買う定塩銀鮭も正式な商品名を思い出せない。きのこ(山ではなく本物のほう)も、具体的にどういうきのこなのか覚えていないものがある。外付けの価値を買わずに味だけを買っている、というと、言い過ぎか。この場合の外付けの価値というのは値段ではなく情報を意味するので、またちょっと違った話になるけれど。


気に食わない書評

結局、おもしろくなかった。読み終えることなく捨てた。買ったばかりの本をあきらめて紙ゴミの入った袋に押し込む。でもまだ本を読みたい、本棚を探す。今の本棚はとても小さくて、端から端までまさぐってもさほど時間はかからない。しかし、気持ちが陰のほうに傾いている今、古典的な詩集であるとか、音や絵にかんする本などというのは、読むことでその本の表紙や中のページに水垢や腐った臭いをなすりつけてしまうような気がして、手に取れない。Kindleのマンガを探す。『めしにしましょう』の描き文字を見ていると心の陰がすこしずつゆらいで陰のまま落ち着いていく。ほんとうはもう少し別のものも読みたい気持ちはあるのだけれど、陰を抱えているときに読むと陰が満足する本というのがあって、こういうとき私は『めしにしましょう』とか『ぱらのま』のようなマンガを読むようにしている。

陰をただちに陽にすればいいというものではないと思う。陰をかかえたら、肩をなでつけ、裾をととのえて、陰がそのまましばらくそこで穏やかに過ごせて、いずれ満足して消えていけるように、奉仕する。陰を看取るようにする。そうしないで、陰を陽で払ってしまおうとすると、かえっておさまりが悪くなる。



翌日、早朝に出勤し、7:00からはじまった健康診断を受ける。こんなもので健康であることがわかるとはまったく思わないタイプの、法定の健康診断だ。服を着たまま測る体重。駆け足で近寄って測る血圧。ぜんぶあわせて12分だった。デスクに戻ってきてメールを処理しつつ、まだ、始業までに1時間以上あって、さあどうしたものかなと思っていたらメールの中に購入予約していたKindleの入荷通知が入っていることに気づく。藤田和日郎『シルバーマウンテン』の3巻が出ていた。藤田和日郎というのは不思議なマンガを描く人で、陰のときにはその陰に巣食うような、陽のときにはその陽を掬うような、陰・陽の両方を賦活するような物語を出してくる。腕や足が螺旋状に加速度を増していく、最短ではないが最速ではあるときの武道のイメージ、肉体の可動域が本来のそれをすこしだけ凌駕するとき特有の圧を、白黒の絵で描ける人間というのが古今東西に極めてまれであるが、藤田和日郎こそはそういう描き手であり、藤田和日郎作品を読むタイミングというのは究極的にはいつでもどこでもいい。まあ、唯一の制限として、読み始めると5分や10分では読み終えられない「語りの長さ」、それだけ気にしておけば問題はない。

すごいマンガというのは読み手の体験に根ざすというよりも読み手の体験そのものになって読み手を変えてしまう力がある。

先日読んだつまらない本には、「だめな書評とは鏡であり、すぐれた書評はプリズムである、本の光がただ読み手に反射するのはだめな書評で、本の光が読み手の体験に基づいて変化して分光するとよい」みたいなことを書いていたが、光の例えをつかうと、それがぶちあたるのが鏡であってもプリズムであっても、書評家自身には特に影響が及ばない、あくまで書評家というのは光を拡散するだけの存在と思っているのだなと、私はだんだん白けてしまった。書評、さらには批評全般に言えることなのだけれど、評する人間自体が振動したり痙攣したり発熱したりする様子が伝わらないならばそれはなんか別におもしろくない。自分が中継点になることを偉業のように感じている人間の書くものは総じていやな思いがする、しかし、そのいやな思いもまたこうして私の感情をゆさぶって何かを書くきっかけになっていたりするので、本を買って捨てるという行為にも陰陽それぞれの側面があるのだなとうんざり、やれやれ、しかたねー。

ノコギリの音にあわせてお前が言うな

「○○ための技術」と銘打った本がおもしろそうだなと思って買って読んでみたらぜんぜん技術じゃなくて精神の話だったので白けてしまった。ただ、まあ、言ってることは、べつにそうめずらしいことではないけれどそれはそうだな、と思って、本をうっちゃらずにそのまま読み進めている。ここで途中でゴミ箱にズバンと投げ込まれないということはそれなりに技術のある本なのだろうなということはしぶしぶ感じる。読中の感が悪い本というのはけっこうぶつぶつ文句を言いながら読むことにしている。それもおそらく編集者や著者がある程度計算しているのだろうな、と思う。

読み手の不快をドライバーとして計算して編まれた本というのは感じが悪い。

ただ、逆に、読み手が不快にならないような気配りが全編にわたって展開されている本というのは思った以上に多くない、と思う。不快になるような心づもりで書かれた本のほうがぎりぎり多いのではないか。一番多いのは「読み手の気分なんてそこまで考えてもしょうがないべ、合う・合わないは運だべ」みたいな本で、だったら同人誌でやれよという気持ちと、それこそ著作の醍醐味だよなという気持ちと両方ある。ところで、読み手の感情に対する気配りがされている本は、そもそもの話の軸がおもしろくなかったりするので、「フロアスタッフの雰囲気はめちゃくちゃいいんだけど、料理がまずいレストラン」みたいになっており、うまくいかないもんだな、と思う。なおそういうタイプの同人誌もあり、同人誌でやったんだな、と思う。さて、内容がおもしろいのに気配りもしっかりしている本となると、それはたぶん、古賀史健さんの書いた本なのかなという気がするのだけれど、世間も同感のようで彼はしっかりベストセラーを連発されている。彼の本には技術もたくさん散りばめられているがやはり精神が美しい。あれっ、やっぱり、技術よりも精神のほうが本にはいいのか?

 

かつて、『神饌』みたいなタイトルの本を買って、これ絶対おもしろいだろうと思って読み始めたのだが、あまりにニッチな専門的図鑑だったのであんまり上手に読めなかったことを急に思い出した。精神のことをいっさい書かずに技術だけを書くというのは、プログラマーとかゴルファーとかが読むタイプの技術書としてはニーズがあるのかもしれないけれど、一日の終わりにほうじ茶でもすすりながら数ページずつ読むような読書には、まあ、向かないんだろう。

どうかな。

それはどうかな。

今だらだら書いてきた本の、なかでもあまり私がきちんと読めていないほうの本については、単純に、著者のことが単純に好きになれてないだけのことかもしれない。あまり一般化はしないほうがいいのかもしれない。読んでいくうちに愛着がわくかもしれないし。


not for meの話は外でしなくてよい。大金を払わされたとか、大事な予定に割り込んできたとか、嫌いな人間から無理やり勧められたとか、いろいろ不満をぶちまけたい理由はあるのだろうけれど、not for me, but for ほかの誰か、ということはかなりある。そこで無理やり軋轢をうまなくてもよい。批判ばかりするタイプのアカウントが嫌われるのは、批判そのものに問題があるというよりも、「批判すること」を目的とするあまりに批判のクオリティにばらつきがあったり、肯定を用いないままなにかを批評していくムーブ自体に湿気の高さというか圧の強さがあって「読み手に対してやさしくない」からだと私は思っている。なにかを主張し、それを広げたいと思うならば、いや、そんな目的がなくても、自分の文章が誰かに読まれると思うならば、その読み手ができれば不快にならないように気配りをしている文章のほうが、トータルでは善性を帯びると思う。ろくに改行もしないブログを延々と書き続けている人間のいうことではないかもしれないが……。