ゆくすえを振り返る
FDA
余地
腰痛がえぐくてヨチヨチ歩いている。ヨチヨチ歩いている自分が愛おしい。赤ちゃんがヨチヨチ歩くのは、体幹の筋肉が育ってないからなんだなということが今更わかる。解剖学は日常をよりカラフルに彩ってくれるすてきな雑学になりうる。本当は実学なのだけれど雑に扱っても味がする。
科研費をみんなでとろうねという話をした。みんな肩を落とす話題だ。でもまあ、そういうこともしていこうと思う。せっかく大学にきたのだから。この「せっかく」が私をせっかちにする。
夏にビアガーデンに行くのは義務ではないが、「せっかくだし」という感覚にはそこそこの強制性がある。より込み入ったことをいうと、「せっかくだし」という言葉はそんなに暴力的ではないんだけど、「せっかくの機会なのに……」の攻撃性はけっこう高い。否定的に用いた瞬間に威力が出る言葉というのがある。
小牧の空港をうまく使えると気持ちがよい。ホテルの朝食会場が開くより先に出てタクシーに乗る。斜めに差し込む陽光が顔を焼く。もう蝉の声がする。信号で、少女が、赤信号を待つ少女が、交差点に背中を向けていた、たぶんまぶしいからだろう。日傘も差さず、しかし彼女の短い髪はからすの色で、輪郭はGペンの筆圧であった、ナンバーガールの歌詞のようにこれから帰るのかもしれないし、単に朝番のバイトに向かう早起きな学生なのかもしれないが、彼女は一心にスマホに何かを叩き込んでいた、腰痛がえぐくてヨチヨチ泣きながら、私は知らない少女の1日の平穏を願った。そういうのもぜんぶハラスメントですと昨日の懇親会で名前を覚えられなかった教授は笑った。
ゆで差延
すごく科学的な話
人間はトポロジー的には「管」である、みたいなことをドヤァ的に語っているアカウントを定期的にみるのだけれど、さて、どうかな、もうちょっと複雑なのではないかな。
触手でもいいしミクロの探査船でもいいのだけれど、人体の表面からずっとなぞっていったとき、クチの中から食道、胃、十二指腸、小腸、大腸と這っていって肛門から出ることができるので、つまり消化管の粘膜は「外表面」ということができる。ほかにも人体の中にもぐりこんだ「外表面」はいっぱいあって、それは鼻から入っていって気道を通って肺胞まで行ってもいいし、耳の穴から入っていってもよい。尿道から入っていって膀胱を辿って尿管を上行して腎盂粘膜までたどり着いて、そこから尿細管をどんどん遡っていくのもオツなものだ。
ここまではいい。ただ、じつは男女でひとつだけ違いがある。男性の場合はどの穴から入っても「腹腔」(臓器が入っているお腹の中のスペース)にたどり着く方法はない。しかし女性は別で、膣から入って子宮頚部をさかのぼって子宮内膜から両側の卵管をたどると、最終的には卵巣の手前で卵管采が腹腔内に開口するのだ。つまり、女性の場合、「お腹の中にも外から直接たどり着くことが理屈上はできる」のである。実際には途中に粘液の壁があって、ビックバイパーが泡面をばちばちに撃ちまくって突破していくかのうように粘液を突き破っていかないとそう簡単には腹腔内までたどり着けはしないのだけれど、少なくとも、「男性の腹腔は完全な閉鎖腔」だが「女性の腹腔はわずかに外と交通する手段がある」ことは事実である。つまり男性は「管の壁の中に腹腔という隠しスペースがある」のだが女性はそうではないのであった。つまり男性と女性では微妙に管の複雑さが異なるということになる。
では人体の中に完全な閉鎖腔はないのか、というと、一般にはあると考えられていて、それは血管内と髄腔内である。血管に穴が空いていたら出血して死ぬだろうからそれはそうだろう、と私も長年考えていた。でもよくよく考えると、腹腔内を循環している微弱なリンパ液が腹膜表面のリンパ管から吸収されて静脈に帰っていく経路がある。ここを使えば女性の場合は体外からがんばって血管内にアプローチすることが可能は可能だと思う。くりかえすが途中には子宮頸部の粘液があるし、卵管内だって線毛によるベルトコンベア的メカニズムが働いているので、そう簡単に腹腔にはたどり着けないけれどそういった障害をミクロの根性(?)で乗り切っていけば、膣から虚仮の一念で血管内に侵入することも夢ではないだろう。
では髄腔はどうだろう。髄液は最終的には上矢状洞付近のくも膜顆粒から吸収され、静脈に合流するはずであり、静脈を逆走すれば髄腔内にも入り込むことはできる。
女性の場合はもはや「どことも交通していない腔」というのを探すのは困難である。一方で男性の場合は、腹腔と外界との交通がどこにもないので、腹腔も、胸腔も、血管腔も、髄液腔にも外部から直接たどり着くことはできない。パイプやちくわを変形させていけば女性の体は作れるが男性の体は作れない。
男性の胸に使いもしない乳首があることをもって「人間の体は女性がベース」と考えるのはかなり有名だけれど、神様がいたとして、その神様はきっとチクワ的なものからまずは女性を先に作った。それを神的にいじりまくっているうちに、一部の穴とか精神とかがふさがって、いっけねと思っていろいろ抑えたり引っ張ったりしているうちになんとか男性ができた。ただまあ言ってみれば男性はアレンジ版というか2P色というか、二次創作というか公式同人なので、いろいろと不具合があって、女性より長生きできないし、いくつになっても基本的にバカである。
おかか
日中どんな感じで働いてますか、と聞かれて、即座に「トイレをがまんしながらですね」と答えたら救急医っぽくていいかなと思ったけれど、今の私の年齢と立場でそれをやるとパワハラでもモラハラでもセクハラでもイチハラでもありえるのでやらないほうがいいと判断。尿管結石になりますよとか訳知り顔でつっこまれても腹が立つ。でもこういう話題のときに「すぐ下ネタに流れるんだから~」みたいなことを言う人間の、「下ネタ」という概念の粒度が粗すぎることにはうっすら嫌気がわいてくる。嫌気が差すタイプの菌を嫌気性菌といいます。働いている間ずっと集中していて、その集中をとぎれさせるのが基本的には尿意もしくは便意なので、ふりかえってみると一日の中で記憶に残っているシーンがトイレをがまんしている部分なんですよね。☆細かく説明すればしただけむなしくなる話というのも世の中にはあると知った―――。もうちょっとちゃんと答えてくださいよ、ていうか、それで病理医としての矜持が伝わりますか? いや伝えなくていいだろそんなもの。しかしこういう仕事をしていると、たまに「病理医としての矜持をお教えください」みたいな依頼がくることもある。まあ、そうだな、他人を物語ろうとしたら、「プライドで化粧したペルソナ」という視点で話題を組んでいくというのも、ときには必要なのだろう。
優秀な人というのは世の中にはたくさんいる。とても優秀でちやほやされているタイプの人が、学会や研究会が終わったあとの懇親会で、列席者からあまりにほめられすぎて、かえって居心地が悪くなってしまったのだろうか、急に横にいた私に話をふって、「や、でも、私はこの市原先生ほど上手にしゃべれませんし」という流れの謙遜をすることがある。その瞬間、たしかにこの人はしゃべりでやらかしているなあと、妙に納得するし、申し訳ないがなんだその程度の思考の深度で人のほめられに晒されていたのかとがっかりもするし可哀想にも思う。思考や業績は一流だけど人前でのふるまいはまだまだ、というよそ行きの自意識のねっこには、自己評価が周囲との評価と釣り合わなかった時期に、「俺の脳がすべて表現できればお前らはみんな俺を尊敬するはずなのに」と、かつて自室で煩悶を爆発させていた時代の、ほつれてくたびれた部屋着の自意識が顔を出している。ちょっと人からちやほやされた程度で存在の属性にかかわる脆弱性を簡単に露出してしまっていて、中学の学校指定ジャージ並みに防御に不向きだ。膝のところはテカっておりシルエットはやぼったく、チャックは硬くて布が妙に分厚く洗って干しても乾燥に時間がかかる。ふと思い出したが「ぬののふく」はぼうぐではないけれど「かわのよろい」はなかなかのぼうぐだなと思う。剣道なんてまさに「かわのよろい」で身を守る武道だからな。
どうやったらそんなにポンポンしゃべれるんですか、と聞かれて、こんな半分揶揄みたいな質問をする失礼な人に真顔で向き合ってもしょうがないんだけど、どんな人にも嫌われるとめんどくさいしどこから刃物が飛んでくるかわかったものでもないので真剣に考える。口から飛び出す言葉というのはカツブシをカンナで削ったときにふわふわ舞い散る断片化した削り節のようなものだ。カンナの刃を紙一枚、高さを揃えてきれいに出して、そこにカツブシの頭部の部分から一定の方向、一定の向きでリズミカルに削ってはじめてきれいな削り節ができる。このときカツブシが乾燥しすぎているとうまく削れず粉になる。もととなったカツオの大きさや価格はじつはさほど味に関係するものでもない。乾式発酵のプロセスの成否にかかわるファクターは膨大な経験知と職人のフィーリングによるところが大きく極めて複雑だ。本枯節のいいやつだとご飯に乗せるだけでもしみじみうまいが、廉価なバッグのものだからといって味が劣るというのでもない。ひとつ言えるのは、カツブシの削り節というものはそもそも、カツオがありそれを干したものがなければ、カンナだけあっても絶対にできない、そして、ご飯の前に削ってもあらかじめ削って保存しておいてもいいが、「カンナでカツブシを削る」という行為自体が、楽しい食事の時間になり得るということ。