西部で買い物はしない

ラボにおける教授とその「右腕」のはたらきかたを、むかしの商売における主人と番頭になぞらえて、しばらくここにいろいろ書きつけていたのだが、だんだんリアルすぎる話題になってしまって、消した。爪でも切って落ち着こう。「丁稚→手代の経験がない人間が番頭をやってもだめだし、ひとつの店でしか丁稚をやったことのない手代は使い物にならない」みたいなことを書いているうちにだんだん冗談にならなくなってきたのである。なぞらえればいいというものではない、例え話を使えば避けられる類の話でもない。

なにかを語るならばいちいちぼかしてばかりいないでまっすぐ書けばいい。あるがままを丁寧に描写するだけでも人は勝手にその裏側を見たいと思って回り込んだり、その奥底を知りたいと思って考え込んだりするものである。なのに私は「誰かに何かを考えてほしい」と望むときにすぐ例え話に逃げてしまう。悪い癖だ。



日ハムがソフトバンクに全く勝てない。今シーズンは特にひどいが昨シーズンもその前も、基本的にソフトバンクにだけは勝てていないよう。格ゲーでいうところのブランカはE・本田にはダイアグラム的になかなか勝てない、みたいな話で、その背景に理屈があるかというと、もちろん理屈はいろいろあるのだろうけれど、野球というスポーツを解析重視で楽しむつもりもないのでどちらかというと、ポケモンのほのおタイプはこおりタイプにはよく効くけどみずタイプにはあまり効かない、的に、それはもうそういうもので、田尻智が最初にそう決めたからそうなったという世界の理は動かしようがないとあきらめるしかない。このあきらめは北海道の人間にとってはそろそろ慢性化しつつあり、何かのきっかけで一気に爆発するというか、あるいは潮が引くように冷めていくというか、どのような物理現象が起こるかはなってみないとわからないが、とにかくソフトバンクに勝てなくてソフトバンク戦がつまらないからテレビも見なくなるという日はすぐそこまで迫っている。ソフトバンク戦のときだけ内野スタンドがガラガラになるとかエスコンの入場料が1500円引きになる(入場券に至ってはワンコイン以下になる)とかソフトバンクの契約者が北海道北広島市では0人になるといった話も結してありえないことではない。私自身、白状すると、携帯電話にかけたときに向こうからプププッと音がするとなんだソフトバンクユーザーか、なら敵だな、と感じて電話をやめてしまったことが1回ある。1回だけだがその1回で私は今なにをしているんだろうと呆然としたのでよく覚えている。嘘でもなんでもない。私たちはそれくらい、ソフトバンクという野球チームに対する恐怖と忌避が植え付けられつつあり、野球チームだけではなくそのサポーターである会社とそこの商品のユーザーにもうっすらとした嫌悪感が生まれている。「うっすらとした嫌悪感」なんてものはスイカの塩みたいなもので愛情を増強するスパイスみたいなもんだよね、と、周りの人には説明しており、話術的なもので当座の笑いをとってごまかているけれど、わりと本気でソフトバンク製品は北海道では売れなくなっているんじゃないかなという妄想が止まらないし私のような考えの人は決して少数ではないと思う。



例え話をせずに具体的な話をはじめたら妙に怖いことを書いてしまった。人間たるもの、ぼかして語ったほうが安全である。それはたとえば、24色入りのクレヨンというものを、買って数年使ってみて、その中でいちばん使わない色というのがどうしても出てくるわけだが、その色に相当するのが職場における自分の姿だとしたときに、その色を「なるべく使うようにしむける」べきか、もしくは「24色あるということに価値があるのであって、その中のクレヨンのすべてを使う必要はまったくないし、むしろすべてを使うと描きあがる絵が汚くなる」みたいな話にするべきか、みたいな話を延々とブログに書いていくということだ。それはそれで怖い。

電子のバカ

気が進まない講演のスライドをAIに作らせている。なんとなくできてしまう。もうこの時点でなにもかもいやになる。いやになるがそれでも、ならばせめて、AIをうまく使った講演をしないと出席者に申し訳ないなと思う。心の籠っていないスライド、何枚もできあがってくる、ひとつひとつ、眺める、なにもわかっていない。プロンプトに愛がないから出力されたものにも魂がない。これではだめだ。指も心も止まってしまった。まだ今日がはじまってもいないのにもう今日一日を走り抜けたような疲れ、体中が、缶詰をまとめ買いしたときのビニール袋のように、重力によって下側にびろびろと引っ張られ、むこうがわがすけてみえる。うすい。なにもかもだ。


現金をおろした。お札に対する愛着も執着も感じられない。どこか、にせがねのように見える。ペイペイ! とわめいてくれたほうが金銭というかんじ。いやな人間になったものだ。感情移入できない紙を革製の専用容器に納めるだけのこと。人差し指の先からひとつめの関節のよこのところに切り傷をつくってしまった。あ、今、私は、金によって傷ついた。今私は金によって傷ついた。下手人を幹事にわたす。本日の飲み会代金は12000円。うち自分の飲食代は6000円。


おりしも、「爆裂・がん遺伝子診療部(焼き鳥部)2026」というチラシをもらう。まだ先の話だが、出席する予定。A4の紙を4分割して作った小さなカラーのチラシ。日時、場所、料金、コース、幹事名が書かれており、はしのほうにちいさく「暑すぎて♡滅」と書かれている。温暖化で人類は滅んだ。焼き鳥2時間で7000円。やったぜ。もし私が学生だったなら、きっと7000円も払えば午前3時まで飲めたろう。ファズギターの時間まで飲めたろう。それにしては高いよな。でも、そもそも、いまどきの学生は、朝まで飲まないのかもしれない。


書評を書いてもらう。ありがたい。ほとんど販促をできていない近著、苦労してたくさんの人に温情をもらって編んだ本、10年前の私ならなにを差し置いてもSNSで宣伝ばかりしていただろう。今はなにもできていない。いや、まてよ、10年前の私こそ、SNSの使い方にもっとも慎重であったような気がしてきた。自著のありとあらゆる「効果的かつ安価な宣伝」を断ってきた。だったら、つまり、したがって、すなわち、私はずっと宣伝なんかしていないのだ。さて、書評を送ってくれる旧知の教授、ありがたい。足を向けて寝られない。まあ、この地では、北枕にならないようにすればそれは自然と誰にも足を向けて寝ていないことになる。北方領土にずっと足を向けて寝ている。失礼な話である。


AIをあきらめて電子で教科書を購入し、手書きでちまちまとトレースしながらイラストをつくる。まったくもってアナログな、牛歩のような作業に、急速に安心をする。血が通う。目が潤う。肺胞がひらく。Virchow-Robin腔のすみずみにまで気力が満ち満ちる。シナプス間隙に感激がさざなみのように伝播されていく。電子のバカ! 私は肉と血と湿度とともに、これからもやっていく。

ばんめしのもんだい

なんか痩せたな。自分のうつった写真が送られてきて思った。筋肉量が減って首まわりが弱々しくなった感じがする。筋トレでもすればいいのだろうがまったく気が進まない。せいぜい早足で動き回るくらいの抵抗をし続けることになるだろう。なにに? 人生に? 老いに? わからないがいろいろに。

先日の東北出張にはいくつか反省が残った。自分の講演はまあいつも通りだったのでそれは(どうでも)よかったのだけれど、座談会での振る舞いはあとから思い出してももう少しやりようがあったかなと感じる。ちかごろ調整役というか狂言回しみたいな仕事が多かったせいか今回も自然とそのように、「迷う症例・悩む症例」について、その回答を明確に指摘するのではなく、その悩みそのものを適切に言語化する、みたいなことをうっかりやってしまった。会場にいた私のボス格の病理医に、懇親会の席で「消化管専門の病理医ならもっとしっかりしたことを言いなさい」と叱られた。まあごもっともだ。返す言葉もなくうなだれた。「いつもの切れ味がまったくないじゃないか」。そうか、そうか、そうだな、たしかに、取り持つ役とか融和を目指す役が必要なわけじゃない、極論に振りかぶって場の一角を照らす役だって学術の場には必要なのに、なんだかお行儀のよいことをしてしまった。

会議。会議。会議ばかりしているから人と人の間の話ばかりするようになる。たまには脳の中身をそのまま出すようなことをしなければならない。不足なく、過剰あり、三界に味方なく、深海にTATTOOあり。


来週末の出張の、講演のプレゼンがまだできていない。こんな経験はこれまで一度もなかった。追い込まれている。



明日は歓迎会がある、私は会議があるので最初の30分しか出られないが、歓迎する気持ちはあるので30分だけでも出席して飯を食う。酒は飲まない。車で行けば間違って飲むこともないだろう。

3日後には夜中に車で2時間ほど移動し、そこから3日間のあいだに数百キロを移動しながら次々診断をする。

つまり今週、今日と明後日、2度しかうちで飯を食わない。



下味のついた肉を買って帰ってきた。半分をクッキングシートの上にあけて残りの半分は明後日にとっておく。

玉ねぎを一個切る。

新玉ねぎよりも古い玉ねぎのほうが保存に便利だということをこないだ知った。古く皮の張った玉ねぎを雑に一個切って肉の上にばらし、クッキングシートの四隅をもちあげてホイル包みのようにして、しばらく弱火で加熱する。

キャベツを適当に切る。きゅうりを適当に切る。ざるの中でざっと洗ってレンジで1分ちょっとあたためる。軽くほかっとなった野菜にごまドレをかけてこれで一皿。

先週の残りのねぎを短めに切って器のなかに入れて水を軽くかけてレンジで1分加熱、くたっとしたら上からとうふを切ってぶちこんで水をひたひたに張って顆粒だしを軽くふってレンジで3分加熱。そのあいだに一度フライパンのなかのシートを開いて肉をひっくり返し、今度はシートを閉じずに4分ほど弱火で炙って軽く水分をとばす。ネギと豆腐のはいった汁物があたたまったら味噌をといてこれで二皿。冷凍してあった米を解凍。洗い物をしているうちに肉、汁、サラダ、米、一気に四皿がそろい、最後に肉に大葉を切ったやつを軽くまぶして完成。

6,7分くらいで食う。15分くらいかけて食器を洗う。布ふきんで拭いてキッチンの端からどんどん並べて乾かしていく。

段取りは気持ちの支え。食うか食わざるかはどうでもいい。段取りに従って、滞りなく動くことができた自分を言祝いでいる。キッチン以外での段取りの調子がいまいちだが、ここさえ保てていれば、私はきっと大丈夫だと思う。

怒りを源泉にするということ

怒りや不満をチョイ出ししながら周りに微弱にストレスをかけ続けることで、結果的に自分の取り分を確保する。そういう暮らし方を選んでいる人というのが、全人口の20%くらいいる。そのような自分勝手な2割に、8割の人びとは振り回され、じわりと我慢を繰り返す。でも、ときにそうした「不機嫌の君」が、不快の余勢を駆って閉塞した状況を破壊・突破することもある。したがって、システムはそうした2割を追放することができないでいる。世の事情というのは得てしてそういうことなのかな、と考える。

8割の人びとのうち、半分くらいは、怒る理由があるなら怒る。ただ、日常的に怒りベースの人生運用をしているわけではないし、普段から逐一怒っている2割を見てなんだか冷めてしまっていたりもする。

残りの半分はいろいろだ。ぜんぜん怒らない人もいる。それは別に気質がのんびりしているとか穏やかだというわけでは必ずしもない。「自分が怒ることで誰かが不快になるのを見るのが不快」みたいな、込み入った性格の持ち主であったりする。ほかにも、誰もいないところでだけ怒る人もいる。それと似て非なる、「誰かのリアクションが届かないような環境」でのみ怒る人もいる。一番最後のパターンはSNSで可視化され、結果的に多くの人の前で怒りまくっている。

多分私はこの中の、「自分が怒ることで誰かが不快になるのを見るのが不快」の側に、自分を寄せていこうとしている。それがいいのか悪いのか、私にとって、誰かにとって、そういった大事な解析をなぜか保留のままにしながら、私は「自分が怒ることで誰かが不快になるのを見るのが不快なんだよね」という自分を作り上げようとしている。

理由はよくわからない。少なくとも私は、怒りをベースにした言動に究極的な部分でおもしろみを感じていないのだと思うが、それが「理由」かというと自信がない。



ところで、自分への怒りを創作の種にしている人について。



まあなんかつまらないことしか言わないなと思う。申し訳ないが正直そう思う。理由はその種が、「自分という神の息吹が及ぶ部分でしか育たない」からではなかろうか。

自分の中に湧き上がってきた感情を、誰かとの間にほうり出して、そこで「他の神のわがまま」に吹きさらされること。他の目を通過すること。他の声を聞き取ること。ミックス。ブレンド。土に腐葉土を敷き詰めて耕すようにすること。そうやることで、自分の中から出てきたものは、いつしか自分以外の何かに揉まれて、奔放に増殖していく。それをしていないものは、所詮は、「自分以外神ではない」と感じている人間のひとりあそびなのではないかと思う。

なんかそういうことをよく考えていたときに、『これ描いて死ね』の10巻を読んで、そうか、だから、手島先生は、最初に描いたマンガを続けることができなかったのか、と、妙に納得するなどする。あれはすばらしいマンガですよ。

差別

早朝の空港行きバスに乗るべく妻に車で送ってもらう。手を振って別れてバス乗り場に行くと目の前で一本前の始発便が発車したところで、15分後に次のバスは来るのだけれどどうせ間に合うなら始発に乗ればよかったなと思ったが次の瞬間にはうしろにごっそり人が並び始めたのでこれは考えようによっては甘寧一番乗り状態だからよかったなと朝から少し上機嫌になる。バスに乗り込んでわりと前のほうの席に座り、カバンに入れてあった本の雑誌の最新号を取り出すが、忘れていた、今日はしおりがない。バスに乗っている間だけでは読み終わらないだろうからさてどうするかな、降り際になってしおりのかわりにカバンから名刺なりタクシーチケットなりを引っ張り出して挟むと、移動中に落っことしたりして、名刺を出先で落とすのは気持ち悪いしタクシーチケットだってもったいない。ならばしおりを作ろうと思い、仕事のためにもってきた書類の一部をぴりぴりとやぶって簡易なしおりにする。結果、バスに乗った瞬間に書類を手でやぶりはじめるおそろしいおじさんとなっている。乗ってくる人たちにはなぜか若い女性が多い。そういうのを気にしている中年男性がいるという事実だけで世の多くの人は慄然として叩き始めるのかなということも思うのだが実際気にする、なぜなら、このバスが満席となったときに私のとなりに座る人がちょっとでも不快な思いをするとしたらやりきれないからで、今日こうしてバスの中に女性が多いというのはおそらく偶然ではなくて飛行機にのってどこかに若い女性がたくさん移動するようなイベントがたぶんあるのだろう、それはアイドルのライブかもしれないしお遍路めぐりのイベントかもしれないしスマホアプリの祭りかもしれない、そういうのはまったくわからないけれど今日はとにかく若い女性のための日であって私のような人間はできるだけ存在感を消して移動しなければいけない。憂鬱な気分になりつつさっそくしおりを自作していた自分のキモさを反省してあまり目立たないように暮らしていこうと心に決める。バスが動き出してからものの5分で眠気が襲ってきて空港まで一眠りする、起きると隣には案の定女性が座っていて、私が寝ている間にいびきとか歯ぎしりとか寝返りとか寝っ屁などでこの女性が私を血祭りに上げる2秒前みたいなことになっていなかったかどうかと気が気ではない。空港について乗客が次々と降りていくがその荷物はみな大きく、中にはカバンに自作のぬいぐるみなどをぶらさげている人も多くいて、やはり今日はなにがしか大きな出来事が起こっているのかも知れないなという気持ちを新たにする。空港についてもまだ女性が多い、それも20代前後くらいの若い女性ばかりで私は少しずつ気味が悪くなってくる。そういうアニメの世界に入った夢を見ているのではないかと思うがANAのアプリはエラーばかり吐き出していて確実に現実である。仙台行きの飛行機を待つ搭乗待合でもほんとうに女性ばかりでぞっとする。仙台 ライブ などで検索をしてみると、明日、仙台では手越祐也くんがライブをする予定で、まあ彼は人気があるだろう、でもバスに乗っていた女性がぶらさげていたぬいは2人分あって、それはおそらくソロのアイドルを推すために付けているものではないだろうと私は思っていたので、たぶん手越くんを見るためだけにこんなに札幌やら新千歳やらに女性が集まっているというわけではないはずなのだ。どうしてなのだろうか。答えはわからず伏線は回収されない。それは長い長い「まんが道」の連載の中でかずかずの伏線らしき出会いが描かれつつも「愛知り染めし頃に」が2014年に完結するまでほぼすべての伏線が回収されなかったことと全く同じでリアルな人生そのものだなと思った。仙台行きのAIR DOは満席ちかく、私のとなりに座ろうとした女性が離陸までの間、ずっと中腰で自分の前の席に座っている女性とべらべらしゃべっていて、その女性の身につけているカーゴパンツかもしくは持っているカバンのどちらかが妙に汗臭くて私はびっくりする。風呂キャンセル界隈もしくは洗濯キャンセル界隈なのだろうか。早く座って落ち着いてほしいなと思いつつ「こういうことを考えている中年男性」というだけで世の中は猛烈にバッシングするのだろうということを明確に恐れて私は目を閉じ、しかし、まあさっきも寝たからな、と思ってまた目をあけて、紙をびりびり破っただけのしおりを挟んだ本の雑誌をとりだして続きを読む。今度は20分くらい起きていられた。ドスンと音がして目が覚めると仙台空港である。スーツのジャケットを脱がずに外に出ると猛烈な湿気で、気温は大したことがないのだが周りを見回すとたしかに軽装の人が多くて、このまま上下ごりごりのスーツのまま移動すると私からも周囲に迷惑をかけそうな臭いがただようことになりそうだな、というところでふと気がつく。空港線の電車に向かう通路がおじさんばかりになっている。さっきまで私はほんとうに、今日は周りが女性ばかりだなと思っていたのにいつの間にかすれ違う人もおなじ方向に向かう人もみんなおじさんなのだ。汗臭いおじさん、肩周りがふけだらけのおじさん、抜けた頭髪を頬にひっつけているおじさん、妙にでかい傘をふりまわして歩いているおじさん、短パンに革靴を合わせているおじさん。私は急にすべての緊張から解き放たれた。車内に入ってもまだおじさん確変中である。臭ってもまったく納得だ、なぜならこの車両はおじさんだらけだからだ、そしてこの臭いを「不快だ」と顔に出してもなんなら声に出してもかまわない、そのことを社会は叩かないからだ。すごくラクになった。とても癒された。仙台駅行きの電車の、4人がけのボックスの奥に縮こまって座って、本の雑誌の続きを読もうとしていたところで通り過ぎたひとりのおじさんが通り過ぎた直後に床になにかがひらめいた。それは切符なのだ。このおじさんが落としたのかなと思い、席から立って切符を拾って、私から少し離れた席に座ったおじさんに「こちら落としましたか」とたずねると、彼はキョドりながらもしっかりとした声質で「いえ、私ではないですね、私はICカードで乗ったので」と答える。たしかにいまどき切符なんて買わんよなと思って「承知しました」と答え(なんでこんなに仕事口調なのかと自分で自分がおもしろかった)、切符をもったまま自席に戻り、窓際に切符を置くと、いつのまにか通路を挟んで反対側に座っていた女性二人組が、ああ、ここにはまだ女性がいたのだ、若い女性二人のうちの一人が、「それ……」といって私と目を合わさず窓際においた切符に目を伸ばすのである。そうかこの女性のだったのか、「ああ、どうぞ」と言って切符を手渡すと、女性の掌にはいまから塗ろうと思っていたのであろう日焼け止めかクリームかなにかのかたまりが、まだ伸ばされないままに収まっていて、その方の指先が私の持った切符を丁寧につまんで、なんだ、世界には男女とも同数いるんだな、と妙に納得したところで妻が階段を降りてくる音で目が覚めて、ちょっと寝坊したけど、今から準備をして仙台に向かうことになる。そしてすべて夢で見た通りのことがまったくそのまま起こったなあと感慨深く、今、私は仙台駅のカフェでやけに冷めるのが早いカフェラテを飲みながらパソコンを叩いている。