人間たちの話

エキセントリックな人間たちの話を毎日しているなあと思った。

頭のなかで「エキセントリックな人間たちの話」という言葉をレイアウトしているうちに、柞刈湯葉「人間たちの話」はおもしろかったなということを思い出す。そう、人間たちの話は、おもしろいのだ。語り手によっては。それをおもしろがれないでいるということは私はよき語り手ではないのだと思う。部族とか集落とかの奥まった大きなテントで暮らしている長老とか酋長とかの中にもおそらく話がおもしろかった人とかおもしろくなかった人とかがいて、おもしろいことを言える長老がうまく三世代くらいつづいた場所ではその集団の歴史がきちんと語り継がれる一方で、おもしろいことを言えない長老があいだに挟まってしまった場合は、理解がむずかしいエピソードが歴史の中に異物として入り込んでしまって、物語が中だるみしてしまう、みたいなことも、あったとかなかったとか。ナホトカ。

どうだろう。それは。下手な語り部がいたことのある集団のほうが、歴史の重層化が起こって後世からするとかえっておもしろくなったりもするのではないか。大和朝廷とかもそういう感じだったんじゃないか。


このあと旭川から帯広まで運転をする。挨拶に行くのだ。むかしは、このルートに飛行機が飛んでいたという。今の旭川や帯広の市長に何度も何度も相談したら、また飛行機を飛ばしてくれるだろうか。もしそうなったらそれぞれの都市はどれくらい発展するだろうか。たいしてしないだろうなあ。けど、帯広とか釧路に暮らす高校生たちが、旭川の大学に来るのがちょっと楽になるだろうな。参考までに、旭川・帯広間は自家用車で3時間、バスだと3時間半ちょっとかかる。JRだと札幌乗り継ぎになるので、旭川→札幌で1時間半+札幌→帯広で2時間半の合計4時間。飛行機だとたぶん40分くらいである。空港までの移動を考えてもだいぶ短縮できる。まあそんなことを言い出したらきりがない。女満別と釧路だって飛行機で結んでほしかった。ぜんぶの組み合わせにぜんぶ飛行機が飛んでいたら私たちの仕事はどれだけ楽だったろう。世界に石油がどれだけあっても足りない。


手土産のお菓子を買いに行かないとな。壺屋でよいだろうか。壺屋の店員はやさしい。ただ、箱詰めのお菓子を買う人が少ないのか、セットを頼むとそこからえっちらおっちら、ひとつひとつお菓子を箱に詰めるところからはじめてくださる場合があり、急いでいるときはちょっと困る。まあそういうのをあまり扱わない店に行っている私が悪いのであって、大きな店舗に行けばよいのだろうが、こういう店選びというのは基本的には車が停めやすいところにあるかどうか、通り道にあるかどうか、みたいな基準で考えているのでしょうがない。あ、今、段落ふたつぶん、人間たちとはさほど関係のない話をしたなと思う。気づく。はっ、とする。それくらい私は日ごろほとんど人間たちの話ばかりしている。

ゆくすえを振り返る

清水研先生の『こころの傷つきをなかったことにしないでください』という本がすごいのでまずは読んでほしい。医者はとくに。

さてもイレギュラーな日々、じんわりと首に迅雷が走る。最初は頸椎症が再発したのかと思ったがどうも違うようだ。筋力が落ちて首を1日支えているのがつらくなっている、というかんじだ。首をゴキと鳴らす。いつかこのまま折れてしまうのではないかという想像をして、もう鳴らすのはやめようと思う。 

作家からメールが来たのだがようすがおかしい。あてなが、私と一文字違いの女性になっている。内容は、その女性が送ったメールに対する返信なのだが、返信なのになぜ送り主ではない、送り主と名前の似た私のところに送られてくるのかなと思う。まあ、なんか、こういうメカニズムかな、というのはぼんやりわかるが、ともかく、私はその間違いメールを見ながら、「名前が似ていると、似た作家のことを好きになるのだなあ」という、よくわからない幸福感につつまれた。

タマゴ10個パックの賞味期限が明後日に迫っている。まだ5個のこっている。あしたはなにかを卵とじにしよう。もしくはオムレツでもいい。私はこれまでオムレツを作ったことがないのだけれど、にんじんと、白菜と、たまねぎと、豆腐、そして納豆、このへんのどれかを入れてオムレツを作ってみればよいのかなと思う。だしでまとめたらへんかな。それってオムレツじゃなくて卵焼きだよな。

清水先生は元気かな、と思う。またいつか会いに行こう。そのときまで私は、ときどき私を振り返るだろうけれど、それは私の過去を彼に話したいからではなく、私のゆくすえの話を彼としてみたいからなのかなと思う。

インタールード

学会あけの仕事を粛々とこなしている。今日は本当はもう少し働きたいのだけれど、冷蔵庫に何も物が入っていないから、スーパーが開いている時間に職場を出てすこし買い出しをしないといけない。あまり閉店まぎわに行くと葉物野菜がぜんぜん残っていなかったりするので気をつけなければいけない。


と、こんな感じで書いてしまうと、職場でブログを書いていることがばれるからあまりよくない。今日はにちようびだ! いい天気だ! ごろごろしている! 畳最高! とかじゃないとだめだ。


夏休みを5日とらなければいけない、と言われてひっくり返ってしまった。働き方改革というのは、休みたい人が休めることと、働きたい人が働くこととを両立するからこそ改革なのではないか。


だいたいにして、改革とか改善といった言葉ばかり使う人間というのは信用できないものである。「だいたいにして」というのは方言だろうか。「きっともって」は方言な気がする。地方特有の言い回し、というもののうち、飲み屋でしか出てこないタイプの表現なんかもあって、そういったものを私はまだこの土地で収集しきっていない。というか札幌市北区北17条あたりの居酒屋でしか収集できていないのだけれど。


夏すぎには今の職場のめんつとも飯を食いに行ったり酒を飲みに行ったりできるだろうか。なんとなくだけれど、それくらいになるとさすがに私も、いろいろ慣れているのではないかと期待している。今はまだ、いろいろとやることが多くてそういう気分にはならない。

無事読めました

羽毛布団の上にタオルケットをかけている。そろそろ春だからしまってもいいのだ。でもこの重みが私を敷き布団に抑えつけてくれる気がしてなかなかしまえない。寝るときにはいつも、仕方なく寝る。落ちるのもしかたなく、飛ぶのも仕方なく。私は重い布団のために仕方なく眠りにつく。本当はもっともっと、やることがある。やらなければいけないことなど何もなく、やりたいことしかないわけでもないのだが。


明日は、かばんにひげ剃りをいれるのを忘れないようにしたい。


リゾートのYouTubeを見る。日差しがうそみたいで、うそみたいな日差しに照らされた出演者たちもまた皆うそみたいだった。カメラの基本はライティングだという。私もあるいは、強く照らされれば変わって見えるかも、ということを瞬間的に考える。


小細工などいらない。カメラにも顕微鏡にも言えることだ。人の間ではたらくならば様々な工夫は必要である。しかし、自分のためだけにならば、そんなものはいらない。根っこに貫通するくらいに力強く、芯の部分だけに手を伸ばせばそれでなんとかなると思うのだ。ただ、問題は、自分のためになることが、必ずしも自分にだけ向けて発射されるべきではないということである。


ここまで下書きで書いたまま2日くらい放置してしまった。ちょっとここんとこ忙しかった。燃え殻さんの連載も1週分くらい読み飛ばしているかもしれなくて、今、dマガジンを遡って、先週の新潮がまだ見られるかどうか、がんばって探しているところである。

春の日の本音

シミュレーションをシュミレーションと呼んでしまう人が多くいるのはなぜなんだろう、ということをたまに考える。人には共通の間違え方、汎的な誤認みたいなものが数多くあって、それはおそらくこれまで多くの文学でも語られてきたことだと思うけれど、要はこの世界には私たちがコロコロ転がっていきがちな勾配というものがあちこちに生じていて、心のインナーマッスルが緩むとすぐに重心をそっちに持っていかれるようになっているのだと思う。

その上で、あえて言うけれど、自分を鋭く律して自分の思う方向にしか進んでいかないタイプの人間なんて面白くもなんともない。

私はむしろ、人と同じように誤認を繰り返し、偏見にまみれ、埋没し、省略されて、体幹もへろへろで、言葉も力弱く、オーラもなにもないくせに、たまに語る言葉に妙な振動があるような、そんな人間こそが世界を大きく変えていくのではないかと、わりと無根拠に信じている。マイクロマネジメントしか脳のない天才は要りません。このなかに平凡、気弱、優柔不断、最大公約数だと自分を卑下している人間がいたら、あたしのところに来なさい。以上。