ノコギリの音にあわせてお前が言うな

「○○ための技術」と銘打った本がおもしろそうだなと思って買って読んでみたらぜんぜん技術じゃなくて精神の話だったので白けてしまった。ただ、まあ、言ってることは、べつにそうめずらしいことではないけれどそれはそうだな、と思って、本をうっちゃらずにそのまま読み進めている。ここで途中でゴミ箱にズバンと投げ込まれないということはそれなりに技術のある本なのだろうなということはしぶしぶ感じる。読中の感が悪い本というのはけっこうぶつぶつ文句を言いながら読むことにしている。それもおそらく編集者や著者がある程度計算しているのだろうな、と思う。

読み手の不快をドライバーとして計算して編まれた本というのは感じが悪い。

ただ、逆に、読み手が不快にならないような気配りが全編にわたって展開されている本というのは思った以上に多くない、と思う。不快になるような心づもりで書かれた本のほうがぎりぎり多いのではないか。一番多いのは「読み手の気分なんてそこまで考えてもしょうがないべ、合う・合わないは運だべ」みたいな本で、だったら同人誌でやれよという気持ちと、それこそ著作の醍醐味だよなという気持ちと両方ある。ところで、読み手の感情に対する気配りがされている本は、そもそもの話の軸がおもしろくなかったりするので、「フロアスタッフの雰囲気はめちゃくちゃいいんだけど、料理がまずいレストラン」みたいになっており、うまくいかないもんだな、と思う。なおそういうタイプの同人誌もあり、同人誌でやったんだな、と思う。さて、内容がおもしろいのに気配りもしっかりしている本となると、それはたぶん、古賀史健さんの書いた本なのかなという気がするのだけれど、世間も同感のようで彼はしっかりベストセラーを連発されている。彼の本には技術もたくさん散りばめられているがやはり精神が美しい。あれっ、やっぱり、技術よりも精神のほうが本にはいいのか?

 

かつて、『神饌』みたいなタイトルの本を買って、これ絶対おもしろいだろうと思って読み始めたのだが、あまりにニッチな専門的図鑑だったのであんまり上手に読めなかったことを急に思い出した。精神のことをいっさい書かずに技術だけを書くというのは、プログラマーとかゴルファーとかが読むタイプの技術書としてはニーズがあるのかもしれないけれど、一日の終わりにほうじ茶でもすすりながら数ページずつ読むような読書には、まあ、向かないんだろう。

どうかな。

それはどうかな。

今だらだら書いてきた本の、なかでもあまり私がきちんと読めていないほうの本については、単純に、著者のことが単純に好きになれてないだけのことかもしれない。あまり一般化はしないほうがいいのかもしれない。読んでいくうちに愛着がわくかもしれないし。


not for meの話は外でしなくてよい。大金を払わされたとか、大事な予定に割り込んできたとか、嫌いな人間から無理やり勧められたとか、いろいろ不満をぶちまけたい理由はあるのだろうけれど、not for me, but for ほかの誰か、ということはかなりある。そこで無理やり軋轢をうまなくてもよい。批判ばかりするタイプのアカウントが嫌われるのは、批判そのものに問題があるというよりも、「批判すること」を目的とするあまりに批判のクオリティにばらつきがあったり、肯定を用いないままなにかを批評していくムーブ自体に湿気の高さというか圧の強さがあって「読み手に対してやさしくない」からだと私は思っている。なにかを主張し、それを広げたいと思うならば、いや、そんな目的がなくても、自分の文章が誰かに読まれると思うならば、その読み手ができれば不快にならないように気配りをしている文章のほうが、トータルでは善性を帯びると思う。ろくに改行もしないブログを延々と書き続けている人間のいうことではないかもしれないが……。

老害

近頃の若い病理医はみなこぞって優秀なのだけれど、解説がだんだん長くなっている。先日も本州の医師を中心に開催されたウェブの研究会と、関西で開催されたハイブリッドの研究会に、2日続けて参加したのだが、複数の病理医がみな長々としゃべる。すごいなあと思いつつ、これ、臨床から不満が出ないのかなと、すこし心配にもなった。

病理医たちは、いったん病理の話をはじめると、ずいぶんと込み入った話をする。やたらと組織の拡大写真を出し、何本も論文を引いて、まるでミニレビューのような発表をする。さすがに近頃はちょっと過剰ではないか、というか、それがほんとうに求められている仕事なのだろうか、ということをうっすらと考える。

研究会において、フロアの臨床医は画像に関していくつもの議論をする。それらの議論が高まりきったあとに、「では、病理の解説をお願いします」と、病理にバトンが渡されるわけだが、そこで病理医が解説をすれば症例検討が終わるわけではない。そこで終わりではないのだ。先がある。「内視鏡像の疑問のうち、病理で答えが出せる部分はどことどこなのか?」、そこのところが、もっとも研究会の大事なところであり、内視鏡医と病理医がいっしょに会に参加している意義なのではないかと思う。そのことを考えると、病理医の解説は、基本的に、長い。長い上に、「病理医にしかわからないようなこと」ばかり語っている。「細胞を見なければわからないこと」を解説するのは大事だ。しかし、「細胞を見なければわからないこと」というのは、じつは「だから、内視鏡医がいくら考えても無駄なこと」を多少なりとも含んでいる(ものすごく工夫すると病理像を推測できる、ということもあるのだけれど、少なくともそこにはたくさんの努力が必要である)。

病理医が自分の強みばかりに依拠してしゃべりまくると、すこしずつ内視鏡医が置いてきぼりになる。とはいえ、近頃のかしこい病理医の中には、内視鏡医のほうをちらちら見ながら、「ほら、組織がこうだと、内視鏡はこう見えるでしょう?」みたいなことを言うのもいる。置いてけぼりにはしていませんよ、という意味なのだろう。しかし、「こう見えるでしょう?」というのが問いかけではなく、押し付けになっている気がしてならない。いったん臨床医にボールを投げ返したらいいのにな、と感じることはとても多い。

かくいう私も、そういう、「病理医による病理医のための解説」を、少なくとも30代の10年間は何度も何度もやってきた。……と、思う。

思い出す限りそうだ。私は、「誰にも止められず、最後まで気持ちよくしゃべるおじさん」という、飲み会ならハラスメントになるようなことを、病理の世界ではずいぶんと長くやってきた。そして、そのことがもたらす、相手の微弱な不満を収集し、すこしずつすこしずつ、「自分がしゃべれることを全部しゃべるのはブログでやればいい」と思い始めて、相手がいる場所ではとにかく投げ返さないとだめなのだなということを思うようになった。

私に病理解説の場を与え続けてきた診療放射線技師や超音波検査技師たちは偉かったんだなと、今更ながら頭が下がる。よく、あんなに、がまんしたものだよな。


もっとも、内視鏡医はまた違った感想を持っているかもしれない。病理医にはとことん、しゃべりたいことを全部しゃべってもらって、気持ちよくなってもらいつつ、病理医の一言一句を栄養として摂取するくらいの気持ちで、ぜんぶ聞きたい、と考えているかもしれない。だとしたらむしろ、近頃の私のほうが、しゃべりたりないということになるはずなのだが、私はこれまで、「もう十分」とは何度も言われてきたけれど、「もっとしゃべって」とはあまり言われたことがないので、そのあたりの感覚はわかんないです。

喜びの経験

QOLを高めるための人生の工夫というものがいくつかあると思うが、さしあたって病理医の先輩後輩諸先生方とシェアしておきたいのは、きちんと昼も歯を磨け、ということだ。出張の連続で激務のあまり、腰痛になったり帯状疱疹になったりするのは防げない、それは不可抗力である。しかし、歯肉炎は防げる。口内炎もだ。これらは口内環境を清潔にしておくとそんなにはかからない。歯ブラシを持ち歩くのがよい。トラベルセットのような、細長いケースに入ったやつがあるだろう、歯磨き粉とセットになったやつがドラッグストアでもコンビニでも売っているだろう。あれでいいのだ。そしてできればでいいのだが、歯ブラシは、そのセットのものをそのまま使うのではなく、自分の口と生活に合っている「いつものやつ」と取り替えておいたほうがいい。関連して、ホテルの歯ブラシ、あれは質が低くて、歯茎を傷つけることもあるので、そういう意味でも歯ブラシは持って歩いたほうがいい。マイ箸なんていう文化も一部にはあるようだけれど、マイ歯ブラシだ、マイ歯ブラシこそは自分の体を保つために必要なツールだと思う。


口の臭い病理医に話聞くとうんざりする。そうさせないための努力は必要だ。


出張先で顕微鏡を見て、パソコンのモニタを見て、反対側のノートに目をやるときに鼻先を接眼レンズの角にぶつけた。いつもの顕微鏡じゃないとこういうことがしばしば起こる。無意識で日常に最適化した動きが自動的に行われていくからこうして環境が変わるとすぐにエラーが出たりバグが出たりする。ただ、この、鼻先の痛み、別に痛くない。この痛みは経験したことがある。ああ、ほね、骨につんとしみる、しみる衝撃、前にもこういうことがあった、と、感じて、それで通り過ぎていく。歳を取るとは身に覚えのある痛みが少しずつ増えていくということである。おそらく今ならタンスの角に小指をぶつけても、「ああーやっちまったな」以上のことは感じないだろうし、掘りごたつのテーブルにすねをぶつけても、弁慶って泣き虫だったんだなとしか思わない。一方で、この歳になってはじめて経験するタイプの痛みは、びっくりするほどつらい。経験がないとレジリエンスもない。さっき、Geminiが、いきなりタメ口になった。あれはなんだかすごくつらかった。敬語に戻してください、と、お願いをしているとき、過去に類を見ないくらい心が傷んだ。プログラムごときに私はいったい何をやっているのだ。


バイト先を定年退職したなじみの技師さんがさきほど挨拶に来てくださった。大福をもらった。うれしい。2つある。2つとも食べよう。

小学生日記

Nintendo Switch 2でゴエモンコレクションが出るというので買わなければならない。だいたいそういうことを考えて朝を過ごした。今日の切り出しが何例あるかと見てみると9例。たった9例か。しかしたった9例であっても、だいぶ時間がかかることもまた事実である。今の職場の病理検体数は前勤務地よりも少ない。組織診は約1000件少ないし、細胞診に至っては半分しかない。手術が多く生検が少ないので、切り出しの数はやや多めかなとは思うが、毎日切っているので一日にならすとたいした分量ではない。そしてカンファレンスも少ない。何より臨床との電話の本数がぜんぜん少ない。しかし、それでも、なにか、どことなく忙しいと感じる。おそらく無駄な動きが多いのだろう……と書いてふと思ったが、別に私はこれまでの生涯で無駄な動きを削ぎ落としたことはない。栗のトゲは食べられないがそれがなければ栗とはみなせないだろう。無駄な動きが多いことが需要にフィットしていない、と、正しく記載する。前職でそれがフィットしていたのかどうかはじつは検証できていない。本当はまわりはぐっさぐさに刺されまくって迷惑していたのかもしれない。ともあれ、この、無駄な動きを残したまま、たいして多くもない仕事をのんびりさばけるようになるかというと、それにはたぶんあと1,2年はかかってしまうだろうなと思う。精神の境界面における可塑性が低くなっていて、粘り強さもいまいちで、ガコンッをするのにちょっと苦労している。ガコンッだけで伝わるようになったのは呪術廻戦の大きな功績である。

12時までに切り出しが終わるかと思ったが……12時20分だった! 惜しい! 学生相手にあんなに熱心にべらべら説明しなければあと15秒は縮められただろう。15秒しか縮まらないのならばその後の30年を変動させうる学生への説明を省略してはいけないだろう。そうやって少しずつ、意図を込めた手技が増えて、重量が増し、私の動作はのろくなっていく。タコ糸に塩をぬりこみましょう。それを雪の上にたらしましょう。しばらく経ってからタコ糸をそーっと持ち上げると……ほら! 雪玉が釣れた! これはなんの記憶だろう。小学生くらいのときに読んだ科学系の読み物、どれだろう。ふしぎシリーズか、コペル21(公文式が出していた雑誌)か、あるいは小学○年生くらいに載っていたちょっとしたページの片隅のあそびだったのか。塩水のまわりで氷結温度が下がっていったん水になり、でも、その水のまわりに濃度勾配ができて、外側はまた凍り始めるので「雪玉が釣れる」、という解釈だったと思うが、これは、化学的には正しいのだろうか。わからないけれど私というタコ糸はいつも塩味にしめっていて、まわりにぼとりぼとりといろいろなものをくっつけて不格好に腫大していく。どうでもいいけれど、塩味(しおあじ)ということばを塩味(えんみ)と呼ぶ人間は基本的に服のセンスが私の主観でいうとださい。なんかぱつぱつしている。スパッツで外歩くな、みたいな感じ。主観なので反論されても困る。

ハゲタカジャーナルから執筆や講演の依頼が毎日とびこんでくる。MDPIから論文を1本でも出してしまうとこういうことになる。ただ、その一部は、必ずしもMDPIではないところから出した論文のメールアドレスを頼りに連絡をとってきているようでもある。最近は特に、超音波系の雑誌の総説から私のメールアドレスをプログラムで自動収集したのだろうなと思われるメールがじゃんじゃんくる。ドラえもんの中にときどき入っているドラミちゃん回で、夜中にのび太が眠っているご近所相手にテレビ放送をやる、という話があって、そこでのび太が下手なことをするとドラミちゃんが部屋に飛び込んできて、「じゃんじゃん電話! のび太の声なんて聞きたくないって」というのが楽しくて、なんだか、「じゃんじゃん」という言葉をうっすらネガティブな意味合いで使うのにそれ以来ハマっている。ハマりつづけて40年といったところではなかろうか。長いハマり方だなあ。


うーんとってもフィジカル

気づけば、業務時間の何分の一かはAIとやりとりするようになっている。日によって違うが、フィジカルな業務、たとえばそれは切り出しであったり、あるいは鏡検であったりする、肉体的で物理的な業務「以外」はたいていAIを使う。思考メインの業務のうち、だいたい半分くらいはAIのサポートを受けているというのが正直なところだ。一日にこなしている仕事量はおそらく昨年の倍くらい。これから、たぶん4倍くらいまでは上がるだろう。AIさまさまである。ちなみに、それだけ働いているからといって、脳がめちゃくちゃ疲労しているというわけでもなくて、どちらかというとAIのせいで長時間勤務していても脳がときどき遊んでいるような感覚を覚える。そういう自分に、なんだかなと思わなくもない。どうせ働くならへとへとになるまで考えてみてはどうか、という根性論みたいなものを私はいまだに抱えている。ただし、AIにいろいろまかせつつも、ときどきぽんと降ってくる「自分で考えなければいけない命題」に集中できるのは、結局ありがたいと思わなくもない。

……今、なにげなく「鏡検(顕微鏡をみること)」をフィジカルな業務の中に入れている自分に、遅れてびっくりした。

しかし本心である。デスクワークというのは肉体がなければままならない。物理法則が律速になる、というネガティブな意味ではない。逆だ。肉体をばねにして跳ね上がるような側面が、顕微鏡診断には確実にあるのだ。

臓器のマクロ像や顕微鏡像をみて考える作業は、かなり明確に、はっきりと肉体的である。「目で触りに行く」感じ、「指で嗅ぐ」感じ。五感のいくつかを同時に使うし、作用と反作用を意識しながら診断のプロセスを歩む。それは登山的だしトレイルランニング的である。

似たようなことは、読書のときもちょっとだけ感じる。たとえば優れたエッセイやコラムを読んだとき、自分がその風景の中に包埋されるかのような錯覚をするあのとき、本当は目からしか情報が入ってきていないし、しかもその入ってくる情報というのは文字、つまり記号のはずなのだけれど、その記号が脳のあちこちで花となって咲き乱れ、花びらが舞い散るように多方面にふわふわと乱れ散る。交差点の、行き交う動物の群れの中に自分の身をひたして、風花、圧のような、温度、しめりけ、地響き、かげろう、そういったもろもろの心地よさにしびれるとき、ああ、読書というのはとても身体的だなあと感じる。ただし、それは文字という記号がほんとうにきれいに扱われているときだけに生じる「わりと高頻度で発生する奇跡」に過ぎない。高頻度だけれどそれはやっぱり奇跡だと思う。なぜなら多くの文字はやっぱり無味乾燥で、読むという行為はあんまりフィジカルっぽくないと思う時間もけっこうあるからだ。

そこへいくと、細胞をみる行為は、別格である。どんな患者であっても、どんな臓器から採取されていても、それが大きくても粉微塵でも、良性でも悪性でも、その像を網膜が受け止めるときには、文字とは比べ物にならないくらいの物理的な手応えというか「目応え」がある。鏡検というのは文章を読むよりはるかにフィジカルコンタクト的行為である。

一日の中で何度か接眼レンズにまなこを近づける。そのとき私は、AIとのやりとりに飽きて感触をもとめている。グリップ。クラップ。転倒混和。エッペンドルフの中身よりもはるかに混ざる形態学的所見。無限にあふれるアーキテクチャ、有限を鼻で笑うテクスチャ、統計学と再現性で曼荼羅を一次元に抑え込むときの苦笑する感じ。力こぶ。ふくらはぎの痙攣。頸が笑う。