有閑でもいい

場所が変われば作法も変わる。大学のルールをいろいろ覚えているが、手続き、手順、といった以前に「もののみかた」「もののかんがえかた」みたいなところからわりと違う。内部にいる人にとって当たり前のことがなかなか理解できない。理解できないというのはどういう感覚かというと、言語が違う、というかんじだ。語順はいっしょなのだが単語がわからない、ということもあるし、語順というか文法が異なる、みたいなこともあるし、ときには方言的なものによってディストーションがかかっていると感じることもある。もっとも、ゆがんでいるのはいつも私だ。私は私のゆがみに直面する。もしくは背中合わせで接して察する。せいくらべのとき、背中を柱にぴったりつけて、頭を思い切り上に伸ばそうと思っても、円弧になった背骨のすきまはどうやっても埋めることができない。なるほど私の背丈というものは、左右のゆがみを矯正すればいくらかは伸びるが、前後のゆがみだけはどうやっても直すことができない。それが直るのは肉が朽ちて骨になったときなのだろう。そして私は筋肉によって、圧を逃がし、ばねのように全身を支える、このゆがみによって毎日歩いたり考えたりしているのであって、そのゆがみというものは私の内奥に食い込んで決して引き剥がせるものではない。

ゆがんでいることを引き受けようと思う。


あるいは、湯がくのもいい。

他者の幸せに私の肉を、しゃぶ、しゃぶ、通して、ポン酢をつけて、一口、途端に広がるうまみ。あくを飛ばし、熱を入れ、しかし入れすぎない、そういう処理が料理としてのひとつの極みにあることは、おそらくなにかのメタファーになるのではなかろうか。

私は自らのゆがみを引き受け、他者でさっと湯がいてようやく、ほどよい味になる。


エスコンフィールドが楽しそうだ。野球がはじまった。あまり見られてはいないが、世のどこかが愉快になっていることに対して、悪い気はしない。せめて、そろそろ『球場三食』を読み返そう。あれはすばらしいマンガだと思う。特別編としてエスコンフィールド回を単発でアフタヌーンに掲載してくれないだろうか。

ワイの危機

すっかり書き終えていたブログの記事を前に、Ctrl + Aあたりをおしたのか、ぱっと全文を削除して、空欄になった記事入力欄をそのまま閉じ、下書きの状態で保存されていたものを念入りに削除したところで目が覚めて、気づいたら書いたはずの記事がどうやっても復旧できないのだ。Ctrl + Z! Ctrl + Z!アンドゥを繰り返してもなにも元には戻らない。私はどうしてあの記事をああやって、意志も記憶もないままに消してしまったのかと考える。おぼろげに覚えていること、あの記事はたぶん、公開すべきではなかったんだろう、そしてその、公開しないほうがいい記事をあえて公開しようとしている自分と、そうでない自分とが衝突して、互いに瀕死の重症となって、記憶とかも飛びやすくなったところでかろうじて、抑制をかけるほうの自分が記事を削除したとか、そういったところだろう。そういうことなんだろうと思った。

便から体調がわるいときの臭いがする。体はパーツごとに元気だったりそうでもなかったりしている。首の上あたりで全員に、もうすこし普通にしなさいと呼びかける役目の細胞がいて、そいつがクラスを率いているのだけれど、べつにそいつが特段えらいとか先生だとかいうわけでもないので、生徒たちはちっとも言うことをきかない。


申請書を書くのに毎日すきますきまを使ってちょっとずつ書いているのだが、その道のプロからするとぜんぜんだめらしくて、なかなかうまくいかないものだなと小石を蹴る。15年くらい前に同年代の人間たちが大変だ大変だと言っていたやつがこれだったか、と今更わかる。しかしおそらく私のほうが大変ではないのだろう、なぜならAIがあるからだ。そして私のほうが大変なのだろう、なぜならAIによってサポートを受けたライバルたちがたくさんいるからだ。AIによって人類の知能の最大公約数の部分がぐっと底上げされて、人と人との差は相対的に小さく感じられるようになり、その差によって人の飯の種をかすめとったり、逆に人に奪われてがっくりしたりといったことで人生を感じていた人たちは、戦闘へのモチベーションを失った。私もまた、人間の個体差などという、ほかの種族からみたらほとんど区別がつかないような部分で人を出し抜いたり人の目から身を逸らしたりといったことをずっとやってきて、そういうことがまるごと無力化されつつある時代に拍手を送らざるを得ない。

私たちはみな、似たりよったりになっていく。エントロピーが増大し、事象とノイズの区別がつかなくなっていく。そのことを寿ぎながら、狭い狭い安全地帯の中で、ときおり息をついて仰ぎ見て、視線を落として目をつぶって、もう一度まなこを開いたら、むらさきだちたるくものほそくたなびきたる。

燃え殻さんの文庫『ブルーハワイ』が届いた。土曜の夜に読みたい。

病理医の話です

全員のメールアドレスがCCに表示されている「メール審議」の文章の末尾に「ご賛同等お返事をいただければと思います」と書かれてあり、はいよ、と思って送信者だけに返事をする。「賛同します」。先方の送信時刻から15分ちょっとで返事をしたのでたぶんだいぶ早いほうだろう。その後、半日以上にわたって、ぽつ・ぽつ・ぽつとメールが来る。「賛同します」、「賛同します」、ほかのメンバーの多くは「全員に返信」を用いて返事をしているのでいちいちその結果が私にとどく。ぶっちゃけ迷惑だなと思わなくもないのだけれど、そもそもこの、「メール審議」というものは、従来は会議室に全員が顔を合わせてどうするどうしようこうするこうしようと決めていたものが魔改造されたものなのであって、自分の意見を委員全員に周知すること、それがどんなに些細な「首肯ひとつ」程度であったとしても、その首を縦に振る姿をみんなが目撃していること自体に会議の意味が存在していたのだから、じつは、メールの返事を送信者にしか送らない私のほうがまちがっているのだ。あっている・まちがっている、でいえば、まちがっているのだ。ポケットモンスター あっている/まちがっている。ファンはどちらも買う。そして両者の違いを比べながらどちらも細かくクリアする。まちがっている、というのはその程度のことである。あっていると対比することで両者ともに価値が立ち上がる。そして私は、このたび、まちがっている。

正しさというものは世の中には本当に少ない、もしくは、受粉時期の極めて短い花のように一瞬だけ首をもたげて周囲にアピールをし、短い旬が通り過ぎたら散って砕けて蟻に運ばれていく。

どうしたらいい、こうしたらいい、しかしそういう私たちも200年後には菌の培地になったり維管束の中を流れていたりするのだからどうでもいいではないか、というタイプの俯瞰と冷笑、そっちのほうに逃げて行きたくなることも正直ある。ただ、私たちは、なにか、理屈はわからないけれど相対性理論とかそういう複雑な物理の計算を問いた先に暮らしていて、自分が暮らす数十年以外のことは正直頭にうかばないような都合のいいマヌーサをかけられているから、そうやって司馬遷とかノストラダムスとかの目線で先々のことや昔々のことを考えようとしてもぼんやりと焦点が合わなくて結局そんな広い範囲を観察することに飽きてしまうのだ。自分の記憶が渉猟できる「気の届く範囲」に相当するたかだか5年、もしくは2年とか、へたをすると2か月くらいの範囲を、パン生地を回して伸ばしてピザの台座にするような感じでぐんぐんと拡張して、上に具材を乗っけていく、そういうかんじで世界を認知して応答をし、世界にちょっかいをかけてツッコミを入れられる。腹に入ってしまえばみなおなじ、あっている・まちがっているもなければ、どうも・こうもない、そんなことはわかっているのだけれど、その短く狭く屋根の低く温度の高い妙な窯のようなところでこんがり変性しておいしく焼けましたになるまで、私たちはみな、正しいとかあっているといった誤謬に、まんざらでもない顔をしながら付き合っていく。

正しい診断なんてものはマジでない。しかし、正しい診断だと言い切るだけの間違いを背負わなければいけないときはけっこうある。

人とはパソコンである

9か月ほど前に梱包した段ボールのガムテープを剥がそうと思ってもうまく剥がれない。糊が浸透してしまっている。爪の先でテープを持ち上げたときの、あの、粘性の下にもぐりこんで引き剥がしていくときの、あの圧が爪にぜんぜん伝わってこなくて、ぺりっぺりっと小範囲で紙が千切れていくだけなので、ちょっとひっかいてもうあきらめてしまった。はさみを持ってきてガムテープの真ん中にあてがってモーゼとなる。長軸方向を切り拓くのはかんたんだが、短軸方向のテープと交わるところでははさみを一度引いたくらいではうまく切れなくなっており、ここでも少し苦労をする。上からあてがったり、下からこすりあげたり、いろいろやってようやくふたが開く、そしてこの段ボールはもう使い物にならないのだ。相次ぐガムテープの貼り付けでへりのところがダルダルになっていて、次になにかをしまい込むにはかなり不格好だし、おそらく湿気とか虫とかさまざまなものを跳ね返せなくなっている。代謝を終えた皮膚のようである。

中にはおかざき真里先生の絵やロロイチさんの線画などが入っている。前の職場を引き払う準備には3か月以上かかったのだが、その、一番最初のころに、幡野さんの写真だとかおかざき先生の額装ジークレーだとかは先に梱包してしまった。次の職場でデスクが落ち着くまでは開けられないだろうなと思ってしばらく家に置いていた。このたび、赴任して半年が経過して、ようやくあらゆる引っ越しが終わったので満を持して絵を壁に飾った。緩衝材がわりに入れておいた複数のひざかけ、ああ、ここに入っていたのか、いそいそと取り出してさっそく太ももを覆う。窓から冷気が降りてきており、部屋は温かくても窓の近くだけは朝晩は寒い。こういうのはなんというのかな、輻射熱、というのもへんだしな、と思ってちょっと検索をかけると、「冷輻射」という言葉があるらしい。たしかにGoogle変換でも一発で表示されるから、AIの作った嘘というわけでもないのだろう。窓になにか、断熱用のシートでも貼ろうか、でもせっかく明るい場所に移ったのだからこのままにしておきたいな。ブラインドを開けることはじつはない。ニコンの連携会社であるホクドーに長年勤めていた、前の職場からずっとお世話になっている顕微鏡担当のSさんが強めに私に注意した。「いいですか先生、この窓開けちゃだめですよ。顕微鏡というのは直射日光はだめなんですよ。特にこの、レンズに直射日光が入り込むと、中を光が通って痛みますから。だからこのブラインドは二度と開けないでください」。明確な注意を私はしっかりと記憶した。このブラインドは私が退職する日まで開くことはない。木漏れ日未満のわずかな線状のあかり、そして、隙間からしっかりと降りてくる冷輻射、この2つは前の職場でも全く同じように体感していた。ただし前は右からだった、今度は左からだ。あるいは私の頚椎症も、今後は左右が入れ替わってくるかもしれないなと思う。

何もしないのに膝が壊れた。PCだったら鼻で笑えたのも今は昔、ちかごろのPCやスマホは勝手にアップデートするから何もなくても壊れるということが普通に起こり得るので、このフレーズは笑えるものではなくなった。つまり、ということは、私の膝も夜の間になにかセキュリティの脆弱性を回避するためのパッチプログラムかなにかをインストールしたのだろう。睡眠とはシャットダウンと再起動に似ている。新しい概念を聞いて覚えたあと、寝て起きると不具合になっているということはままあって、それはおそらく、再起動のときに既存のアプリとなにかで競合してうまく立ち上がらなかったりしたのだろうな、ということをよく考える。

喜望峰では左巻き

気持ちの踊り場にいる。なんだか今日は午前中いっぱいヒマになる。ここぞとばかりに申請書を仕上げておくべきだと思う。すぐに働き始めないと、どうせこういう日には思いも寄らない新しい仕事などが飛び込んでくるものなのだ、しかし、どうも目のまわりが重いのでなんかゆっくりでいいかなと思ってスマホでジャンプの目次などをちらちら眺めたりしている。

気持ちの駐車場にいる。エンジンを止めて運転席で黙って座って息をついているとすかさず運転席の横の窓とかフロントガラスの右半分とかが曇り始める。私は車に「ここに用もないのに長く座っていてはいけません」と叱責されたような気分になる。リクライニングも思った角度にはならない。ハンドルも脚を組むには邪魔だ。飲み物もない。小腹を満たすものもフリスクくらいしかない。だったらそろそろ歩き始めないと。ドアをあける。バタンとしめる。ドアノブのマークに親指を重ねてキーをロックする。風がしっかり冷たくて、やっぱり車の中でもう少し待って体をあたためてから動き出すべきだったのかなと早くも後悔する。そうやっていつも自分のひとつ手前の行動に小さな後悔を浴びせかけるようにする。上鼻甲介もつんとする。

職場の部屋の席替えがあり、人も入れ替わるので、これから毎週月曜日と、あと火曜日の午前中くらいは、部屋に私しかいない、ということがある。これまでずっとPCはミュートにしていたが、これからは小さく音を出してもいいかな、と思う。メールにもすぐ気付けるようになる。タスク管理ソフトからのアラームも効果的に使えるようになる。椅子があまり合っていないが、そこまで外してもいない。モニタとの距離、いまだにこれが最適なのかどうかわからない。いつまで「慣れない環境」のことを言い続けているのか、自分でも若干、言い訳がましいかなと思う。

秒針は止められるが時間は止まらない。砂漠の半月状の砂山が、風に吹き散らされながら、かつ、新たに飛んできた砂を巻き込み続けていて、定常でも平衡でもないのに概念として均一である、その砂山の、ふもとに寄ってしゃがみこんで、砂粒を見ていると、じりじりと熱せられるような焦燥感を覚える、そういう、堆積と消失のないまぜになったものが時間である。

気持ちの交差点にいる。気持ちのヨドバシカメラにいる。気持ちのマトリゲル培地にいる。悪意はないのだろうが善意の涵養が足りていない他人の気持ちが未必の故意で肩先にぶつかってきて心の鎖骨を骨折し、私は間葉系細胞の発する混濁したサイトカインによって自律的に集簇して内向きの分化勾配を呈するオルガノイド化してその場でゆるやかに回転をはじめる。気持ちの排水溝に流れていく。右回りの螺旋。北半球にいるのだな、とふと思う。気持ちの北半球にいる。