ローリングブリジストンテイクアノーモス

たくさんの読み物があり、たくさんの切り取りコンテンツがある昨今、誰かにある作品を激推しして、それを首尾よくゲットしてもらうなんてのは、田舎の国道を延々と走っているときにぱっと出てきたドライブインに入って飯を食うのに似ており、「や、いきなり出てこられても、心の準備が」となりがちだ。

誰かに「これおもしろいよ!」と伝えたいと思ってポストをするとき、自分がドライブイン化していると感じる。高速で通り過ぎていかれるばかり。それはそうだろうなと思う。

ただ、中には、新しい店に、一期一会だとばかりにすっと飛び込んでいける人というのもいる。そういう人は楽しそう。そして、限られている。孤独のグルメのファンタジー性。玉袋筋太郎がスナックを渡り歩く番組を持っていて、それが人気だというのも、そういうことを普通の人間はあまりできないからだ。みんながやるから人気なのではない。できる人が少ないから人気なのだと思う。

「いちども入ったことのない店」にひょいっと入れるかどうかは、ATフィールドのサブタイプの違いみたいなものと関係がありそうだ。自他の境界の部分に入力される刺激の総量をどこまでコントロールしているか、そもそもコントローラブルか否か。自分の内側から燃え上がってくる非日常的な快不快の熱に、自分が焼かれることが平気か。それが気持ちいいと思えるか。「新体験」の周りに生じる複数の付随体験を「刈り込む」かどうか。私なんぞは、新しいものは食いたい、でも、そこにいる店主とのやりとりがめんどうだ、常連客にどう見られるかが心配だ、みたいなことを考えてしまう、メインの体験の周りについてくるよしなしごと全部がうっすらストレスになって、新しい体験のドアを開けるのにすこし躊躇する。その点、新しい店にすぐ入る人というのは「料理がうまいならそれでいい!」とばかりに、周辺で起こることをノイズリダクション的に削除してしまえる。自分の見たいものだけを見るというのはリスクマネジメント的にはむしろウィークポイントでもあるし、するかしないかはあくまで差異にすぎず、優劣ではないかもしれないが、とはいえ、うらやましいと感じることは多い。

ところで境界があいまいなら店にも入れるとか、ストレスを減弱させられるなら店にも入れる、とまとめられるほど、簡単な話ではないかもしれない。かくいう私はあまり新しい店に気軽に入るタイプではない一方で、「よくSNSにあんなにもの書けるね」「ああやって不特定多数に見られて気にならないの?」などと、自他の境界がマジョリティと比べておかしいのではないかと、それこそ「発達障害」を語るときの口調で長年さまざまな人から詰められてきた。そこはATフィールドの違いみたいなもんで、どっちがいいとかじゃなく個性なんですよ、みたいにモゴモゴ言い訳をしてきた。そういうの怖くないんだねーと言われて、そうですねーなどと答えてきたけれど、そんな私も新しい店は怖いしめんどうくさい。ほかにもファクターがあるのだろう。



慣性のことを考える。静止摩擦のことを考える。運動会の玉転がしで、静止摩擦から転がり摩擦に移行する瞬間の、掌の奥にぐっとくる圧のことを考える。ものが転がり始める前に押すときの力は、すでに転がっているものを押す力よりも大きい。私はなにかにつけて止まっており、それを動かし始めるときにはけっこうな力が必要となる。いったん動いてしまえばそれを維持すること自体はあまり大変ではない。

戦隊物が爆発ありのバトルシーンを撮影するような巨大なすり鉢状の採掘地で目にする、高さが何メートルもある重ダンプカーの、成人男性の身長の倍くらいあるタイヤ、あれを転がらせようと精一杯、両足を踏ん張って両手で押しても、平地だと動かせる気がしない。押したはずがもののはずみでこちらに転がってきたら下敷きになってトムとジェリーのトムのようにペラペラの紙になってしまう(ジェリーもそうなることはあるのだがなぜかトムで想像してしまう)。押す、押す、ぴくりとも動かない。モーメントをゼロから発生させるために必要な力を、自分がしっかり足に力を入れて踏ん張って押す、だけではなかなか供給できない。なんだこれ、タイヤ、地面に引っ付いてんのか?  と思って覗き込むと、果たしてタイヤの接地面は自重によってわずかにへこんでおり、接地面の両端が変形してタイヤは完全な円筒状ではなくなっていて、ああそうか、私は円筒を押しているわけではなく、へこんだ円筒の「へこみの角」を乗り越えるようなより強い力をかけなければいけないのだなとわかってがっくりする。トムが水風船を下から絞って水を上に偏らせるように自分の筋肉を上半身に集めるところを想像し、あるいは王様ランキングの母親がやるように「パワー」と唱えて精一杯タイヤを押す、すると、まあなんかそこはフィクションなのでバイキルトとかもかかっていて、ようやくタイヤが動き始める、そこでタイヤにはあらたに直進と回転の慣性が加わって、静止摩擦よりも転がり摩擦のほうが小さいことも加味して、ほかにもいろんな物理法則が噛み合って、いったん動き始めたタイヤを押し続けることは比較的容易となる。

で、この、タイヤの例えをするとして、新しいコンテンツを自分が摂取するかどうか、新しい店に自分が飛び込んでいくかどうか、という場面で例えとして挿入するとして、私はどこになぞらえられるかというと、タイヤを押す人間のほうではなくて、「タイヤのほう」である。私は新しいコンテンツに対して自重で変形して動かないでいるタイヤであり、それを押して動かそうとするのがコンテンツであり新しい店なのだ。そこで動かないのが私なのだ。新しいものを次から次へとバクバク摂取していくタイプの人というのは転がり続けるタイヤであり、私もSNSという世界においてはかつて転がるタイヤだったのだ。

映画談話室的な

宙に参るの最新話の最後のコマはタイトル回収だった。大団円まであと1話といったところだろう。長く追いかけてきたがすばらしい話だった。しかし、「最後のコマ」の話をポストすると、最新話だけ見て「なんのこっちゃ? まあわからん」みたいな読み方をする人が出てきそうだ。それはその人にとってもファンにとっても不幸なことだろう、だから、ポストする指が止まった。これは追いかけてきた人のためのものだろう。

食前酒、前菜、スープ、魚料理、肉料理、デザートときて、最後に出されるあの、表面に三日月状にうっすらと繊細な泡が乗ったタイプのコーヒー、取っ手が小さくて人差し指が中に入り切らないので親指と人差し指でドーナツ型の取っ手をがんばって挟み込んでそれを下から中指でぷるぷる支えないと持ち上げられない、薄すぎる縁で唇の両端を鋭利に切りそうになるカップに入ったコーヒーを、そのへんの道に歩いている人に、いきなり勧めて飲んでもらったとして、コース料理の最後に出てくるのとそれは間違いなく同じ味ではあるのだが、同じ感想を持ってもらえるとは全く思えない。一方で、シュークリームとかいちご大福などをぽんと渡して味わってもらえば、特に伝わりが悪いことはなく、いきなりでもわりと良さが伝わるだろう。

コーヒーとシュークリームにはそういう違いがある。エンタメにもたぶんそのへんの差がある。エクレアをぽんと食って腹を満たしたいときは正直ある。でも、いろいろ楽しく飲み食いして最後に飲んだコーヒーに満足する、みたいな楽しみもある。後者を承認欲求のポストひとつで潰すことはしのびない。



数時間・数日どころか数ヶ月、ときには数年をかけて、いちからずっと体験しないと得られないカタルシスというのがマンガやゲームにはある。私は未体験だがアメリカのテレビドラマとかもそうなのかなと思う。逆に、映画のようにたかだか2時間前後でひととおりの体験を終えなければいけないコンテンツというのはじつに難しいだろうなと感じる。映画評論家は、あるひとつの映画を時間制限なしで語れと言われれば映画の本編よりも長い時間をかけてずっとしゃべれる。優れた映画というのは体験を時間的にもレイヤー的にも圧縮する技術を備えていて、受け手はそれを短い時間でまるごと摂取したのちに、見終わって劇場を出てからの帰りの道すがら、晩飯の最中、布団に入ったあと、翌日の通勤中、翌月の仕事中、翌年の旅行中などに何度も何度も思い出して、カタルシスを先に済ませて体験をすこしずつ解凍していく、みたいなことをする。どちらがよいというのではなくどちらもある。

ちなみにここで話題を無理に自分のしごとに引き寄せる必要もないのだが、「細胞を見てそれがどういうものかを語って臨床判断をしてもらう」という病理診断の営為は、マンガとかゲームの手法ではなく映画の手法を参考にするとよいのかなと思っている。セットや小道具を用いて背景をノンバーバルに説明し、照明・カット割りなどによって複数のニュアンス・ロジックを効率的に伝え、映像と音声の相乗効果を利用して意図を強調し、役者の魅力で集客をする。そこまでちゃんとやった病理診断はエンタメであるし教育にもなるし、なにより、短時間でいつまでも残るような情報として相手に手渡すことができる。でも、病理診断を映画的に伝えようとしている人は少ない。どうしてだろう。マンガ風に伝えたがる人はいる。ゲーミフィケーションしたらよいと思っている人もいる。今日はあえて話題にしていないが、小説とか随想の技術で病理診断を扱っている人もいる。私はそこは職種の性質を考えるとややミスマッチなのではないか、と思う。病理医は映画を参考にするとよい。

もしくは写真や絵画でもよい。ただ、写真や絵画というと、あまりに病理診断の「映像的側面」に寄ってしまって、「たとえとしての写真・絵画」という側面があまり伝わらないかなと思う。「映画の手法」のほうが伝わる気がする。いまどき2時間も椅子に座って摂取しなければいけないコンテンツなんて流行らないよ、と言われるとしてもだ。

湧泉

来年の病理・夏の学校の予定などを立てている。科研費の申請書を書いたほうがいい、優先順位というものがある、しかし、まあ、その、私のための優先順位と、大学のための優先順位、社会のための優先順位、世界のための優先順位、これらがみな同じかというと、ま、違うわけである。ここで私が「私・大学・社会・世界」のどれを優先するかによって、優先したジャンルの優先順位が採用されることになるわけで、つまり優先した優先順位によって判断された優先の順番にのっとれば、今は科研費の申請書よりも病理夏の学校のほうを優先すべきなのである。

ずいぶん優先って書いた。こんなに入力したことのない単語だ。毎日めちゃくちゃ概念として利用しているけれど、字にしてみることはあまりなかった。

ところで、「優先」という行動に、優しさはべつに存在しない。優れてもいない。じゃあこの優とはなにか。

優先。優遇。優待。

すぐれているともやさしいとも関係がなく「優」が使われている単語がいくつかある。

「特別扱いする」という意味が「優」にはあるようだ。これに対応する訓読みはない。

漢字が中国にあったときに有していたたくさんの意味のうち、日本人が常用するためにあてた音が必ずしもすべての意味を網羅しなかった、ということなのだろう。


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イヤホンは有線に限る。充電をしなければいけないものをこれ以上携帯したくないからだ。「〇〇しなければ」が重い。なるべく義務が発生しないように暮らしたい。賞味期限を考えて早く食べ終わらなければいけない、みたいなことを考えなくてもいいように、野菜も肉も冷凍しまくる。似たようなことを一日中やっている。


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超絶ベテランの病理医から長い質問のメールが来た。この症例は確かに私が経験したものだが、しかし、だいぶ前に外で発表したものだ。それを今頃気にするのか、と思った。彼が気にする内容は根源的だ。この形態学的所見の定義はどうなっているのか。それはどこにどのようなかたちで出現するものなのか。それを見極めることは別のこちらの所見を見極めることとどう違うのか。これらは過去に報告があるのか。ほかに鑑別診断はないのか。急かす感じではなかった。責める感じでもなかった。ただ、質問が淡々と書かれていた。論文を投稿しているわけでもないのに査読のようだなと思った。まず、めんどくさ、と思った。そして同時にありがたい話だと思った。忙しいのでお答えできませんと断ることもできた。でも、このやりとりを続けることで、なにかが見えてくる予感があり、それはすごく魅力的だなと思った。夜通し考えて、朝方にメールをした。それに対する返事はさらに1日くらい経ってから届いた。「しっかり考えてまた返事する」とそこには書かれていた。ほかにやらなければいけないことはいくらでもあった。でも、なにか、私はここから抜け出せないし、抜け出したくないなと感じていた。

時を食えり

妙に値段が高いくせに主菜がはっきりしないビュッフェを出て、テイクアウトコーヒーを飲みながらPCをひらくといくつかメールが届いていて、ひとつは科研費の話、ひとつは病理AI関連共同研究の話で、科研費のほうから返事をする。5分もせずにリアクションが来た。夜討ち朝駆け、土日関係なく働いている人の書類は切れ味が鋭い。問題は共同研究のほうで、こちらはBoxで共有されたファイルをダウンロードしようとするとべらぼうに時間がかかる。トータルの容量が1.1 GB、ソフトバンクやドコモが一時期やいやい喧伝していた5G回線なら2秒もかからずにダウンロードできるはずだったがあの話は結局うそだったのだろうか、まあいい、じりじりと待ってようやくダウンロードが終わるころにはコーヒーを飲み終えている。喉が乾いている。外付けハードディスクを置いてきた出張先のPC、デスクトップにこんなに重いファイルを置くのは、ちょっといやだな、ま、「デスクトップ」なんて例え話でしかなくて、本当はPCのどこにどれだけ重いものがあって、それがPCにどれだけ負担をかけているかなんて私には判断がつかないのだけれど。WSIのビューアは圧縮ファイルだとうまく作動してくれない。しかたなくデスクトップ上に解凍する。さらにまた時間がかかる。

待ってばかりいる。考えることもできない時間を待たされる。SNSをみるくらいしかやることがない。

OpenEvidenceに長めの臨床プロンプトをほうりこんで、回答を待っている間も、だいたいSNSをチラ見している。AIが「考えているかのように」「現在の進捗にみせかけた」短文を、表示しては消し、表示しては消し。

Analyzing query...

嘘ッくさい演技だなと思う。

Searching medical literature...

SNSで昨日みかけた、「長押しタップすると背景にいろいろ浮き出てくる画像」のせいで、タイムラインにはそういう画像ばかりが並ぶようになってしまった。Kindleで買ったマンガがうっすらBLだったせいで、その後KindleのおすすめがBLだらけになって閉口している。来年の病理・夏の学校の宿候補を検索してからずっと、ウェブ広告が楽天トラベルで旭川の宿をしきりに紹介してくる。

ZAZEN BOYSを見たアイナ・ジ・エンドの目が潤んでいたことくらいしか近頃胸がすっとした話がない。腰痛がひどい。ストレッチをする。Analyzing query...の最中にしっかりと十分に時間をかけてストレッチをする。

お坊さんが塀を乗り越えて食べに来るという意味

早朝である。空港にいる。搭乗待ち合いにいる。最前列にいる。目の前に滑走路がみえる。低く立ち込めた灰色である。通路とこちらとを隔てるガラスの壁にたくさん指紋がついている。こういうところを清掃しないのかな? と思う。疑問はすぐに解消する。リュックをばうんばうんと跳ねさせながら走ってきたジャリがガラスに激突せんばかりにへばりついて、しっかりとガラスに手を当てながら飛行機をガン見しはじめる。始発便が飛んでからすでに2時間は経っているから、この2時間で、これだけ汚れたのだろうなということを理解する。次にやってきたエルサっぽいかっこうをした女の子ふたりのうち妹の方は手も顔もべっとりとガラスと癒着している。それよりちょっと大きな姉のほうは親を振り返って急に激しくダンスをはじめる。振り付けに意図や企図がある感じではなくてエモーションを爆発させる、原始の踊り、儀式の一貫、スピリットが周囲に集まってきそうなダンスで私は思わず顔を伏せる。あまり見てはいけないのではないかという畏怖のような心が私を覆う。キン肉マンの35巻でとつぜんディフェンドスーツの中から出てきたマジックスクエアをキン肉マンが軽く折りたたんで投げると、大阪城の天守閣にすえつけられたオープンスタジアム的なリングの直上にマジックスクエアがドーム状に広がって視界を覆い隠していくのだが、ああいう形態をした畏怖が私を覆う。どこから出てきたのか、どう畳んでどう投げるとああいう形態になるのか、一切納得はできないけれどストーリーと勢いで腑に落とさせられる。女児が踊り狂っている。狂女児が踊っている。この二文のどちらがより適切だろうかとしばらく考える。


7月24日はポテトサラダ記念日、というポストがあってたしかにと思う。


書評というか解説のしごと。校正ゲラを1日目に読み、3日ほど考えて考えて移動の最中に書き終えた28字×60行。編集者からは早さをほめられ、中にしのばせたワンフレーズをほめられ、そして、いくつかの表現がわかりづらいと訂正を求められた。ユーチューバーは物を書かないのでは? いい偏見だ、採用しよう、この一文を削除。Xに流れた記事のリンクをたどったらその先が有料で最後まで読めない、というのは本当にあること? 本当だけど、ピンとこないなら採用しよう、この一文を削除。パズーが支度にかかる秒数というのはどういうこと? 四十秒かからないという意味だがわからないならいい、この一文を削除。あとは許してもらえた。タイトルをどうしようかと悩む。編集者にも考えてもらう。なにもかも自分で書いて整える必要はない。素材を提示して、真ん中において、それを違う角度から眺めながら数人であれこれいじれば人前に出せるものになっていく。「かっこかり」を出しておくことが重要だ。それはなるべく早めであるといい。

「願いだと気づく(仮)」

というタイトルを暫定的に付けた。これがどうなるか、数日後にわかる。


腰痛がひどい。太ももの血流が滅んだ。ノートPCを脇に置き、待ち合いの椅子から体を少し前にずらして、片足ずつ前方にほうりなげてストレッチをする。ももうらを伸ばす。「ストレッチってのもまじめにやろうと思うと1時間くらいかかるよね」。たしかにな、と記憶の言葉に相槌を打つ。搭乗まであと20分、となると十分なストレッチの時間はない。この痛みを小倉まで持っていくのか。小倉が怒ったぞ! コクラーッ! 思いついたギャグをSNSに投げる。むなしいなと思う。しかしこうして「かっこかり」をさっさと提示することで動く何かがある。私はずっとそういうやり方をしてきた。それでわりとうまくいくのだということを知っている。ただし、「未完成の状態でいったん提示されてその後人の間で揉まれてそれなりに落ち着いたパッケージ」がなかなか描けない像というのも世の中にはあるように思う。「幾重ものプロセスで発酵し、濃縮され、煮出されて、ようやく提供されたファッチューチョン」だけが持つ正体の掴めない香りのようなものはきっとこの世にはあると思う。