町が止まったシーンも一度だけ描かれている

WorkFlowyにタスクリストを書き留めている。2か月先の講演プレゼンが完成していない。かつては半年先の講演もだいたい準備するようにしていた。着々と追いつかれている。自分の中での締め切りを緩めようと思ってこうしたのではなく、ここ1年くらいでどんどん進捗が遅くなってこうなっている。亀がアキレスにあっさり追い抜かれる瞬間のことを考える。



  • 2026年10月14日(水)札幌胃と腸をみる会
    • 30分くらいでミニレクチャー
  • 2026年11月7日(土)◯◯大学 ◯◯と◯◯◯研究会
    • 消化管のDR(大腸CT関連)と「虫垂と炎症」にかんする講演
    • 臨床画像と病理診断のつながりを多面的に考える場
    • 消化管(管腔臓器)を主題とする
    • 臨床と病理の接点から見た診断の面白さや難しさ
  • 2026年11月21日(土)◯◯◯◯◯研究会 ◯◯
    • 講演:免疫染色について(Ki-67のみかた、p53のみかたなど)
  • 2026年11月30日(月)アトラス胃癌第3版原稿
    • 第4部-IV 「内視鏡医との連携」 2000字✕6ページ(図版は1点あたり400字)
    • 決まった形式なし 指定小見出しなし
  • 2026年12月5日(土)◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯学術集会 ◯◯◯◯◯◯◯◯◯
    • 「BモードからMVFIまでわかる胆嚢の病理」50分
  • 2026年1月18日~2月19日のどこか ◯◯◯◯◯◯大学
    • 1コマ(45分)、医学部第3学年(121名)
    • 仮タイトル「多面的に疾患を捕える-医学・医療・公衆衛生学等の視点から」
    • 医学界新聞(2026年7号)に対談 どう届ける?いかに選ばれる?with AI医療コミュニケーションの対談記事を拝読し、「がんユニバーシティ まるごと人間しての患者と、医者と、私」の本を知りました。本学は、系統(臓器別)講義のカリキュラムの方向を今後充実させていく方向です。がんに向き合うとはどういうことか。多領域の視点から考えていく・捕えようとする、そのような姿勢は、AI時代の医師に最も求められるものの一つと感じています。当然、公衆衛生学・疫学もそもそもが実学よりで、医者患者関係、疾病登録等様々な領域が含まれています。ご講義頂きたいのは、「ある疾患をもっている人間」「疾患」に、多面的な視野も考慮して向き合うということ、市民向け・医療者むけの情報発信の整備も進められているとありましたので、「簡単に医学情報やとりあえずの回答を患者も医者も得られる時代」において「がん情報」にかかわる医療者が認識しておいた方が良い事など、ご講義いただければと存じます。
  • 2027年3月5日(金)◯◯◯◯◯◯◯◯◯会(18:30-, ◯◯◯◯)
    • 膵臓細胞診の講演(多少アレンジする程度でOK)
  • 2027年3月6日(土)◯◯消化管◯◯◯◯研究会
    • 16:00開場、17:00講演開始
  • 2027年5月28日(金)~30日(日) ◯◯◯◯◯◯◯◯
    • ドプラ検査の超音波診断 歴史が求めるもの、みらいが求めるもの 28日(金)
      • 腫瘍のfeeding artery, drainage veinなどについての基調講演
      • ◯◯◯◯◯◯◯◯対比セッションで畠先生に渡した(けど非表示にした)スライドを使うのがよいかも
    • 胆道セッション 三輪先生 30日(日)にやる
  • 2027年5月29日(土) ◯◯◯◯◯◯◯◯学会
    • 胃底腺型腺癌は腺腫と癌を含んでいるという立場でお話する
  • 2027年6月12日(土) ◯◯ ◯◯◯◯◯カンファレンス
    • 「病理と内視鏡の密な世界観」
  • 2027年6月27日(土) 13:30-17:00 ◯◯◯◯◯◯◯◯◯学会
    • 講演: 除菌後胃癌の病理
    • 症例検討
  • 2027年7月2日(金)、3日(土) ◯◯ ◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯地方会
    • 2日(金)の14:00- X線の症例検討(パワポ作製必要)
    • 3日(土)の14:00-(90分) 肝胆膵の超音波講演
  • 2027年8月7日(土) 第20回◯◯◯◯◯セミナー(◯◯◯◯◯◯◯◯)
    • 2コマ(2時間) 途中休憩あり



伏字にするのはストーカー対策の名残だ。でも本当はもう書いてしまってもいいのだろうと思う。ここ1年くらい、被害に合わなくなった。肌荒れとか痔とか腰痛の話を何度もブログに書き、写真もうつりのおかしなものや銀歯の見えているものを載せてもらい、移動についてもおみやげについても懇親会についても語らないようにして、ところどころ警察にも手伝ってもらって、ようやく今の生活がある。もう今後はさすがにないだろう。



『それでも町は廻っている』というマンガがあり、基本的には日常系のほのぼのとしたテイストなのだけれど、随所に作者が本来持っているミステリやSFへの指向性がうかがえる。主人公の「嵐山歩鳥の根源的な恐怖」について語られる連作(ただし掲載順はばらばら)は圧巻で、それをそのままここに書くのではなくやや込み入った形で書くとすると、自分という薬物の有効性を知るためには対照群をおいた臨床試験が必要で、でも自分が投与されていないほうの世界を覗き見るというのはめちゃくちゃ怖いことだよね、だってそれって、「自分がいなくても町は廻っている」ってことなんだもんね、となる。ちなみにこの恐怖は、おそらく、嵐山歩鳥の先を歩く者である亀井堂静が作中で語る欲望(自分が書いたものを、自分と同じ感覚を持つ他人に読んでもらってその感想を聞きたい)の変奏なのではないかと思える。邪推かもしれないが。さらに言えばその恐怖は、辰野俊子が嵐山歩鳥に告げる、「あなたの大事にしている日常が、私の(ある行動)で壊れるかもしれない」という懸念とも共鳴している。

とにかくすごいマンガだ。私はあしかけ10年以上かけてこのマンガを何度も読み直している。




タスクリストを眺めているときよく思う。この仕事をぜんぶなしにしたところで世界は普通に廻っていくのだよな、ということを。私が途中で病にかかるとか、人外の存在に存在ごと消される、というか最初からいなかったことにされるとか、そういったことの先で、私のする予定だった仕事がなくなったとしてそれで世界のなにかが止まることはない。こういう話を救急の医者などにしたとき、「病理ってそうなんだね。救急だと、あの夜俺があの当直先にいなかったら患者は1名死んだんだろうなとか考えるよ」と言われたことがあるのだが、まあそれに対する反論も山程あるのだけれどそこは世界の受け止め方の違いなのかなという気もした。

嵐山歩鳥の書いた『シャッフル都市』に対する「発想元」を考えるのは楽しい。主人公のモデルが紺双葉であることは想像に固くないが、作品をドライブする思想はシーサイドのばあちゃんの「考えすぎ」の妄想で、そこは作中では直接嵐山歩鳥に語られるシーンがないのだけれど、おそらく私たちが観察できない丸子町のある一日に、嵐山歩鳥はばあちゃんからその話をされたのではないか、あるいは似たようなことを似たような場面で思ったことがあったのではないかと想像させられるのである。

アイディアを出すだけなら

Windowsのエクスプローラーがハングアップしている。ブラウザならまだしも、ふつうのファイルの入ったフォルダが固まるというのはちょっと珍しい。ただまあ今「ふつうのファイル」と書いたけれど、このファイルというのはバーチャルスライド、すなわち普通は顕微鏡で覗くプレパラートをPC上でぐりぐり見てしまえるデジタルファイルだ。対物レンズ20倍で簡易的に取り込んだものとはいえ、ひとつあたり200MBくらいはある。それが1症例につき10とか30とか60といったオーダーで入っている。あんまり普通のファイルではない。だからハングアップしたのかな。だとするとこのPCもそろそろ買い替えないといけないな。

4TBの外付けハードディスクだがもう半分以上埋まっていて、残りは1.5TBくらい。これを落っことしたときに失われる情報量、私の人生をすべて書き込んだ日記よりもたぶん多いだろう。それほど働いたという気はしないんだけどな。どうも、なんだか、どでかい数字の上でころころ笑ったり遊んだりしているだけのような、ハッタリというか、ハリボテというか、そういったものを感じる。

デジタル病理というのはとにかくハードディスクの容量が要る。近々、実験のためにPCを買う予定があるのだけれど、共同研究先に、「強いメモリ、でかい容量、強いI/O、強いGPU、そしてUSB 3.0のポートは必須」みたいなことを言われて笑ってしまった。40~50万くらいのゲーミングPCだったらエントリーモデルにはなりますよ、みたいなことも教えてもらって真顔になった。とあるラボの人は、「ふつうにスパコンを借りますよ、申請して、順番待ちをして」みたいなことも言っている。もう、そういう世界なのだ、病理というのは。誇らしい感じはしない。いじましいというか、さもしいというか、わびしいというか。

エルキュール・ポワロのように「灰色の脳細胞」だけで戦えたらどれだけよかったろうと思う。

アイディアを出すだけなら誰でもできるんだよ、実際に手を動かして、論文にして、たくさんの事務的な手続きを乗り越えて、業績にするまでが大変なんだ。先輩はそう言った。私はいまだに納得できていない部分がある。「診断」を出すだけなら確かに誰でもできる、AIでもできる。でも、診断に結びつけるための「所見」を拾う作業は、ほんとうに誰にでもできることなのだろうか。できるんだろうな。膨大なメモリとキレキレのCPUをぶん回せば、大学院生にもできることなのだろうな。

ぶつぶつつぶやきながら所見を拾って、ちまちまパワポに書いていく。誰にでもできること。誰にでもできること。彫刻刀で版画を掘っていくように。プレパラートの写真を撮ってならべて、画像と比べながら、どの染色を用いてどういう解説をしたら専門家がすぐにわかってくれるかを考える。誰にでもできること。誰にでもできること。もっとこういう検体の採取をしてくれたらいいのになという夢をみる。もっとこうやって画像を撮ってくれたらいいのになという希望を集める。逆に、私はこの病理をしゃべることで臨床医たちに何を尋ねられるだろう。何を求められるだろう。誰にでもできること。誰にでもできること。

いま、毎日ブログを書いていることだけが、あとで、私があのころ病理医であったという証明になる、そんな可能性は十分にある。誰にでもできること。誰にでもできること。


限界

帯広から札幌まで電車に乗っている間ほぼすべて書類をいじっていた。途中トンネルが多いのでしょっちゅうネットにつながらなくなる。が、あまり関係がない。結局のところ自分の頭で考えるしかないのだ。Geminiに聞いても状況は好転しない。

近頃の人間は猛烈ないきおいで進化しているように思う。AIの描いたイラスト全般に対するうっすらとした嫌悪感みたいなものが社会をあっという間に覆っている。ラッセンがうっすら嫌われていたときのものに近い。ゴッホより普通にAIが好き、というネタが人口に膾炙する日が来ればあるいは状況は変わるのかもしれない。

永野がいるのにナガノ名義で創作しようと思ったマンガ家は偉いと思う。


長いメールを書いた。オフラインだからうっかり途中で送信されることもない。病理医とは結局なんなのか、というお題に対して、今の私が思うこと、そして、作中のあの人物ならこう思っているのではないかという私の予測を書いた。読み返してなんだか泣けてきた。私はこういうことを考えていたのか、と思った。挫折、失敗、屈曲、蛇行。ワインドした私のこれまでが詰め込まれたような文面になっていた。心の内腔の鋸歯状の変化は外方に異所性の陰窩の形成を伴った。陰窩のコンパートメンタライゼーションが乱れて、私は不規則に拡張したり変形したり、一部で内反性に陥没したり、表層でふさふさとタフティングしたりした。


そろそろあの原稿が書けそうだなと思った。でも問題は時間がまったくないことだ。休みがない。一息いれるタイミングもない。ずっと緊張している。ゆるむのは腹筋ばかりだ。


毎日は過ぎていく、それはショート動画の倍速再生のように目まぐるしく移り変わっていく、ドーパミンが分泌される間もないほどのスピードで、だとしたら私たちはなんの分泌物も得ないままにこの濁流にもみくちゃになって、それでいったい何を得ているのかと、われにかえって悩めばよいのだがそれすらもしないままにただひたすら流されていく。三軸すべての回転を組み合わせて、宙返りしながら錐揉みするような感じで、上も下もわからなくなって流されていく、直観的に手を伸ばした先に筆の痕がついて何かを描いたような気持ちにさせられる。




ホテルに入る前にセブンイレブンで弁当、それと、「生ジョッキ缶」を2本ほど手に入れた。500 mL。缶ビールにジョッキの快感を求めたいと思ったことがないのでこれまで買ったことがなかった。プルタブを開けると缶の上面が一気に大きく開いて、すこし遅れて猛烈な勢いで泡が盛り上がってきて、私はあわてて泡を吸った。吸っても吸っても泡が盛り上がってきた。疲れ切った夜中にホテルにチェックインして一番おいしいはずの最初のひとくちが泡ばかりになってしまった。なにが生ジョッキ缶だ、二度と買うものかと思った。二種類のルーが入ったカレーを食いながらKindleでウェブ連載がまとめられたマンガをすこし読み、野球の結果だけをチェックしてさっさと飯を食い終えて、二本目の生ジョッキ缶を開けることなく、歯を磨いてそのまま寝てしまった。ホテルでゆっくり過ごすことすらできなくなっている自分に気づいたのは翌朝のことだ。どうもいろいろとよくない感じがする。旅に出たいとも思わない、服を買いたいとも思わない、ただ、息子とがんばれゴエモンでもやったらそれはきっと楽しいだろうなということを、近頃は毎日考えている。

ハウトゥゴー

窓の外から炸裂音が聞こえてくる。花火は火花さえも見えない。祭りだと言っていた。ロビーは浮かれた客でごった返していた。私は音だけを肴に生ジョッキ缶を飲んだ。こんな面倒なビール、二度と飲んでやるものかと思った。

缶ビールよりもジョッキのほうがうまいと言っている人間のことを全く信用しない。

花火が見えないのは、単純にホテルの窓の向きの問題だ。しかし、この地に長年にわたり出張してきた私、このタイミングで花火を見たことは、まだ一度もなく、つまりは窓の向きではなく、私の問題なのかもしれないなと思った。

ほんとうに何もかもすぐに通り過ぎてしまって困る。




基盤Cの申請書。若手病理医が中心となって書いている本の添削。消化器画像診断研究会の病理解説。上海出張。いずれも今年の春には思いもよらなかった仕事。大学での職とは関係なくこれまでのつながりで降って湧いた仕事。だから、大学での職務に抵触するのでなかなか時間内に取りかかれない。休みの日に取り組むしかない。いよいよ疲れてきた。目の周りがまっくろだ。……といったことを書きつけただけの文章にしても、申請書だと細々と直される。そういうことばかりしている。やってられないなと思う。

それでもやるのだ。なぜなら、大学にいるというのは、そういうことだと思うからだ。



心理的安全性の高い職場を維持するために日々尽力。この仕事をしたところで、私の心理は別に安全にはならない。そういう役目なのだろう。めんどくさい。心理的安全性という言葉を便利に使い出した人間たちは、何を見て、何を考えているのか、究極的なところで私はよくわからないし話が合わないと思う。それでも守るのだ。人の世の中で、うっすらとした悪意の前に立ちふさがって、壁を作って、誰かの心を守る。

壁の内側に籠ってみたら、青い光が透見して、自分の手とかまぶたとかを、青く光らせるのだ。ああ、これは、だいぶいいかんじの引きこもりだなと、私は思った。

めしにしましょうを愛す

先方のオファーの遅れを、当方の努力で回収する。あと4日で臨床系の研究会に使う病理のプレゼンを作るというのは大変だ。ほんとうは24日くらいほしかった。実際に作業する時間は2日くらいなのだけれど、その2日のために整える周囲がプラス・マイナス5日くらいずつ必要。2日間集中するためにそこの仕事を周りに吸収させるバッファ、苗の周りに盛った土、アイドルのまわりを取り囲む警備員、みたいなものが要る。しめて5+2+5=12日のセットを、24日くらいの期間を眺めながら「ここだァ!」カシャーンとはめ込む。このようにして仕事をすると、そこそこよい病理のプレゼンができる。だから病理プレゼンの依頼は1か月くらい前にしてほしいのだ。でもいつもそのようになるとは限らない。オファーをするほうも忙しい。

これは「先方がもっとしっかりしていれば当方がこんなにあくせくしなくてよかった」という愚痴である。

このタイプの愚痴は古今東西ばりばりあって、よく聞くし、たまに言う。病理医がブログなどやっていると高確率でそれ系の記事が出てくる。見飽きた。うるっせーなとすら思う。たぶん臨床家はもっとそう思っているだろう。

ところで悪いのはいつも先方(臨床サイド)なのか? 「先方をしっかりさせるのも当方(病理サイド)の役割」という考え方もある。こちらがもっと「しっかりあれば」、むこうももっと「しっかりした」かもしれない。いやいや、そこまで、なんでもかんでも自分の責任にしてたら死ぬよ、というツッコミはある。でもこういうのは持ちつ持たれつ、互いが互いの鑑、という側面もある。今、変換が「他害が他害の鑑」だったのでキーとなった。他害の話でもある。


自分のためにやらなければいけないこと、優先順位、みたいなことを考える。「汚れた」みたいな気持ちになる。


『めしにしましょう』の新刊が4月に出ていた。今日まで気づかず、あわててダウンロードした。新刊情報をKindleのおすすめに頼っているとこうなる。さむわんへるつの4巻、異世界居酒屋のぶの22巻、ウィッチウォッチの27巻、佐橋くんのあやかし日和の3巻を全部ダウンロードしたあとに突然「読み始めたシリーズの続きを読むにはこちら」の欄に現れた。どうして4か月も遅れたのか。ぶつぶつ言いながら読む。おもしろい。待ちに待っていた。にしては遅れたが。『めしにしましょう』の青梅川おめがは、旧シリーズの最後あたりから、足掛け10年くらい、ずっと「料理とはなにか」について悩んでいる。このマンガはふしぎなマンガで、普通であれば編集者がなんらかの形で介入してなんだかんだで薄められてしまうことが多い、「作者の根源的な悩み」がそのままの形で作中の人物の迷いとして表出してくる。それは、編集者が「味」として残しているというより、この独特のマンガ家のやりたいことをあまりコントロールしないほうがいいという信念のもとに、もしくは諦観のもとにそうなってしまっているように見える。あるいは、マンガ界全体をひとつのディナーのコースと考えた場合に、「ほかの料理とのバランスを考えて、この料理については味付けを真ん中にしない」みたいなことをやっているようにも感じられるが、これはぜんぜん見当外れかもしれない。狙ってやっているのではなく、そうなってしまっているのかもしれない。こちらは読む側だ。ほかにも読みたいマンガはたくさんある。『めしにしましょう』というのはあくまで摂取する具材のひとつでしかない。だから「あえて真ん中からずらしたマンガはおもしろい」みたいな、残酷な感想を無責任に述べることができる。しかし、それは描く側の理屈にはならない。普通は。でも青梅川おめがは小林銅蟲の脳でそのまま悩んでいる。じつに不思議なマンガである。おもしろい。早すぎるトレスで描かれた背景は冷凍都市のようなひやりとする触感。主要人物はジェンダー含めてすべて転倒。リスペクトの対象であるゲストの顔は緻密かつ繊細。料理はどれも確実に温もりをもって描かれている。おもしろい。ただの絵のうまさではない。異様な、異常な、独特のうまさ。『めしにしましょう』シリーズはおもしろい。これをおすすめするのに4か月も遅れた先方(Kindle)のことを恨めしく思う。当方(病理サイド)がもっとしっかりしていればよかっただけの話なのだが。