無事読めました

羽毛布団の上にタオルケットをかけている。そろそろ春だからしまってもいいのだ。でもこの重みが私を敷き布団に抑えつけてくれる気がしてなかなかしまえない。寝るときにはいつも、仕方なく寝る。落ちるのもしかたなく、飛ぶのも仕方なく。私は重い布団のために仕方なく眠りにつく。本当はもっともっと、やることがある。やらなければいけないことなど何もなく、やりたいことしかないわけでもないのだが。


明日は、かばんにひげ剃りをいれるのを忘れないようにしたい。


リゾートのYouTubeを見る。日差しがうそみたいで、うそみたいな日差しに照らされた出演者たちもまた皆うそみたいだった。カメラの基本はライティングだという。私もあるいは、強く照らされれば変わって見えるかも、ということを瞬間的に考える。


小細工などいらない。カメラにも顕微鏡にも言えることだ。人の間ではたらくならば様々な工夫は必要である。しかし、自分のためだけにならば、そんなものはいらない。根っこに貫通するくらいに力強く、芯の部分だけに手を伸ばせばそれでなんとかなると思うのだ。ただ、問題は、自分のためになることが、必ずしも自分にだけ向けて発射されるべきではないということである。


ここまで下書きで書いたまま2日くらい放置してしまった。ちょっとここんとこ忙しかった。燃え殻さんの連載も1週分くらい読み飛ばしているかもしれなくて、今、dマガジンを遡って、先週の新潮がまだ見られるかどうか、がんばって探しているところである。

春の日の本音

シミュレーションをシュミレーションと呼んでしまう人が多くいるのはなぜなんだろう、ということをたまに考える。人には共通の間違え方、汎的な誤認みたいなものが数多くあって、それはおそらくこれまで多くの文学でも語られてきたことだと思うけれど、要はこの世界には私たちがコロコロ転がっていきがちな勾配というものがあちこちに生じていて、心のインナーマッスルが緩むとすぐに重心をそっちに持っていかれるようになっているのだと思う。

その上で、あえて言うけれど、自分を鋭く律して自分の思う方向にしか進んでいかないタイプの人間なんて面白くもなんともない。

私はむしろ、人と同じように誤認を繰り返し、偏見にまみれ、埋没し、省略されて、体幹もへろへろで、言葉も力弱く、オーラもなにもないくせに、たまに語る言葉に妙な振動があるような、そんな人間こそが世界を大きく変えていくのではないかと、わりと無根拠に信じている。マイクロマネジメントしか脳のない天才は要りません。このなかに平凡、気弱、優柔不断、最大公約数だと自分を卑下している人間がいたら、あたしのところに来なさい。以上。

待ったなしに待った

学会にいる。ホルムズ海峡についてみんな話している。誇張ではない。病理検査室で検体処理に用いるキシレンやパラフィンが不足し、あと2か月でさまざまな検査が行えなくなる、という話で、全国の病理検査室や病理部は大騒ぎなのだ。その真っ只中に学会をやっているので、中核ポジの人は多くがちょっと目がうつろである。どうしたものかと頭を抱えている。キシレン。パラフィン。どちらもなければ病理検査ができない。検査など遅らせればいいではないか、というわけにはいかない。患者から採取された検体を、ただちにホルマリンに浸漬して、そこから48時間以内に溶媒で処理してパラフィン(ロウ)に埋め直すことで、私たちは「ホルマリン浸漬パラフィン包埋 formalin-fixed paraffin-embedded (FFPE)ブロック」を作製し、そこからプレパラートを作るわけだが、このFFPEブロックの作製が遅れると、検体に含まれるRNAやDNAが劣化してしまう。するとどうなるか? 患者の検体を用いた遺伝子検査に支障が出て、「この遺伝子変異がある人にはこの抗がん剤が効くんですよ」みたいな治療が一切行えなくなるのだ。世界情勢も待ったなしかもしれないが、今まさにがんを持っている人だって待ったなしだ。でもその待ったなしに待ったがかかる。とんでもないことなのだ。マジでみんな頭を抱えている。

そういったことを考えながらホテルのロビーでPCに向かってメールを打っている。目がもうろうとしてくる。あと1時間するとまた座長をする。今日は20時半ころにアドリブで「講評」なる仕事をする日でもあり、それまでずっと気が抜けない。そんな中、どーでもいいメール、どーでもいい広告が、じゃんじゃん届く。「ゴミ箱」のボタンしかついていないことがもどかしい。「市中引き回しの上シュレッダー獄門」みたいなボタンじゃないとこのメールは廃棄できないと思うのだ。

半チャーハンは半人前の料理ではなく一人前では足りない人のための料理

浮かんでは消え、浮かんでは消え。出会いや別れ、あまりに間断なく訪れると、ひとつひとつが泡のように感じられて、個別に記憶することができなくなる。うれしい出会いもあったはずだが名前が思い出せず、悲しい別れもあったはずだが言葉が思い出せない。申し訳ないなとも思うし、そういう特性をもって生まれてしまったからにはなにかちょっと歪んだ場所でだれかの役に立てたりもするのかと、自分を奮い立たせてなんとか人生の路のまんなかにふらふら戻ってくるのだけれど、あまりにうたかた、あまりに砂塵、こうまで何も覚えていないと申し訳ないというかくやしいというか。

学会でたくさんの人に会う予定が経っている。このブログが公開されるころ、たくさんの人と会い終わったあとだろう。どれだけ覚えているだろう。がんばって1日でも長く、ふつうの人くらいには覚えていたいと今から脳をストレッチしている。

申請書のストレッチゴールをだいぶ遠いところに設定したことでまた私は先輩からたしなめられるのだろうか?

キャリアプランがわりとしっかりとしている学生さんにたくさん出会うようになった。どこに行って何になりたい、その後、その間、その前、だんだんと逆算していっての今、の人がどちらの方角をどれくらい眉根をひそめて眺めているか、というのはしみじみと興味深い。

目がごわごわしている。目のまわりがごわごわしている。目そのものが疲れているというよりも、目のまわりにある皮膚とかがつっぱっていて、それで目まで疲れているように感じる。あるいは、逆か。まず目が疲れて、ささくれだって、それにまぶたや、まぶたを陰で支えるまわりの皮膚たちが、こわごわ、おっかなびっくり、目に気を遣っているという状態ではないか。つまりこれは目のハラスメントによって心理的安全性を失って固まってしまった皮膚、という状態なのではないか。

相当に疲れてはいるのだけれど、疲れが計算できるようになっており、その結果、精神状況はわりと明るい。研究の先はまだまだ見えないが、診療についてはだいぶ盤石な体制になりつつある。もちろん世に難しい疾病はやまほどあり、珍しい所見の数々に頭を悩ませることも、見逃しや見過ぎの恐怖におびえることもある。けれども私はなんだか病理診断についてはここから丁寧にやっていけるのではないかという算段がだいぶついてきた。そうか、そうか、一人前になった、ということかもしれない。なるほど。医師免許をとるまでの人生と、医師免許をとってからの人生が、ちょうど半々になった今、ようやく一人前なのか。そうか、そうか。じゃあ研究者として一人前になるにはあと何年かかるんだろうな。

猛スピードで読者は

人の気持ちを書く作家の小説を立て続けに読んでいる、理由というか動機がやや不純で、こんどの学会で彼の講演の座長をするからだ。作品を読んでいないというのはまずい、と思って一夜漬け的読書をここ一ヶ月くらい続けている。もっとも、彼の作品を全く読んでこなかったわけではない、代表作と呼ばれるものを含めて小説2冊くらい読んだことがあったし、そのどちらもおもしろく、納得の、すごい作家だなとこの縁がなくても私は勝手に思っていた。さらに言えば、彼が別名義で書くエッセイのほうは小説よりもはるかに、かなりたくさん読んできて、つまり私は元々彼の愛読者と言っても過言ではない。ただ、愛読などと言っても、20年以上にまたがってぽつり、ぽつり、なことには違いないし、それはたとえば小川洋子とか梨木香歩などについても、サラ・ピンスカーとかアンディー・ウィアーについても言えることなのだけれど。私は彼の作品をこれまで読んできたし、きちんと好きだ、しかし、人生の時間を溶媒にして密度を測ってみれば、この体験はまだまだそこまで濃いものではない。座長をできるほど読み込んでいるとは言えない。だから今回はしっかり読んでみることにした。研いである白刃にさらに付け焼き刃、という感じである。

昔読んだもの、まだ読んでいないものなど、つぎつぎとKindleで購入。ありがたいことに、ちゃんとおもしろい。まあそれはそうなのだ、有名なプロの作家なのだ、そんなことはみんなが知っている、でも、つまらない作品というのがほんとうにぜんぜんなくて、どれを読んでもちゃんときちんとおもしろいので私はほっとしたし、それに対して少しぞっともした。

言葉が色とりどりで、たくさんの画角でカメラを向けてカット割りを豪勢にした映画のようだ。でも過剰とは感じない、じっくり据え置きのカメラで微弱な首のかしげかたを丁寧に撮影したドキュメンタリーのようでもある。読んでいると私の目も視神経も大脳新皮質も、それぞれ「まだやれる、私、まだやれます!」と叫んで、世界をこれまで以上に細かく華やかにみようとしはじめる。

私は本が好きだけれど実際には「小説のない期間」をけっこうな頻度で生きていて、そして、ふだんは「まあなんか小説って体力使うし一気に読まないとなんかついていけなくなるからまとまった時間も注ぎ込まなきゃいけないしちょっと面倒」とか言いながら、瞬間をだらだら積み上げる感じでSNSを見て結局本が読めたくらいの時間をつぶしてしまっているけれど、たまにこうして小説を読むと、読み終わってからしばらくの間、私自身が小説家となって私の登場する世界をきちんと描写してやらないと私という登場人物に悪い、という気持ちになる。あからさまに影響を受けまくる。ちょっと恥ずかしい。けれどそれこそが小説という媒体のもつ力なのかなと思う。

あらゆる小説が読者を小説家然とさせる力を持っているわけではなかろう。物語の世界から抜け出てこられないほどその後の登場人物に思いを馳せさせられる小説もあるし、小説家の技法・技術・作者性の部分に魅入らされる小説もある。そして今回は、「世界はもっと丁寧にみることができるのだなあ」ということを、ホームランを打った直後の確信歩きのようなドヤ顔の念押し的にじんわりと実感させられる、そういう体験をしており、これもまた小説なんだな、みたいなことを毎日うれしく味わっている。