場所が変われば作法も変わる。大学のルールをいろいろ覚えているが、手続き、手順、といった以前に「もののみかた」「もののかんがえかた」みたいなところからわりと違う。内部にいる人にとって当たり前のことがなかなか理解できない。理解できないというのはどういう感覚かというと、言語が違う、というかんじだ。語順はいっしょなのだが単語がわからない、ということもあるし、語順というか文法が異なる、みたいなこともあるし、ときには方言的なものによってディストーションがかかっていると感じることもある。もっとも、ゆがんでいるのはいつも私だ。私は私のゆがみに直面する。もしくは背中合わせで接して察する。せいくらべのとき、背中を柱にぴったりつけて、頭を思い切り上に伸ばそうと思っても、円弧になった背骨のすきまはどうやっても埋めることができない。なるほど私の背丈というものは、左右のゆがみを矯正すればいくらかは伸びるが、前後のゆがみだけはどうやっても直すことができない。それが直るのは肉が朽ちて骨になったときなのだろう。そして私は筋肉によって、圧を逃がし、ばねのように全身を支える、このゆがみによって毎日歩いたり考えたりしているのであって、そのゆがみというものは私の内奥に食い込んで決して引き剥がせるものではない。
ゆがんでいることを引き受けようと思う。
あるいは、湯がくのもいい。
他者の幸せに私の肉を、しゃぶ、しゃぶ、通して、ポン酢をつけて、一口、途端に広がるうまみ。あくを飛ばし、熱を入れ、しかし入れすぎない、そういう処理が料理としてのひとつの極みにあることは、おそらくなにかのメタファーになるのではなかろうか。
私は自らのゆがみを引き受け、他者でさっと湯がいてようやく、ほどよい味になる。
エスコンフィールドが楽しそうだ。野球がはじまった。あまり見られてはいないが、世のどこかが愉快になっていることに対して、悪い気はしない。せめて、そろそろ『球場三食』を読み返そう。あれはすばらしいマンガだと思う。特別編としてエスコンフィールド回を単発でアフタヌーンに掲載してくれないだろうか。