究明以下だ

スヌーズ、という言葉からほのかに犬を感じるなあと思っていたがなんのことはない、スヌーズ以外にスヌではじまる言葉をスヌーピーしか知らないからだ。手で書くとマリリン・マンソン的なおもしろみがあるスヌーズ。未知の可能性がある。「マソソソ・マソソソ」と書いてもすぐに理解するオタクたちが、「ヌヌーヌ゛」がスマホの画面に表示されたとして、あっ、スヌーズのことか、とピンとくるかというと、それは微妙だと思う。スヌーズ。よく知られた言葉のわりに誰もその深みを知らない。SNSの有名アカウント(笑)くらいのポジションだと思う。生まれ変わってもスヌーズになりたいとは特に思わない。スヌーズになる、スヌーズである、という表現はおそらく間違っているのだろうが、どこがどう間違っているのかを深堀りしたいとも思わない。言葉の世界ではモブにあたる。


Bing壁紙のチョイスがだんだん雑になってきている。そんなにちらちらたくさんの色を入れられるとデスクトップアイコンが見づらくてしょうがない。AIでそれくらいなんとかできないのか。さんざんAIを振りかざしているくせに肝心なところでAIを使えていない。まるで病理学者のようだ。


虫を殺した。なんの躊躇もなかった。


複数の研究に関わっている。「ご意見番」的なポジションを担当するときと、「小間使い」としての役割を頼まれるときがある。これらはいずれもほぼ同じ意味で、「研究代表者が考えていることを邪魔してはいけない」という共通点がある。遮ってもいけない。異論を唱えるなんてとんでもない。なぜなら研究とは「仮説を証明する」という順番で行われるもので、ご意見番にしろ小間使いにしろ、道化にしろ救世主にしろ、仮説がすでに立ち上がったあとに参画する人間に残された仕事は「証明する」の部分しかないからだ。仮説を見直したほうがよいのでは、というセリフは、理論上は可能なはずなのだが、これが通ることはめったにない)。ドラクエIVで「傭兵」を雇うことができる。金を払って雇うと戦闘のときに自動で戦ってくれる。しばらく働くと戦闘が終わった後にさっといなくなる。冒険の行く先を決めるのはトルネコ(プレイヤーの親指)であってそこに傭兵の意図は一切存在しない。私もああいう感じかなと思う。ただ金は払われないからその意味では傭兵以下だ。「傭兵以下だ」がドラえもんに出てくるある道具と似ているなあと思った。答えは「救命イカダ」。なんでこれ、カタカナなんだっけ、と思って元画像をみるとデザインがイカだ。そうか。これ、ギャグだったんだな。そういうことに気づけるよりも幼いころからドラえもんを読んでいたもんな。


「アイディアだけなら誰でも思いつく」の話をつい先日もここで書いたが、アイディアにも深度や彩度や明度があり、今、世の中で重要なポジションについている人の多くはアイディアの深度に定評がある。超一流の研究者はアイディアの彩度が高い。一方で、たまに明度だけで勝負しているパターンもあって危なっかしいなと思う。

同じ細胞を見ても人によって思いつくアイディアが異なる。一見、似たようなことを考えているなと思ったとしても、そのアイディアの具体性がどれほどか(深度)、ほかの現象と比べたときの線引をどこまでクリアにできるか(彩度)、その考えを世の中に上手に発信できるだけの言葉にできているか(明度)、みたいなところに差がある。基礎研究者も細胞を使って実験をするが、日頃からずっと細胞を見ているとはいっても病理医とは観察の深度にかなりの差があるので、深度勝負であれば細胞生物学の世界に病理医の居場所は確実にある。一方で、実験的手法を用いてある細胞と別の細胞との違いを明確に表現するとき、その手法に明るくない病院勤めの病理医は、思った以上にアイディアの彩度がぼやけていることがある。明度についてはなんというか、カリスマ性みたいなもので、どこで何をしてきたから明度の高いアイディアを持っている、みたいなことは一般には言えないように思う。

色の三要素でいうと色相に触れていないけれど、研究アイディアにおける色相というのは「いくつかちがうジャンルの研究を同時に進めているかどうか」みたいなところに関わる気がする。ひとつの研究を取り上げたときには色相という言葉を私はうまく使えない。


チクワとネギを入れた耐熱容器に水を張り、豆腐といっしょに500Wで3分40秒加熱し、味噌をとくと、チクワの出汁でいいかんじになった。ネギは甘い。豆腐は味が染みていないがまあレンジで作るならこんなものだろう。腹いっぱいになる味噌汁。主食であるはずのサバが付け合わせのサイズだ。キャベツの適当切りにパックのカツブシを載せて上からふりかけをかけた雑サラダを添えて晩飯とした。筋肉がどんどん減っているのがわかる。そのぶん、脳が育っているならばよかったのだが、なかなかそういうわけにもいかず、ただ、中年が小柄化していくだけの一年を過ごしている。

AIにやらせなかった結果

早朝、札幌から旭川に向かう高速道路で、砂川と深川の間あたりに、「蝉の声に満ちた空間」を通過するタイミングがある。なんとも言えない不思議な感覚になる。車での走行中に聞こえてくる音というのは基本的に「通り過ぎる音」だろう。そのとき耳は自動的に「あのへんからだいたい聞こえてくるなあ」という感じで、音の発生源を感じ取り、さらに、その音が移動することで、自分が今どちらの方向に移動しているかも感じ取る。

しかし、蝉の声に満ちた空間ではこの感覚がおかしくなる。高速道路の両脇に広がる森のほぼすべてで蝉が猛烈に鳴いているために、「場を通過する数秒の間、車の周りの全方向から蝉の声が聞こえてきて、そのせいで音が空間を満たしていると感じるし、車がまるで静止したかのように錯覚する」のである。

図解するとこういう感じだ。


セミが1箇所にいる場合


セミが五兆箇所にいる場合


病理解説をしているときもよく思うのだが、この世には、図で解説するとかえってわからなくなるものがある。逆にそこを文章でがんばって説明しようとした『音の聴こえるメカニズム』は名著だと思う(むずかしいけれど)。



なつがれ俺らの猿と

急な仕事でビリヤード。カンカンぶつかって、最終的にポケットに一個も入らない感じである。ずれを直す気もしないので身をまかせるしかなかった。帰宅時間が読めない。明日の出勤時間もわからない。昼からの予定も未定となり、明後日の朝の目覚めも予測がつかない。そこまでじゃないんじゃない、というツッコミが、過去や未来の自分から届く。今の私はそのすべてをベルクソンの円錐で打ち返す。グリップが細くて握りにくいな。先、折れちゃったな。

あと3分で次の仕事。


3時間経って戻ってきた。ブログの編集画面はもはや他人事にしか見えない。急な仕事でビリヤードってなんだよ。思わず読んで10秒ほど無駄にしてしまう。私の書いたものだから、私にはそのたとえがよくわかる、それでもこの違和感なのだから、私ならぬ人が読んだらはたしてどれほどガクンガクンとつんのめるのだろうか。つんのめればいいと思った。みんなつんのめればいいんだ。そのほうが地に足がついているところも見えるし反動で空も仰げる。

オンラインで医長連絡会に出ている。来月の医長連絡会もしくは病院運営委員会で議題を提示しなければいけないかもなと思う。ワークライフバランスを保つための議題。まあなあ、というかんじ。必死で働く人たちには冷たい世の中だ。しかし、必死で働いている人たちは、そのぶん体温が高いので、世の中が冷たいほうが気持ち良い、くらいまである。

ちいかわは見に行っていない。おもしろいんだろうな。そうかな。私はあの、アニメの、時間の使い方、会話の、間の長さが、あまり得意ではないような気もする。先日、ある技師とアニメの話をしていて、その方はワンピースを1000話くらい、一気に何ヶ月かで見てしまうというのでとても驚いた。一日に何話くらい見るとそれが達成できるんだろう。すごいなあ、と相槌を打っていたら、「でも先生はマンガを読むんですよね。マンガでワンピース全巻読むほうが大変じゃないですか?」と言われたのでもっと驚いた。いやいや、マンガのほうがはるかに早く読めるだろう。そうじゃないのか? アニメのほうが早い? 倍速視聴とかを使いこなせばマンガを読むよりも早い、とでも? いやあカルチャーショックだなあ。びっくりした。でもそういうこともあるのかもな、と思った。人それぞれである。ちょっとこれから議題の説明。そのあと発議。


終わって戻ってきた。喉が渇いている。おしっこに行きたい。なんだかままならないバランスだ。人体というのはなかなかむずかしいものだ。偉い人が「夏枯れ」という言葉を出した。「いまのところ夏枯れの兆候はないようです」と言った。そうか。そうか。よかったなあ。夏に枯れている。

シグナル伝達の不備

ハンス・ロスリングが『FACTFULLNESS』のなかで、「世界はどんどんよくなっている」と書いたとき、そうだな、そのとおりだなと私は感じた。科学とか社会政策というものは都度の障壁や失敗を乗り越えてすこしずつアップデートしており、「昔はよかった」は基本的には存在しない、局所的には悪くなっている部分ももちろんあるけれど、全体を見渡せばすこしずつよくなっている。うん、そうだな、と思った。

一方で、ほしいものが転売目的の買い占めによってすぐに手に入らないのがデフォルトになっていたり、スマホで何か記事をみるたびに画面を覆い尽くす広告の×ボタンを探さなければいけなくなっていたり、インフラは常にあたらしい形で汚染されていて、「昔のほうがまだよかった」という気持ちは常にある。

こういう話題にはどうも、「人間は老いるごとにどんどん失っていく」という、主観の担い手である私たちの側の、揺らぎ、崩れ、立ち行かなさがコンバインしているのではないかという気がする。世界がまったく変化しなかったとしても観測するほうの主体は老化する。風景ではなく眼球が変わる。料理ではなく舌が変わる。それはやるせなさとかままならなさとか哀しさをまぶした膜となって世界を覆う。「昔はよかった」というのは、若かったころの自分の体験がよかったという話と入り混じっている(江戸時代のほうがよかった、みたいな話はまた別だが)。それをわかっているからこそ、ハンス・ロスリングの言葉はカウンターとして多くの人に突き刺さったのではないかと思う。「本当は世界はすこしずつ良くなっている、まあ、俯瞰して見たときは」。残念ながら私たちは基本的に鳥ではなく虫として暮らしており、三千世界の食料問題が以前よりも解決しているからといって自分のまわり数メートルに自分より弱い虫がいなければ飢え死にしてしまう。残念ながら私たちは事実という茶葉そのものよりも、事実を煮詰めてフィルターで濾した茶のほうを喫している。



なんか、優れた詩とか、絵画とか、音楽などによって、この気持ちをほぐしたい、と思った。


そのためにはまず、芸術を受け止めて体の中に刺激を取り込むための七回膜貫通型受容体を生成する必要がある。私のDNAのどこかにあるはずの、受容体をコードする塩基配列は、メチル化によって発現を止められているかもしれず、転写後調節によってRNAがぶち壊されているかもしれず、タンパクまではたどり着いているが遊走に失敗して細胞膜にたどり着いていないかもしれず、細胞膜にきちんと存在するのだけれど共受容体が不活化しているかもしれない。チロシンリン酸化のプロセスに不具合があるかもしれず、シグナル伝達経路のどこかに変異が入っているかもしれない。あらゆるカスケードに問題がなかったとしても、芸術というリガンドが私という細胞に辿り着く前になんらかの免疫機構によって攻撃されて貪食されてしまっているかもしれない。世界はすこしずつよくなっているという。でも、私の体験する事象はすこしずつ老いさらばえていく。だったら私は芸術に頼りたい。時も場所も状況も関係なしに私の心を浄化させるなにものかに出会ってみたい。でも、科学的なシーケンスのどこかに不具合が、いや、それはあるいは不具合ではなく「そういう具合」なのかもしれないが、そういったものがあって、芸術はいまのところ、私をよくしてはくれない。

思い出の押し売り

「麦茶の量産体制に入った」というポストもしくはブログへの言及を2、3か月前にはしたと思うのだがじつは今シーズンはじめて麦茶を作ったのは昨日である。パックを買ったきり忘れていた。細長い容器、あれはなんという名前なのだろう、Googleに文章のかたちで聞くと「冷水筒」や「麦茶ポット」、「ピッチャー」と呼ばれます、と返事がくる。どれもしっくりこないが強いて言うならあれば麦茶ポットだ。麦茶以外にあの細長い形態でなにかを保存すると違和感がある。だし汁にしても、スムージーにしても。ともあれ、麦茶ポットをあらためて洗い直す。ところでここにパックを沈めたら取り出すときどうするんだっけ? 菜箸でつまむんだっけ? 大変そうだなあと思っていたが水を入れてパックを落としたら浮くのだ。麦茶パックは浮くのだ。そうか、そうだったか、だから今まで気にしたことがなかったのか、と感動する。念のためさらに検索すると知らんおじさんのはてなブログが出てきて、「麦茶のパックは浮くときもあるし沈むときもある」という回答が得られる。心底どうでもいいがいちおう元のページを見に行く。すると、

「麦茶パックが沈んだとき、箸でつまめるかどうか、みんなもやってみるといい。へえー、そうなるんだ、と思うから」

みたいなことが書いてあってチキショー読まされた、と思った。まあいい。こういう話ばかり書いているのは私もいっしょだ。あるいは私のブログも今後、どこかの誰かのよくわからない質問に答えるためのソースとしてひそかに暗躍することもないとは言えない。

麦茶は薄めに作るのが好きだ。薄めにしておけばパックは沈まない。



気温は高いが湿度がさほどない。部屋の空気を入れ替えようと思って窓を明けたらいわゆる肥の臭いがただよってきて慌てて閉めた。近くに畑があるのか。もしくはダメな犬の飼い主(ダメな、がどちらを修飾するかはTPOによる)が粗相を放置しているのか。この部屋は住んでみるといろいろ不満がある。夜中にラップ音も鳴る、でもそこはまあ慣れた。北海道に住んでいるとラップ音の一部は夜に建物の木材がきしむ音だなとわかる。ただし、伝え聞くところによるとホラーに出てくる洋館に響き渡るラップ音というのはもっと派手で金属的だという。

金属的な音というとかれこれ30年前、北海道大学の一般教養講義の際に教養棟の大講義室にいたら温水を流すパネルヒーティングのパイプがカン! カン! カン! とずっと鳴っていたことを思い出す。あれってなんの音なのかな。前にも検索した記憶があるが覚えていないのでもう一度。



30年前の北大の教養棟、冬の凍えるような大講義室に響くあの「カンカン」「ガンガン」という音ですね。冷え切った教室にようやく暖がやってくる合図のようなあの音の正体は、主に「スチームハンマー(ウォーターハンマー)現象」「金属の熱膨張」という2つの物理現象が合わさったものです。




1. 蒸気と水が激突する「スチームハンマー現象」

最も大きな「カンカン」「ドン」という打撃音の主な原因はこれです。当時の大規模な建物の暖房には、高温の蒸気(スチーム)を配管にめぐらせる方式が多く採用されていました。

  • 冷えた水(ドレン)の滞留: 暖房が止まっている間、配管内に残った蒸気は冷えて水(ドレン)になり、管の底などに溜まっています。

  • 蒸気の突入と衝突: 暖房のスイッチが入り、そこに高圧・高温の蒸気が勢いよく送り込まれると、溜まっていた冷たい水と激しくぶつかり合います。

  • 衝撃波の発生: 蒸気に押された水が壁となって一気に加速し、配管の曲がり角やバルブに勢いよく衝突します。これが、まるでハンマーで金属管を内側から叩いたような鋭い打撃音を生み出します。

2. 急激な温度変化による「金属の熱膨張」

もうひとつの「パチパチ」「カンカン」といった少し高いきしみ音の原因がこちらです。

  • 金属の膨張と摩擦: 冷え切っていたパネルヒーターの金属本体や配管に熱水や蒸気が通ると、金属が急激に温められて熱膨張を起こします。

  • きしみ音: 膨張していく過程で、パネルの接合部や配管を固定している支持金具との間で摩擦が生じることで鳴る音です。全体が温まって金属の温度が安定すると、この音は自然と収まります。

つまり、あの音は「冷え切った配管内で高温の蒸気と冷たい水が格闘している音」であり、同時に「凍えた金属ヒーターが急激に背伸びをして関節を鳴らしている音」だったと言えます。

今となっては少し騒々しくも感じますが、北海道の長く厳しい冬の朝、大講義室がこれから間違いなく暖かくなることを知らせる、なんとも頼もしくノスタルジックな記憶ですね。



てっきり温水もしくはオイルが充填されていて、それがヒーターとの間を循環しているのかと思っていたが、ご家庭の小さな規模のパネルならばともかく、大学などの大規模なパネルに流したオイルをセントラルヒーティングで温めるというのはむりがあるだろう。そうか、スチームだったのか。今更知らないことが出てくる。ちなみに「もうひとつのパチパチ、カンカン」のほうについては記憶にない。そういう音もあったよねと、記憶に介入され、捏造され、ノスタルジックという感想まで与えられている。

私の記憶や体験が、微弱とはいえ収まっているはずの電子モルグは、私以外の言葉で満たされていて、私の言葉をあとから覆い隠し、「普通ならこの時代に生きていた人はだいたいこうだったよね」と、最大公約数の範囲内で在りし日を偲ばれる。




父方の祖母の先祖なので名字は市原ではないのだが、その墓を、父母はきちんと守っている。ただ、奇妙なことに、その墓のとなりの墓もいっしょに軽く掃除したりしている。聞くと、曽祖父の代に、身寄りのない人の墓が隣りにあるということで、墓触れ合うも他生の縁とばかりにまとめて世話をするようになったとのことだ。そんなことがあり得るのだろうかと、今となっては疑問が残る。残るがこの疑問はどれだけ検索しても解決しない。私が伝え聞いている話もどこでどのように刈り込まれたかは判然としない。50年か、80年か、それくらい前に亡くなった知らない人の記憶を、我が家が守れているかといえばそんなこともなく、ただしぶとい残響を消さないようにほそぼそと、つなぐ先もないままにつないでここまで来ている。空き家問題、墓問題、後継というものが成り立たなくなっているこんな時代に何かを託した人の気持ちを思うとむなしくなるが、いや、まあ、そんな気持ちなんて本当はなかったのかもしれない。石狩川に放精して子孫がいずれ自分の生まれた川から旅立ってまた戻ってくるという「認識」を、鮭たちが持つか、いやあ、めったなことでは、持たないんじゃないか、でもそれはすごい、すばらしいことかもしれませんね、SAMURAI。