代替可能のゆくすえ

投稿論文にくっつけたcover letterが下書きのままだった。投稿したときに精製される「おめーが編集部に出した書類を一冊にまとめるとこれだぞ! いいか! ちゃんと確認せえよ!」というPDFがあるのだけれど、そのPDFをダウンロードだけしてろくに読まずに投稿ボタンを押して、完了、よーしひと仕事したなーと思って、ああそういえばPDFもあったなと思っていちおう開いて見てみたら、冒頭のletterの部分が、Wordの校正が終わっていない状態で赤線とかが引かれまくっている。うわあやっちまった。赤入りのゲラを入稿したようなものだ。あわてて編集部にメールをするが、週末のあいだはとうとう返事がこなかった。まあそうなのだ。どこの国も土日はしっかり休んでいる。月曜日、ようやく「しょうがねーからもう一回投稿させてやんよ」というメールが届いた。メンゴメンゴと再投稿の手続きに入る。

今回の論文は小さな症例報告だが、アクセプトされる前にいろんな学会で概念を話して回った。いま、似たような論文が次々と投稿されているのではないかと思う。あんまりちんたらしていると、「大切な私のアイディア」が、つぎつぎと他人に指摘されて、新規性のないものになってしまうだろう。

まあ、でも、「大切な私のアイディア」なんて、その程度のものである。

それまで誰も気づいていなかったようなアイディア、自分だけが考えついたアイディアというのがあるとする。それはたまにあるように見えるし、実際にあることもある。でも、そのアイディアの源泉となっているのは、近々の学術集会で提供されていたセッションのムードとか、直近の学術雑誌に掲載された研究とかであったりする。すなわち「私のアイディア」の構成成分の9割以上は、世の中のたくさんの人が共有している空気感によって半ばできあがりつつある。

ジグソーパズルのピースを、角は角、へりはへり、青っぽいものは青っぽいものどうし、白っぽいところは白っぽいものどうしで集めて、広い部屋の床にざっと並べて、わかりやすい模様から順番に組んでおいて、あとは細かく目と手を動かしてパズルを完成させるだけ、というシーンに例えた場合、「私のアイディア」の「私」というのは最後の「細かく目と手を動かす」の部分に主に存在する。ジグソーパズルの元絵の製作、ピースへの分割、その仕分けまでは、その時代の専門領域の抱え持つニュアンスがすでに作り上げている。

このことはべつに、論文にだけ言えることではなくて、小説だとか、ドラマだとか、マンガだとか、音楽だとか、絵画だとか、たいていの創作物に言えることだろう。ただ、今、こうして書いてみて、論文を小説やドラマやマンガと同列に扱うべきかどうかをちょっと悩んでいる。なんか違う。でも何かどう違うかと言われると意外と難しい。読む人、見る人のために書くという点ではいっしょだし、人と同じことをやっていてもだめだというのもいっしょだ。扱うものがマニアックでもオーソドックスでもそこは構わないというのもいっしょ。アイディアのオリジナリティが必要だがメソッドのオリジナリティは必ずしも必要ない(でも、それがあってもいい)というのもいっしょだと思う。強いて違いをあげるとすれば、論文は金を払って投稿するもので、掲載されてもとくに金銭的な見返りはないところか。でもそれも根本的な違いではない気がする。彫刻あたりはそこも含めて論文とよく似ている。ああ、でも、そうか、論文はがんばれば誰にでも書けるな、そこはほかの創作物とは違う。あと、AIが手助けすると基本的によくなるというのも論文だけの特色だろう。

大切な私のアイディアがじつは既存の概念の寄せ集めで、巨人の肩の上でシュプレヒコールをがなっているだけだったとして、それで「大切な私」が毀損されるわけではない。ただ、「AIが手助けするとよくなる、大切な私」というのはなかなかハードな文字列である。

気遣いの津波

結局Switch2にゴエモンもリズム天国も入れないまま過ごしている。というかSwitch2が手元にない。だらしない日常を送っている。仕事と仕事の合間で、スマホに入ってる古いKindleの、何度も読んだマンガを順々にローテーションして、だらだら眺めているうちに次の仕事の予定がやってきてまたそっちに取り掛かる。体幹の筋肉がやせおとろえて、座っているだけでなんとなく全身がたるんで、ジャバ・ザ・ハットのようなシルエットになっている。体重は減ったのに輪郭が広がっている。全体的にエントロピーが上昇している。ヒコロヒーはエントロピーが低いほうの人類だなと最近よく思う。

AIに作らせた文章を読んでいるときのつまらなさを日常からもじわじわと感じ始めている。最適化されたアプリに囲まれて、80点満点中の80点の暮らしを達成している。100点を目指して暮らすのがよいとは思わないけれど、100点を遠くにみながら55点とか83点とか、上下に揺れながらやっている感じが楽しかった。今、そういうのがちょっと感じづらくなっている。



先日、飲み会で、ロードスターに乗っているという人がふたりいて、ああ、それはカッケーなと思った。私は自分の乗る車に興味がないが、人の乗る車についてはわりと興味があって、デザインにしてもスペックにしても語られることは楽しい。京都の町中に大雪が降った日に、ロードスターの上にどっさりと積雪したところをスマホの動画で見せてもらった。ヘッドライトをパカっと開けて雪をどける感じがチャーミングで楽しかった。ほかにもその飲み会には、RX-78みたいな名前の(違ったと思うがそこは覚えていない)レクサスに乗っているという人もいて、その日ははからずも車の話に花が咲いた。そして、そういう流れだから当然のように、私にも「何に乗ってるんですか?」と質問がくる。私が国産のよくある普通の車に乗っていますと答えると、その場の人たちはきちんと空気を読んで、「ああ、◯◯、いいじゃないですか!」とこちらを褒めてくれる。そこで、すんと気持ちが冷めた。私は、ロードスターやレクサスが「いい車」だと思っている。その観点でいうと、◯◯なんてちっともいい車じゃない。私は「自分から見ていいなと思う車」というのはしっかりあって、それはそれとして、いい車に乗りたいという気持ちがないから◯◯に乗っている。私は自分の車を「いい」から選んで乗っているのではない。「よくない」けど「これくらいでいい」と思って乗っている。自分の車を「よさ」で選んでいない。こういう場面で周りが気遣いながら「いい車ですよね」なんて言葉を選ぶとき、そのやさしさをありがたいと思う気持ちが8割だが、いや、そんなわけないじゃん、と感じる気持ちがしっかりと2割ある。あなたの車をいいと思う感性の持ち主が乗って喜ぶ車なわけないじゃん、と思う。

私は自分が乗る車については55点でいいのだ。45点でも35点でも構わない。でも、やさしさの満ちる場ではしばしば、「55点が考えようによっては80点になる理由(ワケ)」みたいなものがどこかからか湧き上がってきて、私の人生をむりやり80点に揃えようとする。湿度と粘性の高い津波のような気遣いで空間が満たされる。そのほうが傷つく人が少ないのだろう。そのほうが悲しい思いをする人が減るのだろう。世の中はいつも持続性のある方に向かって調整されていく。今のこのほうがたぶん総体としてはいいことが多いのだろう。つまらないなと思う。私は、自分の車はそっちのけで、他人のかっこいい車の話をしていたかった。

帰路

広島から羽田に向かう飛行機の機材が変更になった。国内線機材から国際線機材に変わったらしく、なら映画とか見られるのかなと思ったが、あとで実際に乗ってみたけれどべつにそういうことはなかった(提供するサービスまで変更になるわけではないのだろう)。

問題はフライトが45分遅れてしまったことである。機材の変更に伴いおそらく座席調整が必要となったのだろう。15分くらいまでならまだしも45分遅れてしまうと、羽田で旭川行の飛行機に乗り換えることができない。アプリには、私が本来乗るはずだった飛行機のスケジュールの下に、一本遅い時間のフライトが表示されている。こちらに乗れということか。しかし、二次元バーコードが出てこないので、この変更手続が自動で終了しているわけではない。「予約はアプリからは変更できません」と表示されている。カウンターでの手続が必要、とある。広島のホテルで私はしばし考えたがここでできることがほとんどない。とにかく空港に移動しなければ何もできない。

今回のチケットを、往復・乗り継ぎの早割というやつでとっているのが仇となった。予約の変更ができない。復路便のうち、広島→羽田だけを取り消して、新幹線で急いで羽田に移動すれば、本来の旭川便にぎりぎり乗れるかもしれなかった。でもアプリから予約の変更ができない。

こうなると腹をくくるしかない。旭川に戻ったあと、夕方に出勤して、夜中までかけて水曜の午後から金曜の昼までの仕事を一気に片付け、明日の朝に札幌に移動して地方会に出る予定だったがそこをいろいろ見直す。抱えている仕事は多いが急いでいる仕事はない、それはこういうトラブルがいつ生じてもいいように、常日頃からTATを早め早めに回していることの賜物なのだけれど、とはいえ、今日このあとやるべきことができなければ、それは来週の頭の私にタスクをたくさん残して次の出張に行かなければいけないということであって、正直、気が重い。気が重いけれど、腹をくくるのだ。不可抗力、自分ではどうにもできないこと、それはしょうがないとあきらめるのだ。というか、仮にこれが「自分でどうにかできること」だったとしても、なんでもかんでも自分で解決しなければいけないという義務感に首をしめられる必要も本当はないのだ。多少、ゆるんだほうがいい。ひどい目にあっているときは、腹をくくってその状況を受け入れて、あまりあれこれ思い悩まずにうまいものでも食う、それくらいでちょうどいいのだ。

PCを開いてメールに返事をする。共同研究の話、コンサルテーションの話、講習会の案内、打ち合わせのスケジュール合わせ、その中に、スタッフからさっき届いたばかりのメールが入っていて、「今週の私の仕事が少ないので、なにか見るものをくれないか」という内容のことが書いてある。そうか、優しいな、と思った。この二泊三日で私のタスクが積み上がっているのをみて気を回してくれたのだろう。仕事をしてくれることがうれしいというよりも、そうやって気を配ってくれていることがうれしいなと思う。

さてなんと返事をしたものかと少し考える。



もみじ饅頭の入った紙袋が指に食い込んで、私は少し汗ばんでいた。空港ロビーのキッズスペースから親が制御できない声で大騒ぎしてドタバタ遊び回る嬌声が響き、それがいつしか悲鳴に変わって、興奮した子どもたちが頭でもぶつけたのか大泣きして、周りの大人たちの空気が失笑半分、同情半分に変わっていくのが肌に伝わる。札幌行きの飛行機が今から飛ぶとアナウンスされ、あれ? 私もこれに乗れば帰れるんじゃないか? と気づいてカウンターに歩いていって、「すみません、遅れて乗れないと言われたんですけれどこの飛行機には乗れるんじゃないですか」と尋ねる。地上係員は、そんなことあるんだろうか、という気持ちを隠しながら対応をはじめる。しかし私は途中で気づく。札幌行きに乗ってもだめなのだ、私は今日は旭川行きに乗らなければいけないのだから。あっと声を出して係員さんを呼び止め、すみません、間違えました、私は旭川に行くんでしたと言って謝り、その場を辞する。青森行の飛行機が遅れているというアナウンスが流れる。緑色の髪の毛をした人が数十メートル先の椅子に座っている。眼の前に座る中年男性が靴を脱いだ。私はなんだか、猛烈にさみしい気分になり、しかしまあ、さみしさに気づいているときのほうが、さみしさに気づかないでいるときよりもマシなんだよな、と思った。

病理医アサイーボウルです

何周回ってそこなんだ、と思われてもしかたないのだが、最近、トマトってすばらしい野菜だなと思う。トマトを買って料理をすると、その日の晩飯がなんだかすごく厚みが出る。ほかの野菜にはない味、ほかの野菜とも合う味、両方を達成している。おまけに調理法が幅広い。切るだけでもそもそもうまいし、なにかとあえてもいいし、加熱してもいい感じだ。保存もラクである。だいたい年中手に入るのもよい。家庭菜園で作れるというのもぐっとくる。幼稚園児に「やさいの名前、言える人~?」とたずねたらしばらく後にはトマトの名前が上がるだろう、そういう、幼子にとっても知名度の高い野菜というのにはやっぱりそれだけの実力がある。

いんげんも見直した。あいつらレンチンだけで見違える。ちょっと塩を振って魚のヨコにしのばせてフライパンでいっしょに加熱するだけでも「料理」という感じだ。使い勝手がいい。トマトに比べると幼子における知名度は低いだろう、しかし、とうのいったおじさんにとっていんげんというのは実に便りになるいぶし銀だなと感じる。

ナス。ありがたい。だいこん。さすがだ。玉ねぎ。頼りになる。きのこ。すごいやつらだ。

「定番にはわけがある」というキャッチコピーを、むかしテレビで聞いたことがあるかもなと思って検索したけれど、都合のいい読み替えとハルシネーションでなんだかよくわからなかった。でも、まあ、そういうことなんだろうな、と思う。選択圧とか生存バイアスの話をたまにするけれど、現代において「有名」なものというのは、たくさん人びとに試された末にそうして残っているものなのだから、たくさんのメリットを有し、複数の場面で役に立ち、デメリット的にも許容できるものばかりである。


私自身がさほど興味を持てないでいるけれど、野菜なみに世の中にたくさんあって人びとの信用を得ているものはほかにもたくさんある。たとえば整髪料だ。私は中年男性がなぜ髪の毛にいろいろ塗ったりするのかいまいちわからないでいるのだけれど、たぶんそれも、自炊をしていなかった時期のトマトみたいなもので、自分で使ってみればその使い勝手の良さというのが次から次へと明るみに出るものなのだろう。ほかにもたとえばマッサージなんてのもある。貴重な休みの日に1時間も消費して体をもみほぐしてもらったからなんなんだという気持ちがずっとあって、なぜみんな医療におけるtime toxicityみたいな考え方をしないのかと不思議でしょうがないのだが、いざ、自分が受けてみればきっとすごくいいのだろう、だって社会にこれだけ定着しているのだから。ゴボウなんて皮を剥くのがめんどうで買う気がしないよと言った私に「皮ついたままでもうまいよ」と妻が言ったとき私はほんとうに天地がひっくり返るほどの衝撃を受けたし実際皮付きのゴボウはうまくて、かつ汁物に入れてもいいしサラダに入れてもいいしでその使い勝手はとてもよくてさすが有名な野菜だなと改めてゴボウを尊敬申し上げたりしたものだ。マッサージもそれといっしょなのかなと思う。あとちょっとニュアンスは違うけれど、タバコとかパチンコのような、現代においてはそろそろ悪とみなされつつあるものについてもきっと、なんか、理屈も感情も両方にいい感じで刺さってくるものもあるんだろう、ただまあさすがに今の私がこれらに手を出そうとは思わないけれど、残っているものにはそれだけの芯の強さがある。


むりに記事をまとめる必要はないがこういう話を考えているときにたまに思うのは、「病理医ヤンデル」はトマトではなかったな、ということだ。チアシードとかキヌアとか、それくらいの存在ではあったかもしれない。しかし少なくともそれはオクラではなかったしチンゲンサイでもなく、豆腐とか海苔にはまるで叶わなかった。なんの話をしてるんだと混乱している人がいるかもしれないが知ったことではない。私は本当は、病理医ヤンデルを、アロエとかナタデココくらいには育てたかったんだよなと、あの頃を思い出して下を向く。

自分大好きっす

次々と人に会う日、まったく人に会わない日、そういうのが交互にやってくる。あるいは、ある一定の期間はずーっと人に会うんだけどまた別の期間はずーっと人に会わない、みたいなことがまま起こる。

人に会ってなにかを成し遂げるのにはたくさんの才能と努力が求められる。

一方、人に会わずになにかを成し遂げるのにもたくさんの才能と努力が求められる。

両方とも、「成し遂げるには才能と努力」だ。でも、「成し遂げ」じゃない部分、「遂げる前」の部分、すなわち過程においては、才能でも努力でもなくて心がけとかattitudeとか、あるいは運とかめぐりあわせといったものがものを言う。

才能と努力で切り開いていく、というのはじつはうそなのだ。人柄と功徳。流れとラック。そういったものが日常の時間には満ちている。そっちのほうばかり体にぶち当たってくる。

そして、最後の最後、結果だとか成功だとか数値だとか目標みたいな場所にやってきたときにぽんと顔を出して存在感を発揮するのが才能と努力である。

だから、才能と努力については、なんだよーという、ちぇっという、そういう気持ちで向かい合っている。

結果が必要な人間にとっては才能と努力が気になるだろう。

そうじゃない場合は才能も努力もわりとどうだっていい。

途中の感情を大事にするなら気にするべきは「自分が意識して・無意識にまとう雰囲気」と「偶然のいたずら」のほうなのかなと思えてならない。




妻に言われてそうだなと思ったのだけれど私はちかごろ人や場所のニオイをやたらと気にしている。飛行機で隣にすわったおじさんの汗がくさい、とか、タクシーの運転手がさっきまで吸っていたタバコがさあ、とか、そういうことをよく言っているらしく、「気になるんだねー近頃は」と言われてなるほどと思った。なぜ周りのニオイを気にするかというとそれはおそらく自分のニオイが気になっているからだ。誰かと会って話すとき、自分の汗とか口のニオイで相手がひそかに嫌がっていないかということが気になる。別に相手がにこにこ応対してくれているのだから、たとえ私がなんらかのニオイを発していてそれが相手に届いてしまっているとしても、少なくとも笑顔でやりとりしてくれている間は大丈夫……と、考えたほうが精神衛生的にはよいのだと思うけれど、どうにも割り切れない。理屈ではなく感覚の話として、もし自分がなんらかのニオイを発していたら、それによってなんらかの功徳を失うような気がしてならない。それは、人に会う期間だけでなく、人に会わずに仕事をしている間もずっと気になっている。誰にも会わずに部屋にいるだけなのだが自分からなんらかのニオイが漂っているかと思うときついし嫌だと感じる。心のありようだとか、運だとかいう以前に、ひとまず体とか口の中をしっかり清潔にしなければ、「過ごしている最中」がくすんでしまうように思う。こういう話を人にしたところ、ほぼ即座と言っていいスピードで、「自分が大好きなんだね」とリアクションされたのだけれど、そうなのだろうか。自分のことが気になってしょうがないってことでしょ、とのことなのだが、果たして、そうなのだろうか。

人前でしゃべるのが平気だってことは自分が大好きってこと。SNSで一人語りするってことは自分が大好きってこと。ブログなんて書いてるってのは自分が大好きってこと。そうなのだろうか。「自分が好き」ではなく「自分が大好き」には悪意が感じられるが、果たして、私のやっていること・気にしていることはどれもこれも、「自分が大好きだからだね」で片付けるべきことなのだろうか。それもちょっと雑な気がする。とはいえここで、「私は成功とか達成とか最終目的地ばかりを気にしているのではなく、過程において誰かと関わり、また一人で考えることを豊かにしたいのであって、そのときに必要なのは自己愛とはたぶん似て非なる自己分析であり、なんなら私は自分のことがうっすら嫌いで」などと抗弁しても、はいはい、語れるくらいには自分が大好きなんだね、と言われてあじゃぱーとなる。そうじゃないんだけどな。たぶん。