忘れなw

あと12分で研究会がはじまるのでヘッドセットをつないだ。もう頭にかけてしまう。直前でいいのだが、内側から脈動してくる熱が頭蓋骨を破裂させそうで、早めにヘッドセットで抑え込んだほうがよさそうだった。研究活動スタート支援の学内書類締め切りが来週に迫っている。同じ日に病理学会総会がはじまりたくさんの細かな仕事が待っている。飲み会の店の予約を3件ほどした。そのすべてに私はいかない。全国から集まってくる病理医のためにいい店がないかと聞かれて、はい、おまかせください、と言いながら食べログで適当に検索して行ったことのない店をつぎつぎとあてがった。私は別に札幌の飲食店には詳しくない。そんなに飲み食いした記憶がないからだ。うまいものはうまいと思う。けれども「うまい店」というのがどれだけあるのかいまだによくわからない。「きれいな店」に行きたいならば、きれいな店以外ではたちまち機嫌が悪くなる人びとにたずねるのが一番よく、「めずらしいものを食わせる店」に行きたいならば、ありふれた料理を食うとすかさず機嫌が悪くなる人びとにたずねるのが賢い選択で、私はそのどちらでもなくて、こ汚い店でも飯は食えるし毎日同じものを食っても満足はしてしまう。こういう私のような人間は飲食店を覚えない。人の顔も覚えない。先日、ある珍しい病理診断をして、カンファレンスで「これはじめて診断しました」と言ったら、「先月も全く同じような症例を紹介して『これはじめて診断しました』って言ってたで」と言われて笑ってしまった、私はなにも覚えない。ちなみに今のくだりも、もしかしたらすでにブログで書いていたかもしれない。


何か月かに一度だけ、寿司やらうどんやらの画像をポストしている人、というのにフォローされた。何か月かに一度というのがいいと思った。こういう使い方は人には刺さらないかもしれないが、おそらくあとでふりかえったときに、自分の表皮の角質層あたりに軽く刺さることがある。垢といっしょに剥がれていく程度の記憶である。


ぎちぎちに詰め込んだ予定の中で優先順位を付けて、とにかく来週までにいったん書き終える必要がある、その後おそらくさらに手直しをするにしてもまずは来週とにかく第一次提出をしなければいけない書類、これを先にこなすべきだということは完全にわかっている。ただしわかっているというのと覚えているというのは別のことである。たくさんのタスクをすっぽり忘れて、岡山から送られてきたプレパラートをバーチャルスライドに取り込み、癌の深部に存在する血管の弾性板と平滑筋を眺めてスクショを撮ってパワポに組む、この作業に7時間ほど費やしている。先ほどすべての記憶が一時的に戻って私はパニックになった。な、なぜ私は今、こんなに手間のかかることを、なぜ今、えっ、どうして、まだ、来月やっても間に合うのに、ちょっと、なにを、みたいな右往左往をして、忘れて、またPCに向き合って延々と論文を検索している。忘れなければ、思いが入らない。忘れないでいると、過去にやり終えた満足の境界線で自分を囲い込んでロックしてしまう。忘れることではじめて、忘れているからこそ、忘れられるだけに、私は私を変貌させながら、そのじつ、同じことに何度も心を動かされているだけなのだとはしても、なんだかずっと遠くに向かって歩いているような錯覚に浸っていられるのだ。

コスレプイヤー

 子どもでも知っているような野菜。にんじん、だいこん、ピーマン、たまねぎ、ナス、キャベツ、白菜。こういったものは、やっぱり、名が知られているだけあって、食えるなあ、食いやすいなあ、みたいなことを考える。ふつうのもの。よくあるもの。あたりまえのもの。それらはすべて、生き延びてきたもの。すり抜けてきたもの。調味料にも言える、レシピにも言える。有名どころにはわけがある。


そしてこの、「有名どころにはわけがある」というセリフ自体も、さまざまなところでさんざんこすられていて、よく聞く。つまり、生き延びてきたものなのだな。表現にも言える、しぐさにも言える。


先日読んだマンガ『サラウンド』の中に、トイレでゆっくり過ごす姉の話が出てきた。そこをよく描いたな、と思ったし、わりと何度も見聞きした話でもあるな、と思った。けれどよく考えると、この、「トイレにマンガを置いといて、そこで長く過ごす」みたいな話、聞きはするけど実際にそうしているという人に会ったわけではない。つまりこれは、「遠くで語られる系の話」なのかなと思う。本人の口からは聞きづらいエピソードではある。


思えば私が覚えている話の大半が、この、「直接体験した当人から聞いた話ではないのだけれど、どこかからか誰かの話が流れ流れていつのまにか耳に入った話」ばかりだ。


技術によって体を拡張し続けた結果、体験したはずのものがどれもみな、体から遠くにあるようになってしまったのかな。



ある学会の会議に出ていた。あまり興味はなかった。終わりがてら、遅刻してきた一番偉い人が、学会の事務にあたるスタッフにいきなりブチ切れた。

「仕事が遅いんだよ! こっちはみんながまんの限界なんだよ! プロの仕事をしなさいよ!」

あーよく聞くけどこれ目の前で見たのはじめてだな、と思った。でもZoomの中で起こっていることは、べつに目の前というわけではないのだ、本当は。接続を切ったらまた一人でいる。首元の鈍痛を何度も何度もこする。

病理学

私の脳が環境をみて理解しようとするとき、私が振る舞うように世界も振る舞っているのだろう、私の則っている法にもとづいて世界も動いているのだろうと、私はあまり深くを考えぬままに前提を用意する。そのようなフレームの内部で環境の解析をする。

私の脳が私の外縁に私の暮らしやすい環境をつくるとき、私と違うものを私に接続することはせず、私の延長たるものを、私を敷衍したものを、私に近い順番に配置して、私から通電できる範囲で通電して、それを環境と呼び、世界と認識する。

これらはいずれも、私の脳が、フレーム問題を回避するために遠い遠い先祖から受け取ってきたべんりな仕組みのひとつである。

もし、世界が私の思いの及ばないところで、私の体のなにかに例えることができないかたちでも駆動しているとしたら、うん、それは確実にそうなのだけれど、かくある私の脳が、「そんなことまで考えなければいけないとしたら」、すなわち、私がふだん自分を動かすのに使っていない理屈まで勘定に入れながら日ごろの思考を組み立てようとしたら、脳のキャパシティはすぐに足りなくなる。命の続く時間のうちに思考を終わらせることができなくなる。AIならばそうやって、隘路の先で無限小に収束するような思考に惑溺することもあるのだろうけれど、限りある時間のなかでいくつかの欲望を満たすために思索をこねている私の脳はそういうわけにはいかない。フレームを小さく切り取るために、私は「世界を私として理解する」ように、自然となっている。


『ラス・メニーナス』の天井の暗がりにもなにかが描かれていることに気づいたとき、私はそれに光をあてることを「科学」だと感じた。しかし、灯りがあてられ視線が向けられたところが「見えている」、そうでないところが「見えていない」、この両者は、私を介してあたかも差があるように感じるけれど、実際にはそのありようにはなんの差もなくて、それはすでに世界にとっては同じように明らかであったものたちにすぎなくて、私が私のやりかたでのみ、明るさと暗さとを感じていただけにすぎなくて、グレースにとっては差があるように感じられていたかもしれないがおそらくロッキーにとっては対等に感じられていたものだろう。

そこの光のあてかたをもって「科学」というならば、おそらく科学というものは世界をあきらかにするための道具なのではなく、自分をあきらかにするための道具なのだろう。

こういうものを目を使って書いている

ジャンプを読むのが一週間の楽しみだ。つい最近、ジャンプを紙では買わなくなり、スマホで読むようになった。そっちのほうが月額料金が安いから……と、人には説明しているけれど、じつはそうではなくて、職場が変わって移動ルートが変わった結果、朝にコンビニによるのがなんだかめんどうになってしまったというのが理由である。前の職場の18年、月曜日の朝にはたいていコンビニに寄っていた、それがあっさりと終わった。結果、特に何かが大きく変わったわけでもないが、マンガというコンテンツの「サイズ感」みたいなものは変わったように思う。やっぱりスマホの画面は小さい。ただ、それよりもなによりも、質感だ。ドラゴンボールもスラムダンクもNARUTOもジャングルの王者ターちゃんもこち亀も、ざらつくようなあの、わら半紙の肌触り、読み終えたあとの親指に付着するインクと共に思い出されるものであった、ワンピースだって100巻以上そういうマンガだった。けれどもさむわんへるつは違う。さむわんへるつの灯りは自分の頬を照らすが私の指を汚さない。なんだかそれは、紙の雑誌にずっと触れ続けてきたことは、私にとって、けっこう大きな「世界との接し方」なのではなかったかということを、今日は思う。

指と脳はくっついている。そんなことは誰もが知っていることだ。そして私はここのところ、指と脳を少しずつ引き剥がしている。目ばかりだ。目ばかりを使うようになっている。




寝ていた間からなんとなく左目がかゆくて、まつげが目の中にくるりと入り込んだのかなということを考えていた。軽くごしごしとまぶたの下のあたりをこするけれど、ゴロゴロがよくならない。しばらくふとんでぐだぐだしているうちに、おやっ、あっ、と思って、がばりと起きて、伊達メガネもかけずに洗面台に向かうと、右目の下のあたりががっつり腫れているようである。いやいやどうした。しかも鏡に顔を近づけてよく見ると、腫れているのは実際には「目の下のあたり」ではなくて眼球、白目そのものなのでさらに驚いた。黒目に影響は及んでいないようで、右目でものを見ることはできる。しかしなんだか邪魔っけだ。ものもらいか。それだけでここまで腫れはしない。寝ながらこすって傷つけてしまったか。まぶたを少し開いて中を見てみる、白目がしっかり腫れて充血している。できものはないようだ。さて。目やにが溜まっているというより、膿なのかもしれない。このままだと出勤もきつい。しかし、このままかどうかはわからない。まずは飯だ。飯を食う。飯を食うのに目は2つも要らないのではないか、と思ったからまずは飯だなと思った。しかし、目というのはやはり、2つあったほうが具合がよいようだ。黒目だけではなく白目にもいろいろ助けられて毎日を送っていたようだ。白目のありがたみがわかる。冷凍ごはんを解凍してからご飯茶碗にパコと入れるだけのことでも少しおずおずとしてしまう。お茶漬けを作るためのお湯を沸かすやかんを持つ手も少し慎重になる。この目がこれからどうなるのだろうと考えると、味もあるんだかないんだか、もそもそと無味のものを食っているような気持ちになってちっともおいしくない。いや、いくらなんでもおいしくなさすぎると思ったらお茶漬けの素を入れるのを忘れていたので今のはつまり私はお湯ご飯を食べていたのだなと知って逆に安心する。

あくびを繰り返して涙を流しているうちに少し楽になってきた。そうか、今がピークというわけではなく、夜の間に極期は過ぎていたようだ。これなら出勤してしばらくがまんしていればおそらく腫れは引いてくるだろう。さきほどまでの不安が急速にしぼんでいく中で、ならば、この白目、ちょっと触っておこうかなどと、しなくてもいいオイタがふと思い浮かぶ。さすがに指で直接という気にはならなかったので、まぶたを閉じて、上からぷにぷにと、眼球の白目のあるあたりを押してみる。

この程度の、たかだか高さ1, 2 mmの腫れによって私はここまで動揺させられるものなのだ。

私はこんなに目にばかり頼っている。生活も、運転も、診断も。いやなことだ。こんなにひとつの器官に依存しているなんて健全ではない。目を捨てて、街に出よう。靴も履けないだろうけれど。

有閑でもいい

場所が変われば作法も変わる。大学のルールをいろいろ覚えているが、手続き、手順、といった以前に「もののみかた」「もののかんがえかた」みたいなところからわりと違う。内部にいる人にとって当たり前のことがなかなか理解できない。理解できないというのはどういう感覚かというと、言語が違う、というかんじだ。語順はいっしょなのだが単語がわからない、ということもあるし、語順というか文法が異なる、みたいなこともあるし、ときには方言的なものによってディストーションがかかっていると感じることもある。もっとも、ゆがんでいるのはいつも私だ。私は私のゆがみに直面する。もしくは背中合わせで接して察する。せいくらべのとき、背中を柱にぴったりつけて、頭を思い切り上に伸ばそうと思っても、円弧になった背骨のすきまはどうやっても埋めることができない。なるほど私の背丈というものは、左右のゆがみを矯正すればいくらかは伸びるが、前後のゆがみだけはどうやっても直すことができない。それが直るのは肉が朽ちて骨になったときなのだろう。そして私は筋肉によって、圧を逃がし、ばねのように全身を支える、このゆがみによって毎日歩いたり考えたりしているのであって、そのゆがみというものは私の内奥に食い込んで決して引き剥がせるものではない。

ゆがんでいることを引き受けようと思う。


あるいは、湯がくのもいい。

他者の幸せに私の肉を、しゃぶ、しゃぶ、通して、ポン酢をつけて、一口、途端に広がるうまみ。あくを飛ばし、熱を入れ、しかし入れすぎない、そういう処理が料理としてのひとつの極みにあることは、おそらくなにかのメタファーになるのではなかろうか。

私は自らのゆがみを引き受け、他者でさっと湯がいてようやく、ほどよい味になる。


エスコンフィールドが楽しそうだ。野球がはじまった。あまり見られてはいないが、世のどこかが愉快になっていることに対して、悪い気はしない。せめて、そろそろ『球場三食』を読み返そう。あれはすばらしいマンガだと思う。特別編としてエスコンフィールド回を単発でアフタヌーンに掲載してくれないだろうか。