小田和正の7枚目のアルバムタイトル

もちつもたれつ? 因果応報? なんという言葉を使うのがよいのかはよくわからないのだけれど、私は、なにかを得る場合、代わりになにかをどこかで失っていなければバランスがとれなくてちょっと気持ち悪いと感じる。公平仮説的なことを言いたいのではなく、商品と料金みたいなことだ。たとえば、火力発電で電気を得るためには化石燃料を消費する必要がある、というのはシンプルでわかりやすい。そこまで生活から距離をとらなくても、それこそパンを買うなら代金がいる、みたいな話でもいいし、たくさん考えたら腹が減る、くらいのぼんやりとした「失い」であっても納得はできる。で、まあ、ほとんどのものはそういう、支払いモデルで丸くおさまるのだけれど、昔からかねがね、心のどこかで納得できていないのが「風力発電」だ。あれはなんというか、なにも失わずに電力だけ得ている、ズルいやりかただなという印象が、この年齢になってもずっと残っている。ひどい言いがかりみたいだけれど印象の話なのであまり目くじらを立てないでほしい。まあ、風力発電も厳密には失うものはあって、景観が壊されるだとか、希少な猛禽類がプロペラに激突して死んでしまう痛ましい事故があるとか、そういうことを言い出せば、「失わないことなんてないんだよ」みたいな話にまっすぐつなげていくこともできる。でもそういうことじゃないのだ。今ここで私が言いたいのは、倫理とか正義の話ではなく、もっとばくぜんとした、身も蓋もないコトをいうと「おとしまえ」とか「けじめ」みたいなものから風力発電は逃走している気がするなあと言いたいだけなのだ。いいとか悪いとかではなしに。

書くのがむずかしい話だなと思う。書くのが簡単な話というのがどれだけあるかはわからないけれど。

思えば、子どもが笑ってかわいいね、みたいなことは、書くのがすごく簡単だなと思う。いや、まあ、「よく読ませる」のはむずかしい。でも、書くこと自体は容易である。「子どもが笑ってかわいいね」と書いた言葉が、自分の心の動きを、雑ではあるが真ん中のあたりできちんと言い表していることが、「簡単に書ける(ただし繰り返すがそれが上手かどうかはまた別)」という感覚につながる。けれども、「風力発電はなんかずるい」みたいな話は、どうも、「なんか」も「ずるい」にしても、じつは「風力発電」にしても、ほんとうはそれが真ん中にある話じゃないんじゃないか、というニュアンスを、マントのように装着し、ひらひら翻していちいち目障りだ。こないだのブログで書いた諷喩の話、またそういう、寓意的なことをやりたいんだなと思われがちでもある。しかし私は、風力発電ってなんかずるいと感じるのって俺だけ? みたいなことを書きたかったわけだし、それをずらしてなにかに持っていきたいわけでもなかったのだ。にもかかわらず実際こうして書いてみると、「なんかずるいってのもへんな書き方だな、そうじゃないんだよな」となる。こういうのがまさに私にとっては「書くこと自体がむずかしい話」だなと思う。語彙があればいいのか? 文体が整っていればいいのか? そういうことなのかもしれないが、違うかもしれない。書いて、違うと、自分の反応を用いて、それをニトロとして次の爆発から推進力に変える、みたいなことなのか。それもいまいちずれている。うまく整理しきれていない。整理? 未整理のほうが筆が乗るということはないか? 筆? 炭のつながりの過程で文字が次の文字を連れてくるということもかつてはあったのだろう。それはもしかすると、きっちりと←送りバントを決める、のような、口にしっくりくるセットみたいなものとも似て、意味から文字が離れて踊っていく機会を増やすための仕組みだったのかもしれないし、意味から離れた文字のつらなりがかえって意味を照らし直すという効果にも繋がっていたのかも知れない。キーボードだとそのやりとりは失われただろうか。失われていないだろう。Tubular adenoma, low grade. という文字列をキーボードで打つときの、指の動き方はどこかバイエルをひく子どもの指先のようで、これをTubulovillous adenoma, low and high grade. と書こうとすると途端にぎくしゃくになるが、私はこの、Tubularのarのあたりからovviと指を打ち替えるときの、「よっこらしょ」のブレーキ感覚の最中に、顕微鏡で細胞配列が「管状」tubularのときと「管状絨毛状」tubulovillousのときの、なんとも言い難い、「重力加速度の違い」のような差、どこか体が一方向に持っていかれるときの不快もしくは快みたいなものを形態から感じ取るその瞬間の圧を、指にブレーキをかけるときの圧と重ね合わせて、細胞像をもう一度ふりかえるという「面倒」を乗り越えるための推進力にしている気がするのだ。つまり、違和があって、差異を見比べて、それを言葉にしながら待てよとふりかえる、その動き自体を私はけっこう歓迎している。でも、風力発電? っかあー! みたいなときの違和とか圧を私はべつにうれしいとは思っていないのだった。そこの違い。そこのずれ。そういう話を私はしたかったのか? そうかもしれないし、違うかもしれない。

ところでダーとはなんですか

査読が早い、とされる雑誌に投稿したらたしかにかなり早く結果を送ってくれて、それがだいぶ高評価でminor revision程度だったので、やったあ、楽勝、と思って4日くらいで再提出したのだが、そこから3週間くらい返事がない。Acceptされ次第、もうすぐしめきりの助成金の申請書に業績として書き込んで応募しようと思っていたのだけれど、ぎりぎり間に合わないかもしれない。産みたてホカホカの卵を使って卵かけご飯にしても、思ったより食感がよくなかったりする、みたいなことをやっている。論文とは研究費(の申請)にとって、ご飯に対する卵のようなものだ、と、直喩でうまいこと言った気になるも、あまり、うまくない。あまりうまくないと言えば、昨日、もめん豆腐にカツオのふりかけをかけて、塩昆布を乗せて、手軽でうまそうな一品が数秒で出来たと喜んだ。しかしせっかくだからあっためるか、と思ってレンジで1分ほどポピしたら、もめん豆腐から出た水分でふりかけの「渇き」が奪われ、塩昆布の歯ごたえと表面に浮き出た塩の部分が流れ去り、なんだか全体にぐにぐにしたあたたかいだけの食べ物になってしまって、ダーとなった。付け合せ、取り合わせ、むずかしい。ありふれたレシピを離れてうまいものを作るのは素人には荷が重い。歴史の選択圧を通過してきたメニューたちの強さを思う。「味噌汁 具の組み合わせ」で検索して出てくる画像の大半を食ったことがある。料理をたくさんするようになって、はじめて、よくある食べ合わせのみごとさに舌を巻く。Google検索のない時代から、親も、祖父母も、あるいはどこぞのホテルや旅館や病院の食堂やらの厨房のひとびとも、自然とたどり着いたレシピというのがあって、それはこうしてあらゆる情報がいいねによって瞬時に精査されていく時代にも、きちんと残り続けている。同様のことは、がんゲノム時代以降に信じられないくらいたくさんの新規研究が行われているにもかかわらず、決定的なドライバー変異が新規に発見されることがないというのにも似ている。似てはいないか。

アレゴリーって日本語でなんていうのかなと検索していると「諷喩」だった。ちょうゆ、豆腐にかけたい、みたいなことを考えながら読み仮名をさがすと「ふうゆ」。公瑾である。類義語、「ぐうい」。竜馬である。新世紀エヴァンジェリアンあたりからオタクはおろか一般人のあいだでも「何かを表してるんだろうけれどそれが具体的になんなのかは一切語られない→考察のしがいがある!」みたいな空気が支配的になって、「考察勢」みたいな言葉も普通に使われるようになって(なにが勢だよと思う)、おそらく私もその影響をどっぷりと受けている。語りきらず、思わせぶり、符牒、のようなことをあちこちに書いたり語ったりすることが長い日常になっている。もともとアレゴリーというジャンルは神とか神話とか、宗教のモチーフをそうと書かずに表すための手段だったのだとGeminiくんだりは適当なことを言った。宗教的なものを対象にしていなくてもアレゴリーが入るととたんにある種の「宗教臭さ」が出てくる気がする、それは構造からの誤読なのかと思う。ただ、諷喩的表現とはそもそも人間の脳が宗教的モチーフを好意的に解釈するために必要な装置なので、それは誤読というよりは宗教の芽を掘り出しているような話なのかもしれない。岡本真夜はアスファルトに咲く花には目を向けたが芽には目を向けなかったのではないかと思う。

「周りに具体的なことを何も告げずに、思わせぶりなことを書いて周りに投げつけていく」という行為は、『アリスと蔵六』でいうところの、「ワンダーランドが世界を知ろうとしている」ときの行為に似ている。あの作品でいうワンダーランド、あるいは、作中でキングと呼ばれるキャラクタは、いちいち世界に対してちょっかいをかけていくのだけれど、周りからみるとそのちょっかいがどのような意図によるものなのかはイマイチ離開できないし、そのちょっかいによって世界はそれなりにダメージを負ったり大きく変貌させられたりする。ワンダーランドやキングのちょっかいはけっこう大変な迷惑になっている。しかし、世界の損害や変貌のありようを観察することで世界を知り、それが楽しいからまた世界にちょっかいをかけて、なんならこれが世界とのコミュニケーションのありようだと鼻をふくらませる行為は、倫理委員会の許可を通さない介入試験と五十歩百歩であって、うまいことエクスキューズを積み重ねて原罪に目をつぶるための下ごしらえをきちんと通せば査読も通過するし業績として認められもする。私はもっと直喩的に過ごしたほうがいい。私はまるで論文をretractionした教授の秘書のような顔になっている。私はまるで花に咲かれて根に持ち上げられてひびわれたアスファルトのようである。

6本の狂ったハガネの振動

毎日ふとんに入ると気絶しているので、眠れなくて困ったことというのはめったにないのだが、昨晩、なぜか眠れなかった。たぶん断続的に眠ってはいるのだが、窓の外から地鳴りのような排雪の音が、意識の路面の隙間に入り込み、中で凍ってふくらんで、亀裂を広げていく。体感で1時間半くらいはごそごそしている。いったんお手洗いに起きる。スマホをみると灯りを消してから3時間経っている。体感と合っていないなと思う。1時間半ほどは意識を失っていたのか、それとも、眠れなくてごそごそしているときの銀河は高速で移動しており覚醒するとウラシマ効果で時間がゆっくりに戻るということか、どちらかを証明する手段がない。眠れない夜も横になっているだけで疲れは取れるという、占い師の口八丁が心を軽くする。ふとんに戻ってからも右に左に寝返りを打ちながら、数週間後の運転のスケジュールを思い浮かべ、半年後の出張の乗り継ぎと宿泊のタイミングを考え、昨年投稿したらおそらくAIで査読されてrejectされた症例報告の再投稿について、他学での一括倫理審査にあたって本学で出すはずだったyousiki_Aをまだ出していないことについて、音声認識でブログを入力してもちっともうまくいかなかった5年くらい前のことについて、死んだ病理医と最後に差し向かいで飯を食った店の内装、泥酔した吉村秀樹から送られてきたブッチャーズのマークの入ったコースター、やりとりのなくなったインターネットの友人、前の職場のメールでしか連絡を取り合っていなかった仕事相手、こないだの祝日に捨てた、5年着た上着の、チャックが必ずゆがんで尾根のような形になってしまうタイプの劣化。久しぶりに出す本の、表紙のイラストレーションを、ある漫画家に依頼するメールがCCで私に届いた。スマホの着信音を出さなくなって久しく、連絡はすべて振動によって届く。光も音も熱も振動なのだから、それはそうだ、では、振動以外で伝導するというのはありうるか。ないように思う。振動なしにここからあそこまで何かが届くということはないのだ。寄せては返す波打ち際で、過去と未来を考えることも振動、脳内でシナプスがついたり離れたりするのも振動、シナプス間隙の神経伝達物質の放出と取り込みも振動、髄鞘をスキップして軸索を伝導する電気刺激にも振幅がある。ふたつの銀行口座の入出金履歴をみる。この半年、出たり入ったりを繰り返し、微妙に貯金が減っている。急な出金があったから今回はしょうがないのだと慌てた心を抑えるが、この出金、べつにこれからも急に生じるだろう、1回こっきりと許容して安心している場合ではない。出産祝や香典のようなものだ。思い出した儀礼の準備について、明日になったら忘れているかもしれないからと、自分のGmailにメールを打つ、すぐにスマホが震えて着信する、5秒後のスヌーズをスマホ横のスイッチでキャンセルしてまた寝返りをうつ。どこにも移動はしていない。その場で往復している。購入してからしばらくの間、柔らかくて気に食わないと感じていたマットレスに、近頃はすっかり慣れていたのに、眠れない夜には弱いスプリングと鼓膜が同期して共振してハウリングを起こす。興味・過敏。思い出・過敏。コスナー・過敏。切り出しでナイフを使うとき、レーザー・ポインタをスクリーンに向けて照射するとき、震える右手に左手を添える。添えるだけの左手。添える左手だけが感じる右手の振動。5時間、朝が来て、25日だ、アフタヌーンが更新されている。フラジャイルを読む。物語が振動しはじめている。波よ聞いてくれを読む。そのままずばりの波だなと思う。あさやけリフレインというあまり話題にはなっていない青春バンドガールストーリーの、表紙の、編集者がつけるであろう煽りの文句が、「6本の弦と数え切れない衝動」とあって、向井秀徳を超音波マッサージャーでみじんに砕いてから組み直したようなフレーズだなと思った。

いいえちがいます

いまだにOutlookを使っている俺が悪いといえば悪いのかもしれないが、メールソフトのエラーでPCが固まると気分がみだれる。気分とはすなわちうちゅうのほうそくなので、灰色の画面背景を白い光が横にびゅんびゅん通り過ぎていってグランドクロスもしくはアルマゲストである。レベルをきちんと上げてHPを6500以上にしておくとあまり問題がないのだが、3500くらいだと打ちどころが悪いとパーティのうち2名もしくは3名がせんとうふのうとなり、リターンなどをもちいてやり直して運まかせのループに入るしかなくなる。これだから嘔吐ルックはこまるのだ。

しかしWindowsまわりのアプリも前に比べるとだいぶよくなったことは間違いがない。電子カルテの入ったPCは厳重にインターネットから隔絶されているために、ソフトウェアのオンラインでのアップデートができないので、自然と搭載されているPowerPointのバージョンも古いままとなるわけだが、2016のバージョンを使うととにかく細かいところがほんとうに不親切で笑ってしまう。画像を貼ったときのずれの補正とかサイズの自動設定あたりが逐一使いづらい。最新のPowerPointだとあまり気にしていないのだけれど、逆に、「気にしなくてもいいくらいに調整された」ということなのだな、と感じる。10年でこれだけ変わるのか。人間は10年だと何も変わらないのだが。諸行無常とは自然よりも人工物により成り立つ。自然は意外と踏みとどまるものだ。だらしなくしがみつくものだ。こだわり、頑固で、いじましい。人の作ったもののほうがよっぽどあっさりと移り変わっていく。

同僚の配偶者が出産をしたらしい。めでたいことだ。子どもは10年などといわず10日で変わっていく生き物だ。そうか、自然も、みずみずしいところは、変わるのだ。ゆく川のながれのそばでカサカサに枯れた草木ばかり見ていれば有為転変のことわりには思い至らなかった可能性もある。そんな「分画」した視線を持ち合わせた人間というのがどれだけいるのか私にはわからないが。

モナ・リザの微笑の口元は、中心視だと引き結んでみえるが辺縁視だとやや微笑んでみえる、みたいなことを読んだことがある。エリック・カンデルの『芸術・無意識・脳』だったか、あるいは放送大学かなにかの錯視をあつかった教科書だったかと思う。剣道をやっていたときに、両眼視のフォーカスを相手の後方3メートルくらいに置いて、相手の目とか剣尖といった特定の場所を強くみるのではなく、もっと全体をぼんやり引き気味にみることで、ぼやけはするが手元と足先とを同時にみることができるようになるのだ! と師匠におそわり、果たしてそのようにしてみたらぼやけすぎて結局よくわからずめちゃくちゃに面やら小手やらを打ち込まれた記憶があって、なんだよ嘘つくんじゃねぇよとあのときはだいぶ息巻いたものだったが、今にして思うと、フォーカスを前後にずらすのではなく、辺縁視からの情報に敏感になるような脳のいじり方をすればよかったのか、と気づくし、実際「意識的にみてはいないのだけれど、相手の体全体から、今、足が動き始めたなと、みてはいないのにみえた」という記憶が何度かあって、あれはたぶんそういうことだったのだろうなと腑に落ちる。

ああ! まさか!! Outlookって!!! そういう意味なのかあ!!!!


それでこそ世界

当番表をつくったら若いスタッフが「もっと働きたい」とか「市原先生の負担が大きすぎる、もっと減らしてください」などというのでおどろいた。馬齢を重ねて立場が上になることの一番のメリットが「自分にたっぷりと仕事を割り振れること」だったのに、こんなことを言われてしまうとはすごく残念だ。あまり予想していなかった。これからは、仕事をしたい人たちのために私の仕事を減らさなければいけないのだ。「働きたいように働く」なんていう日々はやってこない。そんな日々は夢まぼろしのごとくなり。4月と6月にふたつの学会が終わったら、私は私の仕事をすこし減らしてみんなに割り振ろう。ぜひにおよばず。「公平」ばかり求めてくる世界は残念だ。偏りと濃度勾配のなかで分化のベクトルに差がつく結果、合目的な機能をかろうじて発揮している、小腸絨毛陰窩のような私にとって、しみじみやりにくくてならない。


自我、しまっていこう。


急速に気温が高まってきてダウンでは不便になってきた。そこまで保温しなくてよくない? ほおん? そんなこと言うんだ? 虎杖悠仁の着ているタイプのマウンテンパーカーを出す。いろいろめんどうになった近年、ジャケットスタイルの日にもスーツスタイルの日にもこれを着ることでシルエットが一気に自認のずれた痛い中年になる。まあこれしか持ってないからしかたないよ、という感じで着ている。しかし今日、着てみると、ジッパーがうまく上がらないのだ。私がふとったとかそういう話ではなくて、ジッパーの機構自体がぼろついていて、引っかかったり角度が変な状態で留められたりしてしまう。生地自体はまだしっかりしているのにジッパーがだめだとなんだか全体がだめになったような気持ちになる。前開きで着ると、冬の北海道民が雪かきのときにだけ着る、DCMで売っている1980円のアノラックみたいに、フードの裾野が左右にひろがってすごくざんねんな風貌になってしまう。デザインがふるくなったとか飽きたとかじゃなく、チャックがちゃくっと閉められなくなったという理由で服を買い替えるのか。すごくいやだな。三井アウトレットパーク北広島あたりで格安の上着を探しにいくべきだろう。ユニクロでもいいのだけれど、大学内にはユニクロを着こなす先輩医師がたくさんいるのでいわゆるおそろが発生しやすいのがちょっと悲しい。見た目にこだわるかどうかという話ではなくおじさんペアルック、もしくはマークはせいぜい4種類だけど誰も気にしていなくてとりあえず数字が合っていたら取って捨てようおじさんババ抜き状態になるのがいやなのである。おじさんなのにババ抜き。おじさんだから、いいのか。


ヤサイマシ自我ヌキ。


公平、いらない価値観だ。ヨーロッパではいろいろ理由があってそうせざるを得なかったというだけではないか。今の日本の、北海道の、旭川とか札幌とか帯広とか釧路とか、そういった場末の土地の、病院とか大学とか、そういった限界の集落において、それは必要な法なのか。弱者のために必要な制度だと言われても、そもそも強弱を認定できる程度の価値判断をしている人間に、言われたくはない。気付いたものが汗をかき、知っているものがババを引き、わからないものは働かなくて、負担も感じず、それで日々たのしく知らずにやっていく。理不尽の中に巣を張り、凍えるものがいれば巣を明け渡して夜に飛ぶ。不可逆の川を船でわたり、溺れるものがいれば船をゆずって夜に泳ぐ。邪魔しないでくれ、平らすぎて加速度がつかないサーキットなんてつまんないんだよ。


3号車の自動ドアに手をかざす。休日なのに制服姿の女子高生が3人いて、特急の座席の向きをかえて4人がけにしようとわいわいやっている。うしろにおじさんがひとりつっかえていて、うん、わかる、この女子高生がじゃまで通路を通れないんだなと思ったら、おもむろにそのおじさんが、「ここ踏むんだよ」と言って座席の下のバーを足で踏むので私はびっくりした、お、お、おっさん、ここで話しかけるの超勇気あるな、捕まるぞ、と思ったら女子高生たちが口々に「さすが」「年の功」「つかえる」とか言うんでさらにびっくりして、じょ、じょ、常識高校生、そこで返事すんのかよ、と思ったらどうやらそのおじさんが引率の教員のようなのだ。私はその横を半透明になって通り過ぎ、5号車なかほどの窓際に腰を降ろす。4人がけの座席に4人で座った人間たちの嬌声が、深川を過ぎても、滝川を過ぎても、美唄を過ぎてもずっと続いていて、なんだかすごく不公平だなと思った。