春が待ち遠しいなあ。いろいろ変わってしまうから春はしんどい。というか、正確には、「もうすぐ変わるのだ」という、今、今のような、この待機している時間、並んで、立って、脚を交差して、腕を組んで待っているこの時間、しっかり背中を背板に付けて座るのではなくて座面のはしっこに軽く腰掛けているような、太ももの前面や向こう脛のあたりがあまり休めていない、浮いて動くかんじ、腰から下を波にずっと揺らさている感じ、が、なにより好きではない。変わるなら早く何もかも変わってしまってほしい。変わり終わってほしい。いっそさっさと。そう感じる。いろいろ変わってしまうからしんどいのではなく、変わるのを待つ間がしんどいのである。そういった感覚を生き死にの構造にまで拡張すると、ひじょうにいろいろへたくそな感じになってしまうが、春に起こることは単なる一過性の事務とか人事程度の話であり、まあ、ギャーギャー修正するほどのことでもない。春は待ち遠しく、だから春待ちはしんどい。長い冬を乗り切った先の春がすばらしいから私は北海道が好きだと嬉野雅道さんは言った。しかし私は「春を待っている間の冬」は別に好きではない。春の気配が見えないほどど真ん中の冬はわりと好きなので北海道のことが嫌いではない、しかし、待った春が美しいから冬を我慢できる、というのはずいぶんとうまいこと達観したなあと感心してしまう。私もだいぶ我慢強いほうだ、我慢強いほうだったはずだ、いや、違うのか? 私は今はべつに我慢強くないのかもしれない。我慢強ければ、さなぎの時間をじりじりと待てるはずだ。かつての私はなににつけてもさなぎだったから、自分がさなぎであることを受け入れていたから、待てた。今はもう羽化してしまった。春の空にぱたぱた気流を巻き起こすだけの小さい紙切れに。だからいろいろ待てなくなった。そういうことなのかもしれない。
早くすべて変えてしまいたい、と、ベテランの医師が言った。ああ、私と似たような、我慢耐性を失った側なのだなと理解した。なんと返事しようか考えて、そうですね、と言った。私たちはもう我慢できる年齢でも立場でもない。それなのに日々、たくさん我慢しているから、自分ばかりが損をしているような気持ちが日に日に蓄積していく。それを不公平と感じて。それを不条理と感じて。なんのことはない。私たちはしっかりと公平と条理の中に暮らしている。
高野雀という漫画家がいて、「世界は寒い」とかすごくおもしろい。たくさんの印象的なセリフが出てくるのだけれど、それらをしゃべっているのは、キャラでも作者でもなくて、場というか、コマの枠線というか、「漫画そのもの」がしゃべっているように感じる。高野雀の漫画の登場人物はずっと我慢していて、でも、ここぞというタイミングで我慢しないことで、世界をちょっとだけゆがめていく。先日、短い期間だけ? ウェブで無料公開されていた「恋って一瞬、」という漫画もまさにそうであった。「待ち遠しい」とは違うのだが、「あれは待ち遠しかったのか、」とあとから気づくような、そういうできごとを書かせたら天下一品だなと思った。