カザーブ回顧録
そんなことにGeminiを使ってもじぇ意味ないよね
デスクの引っ越しをした。半年前に今の職場にやってきて、しばらくの間は仮住まいということで、それでもだいぶ広いスペースにどっかりとお店をひろげていろいろやっていたのだけれど、春になり、異動があって、ついに私の「これからのすみか」が決まった。ちょっとまだ棚とか少なくて、いや、まあ、本棚とかはむしろいっぱいあるんだけど、手にとどくところにチョイとなにかをしまうような「小さな棚」が少ない。今後はそういうものをちょっとずつ増やしていけたらいいかなと思う。とりあえず検索。デスク 棚 引き出し付き 横 なんという商品名なのかわからないのでひとまずそうやって入れて画像検索して、それっぽいものを見つけた、なるほどこれはデスクワゴンというのか。あらためてデスクワゴンで検索して一番安いやつを買う、けれど、これは出荷元はAmazonだけど販売元がぜんぜん読めない初期IDみたいな名前だなあ。商品の画像をみると別に普通の日本語なのだけれど、
「引き出しがスムーズ」
と書かれている、伸ばし棒の、「ー」のところが、「漢字の一」になっていて(明朝体だから気付いた)、なるほどこれはAIで描いた画像なのだなあとわかり、となればおそらく国を越えてがんばっている人の販売する商品なのだろうなあと感じ、まあそれでもぜんぜんかまわないけれど1000円だけ高いもうちょっとちゃんとした業者のやつを買うことにする。タイムセールで10%オフだ。よかった。でもこのタイムっていつからいつまでなんだろうな。
こういった買い物は、早晩、AIによって一気に変わっていくんだろうな、みたいな話をたまに読む。さとなおさんの本にもそう書いてあった。今回の私の買い方だって、途中までのプロセスをぜんぶGeminiにまかせてもよかったのだ。「あれ、なんていうんだっけ、デスクの横にくっつけて使う、引き出しみたいな」と話しかけて、「あんまりあやしくない業者、口コミがそこそこよくて国内できちんと使用実績があるメーカーを3つくらい教えて」とかやれば、今の私の試行錯誤なんてぜんぶすっとばしてそこそこいいメーカーのそこそこいい商品を教えてくれるんじゃないかと思う。そして、この、AIに選ばれるかどうかというのが、これから企業が生き残っていくために必要なことなんだ、というのがさとなおさんの主張で、私はこの感覚はとてもよくわかる。いや! 俺は別に! 買い物なんてものはAIを通さないぞ! それがこだわりだ! という少数のこだわり派の人はしかし、よく吟味して、これぞという商品を狙いすまして買うだろう、そういう人は市場の動向には思ったより影響しないのだ。世の中の経済を動かすのはいつだって、衝動買い、いらないのに買ってしまうアレ、ちょっとその場の気まぐれでカゴに放り込んでしまったアイスバーのような、そういうあまり知性を発動させずに情でヒョイっと買うような仕草のすぐ横に、スマホの皮を被ったAIがいつもいるようになる、そうしたらやっぱり経済の仕組みも広報の仕組みもいろいろ変わっていくんだろうなあということをなんとなく思う。
今度のデスクは部屋の奥だ。奥まっている。ドアのところをコンコンと、みんなノックしてくれるのだけれど、開けたままのドアのところから私の居場所は覗き込めないようになっていて、つまりこれから、幾人もの人たちが、私がいない部屋の入り口でコンコンとドアをノックしてしまう現象が起こることになる。「在室札」みたいなものを買わなければいけないような気がする。「在室札 かわいい」で検索するがあまりこれといったものが出てこない。画像をちらちら眺めているとなぜかこれが表示された。「在室札 かわいい」で出てくるものとしてはおかしいだろうと思う。
スクラビングパズル
思ったより順調に仕事が片付いた。19時から21時までWebで研究会に出て、それから札幌に車で移動して、明日は出張、というタイムスケジュールを当初は考えていたけれど、いやいや、これはもしや、いろいろポチポチ調整をする。今朝は7:00過ぎには出勤していたから、勤務時間を「通常」(8:30-17:15)から「早出B」(7:30-16:15)に変更すれば、時間休をとらなくても16:30には職場を出られる。そうすれば19時の研究会がはじまる前に札幌に着くことができる。そーかそーか。よーしよーし。そうしよう。助かる。これで週末に体力を残せる。早出の調整はすぐに終わった。あとは仕事をきりのいいところまで終わらせることだ。やっかいな電話がかかってこない限り大丈夫そうだ。切り出しも終わった、生検も片付いた、申請書はまだ書き途中だけれど、これはあと1、2時間で書けるようなものでもないから今日急いでもしょうがない。細胞診……に、ちょっと懸念する所見が出た、ので、臨床医に電話をする。おかしなことになっている。でも、これは今日どうこうできるものではない、じゃあまた相談しましょう、と言って電話を切る。暫定的に解決とする。網走から送ってきた封筒を開いて中の書類に目を通してサインをして返送の準備をする。精密機器を他大学に送る準備は機能終わっているから大丈夫。論文の病理の部分に手を入れてくれと言われて送られてきた原稿をあらかた手入れして送り返す。ああ、うん、大丈夫そうだ。
こんないい日もあるのだな。こんなうまくいく日もあるのだな。
フラグにならないように、ならないように、と思っていたけれど、やっぱりそんなにうまくはいかない。車を出したところまではよかった、しかし、深川を過ぎたあたりで日が落ちて路面が暗くなる、それはまあわかっていたことだけれど、驚いたのは猛烈なみぞれだ。これは聞いてなかった。ヘッドライトがみぞれに乱反射してステージの紙吹雪のように乱舞している、私の体感速度は、1.2倍くらいにぶち上がっている、今、うっかり120キロくらい出ているんじゃないかと思う、しかしスピードメーターを見ても105キロのままだ。そういう錯視がたくさん起こっている。そもそも105キロで走り続けるように設定しているのだから、それより早くなることはない。けれどもちょっと怖いなと思う。ハンドルを握る手にじわりと熱がこもり、腕、胸、肩まわりに数秒ごとにスリップダメージが蓄積していく。粒の大きなみぞれがばしばしフロントガラスを洗う状態で、いつもと同じ速度で走るのは無理だ。設定速度を5キロ落として100キロにする、しかし、そこでさらに予想していなかったことが起きた。車の前面についているセンサーにみぞれが付着し、車間距離とか車線との間隔をはかることができなくなったということで、運転アシストシステムが停止してしまった。まあそういう便利を用いずに、自分できちんとアクセルを踏んで速度を保てばいいだけの話だけれど、これが思った以上にしんどい。冬、猛烈な冬、なるべく高速道路なんて通らないようにしていたから、冬の高速運転は久しぶりだ。路面はとっくに解けているからなんの困難もないだろうと思って軽い気持ちでハンドルを握っていたから余計にだ。急にはこころの準備が伴わない。シューティングゲームのアーケードモード(HARDより上)のようだ。弾幕は絶対に避けられない。こちらのバリアがなくなった時点で残機はすべてなくなる。高速道路が橋のような高いところを走っているとき、私は必ず、車が欄干をぶちやぶって放物線を描いて下の川なり田んぼなりに飛び込んでいくところを想像する。
砂川でいったん停まってサービスエリアの担々麺を食べているうちにみぞれがやまないかな、と思ったが天候はさほど変わらない。担々麺というのはなぜこうも気道の変なところに入ってむせるのかと不思議に思う。年を取るとむせやすくなるというのは、年を取ると気道に変なところが増えるという意味だ。変なところとはどういうところなのだろう。隘路だろうか。袋小路だろうか。手術でも解剖でもそのような構造は出てこないが、人体というものは外から手を入れて見ようと思うととたんにわからなくなってしまうタイプの構造をじつはたくさん有している。担々麺が変なところに入ったまま車に戻る。
こんな日になるのだな。こんな土壇場で生きるか死ぬかの心持ちになる日もあるのだな。
残り1時間半くらいかけて移動すれば研究会には間に合う。ぎりぎり間に合わなかったとしても、Webだし、こっそり部屋の後ろから入るよりよっぽど静かに途中参加できるからあまり問題にはなるまい。イグニッションスイッチを押してからもなんだか走り出すまでの気合いがちょっと足りていない気がして、スマホからブラウザを開いてポッドキャスト熱量と文字数のバックナンバーをたどる。この半年、ちまちま聞き進めてきた過去回の、2014年くらいの新番組全部見てみた件(新全件)を再生してからアクセルを踏み込む。ややアニメ的なBGMに合わせてさっそくみぞれがフロントガラスを洗い始める。運転アシストはやはり稼働しないままだ。さっき車を降りているときにいったんセンサーのところを拭いておけばよかったか、しかし、センサーのところが稼働したりしなかったりを繰り返しているところを見ると、次から次へとびしょびしょの氷が付いたり離れたりしているのだろう、こういうのは拭いたところであまり意味はない。
すっかり夜だがはるか遠くの西の空、雲の切れ間にうっすらと、DFS染色のような色味が覗いていて、ああ、だんだん日の入りが遅くなってきてはいるのだな、春はもうすぐそこなのだな、と少しうれしく思う。猛烈な土砂降りの中、江別を過ぎて野幌のあたりで雨脚が弱まり、ようやく少し走りやすくなってきたけれど代わりに交通量が多くなってきて、それはそれで別のストレスだな、ああ、私はほんとうに、運転自体にはさほど興味がなく愛情もないのだな、ということをしみじみ感じる。運転も車も好きじゃないのに延々と運転をし続けている、そういうタイプの運転者もいる。早く自動運転の世の中になればいい、しかし、みぞれごときでセンサーがつぶれるような土地で、いくらAIががんばったからといってそんなに簡単に自動運転が達成できるものなのだろうか。AIというのはいつもそうだ。年末調整とか、学生実習の準備とか、同じ作業を延々と、少しずつアレンジしながらやっていかなければいけないタスクはちっとも自動化してくれなくて、本の細部をつぶしてあらすじだけ出してきたり、イラストの特徴をつぶして最大公約数的な画像だけ出してくる。
札幌に入り、Webの研究会に参加できる某所に移動する道すがら、ドラッグストアに寄る。明日の朝飯とヨーグルトを買う。要らないのにレモンサワーなども1本買ってしまう。車に戻る。そこでほんとうに驚いた。車がぴかぴかなのだ。そんなことがあるだろうか。みなさんもご存知だと思うが、雨だとか雪だとかは、どれだけどしゃどしゃ降っても車がきれいになることはまずない。いろいろはねたりくっついたりして、シャワーのように降り注ぐ中を突進しても車自体はべつにきれいになっていないことがほとんどだ。でも、今日のみぞれは違ったらしい、粘性のためか? わずかにねっとりと車の表面にくっついて、それが速度によって吹き飛ばされて、を適度に繰り返した結果、春先の汚れのついた車がまるで新品のように輝いている。こんな日があるのかよ。こんな目にあったのに最後はなんだかうまくおさまる日があるのかよ。
ラーメン屋には並ばないが
Notebook LMを用いてつくられているイラストをみると気持ちが萎えるようになった。みんなもわりとそうだと思う。一時期流行ったよねー、というやつだ。学会の講演などで一時期はいらすとやを用いたプレゼンが大流行し、急速に古びて、今は生成AI、それもまたあっという間に古びようとしている。「一周回って」「逆に」いらすとやのほうが程よくダサくて緊張を解く。「一周回った」のに「逆」というのはつまり、一周回っている間にねじれたということで、これは社会生活を営んでいるとわりとよくある。ぐるぐる回っていつしか同じところに戻ってきちゃったねー、今の考え、無駄だったねー、なんてことはない。思考が一巡する間に身体はなんらかの形でねじれる。堂々巡りの議論などというが巡り巡っている間に関係性の糸はもつれて絡み合う。それは別に螺旋というほど一方向にきちんと進行するようなものでもなくて、わりと、無秩序に、ぐにゃりと、ねじ曲がって元に戻らないような感じで。使い古したゾンデは決して元のまっすぐな形には戻らない、あれに似ている。
中の悪い人間同士が、お互いを悪しざまに罵る、その中間にいて、それぞれの思惑を聞く、ということをやることがある。右に左に風見鶏、行って帰ってシャトルラン、しかし、こうして話を何度も聞いているうちに、互いの言っていることが他害から違えてきたりするからおもしろい。人間と和解せよ。
今日は時間がたっぷりある。やることはちょっとしかない。珍しい日だ。そういうときこそブログを書こうと思う。そして、モニタに正対するが、おもしろいほど、何も出てこない。
日ごろ、由無し事は私の体を振動させて、がくがくなるのをなんとか抑え込もうとする、でもだめで、震えは体の端っこにどんどんつながっていき、それはまるでトムとジェリーのトムがフライパン的なものでガーンと殴られたときの、振動が尻尾のほうに伝染していくのと同じ、ように、私は普段世の中から全身を揺らされて、その余勢を駆って指先をばたばたと震えさせることで、何がしかのものを書いている。ときに診断を、ときに感想を。つまり世界の振動は何かを書くためのエネルギーになり、世界は私を振動させることでなにかを書き連ねるところの主体である。すると、つまり、世界が凪げば、書くこともなくなる。そういうときに何をする。何も書かない、というのは、まあ、そうなのだけれど、なんとなく、そういうときにも何か絞り出して書けないものかなと思う。無駄に立ち上がり、部屋の中を無駄に歩き回る。一周。二周。テンポを変えながら、遅く、早く、腕を組んだり、振ったり、うろうろとする。そうやっているうちに、凪いでいた思考が、遠心力的ななにかによって、よれていく。絡んでいく。繰り返しの渦の中で、覚えていなかった懸念、気にかけていなかった不安がふくらんで、しまい忘れた一筆箋、黄ばんだ基盤、たわわに実った不実なうらぎり、そういったものたちが、列を乱しながら脳内の定食屋の前に並んで、ときおりタバコを吸ったりスポーツ新聞を広げたりしていて、私はその横を自転車で通り過ぎながら口笛を吹きつつ震えだした世界に共鳴した指先がなにかをとぼとぼと書き始める。
旗一本のみ上がる
たまに歯医者で言われるのだ、「歯に縦に線が入ってる部分があって、これ、うっすらとひびが入ってるんですよね。たぶん寝ている間とかに食いしばっているんだと思います。食いしばらないように気をつけてくださいね」。というわけで起きている間ずっと気をつけているし、眠っている間もたぶん私はまじめだからずっと気をつけている。できていると思う。人間ってすごいよな。寝ている間も自己を律することができる。話は変わるが、昨日、じゃがりこを食べていたら、一番奥の下の歯の、銀をかぶせているところの脇が、ガキリという音と共に欠けた。銀は大丈夫だったのだがそれをささえていた歯が限界だった。奥まっているのでこれでいきなり激痛ということはないのだけれど、冷たい水(例:ビール)などを飲もうと思うとちょっとしみる。あわてて週末に歯医者の予約を入れた。こういうことのひとつひとつに年齢を感じる。今どきのお子様たちは、小さい頃からフソまずいクッソ、じゃなかった、クソまずいフッ素を歯に塗りまくっているので、虫歯の罹患率が劇的に下がっていると聞くが、ほんとうにすばらしいことだし、ぜひそのまま社会から少しずつ虫歯の量を減らしていってほしい。そういう恩恵を受けられなかった世代の私はほとんどの歯に治療のメスじゃなかったドリルが入っているが、ここ10年くらいは歯医者に定期的に通ってメンテナンスをし、歯周病なども起こらず新しい虫歯も出なくなっている、ただ、ときどきこのように、昔詰めた銀の冠がはずれたとか、歯のどこそこが欠けた、的トラブルは生じる。こればかりは仕方がない。歯だから歯医者でなんとかできる、そのことをむしろラッキーと思うべきなのだろう。だいたい、背骨とか頭蓋骨とかも、たぶん経年で割れたりひびが入ったりしているはずだ、そっちのほうは気軽には直せない。それらの欠損に私は気づかないまま歳を重ねている。そういうものなのだと思う。
日々を暮らすというのは罅を暮らすということだ。昔、もう30年以上も前に、自作のホームページの中で日記を書いていた。剣道の大会(東医体)に出て団体戦で優勝したのだけれど、その過程で部内にいくつもの問題が起こって、ぎすぎすしたり仲直りしたりしながら遠征先から帰ってきて、荷物を解いたら中に入っていた優勝メダルのケースに「ひびが入っていた」というところでその日記を終えていた、そのときのことを急に思い出した。
職場の送別会があり出席した。人びとと、あまり、話す内容がない。二言目には仕事の話をしてしまいそうになる。というか、している。困った人生だな。最近読んだ本の話も、近頃凝っている料理の話も、お気に入りの芸能人の話も、旅行のあれこれも、話そうと思えば話せるのだが、話してもしょうがないよなという気になるし、できれば私以外の人びとがわいわい盛り上がっている横で、だまって飯をもそもそ食ってときどき話題に耳を傾けていたい。距離が必要だ。彼我の間には断絶があるが、その断絶を無視してあまりに近くに寄ってしまって足を踏み外し、相手の目の前で溝の奥底にまで真っ逆さまに落下する、そんな情景をお見せするのもしのびない。だから距離が必要だ。お互いの全身がぼんやりと視界に入るくらいの距離まで下がって、溝から離れた場所につまさきを置いて、胸を反らせば、多少足踏みをしても地団駄を踏んでも、落っこちる心配はないだろう。なのに人びとは、コミュニケーションというとすぐに距離を詰めようとする。前に前に、射し面のようにやってくる若い人びと、それを私は、剣先でいなして、体の微弱な前傾を保ったまま重心だけを左後ろに下げて、肘をまげずに相手の目線の高さまで剣先を上げ、近寄ってきた壁を押し戻すときの気持ちでどんと前に打突しながらその反作用を利用して一気に後退する、引き面。
音頭
旅に出ている息子から写真が送られてきており、それは誰もが何度も撮影したであろう駅の電光掲示板の、とりたてて珍しいものでもなくすぐに忘れてしまいそうな断片ではあるのだが、私はそれを見てまるで自分が旅に出ているかのような気になった。少し前になにか読む本がないかとたずねられたとき、果たして今の時代にも通用するものなのかということをあまり考えずに『深夜特急』のKindleのリンクで送り、その後、どうせ送るなら直接的な旅の随筆風小説よりもいくつかひねったSFなどを送ってもよかったかもしれないと少し後悔したのだけれど、彼はあれを読んだから旅に出るのだろうか、それとも旅に出るような気持ちだったから本を探していたのだろうか。折しも、サラ・ピンスカーの新刊が私の手元にとどいている。あるいはこれをきちんと読み、おもしろかったらそのときには息子に送るという手もあるだろう、今回の彼の旅には間に合わないけれど。
毎日デスクとベッドを往復して体重を1日に100グラムずつ減らしている今、私の旅は誰かに仮託するものになりつつある。しかし本を勧めるという行為はどこか旅支度のような心の使い方を要求する。私は居ながらにして旅をしている。
知人がいまさらXをはじめるという、私のアカウントを教えろというので、そのスマホを借りて「病理医」で検索をしてみせる。ほら、ここに出てくるよ、と言いたかったのだけれど、病理医で検索しても私のアカウントは出てこなかった。今はそういう仕様(例:Bioに書いているかどうかを優先し、アカウント名を検索対象からはずす?)なのか、それとも、私のアカウントがこのタイミングでBANされていたからなのかはわからなかった。そして私は急速に自分が半透明になったような気になって、思わずうきうきとしてしまう。昨日、三日前、その前の午前中など、連続で講演をし、三回中二回で座長が「市原先生は病理医ヤンデルとしても有名でSNSでご活躍をされており」という挨拶をしてくれて、まあ、もう、ちっとも活躍なんてしていないのだけれど、人の紹介というのは得てして二周りとか三周りとか遅れた状態で行われるものだよなということを考える。そういえば今日は職場の送別会があり、そこで私は去っていく人間たちになにか言葉をかけなければいけない、冒頭にあいさつを頼まれているのでどうしてもなにか言葉をかけなければいけないのだけれど、大学を去っていく人間に対して大学にいるときの印象でなにかを語るというのは、つまり周回遅れなのではないかという気がする。滑稽だし、気持ちの置きどころがなくなるだろう。お互いにとっていやな時間が流れるかもしれない。だったら、こういうときはやはり、故事成語などを用いて煙に巻くのがいいだろう。その人の具体的な昔話などしないほうがいいのだ。たとえば、こうだ。むかし、Bloodthirsty butchersという人たちがいまして、そのボーカルでありギターをやっていた吉村秀樹という人は、顔はそこまで似ているというほどではないんですが髪型とか着ている服が若干ジャイアンで、言動はもっとジャイアンだったんですが、その彼は、ギターを弾くに当たって弦をいくつか押さえないままノイズを込めてジャーンとやって爆発的に広がった音を出すんですね、でも押さえている弦については、とてもメロディアスな押さえ方をするので、それはつまり適当にやってはいるのだけれどその適当というものが自分の聴覚を通じて違和とかズレとか不快とかが生じないぎりぎりのレベルで適当にやっている、すなわちプロにしかできない適当だったと、私は思うわけです。これからの人間というのはこの、「プロにしかできない適当」を心がけていくのがいいんじゃないでしょうか。おわりです。新天地でもがんばってください。乾杯! いや、乾杯の音頭は私の担当ではない。乾杯! で締めると次の乾杯担当の人が困ってしまうだろう、まあいいか、乾杯!
クラッチ
待てば退路の日和あり、っていうじゃない。えっ逃げる気まんまんなの? 月曜から木曜まで必死で診断をすると金曜日の午前中にぽんと時間が空いて、よっしゃと歯の上でつぶやいて、科研費の申請書の下書きに戻る。何度も何度も書いているうちに自分でこの研究ほんとうに価値があるのだろうかという疑問が湧いてくる。私は大学院を出てから18年、市中病院で働いていたので、このたび大学に勤務するとなんと「研究活動スタート支援」、いわゆるスタートアップの応募資格を得たのだ。この年でスタートアップ! 四捨五入して五十の手習い。正直、楽しい日々だなと思う。なんかうれしいのである。
椎名誠の随筆を読んでいると、彼が20代前半に銀座で働いていたときのこと、夕方になるとしょぼくれた顔の男たちが町をとぼとぼ歩いていき、華やかに着込んでこれから仕事だとさっそうと歩いていく若い女性とすれちがう、みたいなシーンが出てくる。夜職の女性の辛さや怪しさは独特の筆致で別角度から描かれるが、それは今はいったん置くとして、私はこの、「しょぼくれてとぼとぼ」の男性のイメージ、「幾何学的な目、爬虫類的な目で、瞳孔をひらいたまま歩いていく中年」というアイコンを、彼の随筆から何度か吸収してきた。思えば、私が物心ついたころというのは、社会における男性の権力性というのは昭和の初期にくらべると相対的に弱体化しつつあって、マンガやテレビでみる「40, 50の男性」は誰もかれもくたびれた様子で描かれていたものだった。それは当時はあくまで強権的な男性像に対するカウンターとして描かれたものであったかもしれないが、仕事をいやいやこなし、家庭に帰っても威張れるでもなく、肩をすくめて人生をひたすらやり過ごしている、という風情の中年を、私は偶像的に多く摂取した。大人というのは我慢し、絶句するものだ。ただそれも、フィクションの外では、「より弱い存在」に対して小さく権力や暴力を振るう存在だったのかも知れない。そこから40年、いまや、「物語で弱く書かれることの多かった中年男性」は現実に弱くなった。東京ポッド許可局で、「夜中にマンションの駐車場や公園の横の歩道に車を停めて、家に入らず、ぼうっとスマホなどを見ている、帰宅前に何かを充電しているかのような中年男性」の話が出たとき、そのゲシュタルトが一発で理解できたのは、マキタスポーツ氏56歳、プチ鹿島氏55歳、サンキュータツオ氏49歳、この御三方が情報を受信する八木アンテナの角度が私とほぼ一緒だからなのだろうなと理解している。それはまたかりあげクンであり、タンマ君であり、まんがタウンや週刊文春が世に撒き散らしてきたイメージとも重なる。うれしいことなんて数えるほどしかなくて、日々、つらいこと、しんどいことしかない、それをどうにかこうにかすり抜けて、道端の一輪の彼岸花に目を細める以外に笑うこともないまま一週間を乗り切り続けていくという「大人」のステレオタイプが、今も私の心のどまんなかにある。かつて椎名誠を読んでいた私は近頃は毎日燃え殻さんのletterを読んでいるが、やるせない、しのびない、しかたない、まーまーの昼飯、えいやっの逃亡、そういったものに一番親近感を覚えている。けれども。
私は最近、なんかうれしい。それは新しいことに囲まれているからかもしれない。仕事の時間割が変わった、診断書の書式も変わった、H&E染色の色味もわずかに変わったし、プレパラートのガラスのへりの尖り具合も変わった、椅子の質感、PCと目の距離、他科のスタッフとの連絡頻度、共同研究の量、教育方針、そういったものがすべて入れ替わって、年甲斐もなく。たのしいなと感じる。そしてそのことが私を落ち込ませる。中年男性というのは、なにかにやられていないと、いつも疲弊していないと、愚痴を言うくらいでないと、本当は社会の共感を得られない、それくらいに他害性が強く危険な存在ではなかったか。うれしいと感じている日々というのはよくないのではないか。たのしんでいるなんて許されないことなのではないか。そういうブレーキが毎日何度かかかる。
まあブレーキなんてものは運転していればよくかかるものだ。外科医は切る仕事じゃなくて縫う仕事なんだよ、切るだけなら中学生でもできるけど縫うのは医者にしかできない技術だからね、みたいなかんじで、アクセルなんて誰でも踏めるけど難しいのはブレーキなんだよ、と言っておけばよいのだ。たのしいたのしい。
退職する日を待たされている
一瞬の永遠
Chatちゃん
帰宅途中の車内で電話がかかってきた。ふだん電話なんて鳴らないのでびっくりしてしまう。Bluetoothで車に接続してあったせいでカーステレオから着信音が鳴る、もう、ちょっとしたパニックである。というかこのスマホの着信音って今これなんだな。購入してからほぼマナーモードを解除したことがないので知らなかった。ハンドルの近くにあるなにかしらのボタンを押すことでスマホにさわらずに電話に出ることができる、という車側の機能も、知ってはいたけれど使ったことがなかった。ハンズはフリーだがハートはアレステッドなまま電話に出る。もしもしという言葉がすっと口から出てこない。日ごろ、運転中は、前方や側方をウォッチしつつ、手元や足元はノールックで気配りをしつつ、話すとしたら助手席側に誰かの質量を感じながらフロントガラスに向かって声を飛ばすか、後部座席側に向けて後頭部から声を抜くように話すか、とにかく、受信・送信それぞれをかなり狭く鋭く絞り込んだ状態で運用している。だから今回のようにイレギュラーな送受信が生じると、送受信の両方がよくわからなくなって、世界との連絡が混線してノイズが内部に循環して傷のついたCDを再生したときのようにリズムやメロディががたがたと揺れ同じところを何度か繰り返したりぶつっと途切れたり、いろいろ、わやになる。車内全体に上手に鳴り響く電話の音声に向かって話すのは難しい。いったいどこにどれくらい声をかければいいのか見当がつかない。これで聞こえているのだろうか、エンジンの音はじゃまにならないだろうか。いっぺんにたくさんのことが気がかりだ。しかし向こうはこちらの喧騒的懸念などおかまいなしに用件に入る。
研究会などで日ごろからとても世話になっている遠方のドクターだ。ちょっと前に定年退職して、今は何箇所かの病院で嘱託として働きながら勉強会の主宰も続けている。ちょうど、明日もある県の連中といっしょにウェブで研究会をやることになっていて、てっきりその相談かと思ったが、どうも違うようだ。
要はFacebookのメッセンジャーの乗っ取り被害にあった、ということであった。
そんなことで電話してくんのかと思わなくもないが、想像を働かせるとたしかにそういうときは電話がいいのかもなと思い直す。PCもスマホも使っていろいろやってみたけれど、調べて出てきたページの言う通りにしようと思っても項目が選択できない、パスワードの再入力を求められる、朝からずっとやっている、メタ社に問い合わせてパスワードを変えてもらったけれどそれでもまだへんなメッセが飛びまくっている、対処しても解決しない問題に3、4つほど連続でぶち当たって迷走している今、困りごとの内容をメールで・文章で説明するというのはかなり厳しいだろう。ましてメッセは使えないのだ。だったらもう、電話するしかない。そういうことだろう。しかし私も運転しながらだとどうしようもない。折しも家が見えてきた。ちょっと待ってくださいと告げて車を駐車スペースに停める。先方はわかったと言っているのだがまだ遠くのほうでぶつぶつと、これじゃないなあ、おかしいなあ、という声がしている。待たせたままエンジンを止め、出勤カバンと買い物袋を持って玄関に入り、お待たせしました、と言って電話に戻ろうかと思ったが、今度は電話を手に持たなければいけないのだということに今更気づく。カバンの中に入っているスマホが切れていないかと思ってあわてて見るとちゃんとつながっている、が、先生には悪いがそのまましばらく待っていてもらって、愛別産のなめこと、4食分のヨーグルト、なんとなく買ったきゅうり1本と黒豆もやし1パック、めんつゆ(今まで顆粒だししか使っていなかったが、もやしときゅうりでサラダを作るならめんつゆを軽く効かせたほうがうまかろうと思ってようやく購入)、下味がついていてあとは焼くだけの豚ロース300 g(今日とあさっての晩飯になる)を、次々冷蔵庫に放り込み、コートを脱いでネクタイを外してからようやく電話に出た。まだぶつぶついろいろ言っている。たぶんこうして朝からずっと奮闘していたのだろう。
さて内容を聞いてみるのだけれどこちらもスマホで話しながらなので難儀する。今日は職場にPCを置いてきてしまったからスマホ以外でFacebookのチェックができない。おまけに思いついたことはみな試していると言っている。本当は試せていないこともあるだろうなと思いつつ、ChatGPTに自分でたずねてもらうのがよさそうだなと思う。「私に話した内容をそのままChatGPTに投げたらいいかもしれないですね」「AIかあ。使ったことないんだよね」とのことなのでグーグルで検索して出てきたウインドウに書き込めばいいだけですと伝える。わかった、と言ってPCをかちゃかちゃ始める音が聞こえ、すぐに、「これって登録しないとだめなのかな」とたずねられる。そうだったろうか。あまり覚えていない。クッキーを受け入れるうんぬんのところを音読しているのでそれは全部認めていいですと伝え、ChatGPTの初期登録からやってもらう。すべて音読しながら進めている。これくらいでいいのかもしれないな、と、ふと、感じる。ChatGPTが使えるようになった、よし、市原先生だと思ってあとはこっちでやってみるよ、と言うので、私よりはるかに優秀ですから、と笑って電話を切った。ふと見るとコートとジャケットが椅子にぶん投げられていて、私がうろうろ歩き回った後が、夏休みの校庭に自転車で入り込んでぐるぐる回ったときの轍のようにうすぼんやりと陰って見えている。
シャワーを浴び、もやしをあたため、きゅうりを千切りにし、軽くめんつゆをふりかけてもやしと混ぜて一皿。ブナシメジの石づきをとって、斜め切りにしたちくわといっしょに耐熱の容器に入れて水を張り、レンジであたためてから味噌をといて、一椀。豚ロースの半分をとりわけてクッキングシートの上に広げてくるんで、フライパンにふたをして中火で片面2分半、冷凍してある150グラムくらいの米をあたためて、味噌汁を軽く温め直し、焼き上がった肉をクッキングシートのまま皿に移し、二椀・二皿の晩飯とする。そういえばWBCのチェコ戦をやっていたということを今更ながらに思い出す。8回裏。8回裏が終わる前に食べ終わる。Netflixを流したスマホを食卓に立てかけたまま、食器を洗っているとGmailが入った。「Chat GPT 凄いですね。ありがとうございました。Chat ちゃんがほぼ大丈夫と言ってくれました。明日、二段階認証をしてください、とのことでした」。そうか、と思う。Chat ちゃん、という文字列からCharaを思い出す。思い通りにはならないが、思いに添ってくれそうな、声のエロいカリスマ、たしかにそういう見え方をすることはあるなと思った。そして彼はもう、こうして夜中に私に電話をかけてくることもなくなるのだろうなということを思った。
目標
自分の仕事の担当範囲をすこしずつ広げて、どこまでやると誰がどれだけいきいき働けるかというのを調整する。ぶっちゃけ私にはまだ余力があるので、ヤジロベエの重心を調整するくらいのそっとそっと感でじわじわと自分の担当する仕事を増やす。やはりと言ってはなんだが、やはり、病理診断という仕事を存分に行うことは、ペースメーカー的な意味で重要だ。プレパラートを1枚見るごとにHPが1ずつ回復していくタイプの魔法がかかっているのだと思う。
思い起こせば昨年の夏から秋にかけて、つまりは異動の直前3か月、働くよりもむしろ引き継ぎを大事にしていた期間、私は以前よりもはるかに少ない量しか病理診断をしなかった。「異動したらどうせ忙しくなるから」という理由もあり、診断を後任の人間にまかせて、講演とか執筆などの、先々までの仕事を早回ししてやっていた。あのころ、そういう別の仕事でいつも気忙しかったのだけれど、病理診断というメインの仕事を減らしていたぶん、常に「働けていない」感にまとわりつかれていた。今にして思うと軽くうつ状態に入っていたようにも思う。私の場合、うつ状態に入ることでようやく人並みの口数になるのであまり気づきづらいのだけれど、自分で振り返るとあのころは当社比でかなり落ち込んでいた。だいぶ静かになっていた。
あれから半年ほど経って、今の私は、まただんだんとうるさくなってきている。
尊敬する2人の人間が、立て続けに同じようなことを書いていた。ひとりはライターで、「人に読まれるために文章を開くのと、自分のために文章を閉じるのと、その両方のやりかたに自覚的でないといけないですよ」みたいなことを、とてもわかりやすくやさしい文章で書いていた。もう一人は外科医で、「どうやったらたくさんの人に文章を届けられるかというのを、キャリアの最初からだいぶ研究して、多くの人に振り向いてもらえるような文章の書き方の練習をずいぶんやった」ということを、これまたすごく明快でいやみのないきちんとした文章で書いていた。
彼らの言うことはすばらしい。
かつ、私は今、とても調子が良くなってきている。だからそういう王道を歩く彼らの文章を、真似しようという気が、一切起きない。
わかりにくい文章を狙って書きたいというわけではない。自分だけがわかる文章だけ書いていたいという意味ではない。でも、そういう、多くの人に伝えるとか、わかりやすく書くという努力とは違う部分で、私はなんというか、必死で努力してなにかを書いてみたい。努力してわかりやすくするのとは違う方向のなにか。
決して社会とコミュニケーションするのに興味がなくなったわけではない。けれども社会とコミュニケーションして書くものというのは、わりと狭い枠内におさめていかなければいけない。まあ、それも、それで、やりがいがあって楽しいのだろうけれど、私は、たとえば、コミュニケーションする相手を社会ではなく、自分の声帯にしてみたらどうかなと思う。
これから私がなにかをしゃべろうとする、その、声帯が震えるその、直前に、声帯をわっと驚かせてやるのだ、声帯の肩をぽんと叩いて振り返ったところで変顔でもして驚かせてやるのだ、そしたら声帯が、ひっとびっくりして、うっかり違うことを、それまで考えてもいなかった順列の、使ったことのなかった声色で、普段つなげることのない連想が、へんな、ふしぎの、ひねくれで、びかびかに輝く、一期一会は、心に澱のように、そういう炸裂的な間違い・ずれ・稲妻・開け方をしっぱいした・ポテチやふりかけの中身の・散らばるような・星の海の光、そういったことが、声帯を驚かすことでなにか起こったりしないかな。そういうコミュニケーションをしたい。私は声帯を驚かせるようなコミュニケーションをする。私の意識が、あるいは無意識が先導しているのかもしれないが、なにかを「しよう」と思うちょっと前に、それを微弱にずらして結果的にぜんぜん違う思索の中に私を連れて行くようなこと。私の最前線で私をアピールする声の出どころ、指のつけね、そこのところと、ゴシゴシコミュニケーションするような文章を書いて、私は私から出てくる知らないものを見て小躍りしてみたいのだ。開いても閉じてもいない、割れ鍋に一輪の花。それくらいのことを楽しく毎日やれたらいいんじゃないかとけっこうまじめに考えている。
虚数時間に生きる手もあった
土曜日の私は5:30のアラームをやり過ごして二度寝に入り、次のアラームはいつもよりもだいぶ遅めの6:30に設定してあった。出張時限定のむさぼるような睡眠。幸せを噛み締める。うつつの縁辺で意識レベルを下げる遊びの真っ最中、アラーム音以外は常時バイブレーション設定にしてあるスマホが振動した。気にせずにいれば幸せは続く、しかし、振動だけというのが気にかかる、スヌーズではないということだ。なんだろう、ちょっと慌ててスマホを手に取る。時刻は6:18。妻からか。アイコンをみる。1度しか振動していないのに未読件数が「2」。いやな予感がする。アイコンをタップすると果たして、JAL+JALからのLINEが来たことを示すLINE公式の通知(これほんとやめてほしい)。いつもはフライトの2時間前に来るはずのLINEが6:18に来た。つまりこれは、天候調査のしらせだろうか、天候調査のしらせであってくれ! と思って確認、それよりはるかに悪い、欠航のしらせなのであった。意識の上にのっかっていた重たいタオルケットのような睡眠の残像を地引き網のように引っ剥がして体を起こす。指とスマホの接地点がまだぼんやりしているがすぐさまANAのアプリを開いて代替便を探す、が、おかしい、該当する便がない、まさか、一日に3便は飛んでいるはず、運行状況を急いでチェックすると釧路・千歳のANA便は本日全便欠航している。心底驚いて窓の外を見る。うっすらと雪が積もっている。あまり知られていないが北海道の東部・太平洋側は雪が非常に少なく、釧路で雪が積もることはめったにないので、たまに積もると飛行機が止まるのだ。ANAの千歳便は判断(=あきらめ)が早いことに定評があり、JALの丘珠便はぎりぎりまで粘って結局飛ばないタイプの困った子だ。JALの次便は15:20釧路空港発。こちらはまだ飛ぶかもしれないので、いちおう予約をとっておく。私の乗るはずだった飛行機の同乗者たちが起床して予約をとりなおす前に急いで押さえておく、そうしないとすぐに満席になってしまう。ここまでの判断は、釧路出張20年をむかえる私の経験則によって行われる。しかし問題は、本日、小児外科学会の地方会でWeb講演を担当するということである。そしてその講演の時間が14:00~14:45だということである。うーむ空港で講演か。なんならこの講演の真っ最中に保安検査を通過するくらいのタイミングか。できればどこかに落ち着いておきたい。ここでようやくJRとバスの存在を思い出す。そしてすぐにがっくりとする。釧路発札幌行の始発、おおぞら2号は6:18発だ。飛行機の欠航を知らせる6:18の通知で起床したのだから、身支度にマイナス10分かけ、朝食にマイナス10分かけてから駅に向かってなんとかぎりぎりマイナス時間で間に合う、くらいの可能性であり、現実問題としてそれはちょっとぎりぎり人間には難しいのである。次便、おおぞら4号ならば札幌についてからぎりぎり講演が可能だが、あいにくの満席。指定・グリーンとも満席で、この特急には自由席がない。都市間バス、わかりにくい、検索をくりかえしてようやく出てくる予約サイトはやっぱり満席なのであった。ほかのルートを考えるがひとりでは難しく妻にLINEする。すぐに手伝ってくれる。いろいろ教えてくれる。タクシーで帯広あたりまで行ってみては? だいたい45000円くらいかかるらしいよ。そもそも帯広→札幌のJRが満席だね。レンタカーは? 乗り捨て可能のやつで札幌まで走ってみては。満車だね。釧路から網走まで釧網線で3時間ちょっと移動してから女満別空港から札幌に飛ぶと? ぎりぎり講演の時間に引っかかるね。羽田経由は? 今回の欠航が釧路空港側の問題だから羽田便もきびしいね。
札幌に移動してからの外勤先にも連絡をする。今日はちょっと無理そうです、明日、日曜日の午前中に、ひとつ別件の仕事をしてからうかがいますが、午後には旭川に移動するので業務量はいつもよりちょっと減ってしまうかもしれませんが可能ですか。外勤先で教わりにくる研修医にも連絡する。お休みの日に朝からすみません。本日ですが出張が難しく明日になります。
ここまでやって7時を過ぎた。結局、空港で講演をしてから夕方の飛行機で丘珠に飛ぶということ、それ以外には暫定的には選ぶ手段がない。ホテルにはチェックアウトぎりぎりまでいていいだろう。空港にゆっくり向かって昼飯を食い、13時から学会にログインして14時から講演、地方会の大会長にもLINEで連絡を送っておいた。夕方の飛行機も欠航したら夜のJRでちんたら札幌に向かうしかない。それはさすがに空いているだろう。ホテルの朝食会場に行く。いつもよりだいぶのんびりだ。窓の外は霧のようになっていてうっすらと細かい雪が降っている。このまま振り続けたら午後の飛行機も無理かもしれないなと思う。
今回の話をブログに記録して、今後、また似たようなことが起こったときのために備忘録にするのもいいかもしれない。そうやってこの記事を書いた。8時33分。書き途中に、あっ、と気づいてえきねっとを検索する。JRは全席指定になっているが、立ち乗りができるのではないか? 指定席未指定券はオンラインでは購入できないが窓口では購入できる。釧路から帯広あたりまでは席があるから適当に座って、帯広からたくさん人が乗ってきたらそこで指定席をゆずって、あとは2時間半デッキで立っていれば12時半には札幌に着けるではないか。なぜこのことに気づけなかったのか。指定席未指定券などという制度が新しくてまだあまり使ったことがなかったから気づけなかった。しまった。おおぞら4号の発車時刻はいつだ? 8時32分。ぎりぎり過ぎているではないか。今からいそいで身支度をしてマイナス10分くらいかけてネクタイを閉め、高速で後ろ走りしてマイナス10分くらいで駅に着けば乗車は可能だ。現実問題として人間にはぎりぎりこの選択は難しいのだが、しかし、試してみる価値はあると思って私はマイナス時間の準備をはじめることにした。書き終えたブログの文章がどんどん消えていく。
雨にかわるまでの話
重量のありそうなみぞれが先ほどからドスドス降り注いでいる。昨日の夜のことを思い出した。私はまたちょっと下を向き、いままであまり気にしていなかった意識の四隅の、くらがりにたまった綿埃のような粗相の数々を思い出す。彼は言った、「忙しそうにしている人間といっしょに何かをやるの嫌だよ」。彼女は言った、「あなたは人に対してはとても優しく接するようになったけれど、システムに対しては遠慮なく怒るでしょう、そういうとき、とても怖いよ」。まだまだ気が回っていないものだなと思った。ぜんぜんうまくやれていないなと思った。
三国志とか信長の野望とかを昔やったんですよ。わかります? わかる、ならちょっと変なたとえをさせていただくとですね、ああいうゲームで、たとえば武力99の関羽を使うでしょう。それはもう圧倒的に、一騎打ちとかだったらすごい強いんですよね。でも、他国に攻め入るときに、関羽だけで出陣してもたぶん勝てないですよね。頭数がいるじゃないですか。麋竺とか廖化とか、とらえたばかりの蔡瑁とか、そういう、武力が60台・70台くらいの武将をきちんと運用しないと、あのゲーム、すっすっと進めていくことはできないと思うんですよね。いや、まあ、関羽と張飛と趙雲だけでばっさばっさ敵国を切り開いていくこともゲームだからできなくはないんですけど、領地が広がっていくとそういう「個の部力」だけでは展開できなくなるので、そういうかんじでやっている人は中盤くらいでゲームそのものに飽きて天下統一まですすめないまま新しいシナリオをはじめちゃったりしますよね。仕事ってそういうところないですか。武力99の人間がいればいいってもんじゃなくて、さまざまな武力の人間とみんなでやっていかないと、武力99の一騎打ちがゲームの主眼ならまだしも、そうじゃないわけですから。
話し相手はわかるわかる、という顔をしていたが、その実、この話題でもすこし傷ついているのかもしれなかった。ふたことめにはASDがどうとかADHDがどうとかいうネットの語彙に引っ張られて、個性のでこぼこをとりまとめた集団のありようみたいな話のゆくすえがいつも、階段の踊り場程度のプラトーで安定してしまってそれ以上登っていけなくなることに、私はなんだかいらついているのかもしれなかった。
「やらなきゃいけないってのはわかってるんだけど、やらなきゃいけないって気持ちだけでやれるなら、やらなきゃいけないって思う前にできちゃってるんだよね。やらなきゃいけないって気持ちが出てくる時点で、それはもう、気持ちだけじゃやれない状態に、自分がなっているってことで、その場合、誰かの助けを借りるとか、誰かに引っ張ってもらうとかしないと、そこから先にはぜんぜん進んでいかないんだよね」
なんの反論もない話に私はとても納得し、かつ、なぜか、理由はわからないけれど、私はすこし傷ついているのかもしれないと思った。小さな傷がつくことで新品よりも説得力が増すタイプの商品というのがあり、それはたとえばバットであるとか、竹刀であるとか、革製のカバンであったりするのだけれど、「傷が味になるんだよ」なんてことを言い出す人間のことを私は徹頭徹尾、ぜんぜん、心の底から信用していない。
国際線ならまだギリわからなくもないが
前に立つ男のスーツがテロテロしている。高そうな生地だ。よくは知らないが私のよりは高いだろう。刈り上げた襟足の上に早朝しっかりセットされたサボテンが乗っている。上半身は微妙にむっちりとしている。下半身はやけにスリムなパンツ。年収が2500万を超えた更年期直前の男性にありがちなゲシュタルトである。ちんたらスマホを取り出して搭乗券の2次元バーコードを読み取り機に読ませる、その動作で私とその後ろに小さな列ができる。きびきびとしているのに無駄の多い動きをする。保安検査場の手前にあるカゴをいかにも慣れているといった手つきで3つとり、カバンを置き、カバンから取り出したPCとスマホ2台を置き、最後のカゴにジャケットを脱いで入れて、ブーツをスリッパに履き替えて靴カゴをジャケットの入ったカゴの上に載せた。いちいち後ろに小さな列ができる。ふと彼の腰に目をやると、「宮の沢」と書かれたクリーニングのタグが、ベルトを通す穴のあのヒモのところにしっかりくっついている。宮の沢から来たんだ。教えてやろうかとしばらく考えた。一言目はどうなるべきであろうか。「あのーすみません」。みすぼらしい中年から早朝にあのーすみませんで話しかけられる一日というのはあまりうれしくないだろうなと、なんだか気後れしてしまう。「お兄さん。ちょいとそこのお兄さん」。これができるキャラなら私の人生は落語的におもしろくなっていった可能性がある。「そこの少年」。800歳生きる何かの化身のロリババアならば今ここで口にしても違和感はない。いっそ英語でしゃべったほうが一周回ってお互いにわけわかんなくなっていいかもしれないなと思っているうちに男は保安検査を通過しようとしている。彼のタグが誰かに気づかれる可能性は低いだろう。冬だ。ジャケットを脱いで人前で一回転するようなこともあるまい。旅先で不倫などする場合には不倫相手に見咎められる可能性はあるだろう。ただその場合むしろ「かわいいところあるのね」とポジティブに受け止められて夜のアクセントになるだろうから別に悪いことでもあるまい。まあいいか。つけたままで。誰も困るまい。ピー。保安検査に引っかかったようだ。まさかあのタグが、と、一瞬思ったけれど、彼は左手に2個も腕時計をしていて、それらをじゃらじゃらと外してもういちど検査を通過して今度は普通にクリアしてジャケットを脱いでさっそうと保安検査場を後にしていった。時計2個してるやつ普通にキモいなと思った。
トータルリコール
春になると車での移動がふえ、公共交通機関に乗る機会がちょっとだけ減る。本を読む回数も減りそうである。かわりにPodcastを聴く時間が増える。まあそうなるだろうなと思っていたのだけれど、ちかごろはまだ冬なのに、本をあまり読んでいない。となれば春がきたらもっと読まなくなるだろう。
本を読まずに何をしているのか。かつて読んだマンガをKindleで再読してばかりいる。マンガも本だよ、とかいうツッコミもあるだろうが、何度も何度も読んだマンガ、実家にいけば全巻揃っているものをKindleで買い直したもの、というのは、なんだろう、本、というくくりの中にいれていいのかちょっと迷うところがある。とりあえず、新刊とか未読の本を入手して、サラの状態から読むということをこの冬はほとんどしていない。ドラゴンボール全巻、からくりサーカス全巻、日常にまぎれこませるように、毎日短時間ずつ、断片的に読み進める、ひとつの完結作品を読み終えるのに、軽く2週間くらいかかる。この間、ほかの本はまず読まない。この冬、そうやって昔のマンガばかり読んでいた。いちおう、いくつか新しい本を買ってはみたのだけれど、あまり当たりと思える本がなかった。昨年末から2月にかけて、私がmixi2の新刊書評コミュニティに投稿したマンガ以外の本は、映画評論家の松崎さんが書いた『アカデミー賞入門』だけ。もう少し読んだほうがいいとは知っていた。そのほうが成長できるとかなにかになれるというのではなくて、そのほうが私のトータルとしてのストレスが低くなる。トータルでうまくいかなかったなと思う。じわり、じわりときしみが始まっている。
夜中、鼻の奥の、鼻と喉の交差点のあたりが腫れ始めた。昼からすこし気配があり、ああ、これは5年とか10年くらいにいちど私がかかるタイプの風邪だなとピンとくる。寝ている間、乾燥した空気を吸ったり吐いたりすると直撃する場所、ばんばん腫れてつばが飲み込めなくなるから、口の中がびしょびしょになる。寝ている間中ずっと、明日は地獄だな、ここから熱が出るのかなと気分が散逸していく、その心配も加わって、眠りが浅くなる。ただ、この症状はたまに経験する、記憶がある、だから今回はこの夜の時点で、私の場合の最適解と思われる「葛根湯の顆粒を推奨量の2倍ほど空きっ腹に流し込む」を試した。寝て起きる。すこしだけ喉がよくなっている。腫れの原因が撲滅されたとはあまり思わないが、粘膜における水分の出し入れのバランスがよくなったのか、腫れそのものは微妙に引いた気がする。まだ痛いことは痛い、けれども起きていろいろと準備をし、おそるおそる茶漬けを流し込んでみると、あまり気にならない。ヨーグルトも食えた。出勤するころには喉の痛みは無視できるくらいにはおさまっていた。全身が痛くなりそうな予感だけがあるのだけれど、熱は上がらない。通勤カバンのなかに葛根湯と龍角散ダイレクトを二袋ずつ入れる。
葛根湯の倍量服用が、人体にとっていいことなのかどうかはわからない。「嫌なことがあったら酒を飲んで忘れる」なみに、トータルでみるとよくないことをして気をそらしている。ただ、この、「トータルでみると」というのが、人生においてはいわゆる浅知恵なのではないか、という発想が、今、この文章を書いている間に静かに私の中に運ばれてきた。トータルでみてはいけないのではないか。みるなら局所に限るのではないか。みるならクローズアップが望ましいのではないか。ロングショットはにおわせ画像と一緒だ。その画角でその光景をまとめて扱っていることに対し、観察する側の意識がフレームの中でどうしても偏る、その偏りをコントロールすることがロングショットの画像に商品価値を与える、つまりロングショットというのはクローズアップのいち手法に過ぎないのだ。ほんとうに現象のトータルをまるごと撮影してしまったら、それは一周回って「完結した作品をあとから一言で語る」ような無粋なことになる。私は、トータルでなにかを見てはつまらない。ただ、葛根湯の倍量投与は、トータルでプラスとかマイナスとかいう以前に、今日という一日、この一瞬、私の体に対して、相撲取りの分厚い掌で頬やまぶたの皮の部分をごしごし圧迫するような、それくらいにしとけよ、というような圧をかけている気もして、少なくとも一般の方々にあまり気軽におすすめしてよい内容ではない気もする。
サンもシンもスンとせん
「簡易書留・速達」という組み合わせである。苦肉の策だ。金で解決。気づけば明後日必着だったのだ。市内ならば直接持っていきたいところだが。助成金の申請書、もうすぐ通りそうな論文を参考文献欄に付けられたらいいなと思って待っていたらこんなにぎりぎりになってしまった。今日の午前中には投函しないとだめである。メールならあと2日待てた。しかし現物の送付が必要となれば仕方がない。まあ、わかる。メールなんてろくな文化じゃないのだ。たとえば、メールのために人の命が助かったことがこれまでどれだけあったろうか? 山程あったろうな。
それにしても、参考文献の一番上に、in pressという言葉が踊るやつを一度やってみたかった。「こないだまさに通したばかりの研究の続きをやりたいから研究費おくれーっ!」拳を突き出したウーロンの顔に天空からぱさと舞い降りる不採択通知。しかたがない、in pressはunder revisionと書き直した。under minor revisionのほうがいいか? いまさらぐちぐちと悪あがきする。しかし生きるとは本質的に、すべからく悪あがきである(誤用表現)。みなすべからく努力しておる(有名な誤用表現)。
すべからく、で思い出したが、かつてソレカラスというのがいた。シーンが移り変わるところで「そーれから?」と合いの手を入れるだけのキャラクタ。あれはなんだったろうか、魔神英雄伝ワタルか? 忍者ハットリくんか? おぼろげな記憶の輪郭をもしゃもしゃ探ってみるがなかなか思い出せない、どちらでもない気がしたけれど、いざ検索してみるとハットリ君だった。なんだ俺の脳も捨てたもんじゃないな。でも覚えていたキャラとぜんぜん違う顔だった。脳捨てるか。ワタルのほうはあれだ、エックスキューズミー! だ。いまさら思い出した。しかしキャラ名を知らない。検索してみるとEXマンだそうだ。ぜんぜん深く設定する気のない名前で好感が持てる。現在に語ることがないあまりにブラウン管の記憶を掘り探して書き連ねている、しかしその、過去の、確度の低さたるや、まるで未来のことを話しているかのようにおぼろげで頼りない。来し方をおしはかる。
自分が支払ったコストのことをやたらと強調するタイプの若者に多く出会う。かくいう自分も人からみると、いや、自分自身を「それに気づくようになった今の自分からみると」、そのようにみえる気もする。わざわざ、せっかく、いちいち、が口癖になっているときは要注意だ。払ったもの、手に入れたもの、の話ばかりする私たちはつまらない。「交換」をうまく語るというのはとても難しいことだ、なぜなら、それは所詮、案と因と運と縁と恩でドライブされるだけのものであり、勘と金と組んで拳をコンとやるものではないからだ。
ひさびさに治らないタイプの寝癖がついた。水で濡らしたりはしたのだけれど今もはねたままだ。今日は学生実習があるし、いくつか人と会う仕事もあるし、帰りにはスーパーに寄って米を買ったりしたかった。Under major revisionとする。Rejectされないようにやりくりをすることになる。
小田和正の7枚目のアルバムタイトル
もちつもたれつ? 因果応報? なんという言葉を使うのがよいのかはよくわからないのだけれど、私は、なにかを得る場合、代わりになにかをどこかで失っていなければバランスがとれなくてちょっと気持ち悪いと感じる。公平仮説的なことを言いたいのではなく、商品と料金みたいなことだ。たとえば、火力発電で電気を得るためには化石燃料を消費する必要がある、というのはシンプルでわかりやすい。そこまで生活から距離をとらなくても、それこそパンを買うなら代金がいる、みたいな話でもいいし、たくさん考えたら腹が減る、くらいのぼんやりとした「失い」であっても納得はできる。で、まあ、ほとんどのものはそういう、支払いモデルで丸くおさまるのだけれど、昔からかねがね、心のどこかで納得できていないのが「風力発電」だ。あれはなんというか、なにも失わずに電力だけ得ている、ズルいやりかただなという印象が、この年齢になってもずっと残っている。ひどい言いがかりみたいだけれど印象の話なのであまり目くじらを立てないでほしい。まあ、風力発電も厳密には失うものはあって、景観が壊されるだとか、希少な猛禽類がプロペラに激突して死んでしまう痛ましい事故があるとか、そういうことを言い出せば、「失わないことなんてないんだよ」みたいな話にまっすぐつなげていくこともできる。でもそういうことじゃないのだ。今ここで私が言いたいのは、倫理とか正義の話ではなく、もっとばくぜんとした、身も蓋もないコトをいうと「おとしまえ」とか「けじめ」みたいなものから風力発電は逃走している気がするなあと言いたいだけなのだ。いいとか悪いとかではなしに。
書くのがむずかしい話だなと思う。書くのが簡単な話というのがどれだけあるかはわからないけれど。
思えば、子どもが笑ってかわいいね、みたいなことは、書くのがすごく簡単だなと思う。いや、まあ、「よく読ませる」のはむずかしい。でも、書くこと自体は容易である。「子どもが笑ってかわいいね」と書いた言葉が、自分の心の動きを、雑ではあるが真ん中のあたりできちんと言い表していることが、「簡単に書ける(ただし繰り返すがそれが上手かどうかはまた別)」という感覚につながる。けれども、「風力発電はなんかずるい」みたいな話は、どうも、「なんか」も「ずるい」にしても、じつは「風力発電」にしても、ほんとうはそれが真ん中にある話じゃないんじゃないか、というニュアンスを、マントのように装着し、ひらひら翻していちいち目障りだ。こないだのブログで書いた諷喩の話、またそういう、寓意的なことをやりたいんだなと思われがちでもある。しかし私は、風力発電ってなんかずるいと感じるのって俺だけ? みたいなことを書きたかったわけだし、それをずらしてなにかに持っていきたいわけでもなかったのだ。にもかかわらず実際こうして書いてみると、「なんかずるいってのもへんな書き方だな、そうじゃないんだよな」となる。こういうのがまさに私にとっては「書くこと自体がむずかしい話」だなと思う。語彙があればいいのか? 文体が整っていればいいのか? そういうことなのかもしれないが、違うかもしれない。書いて、違うと、自分の反応を用いて、それをニトロとして次の爆発から推進力に変える、みたいなことなのか。それもいまいちずれている。うまく整理しきれていない。整理? 未整理のほうが筆が乗るということはないか? 筆? 炭のつながりの過程で文字が次の文字を連れてくるということもかつてはあったのだろう。それはもしかすると、きっちりと←送りバントを決める、のような、口にしっくりくるセットみたいなものとも似て、意味から文字が離れて踊っていく機会を増やすための仕組みだったのかもしれないし、意味から離れた文字のつらなりがかえって意味を照らし直すという効果にも繋がっていたのかも知れない。キーボードだとそのやりとりは失われただろうか。失われていないだろう。Tubular adenoma, low grade. という文字列をキーボードで打つときの、指の動き方はどこかバイエルをひく子どもの指先のようで、これをTubulovillous adenoma, low and high grade. と書こうとすると途端にぎくしゃくになるが、私はこの、Tubularのarのあたりからovviと指を打ち替えるときの、「よっこらしょ」のブレーキ感覚の最中に、顕微鏡で細胞配列が「管状」tubularのときと「管状絨毛状」tubulovillousのときの、なんとも言い難い、「重力加速度の違い」のような差、どこか体が一方向に持っていかれるときの不快もしくは快みたいなものを形態から感じ取るその瞬間の圧を、指にブレーキをかけるときの圧と重ね合わせて、細胞像をもう一度ふりかえるという「面倒」を乗り越えるための推進力にしている気がするのだ。つまり、違和があって、差異を見比べて、それを言葉にしながら待てよとふりかえる、その動き自体を私はけっこう歓迎している。でも、風力発電? っかあー! みたいなときの違和とか圧を私はべつにうれしいとは思っていないのだった。そこの違い。そこのずれ。そういう話を私はしたかったのか? そうかもしれないし、違うかもしれない。
ところでダーとはなんですか
査読が早い、とされる雑誌に投稿したらたしかにかなり早く結果を送ってくれて、それがだいぶ高評価でminor revision程度だったので、やったあ、楽勝、と思って4日くらいで再提出したのだが、そこから3週間くらい返事がない。Acceptされ次第、もうすぐしめきりの助成金の申請書に業績として書き込んで応募しようと思っていたのだけれど、ぎりぎり間に合わないかもしれない。産みたてホカホカの卵を使って卵かけご飯にしても、思ったより食感がよくなかったりする、みたいなことをやっている。論文とは研究費(の申請)にとって、ご飯に対する卵のようなものだ、と、直喩でうまいこと言った気になるも、あまり、うまくない。あまりうまくないと言えば、昨日、もめん豆腐にカツオのふりかけをかけて、塩昆布を乗せて、手軽でうまそうな一品が数秒で出来たと喜んだ。しかしせっかくだからあっためるか、と思ってレンジで1分ほどポピしたら、もめん豆腐から出た水分でふりかけの「渇き」が奪われ、塩昆布の歯ごたえと表面に浮き出た塩の部分が流れ去り、なんだか全体にぐにぐにしたあたたかいだけの食べ物になってしまって、ダーとなった。付け合せ、取り合わせ、むずかしい。ありふれたレシピを離れてうまいものを作るのは素人には荷が重い。歴史の選択圧を通過してきたメニューたちの強さを思う。「味噌汁 具の組み合わせ」で検索して出てくる画像の大半を食ったことがある。料理をたくさんするようになって、はじめて、よくある食べ合わせのみごとさに舌を巻く。Google検索のない時代から、親も、祖父母も、あるいはどこぞのホテルや旅館や病院の食堂やらの厨房のひとびとも、自然とたどり着いたレシピというのがあって、それはこうしてあらゆる情報がいいねによって瞬時に精査されていく時代にも、きちんと残り続けている。同様のことは、がんゲノム時代以降に信じられないくらいたくさんの新規研究が行われているにもかかわらず、決定的なドライバー変異が新規に発見されることがないというのにも似ている。似てはいないか。
アレゴリーって日本語でなんていうのかなと検索していると「諷喩」だった。ちょうゆ、豆腐にかけたい、みたいなことを考えながら読み仮名をさがすと「ふうゆ」。公瑾である。類義語、「ぐうい」。竜馬である。新世紀エヴァンジェリアンあたりからオタクはおろか一般人のあいだでも「何かを表してるんだろうけれどそれが具体的になんなのかは一切語られない→考察のしがいがある!」みたいな空気が支配的になって、「考察勢」みたいな言葉も普通に使われるようになって(なにが勢だよと思う)、おそらく私もその影響をどっぷりと受けている。語りきらず、思わせぶり、符牒、のようなことをあちこちに書いたり語ったりすることが長い日常になっている。もともとアレゴリーというジャンルは神とか神話とか、宗教のモチーフをそうと書かずに表すための手段だったのだとGeminiくんだりは適当なことを言った。宗教的なものを対象にしていなくてもアレゴリーが入るととたんにある種の「宗教臭さ」が出てくる気がする、それは構造からの誤読なのかと思う。ただ、諷喩的表現とはそもそも人間の脳が宗教的モチーフを好意的に解釈するために必要な装置なので、それは誤読というよりは宗教の芽を掘り出しているような話なのかもしれない。岡本真夜はアスファルトに咲く花には目を向けたが芽には目を向けなかったのではないかと思う。
「周りに具体的なことを何も告げずに、思わせぶりなことを書いて周りに投げつけていく」という行為は、『アリスと蔵六』でいうところの、「ワンダーランドが世界を知ろうとしている」ときの行為に似ている。あの作品でいうワンダーランド、あるいは、作中でキングと呼ばれるキャラクタは、いちいち世界に対してちょっかいをかけていくのだけれど、周りからみるとそのちょっかいがどのような意図によるものなのかはイマイチ離開できないし、そのちょっかいによって世界はそれなりにダメージを負ったり大きく変貌させられたりする。ワンダーランドやキングのちょっかいはけっこう大変な迷惑になっている。しかし、世界の損害や変貌のありようを観察することで世界を知り、それが楽しいからまた世界にちょっかいをかけて、なんならこれが世界とのコミュニケーションのありようだと鼻をふくらませる行為は、倫理委員会の許可を通さない介入試験と五十歩百歩であって、うまいことエクスキューズを積み重ねて原罪に目をつぶるための下ごしらえをきちんと通せば査読も通過するし業績として認められもする。私はもっと直喩的に過ごしたほうがいい。私はまるで論文をretractionした教授の秘書のような顔になっている。私はまるで花に咲かれて根に持ち上げられてひびわれたアスファルトのようである。
6本の狂ったハガネの振動
毎日ふとんに入ると気絶しているので、眠れなくて困ったことというのはめったにないのだが、昨晩、なぜか眠れなかった。たぶん断続的に眠ってはいるのだが、窓の外から地鳴りのような排雪の音が、意識の路面の隙間に入り込み、中で凍ってふくらんで、亀裂を広げていく。体感で1時間半くらいはごそごそしている。いったんお手洗いに起きる。スマホをみると灯りを消してから3時間経っている。体感と合っていないなと思う。1時間半ほどは意識を失っていたのか、それとも、眠れなくてごそごそしているときの銀河は高速で移動しており覚醒するとウラシマ効果で時間がゆっくりに戻るということか、どちらかを証明する手段がない。眠れない夜も横になっているだけで疲れは取れるという、占い師の口八丁が心を軽くする。ふとんに戻ってからも右に左に寝返りを打ちながら、数週間後の運転のスケジュールを思い浮かべ、半年後の出張の乗り継ぎと宿泊のタイミングを考え、昨年投稿したらおそらくAIで査読されてrejectされた症例報告の再投稿について、他学での一括倫理審査にあたって本学で出すはずだったyousiki_Aをまだ出していないことについて、音声認識でブログを入力してもちっともうまくいかなかった5年くらい前のことについて、死んだ病理医と最後に差し向かいで飯を食った店の内装、泥酔した吉村秀樹から送られてきたブッチャーズのマークの入ったコースター、やりとりのなくなったインターネットの友人、前の職場のメールでしか連絡を取り合っていなかった仕事相手、こないだの祝日に捨てた、5年着た上着の、チャックが必ずゆがんで尾根のような形になってしまうタイプの劣化。久しぶりに出す本の、表紙のイラストレーションを、ある漫画家に依頼するメールがCCで私に届いた。スマホの着信音を出さなくなって久しく、連絡はすべて振動によって届く。光も音も熱も振動なのだから、それはそうだ、では、振動以外で伝導するというのはありうるか。ないように思う。振動なしにここからあそこまで何かが届くということはないのだ。寄せては返す波打ち際で、過去と未来を考えることも振動、脳内でシナプスがついたり離れたりするのも振動、シナプス間隙の神経伝達物質の放出と取り込みも振動、髄鞘をスキップして軸索を伝導する電気刺激にも振幅がある。ふたつの銀行口座の入出金履歴をみる。この半年、出たり入ったりを繰り返し、微妙に貯金が減っている。急な出金があったから今回はしょうがないのだと慌てた心を抑えるが、この出金、べつにこれからも急に生じるだろう、1回こっきりと許容して安心している場合ではない。出産祝や香典のようなものだ。思い出した儀礼の準備について、明日になったら忘れているかもしれないからと、自分のGmailにメールを打つ、すぐにスマホが震えて着信する、5秒後のスヌーズをスマホ横のスイッチでキャンセルしてまた寝返りをうつ。どこにも移動はしていない。その場で往復している。購入してからしばらくの間、柔らかくて気に食わないと感じていたマットレスに、近頃はすっかり慣れていたのに、眠れない夜には弱いスプリングと鼓膜が同期して共振してハウリングを起こす。興味・過敏。思い出・過敏。コスナー・過敏。切り出しでナイフを使うとき、レーザー・ポインタをスクリーンに向けて照射するとき、震える右手に左手を添える。添えるだけの左手。添える左手だけが感じる右手の振動。5時間、朝が来て、25日だ、アフタヌーンが更新されている。フラジャイルを読む。物語が振動しはじめている。波よ聞いてくれを読む。そのままずばりの波だなと思う。あさやけリフレインというあまり話題にはなっていない青春バンドガールストーリーの、表紙の、編集者がつけるであろう煽りの文句が、「6本の弦と数え切れない衝動」とあって、向井秀徳を超音波マッサージャーでみじんに砕いてから組み直したようなフレーズだなと思った。
いいえちがいます
いまだにOutlookを使っている俺が悪いといえば悪いのかもしれないが、メールソフトのエラーでPCが固まると気分がみだれる。気分とはすなわちうちゅうのほうそくなので、灰色の画面背景を白い光が横にびゅんびゅん通り過ぎていってグランドクロスもしくはアルマゲストである。レベルをきちんと上げてHPを6500以上にしておくとあまり問題がないのだが、3500くらいだと打ちどころが悪いとパーティのうち2名もしくは3名がせんとうふのうとなり、リターンなどをもちいてやり直して運まかせのループに入るしかなくなる。これだから嘔吐ルックはこまるのだ。
しかしWindowsまわりのアプリも前に比べるとだいぶよくなったことは間違いがない。電子カルテの入ったPCは厳重にインターネットから隔絶されているために、ソフトウェアのオンラインでのアップデートができないので、自然と搭載されているPowerPointのバージョンも古いままとなるわけだが、2016のバージョンを使うととにかく細かいところがほんとうに不親切で笑ってしまう。画像を貼ったときのずれの補正とかサイズの自動設定あたりが逐一使いづらい。最新のPowerPointだとあまり気にしていないのだけれど、逆に、「気にしなくてもいいくらいに調整された」ということなのだな、と感じる。10年でこれだけ変わるのか。人間は10年だと何も変わらないのだが。諸行無常とは自然よりも人工物により成り立つ。自然は意外と踏みとどまるものだ。だらしなくしがみつくものだ。こだわり、頑固で、いじましい。人の作ったもののほうがよっぽどあっさりと移り変わっていく。
同僚の配偶者が出産をしたらしい。めでたいことだ。子どもは10年などといわず10日で変わっていく生き物だ。そうか、自然も、みずみずしいところは、変わるのだ。ゆく川のながれのそばでカサカサに枯れた草木ばかり見ていれば有為転変のことわりには思い至らなかった可能性もある。そんな「分画」した視線を持ち合わせた人間というのがどれだけいるのか私にはわからないが。
モナ・リザの微笑の口元は、中心視だと引き結んでみえるが辺縁視だとやや微笑んでみえる、みたいなことを読んだことがある。エリック・カンデルの『芸術・無意識・脳』だったか、あるいは放送大学かなにかの錯視をあつかった教科書だったかと思う。剣道をやっていたときに、両眼視のフォーカスを相手の後方3メートルくらいに置いて、相手の目とか剣尖といった特定の場所を強くみるのではなく、もっと全体をぼんやり引き気味にみることで、ぼやけはするが手元と足先とを同時にみることができるようになるのだ! と師匠におそわり、果たしてそのようにしてみたらぼやけすぎて結局よくわからずめちゃくちゃに面やら小手やらを打ち込まれた記憶があって、なんだよ嘘つくんじゃねぇよとあのときはだいぶ息巻いたものだったが、今にして思うと、フォーカスを前後にずらすのではなく、辺縁視からの情報に敏感になるような脳のいじり方をすればよかったのか、と気づくし、実際「意識的にみてはいないのだけれど、相手の体全体から、今、足が動き始めたなと、みてはいないのにみえた」という記憶が何度かあって、あれはたぶんそういうことだったのだろうなと腑に落ちる。
ああ! まさか!! Outlookって!!! そういう意味なのかあ!!!!
それでこそ世界
当番表をつくったら若いスタッフが「もっと働きたい」とか「市原先生の負担が大きすぎる、もっと減らしてください」などというのでおどろいた。馬齢を重ねて立場が上になることの一番のメリットが「自分にたっぷりと仕事を割り振れること」だったのに、こんなことを言われてしまうとはすごく残念だ。あまり予想していなかった。これからは、仕事をしたい人たちのために私の仕事を減らさなければいけないのだ。「働きたいように働く」なんていう日々はやってこない。そんな日々は夢まぼろしのごとくなり。4月と6月にふたつの学会が終わったら、私は私の仕事をすこし減らしてみんなに割り振ろう。ぜひにおよばず。「公平」ばかり求めてくる世界は残念だ。偏りと濃度勾配のなかで分化のベクトルに差がつく結果、合目的な機能をかろうじて発揮している、小腸絨毛陰窩のような私にとって、しみじみやりにくくてならない。
自我、しまっていこう。
急速に気温が高まってきてダウンでは不便になってきた。そこまで保温しなくてよくない? ほおん? そんなこと言うんだ? 虎杖悠仁の着ているタイプのマウンテンパーカーを出す。いろいろめんどうになった近年、ジャケットスタイルの日にもスーツスタイルの日にもこれを着ることでシルエットが一気に自認のずれた痛い中年になる。まあこれしか持ってないからしかたないよ、という感じで着ている。しかし今日、着てみると、ジッパーがうまく上がらないのだ。私がふとったとかそういう話ではなくて、ジッパーの機構自体がぼろついていて、引っかかったり角度が変な状態で留められたりしてしまう。生地自体はまだしっかりしているのにジッパーがだめだとなんだか全体がだめになったような気持ちになる。前開きで着ると、冬の北海道民が雪かきのときにだけ着る、DCMで売っている1980円のアノラックみたいに、フードの裾野が左右にひろがってすごくざんねんな風貌になってしまう。デザインがふるくなったとか飽きたとかじゃなく、チャックがちゃくっと閉められなくなったという理由で服を買い替えるのか。すごくいやだな。三井アウトレットパーク北広島あたりで格安の上着を探しにいくべきだろう。ユニクロでもいいのだけれど、大学内にはユニクロを着こなす先輩医師がたくさんいるのでいわゆるおそろが発生しやすいのがちょっと悲しい。見た目にこだわるかどうかという話ではなくおじさんペアルック、もしくはマークはせいぜい4種類だけど誰も気にしていなくてとりあえず数字が合っていたら取って捨てようおじさんババ抜き状態になるのがいやなのである。おじさんなのにババ抜き。おじさんだから、いいのか。
ヤサイマシ自我ヌキ。
公平、いらない価値観だ。ヨーロッパではいろいろ理由があってそうせざるを得なかったというだけではないか。今の日本の、北海道の、旭川とか札幌とか帯広とか釧路とか、そういった場末の土地の、病院とか大学とか、そういった限界の集落において、それは必要な法なのか。弱者のために必要な制度だと言われても、そもそも強弱を認定できる程度の価値判断をしている人間に、言われたくはない。気付いたものが汗をかき、知っているものがババを引き、わからないものは働かなくて、負担も感じず、それで日々たのしく知らずにやっていく。理不尽の中に巣を張り、凍えるものがいれば巣を明け渡して夜に飛ぶ。不可逆の川を船でわたり、溺れるものがいれば船をゆずって夜に泳ぐ。邪魔しないでくれ、平らすぎて加速度がつかないサーキットなんてつまんないんだよ。
3号車の自動ドアに手をかざす。休日なのに制服姿の女子高生が3人いて、特急の座席の向きをかえて4人がけにしようとわいわいやっている。うしろにおじさんがひとりつっかえていて、うん、わかる、この女子高生がじゃまで通路を通れないんだなと思ったら、おもむろにそのおじさんが、「ここ踏むんだよ」と言って座席の下のバーを足で踏むので私はびっくりした、お、お、おっさん、ここで話しかけるの超勇気あるな、捕まるぞ、と思ったら女子高生たちが口々に「さすが」「年の功」「つかえる」とか言うんでさらにびっくりして、じょ、じょ、常識高校生、そこで返事すんのかよ、と思ったらどうやらそのおじさんが引率の教員のようなのだ。私はその横を半透明になって通り過ぎ、5号車なかほどの窓際に腰を降ろす。4人がけの座席に4人で座った人間たちの嬌声が、深川を過ぎても、滝川を過ぎても、美唄を過ぎてもずっと続いていて、なんだかすごく不公平だなと思った。
くまのこ見ていたあまえんぼう
脱字をひとつ直して本登録してから裏側のPCに向き直る。こう書けば私には伝わる。今の職場で、私は向かい合うデスク2つを使って仕事をしていて、真ん中に椅子を1脚おいて日がな一日くるくる180度回転をくりかえしている。診断用のイントラPCと、私物のインターネット用PCとがそれぞれのデスクにおいてあるので、ネットで検索した論文を見ながら診断をしようとすれば後ろ・前・後ろ・前と半回転ずつしながら螺旋のように仕事を進めていく。このスタイルで5か月が経過したがうんざりしている。春にはまた席替えの予定があり、そこで前のような90度ずらしの配置に直すつもりではあるのだが、ただ、うんざりはしているのだけれど、頚椎症にはこれくらいのほうがちょうどいいのかもしれない。たかだか180度の回転であっても姿勢がそのときすこしよくなることで脊髄への負担をすこし軽くできている。誤字をひとつ見つけて無視してから表側のPCに向き直る。
「裏側のPC」といえばAIの作画だ。Copilotという無能なAIにパワポづくりのファーストステップを任せてみた。「周術期の肺検体の取扱い方」というテーマだけ与えて10分くらい待つ。なにかおもしろいイラストでも生成したらそれを使ってやってもいい、くらいの気分で待つ。はたして、雑な項目列挙のスライドが20枚ほど出力された。なかにはいくつかそれっぽいイラストも生成されている。使ってもいいがひとめでAIとわかるタイプのイラストはもう聴衆のほうが飽き飽きしているのでリスクしか感じない。そんなイラストの中に、白衣を来た研究者がこちら側を向いてなにやら調べ物をしている構図があったのだけれど、デスクトップPCのモニタが、研究者に相対するのではなく私たちのほうを向いていて、その中に「CANCER ANALYSIS(癌の研究)」と表示されていた。いや、この研究者、モニタの裏側見てんのかい、となる。イメージイラストだからこうしたほうがわかりやすい、というのがAIの判断なのだろう。しかし、人間としてはこういうイラストをみると「モニタの裏側にそんな眉根をひそめるような情報があるんか?」とおもしろがってしまう。PCの裏側といえばAIの作画。私もひと笑いしたあとで裏側のPCに向き直る。
仕事が増えるごとに機嫌が悪くなる人間というのが全国各地に散らばっている。その機嫌の悪さが低気圧となって上空を覆って地表に雪を吹き付ける。札幌では警報が鳴っている、札幌市LINEがそう教えてくれる。さっきからなんどもブーンブン、ブーンブンと鳴っている。札幌市LINEには返事をしたことがないので、つまり、私は札幌市に対してずっと既読スルーを繰り返していることになる。あるいは通知が来た3時間後くらいにスタンプでもぽんと返してやったほうがいいのかも。「LINEにすぐに返事をするのは中年ムーブ、相手のことをほんとうに考えているという雰囲気を伝えるならば、すこし待ってから返事をしたほうがよい」という、20代後半くらいの青年のコメントをテレビで見て、ははあ、上手に語るもんだなあ、うそつけ、と思いつつ、なんだか私はその現代マナーにちょっと共感するところがある。たしかに返事そのものよりも、返事がかえってくるまでのどっちつかずの時間のほうが、自分をしばっているなあと感じることはある。となればLINEの返事のタイミングこそは、意識・無意識とは関係無しに「そういう計算」の存在をほの見えさせるコミュニケーションの柱となるだろう、それを札幌市相手にやってどうするかという話でもあるが、私は基本的に自治体に対してはツンデレでいるくらいがちょうどいいと思う。つんけんしているけれど心の奥では感謝している。しかしまあそれは相手が自治体のLINEアカウントの赤いアイコンだから許されることで、人間相手にこれをやったら単なる人格破綻者だと思う。そもそも日常生活のベースが不機嫌の人間なんて全員頭がおかしい、ただ、じつは不機嫌がベースなのではなくツンデレがベースだとすると、ぎり許せる。許せるけれどぎりだ。「機嫌悪そうなのは『ふり』で、本当はもっと素直な自分を出していきたいけれど、なんらかの事情とか経緯、つらい過去などによって、そういった真っ直ぐな部分を表出する回路がさびついたまま今を迎えてしまったかなしい人」だと思えば腹も立たない、が、腹がぎり立たないだけで、そういうのは10代で終わりにしてほしい。どいつもこいつもコドナなんだから。人間と生きていくにあたって、上機嫌なペルソナ以外を使っているやつらは、そうやって他人に「じつはデレたがっている深層の自分」を引き出してもらおうとしているあまえんぼうである。SNSで愚痴なんか言うな、毎日ダジャレでも書いとけ、と私なんぞは思うのだが、まあ、みんな、あまえんぼうなのである。