前に立つ男のスーツがテロテロしている。高そうな生地だ。よくは知らないが私のよりは高いだろう。刈り上げた襟足の上に早朝しっかりセットされたサボテンが乗っている。上半身は微妙にむっちりとしている。下半身はやけにスリムなパンツ。年収が2500万を超えた更年期直前の男性にありがちなゲシュタルトである。ちんたらスマホを取り出して搭乗券の2次元バーコードを読み取り機に読ませる、その動作で私とその後ろに小さな列ができる。きびきびとしているのに無駄の多い動きをする。保安検査場の手前にあるカゴをいかにも慣れているといった手つきで3つとり、カバンを置き、カバンから取り出したPCとスマホ2台を置き、最後のカゴにジャケットを脱いで入れて、ブーツをスリッパに履き替えて靴カゴをジャケットの入ったカゴの上に載せた。いちいち後ろに小さな列ができる。ふと彼の腰に目をやると、「宮の沢」と書かれたクリーニングのタグが、ベルトを通す穴のあのヒモのところにしっかりくっついている。宮の沢から来たんだ。教えてやろうかとしばらく考えた。一言目はどうなるべきであろうか。「あのーすみません」。みすぼらしい中年から早朝にあのーすみませんで話しかけられる一日というのはあまりうれしくないだろうなと、なんだか気後れしてしまう。「お兄さん。ちょいとそこのお兄さん」。これができるキャラなら私の人生は落語的におもしろくなっていった可能性がある。「そこの少年」。800歳生きる何かの化身のロリババアならば今ここで口にしても違和感はない。いっそ英語でしゃべったほうが一周回ってお互いにわけわかんなくなっていいかもしれないなと思っているうちに男は保安検査を通過しようとしている。彼のタグが誰かに気づかれる可能性は低いだろう。冬だ。ジャケットを脱いで人前で一回転するようなこともあるまい。旅先で不倫などする場合には不倫相手に見咎められる可能性はあるだろう。ただその場合むしろ「かわいいところあるのね」とポジティブに受け止められて夜のアクセントになるだろうから別に悪いことでもあるまい。まあいいか。つけたままで。誰も困るまい。ピー。保安検査に引っかかったようだ。まさかあのタグが、と、一瞬思ったけれど、彼は左手に2個も腕時計をしていて、それらをじゃらじゃらと外してもういちど検査を通過して今度は普通にクリアしてジャケットを脱いでさっそうと保安検査場を後にしていった。時計2個してるやつ普通にキモいなと思った。