雪印メグミルクの(どうでもいいけど雪印って今は雪印メグミルクなのか)、「恵」と書かれたヨーグルトがあり、4つパックを買ってきて食べている。白桃が2つ、ゴールドキウイ(?)が2つというセットを今回は買ったのだが、この、ゴールドキウイというやつだけなんだかシャーベットというかジェラートっぽい食感である。ほかの会社のも含めてヨーグルトはたいていヨーグルトヨーグルトしているのだけれど、ゴールドキウイの恵だけシャベシャベジェラジェラしている。なんだか冷たさも増すように感じられる。その謎を解くため特派員たちは恵をさらに1パック買って奥地に向かった。ゴールドキウイと白桃を、同時に食べてみればよいのである。そんな豪華なことをできる日が来るとは思わなかった。ヨーグルトを、いちどに2個も食べるなんて! 血糖値とか血圧とか大丈夫なのだろうか? そこまでのものではないが? ゴールドキウイ。うむ。白桃。ほう。白桃のほうがちょっと入っている実がでかいな。なるほど。果物の実の成分が、ヨーグルト本体に比べると弾性があって塊感があって、舌にまとわりつく感じが少ないため、実の部分が入っていればいるほどヨーグルトは「わずかにぬるく感じる」のだということを今回知った。つまりゴールドキウイのほうには実が入っていないのだ。キウイの成分らしきものがペースト状となりヨーグルトと混ぜられていて、わずかに舌先にざらつきを感じる程度でいわゆる「キウイの実」を噛みしめる時間がない。全体が泥状のヨーグルトだから粘性も手伝って舌の表面にしっかりと冷たさを運ぶ、だからゴールドキウイのヨーグルトはほかより冷たく感じるのだろう。他の人は知らんが私にとっての真実はそういうことだ。「正しい診断」といっしょだ。その人の中のストーリーにはまっているかどうかだけで正しさは決まる。「正しい診断」は必ずしも学術的な妥当性とは一致しないし、まして、その診断が「正しく人を導くもの」とはまったく限らない。ゴールドキウイのヨーグルトが冷たく感じるのはキウイの実が粉微塵に砕かれていてヨーグルト自体の粘稠度と舌への密着性を高めているためである、これは私にとっては正しい、しかしYAZAWAはなんていうかな? いかんいかん、つい反射的に古いミームで満足してしまう。
人間たちの話
エキセントリックな人間たちの話を毎日しているなあと思った。
頭のなかで「エキセントリックな人間たちの話」という言葉をレイアウトしているうちに、柞刈湯葉「人間たちの話」はおもしろかったなということを思い出す。そう、人間たちの話は、おもしろいのだ。語り手によっては。それをおもしろがれないでいるということは私はよき語り手ではないのだと思う。部族とか集落とかの奥まった大きなテントで暮らしている長老とか酋長とかの中にもおそらく話がおもしろかった人とかおもしろくなかった人とかがいて、おもしろいことを言える長老がうまく三世代くらいつづいた場所ではその集団の歴史がきちんと語り継がれる一方で、おもしろいことを言えない長老があいだに挟まってしまった場合は、理解がむずかしいエピソードが歴史の中に異物として入り込んでしまって、物語が中だるみしてしまう、みたいなことも、あったとかなかったとか。ナホトカ。
どうだろう。それは。下手な語り部がいたことのある集団のほうが、歴史の重層化が起こって後世からするとかえっておもしろくなったりもするのではないか。大和朝廷とかもそういう感じだったんじゃないか。
このあと旭川から帯広まで運転をする。挨拶に行くのだ。むかしは、このルートに飛行機が飛んでいたという。今の旭川や帯広の市長に何度も何度も相談したら、また飛行機を飛ばしてくれるだろうか。もしそうなったらそれぞれの都市はどれくらい発展するだろうか。たいしてしないだろうなあ。けど、帯広とか釧路に暮らす高校生たちが、旭川の大学に来るのがちょっと楽になるだろうな。参考までに、旭川・帯広間は自家用車で3時間、バスだと3時間半ちょっとかかる。JRだと札幌乗り継ぎになるので、旭川→札幌で1時間半+札幌→帯広で2時間半の合計4時間。飛行機だとたぶん40分くらいである。空港までの移動を考えてもだいぶ短縮できる。まあそんなことを言い出したらきりがない。女満別と釧路だって飛行機で結んでほしかった。ぜんぶの組み合わせにぜんぶ飛行機が飛んでいたら私たちの仕事はどれだけ楽だったろう。世界に石油がどれだけあっても足りない。
手土産のお菓子を買いに行かないとな。壺屋でよいだろうか。壺屋の店員はやさしい。ただ、箱詰めのお菓子を買う人が少ないのか、セットを頼むとそこからえっちらおっちら、ひとつひとつお菓子を箱に詰めるところからはじめてくださる場合があり、急いでいるときはちょっと困る。まあそういうのをあまり扱わない店に行っている私が悪いのであって、大きな店舗に行けばよいのだろうが、こういう店選びというのは基本的には車が停めやすいところにあるかどうか、通り道にあるかどうか、みたいな基準で考えているのでしょうがない。あ、今、段落ふたつぶん、人間たちとはさほど関係のない話をしたなと思う。気づく。はっ、とする。それくらい私は日ごろほとんど人間たちの話ばかりしている。
ゆくすえを振り返る
インタールード
学会あけの仕事を粛々とこなしている。今日は本当はもう少し働きたいのだけれど、冷蔵庫に何も物が入っていないから、スーパーが開いている時間に職場を出てすこし買い出しをしないといけない。あまり閉店まぎわに行くと葉物野菜がぜんぜん残っていなかったりするので気をつけなければいけない。
と、こんな感じで書いてしまうと、職場でブログを書いていることがばれるからあまりよくない。今日はにちようびだ! いい天気だ! ごろごろしている! 畳最高! とかじゃないとだめだ。
夏休みを5日とらなければいけない、と言われてひっくり返ってしまった。働き方改革というのは、休みたい人が休めることと、働きたい人が働くこととを両立するからこそ改革なのではないか。
だいたいにして、改革とか改善といった言葉ばかり使う人間というのは信用できないものである。「だいたいにして」というのは方言だろうか。「きっともって」は方言な気がする。地方特有の言い回し、というもののうち、飲み屋でしか出てこないタイプの表現なんかもあって、そういったものを私はまだこの土地で収集しきっていない。というか札幌市北区北17条あたりの居酒屋でしか収集できていないのだけれど。
夏すぎには今の職場のめんつとも飯を食いに行ったり酒を飲みに行ったりできるだろうか。なんとなくだけれど、それくらいになるとさすがに私も、いろいろ慣れているのではないかと期待している。今はまだ、いろいろとやることが多くてそういう気分にはならない。
無事読めました
羽毛布団の上にタオルケットをかけている。そろそろ春だからしまってもいいのだ。でもこの重みが私を敷き布団に抑えつけてくれる気がしてなかなかしまえない。寝るときにはいつも、仕方なく寝る。落ちるのもしかたなく、飛ぶのも仕方なく。私は重い布団のために仕方なく眠りにつく。本当はもっともっと、やることがある。やらなければいけないことなど何もなく、やりたいことしかないわけでもないのだが。
明日は、かばんにひげ剃りをいれるのを忘れないようにしたい。
リゾートのYouTubeを見る。日差しがうそみたいで、うそみたいな日差しに照らされた出演者たちもまた皆うそみたいだった。カメラの基本はライティングだという。私もあるいは、強く照らされれば変わって見えるかも、ということを瞬間的に考える。
小細工などいらない。カメラにも顕微鏡にも言えることだ。人の間ではたらくならば様々な工夫は必要である。しかし、自分のためだけにならば、そんなものはいらない。根っこに貫通するくらいに力強く、芯の部分だけに手を伸ばせばそれでなんとかなると思うのだ。ただ、問題は、自分のためになることが、必ずしも自分にだけ向けて発射されるべきではないということである。
ここまで下書きで書いたまま2日くらい放置してしまった。ちょっとここんとこ忙しかった。燃え殻さんの連載も1週分くらい読み飛ばしているかもしれなくて、今、dマガジンを遡って、先週の新潮がまだ見られるかどうか、がんばって探しているところである。
春の日の本音
待ったなしに待った
学会にいる。ホルムズ海峡についてみんな話している。誇張ではない。病理検査室で検体処理に用いるキシレンやパラフィンが不足し、あと2か月でさまざまな検査が行えなくなる、という話で、全国の病理検査室や病理部は大騒ぎなのだ。その真っ只中に学会をやっているので、中核ポジの人は多くがちょっと目がうつろである。どうしたものかと頭を抱えている。キシレン。パラフィン。どちらもなければ病理検査ができない。検査など遅らせればいいではないか、というわけにはいかない。患者から採取された検体を、ただちにホルマリンに浸漬して、そこから48時間以内に溶媒で処理してパラフィン(ロウ)に埋め直すことで、私たちは「ホルマリン浸漬パラフィン包埋 formalin-fixed paraffin-embedded (FFPE)ブロック」を作製し、そこからプレパラートを作るわけだが、このFFPEブロックの作製が遅れると、検体に含まれるRNAやDNAが劣化してしまう。するとどうなるか? 患者の検体を用いた遺伝子検査に支障が出て、「この遺伝子変異がある人にはこの抗がん剤が効くんですよ」みたいな治療が一切行えなくなるのだ。世界情勢も待ったなしかもしれないが、今まさにがんを持っている人だって待ったなしだ。でもその待ったなしに待ったがかかる。とんでもないことなのだ。マジでみんな頭を抱えている。
そういったことを考えながらホテルのロビーでPCに向かってメールを打っている。目がもうろうとしてくる。あと1時間するとまた座長をする。今日は20時半ころにアドリブで「講評」なる仕事をする日でもあり、それまでずっと気が抜けない。そんな中、どーでもいいメール、どーでもいい広告が、じゃんじゃん届く。「ゴミ箱」のボタンしかついていないことがもどかしい。「市中引き回しの上シュレッダー獄門」みたいなボタンじゃないとこのメールは廃棄できないと思うのだ。
半チャーハンは半人前の料理ではなく一人前では足りない人のための料理
猛スピードで読者は
人の気持ちを書く作家の小説を立て続けに読んでいる、理由というか動機がやや不純で、こんどの学会で彼の講演の座長をするからだ。作品を読んでいないというのはまずい、と思って一夜漬け的読書をここ一ヶ月くらい続けている。もっとも、彼の作品を全く読んでこなかったわけではない、代表作と呼ばれるものを含めて小説2冊くらい読んだことがあったし、そのどちらもおもしろく、納得の、すごい作家だなとこの縁がなくても私は勝手に思っていた。さらに言えば、彼が別名義で書くエッセイのほうは小説よりもはるかに、かなりたくさん読んできて、つまり私は元々彼の愛読者と言っても過言ではない。ただ、愛読などと言っても、20年以上にまたがってぽつり、ぽつり、なことには違いないし、それはたとえば小川洋子とか梨木香歩などについても、サラ・ピンスカーとかアンディー・ウィアーについても言えることなのだけれど。私は彼の作品をこれまで読んできたし、きちんと好きだ、しかし、人生の時間を溶媒にして密度を測ってみれば、この体験はまだまだそこまで濃いものではない。座長をできるほど読み込んでいるとは言えない。だから今回はしっかり読んでみることにした。研いである白刃にさらに付け焼き刃、という感じである。
昔読んだもの、まだ読んでいないものなど、つぎつぎとKindleで購入。ありがたいことに、ちゃんとおもしろい。まあそれはそうなのだ、有名なプロの作家なのだ、そんなことはみんなが知っている、でも、つまらない作品というのがほんとうにぜんぜんなくて、どれを読んでもちゃんときちんとおもしろいので私はほっとしたし、それに対して少しぞっともした。
言葉が色とりどりで、たくさんの画角でカメラを向けてカット割りを豪勢にした映画のようだ。でも過剰とは感じない、じっくり据え置きのカメラで微弱な首のかしげかたを丁寧に撮影したドキュメンタリーのようでもある。読んでいると私の目も視神経も大脳新皮質も、それぞれ「まだやれる、私、まだやれます!」と叫んで、世界をこれまで以上に細かく華やかにみようとしはじめる。
私は本が好きだけれど実際には「小説のない期間」をけっこうな頻度で生きていて、そして、ふだんは「まあなんか小説って体力使うし一気に読まないとなんかついていけなくなるからまとまった時間も注ぎ込まなきゃいけないしちょっと面倒」とか言いながら、瞬間をだらだら積み上げる感じでSNSを見て結局本が読めたくらいの時間をつぶしてしまっているけれど、たまにこうして小説を読むと、読み終わってからしばらくの間、私自身が小説家となって私の登場する世界をきちんと描写してやらないと私という登場人物に悪い、という気持ちになる。あからさまに影響を受けまくる。ちょっと恥ずかしい。けれどそれこそが小説という媒体のもつ力なのかなと思う。
あらゆる小説が読者を小説家然とさせる力を持っているわけではなかろう。物語の世界から抜け出てこられないほどその後の登場人物に思いを馳せさせられる小説もあるし、小説家の技法・技術・作者性の部分に魅入らされる小説もある。そして今回は、「世界はもっと丁寧にみることができるのだなあ」ということを、ホームランを打った直後の確信歩きのようなドヤ顔の念押し的にじんわりと実感させられる、そういう体験をしており、これもまた小説なんだな、みたいなことを毎日うれしく味わっている。
沮授を待つ君の横で僕は麴義を気にしてる
呂翔が「今、春が来て君は紀霊になった」 みたいなことを言う同人誌もどこかにはあるのだろうと思いながら目が覚めた。寝る直前に袁紹軍のことを考えたからだと思う。朝から耳の中で鳴っているのはクラムボン。これは昨日クラムボンの有名な曲と同名のマンガを読んだからである。昨日か一昨日の目覚め、どっちだったか忘れたが、とにかく朝焼けのきつい5時15分にサカナクションが鳴っていた、それはたぶん寝る前に櫻井翔の顔を見たからで、櫻井翔→夜会→アイデンティティのサビ、という連想が、寝ている間に牛歩の遅さで進行し、目が覚めた瞬間にちょうどイントロが流れ出すくらいの状態になっていたのだろうと思う、ただし脳内オンエアはアイデンティティじゃなくて怪獣だったので途中に若干の混線は生じている。そういったことが自分の脳では頻繁に起こる。そういったことは誰の脳にも起こっている。だろうと思う。ではないかと勘ぐっている。みんなが私と同じかどうかは本当はわからない。それは比べようがない。アフロ脳科学のいうクオリアだかエモリアだかキシリアだかはさておくとしても、私の体感が同じ速度、同じ質感で誰にも生じているかどうかは本当に、比べようがない。BPMが速ければ速いほど音楽として優れているというわけでもないのだろうが、私の思考のBPMはじつはハチャメチャに遅いのではないか(※「ハチャメチャ」に「遅い」を接続した瞬間に一般的な字面からの違和が生じたが、シナプス間の電気信号の総和としての思考を考えると、ハチャメチャであればあるほど遅くなるだろうとは思う)、みたいなことを、現実と夢の境界に倒れ込む夜、スキップ、夢と現実の境界から顔を出す朝、の双方にふと思う。目覚めて、意識が無意識を覆い隠すまでのわずかな時間、天空から無意識に向かってかぶさる帷のすきまから見える中空に、循環しながらくるくると上空に駆け上がっていく雲雀の軌跡、その残像が心の開放6弦を振動させて音圧の強いノイズ。
異動の際に、前の職場のメールアドレスが使えなくなるというので、3か月くらいかけて、それまで仕事でつきあいのあった人たちにメールを送り、これからはこっちのメールに返事をくださいねえ、とやっていたのだけれど、やはり、もれがあって、このたび、「ちっとも返事がこないと思ったら職場が変わってたんだねえ」みたいなメールが来て、ごめんねってなった。でも、昨年12月に私に連絡がつかなかったなら、そこで電話なりなんなりしてくれればいいじゃん、だって日ごろ、私はだいたい15分とか30分とかでメールに返事してるでしょう、それが来ないなんて不思議だとは思わなかったんですか? みたいな不満をちょっとだけ漏らす。いや、ま、みんな、誰とどうやりとりしてるなんて、互いに、べつになんにも気にしてない、ていうか覚えてないよね、メールだって、コミュニケーションを取りたくて送るんじゃなくて、その場のタスクをひとつクリアするという気持ちで送信ボタンを押しているに過ぎなくて、それはマリオがクリアまでの間にファイアバーをいくつジャンプしたかなんていちいち覚えていないよね、ってことだと思うのだ。倒した敵のことだって、長く記憶されるのは、1-1の冒頭のクリボーと、8-4ではじめて遭遇するクッパ、あとはそうだな、1-3くらいで、はじめて足場にしたパタパタくらいのもので、あとはなにを踏んづけたのかなんてぜんぜん記憶していないよね、メールってそういうもんだからさ、みたいな声が、ノイズの中から急に認識できるカクテルパーティ効果的なもので立ち上がってくる。
忘れなw
あと12分で研究会がはじまるのでヘッドセットをつないだ。もう頭にかけてしまう。直前でいいのだが、内側から脈動してくる熱が頭蓋骨を破裂させそうで、早めにヘッドセットで抑え込んだほうがよさそうだった。研究活動スタート支援の学内書類締め切りが来週に迫っている。同じ日に病理学会総会がはじまりたくさんの細かな仕事が待っている。飲み会の店の予約を3件ほどした。そのすべてに私はいかない。全国から集まってくる病理医のためにいい店がないかと聞かれて、はい、おまかせください、と言いながら食べログで適当に検索して行ったことのない店をつぎつぎとあてがった。私は別に札幌の飲食店には詳しくない。そんなに飲み食いした記憶がないからだ。うまいものはうまいと思う。けれども「うまい店」というのがどれだけあるのかいまだによくわからない。「きれいな店」に行きたいならば、きれいな店以外ではたちまち機嫌が悪くなる人びとにたずねるのが一番よく、「めずらしいものを食わせる店」に行きたいならば、ありふれた料理を食うとすかさず機嫌が悪くなる人びとにたずねるのが賢い選択で、私はそのどちらでもなくて、こ汚い店でも飯は食えるし毎日同じものを食っても満足はしてしまう。こういう私のような人間は飲食店を覚えない。人の顔も覚えない。先日、ある珍しい病理診断をして、カンファレンスで「これはじめて診断しました」と言ったら、「先月も全く同じような症例を紹介して『これはじめて診断しました』って言ってたで」と言われて笑ってしまった、私はなにも覚えない。ちなみに今のくだりも、もしかしたらすでにブログで書いていたかもしれない。
何か月かに一度だけ、寿司やらうどんやらの画像をポストしている人、というのにフォローされた。何か月かに一度というのがいいと思った。こういう使い方は人には刺さらないかもしれないが、おそらくあとでふりかえったときに、自分の表皮の角質層あたりに軽く刺さることがある。垢といっしょに剥がれていく程度の記憶である。
ぎちぎちに詰め込んだ予定の中で優先順位を付けて、とにかく来週までにいったん書き終える必要がある、その後おそらくさらに手直しをするにしてもまずは来週とにかく第一次提出をしなければいけない書類、これを先にこなすべきだということは完全にわかっている。ただしわかっているというのと覚えているというのは別のことである。たくさんのタスクをすっぽり忘れて、岡山から送られてきたプレパラートをバーチャルスライドに取り込み、癌の深部に存在する血管の弾性板と平滑筋を眺めてスクショを撮ってパワポに組む、この作業に7時間ほど費やしている。先ほどすべての記憶が一時的に戻って私はパニックになった。な、なぜ私は今、こんなに手間のかかることを、なぜ今、えっ、どうして、まだ、来月やっても間に合うのに、ちょっと、なにを、みたいな右往左往をして、忘れて、またPCに向き合って延々と論文を検索している。忘れなければ、思いが入らない。忘れないでいると、過去にやり終えた満足の境界線で自分を囲い込んでロックしてしまう。忘れることではじめて、忘れているからこそ、忘れられるだけに、私は私を変貌させながら、そのじつ、同じことに何度も心を動かされているだけなのだとはしても、なんだかずっと遠くに向かって歩いているような錯覚に浸っていられるのだ。
コスレプイヤー
子どもでも知っているような野菜。にんじん、だいこん、ピーマン、たまねぎ、ナス、キャベツ、白菜。こういったものは、やっぱり、名が知られているだけあって、食えるなあ、食いやすいなあ、みたいなことを考える。ふつうのもの。よくあるもの。あたりまえのもの。それらはすべて、生き延びてきたもの。すり抜けてきたもの。調味料にも言える、レシピにも言える。有名どころにはわけがある。
そしてこの、「有名どころにはわけがある」というセリフ自体も、さまざまなところでさんざんこすられていて、よく聞く。つまり、生き延びてきたものなのだな。表現にも言える、しぐさにも言える。
先日読んだマンガ『サラウンド』の中に、トイレでゆっくり過ごす姉の話が出てきた。そこをよく描いたな、と思ったし、わりと何度も見聞きした話でもあるな、と思った。けれどよく考えると、この、「トイレにマンガを置いといて、そこで長く過ごす」みたいな話、聞きはするけど実際にそうしているという人に会ったわけではない。つまりこれは、「遠くで語られる系の話」なのかなと思う。本人の口からは聞きづらいエピソードではある。
思えば私が覚えている話の大半が、この、「直接体験した当人から聞いた話ではないのだけれど、どこかからか誰かの話が流れ流れていつのまにか耳に入った話」ばかりだ。
技術によって体を拡張し続けた結果、体験したはずのものがどれもみな、体から遠くにあるようになってしまったのかな。
ある学会の会議に出ていた。あまり興味はなかった。終わりがてら、遅刻してきた一番偉い人が、学会の事務にあたるスタッフにいきなりブチ切れた。
「仕事が遅いんだよ! こっちはみんながまんの限界なんだよ! プロの仕事をしなさいよ!」
あーよく聞くけどこれ目の前で見たのはじめてだな、と思った。でもZoomの中で起こっていることは、べつに目の前というわけではないのだ、本当は。接続を切ったらまた一人でいる。首元の鈍痛を何度も何度もこする。
病理学
私の脳が環境をみて理解しようとするとき、私が振る舞うように世界も振る舞っているのだろう、私の則っている法にもとづいて世界も動いているのだろうと、私はあまり深くを考えぬままに前提を用意する。そのようなフレームの内部で環境の解析をする。
私の脳が私の外縁に私の暮らしやすい環境をつくるとき、私と違うものを私に接続することはせず、私の延長たるものを、私を敷衍したものを、私に近い順番に配置して、私から通電できる範囲で通電して、それを環境と呼び、世界と認識する。
これらはいずれも、私の脳が、フレーム問題を回避するために遠い遠い先祖から受け取ってきたべんりな仕組みのひとつである。
もし、世界が私の思いの及ばないところで、私の体のなにかに例えることができないかたちでも駆動しているとしたら、うん、それは確実にそうなのだけれど、かくある私の脳が、「そんなことまで考えなければいけないとしたら」、すなわち、私がふだん自分を動かすのに使っていない理屈まで勘定に入れながら日ごろの思考を組み立てようとしたら、脳のキャパシティはすぐに足りなくなる。命の続く時間のうちに思考を終わらせることができなくなる。AIならばそうやって、隘路の先で無限小に収束するような思考に惑溺することもあるのだろうけれど、限りある時間のなかでいくつかの欲望を満たすために思索をこねている私の脳はそういうわけにはいかない。フレームを小さく切り取るために、私は「世界を私として理解する」ように、自然となっている。
『ラス・メニーナス』の天井の暗がりにもなにかが描かれていることに気づいたとき、私はそれに光をあてることを「科学」だと感じた。しかし、灯りがあてられ視線が向けられたところが「見えている」、そうでないところが「見えていない」、この両者は、私を介してあたかも差があるように感じるけれど、実際にはそのありようにはなんの差もなくて、それはすでに世界にとっては同じように明らかであったものたちにすぎなくて、私が私のやりかたでのみ、明るさと暗さとを感じていただけにすぎなくて、グレースにとっては差があるように感じられていたかもしれないがおそらくロッキーにとっては対等に感じられていたものだろう。
そこの光のあてかたをもって「科学」というならば、おそらく科学というものは世界をあきらかにするための道具なのではなく、自分をあきらかにするための道具なのだろう。
こういうものを目を使って書いている
有閑でもいい
場所が変われば作法も変わる。大学のルールをいろいろ覚えているが、手続き、手順、といった以前に「もののみかた」「もののかんがえかた」みたいなところからわりと違う。内部にいる人にとって当たり前のことがなかなか理解できない。理解できないというのはどういう感覚かというと、言語が違う、というかんじだ。語順はいっしょなのだが単語がわからない、ということもあるし、語順というか文法が異なる、みたいなこともあるし、ときには方言的なものによってディストーションがかかっていると感じることもある。もっとも、ゆがんでいるのはいつも私だ。私は私のゆがみに直面する。もしくは背中合わせで接して察する。せいくらべのとき、背中を柱にぴったりつけて、頭を思い切り上に伸ばそうと思っても、円弧になった背骨のすきまはどうやっても埋めることができない。なるほど私の背丈というものは、左右のゆがみを矯正すればいくらかは伸びるが、前後のゆがみだけはどうやっても直すことができない。それが直るのは肉が朽ちて骨になったときなのだろう。そして私は筋肉によって、圧を逃がし、ばねのように全身を支える、このゆがみによって毎日歩いたり考えたりしているのであって、そのゆがみというものは私の内奥に食い込んで決して引き剥がせるものではない。
ゆがんでいることを引き受けようと思う。
あるいは、湯がくのもいい。
他者の幸せに私の肉を、しゃぶ、しゃぶ、通して、ポン酢をつけて、一口、途端に広がるうまみ。あくを飛ばし、熱を入れ、しかし入れすぎない、そういう処理が料理としてのひとつの極みにあることは、おそらくなにかのメタファーになるのではなかろうか。
私は自らのゆがみを引き受け、他者でさっと湯がいてようやく、ほどよい味になる。
エスコンフィールドが楽しそうだ。野球がはじまった。あまり見られてはいないが、世のどこかが愉快になっていることに対して、悪い気はしない。せめて、そろそろ『球場三食』を読み返そう。あれはすばらしいマンガだと思う。特別編としてエスコンフィールド回を単発でアフタヌーンに掲載してくれないだろうか。
ワイの危機
すっかり書き終えていたブログの記事を前に、Ctrl + Aあたりをおしたのか、ぱっと全文を削除して、空欄になった記事入力欄をそのまま閉じ、下書きの状態で保存されていたものを念入りに削除したところで目が覚めて、気づいたら書いたはずの記事がどうやっても復旧できないのだ。Ctrl + Z! Ctrl + Z!アンドゥを繰り返してもなにも元には戻らない。私はどうしてあの記事をああやって、意志も記憶もないままに消してしまったのかと考える。おぼろげに覚えていること、あの記事はたぶん、公開すべきではなかったんだろう、そしてその、公開しないほうがいい記事をあえて公開しようとしている自分と、そうでない自分とが衝突して、互いに瀕死の重症となって、記憶とかも飛びやすくなったところでかろうじて、抑制をかけるほうの自分が記事を削除したとか、そういったところだろう。そういうことなんだろうと思った。
便から体調がわるいときの臭いがする。体はパーツごとに元気だったりそうでもなかったりしている。首の上あたりで全員に、もうすこし普通にしなさいと呼びかける役目の細胞がいて、そいつがクラスを率いているのだけれど、べつにそいつが特段えらいとか先生だとかいうわけでもないので、生徒たちはちっとも言うことをきかない。
申請書を書くのに毎日すきますきまを使ってちょっとずつ書いているのだが、その道のプロからするとぜんぜんだめらしくて、なかなかうまくいかないものだなと小石を蹴る。15年くらい前に同年代の人間たちが大変だ大変だと言っていたやつがこれだったか、と今更わかる。しかしおそらく私のほうが大変ではないのだろう、なぜならAIがあるからだ。そして私のほうが大変なのだろう、なぜならAIによってサポートを受けたライバルたちがたくさんいるからだ。AIによって人類の知能の最大公約数の部分がぐっと底上げされて、人と人との差は相対的に小さく感じられるようになり、その差によって人の飯の種をかすめとったり、逆に人に奪われてがっくりしたりといったことで人生を感じていた人たちは、戦闘へのモチベーションを失った。私もまた、人間の個体差などという、ほかの種族からみたらほとんど区別がつかないような部分で人を出し抜いたり人の目から身を逸らしたりといったことをずっとやってきて、そういうことがまるごと無力化されつつある時代に拍手を送らざるを得ない。
私たちはみな、似たりよったりになっていく。エントロピーが増大し、事象とノイズの区別がつかなくなっていく。そのことを寿ぎながら、狭い狭い安全地帯の中で、ときおり息をついて仰ぎ見て、視線を落として目をつぶって、もう一度まなこを開いたら、むらさきだちたるくものほそくたなびきたる。
燃え殻さんの文庫『ブルーハワイ』が届いた。土曜の夜に読みたい。
病理医の話です
全員のメールアドレスがCCに表示されている「メール審議」の文章の末尾に「ご賛同等お返事をいただければと思います」と書かれてあり、はいよ、と思って送信者だけに返事をする。「賛同します」。先方の送信時刻から15分ちょっとで返事をしたのでたぶんだいぶ早いほうだろう。その後、半日以上にわたって、ぽつ・ぽつ・ぽつとメールが来る。「賛同します」、「賛同します」、ほかのメンバーの多くは「全員に返信」を用いて返事をしているのでいちいちその結果が私にとどく。ぶっちゃけ迷惑だなと思わなくもないのだけれど、そもそもこの、「メール審議」というものは、従来は会議室に全員が顔を合わせてどうするどうしようこうするこうしようと決めていたものが魔改造されたものなのであって、自分の意見を委員全員に周知すること、それがどんなに些細な「首肯ひとつ」程度であったとしても、その首を縦に振る姿をみんなが目撃していること自体に会議の意味が存在していたのだから、じつは、メールの返事を送信者にしか送らない私のほうがまちがっているのだ。あっている・まちがっている、でいえば、まちがっているのだ。ポケットモンスター あっている/まちがっている。ファンはどちらも買う。そして両者の違いを比べながらどちらも細かくクリアする。まちがっている、というのはその程度のことである。あっていると対比することで両者ともに価値が立ち上がる。そして私は、このたび、まちがっている。
正しさというものは世の中には本当に少ない、もしくは、受粉時期の極めて短い花のように一瞬だけ首をもたげて周囲にアピールをし、短い旬が通り過ぎたら散って砕けて蟻に運ばれていく。
どうしたらいい、こうしたらいい、しかしそういう私たちも200年後には菌の培地になったり維管束の中を流れていたりするのだからどうでもいいではないか、というタイプの俯瞰と冷笑、そっちのほうに逃げて行きたくなることも正直ある。ただ、私たちは、なにか、理屈はわからないけれど相対性理論とかそういう複雑な物理の計算を問いた先に暮らしていて、自分が暮らす数十年以外のことは正直頭にうかばないような都合のいいマヌーサをかけられているから、そうやって司馬遷とかノストラダムスとかの目線で先々のことや昔々のことを考えようとしてもぼんやりと焦点が合わなくて結局そんな広い範囲を観察することに飽きてしまうのだ。自分の記憶が渉猟できる「気の届く範囲」に相当するたかだか5年、もしくは2年とか、へたをすると2か月くらいの範囲を、パン生地を回して伸ばしてピザの台座にするような感じでぐんぐんと拡張して、上に具材を乗っけていく、そういうかんじで世界を認知して応答をし、世界にちょっかいをかけてツッコミを入れられる。腹に入ってしまえばみなおなじ、あっている・まちがっているもなければ、どうも・こうもない、そんなことはわかっているのだけれど、その短く狭く屋根の低く温度の高い妙な窯のようなところでこんがり変性しておいしく焼けましたになるまで、私たちはみな、正しいとかあっているといった誤謬に、まんざらでもない顔をしながら付き合っていく。
正しい診断なんてものはマジでない。しかし、正しい診断だと言い切るだけの間違いを背負わなければいけないときはけっこうある。
人とはパソコンである
9か月ほど前に梱包した段ボールのガムテープを剥がそうと思ってもうまく剥がれない。糊が浸透してしまっている。爪の先でテープを持ち上げたときの、あの、粘性の下にもぐりこんで引き剥がしていくときの、あの圧が爪にぜんぜん伝わってこなくて、ぺりっぺりっと小範囲で紙が千切れていくだけなので、ちょっとひっかいてもうあきらめてしまった。はさみを持ってきてガムテープの真ん中にあてがってモーゼとなる。長軸方向を切り拓くのはかんたんだが、短軸方向のテープと交わるところでははさみを一度引いたくらいではうまく切れなくなっており、ここでも少し苦労をする。上からあてがったり、下からこすりあげたり、いろいろやってようやくふたが開く、そしてこの段ボールはもう使い物にならないのだ。相次ぐガムテープの貼り付けでへりのところがダルダルになっていて、次になにかをしまい込むにはかなり不格好だし、おそらく湿気とか虫とかさまざまなものを跳ね返せなくなっている。代謝を終えた皮膚のようである。
中にはおかざき真里先生の絵やロロイチさんの線画などが入っている。前の職場を引き払う準備には3か月以上かかったのだが、その、一番最初のころに、幡野さんの写真だとかおかざき先生の額装ジークレーだとかは先に梱包してしまった。次の職場でデスクが落ち着くまでは開けられないだろうなと思ってしばらく家に置いていた。このたび、赴任して半年が経過して、ようやくあらゆる引っ越しが終わったので満を持して絵を壁に飾った。緩衝材がわりに入れておいた複数のひざかけ、ああ、ここに入っていたのか、いそいそと取り出してさっそく太ももを覆う。窓から冷気が降りてきており、部屋は温かくても窓の近くだけは朝晩は寒い。こういうのはなんというのかな、輻射熱、というのもへんだしな、と思ってちょっと検索をかけると、「冷輻射」という言葉があるらしい。たしかにGoogle変換でも一発で表示されるから、AIの作った嘘というわけでもないのだろう。窓になにか、断熱用のシートでも貼ろうか、でもせっかく明るい場所に移ったのだからこのままにしておきたいな。ブラインドを開けることはじつはない。ニコンの連携会社であるホクドーに長年勤めていた、前の職場からずっとお世話になっている顕微鏡担当のSさんが強めに私に注意した。「いいですか先生、この窓開けちゃだめですよ。顕微鏡というのは直射日光はだめなんですよ。特にこの、レンズに直射日光が入り込むと、中を光が通って痛みますから。だからこのブラインドは二度と開けないでください」。明確な注意を私はしっかりと記憶した。このブラインドは私が退職する日まで開くことはない。木漏れ日未満のわずかな線状のあかり、そして、隙間からしっかりと降りてくる冷輻射、この2つは前の職場でも全く同じように体感していた。ただし前は右からだった、今度は左からだ。あるいは私の頚椎症も、今後は左右が入れ替わってくるかもしれないなと思う。
何もしないのに膝が壊れた。PCだったら鼻で笑えたのも今は昔、ちかごろのPCやスマホは勝手にアップデートするから何もなくても壊れるということが普通に起こり得るので、このフレーズは笑えるものではなくなった。つまり、ということは、私の膝も夜の間になにかセキュリティの脆弱性を回避するためのパッチプログラムかなにかをインストールしたのだろう。睡眠とはシャットダウンと再起動に似ている。新しい概念を聞いて覚えたあと、寝て起きると不具合になっているということはままあって、それはおそらく、再起動のときに既存のアプリとなにかで競合してうまく立ち上がらなかったりしたのだろうな、ということをよく考える。
喜望峰では左巻き
気持ちの踊り場にいる。なんだか今日は午前中いっぱいヒマになる。ここぞとばかりに申請書を仕上げておくべきだと思う。すぐに働き始めないと、どうせこういう日には思いも寄らない新しい仕事などが飛び込んでくるものなのだ、しかし、どうも目のまわりが重いのでなんかゆっくりでいいかなと思ってスマホでジャンプの目次などをちらちら眺めたりしている。
気持ちの駐車場にいる。エンジンを止めて運転席で黙って座って息をついているとすかさず運転席の横の窓とかフロントガラスの右半分とかが曇り始める。私は車に「ここに用もないのに長く座っていてはいけません」と叱責されたような気分になる。リクライニングも思った角度にはならない。ハンドルも脚を組むには邪魔だ。飲み物もない。小腹を満たすものもフリスクくらいしかない。だったらそろそろ歩き始めないと。ドアをあける。バタンとしめる。ドアノブのマークに親指を重ねてキーをロックする。風がしっかり冷たくて、やっぱり車の中でもう少し待って体をあたためてから動き出すべきだったのかなと早くも後悔する。そうやっていつも自分のひとつ手前の行動に小さな後悔を浴びせかけるようにする。上鼻甲介もつんとする。
職場の部屋の席替えがあり、人も入れ替わるので、これから毎週月曜日と、あと火曜日の午前中くらいは、部屋に私しかいない、ということがある。これまでずっとPCはミュートにしていたが、これからは小さく音を出してもいいかな、と思う。メールにもすぐ気付けるようになる。タスク管理ソフトからのアラームも効果的に使えるようになる。椅子があまり合っていないが、そこまで外してもいない。モニタとの距離、いまだにこれが最適なのかどうかわからない。いつまで「慣れない環境」のことを言い続けているのか、自分でも若干、言い訳がましいかなと思う。
秒針は止められるが時間は止まらない。砂漠の半月状の砂山が、風に吹き散らされながら、かつ、新たに飛んできた砂を巻き込み続けていて、定常でも平衡でもないのに概念として均一である、その砂山の、ふもとに寄ってしゃがみこんで、砂粒を見ていると、じりじりと熱せられるような焦燥感を覚える、そういう、堆積と消失のないまぜになったものが時間である。
気持ちの交差点にいる。気持ちのヨドバシカメラにいる。気持ちのマトリゲル培地にいる。悪意はないのだろうが善意の涵養が足りていない他人の気持ちが未必の故意で肩先にぶつかってきて心の鎖骨を骨折し、私は間葉系細胞の発する混濁したサイトカインによって自律的に集簇して内向きの分化勾配を呈するオルガノイド化してその場でゆるやかに回転をはじめる。気持ちの排水溝に流れていく。右回りの螺旋。北半球にいるのだな、とふと思う。気持ちの北半球にいる。
イージュー
自分の論文にも他者の論文にも言えることだが、ここのところあきらかに、査読で指摘される「箇条書きの項目」の量が増えた。やけに構造化されている。人間味が感じられない。まあ、どう考えてもこれは、AIを用いて査読されているのだろう。100%AIが書いたものだとはさすがに思わないが、体感で40%くらいはAIのアイディアなのかなと思う。
投稿者が「自分の最新の研究ネタをAIに学習されたくない」と思って必死で自力で執筆したところで、けっきょく査読者が軽い気持ちでAIに流し込んでいるのだ。もちろん、有料版だから大丈夫だとか学習禁止の設定が強固だから大丈夫だとか、「査読者は善意でやっている、一円ももらっていないのだ、だからせめてこれくらいラクをさせろ」とか、いろいろ言い訳はあるだろう。でもトータルではなんだか切ない話だ。しかも世界中でそういうことが一気に行われているのだろう。一流の医学雑誌よりも三流のハゲタカジャーナルのほうが100倍くらい掲載論文数が多いこと(※想像)を考えると、たぶん、えらい学者さんたちが「論文の原稿やその査読をAIにやらせるなんてとんでもない!」などといくら吠えたところでとっくに手遅れであり、AIという名の最大公約数はじきだしマシンには今日も清濁両方のデータが流し込まれている。
その結果、AIがどういう方面の判断をするようになるのかは、私にもよくわからない。危ないとか怖いとかじゃなくて、「よくわからないものを出してくるツール」になるんじゃないかなという予感はずっとある。だいたい人間という生き物だってそうだろう。みんなが似たような義務教育を受けてもトータルで見るとわかっていたりわかっていなかったりする、それをできるだけ「いいほうに」向かうようにコントロールすべく作られた学習指導要綱で、世の中の平均的な知性は確実に向上してはいると思うが、それでも人間たちはときどき集団でびっくりするような勘違いや、後出しジャンケン的に言うところの判断ミスをするではないか。
若いころ、学問で大きな発見をしたとして、その結果を作法にのっとって学術誌に投稿する段の作業量が多すぎるなと、ぐちぐち文句を言ったものだった。なんか、コンピュータが自動でやってくれねぇのかな、そしたら発見をもっと気軽に世に広めることができるのになと、夢想していたというか、韜晦していたというか、そういう言い訳・言い逃れみたいなことを言うタイプの人間だったからこそ、今この程度の学術業績しか持ち合わせていない。頭が痛いし自業自得だ。でも、かつてなんとなく思っていた「あとはコンピュータのほうでやっといてくれ」がまさに達成されようとしている今、乾燥した大福みたいないやな舌触りが心に残る。私たちは考えることをほかに投げてはいけなかった。アドレナリンとかセロトニンとかが心を興奮させたり撫でつけたりすることに惑溺し、モルヒネの噴射されるスイッチをみつけたマウスのようになって、金属のボタンを何度もパシパシ叩くのに忙しく、代わりにいろいろなものを放り出してしまった。試行錯誤や探索や折衝や困惑や、やりきれなさや歯痒さやもどかしさや、幅広い心を、くだらないアイデアを、軽く笑えるユーモアを、うまくやりぬくかしこさを、眠らない体を、すべてほしがる欲望を、おおげさにいうなんで途中から奥田民生に吸収されてしまったのか。なんの学習の結果なのか。