喜望峰では左巻き

気持ちの踊り場にいる。なんだか今日は午前中いっぱいヒマになる。ここぞとばかりに申請書を仕上げておくべきだと思う。すぐに働き始めないと、どうせこういう日には思いも寄らない新しい仕事などが飛び込んでくるものなのだ、しかし、どうも目のまわりが重いのでなんかゆっくりでいいかなと思ってスマホでジャンプの目次などをちらちら眺めたりしている。

気持ちの駐車場にいる。エンジンを止めて運転席で黙って座って息をついているとすかさず運転席の横の窓とかフロントガラスの右半分とかが曇り始める。私は車に「ここに用もないのに長く座っていてはいけません」と叱責されたような気分になる。リクライニングも思った角度にはならない。ハンドルも脚を組むには邪魔だ。飲み物もない。小腹を満たすものもフリスクくらいしかない。だったらそろそろ歩き始めないと。ドアをあける。バタンとしめる。ドアノブのマークに親指を重ねてキーをロックする。風がしっかり冷たくて、やっぱり車の中でもう少し待って体をあたためてから動き出すべきだったのかなと早くも後悔する。そうやっていつも自分のひとつ手前の行動に小さな後悔を浴びせかけるようにする。上鼻甲介もつんとする。

職場の部屋の席替えがあり、人も入れ替わるので、これから毎週月曜日と、あと火曜日の午前中くらいは、部屋に私しかいない、ということがある。これまでずっとPCはミュートにしていたが、これからは小さく音を出してもいいかな、と思う。メールにもすぐ気付けるようになる。タスク管理ソフトからのアラームも効果的に使えるようになる。椅子があまり合っていないが、そこまで外してもいない。モニタとの距離、いまだにこれが最適なのかどうかわからない。いつまで「慣れない環境」のことを言い続けているのか、自分でも若干、言い訳がましいかなと思う。

秒針は止められるが時間は止まらない。砂漠の半月状の砂山が、風に吹き散らされながら、かつ、新たに飛んできた砂を巻き込み続けていて、定常でも平衡でもないのに概念として均一である、その砂山の、ふもとに寄ってしゃがみこんで、砂粒を見ていると、じりじりと熱せられるような焦燥感を覚える、そういう、堆積と消失のないまぜになったものが時間である。

気持ちの交差点にいる。気持ちのヨドバシカメラにいる。気持ちのマトリゲル培地にいる。悪意はないのだろうが善意の涵養が足りていない他人の気持ちが未必の故意で肩先にぶつかってきて心の鎖骨を骨折し、私は間葉系細胞の発する混濁したサイトカインによって自律的に集簇して内向きの分化勾配を呈するオルガノイド化してその場でゆるやかに回転をはじめる。気持ちの排水溝に流れていく。右回りの螺旋。北半球にいるのだな、とふと思う。気持ちの北半球にいる。