自分の論文にも他者の論文にも言えることだが、ここのところあきらかに、査読で指摘される「箇条書きの項目」の量が増えた。やけに構造化されている。人間味が感じられない。まあ、どう考えてもこれは、AIを用いて査読されているのだろう。100%AIが書いたものだとはさすがに思わないが、体感で40%くらいはAIのアイディアなのかなと思う。
投稿者が「自分の最新の研究ネタをAIに学習されたくない」と思って必死で自力で執筆したところで、けっきょく査読者が軽い気持ちでAIに流し込んでいるのだ。もちろん、有料版だから大丈夫だとか学習禁止の設定が強固だから大丈夫だとか、「査読者は善意でやっている、一円ももらっていないのだ、だからせめてこれくらいラクをさせろ」とか、いろいろ言い訳はあるだろう。でもトータルではなんだか切ない話だ。しかも世界中でそういうことが一気に行われているのだろう。一流の医学雑誌よりも三流のハゲタカジャーナルのほうが100倍くらい掲載論文数が多いこと(※想像)を考えると、たぶん、えらい学者さんたちが「論文の原稿やその査読をAIにやらせるなんてとんでもない!」などといくら吠えたところでとっくに手遅れであり、AIという名の最大公約数はじきだしマシンには今日も清濁両方のデータが流し込まれている。
その結果、AIがどういう方面の判断をするようになるのかは、私にもよくわからない。危ないとか怖いとかじゃなくて、「よくわからないものを出してくるツール」になるんじゃないかなという予感はずっとある。だいたい人間という生き物だってそうだろう。みんなが似たような義務教育を受けてもトータルで見るとわかっていたりわかっていなかったりする、それをできるだけ「いいほうに」向かうようにコントロールすべく作られた学習指導要綱で、世の中の平均的な知性は確実に向上してはいると思うが、それでも人間たちはときどき集団でびっくりするような勘違いや、後出しジャンケン的に言うところの判断ミスをするではないか。
若いころ、学問で大きな発見をしたとして、その結果を作法にのっとって学術誌に投稿する段の作業量が多すぎるなと、ぐちぐち文句を言ったものだった。なんか、コンピュータが自動でやってくれねぇのかな、そしたら発見をもっと気軽に世に広めることができるのになと、夢想していたというか、韜晦していたというか、そういう言い訳・言い逃れみたいなことを言うタイプの人間だったからこそ、今この程度の学術業績しか持ち合わせていない。頭が痛いし自業自得だ。でも、かつてなんとなく思っていた「あとはコンピュータのほうでやっといてくれ」がまさに達成されようとしている今、乾燥した大福みたいないやな舌触りが心に残る。私たちは考えることをほかに投げてはいけなかった。アドレナリンとかセロトニンとかが心を興奮させたり撫でつけたりすることに惑溺し、モルヒネの噴射されるスイッチをみつけたマウスのようになって、金属のボタンを何度もパシパシ叩くのに忙しく、代わりにいろいろなものを放り出してしまった。試行錯誤や探索や折衝や困惑や、やりきれなさや歯痒さやもどかしさや、幅広い心を、くだらないアイデアを、軽く笑えるユーモアを、うまくやりぬくかしこさを、眠らない体を、すべてほしがる欲望を、おおげさにいうなんで途中から奥田民生に吸収されてしまったのか。なんの学習の結果なのか。