私の脳が環境をみて理解しようとするとき、私が振る舞うように世界も振る舞っているのだろう、私の則っている法にもとづいて世界も動いているのだろうと、私はあまり深くを考えぬままに前提を用意する。そのようなフレームの内部で環境の解析をする。
私の脳が私の外縁に私の暮らしやすい環境をつくるとき、私と違うものを私に接続することはせず、私の延長たるものを、私を敷衍したものを、私に近い順番に配置して、私から通電できる範囲で通電して、それを環境と呼び、世界と認識する。
これらはいずれも、私の脳が、フレーム問題を回避するために遠い遠い先祖から受け取ってきたべんりな仕組みのひとつである。
もし、世界が私の思いの及ばないところで、私の体のなにかに例えることができないかたちでも駆動しているとしたら、うん、それは確実にそうなのだけれど、かくある私の脳が、「そんなことまで考えなければいけないとしたら」、すなわち、私がふだん自分を動かすのに使っていない理屈まで勘定に入れながら日ごろの思考を組み立てようとしたら、脳のキャパシティはすぐに足りなくなる。命の続く時間のうちに思考を終わらせることができなくなる。AIならばそうやって、隘路の先で無限小に収束するような思考に惑溺することもあるのだろうけれど、限りある時間のなかでいくつかの欲望を満たすために思索をこねている私の脳はそういうわけにはいかない。フレームを小さく切り取るために、私は「世界を私として理解する」ように、自然となっている。
『ラス・メニーナス』の天井の暗がりにもなにかが描かれていることに気づいたとき、私はそれに光をあてることを「科学」だと感じた。しかし、灯りがあてられ視線が向けられたところが「見えている」、そうでないところが「見えていない」、この両者は、私を介してあたかも差があるように感じるけれど、実際にはそのありようにはなんの差もなくて、それはすでに世界にとっては同じように明らかであったものたちにすぎなくて、私が私のやりかたでのみ、明るさと暗さとを感じていただけにすぎなくて、グレースにとっては差があるように感じられていたかもしれないがおそらくロッキーにとっては対等に感じられていたものだろう。
そこの光のあてかたをもって「科学」というならば、おそらく科学というものは世界をあきらかにするための道具なのではなく、自分をあきらかにするための道具なのだろう。