カザーブ回顧録
飲み会がつまらないから行きたくないという人たちの気持ちはわからなくもない。だれか、猛烈に盛り上げる人が2,3人いて、話題は軽妙にポンポン移り変わっていくこともあれば、ふだんなかなか語れない深いところまでしっぽり落ち込んでいくこともあって、うまいものがさほど待たずに届き、それは自宅で作るのには手間がかかったり材料の無駄が多かったりするもので、がつんとボリュームと味があって酒に合うものと、なんとなく口がさみしいときにホイホイつまめるライトなスナックとが両方あり、寒い季節にはあったまる、暑い季節にはひんやりすっきりする、のどから体温を調節してくれるうれしさがあふれているし、アジアンな湿度のにおいが香ったかと思えば、イタリアンなトマ度(※トマトの度数のこと)のニオイがただよってくることもあって、鼻孔から脳髄にささやきかける焦らしが適度にワークしている、そして大事なのは、飲み物がなくなったらすぐ頼めるけれどべつに飲まずに待っていてもかまわないという空気である、それが部屋に満ち満ちていることである、そういったものが一塊になり、「飲み食い」という巨大概念すべてが大きなハレのムードを引き受けている状態。その祭典。その、うねるような、喧騒の中で心地よく揉まれているうちに、ふと「ノイズの中の静寂」みたいなゾーンに入ることがあってたまらない。自分の体から精神が半歩くらいずれて浮いて自分を見下ろしているわけだ。今、どうしてか、ふしぎなところにたどり着いているなあと、バガボンドの旅情のようなざわつく寂寥を楽しむことになる。そうしたら、隣の席とか斜め前の席あたりから、肉体的にはさほど距離が近いわけでもないのだけれど精神にそっと手を添えるような身振りで、「最近どうなの?」と、自分がしゃべる機会を振ってくれる理解のある知人がいるのである。そこで、普段だと話しきれないようなとりとめもなく山場もなくサゲもない「普通の冗長な話」をおずおずと語り始めてみればすなわち、みんながうんうんとうなずいて聞いてくれるのである。なんということだろう。ものすごい幸せではないか、と、これくらい、これくらい「揃った」飲み会じゃないと、たいていの人間はつまらないし行きたくないのではないかと思う。そんな飲み会なんてものは想像の中にしか存在しないのだけれど、外界の認知に願望の投影が強くかかって何もかもがディストーショナルである時代、すなわちハタチそこそこの、大学生あたりが今日もそのへんで開催しているあらゆる飲み会は、先の要素のどれかひとつだけ、あるいはひとつの半分(例:飲み会の途中で話しかけてくれる人はいるがやけになれなれしく肩に触れてくる、など)しか達成していない、しかし、その一要素があまりに効果ばつぐんなのだ。だから私たちはすぐ、「ああいう飲み会をまたやりたいな笑」みたいなことを心のどこかに栞のように挟んで大事にページを閉じたりときおり開いたりしているのである。それは、たとえばルカニを覚えた直後にちょうどぐんたいガニみたいなルカニの効きまくる敵が出てきて、「これからはルカニを使えば戦闘は楽になるなあ!」なんてすごく納得しつつも、その後、てつのおのみたいな武器でさっさと殴ったほうが早くなってルカニをあまり使わなくなり、でもバラモス戦の頃になると、ルカニもスクルトもピオリムもぜんぶ使っていかないと、「一要素」だけで楽しめる段階はとうに過ぎていて、強力な外敵に対処するにあたってあらゆるバフを複合的にかけていかないと太刀打ちできなくなっており、「ルカニがやたらと通るカニ(笑)なんつって(笑)」とか言って笑っていたあの頃が一番楽しかったなと思い出語りをしだす中年ファミコン探偵団、みたいな話である。ぜんぜん違うけれど。