Notebook LMを用いてつくられているイラストをみると気持ちが萎えるようになった。みんなもわりとそうだと思う。一時期流行ったよねー、というやつだ。学会の講演などで一時期はいらすとやを用いたプレゼンが大流行し、急速に古びて、今は生成AI、それもまたあっという間に古びようとしている。「一周回って」「逆に」いらすとやのほうが程よくダサくて緊張を解く。「一周回った」のに「逆」というのはつまり、一周回っている間にねじれたということで、これは社会生活を営んでいるとわりとよくある。ぐるぐる回っていつしか同じところに戻ってきちゃったねー、今の考え、無駄だったねー、なんてことはない。思考が一巡する間に身体はなんらかの形でねじれる。堂々巡りの議論などというが巡り巡っている間に関係性の糸はもつれて絡み合う。それは別に螺旋というほど一方向にきちんと進行するようなものでもなくて、わりと、無秩序に、ぐにゃりと、ねじ曲がって元に戻らないような感じで。使い古したゾンデは決して元のまっすぐな形には戻らない、あれに似ている。
中の悪い人間同士が、お互いを悪しざまに罵る、その中間にいて、それぞれの思惑を聞く、ということをやることがある。右に左に風見鶏、行って帰ってシャトルラン、しかし、こうして話を何度も聞いているうちに、互いの言っていることが他害から違えてきたりするからおもしろい。人間と和解せよ。
今日は時間がたっぷりある。やることはちょっとしかない。珍しい日だ。そういうときこそブログを書こうと思う。そして、モニタに正対するが、おもしろいほど、何も出てこない。
日ごろ、由無し事は私の体を振動させて、がくがくなるのをなんとか抑え込もうとする、でもだめで、震えは体の端っこにどんどんつながっていき、それはまるでトムとジェリーのトムがフライパン的なものでガーンと殴られたときの、振動が尻尾のほうに伝染していくのと同じ、ように、私は普段世の中から全身を揺らされて、その余勢を駆って指先をばたばたと震えさせることで、何がしかのものを書いている。ときに診断を、ときに感想を。つまり世界の振動は何かを書くためのエネルギーになり、世界は私を振動させることでなにかを書き連ねるところの主体である。すると、つまり、世界が凪げば、書くこともなくなる。そういうときに何をする。何も書かない、というのは、まあ、そうなのだけれど、なんとなく、そういうときにも何か絞り出して書けないものかなと思う。無駄に立ち上がり、部屋の中を無駄に歩き回る。一周。二周。テンポを変えながら、遅く、早く、腕を組んだり、振ったり、うろうろとする。そうやっているうちに、凪いでいた思考が、遠心力的ななにかによって、よれていく。絡んでいく。繰り返しの渦の中で、覚えていなかった懸念、気にかけていなかった不安がふくらんで、しまい忘れた一筆箋、黄ばんだ基盤、たわわに実った不実なうらぎり、そういったものたちが、列を乱しながら脳内の定食屋の前に並んで、ときおりタバコを吸ったりスポーツ新聞を広げたりしていて、私はその横を自転車で通り過ぎながら口笛を吹きつつ震えだした世界に共鳴した指先がなにかをとぼとぼと書き始める。