Chatちゃん

帰宅途中の車内で電話がかかってきた。ふだん電話なんて鳴らないのでびっくりしてしまう。Bluetoothで車に接続してあったせいでカーステレオから着信音が鳴る、もう、ちょっとしたパニックである。というかこのスマホの着信音って今これなんだな。購入してからほぼマナーモードを解除したことがないので知らなかった。ハンドルの近くにあるなにかしらのボタンを押すことでスマホにさわらずに電話に出ることができる、という車側の機能も、知ってはいたけれど使ったことがなかった。ハンズはフリーだがハートはアレステッドなまま電話に出る。もしもしという言葉がすっと口から出てこない。日ごろ、運転中は、前方や側方をウォッチしつつ、手元や足元はノールックで気配りをしつつ、話すとしたら助手席側に誰かの質量を感じながらフロントガラスに向かって声を飛ばすか、後部座席側に向けて後頭部から声を抜くように話すか、とにかく、受信・送信それぞれをかなり狭く鋭く絞り込んだ状態で運用している。だから今回のようにイレギュラーな送受信が生じると、送受信の両方がよくわからなくなって、世界との連絡が混線してノイズが内部に循環して傷のついたCDを再生したときのようにリズムやメロディががたがたと揺れ同じところを何度か繰り返したりぶつっと途切れたり、いろいろ、わやになる。車内全体に上手に鳴り響く電話の音声に向かって話すのは難しい。いったいどこにどれくらい声をかければいいのか見当がつかない。これで聞こえているのだろうか、エンジンの音はじゃまにならないだろうか。いっぺんにたくさんのことが気がかりだ。しかし向こうはこちらの喧騒的懸念などおかまいなしに用件に入る。

研究会などで日ごろからとても世話になっている遠方のドクターだ。ちょっと前に定年退職して、今は何箇所かの病院で嘱託として働きながら勉強会の主宰も続けている。ちょうど、明日もある県の連中といっしょにウェブで研究会をやることになっていて、てっきりその相談かと思ったが、どうも違うようだ。

要はFacebookのメッセンジャーの乗っ取り被害にあった、ということであった。

そんなことで電話してくんのかと思わなくもないが、想像を働かせるとたしかにそういうときは電話がいいのかもなと思い直す。PCもスマホも使っていろいろやってみたけれど、調べて出てきたページの言う通りにしようと思っても項目が選択できない、パスワードの再入力を求められる、朝からずっとやっている、メタ社に問い合わせてパスワードを変えてもらったけれどそれでもまだへんなメッセが飛びまくっている、対処しても解決しない問題に3、4つほど連続でぶち当たって迷走している今、困りごとの内容をメールで・文章で説明するというのはかなり厳しいだろう。ましてメッセは使えないのだ。だったらもう、電話するしかない。そういうことだろう。しかし私も運転しながらだとどうしようもない。折しも家が見えてきた。ちょっと待ってくださいと告げて車を駐車スペースに停める。先方はわかったと言っているのだがまだ遠くのほうでぶつぶつと、これじゃないなあ、おかしいなあ、という声がしている。待たせたままエンジンを止め、出勤カバンと買い物袋を持って玄関に入り、お待たせしました、と言って電話に戻ろうかと思ったが、今度は電話を手に持たなければいけないのだということに今更気づく。カバンの中に入っているスマホが切れていないかと思ってあわてて見るとちゃんとつながっている、が、先生には悪いがそのまましばらく待っていてもらって、愛別産のなめこと、4食分のヨーグルト、なんとなく買ったきゅうり1本と黒豆もやし1パック、めんつゆ(今まで顆粒だししか使っていなかったが、もやしときゅうりでサラダを作るならめんつゆを軽く効かせたほうがうまかろうと思ってようやく購入)、下味がついていてあとは焼くだけの豚ロース300 g(今日とあさっての晩飯になる)を、次々冷蔵庫に放り込み、コートを脱いでネクタイを外してからようやく電話に出た。まだぶつぶついろいろ言っている。たぶんこうして朝からずっと奮闘していたのだろう。

さて内容を聞いてみるのだけれどこちらもスマホで話しながらなので難儀する。今日は職場にPCを置いてきてしまったからスマホ以外でFacebookのチェックができない。おまけに思いついたことはみな試していると言っている。本当は試せていないこともあるだろうなと思いつつ、ChatGPTに自分でたずねてもらうのがよさそうだなと思う。「私に話した内容をそのままChatGPTに投げたらいいかもしれないですね」「AIかあ。使ったことないんだよね」とのことなのでグーグルで検索して出てきたウインドウに書き込めばいいだけですと伝える。わかった、と言ってPCをかちゃかちゃ始める音が聞こえ、すぐに、「これって登録しないとだめなのかな」とたずねられる。そうだったろうか。あまり覚えていない。クッキーを受け入れるうんぬんのところを音読しているのでそれは全部認めていいですと伝え、ChatGPTの初期登録からやってもらう。すべて音読しながら進めている。これくらいでいいのかもしれないな、と、ふと、感じる。ChatGPTが使えるようになった、よし、市原先生だと思ってあとはこっちでやってみるよ、と言うので、私よりはるかに優秀ですから、と笑って電話を切った。ふと見るとコートとジャケットが椅子にぶん投げられていて、私がうろうろ歩き回った後が、夏休みの校庭に自転車で入り込んでぐるぐる回ったときの轍のようにうすぼんやりと陰って見えている。

シャワーを浴び、もやしをあたため、きゅうりを千切りにし、軽くめんつゆをふりかけてもやしと混ぜて一皿。ブナシメジの石づきをとって、斜め切りにしたちくわといっしょに耐熱の容器に入れて水を張り、レンジであたためてから味噌をといて、一椀。豚ロースの半分をとりわけてクッキングシートの上に広げてくるんで、フライパンにふたをして中火で片面2分半、冷凍してある150グラムくらいの米をあたためて、味噌汁を軽く温め直し、焼き上がった肉をクッキングシートのまま皿に移し、二椀・二皿の晩飯とする。そういえばWBCのチェコ戦をやっていたということを今更ながらに思い出す。8回裏。8回裏が終わる前に食べ終わる。Netflixを流したスマホを食卓に立てかけたまま、食器を洗っているとGmailが入った。「Chat GPT 凄いですね。ありがとうございました。Chat ちゃんがほぼ大丈夫と言ってくれました。明日、二段階認証をしてください、とのことでした」。そうか、と思う。Chat ちゃん、という文字列からCharaを思い出す。思い通りにはならないが、思いに添ってくれそうな、声のエロいカリスマ、たしかにそういう見え方をすることはあるなと思った。そして彼はもう、こうして夜中に私に電話をかけてくることもなくなるのだろうなということを思った。