自分の仕事の担当範囲をすこしずつ広げて、どこまでやると誰がどれだけいきいき働けるかというのを調整する。ぶっちゃけ私にはまだ余力があるので、ヤジロベエの重心を調整するくらいのそっとそっと感でじわじわと自分の担当する仕事を増やす。やはりと言ってはなんだが、やはり、病理診断という仕事を存分に行うことは、ペースメーカー的な意味で重要だ。プレパラートを1枚見るごとにHPが1ずつ回復していくタイプの魔法がかかっているのだと思う。
思い起こせば昨年の夏から秋にかけて、つまりは異動の直前3か月、働くよりもむしろ引き継ぎを大事にしていた期間、私は以前よりもはるかに少ない量しか病理診断をしなかった。「異動したらどうせ忙しくなるから」という理由もあり、診断を後任の人間にまかせて、講演とか執筆などの、先々までの仕事を早回ししてやっていた。あのころ、そういう別の仕事でいつも気忙しかったのだけれど、病理診断というメインの仕事を減らしていたぶん、常に「働けていない」感にまとわりつかれていた。今にして思うと軽くうつ状態に入っていたようにも思う。私の場合、うつ状態に入ることでようやく人並みの口数になるのであまり気づきづらいのだけれど、自分で振り返るとあのころは当社比でかなり落ち込んでいた。だいぶ静かになっていた。
あれから半年ほど経って、今の私は、まただんだんとうるさくなってきている。
尊敬する2人の人間が、立て続けに同じようなことを書いていた。ひとりはライターで、「人に読まれるために文章を開くのと、自分のために文章を閉じるのと、その両方のやりかたに自覚的でないといけないですよ」みたいなことを、とてもわかりやすくやさしい文章で書いていた。もう一人は外科医で、「どうやったらたくさんの人に文章を届けられるかというのを、キャリアの最初からだいぶ研究して、多くの人に振り向いてもらえるような文章の書き方の練習をずいぶんやった」ということを、これまたすごく明快でいやみのないきちんとした文章で書いていた。
彼らの言うことはすばらしい。
かつ、私は今、とても調子が良くなってきている。だからそういう王道を歩く彼らの文章を、真似しようという気が、一切起きない。
わかりにくい文章を狙って書きたいというわけではない。自分だけがわかる文章だけ書いていたいという意味ではない。でも、そういう、多くの人に伝えるとか、わかりやすく書くという努力とは違う部分で、私はなんというか、必死で努力してなにかを書いてみたい。努力してわかりやすくするのとは違う方向のなにか。
決して社会とコミュニケーションするのに興味がなくなったわけではない。けれども社会とコミュニケーションして書くものというのは、わりと狭い枠内におさめていかなければいけない。まあ、それも、それで、やりがいがあって楽しいのだろうけれど、私は、たとえば、コミュニケーションする相手を社会ではなく、自分の声帯にしてみたらどうかなと思う。
これから私がなにかをしゃべろうとする、その、声帯が震えるその、直前に、声帯をわっと驚かせてやるのだ、声帯の肩をぽんと叩いて振り返ったところで変顔でもして驚かせてやるのだ、そしたら声帯が、ひっとびっくりして、うっかり違うことを、それまで考えてもいなかった順列の、使ったことのなかった声色で、普段つなげることのない連想が、へんな、ふしぎの、ひねくれで、びかびかに輝く、一期一会は、心に澱のように、そういう炸裂的な間違い・ずれ・稲妻・開け方をしっぱいした・ポテチやふりかけの中身の・散らばるような・星の海の光、そういったことが、声帯を驚かすことでなにか起こったりしないかな。そういうコミュニケーションをしたい。私は声帯を驚かせるようなコミュニケーションをする。私の意識が、あるいは無意識が先導しているのかもしれないが、なにかを「しよう」と思うちょっと前に、それを微弱にずらして結果的にぜんぜん違う思索の中に私を連れて行くようなこと。私の最前線で私をアピールする声の出どころ、指のつけね、そこのところと、ゴシゴシコミュニケーションするような文章を書いて、私は私から出てくる知らないものを見て小躍りしてみたいのだ。開いても閉じてもいない、割れ鍋に一輪の花。それくらいのことを楽しく毎日やれたらいいんじゃないかとけっこうまじめに考えている。