退職する日を待たされている

電波が悪くてくるくるしている。何が、と考えると、これは何なんだろう。リングだ。リング。ときには放射状の先の丸い棒の集団のこともある。灰色だったりブルーだったり、虹色だったりもする。

これらがくるくるしているとき、私はなにかに待たされている。

待っている、と言う単語が出るまでしばらく時間がかかった。くるくるしているとき、待っているのではなくて待たされているという気持ちのほうが強い。

待っていると待たされているとの違いはなにか。

「便りが来るのを待っている」とか、「春を待っている」というとき、便りを出してくれるかどうかは相手の気持ち次第、春がくるかどうかは地球の公転次第であって、これらも本来は「待たされている」という言葉を使ってもいいはずだ。しかし、「便りが来るのを待たされている」なる言い回しはあまりしっくりこない。「春が来るのを待たされている」というのも大仰である。これに対して、インターネットとかアプリのくるくるだと、「待っている」ではなく「待たされている」が発声候補として先頭に躍り出る。最新技術の粋を尽くしたサービスが必要とするロード時間なんてたかがしれているというのに、たかだか1秒であっても、「待たされている」と感じていらつきを覚える。

そういうスピード感で暮らしていることが少し恥ずかしい。でももう適応しちゃったし今更どうしようもないと思う。暮らしているというよりも、暮らさせられている。




かつて私の勤務していた病院で実習をしたことがある人が、転職し、医療機器メーカー側の人間となって、たまに私の前に現れるようになった。学会で展示ブースの横を歩いていると声をかけられたりする。先日、自分の上司のアポイントメントを代理で申し出てきたのだが、その手段がメールではなくLINEだったのがちょっとおもしろかった。確かに私たちの関係性ならばLINEが一番シンプルだ。いったんLINEで納得しておいて、その上で正式な調整をメールで進めればいい。ただ、この、LINEというツールは、プライベートならばあまり感じないのだけれど、仕事で使うととたんに「待たせている」「待たされている」ということがたくさん発生する。未読・既読通知のせいだろうか、現在のやりとりが相手にとってこういう時間の過ごし方になっているのではないかということを、メールよりもはるかに強く意識させられる。意識するのではなく、意識させられる。こういう話題のときにすぐに中動態の話に持っていってもいいのだけれど、なにかが能動的であるか、中動態的であるかという本質の話はさせておき、自分でやっているはずのことなのだけれど、どこか責任をほかになすりつけたくなるような、「いや、それはべつに、させられただけだから」みたいに言いたくなるときの私の心情がすべて中動態という概念で解決できるともじつはあまり思わない。積極的に責任の所在から抜け出すような言い回し、立ち居振る舞いに、惑溺してるからなんじゃねぇの、という声がどこかからか、聞こえてこさせられさせられる。