後の先

とある対談をネットで見ている。どちらが聞き手でどちらが話し手かというのはとくに決まってはいないようだが、いちおう、片方がわずかに主役で、もう片方は自覚的にすこしだけ聞き役に回っている。

聞き役のほうがなかなかのポンコツだ。俗物的だし失礼である。よかれと思って口に出したであろう話題がさほどおもしろくない。読解力が弱く洞察力も鈍い。自賛のムードが強く世界の理解の仕方が一方的である。技術で受け答えしている感がにじんでいる。

少なくとも、片方はイベントをつまらなくしていると思った。

昔だったら、「こんなイベントつまんねぇな」と思って途中で見るのをやめてしまっていたと思う。課金したのにこれかよ、と思ってそのままツイキャスやVimeoの画面を閉じた記憶が何度かある。

しかし今日は見続けてしまっている。

話し手のふるまいが気になるからだ。こんなにつまらない質問をされたら普通はおもしろいことは返せないはずなのに。

なんというか、粘る。

「この嫌な空気からこんなに滋味のある話に持っていくのはすごいな」。「こぷいう会話になったときにこんな間をとってこうやって語るのか」。

ずっと見ている。



こういうことを言うと、おそらく一部の人は思うだろう。「それはつまり、聞き手の技術なのでは? あえて嫌われ役をやって、イベントがおもしろくなるように演出しているのでは?」

たぶん違うと思う。

この聞き手はそこまで考えていない。いや、考えていることは考えているだろうが、たとえば聴衆は、聞き手のほうがウケを狙ってしゃべったところで反応していない。嫌われ役を演じられるほど技術がある人が、スベる必要はないわけで、狙い通りにこうだというわけではないだろう。

それでも話し手は巧みだ。それがおもしろいし、かつ、「現実世界でもよくあることだよな」と思って、見ている。


たとえば私が、この聞き役のように無作法で浅慮なふるまいをしていたとして(実際、たまにしているかもしれないのだ)、話し手がこんなに見事な展開をしたら、私は自分のダメさに気づくことができるだろうか? 「とても楽しい会話だったな」と思って満足して帰宅してたまに思い出す、くらいの結果になるのではないか。

今までも、そういうことが、何度か起こっていたのではないか。

ちょっと、ぞっとするような想像をしながら、見ている。



柔道だと、対戦相手は、こちらが「つかまれたら嫌だな」と思っているところをつかんでくる。襟、袖。重心を崩され、手首をしぼられ、身動きが取りにくい状況で、それでも技をかけて一本を狙いに行く。

練習では相手が力を抜いて隙を見せてくれるから、一本背負いとか内股とか何でも好きな技を思う存分かけることができて、体にその動きをしっかりと染み込ませることができる。しかし、試合で練習のときと同じ動きで技がかけられることはあり得ない。

そういうままならなさの中で、それでもきれいに技をかける一流の柔道選手の試合を見ているとほれぼれする。

今日のイベントはなんというかそれに近いなと思った。

柔道選手は、「見てくださいよ観客のみなさん! こいつ、奥襟とか絞ってくるんですよ! 汚いやつでしょう!」みたいなアピールをしたりはしない。相手が嫌な方向に重心を崩したからといって「とんでもない試合だ、審判! こいつなんとかしてくれ!」と叫んだりはしない。試合とはそういうものだからだ。淡々と相手と自分の間(あいだ)にある力関係を見極めて、刻一刻とうつりかわる間(ま)を調整しながら、無理をせず、しかし注意や指導を受けることなく攻め続けて、きちんと試合を成立させている。何度も技ありや一本相当の技を放っているからもし柔道ならもう試合は終わっているはずだ。

もっとも、トークイベントはどちらかというと柔道よりもサッカーに近い。終了のホイッスルが鳴るまではずーっと相手の攻撃は続くし、何点入ってもゲームは終わらないのである。

なんか、そういうのに近いなと思った。トークイベントってのはおもしろいね。私だって、これまでに、おそらく、いやなかんじの聞き手だったことがあるかもしれないね。