シロノトリガー

正式名称をなんというのか知らないが、階段の一段一段ごとに貼られている、カドの滑り止めのゴム、地下鉄の構内から地上に上がる階段を登っていく途中で今まさに自分が踏みつけているゴム。あれがすり減っているのが目に入った。年季が入っている。足元を見ながら一段ずつ登っていくとき、なるほど私の足は階段のステップの前後ちょうど真ん中に足を置くわけではなく、足の前半分をステップにかけるようにして、かかとを浮かせたままでトントン登っていくので、ステップのカドに滑り止めがあるのは大切なのだなとわかる。それがすり減っている。なお、すり減っている場所は階段の左右ど真ん中ではない。登る人と降りる人がそれぞれ一列ずつしか通れないような細い幅の階段なので、左右それぞれ、人が通る場所だけがきれいにすり減っていて、階段の真ん中あたりはまだ滑り止めの溝がきちんと残っているのだ。

そして階段を登っていくと、途中の踊り場のところだけは滑り止めがすり減っていない。ちょっと意表を突かれたが、たしかに、階段から平場に移行するところでは無意識に足が前半分だけではなくて全部接地するように、私の足は自動的にそのように調整されている。斜め上に自分を運ぶときには足の前半分しか使っていないが、前方に動くときには足全部を接地させてからかかとを浮かせて進行方向に加速度をかける。だから階段の一番最後の段、というか階段が終わって踊り場に至った場所では滑り止めはもはや踏まれることがなくてそこだけきれいなのであった。

しかし、まあここまではそれなりに理解できたのだが、びっくりしたのは踊り場から次の階段を登っていくときのことだ。なんと階段の一番下の段、踊り場から最初に足をかける1段目において、滑り止めがすり減っていないのである。もしや、平場から階段に足を持ち上げるときだけはかかとを浮かせるのではなく足全体を階段につけているのか? 自分ではわからない。私自身は、1段目から足の前半分を階段にかけているかのようにも思える。しかし滑り止めを見ると明らかに、最後の平場の段だけではなく最初の1段目においても、滑り止めの溝がきちんと残っているのであった。

歩けて階段も登れるようなロボットを開発している人だったらこのあたりの足の機構はとっくに解析済みだろう。新しいことを発見したとは思わない。しかし私の直観が、「登り終えた平場の滑り止めがきれいなこと」は納得するが、「階段の1段目の滑り止めがきれいなこと」はどうもうまく飲み込めないのであった。


……あるいは、別の理由だろうか。1段目だけはほかの段差よりも強く「ブレーキをかける力」が加わるために、他の段よりもなお激しく劣化してしまうので、ここだけ何年か前に取り替えて新しいものになった、みたいな可能性はないだろうか。そういうこともあるのかもしれない。定点観測で古い・古くないを判定することと、実際にそこにどのような劣化要因が加わっているのか、相関関係はあると思うが、ほかにも別の因子が交絡している可能性は十分にある。

廃墟や遺跡を見ているとき、私は、物が古くなる過程の一方通行さというか、容赦のなさというか、取り返しのつかなさというか、はかなさにばかり思いを馳せている。町中には今日も、住む人のいなくなった家がゆっくり朽ちていく区画が散見され、とるにたらない栄枯盛衰、みたいなことをよく考える。しかし、実際には、たいていの物事は順方向にだけ年を取っていくのではなく、入れ替え・新陳代謝のメカニズムを持つ。それほど単純ではないのだ。まっすぐ右肩下がりで悪くなっていくのではなく、へたくそなパイロットウイングスの着陸のように、ときおり機首を上に向けて高度を回復させながら波打つように劣化していく。



先日ひさびさに訪れた釧路のある居酒屋。15年前に通っていたときに、壁に、漁協が配っているような海産物ポスターが貼ってあって、それがタバコと焼き物の煙に燻されて真っ茶色になっていたのだが、このたび訪れると、海産物のポスターが、少しだけ茶色みがかった状態で貼られていた。たしか琥珀に閉じ込められたような色だったはずなのだが、それほどでもない。単なる記憶違いかとも思ったが、周りの壁の色味と比べてみると、たしかにそこだけ明るく浮き上がって見える。「これ、いつ張り替えたんですか」と聞くと、「えっ、そんなのだいぶ古いよ、もう20年くらい前じゃないのかな」と大将が言う。

そんなわけはない。記憶の中のポスターよりもだいぶきれいだ。

でも、あるいは、大将の言うように、これは本当に昔から一度も貼り替えていないポスターで、ただし何か私が思いもつかない別種の代謝のありようをしたために、時を経るにつれて逆に白さを増しているのかもしれない。階段の1段目だって踏まれて溝が増えたのかもしれない。止め絵で判断できることなんてたかがしれている。移り変わりをずっと横で見ているわけでもない、通りすがりの人間が、一瞬の病理診断だけですべての時間経過を診断できるわけがないのだ。