時効じゃないからね

「もう時効だと思うが」という書き出しで、昔のオイタをつらつら書いていくスタイルの文章をたまに見る。自分でも書いたことがある気がしないでもない。あまり上品な文章ではないな、と今は感じる。では、かつての恥ずかしい/ちょっとよくない思い出を、代わりにどのように書き出すべきか? 「まだ時効ではないと思うが」だと単なる容疑者の独白になってしまう。なかなか難しい。「時効」という言葉からいったん自由になる必要があるだろう。


もう藪の中だと思うが――――

昔は病院内で酒盛りがあった。今となっては信じられない。あれは夢だったのではないかと思っているし記憶がかなり断片的なのでほんとうにあとから作られた記憶かもしれない。本を読んだり映画を見たりしているうちに、自分の思い出すらも信じられなくなっていく悲しい中年の戯言である。想定しているのは20年くらい前。まだ私が今の病院に勤務する前、くらいがよいだろう。某病院の検査室の、休憩室の冷蔵庫の中に、ビールが置かれていて、診療を終えた医師たちが帰宅前に立ち寄って技師長といっしょに軽く一杯飲むシーン、私はそこに学生としてか大学院生としてか、とにかく混じっていたように思い浮かべる、もちろんこれはおぼろげな捏造記憶だ。とっくに定年退職して、あるいはもう鬼籍に入っているかもしれないベテランドクターが、顔をあからめながら、週末の学会について語る。技師長は「そんな仕事の話ばかりしないでくださいよ」と言いながら釣りやツーリングの写真を見せつつ呵々大笑。釣りとツーリングってぜんぜん違うんだけどセットで書きたくなる。

そういう牧歌的な交流があの頃の誰かの心を支えていたのだろう、という物語り。追想とはよく言ったものだ。過去を追いかけているうちにいつしか追い越している。


年末に忘年会と称して病院内の職員食堂で軽食とビールが振る舞われたこともあった、だろう。もちろん、院内の宿直当番者たちは参加しない。夕方で勤務を終えた医師や看護師、技師などが集まって、ホッカイシマエビをワインで流し込んだりしていた、だろう。酔いの回った医療スタッフたちが検査室やら技師室やら薬剤部の詰所やら、とにかく患者からは距離のあるスタッフスペースを練り歩いた、だろう、そうして一年の労をねぎらいあっていればよいなと思う。


感染症禍よりもはるか昔にそのような風習はなくなった。あんなものなくなってよかった。アルコールが飲める人しか楽しめないし、同じ建物の中で患者が苦労している中で、それをいったん忘れてはしゃぐというのは幼稚で幼若だったとも感じる。ほろ酔いで病院の廊下を歩いてはだめである。

そして、そういう無責任かつ奔放な、おそらくけっこうな人に迷惑をかけ続けていたはずの風習で、たしかに癒やされて日々の活力を得ていた人たちが、昔はごっそりといたのではないか。おそらく今の私の年齢くらいの中年も、多くがそうやって一息ついていたのではないか。追憶はスピードを緩めない。


旧習のゆがみ、だめさ、弱さ、きびしさを、すでにわかって克服してしまった現代の私たちが、当時に勝るとも劣らないストレスの日々を過ごすにあたって、かわりにどうやって自分たちを癒やしているのだろう。なんとなく、そういうところが少しだけ気になる。かつてのあの日々はいまだに時効になっているわけでもないし、ま、もう誰もやんない。となれば今はみんなもっと別の方法でなんとかしてるということになる。それはいったい何なのだろう。スマホアプリに課金する? 人の悪口をネットに書く? 交流の手段も場所も目的すらも見失って互いに孤立している現代の私たちは、しかし、もうあの頃に戻ることだけはできない。もちろんこれは徹頭徹尾私の脳内にしかない偽の記憶であることは言うまでもない。