おもてひかりうらやみ

庭の草むしりや家の周りのゴミ拾いなどをしたあと、小さな草や木の枝のたぐいは燃えるゴミで出せばいいのだが、燃えるゴミの袋は有料だからかさばる雑草を入れるのは損をした気になる。それに生ゴミが入った袋に先の尖った枝などを入れて穴が空くと面倒だ。したがって雑草や枝葉のたぐいは別にまとめて「草ごみ」の日にまとめて捨てることになる。自治体によって制度がいろいろ違うようだけれどひとまず私の住む札幌市においては草ごみ回収日というのが設定されているのだ。毎日朝出かける前に庭の様子を見て、雑草の類いが目立ってきたらちょっと摘んで捨てて出勤するのだけれど、草ごみの日の朝はいつもより早く起きていつもより多めに草むしりをして一気に捨てる。あれだけむしったのにもうスギナが猛威をふるっている。ワイシャツにチノパン革靴のかっこうでしゃがみこんで草をむしむしとむしる。杉並区には「杉菜未来(すぎな・みく)」という名の公式Vtuberがいるのではないかと思いつく。スマホですぐに検索したいが早くも指先が土+草の汁まみれなのでちょっと今はスマホを触りたくない。

休みの日に草むしりや土いじり、冬には雪かきをする際にはたいていラジオやポッドキャストを聞いている。運転中もわりとポッドキャストのストック消化に回すことが多い。今どきまじで? とよく驚かれることに、私のスマホはギガホ契約ではないので(さほど使わない)、野外でYouTubeなどをかけると一気にギガが失われて月末困ったことになるからだいたい音声コンテンツが中心となるが、家の周りで作業をするときにはぎりぎり家の中のWi-Fiが届くのでVtuberの雑談などを聴くこともある。

東京ポッド許可局、熱量と文字数、文芸ラジオ、感情言語化研究所などサンキュータツオさんの出ている番組を一通り聴き、松岡茉優伊藤沙莉おたがいさまっす、燃え殻さんのBefore dawnなどを聴くとほぼ1週間ぶんの「耳空き時間」は消化され、ここにヘアピンまみれやリゼ・ヘルエスタ、壱百満天原サロメなどをどう盛り込んでいくかが課題となっている。ここにどくさいスイッチ企画の公演音源が入ってくるとかなり充実する。

妻がこないだ10年以上ぶりに庭木の一角を刈り込んだ。こんもりとしていた部分がだいぶコンパクトになったが雨が降って水を得たらいきいきと、四方八方に枝葉を伸ばしていてああやっぱり窮屈だったのかなあと思うしこれでよかったなあと感じる。今年植えた野菜の苗は10本にも満たない、あまりたくさんあっても食べ切れないから畑にとっての基礎代謝量くらいの苗しか植えなかった。しかしどれもよく育っている。5~6月ころの寒さ(リラ冷え)でいったん植えた苗がしおれてしまう年もあるのだが今年はうまくいっている。ミニトマトがもうなり始めた。収穫までにはここからさらにしばらくかかるのだが、青い実がなっているところを見ること自体が好きである。





日々が充実しているというていの日記を書くことで傷つく人がいる。世の中にはああやって成功して充実して安定している人がいるというのにと悲しい思いにかられる人がいる。ささやかな日常の幸せを書き留めること自体が刃であり、その刃によってかつて傷つけられた経験をそのまま連環させて次の人々を刺す、戦いの螺旋の構図で私は日々の暮らしをこうして書いている可能性がある。

『いずれすべては海の中に』(サラ・ピンスカー)の最後のほうに載っていた、「そして(n-1)人しかいなくなった」という話を唐突に思い出す。パラレルワールドの私は今ここにこうしている私とは違う成功と違う挫折をしており、おそらく私が今ありがたいことに語らい合っている人々のいちぶは別世界では不慮の事故によって亡くなっていたりそもそも生まれていなかったり、あるいは別世界で私が愛している人をここにいる私は見過ごしていたり出会えていなかったりする。頸椎症の障害部位くらいはいっしょだと思うが胃腸の常在菌はおそらくパラレルワールド間で全く保存されていないだろう。過敏性腸症候群に苦しまなかった20代を経た私はもっと太っているかもしれないし、最初の結婚にたどり着かなかった私はトレイルランを趣味にしているかもしれない。視力や胃の強さ、さらには人格そのもの、攻撃性とか好奇心とかも変わってしまっていてもはや私とは別の生き物かもしれない。

私はあり得た私の可能性すべてを思いおこしてまんべんなく等しく傷つく。ああいう成功もああいう充実もああいった安定もあり得たはずなのに、今よりもっと、あんなによかったはずなのにと悔しがりながら、今の自分の生活を引き合いにだしてくさす。くさすこともできる。実際にかつての私はそういう怒りやそねみを抱えて暮らしていた。そういったことを脳が少しずつ合目的に忘却してくれている。人格を駆動する感情の部分を少しずつアポトーシスさせて私はパラレルワールドを見通す視力を失い、今の状態に満足するでもなく不満を持つでもない「そういうものだから」という状態に少しずつ滑り込んでいく。

何も書かない私もどこかにいただろうと思う。彼をうらやむし彼にうらやまれている。