没頭bot

生活するというのはどういうことかと考える。要点以外をどんどん削ぎ落としていくと、「なにかひとつに没頭することなく八方美人であること」がそれなりに根っこにあるのではないかと思う。

ばんめしのもんだいを考え、ゴミのことを思い、掃除洗濯の塩梅を気にして、見たいコンテンツをどこにどう差し込んでいくかたくらむ。週末に時間をとってどこかにでかけるためには平日のうちに雑務を片付けておかなければならない。睡眠は確保しなければいけないが一日二日くらいなら乱してもあとで取り返せるかもしれない。

ある一瞬、一時間、一日は、ほかを忘れて没頭するということもある。でも、生活を続けていくならば結局いつかは「雑多の中」に戻ることになる。

人はよく、簡単に、複数の案件の中から優先順位をつけなさいとか、趣味を仕事にしてはいけませんとか、ときめかないものを捨てなさいなどと言うのだけれど、実際には、どれが生活の本質なのかは正直よくわからないままに、やってくるものに各個対処して結局どれもこれもちょっとずつ試食しているうちに腹が膨れているような、デパ地下方式でビュッフェを味わうようなことになっている。

すなわち生活というのは本質的に没頭と相性が悪いのだ。



そして仕事というのも、たいていの場合、「没頭できる時間はないか、あっても特殊」なのではないかと感じる。八方美人的に気配りをしながらなんとなくやり過ごしていくことは生活だけではなく仕事にもあてはまるのではなかろうか。

雑務とか虚務とかいわれるたくさんのあれこれの中に、飛び石のように「これこそが仕事だ」と思えるものが混じっている。「ああ、この一番大事な、最も職能を発揮できる、ブルシットじゃないジョブにだけ没頭してみたいものだ」などと口にして、実際にそのように振る舞ってみるのだが、そう簡単にはいかない。

私の場合は、「顕微鏡を見る」ということ。これだけに没頭できたらどれだけ楽しいか、楽か、働きがいがあるか、と思う。

しかし違うのだ。それは生活でずっと飯を食い続けていたいとかずっとおふとんにくるまっていたいというのと似ているのだ。数時間とか数日とかならぎりぎりいけるけれど、生活のホメオスタシスを保っていこうと思ったらほかにも気配りしないと、いろいろな部分にヒビが入り、継続がままならない。

丁寧な暮らしという言葉があるが丁寧な勤務という言葉はいまいちウケない。けれど私くらいの年代の人間に求められているのは何かひとつの職能を用いて単一タスクに没頭することではおそらく絶対になくて、丁寧に八方に気配りを続けることなのだと感じる。

私=病理医の勤務の本質は、「顕微鏡を見たり書類を書いたり電話を受けたり突然やってくる研修医の話を聞いたり外注の伝票を書いたり害虫の検鏡をしたり、とにかくこの場で長く過ごして八方美人でいること」なのであって、専門学校の講義もするし研究会の準備もする、主任部長会議にも出るし検査室のISO認証の手伝いもする。決して、「ただ顕微鏡を見て診断を書くこと」ではない。

「顕微鏡だけで手一杯なのです。私は仕事が遅いので。顕微鏡を見るだけで十分貢献できるのですから他の仕事はどうか免除してください」みたいな振る舞いをしようとすればできるだろう。しかしそれはたぶん「働いたことにならない」のだと思う。

臨床・研究・教育と切り分けてどれかだけに邁進するタイプの病理医はたくさんいる。しかし、こと、私に関してだけいえば、「全部それなりに中途半端に手を出す人間」としての価値をそこそこたのみにされているフシがある。

「今の時間なんて市原はたぶん診断してるだろうけどひとまず顔のぞきに行ってどうしてもだめそうじゃなければ次の学会の写真撮影の相談をしてみよう」「そうしましょう」と、他科の指導医と専攻医がニヤニヤしながら病理検査室にやってきて、私に声をかけ、そこで私が2秒とおかずに手をとめて「どうしました」と言うからこそ成り立つ関係というのがある。こういうことを近頃はほんとうによく考える。


年を取ったのだとは思う。