ところかわればそめかわる

バイトに来てくださっている若い病理医は「大学とは見た目の違うプレパラート」を見てご苦労なさっている。診断を終えて私がチェックするとき、メモ欄に、「大学とは見え方が違うので自信がないですが……」などの注意書きがたまについているのだ。

染色する技師や機会や試薬が変われば、プレパラートの見た目も変わる。核が濃く見えたり、細胞質と核のコントラストが違って見えたり。染色液なんて統一化して合わせればいいじゃん、というほど簡単ではない。細胞を染色する前には「薄切」という行程があり、組織を4 μmくらいにかつらむきして、ペラッペラにしてガラスに乗せて染色をするのだけれど、この薄いペラッペラが4.2 μmなのか3.9 μmなのかによって微妙に見え方が変わってくるのだ。厚みがあればそれだけ染色によって染まる部分にも違いが出るから当然であろう。

薄切を仮に全自動機械化したとしても、厚さは変わってしまう。組織そのものの硬さによって薄切の微妙な具合が変わってくるからだ。組織の中に固いもの(例:石灰化成分)などがあれば薄切のときにそこにブレードがひっかかることで厚さのむらがでてしまう。これを手作業で整えていくのはまさに職人作業である。そして職人であっても標本ごとの染まりの違いを完全に揃えるのは不可能だ。

この染色性の違いをAIで補正するという動きもある。病院ごとに異なるプレパラートの色味をAIが読み取って毎回おなじ見え方に修正してくれるというのだ。一部のバーチャルスライドでは実装されている。でも、はっきりいって、その補正はまだまだ甘い。

贅沢をいえばきりがないのだけれど、プレパラートの差はどうしても出てくる。同じ施設の中でもあるくらいだ。したがって、私たちは、「ある程度、幅がある細胞の見え方」というものに慣れていく必要がある。

毎回すこしずつ色味が違うにもかかわらず私たち病理医がある程度のクオリティを保てているのはなぜか? それは、脳の補正機能がAIを超えるくらい優れているから……と言えばかっこいいのだけれど、実際には違うと思う。正解は、「濃ければ濃いなりに、薄ければ薄いなりに診断するメソッドを手に入れている」からである。色味を揃えるのではなくて異なる色味ごとにどう対応するかを微調整しているのだ。

「濃く見える施設のプレパラートでは炎症性の異型が癌っぽく見えるから注意する」とか、「粘液が青っぽく見えない施設のプレパラートでは細胞外に漏出した粘液そのものを見落とすことがある」とか、「うちの病院ではH&E染色でピロリ菌が見えるけどそれがいつもどのプレパラートでも可能だと思うな」とか……。

「胃底腺粘膜を観察するときには必ず壁細胞と主細胞を見分けたほうがいいですよ」というと、「えっ、主細胞ってよくわからないんですけれど……」と返事されることがある。いやわかるでしょと思ってそのご施設のプレパラートを借りてみると、たしかに、染色のあやによって、主細胞と偽幽門腺化生の細胞の色味がよく似ていたりする。

ああほんとですね、このプレパラートだと色味では判断できないですね、と納得しつつ、「色がだめなら形で見ればいいんですよ」とばかりに、そのプレパラートを使う際の細胞の見かた、みたいなものをきちんと伝授していく。



先日ある場所で聞いた話で、いずれ原稿になるので詳しくは書けないのだけれど、病理学的にとある細胞を見極めるためには「5つのヒント」があるとおっしゃっている先生がいた。私はそれを聞いて、「5つか! 5つは多いな!」と感じた。私自身がその細胞を日常的に判断するにあたっては、おそらく3つくらいのヒントですばやく細胞の判定をしてしまっている。しかし、残りの2つを見てみると、それは「色身」のようなプレパラートの条件によってかなり変わるものではなくて、もっと一般化しやすい、検者間格差のあらわれにくい、「はっきり言語化しやすい形状について」言い表しているのだ。なるほどと私はうなった。その先生は、つまり、いろいろな施設のさまざまな染色にあわせて、どんな病理医であってもこの細胞を間違いなく判断できるようにヒントを5つ用意することにしたのだろう。自分の慣れた場所、ホームグラウンドで診断するなら5つも要らないのだ。しかし、病理医は、たまに自分の施設以外で作られたプレパラートも見なければいけない。そういうときに、「チェック項目が多い人」のほうが、異なる染色条件にスッと適応できるのだろう。




バイトに来てくださっている若い病理医は「大学とは見た目の違うプレパラート」を見てご苦労なさっている。診断を終えて私がチェックするとき、メモ欄に、「大学とは見え方が違うので自信がないですが……」などの注意書きがたまについている。私はそれを見るたびに、いずれこの方も、どんな病院のどのようなプレパラートを見ても判断ができるような病理医に育っていくのだろうなと思って、少しでも研鑽のお手伝いをできればなという気持ちになる。