すぐ写メんな

くしゃみや咳の音が複数、頻繁に聞こえてくる。「その部屋」で蔓延している。ある意味なつかしく牧歌的である。それを人々が問題と思わないくらいには日常になったということだ。あれだけ大変な日々だったのになんだかもう物語の中のようだ。私たちは急速についこの間まで起こっていたことを額縁の中に入れてそれっきり目線をやらなくなっていく。


今日は飲み会の予定が入った。飲み会! 緊張感のない日本語。飲みの会でも飲む会でもなく、「飲み会」! ゆるみきった心象。だらけきった概念。とはいえ正直ちょっとだけ楽しみだ。けれどそれ以上に面倒である。燃え殻さんがかつて、あらゆる予定は直前でキャンセルしたくなると書いていたがとてもよくわかる。楽しみと面倒は、同じ坂道の途中に咲いている花だ。高低差のあるロングトレイルを走るより遅く歩くより早い速度でえっちらおっちら辿るとそこかしこに見えてくる。少し楽しみだけど面倒なこと。少し楽しみだからこそ面倒なこと。ぽつん、ぽつんとこなす。いくつもの山を越えていく。えっちらおっちら越えていく。飲み会の翌週の仕事を発熱ですっ飛ばしたらコトだ。飲み会のメンバーとの距離感を間違って話題を選び損なってもコトだ。周りとペースをあわせて飲食する量を揃えていかないとコトだ。じっくりコトコト煮込んだスープ。


『フラジャイル』の医療監修をするようになって、役得的に原作やネームを見せてもらう機会があり、雑誌連載時の初読の感動を奪われて、それはまあその本当にまじで迷惑なんだけど、でもそれはおくとして、こうした場に携われることはとても光栄なことだし、なにより、あの原作の「台本」からこんな構図でこんな奥行きの絵が出てくるのかという驚きをいつもしみじみ味わっている。小説がドラマや映画になる場合もあって、文章が実写ではああやって表現されるのか、というのを照らし合わせ・答え合わせすることを我々はしばしば試みるが、いわゆる「失敗作」は抜きにして、すばらしい実写化を果たした「成功作」をいくつか思い出してみても、そこまで文章と実写とで大きな逸脱はないし、そこまで大きな驚きを得たこともない。「見事な実写化」がまったくないとは思わないが、映像的な魅せ方はともかく脚本が原作を凌駕した実写化というのは少なくとも私はこれまでほとんど見たことがない。「役者」がはまり役だとかうまいとかいう評判はわかる。実写の性格をふまえたうえでの脚本の変更というのもわかる。でもそれはあくまでそこまでの話だ。しかし、ひるがえって、『フラジャイル』に感じる原作の咀嚼と代謝を見ると、これはもう、本当にすごい。これまで見てきたあらゆる原作付きドラマが「原作通りだな」もしくは「意図的に原作とバトってるな」の雑な二択に分類されざるを得ないレベルでフラジャイルの作画担当の原作処理能力は異様に高い。なんというか、その、うーん、アウフヘーベンしているのだ。いや違うか……昇華している? うーんもうちょっと複雑なニュアンスで。サナギが蝶になるような? 変態? 変態は変態だが。

草水敏がひとりで書き上げた原作はたしかに美しく、そのままテレビドラマの脚本になるクオリティである。それが恵三朗の脳を介すると「まるで違う風景が脳内に展開されるが確実に原作のニュアンスを踏まえたもの」になる。抜群におもしろい。原作をなぞるだけのマンガでは全くない。言い方は乱暴だが、「原作ストーリーテラー公認の原作作画担当者による同人誌」かよ、という感じまでする(本当に変な言い方だ)。原作の設定を神聖に扱いつつ、原作をはるかに膨らませた妄想の世界が広がっている。しかもその辻褄が完全に合っている。怖い。怖いオタクの所業でまれに見るやつだ。正直、私は、『フラジャイル』の医療監修をする前までは、草水敏と恵三朗の作品に対する貢献度は6:4くらいなのかなと思っていた。しかし原作と完成品とを両方見ると、これが5:5に変わる。4:6ではなく5:5だというのがエグい。2名の強い個性がぶつかって5:5で安定しているというのがエグい。これが協同で作るということ。すばらしいものを見ている。

こんなすごいものを「日常」の一部で見るようになった自分のおかしさを思う。おっかしいよ。額縁に入れんな。