ZAZEN BOYSのライブのことを考えている。サイボーグのオバケはやらなかったな。あれ聴きたかったな。SI・GE・KIもやらなかったな。あれ聴きたかったな。Asobiをやらなかったな。あれマジで聴きたかったな。それ以外は完璧だった。いつものことだ。ユニゾンとかハーモニーとかいう言葉だと違和感がある。グルーヴというのがよいのだろうか。でも世でグルーヴという言葉を使っている人々のことがあまり好きではないのでほかの言葉をあてたい。ギグとかにも言えることだ。考えている。こんなことに脳を使っている。空白ができないように考え続けている。
数日前の夜、というか日の出まであとちょっとという時間に目が覚めた。意識のフォーカスが暗闇に合うまでの間、耳の裏側のあたりにキーンというかシーンというか、とにかくそういう超高音域のモスキート音のような音がずっと響いているのがわかり、それがあるときにぴたっと止んで完全な無音となった。まだ寝ぼけていたのだけれどとても驚いた。そうか、私はいつも、これだけのバックグラウンドノイズがずっと響いている中で何も知らずに笑って暮らしていたのか、と思った。無音はそれくらい、ほんとうに何もなかった。しかし、次の瞬間にはまたキーンというしずかな音がなりはじめて、たった数秒程度の完全な無音はそれっきり二度と戻ってこなかった。そうか、うん、いまのは夢だったのだろう、と思ってまた二度寝をした。
早朝、目が覚めて、耳の向こうをたしかめる。やはりずっとキーンという音がなり続けているような気がした。それは段ボールの表面のテクスチャのように、そういうざらつきがあるのが当たり前といった雰囲気で、試薬の調節に使う精密秤のゼロ・ポイントを指定するときのように、私の無音というのはこのノイズ以外の音が何もしていない状態なのだと自分でフィックス・定義されているのだなということがぼんやりとわかった。
私の目も耳も肌も、すべて、空気や光の圧力があることを前提として、それらが自動的に生み出すノイズをあらかじめリダクションした状態で、世の中をはかっている。重力に対する内蔵のふんばりも、室温をふまえた細胞の代謝も、あらゆるものからの影響を「あることはもう前提として」、私はときになにものからも自由になってたゆたっているような自分の姿を思い浮かべている。心臓伝導路における心筋の微弱な興奮も、錐体路の末端におけるシナプス間隙の些末な放出も、胃底腺の管状構造内におけるペプシノーゲンの微量の分泌も、すべて音を奏でているけれど、私はそれらをデフォルトで無音の条件だと思い込んでいる。
差分でしか認識できないという話を最初に提案したのは哲学者ではなくアニメーターであったろう。昔のアニメでは草むらから何かが飛び出てくるシーンでその草だけが色が違っていて、ああ、ここから何かが出てくるのだなということが子供心にわかりやすかった。
変化をみる。変化だけを見極める。変わらないのはカシオマンのギターだけだ。変わらない場所はいつか基線にされる。完全なハーモニーは聴いていないのと同じになり、狂った鋼の振動が音楽だとみなされる。内閣総理大臣 ジェリー・ガルシア。国家公安委員会委員長 ジョン・ベルーシ。農林水産大臣 マイルス・デイビス。それが基線となるような世界においては、とうぜん、陸軍中野学校予備校理事長は村田英雄。