シソーラスというと何やらシーソーのようで両義性とか拮抗性などがありそうに感じてしまうのだが、実際にはthesaurusと書くようで、こっちの字面を見るとむしろ恐竜っぽいと思う。意味はググれば出てくるのであまり調べることにも書くことにも興味がもてないけれど、ただ、字義や類語の階層を6,7階掘り進めば、それはそれでおもしろいところにたどりつくだろうなということもわかっており、私はもう少し丹念に検索するべきなのかもしれない。せめて、ググるだけでもする人間であったほうが、今のご時世まだマシなのかもしれない。私はもはや、ググってもこの程度までしかわからないもんな、と、あきらめてググらなくなってきている。熱を失っている。よくない傾向かと思う。
思えば、これだけAIに適当なかきまわしをされて、世にある文章の大半が信用できなくなった今、ググったカスがたくさんいたあのころがどれだけ前向きだったのかと、少し肩を落とすべきなのかもしれない。
熱を失っていくということ。
何度か書いてきたイメージ。ドラゴンボールの放送されていた水曜日のよる7時台、13分経過時点で流れるCMに、はごろもフーズのミルククラウンがあった。「はごろもフゥゥーズ」のウィスパーボイスと共に、画面いっぱいに広がる牛乳の表面、そこに垂らされる一滴の水滴……ん? と思って今検索してみたら、はごろもフーズのCMは牛乳じゃなくて水でやっていた。記憶の乱れも著しい、アジャパー、ともあれ、あの水滴クラウン、あれこそが、私の中で「文明のエントロピー」のありように近い原風景みたいなものである。まずは水面に最初の一撃が衝突していちばん大きな爆発が生じ、それらのクラウンの頂部に出現した新たな水滴が中心から一定距離離れたところでふたたび衝撃を生む。ただしそれは最初の一撃に比べると高さが足りないぶん反射がいかんせん低めに生じており、でもそのたくさんの水滴がさらに外側に次の爆発を生む。繰り返し繰り返し、「衝撃を受けて跳ね返る環状の領域」が外側に広がっていって、でもだんだんと跳ね返る水滴の高さは低くなって、数回あとにはただの波となり、それが次第におさまってまた凪に戻る。あらゆる文化、趣味、嗜好、癖(へき)、ブーム、社会的な怒り、蠢きもそうやって、凪いでいるところに最初にやってきたものが一番巨大な跳ね返りにつながり、それが外側に波及していくごとに勢いを失っていく、巨大なミルククラウンもしくは環状紅斑なのだ。
SNSもAIも、私たちが相身互いに助け合うあらゆる仕組みも今はもうクラウンの最外側くらいにしか脈動していないと感じることがある。雨垂れ石を穿つの言葉もあるが、雨垂れが屋根を穿った場合、石の上には青空が広がり、乾いて、雨が降ってももはや穿たれることはなくなる。世の中には屋根が必要であった。AIは雨垂れの足がかりであるところの屋根を吹き飛ばしてしまったのかもしれないと思うことがある。