書き溜めに鶴

ブログは書き溜めている。昔は10本書き溜めていた。基本、平日に更新しているので、10本というと平日2週間分に相当する。仕事が煮詰まってくるとこれくらいは没頭する可能性があるということで、2週間の遊び。ところが最近は出張が相次ぎ、出張中に書けばよさそうなものだがどうも出先でブログを書く気になれずに、ポロポロとストックを失って、とうとう今は書き溜めが4,5本くらいになった。さすがにはらはらする。

とはいえ、「書き溜めが減ってきてはらはらする」からは本末転倒の香りが漂う。「ストックが5本よりも下回ってほしくない、できれば10本くらいは余裕をもたせて抱えておきたい」となると、少しずつ過剰の方向に向かってにじりよっている。念のためともうけた基準からさらに余力をもたせて……を繰り返しているとそのうち書き溜めが100、200となりはしないか。まあ、なりはしないのだけれど、なんか、そういう、念のための二度塗り、三度塗り、漆かよ、あまりエレガントではないよなと自分で自分を卑下する。

学会や研究会で講演する際のスライドづくりについても似たようなメンタルステータスが発動する。現在、10個先の講演までプレゼンは作り終えており、昨日作り始めたのは6月の講演スライドだ。念のため、念のためと準備をどんどん早回していったらこんなことになった。しかし、早く準備しておけばいいというものでもない。

先日、ある研究会(A)の前日に、「さあ明日のプレゼンでも見直すかあ」と思ってファイルを開いたら、思っていたのと違う。あれ? と思ったら、似て非なる別の会(B)に向けて作り直したデータをまちがえてAのプレゼンに上書き保存してしまっていた。AにはA用の話がある。しかしそれをもう話し終えた気になって、Aを聞き終えた人向けにBという少し進んだ内容のプレゼンまで作り終えていた。当然、別々のファイル名で保存しておくはずが、なんかショートカットキーでも押してしまったのだろうな、Aのファイルにも「作りかけのB」みたいな内容が保存されているのである。それをAの前日になってようやく気づいた。鏡もスマホも使わなかったけれど、私の唇はそこで間違いなく真っ青になった。これでは、なんのために早めにプレゼンを作っておいたのかわからないではないか。結局、未明にかけてA用のプレゼンを作り直し、帰宅して荷造りだけして寝ないで空港に向かうはめになった。飛行機の中で寝られるからいいや、じゃないのである。もっとも、プレゼンは一度作っているから作り直すからといってひどく困るというほどではなかったのだけれど、デザインやフォントを統一するのが少し甘くなって悔いの残るプレゼンとなってしまった。


ストックを用意すればするほどよいというものではないのだ。わかっている。けれどこれはもう強迫観念だよな。





直近にCPCが5つある。そのすべてで私が病理解説をする。このうちひとつは急遽決まったCPCで、本日の時点でまだプレゼンができていない。会の3週間前にプレゼンができていないというのは、非常事態だ。ここ数年でそんなことはまずなかった。あったとしてもその日のうちにプレゼンはできてしまうものであった。でも、CPCだけは別だ。さすがにCPCのプレゼンは1日で準備できるようなものではない。私は1時間半の講演であっても1日で作ってしまうタイプの人間だが、たかだか15分のCPCのプレゼンは1日では絶対に作り終わらない。

CPCというのは、端的にいうと「ある症例、ある患者に対して、病理医が見て感じたものすべてを含んだプレゼン」が必要な場である。「すべて」というのがポイントだ。

ふつう、人前で何かをプレゼンするというのは、すべてを出すものではないし出してはならない。選別が重要なのだ。絞り込みが必要なのである。コピーライターの技が求められる。広告代理店に入ってもらったほうがいいのだ。世の中には無限の情報があるが、それをいかに有限化するかにプレゼンのセンスが問われる。それが普通だろう。知っている。そして、これは私の持論なのだけれど、CPC、特に病理解剖例のCPCのときには、病理のプレゼンは絞り込めば絞り込むほど「鼻につく」。「今日はここだけ覚えて帰ってください」とテイクホームメッセージを狭い範囲に限定するプレゼンは、製薬会社が顎足枕付きで医者に頼んで医者もなんだか片手間で適当にしゃべるようなランチョンのプレゼンでならば許されるけれど、CPCだとしっくりこない。だめである。クオリティが低い。「有限化でしゃべった気になっているのはそれがCPCではないからである」。

CPCは「無限を見せようとする姿勢」が必要だ。ただし、どうせ無理なのだ。そんなこと、芸術家以外の人間にはできないのである。しかしそこですぐに引き換えしてはだめなのだ。「本当は無限に見せたい」。「すべてを余す所なく伝えられたらどんなにいいだろうか(でもできない)」。このような逡巡が全身からにじみ出てくる病理医であってはじめて、CPCにおける信頼がぽつり……ぽつり……と得られるのである。

CPCのプレゼンだけは、それまでにどれだけ頭の中でこねくり回していたとしても、作業時間1日では決して完成しない。間に合わない。それこそ、「間に合わせ」を提示してはいけない。それがCPC、clinicopatholocigal conference(臨床病理検討会)である。

以上は私の意見にすぎないが、ブログなのだから、それはまあ、私の意見しか書いていないのが普通だろう。ブログなんだから。CPCじゃないんだから。CPCが5つかあ。しんどいなあ……ブログの書き溜めとかしてる場合じゃないんだよ(これで7個目の書き溜め)。