積ん読は読書ではないです

読みたい本が溜まってきた、積ん読は嫌いなのでわりとストレスである。積ん読も読書とかいう言説は、まあ、なんとなく言いたいことはわかるし、そういう状態を楽しめればいいのだけれど、私のように「積んであるものをみると落ち着かない」人間もいるのだということを積ん読好き勢はあまり考慮していない。積ん読とは結局のところ、「本を用いた芳醇な楽しみ方のうち、読書ではないもののひとつ」であって、それ以上でも以下でもなく、つまりは読書ではない。「積ん読も読書」というのがコピーライティングとしてわりと優れているからみんな楽しそうに口にしているだけで、それは読書ではない。むしろ再読こそがもっとも読書らしいと考えると、積ん読は読書の二歩手前であり「門前の小僧の幼年期」の分際で経を読んだと言われても片腹痛いと私なんぞは考えている。

とはいえ、今積んである本はどれも読むのが楽しみだ。読書をしているとは思わないが積ん読というのは確かに楽しいものである。本の雑誌の連載中から読んでいた椎名誠『哀愁の町に何が降るというのだ。』、みすず書房の新刊の『並行宇宙は実在するか』、そして今西洋介先生の『育児の真実』、それと洋服マニアの『國松内科学』。どれもなかなか取りかかれない。特に最後の一冊を読むのはかなりおっくうである。届いたときにぱらっとめくったら文字が大きかったり小さかったりするのでこれなら通読行けるかなと思ったのだけれど、1700ページあるらしい。うんざりだ。そもそも内科学と題した教科書を通読するなんてのは、大学生の「Harrisonを通読したぜ(ドヤ)」といっしょで、読み切ったという勲章がほしいだけの本末転倒型のよろこびに近いのだが、私はここで本末転倒した喜びを得てよい立場ではあると思うので、いつか本末転倒に喜ぼう。さておき、こうして、本が積まさっていく(北海道弁)ことで、私は着々と機嫌が悪くなっている。それはやっぱり私の趣味が積ん読ではなくて読書だからなのだろう。

『本なら売るほど』に、本を集めて背表紙を見るのが楽しみで中はぜんぜん読んでいない人というのがいて、あれはあれで楽しそうだなと思った。つまり理解はできる。しかし共感はできない。私はそういう趣味は持ち合わせていない。



家族に「Nintendo Switch 2の初回抽選に外れちゃったよ」と告げたら「むしろあれ応募してたの?」と驚かれた。いつのまにそんな高価なものを買おうとしているのかと非難の目線を向けられているのかもしれないし、よくやった、もっとやれ、届いたら貸せと応援(?)してくれているのかもしれない、どちらと考えるかは解釈次第であり解釈とはすなわち世界の数であり私は多元世界に生きている。仮に、Switch 2が今当たったとして、ならば私が本を差し置いてマリオカードワールドに興じるかというとそんなことはおそらくない。私がSwitch 2を求める理由は、「ゲームハードを予約したぞといい歳をして子どものように喜んで周りに吹聴すること」にあるかもしれず、あるいはそれはもしかすると積ん読のような楽しみ方なのかもしれない。積みゲーという言葉もある。いくつものゲームを買ってダウンロードしてそれで放置。お金もかかるしSwitchのハードディスクも占拠するしでいろいろともったいない。しかし、それはなんかありかなと思ってしまう私がいる。金が許すならやってみたいかもなあ。もっとも私はブレワイやティアキンあたりを買ったあと、最初はじつは積むつもりでいたが、結局普通にやりこんでしまったのでやっぱり積んでいると満足はできない気もする。


アマプラやネットフリックスを契約するというのはつまり積みコンテンツを手に入れることなのではないか。コナン君の映画、まだ28本くらい積んであるよぉ、なんてことを言えるのが動画配信サービスの正体だろう。同じことを動画ではなく書籍でもやれるようになる日がくるだろうか。たとえばみすず書房あたりが自社の本をサブスクで読めるサービスをはじめたとして、私はそれを契約した瞬間から、いきなり大量の本を積んでいる状態になるわけで、どんどん機嫌が悪くなるだろうことが目に見えている。本やマンガはサブスクにしなくていいよ。積ん読なんて読書じゃないんだから。でもまあみすず書房は「積ん読も読書」勢のためにサブスクも検討してみたらよいのではないかと思う。大きなお世話か。