アジア各国で講演をするときは通訳の有無にかかわらず英語を用いることがほとんどである。私は英語力がぜんぜんないので、しゃべりたいことをあらかじめ原稿に起こしてそれをチラチラ見ながら講演をする。そんなことだから質疑応答になるととたんに専門用語オンリーのカタコト単語会話になってしまう。情けなくて恥ずかしいし、こちとらその程度ですからあんまり自信がないですといくら述べても、向こうはいいからしゃべってくれの一点張りで、年に数回そういう機会があるのだけれどいつも汗をかきかきぐったりとなんとかこなす。
もっと英語を上手に使いこなす病理医なんぞいくらでもいるだろうとたずねた際に、「大丈夫、英語が達者な病理医にも話してもらうし、そうじゃない病理医にも話してもらう、いろんな人に話を聞くことが我々の勉強になるのだ、だから気にしないでくれ」と、気を使っているのか正直なのかよくわからない返事をもらって、それで少し気が楽になったことがある。
Zoomでのオンライン講演の場合、汗だくになって講演と質疑応答さえ乗り切ってしまえば、その先の「あいさつ」、「天気や気候や日常の話」や「御当地と日本との違いトーク」といった社・交の辞・令、を一切しなくてよいのが助かる。「いやー疲れた、がんばりました、けど皆さんにはちょっと聞きとりづらかったですかね? ごめんなさいいつまでも英語の発音がうまくならない、お絵描きとか音楽といっしょですよね、才能がないと毎日やっても身につかない(笑)」みたいな、その場の思いつきで適当にポンポン間を埋めるような会話を英語でやれと言われても無理だから、そういうのを一切抜きに仕事が終わったらマイクミュートにできるZoomというのは本当にありがたい。これは別に英語に限らない。日本語でもいっしょだ。仕事を脱輪したやりとりに興味がない。日本国内の学会で座長をやったあとに演者に話しかけてお礼を述べている最中、さっさと立ち去ってチェーンの中華料理屋で麻婆豆腐でも食べたい欲望がいつも抑えきれなくて妄想の口の中に山椒の香りが広がりはじめる。そんなの社会的にダメすぎるので以前は人前ではなるべく隠していたが(隠しきれていなかったろうが)、最近、燃え殻さんのエッセイなどを読んで、もう隠さなくていいかもなと思ったので今は素直に「ありがとうございました! またぜひ!」だけでその場を去るし、オンラインなら自分のしゃべりが終わり次第即座にだまってあとはいい子にしている。
母語の書き文字だけでやりとりできる細胞診断ならびに所見の記載だけで必死だ。それだけで充たされている。それでなんとかやっていける。コミュニケーションに口頭言語が必要な仕事はしんどい。英語はおろか日本語での会話も苦手である。「そんなことないですよ、いつもあんなに流暢にしゃべっているじゃないですか」という人は、基本的に私と会話をしたことがなく、私の話をラジオ的に聞いてくださっているだけである。ラジオならやれる。しかしコミュニケーションは無理だ。間に職業的知性を挟めばなんとかなる。しかしそれが取っ払われたとたんにもう慌ててしまう。
そのような人間が英語を上手にしゃべれるようになるわけがないのだと思う。
中国での講演を頼まれた。出張予定とかぶっていたので今回は無理だと断りつつ、オンラインならホテルから接続できるけどどうするとたずねたらオンラインでもよいとのことであった。いろいろやりとりをした結果、私が事前に講演を英語で録音し、あらかじめ中国の事務局に送って、動画に中国語の字幕をつけてもらい、講演当日はその録画を流すという方向で話がついた。中国はアジアの中では英語のできない医者が日本並みに多い。中国語だけで満足できる環境で働いている人が多いのだろう。講演を英語にすると会場は閑古鳥になる。向こうにとっても、事前に翻訳できる形式というのは願ったりかなったりだろう。同時通訳は金がかかる。
そうなると、私がその時間にオンラインで登壇する必要はないはずだ。しかし向こうは「ご発表は録画を流します、その間、Zoomに接続して待っていてください。終わったら質疑応答を英語でお願いします」というので困った。自分が拙い英語でしゃべっているところを自分で見ている時間が発生する。一番いやなパターンだ。おまけに質疑応答の5分かそこらのために出張先のホテルでPCを開いて待っていなければいけない。今がその待ち時間だ。ブログを書いてごまかしている。やけに抑揚に気を遣った必死の講演音声が聞こえてくる。他人がしゃべっているようだ。