酒飲みの理屈にも近いものがある

講演で呼ばれた研究会の交通費・宿泊費・講演料の精算が遅れている。当番世話人から直接電話がかかってきて、「ごめんなさいね! 遅れて! ちょっとばたばたしちゃって!」と悪びれもせずに形ばかりのおわびをされる。申し訳ないことだがああ無能なんだなーと感じる。自分がどれだけばたばたしていたとしても、仕事を頼んだ相手への支払いが遅れたらだめだ。そこはちゃんとしないと。無能なら、開き直るのではなく、自分の無能をきちんと自覚して深く反省してほしい。そういうことをまずは考える。ただ、そこからコンマ数秒遅れて、「人間なんてだめなままでいいんだ」という気持ちが私の負の感情をがばっと覆ってなだめる。だめな人間同士でしょうがねぇなーと言い合うムードに一気に転換してあとはニコニコやっていく。それでいいじゃない。クサクサしなくていいじゃない。ハンドルのあそび。心のバッファ。いい縁をもらったことに感謝し、微妙な仕事環境に目をつぶる。おおらかにあろう。何もかもゆるそう。ここまでで1秒くらいであり、コミュニケーション的に問題となるような遅滞も発生することなく、当番世話人にその場で「問題ありませんよ、気にしないでください」と伝えた。半年くらい念入りに準備した私の仕事は幹部陣からは特に労われるわけでもないし報酬も未払い。しかし参加者からは喜ばれていたようなのでそれでよし。

「社会に出たらそれじゃ通用しないよ」みたいなことを大人はすぐに言うけれど、実際には社会というのはかなりの量のだめ人間によって構成されていて、学生気分でもわりとあちこちで通用する、というか学生気分と大差ない大人がたくさんいる。遅刻ばっかりすると信用されないよ、いい仕事が回ってこないよ、というのもウソ。納期を守らないと切られる、とか、礼儀を欠くと関係性も欠ける、みたいな話も、部分的にはそうなのかもしれないけれど世のすべてがそうなわけではないのでやっぱりウソ。朝三暮四は世の常。恒常的平衡よりも非平衡定常状態が生命の掟。メールでまともに敬語が使えない大人も礼の心は持っている。後輩にハラスメント的物言いしかできない大人も労りの心は持っている。学歴も年収も地位も名誉も一切関係なく、世の中はどこか抜けていてどこか破綻した人間で満ち溢れていて、だから、つまり、だめで無能な人間が自分の仕事に関わったからといって、そんなに、いちいち気に病むことはない。

ただし、そういう無礼で無能な人間から選ばれて仕事をしている自分のことは、ちょっとだけ嫌いになったりもする。



完璧主義者を名乗る人間ほど幼若なものだ。体験的にそういうのが身にしみる。だからだろうか、かえって、不完全であることを過剰に庇護しようとしてしまっていることは否めない。寛容であろうとするばかりにセキュリティがザルになるということはあるだろう。慈悲をもって眺めていたら小悪党がはびこるということもあるだろう。なにごとも過ぎたるは及ばざるがごとし。きっと私は、完璧に周りを御するべく動く自分が嫌いすぎて、逆に周りがなにをしても無関心な方向にちょっと舵を切りすぎた。もうすこし、粛々と、しめてかかってもいいのかもしれないな、と思う。でもまあもうめんどくせえんだよな。人は人、我は我、それでも仲良し。