あんまり大きな声では言えないのだけれど現在は会議中である。PCの画面の左上でZoomが開いてあって、右側にブラウザを押し込むようにブログの入力スペースを展開している。ちなみに左下には会議で使うための資料を開いてあり右下にはメールのクライアントソフトの一部を写してあり、モニタはさながら空港で売ってるタイプの選択肢の少ない幕の内弁当みたいなことになっている。会議は不定期に私に意見を求めてくるのでヘッドセットをつけたままPCカメラに正対するかたちで、ブログを書いている腕まではZoomに映らないから私はさきほどからじっとモニタを見て会議に参加している人みたいな顔でいる、ただ、これまでの経験からいうと、肩から下だけ使ってばかすか何かを入力しているタイプの人というのは、画面越しでもなんとなくわかってしまうものであり、つまりZoom会議に参加している14名はおそらくみな私がなにか内職をしているのだろうなということを薄々気づいている、しかし、ざんねーん! 私がやっているのは内職ではなくてブログの執筆なのでしたァーッ! 余計悪い、悪いがまあ仕事がきちんとできていればよいだろう、これがきちんとした仕事なのかどうかは置くとして。
それ置いたらいかんやろ。
近頃はやる気根気元気みたいなことをよく考える。それも、自分のではない、他人のをである。私はいい、なぜなら、私はもう、世間的にどれくらい辛いことが自分にとってどれくらい辛いことになるのかというのをフーリエ変換できるようになったからだ。社会が私になにをさせたいのかについてだいたいなんかうまいこと次元圧縮したりハッシュ化したりしてある程度不可逆な省略などかけていくうちに自分の体調に応じてほどよいタスク量におさめるみたいなことを人並みにはできるようになってきたからだ。だから気になるのは他人の体調。他人のメンタルステータス。他人の心のざわめき。他人の心のおちつき。みんなにやさしくありたい。みうちにやさしくありたい。たにんにやさしくありたい。
しかしそれもまた他人にとっては大きなお世話であろう。こういう話については、じつをいうと、私がいちばん素人なのだ。私がいちばんへたなのだ。だいぶうまくなったけれど、それは、他のみんなに比べると、だいぶ遅いのだ。みんなずいぶん前からそういう変換をやっていたのだ。それこそ、高校のころから、中学のころから。
私はこの年になってようやくできるようになったというのにだ。
かつての私はだいぶ驚いた。社会のメッセージを自分向けに変換するという行為を、たいていの人は、遅くとも社会に入ってだいたい五年くらいまでには、多かれ少なかれ身につけていく。早ければ学生時代からだが遅くても社会に出るとだいたいみんなそういうことができるようになっている。しかし、私はそういったものがわからなかった。いつまでもできるようにならなかった。自分がやりたいことと、自分ができることと、社会が私にやってほしいことのバランスをとれず、すべてを貫くような筋を通すこともできず、ひたすら自分ができること、というか、より正確に言うと、自分ができないぎりぎりのことを、無闇矢鱈にやっていくばかりで、個人的な達成感だけ手に入れてそれが社会の要請とどう噛み合うかみたいなことをまるで無視してきた。あちこちの重力場をゆがめて、光としては直進しているし最短距離は常に進んでいるのだけれど外部から観察するとそれって結局めっちゃ歪んでるよね、みたいなアインシュタインの予測が見事に証明されていた。
でもだんだんそういうのは違うんだなあということがわかってきた。そして、誰もが、やりたいこと、できること、やるべきことの3つを統一するにあたってなにがしかの変換を用いていること、その変換には、やる気元気根気みたいなものをけっこう消費するのだということを、ようやく知った。
みんな私よりそういうのはうまい。ただ、私よりも燃費は悪いようにも見える。だから近頃は、私は、みんなのやる気元気根気みたいなものを、よく見なければいけないよなあという気持ちになっている。でも繰り返すけれどそんなのは大きなお世話なのだ。ああ会議が終わった。