来し方をおしはかり行く末をふりかえる

まあちょっとめでたいっちゃめでたいのかな、と思ってビールを買った。近頃は「金麦 75%オフ」しか飲んでいないのだがひさびさにキリンのラガーにした。味が濃い。主張が強い。途中でいやになってしまった。私はもう味の濃いビールはそんなに好きではないようだ。金麦のスッカスカの炭酸水みたいな味がちょうどいいようである。体の周りに生えていたトゲがどんどん取れて、代わりに毛玉がぽこぽこついて、それはまるで大長編ドラえもん・のび太の恐竜に出てきた「キャンピングカプセル」のような感じで体表面に生息している。周囲を傷つけることなく、自分が少し貧相なかんじになる、そういう変化がきっちりじっくりと私を包んでいる。ビールがどうでもよくなる日が来るなんてな。

かつてのあれは、今ならどういう味に感じるのだろうか。懐かしい料理をいくつか思い出す。たとえばカネサビルの2階の奥の「つくしん坊」の米々チーズ。かますチャーハン。「ばっぷ」のコーヒー焼酎。マイヤーズ・ラム。歴々。面々。雰囲気も味も覚えている、忘れたことなどない、しかしこれらは、きっと、25年かけてぐいぐいとゆがんでいる。水曜どうでしょうをかつてテレビで見ていた、あのころの画質をたとえばYouTubeなどを駆使して現在のモニタに映し出すと「こんなに汚く粗かったのか」とびっくりしてしまうわけだが、記憶の中の感覚というものは経年美化してバランスも整えられ色彩もうまいこと調節されている、そういう味わいの数々を今の私が口にしたら果たしてどういう感想を持つのだろうか。

あのころ別にうまくも感じなかったブランデーを今飲むとおいしく感じてしまうのだろうか。


解剖に関するちくまプリマー新書を読んでいたら懐かしい話が出てきた。脳神経、12本の覚え方、というやつである。私は長年、「嗅いで視て、動く車は密の外、ガンジー絶倫冥福でっか」とおぼえてきた。嗅いで=嗅神経、視て=視神経、動く=動眼神経、車=滑車神経、密=みつ=三叉神経、外=外転神経、ガン=顔面神経、ジー=内耳神経、絶倫=舌咽神経、冥=迷走神経、福=副神経、でっか=舌下神経。しかしものの本にはどれも「ガンジー絶倫」とは書いていなくて、「顔耳のどに迷う副舌」とか、「顔聴くのどに迷う副舌」みたいなものばかりなのだ。たしかにガンジー絶倫はちょっとどうかと思うが、「副舌」なんてもはや覚え方でもなんでもない、音というかゴロだけのフレーズではないか、つまらない。じつは絶倫であったガンジーが天寿を全うしたんでっか? と大阪のにくめないおっちゃんが疑問形でたずねている空気がいいのに。なぜこれは流行らなかったのだろう。私が作った語呂だが北海道大学の後輩にもきちんと伝えたはずなので、27年とか経てばとっくに全国に広まっていてもおかしくなかったのに。私の本来の影響力なんてのはその程度のものなのだろう。


昔のことをつらつら書いているとブログというのは書けてしまう。しかし、本当は、現在のこと、そしてちょっと未来のことを書いたほうが、世の中的にはウケるしPVも伸びるし金銭的なうまみも出てくる。じっさい、あちこちのnoteやブログを見ると、売れっ子の書くバズコンテンツは基本的に現在や未来のことで構成されており、過去に触れられているとしてもそれはあくまで「現在につながる思考の枠組みや骨組みを取り出すための素材」として取り上げられているにすぎない。過去そのものが茫漠と霞んでいくときの、風がきしむようなさみしい音、そういうものをもっと読みたいと思うのだけれど、バスを待つ夜、飛行機の中、スマホをフリックして次々と読み捨てていく記事のどれにも、後悔だけで紡がれたきれいな織物や、韜晦だけで彫られた鋭い観音像などはちっとも出てこない。それは私たちがまるで、かきすてながら、かきすてながら、暮らしてしまっていることの証明なのではないか。それでは私たちはあたかも、誰にも気づかれないところで瞬間的に明滅する、月も出ない秋の夜の遠雷のようではないか。