下品

Xで、私がフォローしていない人間が私の異動についてポストしていて、笑ってしまった。そういうことをするとわかっているから私は彼をフォローする気が失せる。

ゴシップ。うわさ。コネ。出処進退。世の中で語られることのほとんどすべては人事だ、と、プチ鹿島局員(東京ポッド許可局)は言った。私は膝を打つ以前に「はぁー、これはなんとも、世に失望するためにひどく便利な言の葉だなあー」と感心してしまった。たとえばプロ野球に関する話題、先発投手のローテーション、スタメンを固定するか動かすか、中継ぎのタイミング、最近調子のいい打者は誰か、代打のタイミング、監督の采配への物申し、たしかにこれらは、どれもこれも大雑把にくくれば「人事」であろう。永田町、万博、芸能、メディア、なににつけても言えることだ。飲食、旅行の話題ですらも、人事の香りにつつまれることは多い。あるいは学術とか医療に関する話題すら、どの講座がうまくやっているとか、誰が上についたから下は大変だとか、業績を誰がどの順番に出すかとか、研究費がどうとか大会長がどうといった「人事」の話に、確かに吸収されていく。

私たちはいつだって、人に関することばかりつぶやいている。それをプチ鹿島局員はスポーツ新聞から経済新聞までを全部読み切るいつもの作法で「すべて人事」と呼んだ。私はそうやって人事の話ばかりしている人間の多くを、できればそう頻繁に網膜にうつりこまないように、角膜にあらかじめ頼み込む。「ぼかしてくれ、まびいてくれ」。

人事について語る私は実際ひどく下品だ。その下品さを飲み込んでなお、大切なことだからつぶやいているのだと、うそぶくとしたら私は単にうそつきだ。大切ではない。どうでもいい。下劣であることに開き直ったらおしまいだ。

人と人の間に暮らす私たちにとって、人・間のことを語るのが日常になるのは当然のことだ。しかし、必然ではない。人の間に提示して、彼我がそれぞれ眺めて語り合う、キャンプファイヤのようなものが、いつも人のことばかりというのは、おもしろみに欠ける。だらしない。パッキンが緩い。もっとほかに語ることがあるだろう。あれかし。「そちらを選ばないこと」に対して、風にさからって胸を張るように、堂々としてみてもいい。

人の間に暮らして人のことだけ語るなんて。



朝から晩までメールをしている。その大半が人事の話である。がっくりする夜、たしかにある。しかしそれでも、あらがいたい。世の背景にある法則を見つけたいなどと、哲学者や科学者を気取るつもりもないが、世にあるひとごとならぬ事が人に関するものばかりだなんて、小部屋の中のさらに檻に押し込められた獣のようで、頭をかきむしりたくなるではないか。