エゴブロック

懇親会の会費が年々高くなっている。息子と同じくらいの年の人間にたずねる。いまどき飲み食い放題だと5000円とかになるでしょう。バイト代的に大変じゃないですか? すると彼はこのように答える。いや、べつに、ふつうに3000円とかですよ。マジで? そんな店、いまどきある? 見せてくれたスマホになるほどと頭を垂れる。こういう店を私が探せなくなっているのだな。ファーストオーダーはポテト、からあげ、枝豆のセットです。これを食べきらないと次の料理は出てきません。そこからはアペリティフ4品、メイン8品の中から食べ放題! や、これ、私、および私がいっしょに飯を食うような人間たちにはもう無理だ。ポテトと枝豆でお腹いっぱいになってからあげは食いきれないだろう。大学生向けの店。相場というのはあるのだ。どんなお酒を飲むの。ハイボールとかですかね。一杯目からハイボールってかっこいいね。いや、別に何でも飲むっすよ。ビールは飲まない? ビールは飲むときもありますね。空気を読んで飲みますね。そうかあ。

資産形成の棚が日に日に横にでかくなっていく本屋にがっかりした。あの本屋、最近、品揃えがカネと加齢の方向に寄ってる気がするんだよな。そうすると反論された。そんなことないよ。あの本屋は店員がすごくがんばって小説のおすすめコーナーとか、新聞の書評欄に出てきた本をまとめた棚とか作ってるんだよ。見たことないの? 見たことなかった。もう一度だけ行ってみた。本当だった。カネと加齢の棚のほうにしか目がいっていなかったのは私だった。私の側に原因があった。変わった、変わった、世の中が、ちがう、変わったのは私、いや、両方、ねじれの位置で、遠ざかる方向に、変わった、変わった。

もらった本を捨てる。私向けではなかった。でも、誰かのために書かれた本ではあった。それはもしかすると、著者のためであったかとは思う。私はその、著者のためにだけ書かれた本というのを、このジャンルについては許せなかった。このジャンルにおいては、著者は常に、読者のほうを向いていてほしかった。でも、それはあくまで私の好み、私の目線、私の都合、私の腹のサイズによるものなのかなという気もした。


タクシーの運転手に行く先を告げる。手元のメモを見ながら、◯条◯丁目、と言うと、運転手はわずかに止まってからハンドルをぐるりと回そうとする。方向、こっちであっていたような気がするのだが、と思って、道の真ん中でカチカチ展開のタイミングをはかっている運転手に、あっと気づいて声をかけた。すみません、北です。北◯条◯丁目。すると運転手は鼻先で大きくハフっと息を爆発させながら、「ああ! 北! そうですか! なら曲がらなくていいやね。なに、南かと思ってね。なるほど◯条とだけ言われたからね」と、まだ曲がっていなかった車を大きくうねらせるように立て直してアクセルを踏み込んだ。腹落ちしないものがお互いにある。住所を言うなら北とか南とかを省略するなんてとんでもない、その理屈も感情も完全にわかる。


”この話で主人公が敵視する「局地的な『正しさっぽい空気感』を醸し出して周囲を巻き込みながら無自覚に戦略的にエゴく生きるタイプの人」って、私もわかる! しかも苦手なんですよ”


さっきまで読んでいた書評本の一節が思い出された。今度、高瀬隼子を読んでみよう。きっと、いろいろハマるのではないか。

スタンバドイミー

店内ご利用ですか。はい、スターバックス・ラテ、トール、ホットでください。かしこまりました。マグカップでお出ししてよろしいですか。お願いします。おまたせしました。早いなあ。こちら、トールサイズ・ブリュード・コーヒーになります。ありがとうございます。


なぜだろう。来し方を振り返る。発音がまずかったか。それとも見た目や雰囲気か。私はたしかにラテと言ったと思う。それも正式名称でだ。スタバでラテといえば中心メニューだろう。ジンジャーラテと言ったわけでも新作のスープと言ったわけでもない。なのに本日のコーヒーが出てきた。なんらかの陰謀を感じる。今日、この時間、このタイミングで、あと何杯か、本日精製したコーヒーを、出しきらないと無駄になるとか、そういう話なのではなかろうか? チーンチーン。ピロピロ、ピロピロ。正解のチャイムが鳴り響く。開いたPCの向こうに、少しヒールの高いパンプスが見え隠れして、なにやらスーツケースを少しだけ開けてまた閉めて椅子に座り直す人。私は面をあげず顔を見ないままでいる。なんとなく美女であろうなあという期待が心を沸き立たせる。ハラスメント。市原・ハラスメント。略して、イチハラ。トールサイズのホットコーヒーなど要らなかった。境界面に油分の浮かないきれいなコーヒー、しかし、胃の中には早くも油膜が張っていて、エコーで見れば境界面がスムースにぎらつくだろう。私はラテが飲みたかった。より、細かくいうと、私は牛乳がほしかったのだと思う。ホット・ミルク。研究会の世話人会がはじまるまでの1時間、特に何もやることがなく、細胞診専門医の資格を更新するためのクソみたいな書類でもちまちまいじろうかと、入ったスタバで私はあたたかい牛乳を口にしたかったのだと思う。胃粘膜を白くオーバーレイしてくれるものがほしかった。黒褐色の膜。にこにことマグカップを受け取った私に、店員はダメ押しとばかりに、「今度はこちらのスープもお試しください。はじめて、スープが出たんですよぉ」と言った。ほほえんだ。ポテトのスープだろうか。白い。私はそのスープでもよかった。なぜ、注文する前に、これをおすすめしないのか。もちろん、こちらが注文する前に勝手におすすめをしゃべる店員のほうが、普段は私はきらいだし、おそらく多くの人もきらうから、だからこの店員はきっちりとこの場に最適化されて、注文が終わったあとの客に次の来店をうながすように、新商品の説明をしたのではないかと予想する。チーンチーン。ピロピロ、ピロピロ。ふと顔を上げる。大きく広がった窓の手前に頭髪の少し薄くなった男性が座って、ほとんど動かずにスマホを見ている。セーターが椅子の背もたれの上に少しだぶついていて、彼は今、リラックスできているのだろうなと、私はかなりいい気分になる。「ねえ、それ、どういう意味?」が口癖だった人間の顔がぼんやりと思い出され、脳内で、四半世紀分、歳を取らせる。イチハラ。

アロスタシス

二度寝をしても十分に早い時間に起きて、二度寝する。次に意識のフォーカスが合ったとき、まぶたの向こうに人影を感じて、目を開けるのを少し躊躇するが、タイマーでつけておいた暖房の風が洗濯物を揺らしていただけだった。スマホのメモを見て、食卓においてある手書きのメモを見て、仕事の予定と買い物の予定、Kindleを開けば新刊がダウンロードされるのを待っている。朝飯の支度をしながらテレビを付けると季節外れの豪雪のニュースをやっていて、思わず窓を開ける、たしかに雪は積もっているがそこまで豪雪というほどでもないなと感じる。あの家はどうだろう、あの家はどうだろうかと、いくつかLINEをしてみるけれど、どこもかしこも「別にニュースほどじゃないよ」との返事で、安堵する。ただ、週末の高速道路はやめたほうがいいかもしれないと思った。雪の振りはじめの時期、朝や夕方には残念だが必ず事故が起こる。巻き込まれそうで怖い。事故は毎年繰り返されており、なんとか予防できないものかと思うけれど、事故はひとりの人間によって繰り返されているわけではなく、人類が総出で代わる代わる繰り返しているだけのことで、高速道路から見ればあいかわらず同じような見た目の人間が同じようにスリップしているなあと感じるだろうけれど、私たちはひとりひとり別個の細胞である。「反復性の虫垂炎」とか「繰り返す胆石発作」のことを考える。なぜこの虫垂は何度もいたむのか、とか、どうしてこの胆嚢はしょっちゅう仙痛を起こすのか、なんていうけれど、実際にそれを起こしているのは、毎回同じ要因にみえてもじつは中身が入れ替わっていて、それぞれ違うものによって似たような光景が再現されているに過ぎない―――いやまてよ、虫垂なら同一の糞石が、胆嚢なら同一の胆石が、悪さをしていることもあるわけで、つまりそれは高速道路の側にも事故の理由があると、いや、高速道路は虫垂で言えば虫垂壁、胆嚢で言えば胆嚢壁であろうが、石は道路そのものではなくて、道路を埋め尽くす外来の物、たとえば雪、つまり雪のせいだ――。結論、「雪が積もると危ない」。何も引き出せない無駄な循環思考の跡を、一歩下がってブラウザを薄目で眺めてためいきを着く。

鼻の中の表皮が乾いている。あんなにたくさん洗濯物を干して寝たのに。

出勤の準備を終えて、緑茶を沸かして水筒に入れ、残った茶をマグカップに入れて飲む。昨日はこうして茶を飲みながら、『シルバーマウンテン』の2巻を読んでいたら、あまりにおもしろくて、物語の時間に引き込まれて何時間も過ごしたような気になって、マンガを読む前に飲んだはずの血圧とコレステロールと痔の薬を、マンガを読んだあとにうっかりもう一度飲んでしまい、それでなんとなく一日血圧が低くてかなりしんどかった。コレステロールも減ったろう。なのに痔は別にそこまでよくなっていない。この薬はいったいなんなんだ。何に効いているんだ。何にも効いていないのか。気が利いているわけでもないし、言い聞かせられたわけでもない。ただ、毎日、違う物性を同じとみなして繰り返し摂取し続けることが、昨日と違う素材でできた自分を昨日と同じだと認識する上で必要だというだけの話である。

咀嚼音が強い人間

咀嚼音が強い人間。ぐちゃぐちゃくちゃくちゃ言っている人間。男女を問わない。どことなく、キャラクタとかありように、共通点があるように思う。ぐちゃくちゃタイプをしばらく観察していると、見た目やしゃべりかたや立ち居振る舞いなどは必ずしも一定の傾向を示さないのだけれど、どこか、なにか、雰囲気に共通点があるように感じる。

「自己顕示欲が強い」という感じか。あるいは、「細かいところに気が付かない」という感じか。どちらも微妙にずれている気もする。もう少しきちんと言葉にする。

咀嚼音が強く、ためいきを人に聞かせるタイプの、座席のひじかけに関する占有面積が多い男女。どうも、共通して、自分から発したものはすべて誰かを動かすためのものだ、と考えているように思う。何かを出したからにはそれで何かが動かないと気がすまない、みたいなイメージがある。たとえばそういう人たちは、自分という砲塔から放たれた砲丸が、自分に硝煙をまとわせることにあまり頓着していない。火薬の爆発が砲身の内側を焦がしていることに興味を示していない。自らを省みてキャリブレーションすることをないがしろにしている。自己を調整しようという気持ちがない。座標のゼロポイントを自分の重心と合致させないと認知がうまく進まない。

自分から出る音やにおいや温度に興味を示さない。だから咀嚼音が強い。まあ、なんか、そういうことなのだと思う。

そしてこれはしばしば、さきほどの私のように「自己顕示欲が強いタイプ」と捉えられたりもするのだけれど、じつはちょっとずれているのかもしれない。本当に自己顕示欲の強いタイプというのは、あるべき自己、理想の自己、調整前後の自己をよく認識しているので、むしろキャリブレーションの頻度が高いように思う。鏡をよく見る人間の食事はむしろ静かだ。摂食行動よりも写真撮影に熱心であるような。

すなわち咀嚼音を空間に響かせて平気なタイプというのは「自己の感覚神経から飛び込んでくる他者の刺激が快適であればそれ以外のものはいらないタイプ」であり、「自己を喜ばせるために自己由来の情報を必要としていないタイプ」であるので、自己顕示欲はむしろ低くて他者感受欲だけで満たされているのではないかと思う。するとそういう人間たちは自分である必要がない。アイデンティティの同一性が動機とならない。鏡が要らない。精神が身体に設置している必要がない。AI全盛時代に都合よく暮らしていける。選択圧を乗り越える力がある。未来の人類の可能性を一身に担っている。結論として、人間は滅びるべきではないかと考えている。

ひっかける

出張の際の荷物をスリムアップさせたのは基本的には正解だったのだが、爪切りを持ってこなかったのはよくなかった。メールの返事くらいはできるけれど多少長い文章を書こうと思うと爪がじゃまである。爪というのは段階的に伸びるわけではなくどうやら階段状に伸びていくようで、昨日まではぜんぜん気にならなかった、なんなら今朝の早い時間には問題なかった爪が今はもうキーボードにぶつかって邪魔でしょうがない。そういうままならなさを多少なりとも抱えたまま、未解決の状態で、納得せずに、やっていく、そういうシーンが増えた気がする。ラウンジの近い席にいる中年男性が大きなげっぷをした。何を考えて生きているんだろうとふしぎに思う。どうにかならないものかと真剣に思う。そしてこれは解決しないまま抱えていく話なのだろうなということをしみじみ思う。そういう繰り返しなのだということを身にしみて感じている。

大きな選挙や小さな理事会、中くらいの会議、些末なひざの突き合わせ、軽快なボケの連打のいくつかにツッコミを返すこと、そういうものたちを疾走するように通り過ぎていくが、どうも、たまに、すごく遅いスピードで、車窓から手を振って別れの挨拶をしてもなかなか発射しないJR北海道の遅延した特急のようなイメージで、本来は次々流れ去っていくべきものたちにいつまでもかかずらっている、粘性の高い暮らしになっている。ひとつの出来事に総体として包含されていた、異なる感覚神経を震わせる別個の体験が、ばらばらになって、あるものは忘却され、あるものだけがいつまでも残響のようにがらんどうの体内に反射している、そういうこともある。息子と食べたひつまぶしの味をもう忘れてしまったが満腹感だけを相変わらずひきずっている。二段階くらい安いものにしてもよかったのかもしれない。しかし、これは、そうやって、忘れようとしても思い出せないくらいの衝撃と、覚えようと思っても忘れられないくらいの軽薄さとの間に、息子との時間を封印するための私の生存戦略ではなかったか。


形容詞が多い、と老病理医にしかられたことを今日も思い出す。


レジリエンスという言葉を日本語にせずによく使うのだがどうもそういうものでもないような気がしてきた。必要なことは「さらりと手離れすること、さっと水気が切れること」と、「簡単に手放さないこと、豊かに包みこんで癒着すること」の両方なのかな、ということを近頃よく思う。その人のすべてを持ち去ってはいけないが、その人の一部をどこかに刻み込むということ。


親戚と会った。正確には、親戚と会った、らしい。向こうは声をかけてこなかったのだが後日DMが来た。なんだ、だったら声をかけてくれればよかったのに、と思ったけれどすぐに思い直した。このほうがおそらく、ずっと覚えているだろう。それが生きる秘訣というものだ。それが暮らしのヒントというものだ。手帳を使うのはボールペンの先の粘性が記憶の鈎になるからである。ダジャレを使うのは言葉の中の粘性が関係の鈎になるからである。

弁当もあるが頼んだことがない

本日"the Letter"から配信された燃え殻さんの日記のタイトルが、「イルミネーション、ギラギラ」であった。ZAZEN BOYSの曲に「サンドペーパーざらざら」というのがあり、もう、つまり、それ以来私の脳内ではこの曲が延々と流れている。歳を重ねるにつれ、音楽に対する脳の内腔の粘着性が高くなった。いったんこびりついた曲がそう簡単にはがれてくれないのだ。その日いちにちずっと流れている、などというのは当然の話で、へたをすると1週間、あるいは半年とか1年にわたって、だいたい似たようなタイミングでいつも同じ曲がかかり続けている。北海道のAMラジオ、TBSでもSTVでもいいが、出張先で遠くのラジカセが二十年一日といったかんじで同じ曲の情報番組をずっと鳴らしているのだけれど、そこではあいかわらず氷川きよしだとか天童よしみだとか、松山千春だとかイルカだとかが響き渡っていて、それ、いつまでかけるんだよと思わなくもないのだけれど、なんのことはない、私の頭の中だって年単位、あるいは四半世紀くらいの単位でスパルタローカルズだとかアラニス・モリセットだとかレイチェル・ヤマガタだとかLOSTAGEだとかが流れているのだからいっしょなのだ。わたしたちはみな一緒なのだ。同じ土地に住み違うものを見て、似たようなものを食い同じ空気を吸っているわたしたちはみな一緒なのだ。クマさん、あんたはだめ。帰りなさい。


国内線 チェックインの案内。これをやらないと飛行機に乗れない。これをやっても航空会社の都合で飛行機が飛ばないこともあるのだから、一方的だなあと思う。税金は勝手に引かれるのに保証はこちらから言わないと出ない、みたいな話とあわせて、基本的にわたしたちはこの社会で自助しなければならない、自律しなければならない、みな本質的には自律した神経存在、つまりは自律神経である。自律神経とはすなわち交感神経であっても副交感神経であってもよくて、ただ、根本的に社会の中でちゃんとやれと命じられるときにはわたしたちは交感神経的でなければならない。こすられきった言葉でいうとFight and flight、すなわち、戦うか、飛行機にのるか、である。チェックインの案内。


食堂はA定食とC定食がある。B定食はなぜかない。むかしはあったのだけれどワークフロー上廃止になった、みたいなかんじの謎の展示スペースがある。A定食は9割が鶏肉料理だ。いつも同じかんじで茹でて同じ間隔で切ってあり、違うソースがかかっている、というのを前にもここで書いたと思う。キャベツが添えてある。いっしょだ。ずっといっしょだ。酢豚ならぬ酢鶏が出るのはこういう病院系の食堂ではほんとうによくあることである。たまーに豚が出る。でも小鉢もつくからこれでよいのだ。一方のC定食はめったに頼まなかったが丼物が基本である。本日は担々麺だった。本日の見本の横にふせんが貼ってあって、「いつものよりおいしいです! 追いラー油であったまりましょう」みたいなことが書いてある。職員食堂で、「いつものよりおいしいです」とはなかなか豪儀なことだ。よし、ためしてみよう。しかしこれ、担々つけ麺なんだな。うん、つけ麺いいじゃないか。オーダーすると20秒でどんぶりが出てきた。いくらなんでも早すぎる。そしてつけ麺ではなくふつうの担々麺である。あれっと思ったが、そうか、商品見本のところでこれをやると、麺が伸びちゃうから(毎日日替わりのメニューだから食品サンプルなどは当然ない)、あれはたまたまそうやって麺とスープをわけて見せていただけなのだな。納得はした。しかし腹落ちはしていない。腹落ちはしていないが、カウンターにある「持ち出し禁止」のラー油をドカッと追って、テーブルを探して担々麺をすする。粉っぽい麺だ。いかにもだ。うまい。ふしぎなものだ。粉っぽい麺というのはべつにうまくはないはずだ。しかし、あったかいものをあったかいまま食うというだけで、うまい。ラー油ががんがん来る。ちょっとラー油きかせすぎじゃないのか? あっ、追ったの、おれか。レッド麻辣、ダラダラ。「いつものよりおいしいです!」なるほど、これで、ふーん、いつもはどういう味なんだろう。今度、ふせんのないときに、あらためて担々麺か鶏肉かで迷う日が来る。

20キロずつ

20キロ北上するごとに平均気温が1度くらいずつ下がっている印象がある。いまのはうそだ。でもなんとなくそういう気分である。証明を試みればおそらく反証されるだろう。でも科学じゃないから言ったものがちだ。エイヤッと適当に書いただけ、しかし、案外あってるんじゃねぇかな、と内心にやりとする自分の精神が安定すればそれでいいと思う。20キロ北上するごとに道が1メートルずつ広くなる。20キロ北上するごとに街灯が50センチずつ低くなる。暗くなるというより低くなる。そのぶん狭い範囲だけがスポットライトのように照らされ、視野の上半分に漆黒の闇夜が広がる。20キロ北上するごとに闇の比率が5%ずつ上昇する。そういうのがだんだんわかってきて、そういうのにだんだん適応していく。人間の目というのは明順応とか暗順応と同じくらいのスピードで場に順応し人に順応し、さらにはこれまでと異なる免役組織化学装置由来のプレパラートに順応できる。ただしその順応速度は20キロ北上するごとに5km/hずつ減少していく。徐行運転。


なぜ私のメールにはいまだに近畿日本ツーリストとNintendo Onlineからの広告が欠かさず届くのか。理由ははっきりしている。私がこれらをブロックしていないからである。なぜJTBとかHISではなく近畿日本ツーリストなのかは一切不明。なぜSEGAではなくNintendoなのかは不明だがまあそれはわかる気がする。カービィのエアライダーがやりたくなってきた。47歳がやるゲームとも思えないけれど、20キロ北上するごとに精神年齢が5歳ずつ若くなる場合があるので油断はできない。


20キロ北上するごとに体重が500 gずつ減る。ただしこれがふしぎなことに、20キロ南下しても体重は500 gほど減る。緯度の上下と体重の増減は相関せず、ただ、移動距離に応じて私のエネルギーが消費されて体重がそのぶん律儀に減っていく。500 gはもっぱら大脳新皮質から失われているらしく、移動がおわるとたちまち私は空っぽの頭に夢を詰め込む影山ヒロノブとなっている。


豆知識: ティッシュやトイレットペーパーは安くしすぎないほうがいいが、高すぎてもそれはそれで、肌触りなどが必ずしも一方的によくなるわけではなく、結局もやっとしがちである。


20キロ北上するごとに人の距離が0.5 mmほど縮まると、自分をだましだましやっている。毎日日替わりで違うところが痛むが、逆に言えば、私は毎日日替わりで「治っている」と言ってもいいのだと思う。今日は通称シベリア廊下と言われるところを2往復した。いい運動になる。気温の変化に強くなる。体重の変化に強くなる。

仕事大好き

「スマホでストレスチェックをしなさい」というペラいプリントが流れてきたので、QRコードを読み込んでセルフストレスチェックをしてみた。結果、まあ、なんか、ストレスなさそうな感じだ。

ストレスというものは、自分で認識して把握できた時点で、それはストレスとは微妙に違うなにかに変換されるのではないだろうか。つまり、このストレスチェックをするだけで、私のストレスは何%か減るのではないかと思う。ただ、その、何%か減ったというのが、実臨床的にすごく意味があるかというと、そういうわけでもなくて、このストレスチェックでストレスを減らした分、かわりにべつの名状しがたいストレス(繰り返すがストレスとは本来名状しがたいものではないかと思うので重言である)が発生するように思う。つまりストレスチェックというのは誰にとってよいかというと、おそらく、「こういうセルフストレスチェックでストレスを減らしてほしいナー」ともくろむ雇用側にとってよいのだろうという気がする。誰かにとってよいならそれはよいことである。

毎日ネクタイを締めていることもストレスかもしれないし、バフかもしれない。その両者は分けられるものではない。バフという言葉は昔はなくて、かわりに、ブーストだとかニトロだとか言っていた気がする。高橋名人の冒険島でいうとスケボーだ。スピードは上がるが後戻りができなくなり事故の確率も上がる。おそらくネクタイというのはそういう存在なのではないか。

着々と学会の準備が進んでいく。私に決定権があるわけではない案件が多いので基本的には会議に顔を出しているだけなのだけれど、なんというか、偉い人たちが、事務的なことが得意な人たちと、ああでもないこうでもないとすりあわせをしていく会議に、延々と顔を出していることが近頃はそこまで苦痛ではない。苦痛を自覚していないだけかもしれないが、なんか、こういうのに身を浸すことが職業的には必要なのかなということを、飲み込めるくらいには経験を積んだように思う。好きでやっているというほどでもないけれど、うんざりすることでもないし、わくわくはしないが、しみじみはする。




これはいい、これは好きだ、これはいや、これは嫌いだ、みたいな単純な判断を使う場面が激減している。どうも、いろいろ、単純ではない。からみあっている。両方の神経をちょっとずつ触れている。




単純に好きと言い切れるものが、今、どれくらいあるだろうか。たとえば旅行のことを考える。楽しいばかりではない。うきうきばかりではない。細々と気を揉む。しかし、気を揉むことがいやだというわけでもない。トータルでは好き。しかし、好き一辺倒というわけではない。まぜこぜである。酒・食い物にしたってそう。読書にしてもそう。音楽にしてもそう。

にしては「推し」がブームである。強い「好き」を表示することが流行っている。まあ、うれしそうでなによりなんだけど、推すってほんとうはもうすこし面倒なものなんじゃないのかなという気もちょっとだけしている。

出禁ザビ

偉い先生からチャンジャ(キムチ)が届いて小躍りした。こうやって送っていただけるのは2度目だ。うれしい。しかしお返しを考えなければならない。贈り物に対する返礼というのはむずかしい。先方は60年以上の人生の中で出会ったすてきなものをお送りくださっているわけで、私なんぞはどうがんばってもそれに匹敵するくらいの「吟味」なんてできない。同じクオリティのものをお返しするのは不可能だ。とはいえ、こういうものは、互いの贈り物のレベルを比べ合う必要がなくて、私は私なりに精一杯相手のことを考えて贈るものを選べばいいだけの話だ。そんなことはわかっている。わかった上で、贈り物とは、むずかしい。

脳をねじりあげるようにしてうんうん考えている。悪い時間ではない。困った時間ではある。つらい時間ではない。ハードな時間ではある。

この先生は、物を送る前に必ず事前にご連絡をくださる。こちらの都合を聞き、受け取れる場所と体制を確認し、それから物を送ってくださる。ああ、だからこうして誰にも愛され尊敬する偉大な人間となっているのだなと納得する。私もこうあらなければならない。自分が満足するためではなく、相手のことを思って物を送るならば、事前に連絡なしに一方的に物を送るということにはならない。わきまえなければ、身に染み込ませなければなと思う。

事前に連絡無しに送られてきた献本をマッハ4の拳で粉微塵に破壊して断片を3000度のボイラーで燃焼させて灰を石狩川に流す。





一度目が覚めて、寝直すと、同じ夢の続きに入った。別にそこまで続きが見たい夢でもなかったので、次に目が覚めたときにひどく驚いた。「なぜ今回に限っては同じ夢を見たのか」。なにか法則が、もしくは手順があるのだろうか。途中まで見た夢の続きを見るための、脳にインパクトすべき符牒のようなものがあるのだろうか。さっきからずっとこのことを考えているが一つの可能性に気づいた。

「一度目が覚めた」という部分も一連の夢なのだろう。本当は一度も目覚めていなかったのではなかろうか。

夢の中で私は、寝たまま、「これが夢であると気づくときのシナプスの発火のしかた」を再現した。そして、夢から覚めたらそこまでのエピソードはいったんばっさりと切られるということをあらためて「確認」し、「また眠りに入ると決して同じ夢に戻ることはない」という私の認識を、まさに夢らしく「裏切る」ために、続きのストーリーを映写するという、このすべてがひとつの夢だったのではないか。

そしてここまで書いてふと思った。

わかりやすい大きなストーリーに対して、「しかしここは違う」と、脳の中の常識が身悶えする、あの、脳の中の胃が少し持ち上がるような収まりの悪いかんじ、これ、夢に対してはもちろん、現実に対しても私がいつも身構えているもので、「そうなるな、なるな、なるな……ああ、なった」と、折に触れて私ががっかりしたり冷笑したりする、その繰り返しに私はなんというか、人生を見ているのかなと思った。献本は出禁。しかし私はその「出禁」を発動するときに限って、この世界のありようを納得してしまっているような気がする。

思う思う思う

年を取るといろいろ大変になるんだよ、君もなってみればわかるよ、大学は雑事が多くてしんどいんだよ、君も働いてみればわかるよ、みたいなことを次々と浴びて、まあそうだなと思いつつ、このような体感を周りに吐露するってどれだけ追い込まれてるんだろうなと、先達の辿ってきた道のりを慮ることにする。今日は、そうだ、人を思おう。たしかに年を取るといろいろうまくいかなくなるものだ、目はかすみはじめた、腰も首もしんどい、肛門もままならない、脂には弱くなるし、疲れているのに夜中に目が覚めるし、膀胱のふんばりも効かなくなる、しかし、しかしだ。そのことを下の人間に伝えなければならないほどに追い込まれていたというならば、それはその人がその場所で相当しんどかったというだけの話であって、まあ、なんかかわいそうだなと思う。ふつう、このようなタイプのつらさをいちいち若手に伝えたりはしなくていいと思う。何を考えていたのだろうなと思う。何にそんなにやられていたんだろうなと思う。

情けないやつらだ、な、と思う。

まあ、私も、こうしてブログには書いてしまっているのだから、その情けなさを共有しているわけなのだけれど。おずおずと、しかし思う、思い続ける、俺にああやって偉そうに説教していたやつら、全員、どうかしていたんじゃないかと、思えてしかたがないのだ。



ウェブの研究会のあと、「そのまま残っててくださーい、反省会やりまーす!」と言われ、反省することはあったが反省を共有したくはなかったのでログアウトした。いまごろ困っているだろう。私もまた、下を困らせるおじさんになった。



40分 3700円

50分 4600円

60分 5550円

80分 7400円

この料金は今もこうだろうか。

この問い合わせ先はまだ生きているだろうか。

定宿のデスクにおいてある出張マッサージの料金表。

これを見て、電話をかける人が、今、月に何人くらいいるのだろうなということがとても気になった。

いればいいと思う。

私は頼んだことがない。

出張先でマッサージなど、頼まない。今後もないだろう。

でもきっと、これで癒やされて、明日の活力を得た人もいる。

そういう人たちの生きる宇宙と、私の宇宙とのねじれの関係を思って、少し陶然となる。

マルチバースってこういうことなんだなと思う。


思う、と書いておけばそこそこ許されるという状況がある。心の中は不可侵だと一般に考えられているからだ。思えば思うだけ自由だなんて、非道い話だ。思いとは暴力である。その暴力は誰もが振るうことができ、基本的には誰も傷つかないから余計に汎用されており、だから、私は、思うのもいい加減にしろよと思うことがある。

宇崎粒度

遅くまで勤務するとエラーが出て、「本来の退勤時刻の60分以内に打刻がされていません」と注意が飛んでくる。本来ってなんだ、と思いながら言い訳を登録する。


17:15-18:00 学会活動

18:00-21:30 自己研鑽・勉強会

21:30-22:30 診療


でも本当はもっと細かい。診療しながら合間に学会のことを考えたり、勉強のための論文を読んだり。そこは仕分けしきれるものではない。けれども、そういう事情というか実際の様子なんてものは、どうだっていいのだ。だってこの中から「診療」とされた1時間だけが時間外労働とみなされて、働き方改革の上限と照らし合わせて「あんまり働いたらだめだよ」とお上に怒られる、その、怒られるか怒られないかを決めるために便宜上、仕分けているだけなのだから、現実としっかり照合する必要なんてないのである。適当にやっておけばいい。ただしその適当 adequateというものにも匙加減はある。

てきとう、さじかげん、およそのふんいき。大事なスキルだ。あいまいに耐え、未決着をストレスに感じないこと。ネガティブ・ケイパビリティ。


「エイヤッとまとめといてよ」「そーれで分けといて」。世の中が複雑であるなんてこと、百も承知だ。絡み合っていない人などいない。そのうえで、それでもわたしたちはお互いに、「ここはだいたいざっくり言ってこれくらいの感じでいいよね」と、お互いを雑にラベリングして収納しあう。それがコツだ。それがスキルだ。夏服と冬服の間に秋服があるが、いちいち衣装ケースを別にしたりしないのといっしょ。なんとなく冬ケースの表層1/3あたりに、寒くはなったけどまだ強烈に寒いわけではない日の長袖のシャツを畳んで入れる。それといっしょ。「これは秋にしか着ないものだから」などと、いちいち別のケースを用意するようなスタイリストは芸能人のほうに追いやっておけばいい。「困らなければいいよ、運用に支障がなければいいよ」くらいの気持ち。


こうやって言い訳を積み重ねていくと生活の多くが概算的になり、近似的になり、細部の凹凸が失われて暮らしが平坦になっていく。粒度が下がる。粒の立った新米のようなテクスチャの人生がよければ、仕分けは細かく念入りにやるに限る。17:15:00 - 17:15:35, Xでクソリプに返事する(自己研鑽の時間)。17:15:36-17:15:42, XでネタポストをRPする(自主的に行う研究の時間)。17:15:00-17:55:45(一部重複あり), 学会教育活動に関するWeb会議(社会貢献:大学外からの依頼), その最中に2分40秒, 1分55病, それぞれ電話応対(診療)。そうやって細かく記録したものをAI事務員に提出してなんかうまいことそれっぽくまとめてもらう。AIの描いたイラストのような、性根ががらんどうの魂の抜け殻みたいな私の暮らしが勝手に出力される。ご精勤ですね、いつもおつかれさまです。以上をxlxsデータにまとめて出力することもできますが、やりますか?

輪草子

ピーピーうるさくメールが鳴る。調整案件が多い。ピーピー言っている。こちらもピーチク返すことになる。ピーチクパーチク、という言葉の、「チク」の部分が美しい。耳をきちんと開いて受け取って、あるだけの文字の中からうまく探り当てた音なんだろう。ずばりはまったオノマトペは長く残る。それで思い出したが、飯を食う擬音に、「もっもっ」みたいなのを最近よく見る。あれはどちらかというと、食べている人間の内部反響ならびに骨伝導で聞こえてくる音であり、周囲にはああいう感じでは聞こえないはずだ。つまり食べている人間の主観を共有する目的に沿った擬音であるから、空間に響くような絵文字で描くのは本当はずるいのではないか。描くなら身体の内部に描くべきだ。そんなことが漫画の技術的にできるかどうかはまた別として。


洋風のきゅうすに茶こしのカナアミが入っていたのをとりはずし、百均で買った小さなネットの中にお茶っ葉を入れて、それを直接きゅうすの中に落として、お湯を注いでみると、カナアミでお茶っ葉を受けていたときよりもやや濃くお茶が淹れられるようになった。カフェインもしっかり飛び込んでくるかんじがする。うまくいった。でも、こんなにカフェインはいらないから、今度から番茶を買おう。ほうじ茶の葉っぱを見るのはとても久しぶりだ。40年近く前、実家の食卓には、すおっ、かぽっ、と開き、かぽっ、すおっ、と閉まる、円筒形のお茶っ葉のケースがあった。感触を思い出す。空気の圧がふたの隙間から逃げるのを感じながらふたをぐっと閉める。あのころの私がお茶を入れていたとは思えないが、あのふたの感覚だけをなぜか覚えている。ぴったり閉まるものが好きだったのかもしれない。あるいは、母か祖母かが、それを開いたり閉じたりするのを見ながら、彼女らの体内に響く振動や音響を絵文字のように見てとって、自分の中にもひびかせていたのかもしれない。


文字として目にすることで自分の中にひびく他人事というのがある。それは鍵盤を垂直に叩くと音が出るとか、プロトンのスピンが白黒画像になるといった、雑に言うところの変換を経た入力であり、変換の過程で次元が圧縮されたり誤差がならされたりすることもあるにせよ、ときに、変換しないと見えてこないニュアンス、変換することではじめて聞こえてくるメロディみたいなものを生み出すように思う。「言語化」という言葉がやすく使われるようになり、言葉というものの特殊性にぐいぐい迫っていくでりだ!(※べきだ!みたいな勢いで) のにも少々飽きてきたところだが、この言語化という言語自体が擦れっ枯らしているということをさておけば、言語でないものを言語にして置いておきそれが自分の身体でどうひびくかを探る作業というのは決して悪いものではない。ただ、考えるのは楽しいが、うまくハマることはかなりまれだ。チャクラに気を練るときの擬音とか、何をどうあてはめてもしっくりこない。フオオとかキーンとか。昔のアニメで使用可能だった効果音にひっぱられているだけじゃないのか、と思う。かといってあまりに独創的で自発的なオノマトペを持ってこられてもとまどうばかりだ。『映像研には手を出すな!』の中に出てくる、カップ麺にお湯を注ぐときのオノマトペ「たしお~」、うん、こういうことをやりたかったんだろうな、でもちょっとイキリを感じるな、と思って冷めてしまう。しろきはいがちになりて、わろし。

みみっちいくらいに毎日おなじ

秋じゃけぇのう……などと言いながら秋鮭の切り身ばかり買う日々がヤクザめいている。気温としてはまだ一桁あるのだが気分はだいぶ寒い。昨年の真冬に着ていたマウンテンパーカーのへたり方が気になる。クリーニングに出すとワタが復活するよ、と言われたりもする。この上着にワタは含まれているのだろうか。中にウルトラライトダウンでも仕込んで着ればまだ2シーズンくらいは防寒できそうだからまあまだこれでいい。フードのところがぼろぼろになっていることに目をつぶる。目は耳と違ってまぶたがあるからつぶることができて便利だよね、みたいな話をたまに聞く(耳はつぶることができないのでこういった話を何度でも聞くはめになる)。

キャベツを手でちぎってツナ缶の半分をそこにあけただけの簡単サラダを食べたいのだけれど、底の丸い皿にほどよいのがない。100均で買おうかとも思ったが自宅をひっくり返せばおそらくどこかにはあるだろう。ひとまず、皿を見つけるまでキャベツを買うことを保留する。キャベツを買うと食べたくなるから買わないでおく。食べたくなる気持ちを20%くらいのところで収めておく。買うと一気に80%くらいまで高まってしまうから買わないほうがよい。

おだやかな日々を過ごすために必要なことは、買い物カードを逆位置に表示することで生活というバトルをディフェンシブに安定させることである。新しいものを買えば新しい動きが必要になる。新しいものを買ったことによって自分の心をポジティブな方向に持っていかねばならない、という義務感がある。そういったものから我と我が身をフリーにする。今あるものでやっていく。今あるものを食っていく。飽きることに慣れる。慣性に身を委ねる。

10日後に迫った研究会の病理解説プレゼンをまだ作っていない。そもそも今使っている顕微鏡にカメラがついていないからプレゼンを作れない。私の着任にあわせて注文したはずの顕微鏡は当分届かない。新しいものを買うというのはこういうことだ。「業績の上方修正をペンディングする」みたいなよくわからない中間的な時期を過ごす。新しいものなんて買わないほうがいい場面は山程ある。それはごく個人的な話でとても内向きの話で、だれかとシェアできるたぐいの話ではないのだけれど、たぶん、買うより買わないほうがいいという場面は、その逆よりもたくさんある。



メールを見てふふっと笑って家族にいぶかしがられる。「例のプレゼンを発表してまいりました。ご指導ありがとうございました。ご列席の◯◯先生から、『前に見せてもらった君たちのこのデータのせいで、ぜんぜん他の研究に集中できないんだよ』と言われました」。楽しそうだなーと感じる。新しいデータには「ゆるがす力」がある。新たなものが従来のものと矛盾したとき、それをまっすぐに取り入れるか、まっすぐに無視するか、その二拓でしかないとしたら、それはずいぶんとつまらない話で、臨床も研究もうすっぺらくなるだろう。私達はゆらぐべきだ。角度によってシルエットが変わる幻燈機。語り部ごとにあらすじが変わる民話。狭隘の形状に合わせてぐねる猫。新しいものによって過去の意味が変わり未来の筋道が消える。越し方をおしはかり行く末を振り返る。ワークに新しいものを。ライフに新しくないものを。お金で変えない生活(もの)がある。変えるものはオーバーワークで。

ときどき考えときどき損在

落ち着いてきた。いや、まだ、ぜんぜんなのだけれど、落ち着いてきたとは思う。

昨日は昆布に漬け込んだとされるサバをまるごと一尾焼いて食った。皮の側に切れ目をいれるのを忘れて、また内部が水気多めになるかと思ったけれど、そうでもなかった。脂の乗ったうまいサバだった。しかし脂が多いものを食うと翌日には若干大腸がけいれんするような感じがある。先日、東京からゲストを迎えて、北の地でもかなり有名な店に教授の金で連れて行って(※私は一切支払っていない)、相当うまい肉を食ったが、脂がきつくて翌日なかなか激しい腸管攣縮痛に苦しんだ。今やそういう存在なのである。損な在りかた、すなわち損在。

それでも落ち着いてきた。かつて毎朝、ポットに緑茶を淹れて水筒に詰めて出勤していたのだけれど、私が必要なのはタンニンとかカフェインとかカテキンとかではなくて50度くらいの温水なのではないかと思いたち、近頃はただ沸かした湯冷ましを水筒に詰めて出勤している。これでわりとなんとかなってしまう。大事なのは味ではなく温もりのほう。「そういうこと」はいろいろな領域で簡単に言えると思うが、過度な一般化はレビュアーに殴られる。けれども、一例の結果から推測できる大げさな物語、その試行と墜落の先に科学が待っている。「りんごが木から落ちたって、それ、あくまであの木の乾燥ですよね」とニュートンがXで叩かれていたらどうなっただろう。いろいろいやになって世界を拒絶するニュートン。万有斥力。

落ち着きながらもうわついている。座ってはいる、しかし、腸が肺をドンツク押し上げてくる感覚があって呼吸が浅くなる。これまで、似たような症状を報告した同輩たちはみな休職した。なるほどこれが選択圧かと肌身に感じ取っている。ただしこれは圧は圧でも浸透圧だ。なにかが吸い出されている、もしくは、なにかが吸い込まれている。どちらの濃度が高いかはまだよくわからない。わからないが濃度勾配が生じて浸透膜の部分に肌のつっぱりのようなテンションがかかっている。血圧とコレステロールの薬を忘れずに飲む。


ChatGPTを毎日訓練してよい文献を出してくるように教育しているのだが、あまりうまくいかない。さらに、うまくいったとしても、プロンプト程度でできることならば私がやらなくてもよいのでどんどん研修医や専攻医に投げていく、そして、「私でなければできない仕事」だなあと思ったら私はChatGPTと組んで身を乗り出す、そして、20分くらいで「なんだここまで指定すればあとは学生でもできるではないか」となって、また投げ出す。あまりうまくいかない。AIの研究がいやになったのも思い返せばこういうところだった。「なんだこんなもの、全国有数の頭脳を持った若者が学生時代に本気で打ち込んで身につけたエンジニアリングの技術さえあれば、病理医じゃなくても作れてしまうではないか」という実感が胃袋にどんと入り込んで、私はAI病理研究にかんするやる気をなくした。

では聞くが、病理医でなければできない仕事とはなんだ? 人間でなければできない仕事とはなんだ? 誰でもできるがとりあえず私がここにいるから私がやろう、みたいな仕事を、ちまちまとこなしていくべきであろう。目の前で人が倒れていたら駆け寄って声をかけて人を集めてBLSをググる。道端で人が困っていたら怖がらないように少し角度を変えて斜め横くらいから近寄って声をかけて道案内をググる。それは病理医でなくてもできる仕事、そして、人間でなくてもできる仕事、でも、そこに私がたまたまいたから、GoogleやAIを呼び起こすための詠唱の呪文を発するための口もしくは指としての、私の損在価値。

所見の定義

顕微鏡で細胞を見て、そこにある光景をある程度の「枠」の中に収めていく。このがん細胞が「ひとまず固有筋層のあたりをゴールに設定するぞ」とみずから考えて組織の中にしみこんでいくわけではないのだが、そのありさまを見る病理医のほうは、「固有筋層にたどりついているな」とか「漿膜下層にもがんがあるな」といったように、あたかもがんが「なにがしかの達成」をしたかのような擬人化をしながら、その動態を切り分けて、分類していく。

とても小さい、100マイクロメートルだとか50マイクロメートルだとかいうサイズのリンパ管とか静脈といった構造物の中に、がん細胞が入り込むことがあって、それは例えるならば髪の毛くらい、もしくは縮れた枝毛くらいの細さの構造物なのだけれど、そこにがんが入り込むと
「そこからがんが遠くに転移する」とまことしやかに信じられている。たくさんの症例を調べて統計をとってみると、たしかに、「小さな静脈や毛細血管の中にがん細胞が入り込んでいる場合」のほうが、転移の割合が高いのだ。このような現象は顕微鏡以外ではほとんど観察することができない。どれだけ高性能なCTやMRIでも、ミリ単位ならまだしも数十マイクロメートル単位を直裁的に見て取ることはむずかしい。したがって、この「リスクの高い所見」をとれるのはもっぱら病理医ということになる。

しかし、いかに顕微鏡があるとはいえ、サイズ的にはとても些末な変化である。単純に見逃してしまう可能性も高いので、そこは病理医が個人の責任をもってしっかりと顕微鏡を見る。

さて、いざ、「それっぽい像」が見つかったとして、それが本当に静脈侵襲/リンパ管侵襲なのかについては、相当大きな問題がある。「小さな管の中にがん細胞が入り込んでいる所見」なんて、見ればわかるだろうと思われがちなのだけれど、簡単にいうと、「がん細胞が管の中にずっぽりとはまりこんでいる」ものはよいとして、「がん細胞が管の壁を外からやぶって、中をチラ見している(ように見える)」ものをどう判断するか。先っぽだけ入っている状態と言ってもいい。これは入ったことになるのか。さらには、「管を外から押し付けているだけで、壁は破っていないけれど、けっこうきちんと押しているので、管の壁がそこだけぼこっとへこんでいる」というものをどうするか。

ミクロの世界では、あるものがあるものの「中にある」のか、「となりあって、片方がもう片方を強く押してへこませている」のかの判定もときにむずかしい。

「そんな微妙なかたちのものは、所見としては取らないほうがいい。『疑わしきは取らず』だ。絶対にそうだと言う切れるものだけを報告すべきだ」という考え方がある。とてもよくわかる。しかし今度は、「絶対にそうだと言い切れるものとは、具体的にどういう形か?」という定義がはじまる。

果てしないのである。

そこで、現在、病理医たちはどうしているか。足並みが完全に揃っているわけではないのだけれど、たとえば大腸がんの世界では、研究者が、「病理医ごとに意見がわかれるような顕微鏡所見のとりかた」を「均(なら)す」ためにどうしたらいいのかということを考えた。

一番効果があった手法はこうである。

「みんなが読む本に、静脈侵襲とはこういうものだと、書いておく」

大腸癌取扱い規約第9版(金原出版)の32ページにこのような文言がある。

「注6:腫瘍胞巣周囲に半周以上の弾性板が確認できるものをV(ヤ註:静脈侵襲のこと)、半周以上のD2-40陽性内皮細胞が確認できるものをLy(ヤ註:リンパ管侵襲のこと)とすると脈管侵襲の判定者間の不一致が改善される」

この文章があるだけで、大腸がんの世界における病理医の意見はぐっと揃った。同じ本の中には、写真で、「これがVだ、Lyだ」と説明してあるのだけれど、写真だけではだめで、このように文字にするというか、文章にしておかないと、病理医ごとに判定のばらつきが出てしまうのだという。

逆に言えば、「目で見て考える」という病理診断においては、「定義をきちんと言葉にして、それを参照しながら見て考える」というプロセスを踏むことで、病理医どうしの格差をつぶすことができるということだ。



「診断の定義」はWHO blue bookなどでもばしばし採用されているが、「所見の定義」にまで踏み込んだ報告というのは思いのほか少ない。

おそらく今も全国で、病理医を目指すタマゴたちは、訓練の過程で、「この本に書いてあるpseudo-rosette patternというのは結局どういうことなんだろう?」とか、「macrotrabecular massiveというのはどれくらいマクロでどれくらいマッシブなものを言うんだろう?」みたいに、細胞の見た目を言い表す言葉のファジイさに悩んでいる。遠くに住んでいる、顔も性格もわからない病理医が、文章ひとつを読むだけで「ああ、静脈侵襲とはこうやって定義すればいいのか」とわかって、それを実践の中で運用できたらすばらしいことだ。


そして、定義されたものから順番に、「経験の浅い病理医やAIでも余裕で検出できる所見」となっていく。奥は深いので油断はできないが、しかし、そうやって一つずつ解決していくたびに、もっとむずかしい、もっと込み入った、もっと変な蓋が開くような、顕微鏡所見の解釈がないかどうかと探っていく、それが病理医というものであろう。

きりのない話

前にも川霧のことを書いたが最近はよく霧の中にいる。抽象ではなくて実際に霧なのだ。朝、けっこうな確率で霧となる。電車や高速道路でも霧との遭遇率が高い。気温が規定して大気に許容する水分量と、実際に空気の中にただよっている水分量とが噛み合っていない地域で暮らしているということだ。潤沢、と表現してもいいし、過剰、と表現してもよいし、制限が厳密、と表現してもいいし、ミスマッチ、と表現してもいいだろう。さまざまなものの飽和量の話の隠喩として用い放題だが用いない。別にそこまで横滑りさせなくてもいい。すぐにコネクトするのは現代人のよくない癖だ。もっと各個べつべつでいいのだ。そんなに括弧の中に入れなくていいのだ。

曲学阿世、という言葉もあるが、世を曲げて学に阿るような場合もけっこうあると思う。過度な一般化についての話はこないだも書いた気がするが、近頃の私の興味のわりと正面よりに、少なくともフロントガラス越しに視認できる範囲に、そういった「なんでもかんでもコネクトしてしまう癖」をリスクとして認めている。

たくさんのものごとが、互いにつながらず、人は人、我は我、されど仲良し、的なかんじで、互いのゆらめきを視野にぎりぎり捉えながらも、辺縁視しかせず網膜の真ん中にはとらえようとしない。モナ・リザの口元を見ずに額縁のあたりを見ていると貴婦人が笑っているように思えるときの、あのかんじで、同じ世の中の違う場所にいる物事たちを、注視せずに、しかし肌で感じ続けている。それくらいの距離感というものを、特に誰に教わらずとも、近頃の私達はなんとなく身につけている気がするのに、こと、文字をもちいてコミュニケーションをはかる段になると、とたんにあれこれを結びつけて隠喩だ肝油だ公瑾だとやかましくなる。3次元空間に広がっていて位置情報だけだと相関の有無がわからなくなる現実の世界と違い、冒頭から読み下すことを基本とする1次元的な文字情報では因果の矢印が強調されやすくなるから、みたいな、すごく適当なことをたった今考えたけれど、これに似た話をいつかどこかの偉い人が何倍もむずかしい語彙をもちいて滔々と、それこそ水が流れるような勢いで語っていたのを聞いたことがある。

それではだめな気がする。水は一方向に流すイメージではだめだ、おそらく、溜めるなり、打ち寄せるなり、匙で混ぜるなり、排水溝にウズをつくるなりしなければだめなのだ。沈み込み、浮かび上がり、覆い隠し、いつのまにか引く、水とはつまり海とか、それこそ霧のようでなければつまらない。はじまりはあるがそれが真のはじまりかはわからない。区切りはあっても終わりはない。なくなったと思えても相転移しただけ。無から産まれることはなく、しかし、降って湧くことはある。霜として着氷することもあっていい。足を滑らせないように。コートはときおり、クリーニングに出すように。

辟易一閃

だれかと一緒にテーブルやらホワイトボードやらAmazon印の段ボールやらを、せーので一緒に運んだり、手分けしてそれぞれ運んだりするような暮らしが続いており、片棒をかつぐというか、四隅を持ち上げるというか、ひとりで何かをやりきらない時間がとても多くて、ああ私は今、社会人なんだなあと、いい年をして納得する。自分の体と自分の手足で完結するようなタスクの少ないこと、少ないこと、これを、「歯車」と表現した呪言の根強さにおどろいてしまう。いやそこまでがっかりと軋むたぐいのことでもなく、実際には私たちは、ケーブルとかコードの先に浮かんでいる電球じゃなくて、溶媒のなかにふわふわ溶け込んで濃度勾配をつくりながら拡散していくホルモンみたいな存在なんじゃないかというだけのことである。

しかしまあそういう話ばかりしている気がする。あちこち違う人に手を貸しながらやりくりしていくとき、おそらく、前の人たちには語った前提を、あらためて次の人たちにもまたしゃべる、みたいなことが発生するので、私は少しずつ、同じことばかりしゃべるようになっている。

いつも違う相手と、毎日同じ話をする、みたいなことになるわけである。


抄録の査読をしたり論文の査読をしたりしながら、自分の発表の準備をしたりあらたな研究を立ち上げる準備をしたり。新しいことをはじめるにあたっては、1つ、2つくらいに絞っておいたほうがいいのではないかと思うが、こちらの都合により、15個くらいの新しいことをいっぺんにはじめている。真鱈をキノコといっしょにクッキングシートを使って焼く、みたいなことも、この秋にはじめて取り組んでいる。なにもいまやらなくてもよいことなのだが。SNS医療のカタチがやさしい医療のカタチと改名して横浜市とコラボすることとなった。なにもいまやらなくても……いや、遅いくらいか。

なにもかも、遅いくらいだ。47歳にしてアカデミアに戻ろうとしていることも、魚料理に目覚めていることも、先日とどいたSwitch2も、このブログを、あらゆる仕事が終わった夜中の2時に書いていることも。


先日カンファの最中に意識が飛んでがっくりと首がうしろに傾いたらゴキと音がした。首を左右に動かして鳴らすのはやることがあるが、真うしろに倒れて鳴ったのははじめてだなあと、少し感慨深いものがあった。でもなんとなく、予想ではあるが、この首の動きはおそらく体に相当よくないので、今度からは瞬間的に居眠りする時はなるべく首が横や前に倒れるような姿勢でカンファに臨みたいと思う。心構えが遅い。なにを新入社員のようなことをつらつらと書いているのだ。この記事ができるまでに6時間ほどかかっている。遅い、遅い、あっという間に冬が来て外は真っ白く雪景色で、いつのまにこんなに季節が過ぎ去っているのかとびっくりしたけれど、どうやら私がなににつけても遅いから相対的に世の中がすばやく過ぎ去っていっているのかもしれない。気づくのも遅い。

点群解析

上下左右前後から壁が迫ってくるものすごい圧迫感の夢から目覚めて最初に思ったのは「壁同士の接触をどう解消していたのか」という物理的な疑問だった。キュービックな部屋そのものが内部に向かって均一に縮小していたということだろうか。そんな構造が自然界にあり得るか。私がブラックホールでも無い限りそういう物理現象は起こらないのではないかと思う。

こんな夢を見たのもひとえに昨晩3次元病理学の話をさんざんしたからだ。点群化した3次元形態の解析は病理形態学の行く末を変えそうだと感じた。そして、今からその現場で私がなんらかの貢献をするとしたら、それはどのような系であり得るのか、考え、悩み、目を落ち窪ませ、今朝、日の昇る前から、高速道路を私はひたすら移動していた。

ひげの剃り跡を撫でる。

サービスエリアでコーヒーを買った。ポッドキャストが一段落したタイミングでYouTubeに切り替え、「米粒写経の映画談話室」を流しながら車道本線に復帰した。映画談話室では画面に映る情報も捨てがたく(映画のパンフレットの画像など)、ときには居島一平さんが顔芸をしたりするので、本当はじっくり画面を見ながら聞きたいところなのだけれど、今の私は日常的に、仕事以外で15分以上モニタを眺める気持ちの余裕がない。じっくり腰を落ち着けて動画など見ていると、この時間で一通でもメールを返せたではないかと不安のほうが膨らんできてしまう。だからここのところ、動画コンテンツはラジオとして流し聞きできるものしか視聴していないし、そういう意味では高速道路のお供にぴったりだ。助手席の上にスマホを置いてbluetoothで音声をカーステレオから流しながらの運転。ディカプリオの新作映画に対するネットの感想の中に、ディカプリオのことを「イケてるおじいさん」と評している若者がいたという話を聞いて笑ったし、ときのながれだなあとしみじみしたあたりで、ジャンクションが見えてきて、オートクルーズオードをオフにして速度を落とし、ETCレーンに侵入。その刹那、動画の音が一瞬後退して代わりにピコンとアプリのアラートが鳴った。

まだ日も登ったばかりだ。Gmailだろうか、こんな時間に? 胸騒ぎとともに一瞬スマホに目をやって、すぐにまた正面に顔を戻す。網膜の残像を後方視的に解析する。そこには不穏な二文字が浮かび上がった。

欠航

と読めた、ように思った。そんなばかな、ここまでけっこうな距離をドライブしてきてようやくあと少しで空港に着くんだぞ。しかし車はもう速度をあげてしまっている、さすがにスマホを手に取る気がしない。とにかく次のサービスエリアだ、と思うがタイミング悪くなかなかサービスエリアが出てこない。やむなくいったん高速を降りる。そこまでしなくても、と思いつつも、「もし本当に飛行機が欠航だったら、1分でも早くアクセスしないと次の便がそうそうに埋まってしまう」というおそれのほうが強かった。一般道に出る。間が悪くカチカチ停められそうな道ではない。しばらく走ってコンビニ。駐車場にすべりこむ。トラックの運転手がハンドルに足を放り出しているのが見えた。スマホを開く。間違いなく欠航している。ただちに代替便を探る。全便満席だ。ANAもJALも。抜け落ちなく一切のすきまなく満席であった。これはおそらく、早ければ間に合ったというものでもなくて、本日はそもそもタイミング的にそういう日なのだ。私の昨晩からの努力、「翌日の運転に備えて懇親会でもお酒は控えめにする、なるべく早く寝る、朝は4時すぎに起きる」といった一連の準備行動はぐるりとそっくり返って裏になった。脱力して指がしびれた。本日これから訪れるはずだった研究会の幹事役に電話をかける。早朝だがもう今連絡しておかないとどうにもならない。急遽Zoom URLを発行してもらう。最初からオンラインでやればよかったのではないかという話だが、今日は、できれば現地で虫垂と炎症の話を死ぬほど深堀りしたかった。

努力というのは裏切らないが、裏返ることはある。つまり努力とはトポロジカルにはシートなのだ。努力は、基本的には帽子のような形をしていたり、稲穂のような形をしていたり、サンゴ礁のような形をしていたり、とにかくなんらかの意図かと誤認する程度の法則をもって外向性に形成される幾何学的な構造と信じられているのだけれど、実際には、広げていくと一枚の、面積はあるが厚みさまざまのシートに過ぎず、なにかの拍子にぐるんと裏返って少し油気のある、べとついて埃まみれの、人生ゲームの盤面にはめ込む謎の山のようなくびれたドーム状の形に変貌してしまって何にも使えないししまうにも捨てるにもただただ邪魔なだけなのである。

空路や駐車場などの予約解除を粛々すすめる。心は冬のカランのように冷えきって、へたに触ると指先の薄皮を持っていきそうな危険さも醸し出している。だから指は心に近づかず、代わりにスマホを触ってスッスと契約をふりだしに戻す。人生ゲームには「ふりだしに戻る」がないからあれはすごろくではないのだ、と言った人がいた。逆だったか。人生はすごろくと違って「ふりだしに戻る」がないからそのつもりで、だったか。

抜いていた朝飯を買って車内で食いながら自宅に戻る。一日ははじまったばかりで、中年は半ばを過ぎ、研究の入り口にもまだ立っていないのに私はアカデミアの内部にいるふりをしている。裏返せばぽんとはじき出される程度の、人生ゲームの、先端に●のついた棒状の、じつはヒドラであっても全くおかしくない、車に乗せて引き返さずにどんどん進んでいく、あのような形の人としての私の音が響く。

風送ったろか

中島敦の『悟浄出世』を教えてもらい、これまた教えてもらった青空文庫のURLから一挙に読んで、悟浄、つまりはあの西遊記の沙悟浄のことなんだけれども、渠(かれ)が、思索に悩み思索に溺れ、行動せよと言われてそのとおりだと納得するまでの長い長い煩悶、手に取られていく数々の寓話、捨てられていく数々の寓話、閃いたとか悟ったとかいったことはないままに、なんだか行動することなんだろうなと腑に落ちて、でも結局、行動し始めてもあいかわらずブツブツ独言している、そんな悟浄のすがたがとてもアニメ的だなと思った。アニマ的というべきかもしれない。それはプロットがあって絵コンテがあって、演出が入って作画がなされ、撮影があって編集がされて、声が入り、音が入り、その過程のどこかで少しずつタマシイが入っていくのだ、殻だったものに。その殻すらも愛おしく、読者はその殻の状態であるものを愛おしみながら青空文庫のスクロールバーを下がらせていくのだけれど、いつしか、どこかの段階で、明確なきっかけとかチェックポイントのようなものは指摘できないにしても、すっと、描かれている悟浄の殻ではなく自分の思索に、そう、自分の思索のほうに、なにかタマシイのようなものが入っていることにいつの間にか気づき、ああ私も殻なのかと、やまびこのように遅れて響いてくる。タマシイ、たましい、マルチレイヤーの、ポリフォニックな、ヤシマ作戦で撃ち抜かれた後のラミエルの形態の。最大公約数にしてしまうと、いかにもつまらなく、苦笑いをしてしまうタイプの。
 
呪いの話をした。病が、病と、名付けられることによるスティグマの話で、まあそれは振り返ってみればあちこちにあった闇で、とっくに見えてはいたはずだ。しかし私はがんの話を読み、書き、語りを聞いていく過程でいつしか、その呪いを解くといいながらまた別種の、「前の呪いと比べればまだましなほうの、つまりやむを得ないとか言われてしまうタイプの、別の呪い」で上書きしてしまっている医療者の、「罪」に対して無垢だったように思う。無自覚。積極的に「別個の呪いを与える存在」として、なんなら胸を張っている多くの医療従事者たちの、

肩を持っていたように思う。




山内令南『癌だましい』。文春文庫、短編ふたつ、表題作と『癌ふるい』の二作が入っている。ここには医療従事者が、医療が、所詮は人の暮らしというマラソンの、何箇所かに存在する給水所でしかなくて、その水を取るも取らぬも患者の、人間の自由であり尊厳であり、だからそういった患者がどれほどのスピードで、各人のゴールに向かって走っていくのか、そのゴールテープとはなんなのか、走る道すがら、どこでどう力尽きるのかあるいは力尽きないのか、といったものが。

おどろく装置と、おどろく執念で書かれていた。




今回、インタビューをする中で、名付けるということ、事理由(ことわけ)を言分けするということの、功罪についてずっと考え続けている私自身の「こだわり」(呪い? スティグマ?)に、あるいは解呪の目がありうるのかということを、強く考えた。

萩野昇先生はその解呪の話をじつはされていた。あるいはこれからもしかすると、一方向にではないけれども、紆余曲折の過程を通じて語られるのではないかと私は思ったし、そのとき、やまびこが響いていた。

バタイユやヨブ記(※その後、賢治とヴェイユとヨブと判明)を語った吉本隆明の講演集、そのリンクをいずれひらく日がくるとよいなと自分に対して強く思った。それは、なんか、そうすると思う。だってすごく探したくなってしまったから。




萩野先生の配偶者は、私が萩野先生・竹之内の教科書『膠原病のホントのところ』に勝手に寄せた書評を読んで、「これ、ドラちゃん(※萩野先生)のファンじゃん…」と言ったらしい。

そうだが?