そういう異常

学会の年会費を払う。12000円。まあこんなものかなと思う。特にこの学会からは何もよいことはされていないのだけれど、たまに発表することがあって、そのショバ代として上納している。そういう金はたくさん回っている。たいていは、学会の、あまり熱心ではない事務員とか、熱心でやさしい事務員などの時給になって、社会に還元されていく。自分で稼いだ金ではあるが、それも、よく考えると、たくさんの人が整備した環境の中で獲得した給料であることにかわりはなく、自分だけで稼いだ額面なんてきっと給料の3割にも満たないのだ、しかしそのことを私は普段あまり意識せずに暮らしていて、ああ、今月も自分ひとりの力でこんだけ稼いだなあと悦に入ったりしているわけだけれどとんでもないことで、だから、社会から預かった金というのはそこで留めることなくきちんと社会に循環させていかなければ人倫に悖る。先日、すでに紙で買い揃えているマンガをKindleで書い直した。これを「無駄な出費」ととらえるのは簡単だが、「末梢の循環が良好」ととらえるべきである。金銭を送受する毛細血管の抵抗が少なければそれだけ金銭を循環させるポンプにも負担はかかりにくいし金銭から価値を削ぎ落とす腎臓にも金銭から毒を抜き取る肝臓にもよい。学会の年会費は、いま、あわせていくら払っているのだろう、計算すればすぐわかることなのだが、こういうのは計算ばかりしていてもメンタルにとっていいことはあまりない。


スーツを買いたい気もするのだが、親しい人たちからこぞって、「今ので十分だよ、そんな細かいところ誰も見てないよ」と止められる。なるほど一理あるなと思って買うのをやめる。このスーツを買わなかったお金を、ほかにどういう用途に使えるかというと、おそらくそのまま別にスライドできるというわけでもなく、いったん頭の中で固まりかけた5万とか8万とかいう額は、数日くらいかけて風化して、移動中のおにぎり代の400円とか、学会のランチョンをスキップしたときの麻婆豆腐代の1280円とか、ポロポロと表面から剥がれ落ちるようになくなっていって、3か月もすると、高揚感も達成感もなしにいつのまにか手元からなくなっている。そのなくなった場所には次の収入と支出のリストが次々とcsv.ファイルで流れ込んできて、結局私は何を買った気にも何を稼いだ気にもならないまま、本来は得られるはずであった抑揚を失う。この、一連の、「抑揚を失う」ことこそは、買おうと思ったものを買わないことの最大のリスクなのではないかと思う。このような言い方をすると、往々にして人は、抑揚ばかり求めるギャンブル依存的逸脱のことをやたらと心配するけれど、凪いだまま暮らせと命じつつ、人としての凹凸や輪郭を発揮せよと期待する社会の二面性に、あまりまともに取り合ってもいいことはない。私は決して、スリルがほしいわけではない。循環する手稲プールに浮き輪で流されながら景色が変わっていくのを楽しみ日差しをぽかぽかと感じる、ただそのような生き甲斐を、そこそこの節制とエイヤの発散とを織り交ぜながらほどよく生活に組み込んでいきたいと願うこと、それを、他者がとどめることに対して、どこか釈然としないものがある。とはいえ結局スーツは買わないのだ。2台めのNintendo Switch 2を買おうと思ったがそれも止められた。それはなんかまあそうだなと私も納得した。


現在のポジション的に若手のバイト先・収入源のことをわりと毎日考える必要がある。外勤日の上限、外勤先での負担、やりたいこと、やりたくないこと、金額、回数、移動距離、業務とのかねあい、本人の成長のための機会、本人の成長のための投資、そういったものを3か月くらいおきに微調整しながら、かつ、いったん安定した振り分けができてもそこで安心せずに、「年次があがるごとに少しずつ額面も増えるような体制をいつでも見据えておくこと」などを考えて、さまざまな病院・医療機関と交渉をする。たとえばとある研究関連の出張を、私が行くのではなく若手に行ってもらおうと考えるとき、日程の候補の中に定例の外勤が組み込まれていた場合には、「外勤を一日中止して出張に行ってもらう」という選択肢はもってのほかである。それは本人が生涯に得られる収入を少し削るということにほかならないからである。その共同研究によって本人が将来どれだけ恩恵を受けるかなどとは関係なしに、金額という一側面だけで、その日程は候補から外れる。調整者としてそういったことを毎日考えているが、自分の出張に関しては平気で、「この病院にごめんなさいして一日おやすみにして、自腹でこの研究会に行ってこよう」みたいなことをやっている。外勤のバイト代が◯万円もらえなくて、研究会(日帰り)の往復航空券が◯万円かかって、参加費、食費、職場を不在にした分の仕事をあとでやるしわよせ、そういったものを、自分が自分に課す分にはなんのストレスもなく一気にやれてしまう。耳垢がごっそりとれたときのような。摩擦係数を超えたずり応力に伴う微弱な振動が心根を適度にマッサージしているかのような。そんな快感がある。なんらかの逸脱ではあるのだろう。しかし、やめられない。