空のカーリング

浄瑠璃ってすごく水分含有量が多い言葉だ。みたいな一文からブログを書き始めるとき、あとのことは何も思いついていなくて、ただ、そこに一文書き込んでみて、それを眺めて思ったこと、連想したことを、思いついた順番にポコポコ打鍵していくと、いつのまにか文章がすこしずつ伸びていって、最終的には別にそこまでおもしろくはないがおもしろみがないと言えなくもない、くらいの文章の束ができてくる。そうやってブログを書いている日がだいたい2/3くらいある。2月3日ではなく三分の二である。

そうじゃない日のブログは、文字にまだしていない情念みたいなものがゴツンとあって、それを周りから掘っていくために言葉という彫刻刀をふりおろしていく。削るたびに言葉が舞って、それを置いていくと文章が伸びていって、最終的に何か形のあるものが見えてきたかな、くらいのタイミングで手首も肘もすごく痛くなってこれ以上掘れないな、と思ったあたりでブログの記事ができあがる。これが30%くらいある。

あと3.3333...%は!? と、すかさずつっこんでくれる人がどこかにいる。一人は息子だ。もう一人はさむわんへるつの登場人物であるミメイくんである。あとは知らない。見たこともない。




人がコツコツ作ったなにかに対して、あとから「そこが歪んでる」とか「そこの色がへん」だとか、「そこは見たことがあるからつまらない」とか「そもそもこれ要る?」みたいに、つっこむのはすごくラクだ。何かをみると、すぐに脳内に、「もっとこうあるべき」みたいなものが、全体像は決して見えないのだけれど断片的に浮かんできて、その断片と目の前に存在している実物とを見比べて差分をとる。するとなにがしかいいことが言えるようになる。これはほんとうに、一番さもしいことだなと思う。人間の営みの中でもぶっちぎりでさもしいことだなと思う。


こういうことって誰か偉い人は前に言った、とAIに聞いたら、消える気があるど、煮えたぞすちぇ、得す著ペンは植えるが出てきた。どれも前に読んだことがあるようでたぶん私はぜんぜん読んではいないのだ。眼球結膜の表面に流れ続ける涙の膜に文字をサーフィンさせたくらいの記憶しかない。私のまなこは哲学の渚。波打ち際でぱしゃぱしゃやっていても得られるものは紫外線くらいのもので、海の広さにも深さにも到底迫れるものではない。まあ、人間は、陸で生きたほうが。



ぜんぜん話は変わるのだが、先日、「タイトル未定」という札幌のアイドルユニットのメンバーのひとりが、出身地である妹背牛町(もせうし・ちょう、と読む)を訪れる、というTV番組をみた。妹背牛町は札幌から旭川に行く途中にある深川という町のすこし西にあって、難読地名という以外には私も詳しいことはぜんぜん知らなかった。でも、良さそうな施設がいくつかあって、キャンプやグランピングなどにも向いていそうだ。のどかで、清潔だ。いい町なのである。飯もうまそう。ここにはカーリングの施設もあり、大手カーリングチーム・フォルティウスが観光大使をやっていたりもする。本州の人はおそらくびっくりするだろうけれど、北海道の、特に札幌以外の地域ではけっこうカーリングを趣味にしている人が多くいて、釧路や稚内、北見などに住む知人には、社会人サークルに入ってカーリングをやっているという人が思いのほかたくさんいる。


とはいえカーリングは冬季スポーツで、大掛かりなスケートリンク的競技場がないと遊べない。そこで、「ユニカール」という代替スポーツが考案されている。モルック的な動きで遊ぶカーリング、といったらよいか。モルックもカーリングも知らない人にとっては申し訳ないことだが、そうだな、「輪投げ」を、輪ではなく、輪を入れるほうの棒を使ってやる、という感じである。余計わからないかもしれない。


で、そのユニカールがTV番組で紹介されていたのだけれど、「ユニカールとは別名、陸のカーリングとも呼ばれており……」のところでさすがにつっこんでしまった。「別にカーリングも陸だから!」と。しかしそのつっこみは誰にも届くことなくこうしてインターネットの虚空にまぎれて私は消える気があるどに殴られるのである。



妹背牛町: https://moseushi.jp/

究明以下だ

スヌーズ、という言葉からほのかに犬を感じるなあと思っていたがなんのことはない、スヌーズ以外にスヌではじまる言葉をスヌーピーしか知らないからだ。手で書くとマリリン・マンソン的なおもしろみがあるスヌーズ。未知の可能性がある。「マソソソ・マソソソ」と書いてもすぐに理解するオタクたちが、「ヌヌーヌ゛」がスマホの画面に表示されたとして、あっ、スヌーズのことか、とピンとくるかというと、それは微妙だと思う。スヌーズ。よく知られた言葉のわりに誰もその深みを知らない。SNSの有名アカウント(笑)くらいのポジションだと思う。生まれ変わってもスヌーズになりたいとは特に思わない。スヌーズになる、スヌーズである、という表現はおそらく間違っているのだろうが、どこがどう間違っているのかを深堀りしたいとも思わない。言葉の世界ではモブにあたる。


Bing壁紙のチョイスがだんだん雑になってきている。そんなにちらちらたくさんの色を入れられるとデスクトップアイコンが見づらくてしょうがない。AIでそれくらいなんとかできないのか。さんざんAIを振りかざしているくせに肝心なところでAIを使えていない。まるで病理学者のようだ。


虫を殺した。なんの躊躇もなかった。


複数の研究に関わっている。「ご意見番」的なポジションを担当するときと、「小間使い」としての役割を頼まれるときがある。これらはいずれもほぼ同じ意味で、「研究代表者が考えていることを邪魔してはいけない」という共通点がある。遮ってもいけない。異論を唱えるなんてとんでもない。なぜなら研究とは「仮説を証明する」という順番で行われるもので、ご意見番にしろ小間使いにしろ、道化にしろ救世主にしろ、仮説がすでに立ち上がったあとに参画する人間に残された仕事は「証明する」の部分しかないからだ。仮説を見直したほうがよいのでは、というセリフは、理論上は可能なはずなのだが、これが通ることはめったにない)。ドラクエIVで「傭兵」を雇うことができる。金を払って雇うと戦闘のときに自動で戦ってくれる。しばらく働くと戦闘が終わった後にさっといなくなる。冒険の行く先を決めるのはトルネコ(プレイヤーの親指)であってそこに傭兵の意図は一切存在しない。私もああいう感じかなと思う。ただ金は払われないからその意味では傭兵以下だ。「傭兵以下だ」がドラえもんに出てくるある道具と似ているなあと思った。答えは「救命イカダ」。なんでこれ、カタカナなんだっけ、と思って元画像をみるとデザインがイカだ。そうか。これ、ギャグだったんだな。そういうことに気づけるよりも幼いころからドラえもんを読んでいたもんな。


「アイディアだけなら誰でも思いつく」の話をつい先日もここで書いたが、アイディアにも深度や彩度や明度があり、今、世の中で重要なポジションについている人の多くはアイディアの深度に定評がある。超一流の研究者はアイディアの彩度が高い。一方で、たまに明度だけで勝負しているパターンもあって危なっかしいなと思う。

同じ細胞を見ても人によって思いつくアイディアが異なる。一見、似たようなことを考えているなと思ったとしても、そのアイディアの具体性がどれほどか(深度)、ほかの現象と比べたときの線引をどこまでクリアにできるか(彩度)、その考えを世の中に上手に発信できるだけの言葉にできているか(明度)、みたいなところに差がある。基礎研究者も細胞を使って実験をするが、日頃からずっと細胞を見ているとはいっても病理医とは観察の深度にかなりの差があるので、深度勝負であれば細胞生物学の世界に病理医の居場所は確実にある。一方で、実験的手法を用いてある細胞と別の細胞との違いを明確に表現するとき、その手法に明るくない病院勤めの病理医は、思った以上にアイディアの彩度がぼやけていることがある。明度についてはなんというか、カリスマ性みたいなもので、どこで何をしてきたから明度の高いアイディアを持っている、みたいなことは一般には言えないように思う。

色の三要素でいうと色相に触れていないけれど、研究アイディアにおける色相というのは「いくつかちがうジャンルの研究を同時に進めているかどうか」みたいなところに関わる気がする。ひとつの研究を取り上げたときには色相という言葉を私はうまく使えない。


チクワとネギを入れた耐熱容器に水を張り、豆腐といっしょに500Wで3分40秒加熱し、味噌をとくと、チクワの出汁でいいかんじになった。ネギは甘い。豆腐は味が染みていないがまあレンジで作るならこんなものだろう。腹いっぱいになる味噌汁。主食であるはずのサバが付け合わせのサイズだ。キャベツの適当切りにパックのカツブシを載せて上からふりかけをかけた雑サラダを添えて晩飯とした。筋肉がどんどん減っているのがわかる。そのぶん、脳が育っているならばよかったのだが、なかなかそういうわけにもいかず、ただ、中年が小柄化していくだけの一年を過ごしている。

AIにやらせなかった結果

早朝、札幌から旭川に向かう高速道路で、砂川と深川の間あたりに、「蝉の声に満ちた空間」を通過するタイミングがある。なんとも言えない不思議な感覚になる。車での走行中に聞こえてくる音というのは基本的に「通り過ぎる音」だろう。そのとき耳は自動的に「あのへんからだいたい聞こえてくるなあ」という感じで、音の発生源を感じ取り、さらに、その音が移動することで、自分が今どちらの方向に移動しているかも感じ取る。

しかし、蝉の声に満ちた空間ではこの感覚がおかしくなる。高速道路の両脇に広がる森のほぼすべてで蝉が猛烈に鳴いているために、「場を通過する数秒の間、車の周りの全方向から蝉の声が聞こえてきて、そのせいで音が空間を満たしていると感じるし、車がまるで静止したかのように錯覚する」のである。

図解するとこういう感じだ。


セミが1箇所にいる場合


セミが五兆箇所にいる場合


病理解説をしているときもよく思うのだが、この世には、図で解説するとかえってわからなくなるものがある。逆にそこを文章でがんばって説明しようとした『音の聴こえるメカニズム』は名著だと思う(むずかしいけれど)。



なつがれ俺らの猿と

急な仕事でビリヤード。カンカンぶつかって、最終的にポケットに一個も入らない感じである。ずれを直す気もしないので身をまかせるしかなかった。帰宅時間が読めない。明日の出勤時間もわからない。昼からの予定も未定となり、明後日の朝の目覚めも予測がつかない。そこまでじゃないんじゃない、というツッコミが、過去や未来の自分から届く。今の私はそのすべてをベルクソンの円錐で打ち返す。グリップが細くて握りにくいな。先、折れちゃったな。

あと3分で次の仕事。


3時間経って戻ってきた。ブログの編集画面はもはや他人事にしか見えない。急な仕事でビリヤードってなんだよ。思わず読んで10秒ほど無駄にしてしまう。私の書いたものだから、私にはそのたとえがよくわかる、それでもこの違和感なのだから、私ならぬ人が読んだらはたしてどれほどガクンガクンとつんのめるのだろうか。つんのめればいいと思った。みんなつんのめればいいんだ。そのほうが地に足がついているところも見えるし反動で空も仰げる。

オンラインで医長連絡会に出ている。来月の医長連絡会もしくは病院運営委員会で議題を提示しなければいけないかもなと思う。ワークライフバランスを保つための議題。まあなあ、というかんじ。必死で働く人たちには冷たい世の中だ。しかし、必死で働いている人たちは、そのぶん体温が高いので、世の中が冷たいほうが気持ち良い、くらいまである。

ちいかわは見に行っていない。おもしろいんだろうな。そうかな。私はあの、アニメの、時間の使い方、会話の、間の長さが、あまり得意ではないような気もする。先日、ある技師とアニメの話をしていて、その方はワンピースを1000話くらい、一気に何ヶ月かで見てしまうというのでとても驚いた。一日に何話くらい見るとそれが達成できるんだろう。すごいなあ、と相槌を打っていたら、「でも先生はマンガを読むんですよね。マンガでワンピース全巻読むほうが大変じゃないですか?」と言われたのでもっと驚いた。いやいや、マンガのほうがはるかに早く読めるだろう。そうじゃないのか? アニメのほうが早い? 倍速視聴とかを使いこなせばマンガを読むよりも早い、とでも? いやあカルチャーショックだなあ。びっくりした。でもそういうこともあるのかもな、と思った。人それぞれである。ちょっとこれから議題の説明。そのあと発議。


終わって戻ってきた。喉が渇いている。おしっこに行きたい。なんだかままならないバランスだ。人体というのはなかなかむずかしいものだ。偉い人が「夏枯れ」という言葉を出した。「いまのところ夏枯れの兆候はないようです」と言った。そうか。そうか。よかったなあ。夏に枯れている。

シグナル伝達の不備

ハンス・ロスリングが『FACTFULLNESS』のなかで、「世界はどんどんよくなっている」と書いたとき、そうだな、そのとおりだなと私は感じた。科学とか社会政策というものは都度の障壁や失敗を乗り越えてすこしずつアップデートしており、「昔はよかった」は基本的には存在しない、局所的には悪くなっている部分ももちろんあるけれど、全体を見渡せばすこしずつよくなっている。うん、そうだな、と思った。

一方で、ほしいものが転売目的の買い占めによってすぐに手に入らないのがデフォルトになっていたり、スマホで何か記事をみるたびに画面を覆い尽くす広告の×ボタンを探さなければいけなくなっていたり、インフラは常にあたらしい形で汚染されていて、「昔のほうがまだよかった」という気持ちは常にある。

こういう話題にはどうも、「人間は老いるごとにどんどん失っていく」という、主観の担い手である私たちの側の、揺らぎ、崩れ、立ち行かなさがコンバインしているのではないかという気がする。世界がまったく変化しなかったとしても観測するほうの主体は老化する。風景ではなく眼球が変わる。料理ではなく舌が変わる。それはやるせなさとかままならなさとか哀しさをまぶした膜となって世界を覆う。「昔はよかった」というのは、若かったころの自分の体験がよかったという話と入り混じっている(江戸時代のほうがよかった、みたいな話はまた別だが)。それをわかっているからこそ、ハンス・ロスリングの言葉はカウンターとして多くの人に突き刺さったのではないかと思う。「本当は世界はすこしずつ良くなっている、まあ、俯瞰して見たときは」。残念ながら私たちは基本的に鳥ではなく虫として暮らしており、三千世界の食料問題が以前よりも解決しているからといって自分のまわり数メートルに自分より弱い虫がいなければ飢え死にしてしまう。残念ながら私たちは事実という茶葉そのものよりも、事実を煮詰めてフィルターで濾した茶のほうを喫している。



なんか、優れた詩とか、絵画とか、音楽などによって、この気持ちをほぐしたい、と思った。


そのためにはまず、芸術を受け止めて体の中に刺激を取り込むための七回膜貫通型受容体を生成する必要がある。私のDNAのどこかにあるはずの、受容体をコードする塩基配列は、メチル化によって発現を止められているかもしれず、転写後調節によってRNAがぶち壊されているかもしれず、タンパクまではたどり着いているが遊走に失敗して細胞膜にたどり着いていないかもしれず、細胞膜にきちんと存在するのだけれど共受容体が不活化しているかもしれない。チロシンリン酸化のプロセスに不具合があるかもしれず、シグナル伝達経路のどこかに変異が入っているかもしれない。あらゆるカスケードに問題がなかったとしても、芸術というリガンドが私という細胞に辿り着く前になんらかの免疫機構によって攻撃されて貪食されてしまっているかもしれない。世界はすこしずつよくなっているという。でも、私の体験する事象はすこしずつ老いさらばえていく。だったら私は芸術に頼りたい。時も場所も状況も関係なしに私の心を浄化させるなにものかに出会ってみたい。でも、科学的なシーケンスのどこかに不具合が、いや、それはあるいは不具合ではなく「そういう具合」なのかもしれないが、そういったものがあって、芸術はいまのところ、私をよくしてはくれない。

思い出の押し売り

「麦茶の量産体制に入った」というポストもしくはブログへの言及を2、3か月前にはしたと思うのだがじつは今シーズンはじめて麦茶を作ったのは昨日である。パックを買ったきり忘れていた。細長い容器、あれはなんという名前なのだろう、Googleに文章のかたちで聞くと「冷水筒」や「麦茶ポット」、「ピッチャー」と呼ばれます、と返事がくる。どれもしっくりこないが強いて言うならあれば麦茶ポットだ。麦茶以外にあの細長い形態でなにかを保存すると違和感がある。だし汁にしても、スムージーにしても。ともあれ、麦茶ポットをあらためて洗い直す。ところでここにパックを沈めたら取り出すときどうするんだっけ? 菜箸でつまむんだっけ? 大変そうだなあと思っていたが水を入れてパックを落としたら浮くのだ。麦茶パックは浮くのだ。そうか、そうだったか、だから今まで気にしたことがなかったのか、と感動する。念のためさらに検索すると知らんおじさんのはてなブログが出てきて、「麦茶のパックは浮くときもあるし沈むときもある」という回答が得られる。心底どうでもいいがいちおう元のページを見に行く。すると、

「麦茶パックが沈んだとき、箸でつまめるかどうか、みんなもやってみるといい。へえー、そうなるんだ、と思うから」

みたいなことが書いてあってチキショー読まされた、と思った。まあいい。こういう話ばかり書いているのは私もいっしょだ。あるいは私のブログも今後、どこかの誰かのよくわからない質問に答えるためのソースとしてひそかに暗躍することもないとは言えない。

麦茶は薄めに作るのが好きだ。薄めにしておけばパックは沈まない。



気温は高いが湿度がさほどない。部屋の空気を入れ替えようと思って窓を明けたらいわゆる肥の臭いがただよってきて慌てて閉めた。近くに畑があるのか。もしくはダメな犬の飼い主(ダメな、がどちらを修飾するかはTPOによる)が粗相を放置しているのか。この部屋は住んでみるといろいろ不満がある。夜中にラップ音も鳴る、でもそこはまあ慣れた。北海道に住んでいるとラップ音の一部は夜に建物の木材がきしむ音だなとわかる。ただし、伝え聞くところによるとホラーに出てくる洋館に響き渡るラップ音というのはもっと派手で金属的だという。

金属的な音というとかれこれ30年前、北海道大学の一般教養講義の際に教養棟の大講義室にいたら温水を流すパネルヒーティングのパイプがカン! カン! カン! とずっと鳴っていたことを思い出す。あれってなんの音なのかな。前にも検索した記憶があるが覚えていないのでもう一度。



30年前の北大の教養棟、冬の凍えるような大講義室に響くあの「カンカン」「ガンガン」という音ですね。冷え切った教室にようやく暖がやってくる合図のようなあの音の正体は、主に「スチームハンマー(ウォーターハンマー)現象」「金属の熱膨張」という2つの物理現象が合わさったものです。




1. 蒸気と水が激突する「スチームハンマー現象」

最も大きな「カンカン」「ドン」という打撃音の主な原因はこれです。当時の大規模な建物の暖房には、高温の蒸気(スチーム)を配管にめぐらせる方式が多く採用されていました。

  • 冷えた水(ドレン)の滞留: 暖房が止まっている間、配管内に残った蒸気は冷えて水(ドレン)になり、管の底などに溜まっています。

  • 蒸気の突入と衝突: 暖房のスイッチが入り、そこに高圧・高温の蒸気が勢いよく送り込まれると、溜まっていた冷たい水と激しくぶつかり合います。

  • 衝撃波の発生: 蒸気に押された水が壁となって一気に加速し、配管の曲がり角やバルブに勢いよく衝突します。これが、まるでハンマーで金属管を内側から叩いたような鋭い打撃音を生み出します。

2. 急激な温度変化による「金属の熱膨張」

もうひとつの「パチパチ」「カンカン」といった少し高いきしみ音の原因がこちらです。

  • 金属の膨張と摩擦: 冷え切っていたパネルヒーターの金属本体や配管に熱水や蒸気が通ると、金属が急激に温められて熱膨張を起こします。

  • きしみ音: 膨張していく過程で、パネルの接合部や配管を固定している支持金具との間で摩擦が生じることで鳴る音です。全体が温まって金属の温度が安定すると、この音は自然と収まります。

つまり、あの音は「冷え切った配管内で高温の蒸気と冷たい水が格闘している音」であり、同時に「凍えた金属ヒーターが急激に背伸びをして関節を鳴らしている音」だったと言えます。

今となっては少し騒々しくも感じますが、北海道の長く厳しい冬の朝、大講義室がこれから間違いなく暖かくなることを知らせる、なんとも頼もしくノスタルジックな記憶ですね。



てっきり温水もしくはオイルが充填されていて、それがヒーターとの間を循環しているのかと思っていたが、ご家庭の小さな規模のパネルならばともかく、大学などの大規模なパネルに流したオイルをセントラルヒーティングで温めるというのはむりがあるだろう。そうか、スチームだったのか。今更知らないことが出てくる。ちなみに「もうひとつのパチパチ、カンカン」のほうについては記憶にない。そういう音もあったよねと、記憶に介入され、捏造され、ノスタルジックという感想まで与えられている。

私の記憶や体験が、微弱とはいえ収まっているはずの電子モルグは、私以外の言葉で満たされていて、私の言葉をあとから覆い隠し、「普通ならこの時代に生きていた人はだいたいこうだったよね」と、最大公約数の範囲内で在りし日を偲ばれる。




父方の祖母の先祖なので名字は市原ではないのだが、その墓を、父母はきちんと守っている。ただ、奇妙なことに、その墓のとなりの墓もいっしょに軽く掃除したりしている。聞くと、曽祖父の代に、身寄りのない人の墓が隣りにあるということで、墓触れ合うも他生の縁とばかりにまとめて世話をするようになったとのことだ。そんなことがあり得るのだろうかと、今となっては疑問が残る。残るがこの疑問はどれだけ検索しても解決しない。私が伝え聞いている話もどこでどのように刈り込まれたかは判然としない。50年か、80年か、それくらい前に亡くなった知らない人の記憶を、我が家が守れているかといえばそんなこともなく、ただしぶとい残響を消さないようにほそぼそと、つなぐ先もないままにつないでここまで来ている。空き家問題、墓問題、後継というものが成り立たなくなっているこんな時代に何かを託した人の気持ちを思うとむなしくなるが、いや、まあ、そんな気持ちなんて本当はなかったのかもしれない。石狩川に放精して子孫がいずれ自分の生まれた川から旅立ってまた戻ってくるという「認識」を、鮭たちが持つか、いやあ、めったなことでは、持たないんじゃないか、でもそれはすごい、すばらしいことかもしれませんね、SAMURAI。

町が止まったシーンも一度だけ描かれている

WorkFlowyにタスクリストを書き留めている。2か月先の講演プレゼンが完成していない。かつては半年先の講演もだいたい準備するようにしていた。着々と追いつかれている。自分の中での締め切りを緩めようと思ってこうしたのではなく、ここ1年くらいでどんどん進捗が遅くなってこうなっている。亀がアキレスにあっさり追い抜かれる瞬間のことを考える。



  • 2026年10月14日(水)札幌胃と腸をみる会
    • 30分くらいでミニレクチャー
  • 2026年11月7日(土)◯◯大学 ◯◯と◯◯◯研究会
    • 消化管のDR(大腸CT関連)と「虫垂と炎症」にかんする講演
    • 臨床画像と病理診断のつながりを多面的に考える場
    • 消化管(管腔臓器)を主題とする
    • 臨床と病理の接点から見た診断の面白さや難しさ
  • 2026年11月21日(土)◯◯◯◯◯研究会 ◯◯
    • 講演:免疫染色について(Ki-67のみかた、p53のみかたなど)
  • 2026年11月30日(月)アトラス胃癌第3版原稿
    • 第4部-IV 「内視鏡医との連携」 2000字✕6ページ(図版は1点あたり400字)
    • 決まった形式なし 指定小見出しなし
  • 2026年12月5日(土)◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯学術集会 ◯◯◯◯◯◯◯◯◯
    • 「BモードからMVFIまでわかる胆嚢の病理」50分
  • 2026年1月18日~2月19日のどこか ◯◯◯◯◯◯大学
    • 1コマ(45分)、医学部第3学年(121名)
    • 仮タイトル「多面的に疾患を捕える-医学・医療・公衆衛生学等の視点から」
    • 医学界新聞(2026年7号)に対談 どう届ける?いかに選ばれる?with AI医療コミュニケーションの対談記事を拝読し、「がんユニバーシティ まるごと人間しての患者と、医者と、私」の本を知りました。本学は、系統(臓器別)講義のカリキュラムの方向を今後充実させていく方向です。がんに向き合うとはどういうことか。多領域の視点から考えていく・捕えようとする、そのような姿勢は、AI時代の医師に最も求められるものの一つと感じています。当然、公衆衛生学・疫学もそもそもが実学よりで、医者患者関係、疾病登録等様々な領域が含まれています。ご講義頂きたいのは、「ある疾患をもっている人間」「疾患」に、多面的な視野も考慮して向き合うということ、市民向け・医療者むけの情報発信の整備も進められているとありましたので、「簡単に医学情報やとりあえずの回答を患者も医者も得られる時代」において「がん情報」にかかわる医療者が認識しておいた方が良い事など、ご講義いただければと存じます。
  • 2027年3月5日(金)◯◯◯◯◯◯◯◯◯会(18:30-, ◯◯◯◯)
    • 膵臓細胞診の講演(多少アレンジする程度でOK)
  • 2027年3月6日(土)◯◯消化管◯◯◯◯研究会
    • 16:00開場、17:00講演開始
  • 2027年5月28日(金)~30日(日) ◯◯◯◯◯◯◯◯
    • ドプラ検査の超音波診断 歴史が求めるもの、みらいが求めるもの 28日(金)
      • 腫瘍のfeeding artery, drainage veinなどについての基調講演
      • ◯◯◯◯◯◯◯◯対比セッションで畠先生に渡した(けど非表示にした)スライドを使うのがよいかも
    • 胆道セッション 三輪先生 30日(日)にやる
  • 2027年5月29日(土) ◯◯◯◯◯◯◯◯学会
    • 胃底腺型腺癌は腺腫と癌を含んでいるという立場でお話する
  • 2027年6月12日(土) ◯◯ ◯◯◯◯◯カンファレンス
    • 「病理と内視鏡の密な世界観」
  • 2027年6月27日(土) 13:30-17:00 ◯◯◯◯◯◯◯◯◯学会
    • 講演: 除菌後胃癌の病理
    • 症例検討
  • 2027年7月2日(金)、3日(土) ◯◯ ◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯地方会
    • 2日(金)の14:00- X線の症例検討(パワポ作製必要)
    • 3日(土)の14:00-(90分) 肝胆膵の超音波講演
  • 2027年8月7日(土) 第20回◯◯◯◯◯セミナー(◯◯◯◯◯◯◯◯)
    • 2コマ(2時間) 途中休憩あり



伏字にするのはストーカー対策の名残だ。でも本当はもう書いてしまってもいいのだろうと思う。ここ1年くらい、被害に合わなくなった。肌荒れとか痔とか腰痛の話を何度もブログに書き、写真もうつりのおかしなものや銀歯の見えているものを載せてもらい、移動についてもおみやげについても懇親会についても語らないようにして、ところどころ警察にも手伝ってもらって、ようやく今の生活がある。もう今後はさすがにないだろう。



『それでも町は廻っている』というマンガがあり、基本的には日常系のほのぼのとしたテイストなのだけれど、随所に作者が本来持っているミステリやSFへの指向性がうかがえる。主人公の「嵐山歩鳥の根源的な恐怖」について語られる連作(ただし掲載順はばらばら)は圧巻で、それをそのままここに書くのではなくやや込み入った形で書くとすると、自分という薬物の有効性を知るためには対照群をおいた臨床試験が必要で、でも自分が投与されていないほうの世界を覗き見るというのはめちゃくちゃ怖いことだよね、だってそれって、「自分がいなくても町は廻っている」ってことなんだもんね、となる。ちなみにこの恐怖は、おそらく、嵐山歩鳥の先を歩く者である亀井堂静が作中で語る欲望(自分が書いたものを、自分と同じ感覚を持つ他人に読んでもらってその感想を聞きたい)の変奏なのではないかと思える。邪推かもしれないが。さらに言えばその恐怖は、辰野俊子が嵐山歩鳥に告げる、「あなたの大事にしている日常が、私の(ある行動)で壊れるかもしれない」という懸念とも共鳴している。

とにかくすごいマンガだ。私はあしかけ10年以上かけてこのマンガを何度も読み直している。




タスクリストを眺めているときよく思う。この仕事をぜんぶなしにしたところで世界は普通に廻っていくのだよな、ということを。私が途中で病にかかるとか、人外の存在に存在ごと消される、というか最初からいなかったことにされるとか、そういったことの先で、私のする予定だった仕事がなくなったとしてそれで世界のなにかが止まることはない。こういう話を救急の医者などにしたとき、「病理ってそうなんだね。救急だと、あの夜俺があの当直先にいなかったら患者は1名死んだんだろうなとか考えるよ」と言われたことがあるのだが、まあそれに対する反論も山程あるのだけれどそこは世界の受け止め方の違いなのかなという気もした。

嵐山歩鳥の書いた『シャッフル都市』に対する「発想元」を考えるのは楽しい。主人公のモデルが紺双葉であることは想像に固くないが、作品をドライブする思想はシーサイドのばあちゃんの「考えすぎ」の妄想で、そこは作中では直接嵐山歩鳥に語られるシーンがないのだけれど、おそらく私たちが観察できない丸子町のある一日に、嵐山歩鳥はばあちゃんからその話をされたのではないか、あるいは似たようなことを似たような場面で思ったことがあったのではないかと想像させられるのである。

アイディアを出すだけなら

Windowsのエクスプローラーがハングアップしている。ブラウザならまだしも、ふつうのファイルの入ったフォルダが固まるというのはちょっと珍しい。ただまあ今「ふつうのファイル」と書いたけれど、このファイルというのはバーチャルスライド、すなわち普通は顕微鏡で覗くプレパラートをPC上でぐりぐり見てしまえるデジタルファイルだ。対物レンズ20倍で簡易的に取り込んだものとはいえ、ひとつあたり200MBくらいはある。それが1症例につき10とか30とか60といったオーダーで入っている。あんまり普通のファイルではない。だからハングアップしたのかな。だとするとこのPCもそろそろ買い替えないといけないな。

4TBの外付けハードディスクだがもう半分以上埋まっていて、残りは1.5TBくらい。これを落っことしたときに失われる情報量、私の人生をすべて書き込んだ日記よりもたぶん多いだろう。それほど働いたという気はしないんだけどな。どうも、なんだか、どでかい数字の上でころころ笑ったり遊んだりしているだけのような、ハッタリというか、ハリボテというか、そういったものを感じる。

デジタル病理というのはとにかくハードディスクの容量が要る。近々、実験のためにPCを買う予定があるのだけれど、共同研究先に、「強いメモリ、でかい容量、強いI/O、強いGPU、そしてUSB 3.0のポートは必須」みたいなことを言われて笑ってしまった。40~50万くらいのゲーミングPCだったらエントリーモデルにはなりますよ、みたいなことも教えてもらって真顔になった。とあるラボの人は、「ふつうにスパコンを借りますよ、申請して、順番待ちをして」みたいなことも言っている。もう、そういう世界なのだ、病理というのは。誇らしい感じはしない。いじましいというか、さもしいというか、わびしいというか。

エルキュール・ポワロのように「灰色の脳細胞」だけで戦えたらどれだけよかったろうと思う。

アイディアを出すだけなら誰でもできるんだよ、実際に手を動かして、論文にして、たくさんの事務的な手続きを乗り越えて、業績にするまでが大変なんだ。先輩はそう言った。私はいまだに納得できていない部分がある。「診断」を出すだけなら確かに誰でもできる、AIでもできる。でも、診断に結びつけるための「所見」を拾う作業は、ほんとうに誰にでもできることなのだろうか。できるんだろうな。膨大なメモリとキレキレのCPUをぶん回せば、大学院生にもできることなのだろうな。

ぶつぶつつぶやきながら所見を拾って、ちまちまパワポに書いていく。誰にでもできること。誰にでもできること。彫刻刀で版画を掘っていくように。プレパラートの写真を撮ってならべて、画像と比べながら、どの染色を用いてどういう解説をしたら専門家がすぐにわかってくれるかを考える。誰にでもできること。誰にでもできること。もっとこういう検体の採取をしてくれたらいいのになという夢をみる。もっとこうやって画像を撮ってくれたらいいのになという希望を集める。逆に、私はこの病理をしゃべることで臨床医たちに何を尋ねられるだろう。何を求められるだろう。誰にでもできること。誰にでもできること。

いま、毎日ブログを書いていることだけが、あとで、私があのころ病理医であったという証明になる、そんな可能性は十分にある。誰にでもできること。誰にでもできること。


限界

帯広から札幌まで電車に乗っている間ほぼすべて書類をいじっていた。途中トンネルが多いのでしょっちゅうネットにつながらなくなる。が、あまり関係がない。結局のところ自分の頭で考えるしかないのだ。Geminiに聞いても状況は好転しない。

近頃の人間は猛烈ないきおいで進化しているように思う。AIの描いたイラスト全般に対するうっすらとした嫌悪感みたいなものが社会をあっという間に覆っている。ラッセンがうっすら嫌われていたときのものに近い。ゴッホより普通にAIが好き、というネタが人口に膾炙する日が来ればあるいは状況は変わるのかもしれない。

永野がいるのにナガノ名義で創作しようと思ったマンガ家は偉いと思う。


長いメールを書いた。オフラインだからうっかり途中で送信されることもない。病理医とは結局なんなのか、というお題に対して、今の私が思うこと、そして、作中のあの人物ならこう思っているのではないかという私の予測を書いた。読み返してなんだか泣けてきた。私はこういうことを考えていたのか、と思った。挫折、失敗、屈曲、蛇行。ワインドした私のこれまでが詰め込まれたような文面になっていた。心の内腔の鋸歯状の変化は外方に異所性の陰窩の形成を伴った。陰窩のコンパートメンタライゼーションが乱れて、私は不規則に拡張したり変形したり、一部で内反性に陥没したり、表層でふさふさとタフティングしたりした。


そろそろあの原稿が書けそうだなと思った。でも問題は時間がまったくないことだ。休みがない。一息いれるタイミングもない。ずっと緊張している。ゆるむのは腹筋ばかりだ。


毎日は過ぎていく、それはショート動画の倍速再生のように目まぐるしく移り変わっていく、ドーパミンが分泌される間もないほどのスピードで、だとしたら私たちはなんの分泌物も得ないままにこの濁流にもみくちゃになって、それでいったい何を得ているのかと、われにかえって悩めばよいのだがそれすらもしないままにただひたすら流されていく。三軸すべての回転を組み合わせて、宙返りしながら錐揉みするような感じで、上も下もわからなくなって流されていく、直観的に手を伸ばした先に筆の痕がついて何かを描いたような気持ちにさせられる。




ホテルに入る前にセブンイレブンで弁当、それと、「生ジョッキ缶」を2本ほど手に入れた。500 mL。缶ビールにジョッキの快感を求めたいと思ったことがないのでこれまで買ったことがなかった。プルタブを開けると缶の上面が一気に大きく開いて、すこし遅れて猛烈な勢いで泡が盛り上がってきて、私はあわてて泡を吸った。吸っても吸っても泡が盛り上がってきた。疲れ切った夜中にホテルにチェックインして一番おいしいはずの最初のひとくちが泡ばかりになってしまった。なにが生ジョッキ缶だ、二度と買うものかと思った。二種類のルーが入ったカレーを食いながらKindleでウェブ連載がまとめられたマンガをすこし読み、野球の結果だけをチェックしてさっさと飯を食い終えて、二本目の生ジョッキ缶を開けることなく、歯を磨いてそのまま寝てしまった。ホテルでゆっくり過ごすことすらできなくなっている自分に気づいたのは翌朝のことだ。どうもいろいろとよくない感じがする。旅に出たいとも思わない、服を買いたいとも思わない、ただ、息子とがんばれゴエモンでもやったらそれはきっと楽しいだろうなということを、近頃は毎日考えている。

ハウトゥゴー

窓の外から炸裂音が聞こえてくる。花火は火花さえも見えない。祭りだと言っていた。ロビーは浮かれた客でごった返していた。私は音だけを肴に生ジョッキ缶を飲んだ。こんな面倒なビール、二度と飲んでやるものかと思った。

缶ビールよりもジョッキのほうがうまいと言っている人間のことを全く信用しない。

花火が見えないのは、単純にホテルの窓の向きの問題だ。しかし、この地に長年にわたり出張してきた私、このタイミングで花火を見たことは、まだ一度もなく、つまりは窓の向きではなく、私の問題なのかもしれないなと思った。

ほんとうに何もかもすぐに通り過ぎてしまって困る。




基盤Cの申請書。若手病理医が中心となって書いている本の添削。消化器画像診断研究会の病理解説。上海出張。いずれも今年の春には思いもよらなかった仕事。大学での職とは関係なくこれまでのつながりで降って湧いた仕事。だから、大学での職務に抵触するのでなかなか時間内に取りかかれない。休みの日に取り組むしかない。いよいよ疲れてきた。目の周りがまっくろだ。……といったことを書きつけただけの文章にしても、申請書だと細々と直される。そういうことばかりしている。やってられないなと思う。

それでもやるのだ。なぜなら、大学にいるというのは、そういうことだと思うからだ。



心理的安全性の高い職場を維持するために日々尽力。この仕事をしたところで、私の心理は別に安全にはならない。そういう役目なのだろう。めんどくさい。心理的安全性という言葉を便利に使い出した人間たちは、何を見て、何を考えているのか、究極的なところで私はよくわからないし話が合わないと思う。それでも守るのだ。人の世の中で、うっすらとした悪意の前に立ちふさがって、壁を作って、誰かの心を守る。

壁の内側に籠ってみたら、青い光が透見して、自分の手とかまぶたとかを、青く光らせるのだ。ああ、これは、だいぶいいかんじの引きこもりだなと、私は思った。

めしにしましょうを愛す

先方のオファーの遅れを、当方の努力で回収する。あと4日で臨床系の研究会に使う病理のプレゼンを作るというのは大変だ。ほんとうは24日くらいほしかった。実際に作業する時間は2日くらいなのだけれど、その2日のために整える周囲がプラス・マイナス5日くらいずつ必要。2日間集中するためにそこの仕事を周りに吸収させるバッファ、苗の周りに盛った土、アイドルのまわりを取り囲む警備員、みたいなものが要る。しめて5+2+5=12日のセットを、24日くらいの期間を眺めながら「ここだァ!」カシャーンとはめ込む。このようにして仕事をすると、そこそこよい病理のプレゼンができる。だから病理プレゼンの依頼は1か月くらい前にしてほしいのだ。でもいつもそのようになるとは限らない。オファーをするほうも忙しい。

これは「先方がもっとしっかりしていれば当方がこんなにあくせくしなくてよかった」という愚痴である。

このタイプの愚痴は古今東西ばりばりあって、よく聞くし、たまに言う。病理医がブログなどやっていると高確率でそれ系の記事が出てくる。見飽きた。うるっせーなとすら思う。たぶん臨床家はもっとそう思っているだろう。

ところで悪いのはいつも先方(臨床サイド)なのか? 「先方をしっかりさせるのも当方(病理サイド)の役割」という考え方もある。こちらがもっと「しっかりあれば」、むこうももっと「しっかりした」かもしれない。いやいや、そこまで、なんでもかんでも自分の責任にしてたら死ぬよ、というツッコミはある。でもこういうのは持ちつ持たれつ、互いが互いの鑑、という側面もある。今、変換が「他害が他害の鑑」だったのでキーとなった。他害の話でもある。


自分のためにやらなければいけないこと、優先順位、みたいなことを考える。「汚れた」みたいな気持ちになる。


『めしにしましょう』の新刊が4月に出ていた。今日まで気づかず、あわててダウンロードした。新刊情報をKindleのおすすめに頼っているとこうなる。さむわんへるつの4巻、異世界居酒屋のぶの22巻、ウィッチウォッチの27巻、佐橋くんのあやかし日和の3巻を全部ダウンロードしたあとに突然「読み始めたシリーズの続きを読むにはこちら」の欄に現れた。どうして4か月も遅れたのか。ぶつぶつ言いながら読む。おもしろい。待ちに待っていた。にしては遅れたが。『めしにしましょう』の青梅川おめがは、旧シリーズの最後あたりから、足掛け10年くらい、ずっと「料理とはなにか」について悩んでいる。このマンガはふしぎなマンガで、普通であれば編集者がなんらかの形で介入してなんだかんだで薄められてしまうことが多い、「作者の根源的な悩み」がそのままの形で作中の人物の迷いとして表出してくる。それは、編集者が「味」として残しているというより、この独特のマンガ家のやりたいことをあまりコントロールしないほうがいいという信念のもとに、もしくは諦観のもとにそうなってしまっているように見える。あるいは、マンガ界全体をひとつのディナーのコースと考えた場合に、「ほかの料理とのバランスを考えて、この料理については味付けを真ん中にしない」みたいなことをやっているようにも感じられるが、これはぜんぜん見当外れかもしれない。狙ってやっているのではなく、そうなってしまっているのかもしれない。こちらは読む側だ。ほかにも読みたいマンガはたくさんある。『めしにしましょう』というのはあくまで摂取する具材のひとつでしかない。だから「あえて真ん中からずらしたマンガはおもしろい」みたいな、残酷な感想を無責任に述べることができる。しかし、それは描く側の理屈にはならない。普通は。でも青梅川おめがは小林銅蟲の脳でそのまま悩んでいる。じつに不思議なマンガである。おもしろい。早すぎるトレスで描かれた背景は冷凍都市のようなひやりとする触感。主要人物はジェンダー含めてすべて転倒。リスペクトの対象であるゲストの顔は緻密かつ繊細。料理はどれも確実に温もりをもって描かれている。おもしろい。ただの絵のうまさではない。異様な、異常な、独特のうまさ。『めしにしましょう』シリーズはおもしろい。これをおすすめするのに4か月も遅れた先方(Kindle)のことを恨めしく思う。当方(病理サイド)がもっとしっかりしていればよかっただけの話なのだが。

レシピは守るべき

キャベツを2枚切れと書いてある。2枚という数え方なんだなと思う。球のキャベツから葉っぱをひんむくのがあまり上手にできなくて、包丁で葉っぱの生え際のところを切ってそっちからむくといいよと教えられ、そのようにしたらわりとごっそりと葉っぱが手に入った。2枚ではないが私は野菜をたくさん食べたいから倍くらいあってもいいだろう。鍋に水を張り顆粒だしを溶かしてすこし沸かして、キャベツを投入せよと書いてあるが、鍋を出すのが面倒だから百均のどんぶりに軽く水洗いしたキャベツを詰めて水を張って、そこにさらに切ったミニトマトを散らしたあとに、顆粒だしを上からざっとかけてフタをしてレンチンを6分ほど。これで十分できるだろう。あたたまったら味噌を溶いて、和風トマト合わせ味噌汁を作る。トマトからはいい出汁が出るとどこかに書いてあった。まあなんか頭の中では想像がつく。きっとうまくいくだろう。レンチンする前はだいぶキャベツがかさばっているけれど、こういう野菜は加熱しているうちに小さくなるはずだ。

はたしてレンチンが終わってもキャベツはでかいままであった。というかキャベツから水分が出たのだろう、全体のボリュームが減っていない。そうか、そうだな、そうだよな、と思いつつ、はしでキャベツを押し付けてもう一度レンチンする。今日の味噌汁は失敗だったかもな、と懸念を表明する。空間に向けて。でも独り言まではしないほうがいい。この部屋は、壁は分厚いのだが、床と天井が薄い。上の階の住人の、歩く音が本当にうるさく聞こえる。それだけならまだしも、昨日は朝に盛大な屁の音が聞こえた。さすがに嘘だろうと思ったがあれは確かに屁だったと思う。となれば独り言くらい簡単に貫通するだろう。この部屋で流したアラニス・モリセットやレイチェル・ヤマガタやLOSTAGEやZAZEN BOYSの狂った振動は全て上の階にも聞こえていたことだろう。キャベツの失敗は口に出してはいけない。きゅうりを切る。一本まるごと切る。切ったら塩を振って、レンジが空くのを待つ。あらゆる料理をレンジでやっている。

下の名前がレンジという人はけっこうたくさんいると思うのだが、レンジの陰茎はレンチンだなと今思う。

コンロにフライパンをかけてあり、スーパーで買った味付きのトンテキをネギといっしょに加熱している。今日もいつもとほとんど変わらない晩飯だ。ただキャベツの量だけが心配ではある。何度かのレンチンの末にとりあえず椀のへりから飛び出さない程度にはキャベツが縮小し、トマトはだいぶ原型から遠ざかってしまったがまだかろうじて色味は残っている。味噌を少なめに溶いて完成。完成というか、慣性かもなと思う。口には出さない。

なんだかビールが必要かなと思った。ふだん平日には飲んでいないのだけれど今日のこれらの料理はビールの勢いで流し込んでもいいのかなと思った。ビールの勢いを用いながら無限になくならないキャベツをばりばり食い、思った以上にいい感じにエキスの出たトマトベースの味噌汁をすすり、塩ふりきゅうりに塩昆布をまぶしたものを食い、トンテキとネギの炒めたものをかじりながらビールを飲む。すぐに気づく。いそがしい。ビールはなくてもよかったかもしれない。いつもの倍くらい時間をかけて晩飯を食い終えた。結局、咀嚼に忙しくてビールはあまり進まなかった。洗い物を終え、ふきんで水気を取った食器をキッチンの端から並べた後、ややぬるくなったビールの残りを飲むのに何がいいかなと考えて、宇宙兄弟の37巻を読み始めた。あとは昨日の日記に続く。

防衛のコツ

目が覚めてすぐに気づいた。米がない。3合炊いて、丸形の小さいタッパーに小分けに冷凍しておいたストックは昨日の夜に切れた。そこから今朝に向けて米を炊くはずだった。起きてすぐに米をかき混ぜ、朝飯のぶんだけ避けてほかを冷凍すれば、少なめ・6食分の冷凍ライスが手に入る、はずだった。それがぜんぶふっとんだ。朝飯をどうするか。今から炊くか。時間はまあある。しかし、早炊きはいやだなと思った。固くなる。愛のない米だなと感じる。早炊きはいやだ。じっくり給水してから予約で炊くことにした。炊飯器の予約ボタン、いつも1回だけ押して、5時40分に炊きあがるようにしているが、今が5時40分だ。だからもう一度押す。すぐに21:00の表示が出る。前にも、このミスをしたことがあるのだなと思った。そのまま今晩の9時に炊けるようにセット。

昨晩、晩飯のあと、洗って拭いて、キッチンの上に広げて乾かしてあった食器を片付ける。いつもなら、食器は寝る前に片付けており、朝には朝食に使う食器以外はここには出していないはずだ。でも今朝はそれもできていない。本当にいろいろできていないなと思った。

理由は明らかだ。昨晩、ビールを飲みながら、宇宙兄弟をラストまで読んだからだ。その衝撃を受け止めることに体力を使い切り、やるべきことをいろいろ忘れた。でも、むしろちゃんと歯を磨いて寝たことをほめてもいい。「べき」なんて、たまにはすっぽかしてもいいのだ。息子にもそう伝えてきた。ただ、「べき」を失った私は私ではないようにも感じる。

朝飯がない。冷蔵庫の中を覗いていて、気づいた。今日・明日とここで飯を食うと明後日からは出張が連続。するとここにある3つのヨーグルトの期限が一斉に切れる。ならば今、朝飯代わりに、いつもは1つ食っているヨーグルトを2つ食えばよいのではないか。それで朝飯になる。さっそくヨーグルトを2つ出してきて、白桃のほうから食べる。ひとつ食べ終わり、スプーンを洗わずに、もうひとつのヨーグルトのほうにスプーンを入れるとき、とんでもない悪行をしているような気持ちになった。まあいいのだ。悪でよいのだ。さてもうひとつ食べる。ああっ、こちらも白桃だ。白桃かぶりしてしまった。メーカーが違うのだけれど味がいっしょ。いや、食べると微妙に違う、中に入っている具のサイズが違う、けれどもどちらも白桃だ。地球外生命体が私たちの生活をランダムにサンプリングしているとして、今の私の朝食シーンを4秒程度の動画でピックアップすると、「地球の日本の北海道の旭川に住む医師・博士・死体解剖資格保持者・国立大学准教授は日の出の直後に白濁したゲル状の物質を2セット摂取する」という情報が地球外生命体居住惑星外クラウドサーバに保存される。そこから学者はどういう意味を読み取るのだろう。地球外生命体が次の侵略先を私たちの星に定めたとき、先住民族から白桃のヨーグルトを奪うことで戦力を削ぐことができると考えて、明治や北海道乳業や森永やオハヨー乳業を優先的に爆撃する、といったことがおそらく起こる。その奇妙な非効率によって我が星の人びとの行動に余裕が生まれて結果として侵略の危機を脱することができる。It's a piece of cake. ヨーグルトって英語でどう書くんだ?



ローリングブリジストンテイクアノーモス

たくさんの読み物があり、たくさんの切り取りコンテンツがある昨今、誰かにある作品を激推しして、それを首尾よくゲットしてもらうなんてのは、田舎の国道を延々と走っているときにぱっと出てきたドライブインに入って飯を食うのに似ており、「や、いきなり出てこられても、心の準備が」となりがちだ。

誰かに「これおもしろいよ!」と伝えたいと思ってポストをするとき、自分がドライブイン化していると感じる。高速で通り過ぎていかれるばかり。それはそうだろうなと思う。

ただ、中には、新しい店に、一期一会だとばかりにすっと飛び込んでいける人というのもいる。そういう人は楽しそう。そして、限られている。孤独のグルメのファンタジー性。玉袋筋太郎がスナックを渡り歩く番組を持っていて、それが人気だというのも、そういうことを普通の人間はあまりできないからだ。みんながやるから人気なのではない。できる人が少ないから人気なのだと思う。

「いちども入ったことのない店」にひょいっと入れるかどうかは、ATフィールドのサブタイプの違いみたいなものと関係がありそうだ。自他の境界の部分に入力される刺激の総量をどこまでコントロールしているか、そもそもコントローラブルか否か。自分の内側から燃え上がってくる非日常的な快不快の熱に、自分が焼かれることが平気か。それが気持ちいいと思えるか。「新体験」の周りに生じる複数の付随体験を「刈り込む」かどうか。私なんぞは、新しいものは食いたい、でも、そこにいる店主とのやりとりがめんどうだ、常連客にどう見られるかが心配だ、みたいなことを考えてしまう、メインの体験の周りについてくるよしなしごと全部がうっすらストレスになって、新しい体験のドアを開けるのにすこし躊躇する。その点、新しい店にすぐ入る人というのは「料理がうまいならそれでいい!」とばかりに、周辺で起こることをノイズリダクション的に削除してしまえる。自分の見たいものだけを見るというのはリスクマネジメント的にはむしろウィークポイントでもあるし、するかしないかはあくまで差異にすぎず、優劣ではないかもしれないが、とはいえ、うらやましいと感じることは多い。

ところで境界があいまいなら店にも入れるとか、ストレスを減弱させられるなら店にも入れる、とまとめられるほど、簡単な話ではないかもしれない。かくいう私はあまり新しい店に気軽に入るタイプではない一方で、「よくSNSにあんなにもの書けるね」「ああやって不特定多数に見られて気にならないの?」などと、自他の境界がマジョリティと比べておかしいのではないかと、それこそ「発達障害」を語るときの口調で長年さまざまな人から詰められてきた。そこはATフィールドの違いみたいなもんで、どっちがいいとかじゃなく個性なんですよ、みたいにモゴモゴ言い訳をしてきた。そういうの怖くないんだねーと言われて、そうですねーなどと答えてきたけれど、そんな私も新しい店は怖いしめんどうくさい。ほかにもファクターがあるのだろう。



慣性のことを考える。静止摩擦のことを考える。運動会の玉転がしで、静止摩擦から転がり摩擦に移行する瞬間の、掌の奥にぐっとくる圧のことを考える。ものが転がり始める前に押すときの力は、すでに転がっているものを押す力よりも大きい。私はなにかにつけて止まっており、それを動かし始めるときにはけっこうな力が必要となる。いったん動いてしまえばそれを維持すること自体はあまり大変ではない。

戦隊物が爆発ありのバトルシーンを撮影するような巨大なすり鉢状の採掘地で目にする、高さが何メートルもある重ダンプカーの、成人男性の身長の倍くらいあるタイヤ、あれを転がらせようと精一杯、両足を踏ん張って両手で押しても、平地だと動かせる気がしない。押したはずがもののはずみでこちらに転がってきたら下敷きになってトムとジェリーのトムのようにペラペラの紙になってしまう(ジェリーもそうなることはあるのだがなぜかトムで想像してしまう)。押す、押す、ぴくりとも動かない。モーメントをゼロから発生させるために必要な力を、自分がしっかり足に力を入れて踏ん張って押す、だけではなかなか供給できない。なんだこれ、タイヤ、地面に引っ付いてんのか?  と思って覗き込むと、果たしてタイヤの接地面は自重によってわずかにへこんでおり、接地面の両端が変形してタイヤは完全な円筒状ではなくなっていて、ああそうか、私は円筒を押しているわけではなく、へこんだ円筒の「へこみの角」を乗り越えるようなより強い力をかけなければいけないのだなとわかってがっくりする。トムが水風船を下から絞って水を上に偏らせるように自分の筋肉を上半身に集めるところを想像し、あるいは王様ランキングの母親がやるように「パワー」と唱えて精一杯タイヤを押す、すると、まあなんかそこはフィクションなのでバイキルトとかもかかっていて、ようやくタイヤが動き始める、そこでタイヤにはあらたに直進と回転の慣性が加わって、静止摩擦よりも転がり摩擦のほうが小さいことも加味して、ほかにもいろんな物理法則が噛み合って、いったん動き始めたタイヤを押し続けることは比較的容易となる。

で、この、タイヤの例えをするとして、新しいコンテンツを自分が摂取するかどうか、新しい店に自分が飛び込んでいくかどうか、という場面で例えとして挿入するとして、私はどこになぞらえられるかというと、タイヤを押す人間のほうではなくて、「タイヤのほう」である。私は新しいコンテンツに対して自重で変形して動かないでいるタイヤであり、それを押して動かそうとするのがコンテンツであり新しい店なのだ。そこで動かないのが私なのだ。新しいものを次から次へとバクバク摂取していくタイプの人というのは転がり続けるタイヤであり、私もSNSという世界においてはかつて転がるタイヤだったのだ。

映画談話室的な

宙に参るの最新話の最後のコマはタイトル回収だった。大団円まであと1話といったところだろう。長く追いかけてきたがすばらしい話だった。しかし、「最後のコマ」の話をポストすると、最新話だけ見て「なんのこっちゃ? まあわからん」みたいな読み方をする人が出てきそうだ。それはその人にとってもファンにとっても不幸なことだろう、だから、ポストする指が止まった。これは追いかけてきた人のためのものだろう。

食前酒、前菜、スープ、魚料理、肉料理、デザートときて、最後に出されるあの、表面に三日月状にうっすらと繊細な泡が乗ったタイプのコーヒー、取っ手が小さくて人差し指が中に入り切らないので親指と人差し指でドーナツ型の取っ手をがんばって挟み込んでそれを下から中指でぷるぷる支えないと持ち上げられない、薄すぎる縁で唇の両端を鋭利に切りそうになるカップに入ったコーヒーを、そのへんの道に歩いている人に、いきなり勧めて飲んでもらったとして、コース料理の最後に出てくるのとそれは間違いなく同じ味ではあるのだが、同じ感想を持ってもらえるとは全く思えない。一方で、シュークリームとかいちご大福などをぽんと渡して味わってもらえば、特に伝わりが悪いことはなく、いきなりでもわりと良さが伝わるだろう。

コーヒーとシュークリームにはそういう違いがある。エンタメにもたぶんそのへんの差がある。エクレアをぽんと食って腹を満たしたいときは正直ある。でも、いろいろ楽しく飲み食いして最後に飲んだコーヒーに満足する、みたいな楽しみもある。後者を承認欲求のポストひとつで潰すことはしのびない。



数時間・数日どころか数ヶ月、ときには数年をかけて、いちからずっと体験しないと得られないカタルシスというのがマンガやゲームにはある。私は未体験だがアメリカのテレビドラマとかもそうなのかなと思う。逆に、映画のようにたかだか2時間前後でひととおりの体験を終えなければいけないコンテンツというのはじつに難しいだろうなと感じる。映画評論家は、あるひとつの映画を時間制限なしで語れと言われれば映画の本編よりも長い時間をかけてずっとしゃべれる。優れた映画というのは体験を時間的にもレイヤー的にも圧縮する技術を備えていて、受け手はそれを短い時間でまるごと摂取したのちに、見終わって劇場を出てからの帰りの道すがら、晩飯の最中、布団に入ったあと、翌日の通勤中、翌月の仕事中、翌年の旅行中などに何度も何度も思い出して、カタルシスを先に済ませて体験をすこしずつ解凍していく、みたいなことをする。どちらがよいというのではなくどちらもある。

ちなみにここで話題を無理に自分のしごとに引き寄せる必要もないのだが、「細胞を見てそれがどういうものかを語って臨床判断をしてもらう」という病理診断の営為は、マンガとかゲームの手法ではなく映画の手法を参考にするとよいのかなと思っている。セットや小道具を用いて背景をノンバーバルに説明し、照明・カット割りなどによって複数のニュアンス・ロジックを効率的に伝え、映像と音声の相乗効果を利用して意図を強調し、役者の魅力で集客をする。そこまでちゃんとやった病理診断はエンタメであるし教育にもなるし、なにより、短時間でいつまでも残るような情報として相手に手渡すことができる。でも、病理診断を映画的に伝えようとしている人は少ない。どうしてだろう。マンガ風に伝えたがる人はいる。ゲーミフィケーションしたらよいと思っている人もいる。今日はあえて話題にしていないが、小説とか随想の技術で病理診断を扱っている人もいる。私はそこは職種の性質を考えるとややミスマッチなのではないか、と思う。病理医は映画を参考にするとよい。

もしくは写真や絵画でもよい。ただ、写真や絵画というと、あまりに病理診断の「映像的側面」に寄ってしまって、「たとえとしての写真・絵画」という側面があまり伝わらないかなと思う。「映画の手法」のほうが伝わる気がする。いまどき2時間も椅子に座って摂取しなければいけないコンテンツなんて流行らないよ、と言われるとしてもだ。

湧泉

来年の病理・夏の学校の予定などを立てている。科研費の申請書を書いたほうがいい、優先順位というものがある、しかし、まあ、その、私のための優先順位と、大学のための優先順位、社会のための優先順位、世界のための優先順位、これらがみな同じかというと、ま、違うわけである。ここで私が「私・大学・社会・世界」のどれを優先するかによって、優先したジャンルの優先順位が採用されることになるわけで、つまり優先した優先順位によって判断された優先の順番にのっとれば、今は科研費の申請書よりも病理夏の学校のほうを優先すべきなのである。

ずいぶん優先って書いた。こんなに入力したことのない単語だ。毎日めちゃくちゃ概念として利用しているけれど、字にしてみることはあまりなかった。

ところで、「優先」という行動に、優しさはべつに存在しない。優れてもいない。じゃあこの優とはなにか。

優先。優遇。優待。

すぐれているともやさしいとも関係がなく「優」が使われている単語がいくつかある。

「特別扱いする」という意味が「優」にはあるようだ。これに対応する訓読みはない。

漢字が中国にあったときに有していたたくさんの意味のうち、日本人が常用するためにあてた音が必ずしもすべての意味を網羅しなかった、ということなのだろう。


***


イヤホンは有線に限る。充電をしなければいけないものをこれ以上携帯したくないからだ。「〇〇しなければ」が重い。なるべく義務が発生しないように暮らしたい。賞味期限を考えて早く食べ終わらなければいけない、みたいなことを考えなくてもいいように、野菜も肉も冷凍しまくる。似たようなことを一日中やっている。


***


超絶ベテランの病理医から長い質問のメールが来た。この症例は確かに私が経験したものだが、しかし、だいぶ前に外で発表したものだ。それを今頃気にするのか、と思った。彼が気にする内容は根源的だ。この形態学的所見の定義はどうなっているのか。それはどこにどのようなかたちで出現するものなのか。それを見極めることは別のこちらの所見を見極めることとどう違うのか。これらは過去に報告があるのか。ほかに鑑別診断はないのか。急かす感じではなかった。責める感じでもなかった。ただ、質問が淡々と書かれていた。論文を投稿しているわけでもないのに査読のようだなと思った。まず、めんどくさ、と思った。そして同時にありがたい話だと思った。忙しいのでお答えできませんと断ることもできた。でも、このやりとりを続けることで、なにかが見えてくる予感があり、それはすごく魅力的だなと思った。夜通し考えて、朝方にメールをした。それに対する返事はさらに1日くらい経ってから届いた。「しっかり考えてまた返事する」とそこには書かれていた。ほかにやらなければいけないことはいくらでもあった。でも、なにか、私はここから抜け出せないし、抜け出したくないなと感じていた。

時を食えり

妙に値段が高いくせに主菜がはっきりしないビュッフェを出て、テイクアウトコーヒーを飲みながらPCをひらくといくつかメールが届いていて、ひとつは科研費の話、ひとつは病理AI関連共同研究の話で、科研費のほうから返事をする。5分もせずにリアクションが来た。夜討ち朝駆け、土日関係なく働いている人の書類は切れ味が鋭い。問題は共同研究のほうで、こちらはBoxで共有されたファイルをダウンロードしようとするとべらぼうに時間がかかる。トータルの容量が1.1 GB、ソフトバンクやドコモが一時期やいやい喧伝していた5G回線なら2秒もかからずにダウンロードできるはずだったがあの話は結局うそだったのだろうか、まあいい、じりじりと待ってようやくダウンロードが終わるころにはコーヒーを飲み終えている。喉が乾いている。外付けハードディスクを置いてきた出張先のPC、デスクトップにこんなに重いファイルを置くのは、ちょっといやだな、ま、「デスクトップ」なんて例え話でしかなくて、本当はPCのどこにどれだけ重いものがあって、それがPCにどれだけ負担をかけているかなんて私には判断がつかないのだけれど。WSIのビューアは圧縮ファイルだとうまく作動してくれない。しかたなくデスクトップ上に解凍する。さらにまた時間がかかる。

待ってばかりいる。考えることもできない時間を待たされる。SNSをみるくらいしかやることがない。

OpenEvidenceに長めの臨床プロンプトをほうりこんで、回答を待っている間も、だいたいSNSをチラ見している。AIが「考えているかのように」「現在の進捗にみせかけた」短文を、表示しては消し、表示しては消し。

Analyzing query...

嘘ッくさい演技だなと思う。

Searching medical literature...

SNSで昨日みかけた、「長押しタップすると背景にいろいろ浮き出てくる画像」のせいで、タイムラインにはそういう画像ばかりが並ぶようになってしまった。Kindleで買ったマンガがうっすらBLだったせいで、その後KindleのおすすめがBLだらけになって閉口している。来年の病理・夏の学校の宿候補を検索してからずっと、ウェブ広告が楽天トラベルで旭川の宿をしきりに紹介してくる。

ZAZEN BOYSを見たアイナ・ジ・エンドの目が潤んでいたことくらいしか近頃胸がすっとした話がない。腰痛がひどい。ストレッチをする。Analyzing query...の最中にしっかりと十分に時間をかけてストレッチをする。

お坊さんが塀を乗り越えて食べに来るという意味

早朝である。空港にいる。搭乗待ち合いにいる。最前列にいる。目の前に滑走路がみえる。低く立ち込めた灰色である。通路とこちらとを隔てるガラスの壁にたくさん指紋がついている。こういうところを清掃しないのかな? と思う。疑問はすぐに解消する。リュックをばうんばうんと跳ねさせながら走ってきたジャリがガラスに激突せんばかりにへばりついて、しっかりとガラスに手を当てながら飛行機をガン見しはじめる。始発便が飛んでからすでに2時間は経っているから、この2時間で、これだけ汚れたのだろうなということを理解する。次にやってきたエルサっぽいかっこうをした女の子ふたりのうち妹の方は手も顔もべっとりとガラスと癒着している。それよりちょっと大きな姉のほうは親を振り返って急に激しくダンスをはじめる。振り付けに意図や企図がある感じではなくてエモーションを爆発させる、原始の踊り、儀式の一貫、スピリットが周囲に集まってきそうなダンスで私は思わず顔を伏せる。あまり見てはいけないのではないかという畏怖のような心が私を覆う。キン肉マンの35巻でとつぜんディフェンドスーツの中から出てきたマジックスクエアをキン肉マンが軽く折りたたんで投げると、大阪城の天守閣にすえつけられたオープンスタジアム的なリングの直上にマジックスクエアがドーム状に広がって視界を覆い隠していくのだが、ああいう形態をした畏怖が私を覆う。どこから出てきたのか、どう畳んでどう投げるとああいう形態になるのか、一切納得はできないけれどストーリーと勢いで腑に落とさせられる。女児が踊り狂っている。狂女児が踊っている。この二文のどちらがより適切だろうかとしばらく考える。


7月24日はポテトサラダ記念日、というポストがあってたしかにと思う。


書評というか解説のしごと。校正ゲラを1日目に読み、3日ほど考えて考えて移動の最中に書き終えた28字×60行。編集者からは早さをほめられ、中にしのばせたワンフレーズをほめられ、そして、いくつかの表現がわかりづらいと訂正を求められた。ユーチューバーは物を書かないのでは? いい偏見だ、採用しよう、この一文を削除。Xに流れた記事のリンクをたどったらその先が有料で最後まで読めない、というのは本当にあること? 本当だけど、ピンとこないなら採用しよう、この一文を削除。パズーが支度にかかる秒数というのはどういうこと? 四十秒かからないという意味だがわからないならいい、この一文を削除。あとは許してもらえた。タイトルをどうしようかと悩む。編集者にも考えてもらう。なにもかも自分で書いて整える必要はない。素材を提示して、真ん中において、それを違う角度から眺めながら数人であれこれいじれば人前に出せるものになっていく。「かっこかり」を出しておくことが重要だ。それはなるべく早めであるといい。

「願いだと気づく(仮)」

というタイトルを暫定的に付けた。これがどうなるか、数日後にわかる。


腰痛がひどい。太ももの血流が滅んだ。ノートPCを脇に置き、待ち合いの椅子から体を少し前にずらして、片足ずつ前方にほうりなげてストレッチをする。ももうらを伸ばす。「ストレッチってのもまじめにやろうと思うと1時間くらいかかるよね」。たしかにな、と記憶の言葉に相槌を打つ。搭乗まであと20分、となると十分なストレッチの時間はない。この痛みを小倉まで持っていくのか。小倉が怒ったぞ! コクラーッ! 思いついたギャグをSNSに投げる。むなしいなと思う。しかしこうして「かっこかり」をさっさと提示することで動く何かがある。私はずっとそういうやり方をしてきた。それでわりとうまくいくのだということを知っている。ただし、「未完成の状態でいったん提示されてその後人の間で揉まれてそれなりに落ち着いたパッケージ」がなかなか描けない像というのも世の中にはあるように思う。「幾重ものプロセスで発酵し、濃縮され、煮出されて、ようやく提供されたファッチューチョン」だけが持つ正体の掴めない香りのようなものはきっとこの世にはあると思う。