映画談話室的な

宙に参るの最新話の最後のコマはタイトル回収だった。大団円まであと1話といったところだろう。長く追いかけてきたがすばらしい話だった。しかし、「最後のコマ」の話をポストすると、最新話だけ見て「なんのこっちゃ? まあわからん」みたいな読み方をする人が出てきそうだ。それはその人にとってもファンにとっても不幸なことだろう、だから、ポストする指が止まった。これは追いかけてきた人のためのものだろう。

食前酒、前菜、スープ、魚料理、肉料理、デザートときて、最後に出されるあの、表面に三日月状にうっすらと繊細な泡が乗ったタイプのコーヒー、取っ手が小さくて人差し指が中に入り切らないので親指と人差し指でドーナツ型の取っ手をがんばって挟み込んでそれを下から中指でぷるぷる支えないと持ち上げられない、薄すぎる縁で唇の両端を鋭利に切りそうになるカップに入ったコーヒーを、そのへんの道に歩いている人に、いきなり勧めて飲んでもらったとして、コース料理の最後に出てくるのとそれは間違いなく同じ味ではあるのだが、同じ感想を持ってもらえるとは全く思えない。一方で、シュークリームとかいちご大福などをぽんと渡して味わってもらえば、特に伝わりが悪いことはなく、いきなりでもわりと良さが伝わるだろう。

コーヒーとシュークリームにはそういう違いがある。エンタメにもたぶんそのへんの差がある。エクレアをぽんと食って腹を満たしたいときは正直ある。でも、いろいろ楽しく飲み食いして最後に飲んだコーヒーに満足する、みたいな楽しみもある。後者を承認欲求のポストひとつで潰すことはしのびない。



数時間・数日どころか数ヶ月、ときには数年をかけて、いちからずっと体験しないと得られないカタルシスというのがマンガやゲームにはある。私は未体験だがアメリカのテレビドラマとかもそうなのかなと思う。逆に、映画のようにたかだか2時間前後でひととおりの体験を終えなければいけないコンテンツというのはじつに難しいだろうなと感じる。映画評論家は、あるひとつの映画を時間制限なしで語れと言われれば映画の本編よりも長い時間をかけてずっとしゃべれる。優れた映画というのは体験を時間的にもレイヤー的にも圧縮する技術を備えていて、受け手はそれを短い時間でまるごと摂取したのちに、見終わって劇場を出てからの帰りの道すがら、晩飯の最中、布団に入ったあと、翌日の通勤中、翌月の仕事中、翌年の旅行中などに何度も何度も思い出して、カタルシスを先に済ませて体験をすこしずつ解凍していく、みたいなことをする。どちらがよいというのではなくどちらもある。

ちなみにここで話題を無理に自分のしごとに引き寄せる必要もないのだが、「細胞を見てそれがどういうものかを語って臨床判断をしてもらう」という病理診断の営為は、マンガとかゲームの手法ではなく映画の手法を参考にするとよいのかなと思っている。セットや小道具を用いて背景をノンバーバルに説明し、照明・カット割りなどによって複数のニュアンス・ロジックを効率的に伝え、映像と音声の相乗効果を利用して意図を強調し、役者の魅力で集客をする。そこまでちゃんとやった病理診断はエンタメであるし教育にもなるし、なにより、短時間でいつまでも残るような情報として相手に手渡すことができる。でも、病理診断を映画的に伝えようとしている人は少ない。どうしてだろう。マンガ風に伝えたがる人はいる。ゲーミフィケーションしたらよいと思っている人もいる。今日はあえて話題にしていないが、小説とか随想の技術で病理診断を扱っている人もいる。私はそこは職種の性質を考えるとややミスマッチなのではないか、と思う。病理医は映画を参考にするとよい。

もしくは写真や絵画でもよい。ただ、写真や絵画というと、あまりに病理診断の「映像的側面」に寄ってしまって、「たとえとしての写真・絵画」という側面があまり伝わらないかなと思う。「映画の手法」のほうが伝わる気がする。いまどき2時間も椅子に座って摂取しなければいけないコンテンツなんて流行らないよ、と言われるとしてもだ。