頭蓋骨の裏

新しいデータを出していく仕事がやっぱりいちばんかっこいいしやりがいもあるんだよなー! と思いつつ、やってて自動的にアドレナリンが出そうな仕事はやる気のある若手にゆずるほうがいい。今のぼくは、常に響き続けているウッドベース、もしくはあのチリトリみたいなやつで静かに叩き続けるドラムみたいに、ちまちま一定のペースでなにかをこなし続ける立場である。これだと何ホルモンが出るのだろう。セロトニンか。プロラクチンか。ちがうか。

SNSではすぐに飽きるしリセットもしたくなるぼくだけど、仕事においてはルーティンに飽きない。ラッキーだ。まる16年同じように取り組んでいる仕事が複数ありいずれも苦にならない。才能というより相性だ。天職とはステータスバーの高値部分ではかるのではなく、精神のトルクが業務と噛み合っているかどうか、歯車のサイズ感ではかるべきである。

ここはかつて思っていた場所ではなかった。

とはいえかつてどれほど具体的に何かを思っていたかというと、それはきっとぼんやりふわふわの、似顔絵がへたな人の描く似顔絵くらいの解像度であったに違いない。少なくとも10代、20代の自分が思っていた将来像は今とまったく違う。もっといえば30代のそれとも違うし、2年前に思っていたのと今とでもたぶんけっこうずれている。

ところで、なぜか、「書く文章のクセ」は変わっていないように思えて、それがふしぎだ。脳内ほとんど入れ替わってるはずなんだけど、文体だけは保たれている。見返して比べたわけではないのだが、昔のぼくが何かを書くときにずっと感じていた、頭蓋骨のいちぶを指の腹で撫でるような感触、あのもぞもぞとした不快、というか不快ではあるんだけどつい何度も確かめてしまう、鼻毛を抜いたりくちびるのささくれをむしったりするのよりももっとずっともどかしい微弱で小憎たらしい違和感を、今も、今日もずっと発生させている。

ここか? ここがアイデンティティなのか?

いやー違うと思うけど、身体的な快・不快だって年を経るごとに変わっていると思うんだけど、でも、何かを書くときの頭蓋骨の裏をなぞっている心象風景、そのテクスチャのざらつきだけがどうも保存されているように思う。ルーティンワークを「しこしこ」こなすという擬音があるが、ぼくの場合はいつもの仕事を「なでなで」すませる。あるいは「なぜなぜ」でもいい。濁音が入ったほうがより近い。