さようならばだけが人生だ

むかしむかし。あるところで。偉い人に病理診断のコンサルテーションをお願いすることになった。

経緯としてはこうだ。


1.ぼくが参加している「研究会」で、ある施設の臨床医が提示した症例がちょっとめずらしかった

2.めずらしいので「これはなかなかめずらしいですね」と発言した

3.すると「どれくらいめずらしいですか?」と聞かれた(当然である)

4.どれくらい……かあ……うーん個人的には経験ないんだよな。その場は「ぼくは見たことないですね」と答えつつ、後日論文検索してみたのだけれど全然検索にひっかからない

5.ひっかからない=めずらしい、とは限らない。ぼくの観点で見ている人がいないからそもそも報告がないだけで、「現象としてはわりとたまにあるけど誰も気にしていない/論文にするほどではないと思われている」のかもしれない

6.\偉い人に聞こう!/ ワー ワー


というわけで偉い人にプレパラートを送って見てもらうことになった。しかしこの話が持ち上がったのは実を言うと1年くらい前である。今日、ようやくプレパラートを発送する算段がついた。なんだかんだで1年かかってしまった。経緯としてはこうだ。


1.偉い人に聞く(コンサルテーションする)ためには、プレパラートを院外に郵送する必要がある

2.プレパラート持ち出しの手続きをする

3.その施設の病理医にも許可を得る必要がある

4.悠久の時間がながれる

50000.病理医の許可得られる

50001.今後、染色を増やしたり、遺伝子検索をしたりする可能性もふまえる

50002.研究使用のための「倫理委員会」を通す

50003.悠久の時間が流れる

60万0001.倫理委員会の審査通る

60万0002.コンサルテーション先の偉い先生にメールをする

60万0003.ぼくがメールアドレスを書き間違えたせいで、臨床医の書いたメールが不着

60万0004.メール出しなおす

60万0005.悠久の時間が流れる

14億5000万0001.メールの返事がこない

14億5000万0002.ためしに偉い病理医に電話をしてみる

14億5000万0003.普通につながってあっというまにOKが出る(たぶんメール見てなかった)(←ここまで1年)


というわけで今回の教訓ですが、「メールより電話」です。よろしくおねがいします。



あとは……まあ……これから書くことは些末すぎるのであんまり読まなくていい。重箱の隅、というか重箱のフタの隅をこよりでつっつくくらい細かい。だから読み流していいです。今日いちばん言いたいことは、「メールより電話」。よろしくおねがいします。以下は余談。



研究会では、臨床医と病理医が集まって、臨床の画像(内視鏡、CT、MRI、超音波)と病理組織像とを見比べてみんなでいろいろ考える。視座が違うと見え方が違う。言語が違うと言ってもいい。言語どうしを照らし合わせると、翻訳のズレみたいなものがいっぱい出てきてもどかしさを感じる。しかしそれ以上に、いろいろな立場から病変を言葉にしてみることで、「こんなふうに言い表すこともできるのか」「こうやって解釈することも可能なのか」といったふうに、その病変の奥行きが感じられるようになる。学問的な深みだけでなく、日常の診療をちょっと良くするヒントやライフハックみたいなものもポロポロ拾うことができる。たくさんの臨床医たちに画像の読み方を教えてもらうことは楽しい。臨床医たちもぼくら病理医の言葉をふしぎそうに聞き、病理が提示するプレパラートの画像をわくわくとして眺める。感謝をし、感謝をされて、いいことばかりだ。

ただし、たまに、研究会に出ていない病理医が「あまりいい顔をしない」ことがある。そこに注意が必要である。たぶん前述の「悠久の時間」もそういうところに端を発している。


日頃、臨床医は自施設の病理医に検体を見てもらって診療を進める。この関係は、小説やドラマの「バディもの」をイメージしてもいいが、「相棒」とか「シャーロック・ホームズ」くらい力関係に差があるわけではなく、「ふたりはプリキュア」くらい対等である。

しかし、研究会においては、プリキュアの白い方(臨床医)が、ふだん組んでいる黒い方(病理医)を自分の病院に置き去りにしたまま、ほかの病院にいる別のプリキュア(例:はじけるレモンの香り)などとやりとりをすることになる。ここに嫉妬の関係が生まれる。

や、嫉妬というのは雑かもしれない。もうちょっと複雑な感情が沸き起こる。

そもそも臨床医と病理医のバディ関係において、病理医の言葉は「絶対」である。これは「絶対に正しい」という意味ではなくて、病理医の技術は専門性が高すぎて臨床医からすると病理の仕事の真偽を判定しようがないので、病理医の言った言葉は「絶対視」されるという意味だ。よく言えば信頼して任せてしまっている。悪くいうと盲信せざるを得ない。

しかしこの鵜呑みスタイルが、研究会では破綻する。ふだん一緒に働いているプリキュア(例:黒)が言ったことと、研究会にいるほかのプリキュア(例:はじけるレモンの香り)とが言っていることが微妙に違うことはありうる。

診断自体がひっくり返ることはめったにない。しかし、「言葉の深さ」が違うことはある。「がんですか?がんです。」程度のやりとりだったものが、「がんですか?はい、がんです。そしてこれこれこのようながんが、かくかくしかじかの背景に出現しており、その見え方はこうで、感じられ方はこうで……」になったりする。

研究会というのはそういうものだ。日常診療でのルーティン的取り組みを超えて深掘りするからこそ「研究」である。

キュアブラックにとってはいい気はしない。唯一のパートナーだった自分の居場所がおびやかされる。「ぼくの言葉が絶対じゃなくなる」。

そのため、一部のプリキュアは、自分の診断した症例が外部であれこれ問い直される「研究会」というものに警戒感を持っている。自分の目の届かないところで自分の診断をあれこれいじらないでほしい、という正当な防御であるとも言える。

そういう事情をふまえると、前述のケースは少し違った意味合いを帯びる。ある施設の病理医は、自分がかつて診断した症例が、自分のいない場所でいろいろと再検討されることを好まない。研究会でほかのプリキュアからいろいろ新しいことを言われて、「ではさらに別のプリキュア(例:知性の青い泉)にもコンサルトしてみましょう」まで話を進められるとさすがにいらっとする。結果として、プレパラートの貸し出しの手続きをねっとりチェックしたり、倫理申請を複雑にしたり、そもそもこんな症例は珍しくもなんともないのでは(私見)などのチェック機構を増やして、気持ち抵抗する(正面切って反対するところまではいかない)。


ぼくはこういうことをいくつか経験した結果、研究会に対してあらたな思いを抱くようになった。


全国の「ふたりはプリキュア!」に失礼にならないように、心配りが必要だ、ということである。


ぼくが、外からやってくる「はじけるレモン」になっていないかどうか、しっかりと気にするべきである。研究会に参加するタイプの臨床医や病理医はみな、自分の生活をなげうってでも患者や医学に邁進しようとする、ちょっと躁気味でちょっとのめりこむタイプの人間が多い。ぼくもそういうタイプだ。そういうタイプの人がずんずん学問に突進するとき、それを冷ややかに見ている「わりと普通の感性と体温を持った人」をバンパーの下に巻き込んでいたりする。結果、マイルドないやがらせ的抵抗にあってプロジェクト全体の進行が遅くなる。

心配りがいる。何につけてもいえることだ。若いときは「学問の前になにをみみっちいことを言っとるんだ!」とプチおこだったぼくもきちんと年をとった。調整こそが人生だ。これが経緯である。