はーんそういうことね完全に理解した

「みんなタイムラインの流れにあわせてリアクションするばかりだ、自分の中から湧き出たものをアクションする人がいないとSNSはつまんないよ」という話をしたら、「今のその話だって、どうせSNSを見て思いついたことなんでしょ?」と返されてぐうの音も出なかった。まあそうだ。我々の行動の9割9分は応答である。環世界によって能力も欲動も規定される。それでもぼくは、言い訳含みでいいから、「自発」する人の姿を見ていたかった。「本当のところを言うとあれとこれとに思い切り影響を受けていますが、それには目をつぶっていただくとして、ぼくの中で長いことコトコト煮込んだ話を提供しますのでおいしく召し上がってください」というたぐいの話を、毎日飽きるほど読みたかった。人びとの内側から出てくるとびきりのエキスが惜しみなく注がれる極上のスープ的なSNSを、もっと見ていたかった。

そしてそんなものはたぶん、実はこれまでもなかったし、これからもない。昔はよかったとも思わないし今後よくなるとも思わない。掃き溜めに鶴はいないし枯れ木で山は賑わわない。すでに滅びた世界でブーブーぐちを言いながらすったんばったんがんばり続けていく姿でしか世間は構成されず、SNSは昔からずっとそういう場所だったのだと思う。

かつて、「新しいものはきっとどんどん良くなっていくはずだ」という、根拠の薄い興奮、わくわくとする高まり、状態がプラトーに達するまでの不安定さ、舗装されていない坂道を駆け上がっていくときに足裏から感じる振動、けもの道を突き抜けていくときの擦り傷、摩擦熱、倦怠感を両肩にかついだままそれでも心拍が高まっていくようなあの、「浮かされていた」感覚を、たしかにぼくらは味わっていた。目をつぶって楽しそうにジャンプを繰り返していたあのころ、SNSに夢を見ていた。

世の1割くらいの人しか夢は見ていなかったと揶揄ぎみに言われることもある。1割も同じ夢を見ていたのか。そんなことが今後ありえるのだろうか。


どうせ人びとがリアクションしかできないのならば、「いいリアクション」を増やそうぜ、というムーブメントが一時期流行ったことを思い出す。今も流行っている、と見ることもできるが、一時期に比べると少し勢いが落ちてきただろう。何の話かというとこれは「推し」の話である。

推しの活動というのはリアクションだ。二次創作も含めてあくまで「受け止めて、何かを返す」というものである。自発的なアクションとはちょっと違う。でもまあ、推しの話がTLに増えていくことはいいことなんじゃないか、と今のぼくも相変わらず感じる。どうしたってみんなリアクションしかできないというならば、せめて、自分の気持ちが確かにポジティブになったよという証を応答すればよい。そのような考え方が「推し活を推す」という流れに繋がったのだ。

今にして思うと、「TLを推しで満たそう」と叫んでいた人たちもまた、みんなSNSに疲れて泣き始めていた人たちばかりだったのではないか。

「推し活」がTLで存在感を出し始めるにつれて、J-POPの新曲はとにかくアニメの主題歌にしておくというムーブメントが急速に広がった。「推し」だけがTLでポジティブな求心力を持つならば商品を売るにあたってそこに絡まない手はない。アニメに関連のあるキーワードが一文字でも入っていればオタクはまるで「推しのパーソナルカラーを身に着けたひそやかな同志」のように感じてその歌をもろとも推しはじめる。結果として、全体的に、「白け」が広がりはじめていると思う。今のJ-POPの売り方はトレンドワードをランダムにちりばめたスパムアカウントと同じ、とまで言うと乱暴だけど、京急と都営浅草線くらいには路線が共通している。






ラフカディオ・ハーン/小泉八雲について、その大きな日本愛にとどまらず、生い立ちからアメリカでの記者時代、メンフィスでのクレオール語との出会い、エキゾティズムへの関心などをつぶさに描いた、宇野邦一『ハーンと八雲』という本を読んだ。この中に、ハーンのニューオリンズへの視線をこのように記した場所がある。少し長いが引用する。

“湿地帯のうえにあり、ゼロメートル以下の地域が拡がるニューオリンズでは、死者を地下に葬ることは不可能で、地上に立てた「乾いた墓」に葬るしかない。いわば、生者は地上に、死者は地下にという分割がなりたたないのである。すでに廃墟となった数々の古い館と、この墓所の構造は、ますますゴーストタウンの印象を強める。街全体に刻まれた古代世界を思わせる壮麗な装飾さえも、ハーンにはとりわけ死の記号に見えるのである。「富と不思議な異国風の美は、復活もおぼつかないほど壊滅してしまった貴族の手によって作られ、いまや死に絶えて過去のものとなってしまった社会体制によって育まれてきた。その富が消え去ったように、その美すら消えていく運命にある。年月が経つにつれて、かつてのおおらかな生命は狭い血管へと凝縮してしまい、ついにはその商業の大動脈を除いて鼓動を止めてしまうに違いない。すでにその美は薄れ、崩壊しつつある。」こういうハーンの文章は、じつは大きな問題を内包している。死につつあるニューオリンズの栄華と美は、いまや廃棄されてしまいつつある「社会体制」とともにあった。その美を讃えることは、その「社会体制」を讃えることにつながる。ハーンの周囲で、いまそこで生きている民衆たちは、そのような「社会体制」の持続をのぞまなかったのだ。もちろんハーン自身は、貴族主義者でもなければ封建主義者でもない。しかし、貴族が存在し、奴隷もまた存在したアメリカとカリブ海の島を「失われた楽園」のように改装し、物語るハーンが確かにいる。ハーンは同じ問題と同じ状況に、やがて日本でも遭遇することになるだろう。”


SNSから、ハーンがニューオリンズから感じたであろうそれと同じにおいがする。陽と陰、生と死が混沌として、本来分節されるはずのものたちが、誤解と恣意のもとに誤命名されつづける場所。過去の差別的構造がさまざまな問題を含みながら構築した「今は建てるべきではない伽藍」のおもかげ、栄華のよすがを懐かしみながら、大義としてそこから出ていこうと試みる、しかしいつまでも敷地を出られずにさまよっている、戸籍を失った住人たちの独白。魂が痩せ、目だけがしたたかに生の充実を追い求めるぼくらはポストアポカリプス的SNSの生霊的住人なのである。