もう誰もノマドって言わなくなった

病理医は在宅だと仕事がしづらいな、ということを最近よく考えている。

仮にこの先、5Gどころか6G、7G、20Gくらいになって回線速度が爆速になったとして、あらゆるプレパラートがバーチャルスライドになってクラウドに取り込まれたとして、それで診療がオンラインだけで完結すると思ったら大間違いだ。

50万人に1人しか出会わないような珍しい病気を調べるのに紙の教科書を紐解こうと思うとき、職場にいなければ資料の9割が閲覧できない。それが不便だ。「うちの病理では資料はすべてオンラインで手に入るので問題ありません」。それはあなたの部門だからだ。専門としての臓器を2,3個しか相手にしていない特化型の病理学教室ならば可能かもしれない。オンラインで最新の診断基準や典型画像がぜんぶ学べる科だけを相手にしていることをラッキーに思えばいい。

しかし市中病院で雑多な臓器を相手にするとオンライン礼賛ばかりもしていられない。消化管の非腫瘍性疾患のあれこれがオンラインでカヴァーできると思ったら大間違いだ。紙の教科書を複数同時にひっくり返して視界におさめ、目線をうろちょろさせながらひらめきが降りてくるのを待つ作業をたかだか3個の外付けモニタでやろうと思っても狭っ苦しくてしょうがない。

「A病か否か」はインターネットで検索できる。「A病の特徴」だってたくさん手に入る。しかしA病かB病かという選択肢がそもそも思い浮かばない「無」から診断を構築するにあたって、検索で道を選び取ることはむずかしい。

AI? 病理医ほどプログラマーに近い職業もないはずだが? 病理AI事業が絵合わせ以上のことを一切出してこないんだけど? あれ、いつまで待ってればいいの? ドラえもんの話してる?


「紙の教科書なんてすべて断裁してクラウドにぶちこめば家でも読めるでしょ」という人がいるので驚く。神田の古本屋をぜんぶデジタルアーカイブにする、というのと発想がいっしょ。いずれはやるでしょ、だって人類の叡智を大切に保存しなきゃ、みたいな話はいったん脇においてほしい。たぶんそういうこと、人類はずっとやらないと思う。国立国会図書館がやってるでしょ、という話ではない。公費で購入した教科書を職員全員が供覧できるような権利システムを構築しないといけない。骨董品じゃなくて実用品なのであり、使えなければ意味がない。ちなみにWHOの初版本のような今では手に入らない希少本の背表紙を切らずに電子化するスキャナ、あったら便利だろうけど、いくらくらいするの? サーバーの保守管理料金は? 追加で病理医ふたり雇えるほどの金がかかるだろう。

出勤する手間は、「いざ出勤してしまうだけで、あとは膨大な手間がかからなくなる」ということと天秤にかける必要がある。出勤しなくて便利だねー、家でたいていのことができるから便利だねー、じゃないのだ。「あっ、今日職場にいれば、あの本が読めたのに」を逸失することがおそろしい。IoachimのLymph node pathologyになんて書いてたっけ、Katzensteinのnon-neoplastic lung diseaseの言い回しを一応見ておくか、成書に数秒視線をやる仕草、今まさにまなざそうと感じる刹那、「あー家にいるから無理だ、でも、まあいいかー」が起こることで失われる摩擦熱エネルギー。

「たくさんの本を同時に並べながら診断を考える」という作業は、1年に1度あるかないかだ。1冊の本だけをじっくり読み込んで診断を考えるにしても、1ヶ月に1度くらいだろうか。その程度の頻度でしか起こらないイベントのために、毎日出勤する必要があるか、と言われると、ない、と言ってしまいたくもなる。でもそこで、「まあいいか」で失ってしまうものがある。「まあいいか」が月に1度だったとして、20年続けば240回だ。その240回、もし出勤していたら、はぐれメタルとまでは言わないが、メタルスライムを一匹倒したくらいの経験値が手に入ったはずなのだ。それを取り逃すということ。ドラクエIIIでは、メタルスライムを一度も倒さずにバラモス戦に挑むと推奨レベルより2,3くらい低い状態になる。「あれー? なんかレベル足りないなー」。冒険の最中で、ある程度の「メタルスライム狩り」が望ましい。それがスムースな攻略の鍵なのだ。結構いい年の病理医なのにわりとポピュラーな診断の落とし穴にずっぽりはまっている話を(それこそネットで)目にすると、あー、メタルスライム狩りをやってこなかったタイプの人なんだろうな、とわりとマジで思う。


というわけで病理医は在宅だと仕事がしづらい。ただこの論を書き記すにあたっての誤算がひとつあった。「在宅だと仕事がしづらいという困難状況」にほくそ笑みながら立ち向かっていく自分のイメージが湧いてしまった。「だったらなんとか工夫して、どうにかして家で仕事をしてやる!」という克己心がふくれあがってしまった。そういう気持ちになりたかったわけじゃないのに。あー家でコーヒー飲みながら仕事してぇなー! 患者と合わない科なんだからできるはずなのになー! 切り出しあるから無理なんだけど。