虎徹の魂

先日とあるチェーンのラーメン屋にはじめておとずれた。味噌ラーメンはぼくの好きなちょっとだけちぢれたタイプの細麺で歯ごたえがあるが粉っぽさが一切なくて噛み締めた感じも喉越しも最高である。ネギやもやしなどをきざんだのがたくさん入っていて、見た目にも楽しいし、実際隣の席の大学生は食べる前にきちんと丼正面視(どんぶりしょうめんし)の写真を撮ってインスタにアップしている。チャーシューの上にはすりおろしたしょうがが乗っていて途中で味変に使えるし顔をどんぶりに近づけた時の風味のアクセントにもなっていてじつにすばらしい。スープはしっかり濃厚だがしつこいとかべたつくといった印象はなく、上手に油を使っているからいつまでもあったかいし舌触りは複雑だ。味噌ベースのスパイスの香りも鮮やか、歯ごたえ、舌触り、次から次へと箸を進めるたびに違う具と出会える喜び、何をとってもいい感じでとってもおいしかった。

ちなみにその店はラーメンはもちろんだがじつはザンギが名物で、道端の看板には「むしろザンギ。」と書いてあるくらいであり、看板だけを見るとむしろちょっと鼻につくなあ、なんてひそかに思っていたけれども、実際このザンギを頼んでみるとサイズがとてもでかくて普通のザンギの3倍くらいあって笑ってしまったし、一口噛んでみるとクリスピーさといい味の奥行きといい「ケンタッキーの作った新作の限定ザンギ」と言いふらしても誰も疑わないだろうというレベルでこれがまたラーメンに輪をかけてすばらしかったのである。飲食店を褒めるのにほかの飲食店を引き合いに出すのはルール違反かもしれないけれど、揚げ物に対して「ケンタッキーで新商品にしててもおかしくない」というのはかなり上級の褒め言葉だと思うので許してほしい。

ごちそうさま。いい体験だった。ぼくは結局こういうのが好きなんだ。焼き鳥とかさ。

この店には今もなんの不満もない。駐車場もでかめで中は広く、家族連れで賑わっておりトラックの若い運ちゃんなども足繁く通うし近所のじいさんばあさんも楽しそうに飯を食っている。壁際にはエイトアイズや今日から俺は!などのなつかしいマンガがGTOとかNARUTOのようななつかしいマンガと一緒に並んでいてポイント高い。今後も通うだろう。今まで行かなかったのがもったいないと思った。北海道内には18店舗もあるらしい。人気なわけもうなずける。

しかし、今日の話は残念ながら、もっぱらぼくの都合で悲しい展開を見せる。

ぼくはもはや油ものを受け付けない体になっていたのである。


夜中に腹痛で目が覚めた。子供だったら慌ててトイレに駆け込むところだが、ぼくはもういい年なので、冷静に自分の体調を判断しながらしばらくふとんの上でじっとしていてすんでのところでトイレにヨガテレポートした。しかし出そうと思っても何も出ない、これは純粋な腹痛なのである。このあたりで思い出したがよく考えるとぼくは運転免許のほかに医師免許も持っているではないか。今こうして痛みをまきおこしているのがどの部位か、超音波装置など使わずともみずから推測することができる国家資格なのだ。普段ぜんぜん使わないけどここぞとばかりに発動である。瞬時の診断――小腸ならびに大腸全域のけいれん。お美事。医学部6年+大学院4年+臨床生活17年の末に、ぼくは自分の腹痛を正しく診断できたのだ。感無量である。しかしまあわかったところで対処法はないのだ。我が腸はなにかにやられている。寝ぼけまなこをこすりつつ思い出したのはもちろん昼間のラーメンだ。ただし、感染性腸炎、すなわち食あたりではないなとすぐに判断した。これはなんというか、専門的な知識を使わないと解説できないというか、いちブログに書ききれる分量の情報ではないものを使ってそう判断したわけだが、今日は特別にがんばって説明してみよう。

”勘”

つまり別に根拠はないのだがノロウイルスであるとかロタウイルスであるとかノートンアンチウイルスなどといったたぐいのものではなくてなんか刺激物でけいれんしているだけなんだな、ってことをしみじみと考えた。完全に経験則であり医学の知識は1ページも使っていないが結果的にたぶん合っていた。医師免許なんていらないんですよ。

ぼくの腸は語りかけてくる。「お前もうその年でスープ全部飲んだらだめなんだよ」。うるせえな全部飲んでないだろ。半分くらいだ。しかしぼくは夜中にけいれんする腸を落ち着かせるために子守唄を歌いながら思った。間違いない、これは中年あるあるのやつだ、油に弱くなっている――



高齢者がケガなどで長期の寝たきりを余儀なくされると、たとえそれまで歩けていた人であっても急速に足の筋肉が弱って歩けなくなってしまう、という話を聞く。これは年をとった人に限った話ではない。人間というのは多かれ少なかれ、「毎日の反復」によって維持している筋肉やら体のバランスやらがある。折に触れて実感する。「半年くらいにわたりがっつりとした油ものを食べる機会がなかったばっかりに、それまでは食べられていた分量であっても腸が堪えきれなかった」のだろう。老化というのはなだらかに訪れるのではなく、ときにこのように、「うっかり継続を途絶えさせたために、気づいたら階段を転げ落ちるように弱っている」ということがあると思う。同じようなことはいろいろな領域にあてはめることができるだろう。きっと今のぼくは竹刀を振れないだろうし、カラオケでも声が裏返るだろうし、自転車に乗るのも危険なのではないかという予感がある。毎日バカスカキータッチをしているから今はPC作業が苦にならないけれど、たとえば新しいデバイスを手に入れてうっかりそれにひたって、半年くらいPCを触らなかったりしたらたぶんその先のぼくはブラインドタッチができなくなっているのではないかと思うのだ。


雀百まで踊り忘れず、という。普段から踊りまくっていればきっとそうなのだろう。三つ子の魂百までとも言うが、虎徹のラーメン四十五までであったから慣用句もあてにならない。あるいはこれから毎週ラーメン食えば腸は慣れてくるかもしれないが、それやったらきっと太るしコレステロール上がるし血圧も心配なんだよな。