柔軟でありながら堅固でもある

職場のデュアルモニタをPCに向かって右側に装着したのは単なる偶然、というかデスクの配置の都合であった。しかし、これがよかった。

ぼくの頸椎症は、今、花盛りだ。左上を向けばびりびり、背中をまるめて前を向けばびりびり、ふとんの中で左を向いて寝てもびりびり、右を向いても運が悪いとびりびり、美容室で髪を洗ってもらうときに仰向けになってシートが倒れるとびりびり、とにかく、ちょっとした首の角度の違いで左手の橈骨神経領域がしびれまくる。しかし右前方のデュアルモニタにZoom画面を投影してメインモニタにメールソフトを開いて会議中に両者をちらちら交互に眺めてもまったくしびれない。ぼくが今、安心して首を動かすことができる条件が、偶然のデュアルモニタによってはからずも明らかになった。

1.背筋を真っ直ぐにのばす。

2.あごを突き出さずに右を見る。

このムーブセットでは絶対にしびれない。いくら働いても大丈夫だということだ。仕事のせいで頸椎症になったという言い訳は通用しない。うまくできている。むしろうまくできていないのでは、とちらっと思ったけれど、こういうのはポジティブに考えたほうがいい。

似たようなエピソードを持っている人ってどれくらいいるのかな。

偶然に規定された角度のおかげで命拾いした、みたいな話。

ちんちんが右曲がりだったおかげで股間を何かで強打しても偶然タマに当たらなくて済んだ、みたいなこと。

違うだろうか。

いや、違わない。

ぼくはたまたま頸髄と頸椎との位置関係が左右で微妙にずれていた、だからこそ、前と右を向いてたまたま仕事を続けることができた、という話と論理構造はいっしょであろう。たまたま。


急に下ネタが入ったからびっくりした、と知らない人には言われそうだが、構造の話をするにあたって解剖学的に可動域の自由性が大きな部位を(首のほかに)選ぶとしたらそりゃあ陰茎がしっくりくるに決まっている。書いてみるとふざけているように感じられるかもしれないけれどこちらはおおまじめだ。「おおまじめ」と言いながら人を笑わせるようなバカリズム的やり方ではなく本当にまじめに人体の構造がもたらす「偶然の生き残り」に関して今は考えている。

そもそも人間の体が発生の間に片方にねじまがっていること、それがほとんどの人でおなじようにねじまがっていることを考えてみる。心臓の軸は微妙に右に倒れており、大腸は右から左へと食べ物を輸送し、肝臓も脾臓も左右非対称に配置されていて、これらの位置関係がほとんどの人で一緒だというのだからふしぎだ。なぜある人は肝臓がやや右前気味にあり、また他の人は肝臓が左下にある、みたいな差が生じないのか。どうして単なる受精卵の分割からいつのまにか臓器の左右差が再現されるのか。よく考えると腎臓も副腎も精巣も左右で微妙に高さが違うし、肺は左右で分割の度合いが違うのに、骨と皮がくっついて筋肉をまとうと誰もがそれなりにきれいに左右対称になって見える人体のふしぎ。そんな中でなぜか陰茎だけはたいていの人が右に左に微弱にねじまがっていて、ぼくの頸髄はなぜか左右差をもって痛めつけられている。左右差があっていい部分とあっては困る部分、イチ、ニ、イチ、ニ、左右均等に足を出さなければ人間はまっすぐ歩けないし、両方の目の高さがちょっとでも違ったら立体視に支障をきたすだろうし、口の中の均等性がやぶれたらきっとほっぺたの裏側を噛んでしまうだろう。こういうところものすごくちゃんとコントロールされている。なのにつむじは適当だし分け目も好き勝手、そしてちんちんはねじまがっていてぼくの頸椎は偏って出っ張っていて左手だけをしびれさせるのだ。

人間の体の中には、ものすごくストリクトに、あそびのない状態でしっかりきっちりと設計されている部分と、逆に自由度を高く設定しておいて後天的にどうにでもなるように設計されている部分がある。すべてが進化の為せる技と言ってしまうと味気ない。これだけの幅の狭さと広さが両方とも進化の過程でうまく落ち着くくらいにはDNAシステムがフレキシブルでありロバストであったという事実に感服する。しかしまあこんな感想もまた味気ないというかありきたりであろう。乳首が男性にもあるのは人体の基本形が女性だからで、Y染色体由来のタンパク質を用いて大陰唇を陰嚢に、陰核を陰茎に変え、ウォルフ管とミュラー管のどちらかを育てればどちらかが消退するようなシステムをきちんと用意した結果が今の「ゆらぎあり、確固たる、人類」なのだと思うと恐れ入るけれどこれは散々言われてきたことだしぼくもかつて書いたことがある。射精管を常時硬度の高い状態にしなかった理由だってきっと選択圧との相性的に何かいいことがあったはずなのだ、それはきっと、ぼくがタマタマ、デュアルモニタの右を見て仕事をし続けられるような体で生まれたおかげでいまこうして無限に仕事をさせられてしまっていることと、無関係ではないはずなのである。