グロテスクな病理診断と時おくれの病理診断

中井久夫『最終講義 分裂病私見』(みすず書房)138ページより引用。




”微分回路と積分回路の特性を初めて知ったのは一九九七年に物故された佐貫亦男(東大・日大航空工学教授)の航空計器について書かれたものによってであったと記憶する。飛行機の速度を測るピトー管などは微分回路で解析するわけである。

(中略)

私は一読して、分裂病親和者の行動特性と微分回路と、うつ病親和者の行動特性と積分回路とがそれぞれ実に似ているのに強烈な印象を受けた。微分回路の先取り性、きめこまかな変化を認知するが、無理に増幅するとグロテスクになる不安定性など、一つ一つが危機の時の分裂病親和者その人の行動特性をみるような思いである。リアルタイム(t=0)での絶対予測を求めると潰乱するといえのも、発病の直接契機そのものではないかと思った。

(中略)

積分回路のほうは、新しいものは過去の厖大な累積の中に消え失せるわけで、テレンバッハのいう「インクルーデンツ」(同一状況の中に包まれてある時安定する)と「レマネンツ」(つねに時おくれ)とをよく表していないであろうか。”




中井久夫(精神科医、元・神戸大学教授)にはこういうエグさがある。彼は精神科医であるが、物理学や応用数学、文化人類学、社会学などにおける思考特性を敷衍して精神領域の診療に取り入れるようなことをするのでゾクリとする。


「分裂病親和者」と「うつ病親和者」がどう違うかというのは、彼に限らず精神科医たちの注目の的であるが、これらの行動特性が「微分的」か「積分的」かという印象で語り分けられるくだりには有無を言わさぬ迫力がある。




中井久夫は、このページに提示された(最終講義の)資料で、微分回路と積分回路とをこのように区別している。




微分回路:


先取り。予測。きめこまかな変化を反映。ゲイン小。無理に拡大するとグロテスク。不安定。t=0における精密な予測を求めるとノイズを意味あるものとして拾って混乱。過去のデータを必要としない。(系統発生的先行性、個体発生的先行性が可能。)出力として使うと急速に衰弱。失調はいわば「アンテナの病い」というべきか。




積分回路:


時遅れ。照合。雑音聴取。ゲイン大。拡大に耐える。おおまか。安定性大。ノイズ吸収力が大で、それ自体がノイズを吸収するフィルターとして使われる。過去のデータの蓄積、依存。強大な出力源を長期にわたって維持。失調は、いわば「コンデンサーの病い」というべきか。




ぼくはこれらの仕分けをみながらぼんやりと、「顕微鏡的な病理診断」と、「肉眼解剖的な病理診断」とがこれらの分類にもあてはまるだろうか、ということを考える。




組織を顕微鏡で拡大するという行為は文字通り微分的である……場合がある。ぜんぶではない。細胞同士がおりなす形態を見ているときにはあまり微分をかけている感覚はない。しかし、細胞の核の形態に着目しているときはやはりこれは微分なのだろうなと感じることが多い。免疫組織化学でKi-67やp53の核内タンパク発現量を半定量的に判断しているときにも言えることだ。患者の中でこの病気がこれからどうなるかという未来予測をするためにやっていることとしてはあまりに繊細であり、ある意味グロテスクでもある。細胞病理学を果たそうとするときの私はおそらくアンテナになっている。何を感じ取るかという世界の話だ。ホルマリン固定によって時間が止められた世界における精密すぎる予測は、ときにノイズを意味あるものと考えすぎてしまい、大きく結果からずれてしまったりもするだろう。




解剖病理学は積分的である。人体各所の正常や異常が、その患者の人生と共に積算した結果そこにあるのが生命の残骸すなわち死体であるし、個体すべてが死んでいなくても、手術によって摘出された臓器の生涯は心血管系から切り離された時点で経験の蓄積を終了しているわけで、そこに見えてくる「マクロ像」はまさに積分的である。マクロは病態を完全に反映するし、分類は比較的容易で安定性があり、かつ、常に「手遅れ」である。




病理学者はいつだって遅すぎると言われたのは解剖病理学全盛時代のことだ。生検診断や遺伝子診断が優勢となった今、病理診断はむしろあらゆる検査を上回る推測能力を持つ。しかしそれはあくまで微分回路的な病理診断によるものであって、積分回路を用いた病理診断は昔も今もかわらずレマネンツでありインクルーデンツである。ポスト・フェストゥム的でもあるかもしれない。




中井久夫の最終講義は、精神医学にくらい私のような人間にもある種の光をもたらす。このように「しくみ」や「回路」を隠喩ゴリゴリで語ることには、現場の事象から遠ざかってしまう危険性を感じないわけではないが、当の中井久夫が抽象の人ではなく事象の人であることをしっかりとわかっていれば、私たちは概念に遊びすぎずにまた臨床の振動の中に身を置き続けることができるだろう。私たちはこの技術と精神をもっていったい何をどのように開こうとしているのか。私はこの先何にどこまで名前を与えてどこにどれほど分け入ってゆくつもりなのか。名づけ、分類に対して常に批評的な距離を保った先人たちの言葉に学ぶことは多い。