脳だけが旅をする

「一人旅とは移動型の引きこもり」というツイートを見てのけぞってしまった。じつに納得できる。となれば、毎日働いているというのもある種の引きこもりだということにならないだろうか。私はなると思った。

職場というのは自分を出しているようで出していない場所だ。社交専用の外骨格をさらけ出していれば自分の内面を隠し続けることができる。そういうことだ。これは引きこもりの一形態だったのだ。


これまで、「仕事ばかりしてないで旅でもしてきたら?」に対して、何も言い返すことができなかった。一年に数度、決まった時期にスマホの電源を切って離島や海外に行くタイプの人びとが、私のようなタイプをどこか「不全な人間」といわんばかりに、「もうちょっと仕事以外のこともしたらいいのに」と口にすることに、私もおそらく内心では同意していた。返す言葉もないと感じていた。しかし、仕事だろうが旅だろうが、引きこもる場所や形態を変えているだけとなれば話は別である。

旅に出たところで、それは私にとっては、職場で引きこもるのをやめて旅先に引きこもることにしたということでしかない。肩の力が抜ける。

日常には転がっていない体験をすることはあなたを必ず変えるんだと言われても、旅と体験に投資をすればきっと将来自分は成長するんだと言われても、結局すべては引きこもりのサブタイプにすぎなかったのだから、そんなに気にすることはなかった。ずっと引け目に感じていた。言い返せないことが、思えばずっとつらかった。こんなに抑圧されていたのか、と驚くくらいに気持ちが楽になった。



言うまでもないことだが、旅が引きこもりの一形態ではぜんぜんないという人も世の中にはいる。しかし、『ぱらのま』の主人公が語っていたように、「旅先で自分が透明になる感覚」こそがリアルである人もいる。このことを、私はおそらく一生出会うこともないし出会いたくもないどこかの引きこもり仲間のために、書いて置いておかないといけない。



出張のときに小さなプロペラ飛行機に乗ることがある。ジャンボジェットとは異なり陸橋で直接飛行機にウォークインできるわけでは必ずしもなく、便によっては空港ビルを出てしばらく外を歩いて飛行機に乗り込まないといけない。屋外では地上職員たちがにこやかに案内をしながら、しかし油断のない目つきで、広げた両手を無意識に誇示しつつ、「もしこの客が発狂して滑走路のほうに走っていったらタックルして止めないといけない」と内心考えていることだろう。彼らの監視の目をかいくぐりながら視線をだだっぴろい滑走路のむこうに移すと青みがかった山が浮かんでいて、途中の市街地がなぜ見えないのか、いつも不思議な気持ちになる。滑走路は少し高床気味になっているのだろうか。そういうときにモンゴルの空港のことを思い出す。

これまで私は都合3回……だったと思う……4回だったかもしれないが……たぶん3回……モンゴルを訪れた。そのすべては仕事であった。基本的にホテルから出ることはない。現地の医師たちがトヨタのランドクルーザーでホテルの前に乗り付けて、モンゴルの伝統的な風景を見せてやると言って片道4時間かけてゲルの点在する草原まで連れて行ってくれたことがあるのと、大阪在住の医師と一緒にやたらと出てくるのが遅い肉料理を食った記憶はあるが、これらは例外的で、私はとにかく屋内にいて仕事をしていた。現地の医師たちの前で講演をし、病理診断に関する疑問に答え、みんなの前で顕微鏡を見て組織所見の解説をした。



私はかつてこれを「旅」だと思っていたが、やっぱりこれも引きこもりの一形態であったと言われれば全くその通りなのだ。



沢木耕太郎の深夜特急をはじめて読んだのは20歳のころである。おもしろいなとは思ったけれど、結局20代の後半までまとまった旅をした記憶はない。せいぜい剣道部で東日本のあちこちに遠征をした程度だ。今振り返ってみれば、この部活の遠征も、エクスキューズ的に観光やら食事やらをクローズアップして「旅をした」とうそぶいてはいたものの、たぶんやっぱり「引きこもる場所が移動しているだけ」だったのではないかと今なら思える。そこには部員がいたのだから一人旅ではなかったわけだが、そんなことは関係なかった。誰と一緒にいても私は常に移動しながら引きこもっていた。

そして私はいつも心のどこかで「旅こそが人生なのだ」と言えるタイプの人間にあこがれと圧迫感とを同時に覚えていた。毎週水曜日の深夜に水曜どうでしょうをおもしろく見ていたけれど、そのグッズの中に大泉洋のセリフである「何が起こるかわからないから旅なんだ」という文言が書かれているのを見て、それはちょっとわからないなと違和感を覚えたことを昨日のように思い出す。

私はずっと引きこもってきた。モンゴルの記憶は今はもうおぼろで、思い出すのはチンギスハーン国際空港のロビーの風景ばかりだ。やはりモンゴルは広く、滑走路の向こうには砂漠しか見えないと、写真すら撮らずにぼうっと見ていたあのときの気持ちが、最近なぜか出張のときにプロペラ機に搭乗するまでの数分に鮮明に思い出されるようになった。そのたび、「丘珠空港もたいして変わらないじゃないか」と、なぜかすごく悲しい気持ちになるのだ。


旅が人を変えると公言している人たちはいつ本当の意味で変わるのだろう。旅なんかしなくても人は変わる。旅によって変わるのは旅先で商売をしている人たちの幸福だ。それはとてもいいことだから、人助けと思ってどんどん旅をすればいい。しかし、「旅によって私は変わるのだ」という自分が昔から何も変わっていないことにも自覚的であったほうがよいのではないかと感じることはある。「旅が好きだと言う自分」に引きこもっているという自覚はないのかと問いただしたくなることは確かにあるのだ。そして私は引きこもりだから人と会話したくないので、目の前で旅の良さをとうとうと語られるときはいつもニコニコそれを聞いているのである。