積ん書く

寝起きの保安官「ホアーン」


をXに投稿してきたところである。そのままブラウザを閉じずにブログフォームを開いてこちらにも書き留めたのが上の一行だ。水曜日の朝、8時25分。あと5分でいったんブログをやめて出張スタッフにあいさつをしたり本日の切り出しの予定を確認したりする。なんでこんなぎりぎりにブログ書き始めるのかと自分でもちょっとふしぎだけれど、こういうのはひとまず一行でもワンフレーズでも書き始めておいたほうが、のちの自分にとってラクである。



戻ってきたので続きを書く。「冒頭だけ書いて放置する」というのはなんとなく、「積ん読」と似ているのではないかと感じた。

本を買ったまま所定の位置に置いて(積んで)、そのままなかなか読み始めず、ときおり表紙をちらっと見たり、スマホで作者の名前を見るたびにあっそろそろ読まなきゃなと思い直したりしながら何日も、ときには何年も過ごしてしまう「積ん読」。買って積んでいるだけで読書になっているというのはさすがに言い過ぎだろうと思っていたけれど、買う前の精神を高めていく時間が読書と一連の思索になっているというのを近頃はなんとなく理解できる。私は積ん読は基本的にやらないが、いつか意図的にやってみてもいいかなと思う。

翻って先ほどの私の、ブログを書き始めた状態で放置している状態も、「積ん書く(つんかく)」と言って差し支えないだろう。冒頭を書いて「積む」。あとで書かないとなーと心のどこかで気にしながら、1日もしくはそれ以上の時間をなんとなくそぞろに過ごす。この過程はたしかに執筆とひと繋がりの思索である。

これまで縁あって商業的に書いてきたものはどれも、「依頼が来る前に頭の中でおおよそ書き終わっていたもの」ばかりである。『いち病理医のリアル』、『病理医ヤンデル先生の医者・病院・病気のリアルな話』、『どこからが病気なの?』、『病理トレイル』、『ようこそ!病理医の日常へ』など、エッセイ仕立てのものは一般書・医学書を問わずどれも依頼から3週間くらいで原稿を書き終えた。いずれも頭の中でずっと考えていたことを書いたから早く書けたし、早く書きすぎてしまったという気もする。たとえば当時、一行目を書いてしばらく積んでおく「積ん書く」をしていたら、もっとひねくれて込み入って、ねじまがった末に何かをこじ開けるようなものが書けたかもしれない。そこまでしなかったから多くの人に読みやすくおもしろかったと言っていただけるものが出せたこともまた事実であるが、「書くために積む」ということができるほどの忍耐力は当時の私にはなかったのであって、このほうがいいからと選択したわけではなくそれしか選択肢がなかったのだからいいも悪いもない。

「書けたものから順番に出すやり方」しかできなかった私が、これまである程度の方々に喜んでいただけたということが幸運なのだ。感謝しかない。そして今後は、そこに甘んじていてもいけない。「積ん書く」によって自分から何が出てくるのかを知りたい。「積ん書く」によってどこまでたどり着けるものなのかを見てみたい。


もっとも、最近来たいくつかの執筆依頼は私より若い人にゆずってしまっている。現時点で医学方面の本の依頼を3つ受けており、それらはもうプロジェクトがはじまっているのだけれど、それを除けばこの先もう、新しいものを書いてほしいという依頼は来ないかもしれない。来てもいない依頼に備えて自分の書き方を考えるなんて、それこそ、「積んでもいない、というか買ってもいない本をいつか読んだときのことを妄想している」ような状態である。これになんと名前を付けたらよいだろうか。読書界隈では「本屋に積ん読」とか「図書館に積ん読」という言葉があるそうだ。執筆に当てはめるとしたらなんだろう。「取らぬ狸の皮算用」でよいではないかという気もする。