息子

世の中には知らない仕事がいっぱいあって、離れて暮らす息子がふと口にした仕事も、私がこれまで考えたこともないような仕事であった。私はここ最近ひそかに、なんとなく息子はこういう仕事が合っているのではないかと本人の話も聞かずいくつかの職に就いた息子の姿を想像していたのだけれど、息子がぼんやり考え始めていた進路は、私が想定していたあれやこれやをはるかに越えた、まるで別次元のふくらみを有する世界で、未知の部分も多いし困難もあるのであろうことは容易にうかがえるにせよ、なによりも息子がその場で働いているところがぼんやりと想像できるのであった。「ああ彼は考えたのだ」という私自身の声が私の奥底に語りかけるように脳内にひびいた。なめらかな納得が食道に沿って骨盤のほうまですっと落ちていって温かく広がった。

そのような仕事があるということ自体を知らなかった私は、すぐに、なんとなく息子はこの仕事に向いているのではないかと思いをめぐらせた。しかし次の瞬間には、いや、そもそも、向き不向きなどというものを、現時点でどうこういうのはナンセンスであろうと打ち消した。働くということは向き不向きとは関係がない。そして人生とは選択の連続ではない。かくいう私も、今自分がやっている仕事内容のどれもこれも、10代、20代のときには一切夢見ていなかったし、考えもつかなかったものばかりだ。選び取ったというよりはいつのまにかたどり着いたものにすぎない。「何かをプロスペクティブに考えて、吟味して選んだ結果、今ここにいる」とは思わない。

人生を思い浮かべるにあたり、ベクトルの矢印がわかりやすく北北東や南南西に向いたり向かなかったりするイメージは間違っている。人生はきれいに舗装された道数本を指さしてど・れ・に・し・ようかなどと選んで歩んでいくものではない。

それはきっと、平原の新雪の中を足探りで踏み固めて雪かきをはじめるような感じに似ていると思う。どっちを掘ったら正解だとかどっちに歩いたら効率的かみたいな判断がむなしい状態。それなりに長い間、なぜ打ち込んでいるのかもわからないままに打ち込まなければ、雪かきするためのスペースすら確保できないから、なぜとかなんのためにとかを考えずにある程度は動き出してみないとにっちもさっちもいかない。それはまた、ひたむきに作業し続けられるほど魅力的な活動でもないのだ。雪は重いし外は冷たい。腕も足も最初は冷えていてうまく動かない。ときに日差しや照り返しに目を細め、遠くから聞こえるよくわからない鳥の声に気もそぞろになり、どうでもいいやと思って座り込んでみたがおしりが冷たいのでまたおずおずと立ち上がったりする。集中しようにも対象がぼんやりしているから、ときどき呆然として目線を左右に揺らしたり、逆にじっと何もないところを見つめている自分に気づいたりする。

そういうことを飽きるほど積み重ねて、努力と研鑽で組み上げたものが、いつもまっすぐに屹立するかというとそんなことも決してなくて、それはあくまで「雪かき」なのだからほろほろと崩れたり溶けてなくなってしまったりもするのだ。しかし気づけば踏んで固めた作業場はある程度安定したものになっていて、その真ん中あたりには、寄りかかれるくらいの柱までできている。

それはおそらく事前に思い描いていた「作るはずだったもの」とはけっこう違う。ましてや選択肢の中から獲得したものなんかでは絶対にない。でもなんだかんだで自分がその柱によりかかったり、手でぶらさがるようにしてくるくるピボットターンをしたりできる。それをすることに何か意味があるのかと言われるとわからない。でも、なんというか、動きの自由度だけは確かに増えているのである。

おそらく仕事というものは、自分の人生というものは、そういうものではないのかということをツトツトと考えている。しかしそのような私の想像とまるで別様な場所に息子は何かを見ているようなので、私は大口を開けて笑ってしまったのである。はっははは。おれとお前は違うなあ。やるもんだなあ。