『第三惑星用心棒』(野村亮馬)がしみじみよくて感動。爆炎やワープ、残虐や滅亡などで盛り上がらせすぎることのない正統派SFマンガの系譜で、古くは加古里子の「ものづくし」的表現(『宇宙 そのひろがりをしろう』がすばらしかった)、近年では『映像研には手を出すな!』(大童澄瞳)の細かい手書き文字解説が好きな人にはたまらない作品であると思われる。
紹介はまたも萩野先生だが、きっかけが「第2高調波発生顕微鏡法」からの言葉遊び(第2高調波発生用心棒)で、SFとかマンガを紹介する流れとは関係なしに返信にぶちこまれていたものであるから買えともおもしろいぞとも言われたわけではない。しかし表紙を見てあっこれはもういいやつですねとピンと来て、クソリプ合戦とはべつに裏でKindle即買いしてその日のうちに読んで喜んでいたのが今だ。
私はなんでもかんでもジャケ買い即買いするタイプではない。本の買い方は外食といっしょで、基本的に「出不精」であり、あまり新しいところをばんばん開拓するほうではなかった。タイミング。相性。何度も何度も買おうと思ったけれどまあ今はやめとこうとなってそれっきり未読の作家が何人もいる(特にミステリー作家などに多い)。そこでやめなければきっとおもしろいことに出会えたのに、残念だな、と思わなくもないが、ま、こういうのは無理をしてあれもこれもと手を出しすぎないほうが、なによりもまず疲れなくていいのだと思う。
松本大洋を何年も読もうと思い続けて、でも、なぜか買う直前で躊躇して、ずっと買っていなかった。しかし最近『東京ヒゴロ』(最高の作品です)を読んだことをきっかけに、堤が切れたように『ルーブルの猫』『Sunny』などをばんばん購入し、読んで、結局どれもぜんぶおもしろかった。これもさっさと読んでおけばよかったと思う気持ちと、今になって読んだからこそこれだけ大きな喜びに出会えたのではないかという気持ちとがある。特に『Sunny』は、がまんした時間で「熟成」したのかと思うくらい深い味わいだった。
しかし、よく考えると、熟成されて変化したのは松本大洋作品ではなく、受け取る側の私の脳のほうだ。長い年月を経て発酵して変わったのは作品ではなく受け取り手のほうである。となると、熟成という言葉を用いて説明したのは少々ずれていたかもしれない。
ほかにどんな表現があるだろうか。
キャッチャーミットを長年大事に使っていると手になじんで、いろんなボールを受け止めやすくなる、みたいな表現のほうが近いだろうか。
私は今、皮がくたびれてきて風合いが増したキャッチャーミットだ。同じ球を受けても昔よりいい音を響かせるし、多少はずれたところに投げられた球だって粘り強くキャッチする。豪速球をあまりにたくさん受けると手が痛くなるからほどほどで立ち上がってビールでも飲みに行こうかなと逃げ出すこともあり、その点はプロのキャッチャーでもブルペンキャッチャーでもないのだが、まあ、いい音をたてて捕球することがきらいではないのだ。