座学は中年のもの

『皮膚血管炎 第2版』(医学書院)という本を読んでいる。値段は17000円だがボリュームは中等度といったところ。厚さだけならアフタヌーンよりうすい。

写真は悪くない。明度がばらばらなのはバーチャルスライドではなく手動で撮影したからだろう。コントラストはほどよく、過剰に「お化粧」(教科書っぽく画像を加工すること)された感じがないので好感が持てる。構図がシンプルでここを見せたいのだなということがよくわかる。デルマトロジカルな観察には十分だろうし、ヒストロジカル(組織学的)な検証にも耐える。

まったく難点がないわけではない。一部の図版や表は「なぜこれを入れる必要があったのか?」と感じさせる(こんなチープなベン図になんの意味があるのか、と悩んでしまう箇所がある)。また、逆にここになぜ図がないのか? と足りなく感じるところもある。しかし欠点といえばそれくらいだ。大半の図版は申し分ない。

項目の順番が適切で、(あまりそうは見えない教科書なのだがじつは)通読に向いており、ごくんごくんと喉を鳴らしながら飲み干すように読むことができる。知識の多くはこれまで言葉だけは知っていたがあまり深く考えたことがない内容、そして、知っておくことで明日から皮膚病理の見え方が変わるようなものが多い。この領域をこの深度で書いたものは(網羅性を欠く一部の専門的な論文を除くと)なかなかお目にかからないと思う。

いい教科書である。


そして、思った。このいい教科書を、私がたとえば32歳のときに読んでいてもおそらく使いこなせなかっただろうと。

前提知識があってはじめて読める。巨人の肩の上に立つために、膝あたりから足場を組む必要があるということ。どんな学問においても言えることだ。

「前提知識」にはクイズ的な項目暗記だけではなく、経験的・文脈的なものを含む。

「この病気を実臨床で経験したことがある」という経験が多ければ多いほど、専門書は読みやすい。まったく経験がない病気の話は、うまく想像力を喚起できない場合には、脳の表面を上滑りしていく。

さらに、「私はこの病態を見逃したことがある」という経験もあると、より読みやすいだろう。

究極的なことを言うと、「私はこの病態を知っている。しかし、知識が十分でなかったために、これまでの長い診療経験の中で、誤診したことに気づけないでいる」というのを広義の経験に含めることができる。

頻度的には一度くらい出会っていてもおかしくないのに、診断書に書いたことがない所見というのは端的に恐怖である。

胆嚢漿膜面のLuschka duct。子宮摘出検体の偶発adenomatoid tumor。大腸ポリープのtubular adenoma with serration。肺切除検体のmeningothelial-like nodule。甲状腺付属リンパ節の異所性胸腺。

病理診断科に5年勤めてこれらを一度も書いたことがないというのは、幸運な偶然か、勤め先がこれらの臓器を扱っていないために症例数が足りていないか、もしくは、考えたくもないことだが、見逃しているのである。

今列挙した病態はいずれも、見逃したところで、書き漏らしたところで、その後の患者の生命や予後には一切関係しない。

しかし、自らの過去を振り返って「もしかしたらぜんぜん見えていなかったのかもしれない」と思いついたときにわきあがる恐怖は、病理医という職業の深部にひそんで我々をゆさぶる根源的な感情である。



くだんの教科書から引用しよう。77ページ。太字は私による。


”皮膚症候は以下の3つに分けられ、それぞれが組織学的罹患血管レベルを忠実に反映している(図6-2)。したがって、これらの皮膚症候をみて該当する皮膚血管炎疾患を推定できる。

(中略)

②浸潤の強い触知性紫斑、斑状紫斑、紅斑、丘疹、小結節、血疱/水疱、潰瘍などが混在する多様な皮疹:組織学的に真皮上層~下層、時に脂肪隔壁に分布する小型血管(細静脈、細動脈)の血管炎(LCV(leukocytoclastic vasculitisのこと。市原注)、好酸球性血管炎肉芽腫性血管炎)を表す。LCVは①と比較してより強い炎症性細胞浸潤とフィブリノイド壊死を伴う。”


この文章において、まず、「組織学的罹患血管レベル」という言葉がすっと脳に入ってくるかどうかによって最初の一行の理解スピードが変わるだろう。これが一般的に、「前提知識を要する読書」とされているものだ。

ただし、もしこのフレーズの意味がわからなくても、前後の解説や図を見ることで、「ああ、皮膚のどの深さの血管がやられているか、ということか」と、知識を補完しながら読むことは十分に可能だ。前提知識はちょっと微妙だけど、とにかく読了してしまえばなにかの役には立つだろう、みたいな読書ができる。

しかし、後半で「LCV好酸球性血管炎肉芽腫性血管炎」と羅列されているところは、知識だけではなく経験、それも先ほど述べた「根源的な恐怖」を経験したことがあるかどうかによって、読み方が変わる。

肉芽腫性血管炎。駆け出しの病理医であれば、

「ふーんそういうのがあるのか」

と、知識として読んでいくにすぎないだろう。しかし、ある程度経験を積んだ中堅以上の病理医にとっては、

「肉芽腫性血管炎かあ……名称としてはわかるけど、これまでの診療でそのような名付けをしたことがほとんどないな……あれ、待てよ、これってもしかして、もっと見つけることができた所見なのか? 今までそうと知らずに見逃してきたのか?」

という感想が出てくるのではないか。

私?

私もまた、ひやひやとしている。診断したことがないわけではない。典型例は見逃さない。しかし、「非典型的」なものや、「未完成なもの」を果たしてこれまでどれだけ拾えてきたかと言われると、だんだん声が小さくなっていく。そして、該当ページを舐めるように読み込み、皮膚血管炎の多彩なありようを自分の体験、および未体験の恐怖とすりあわせながら脳のすみずみに刻印する。



教科書のおそろしさ。

座学というと多くの人は、すべてを未知として読んで、なるほどそうかと積み上げていく勉強スタイルを思い浮かべるだろう。しかし、教科書は未知との出会いだけをもたらすものではない。その領域をある程度知悉した人間が、「展開は知っているけれど細部にもっと気を配るために」という気持ちで読む、すなわち「読み直す」ことで、シンプルな記載から幹が伸び、枝葉が伸び、実がついて、それをついばむ鳥が飛び立った先でフンをしてまた次の木が生えて、くらいまで進展して網の目のような知識が一気に入ってくる。

これはつまり「再読の楽しみ」と同じ構造の話だ。

Threadsを見ていたら「再読こそが読書」というフレーズが出てきてなるほどと思った日があった。一度目に読んで(初読で)得られる体験はまちがいなく無二のものだが、すでに体験化しているものをもう一度読むことで、別のなにかが得られる。

一度読み終えて展開もトリックもすべてわかってしまったミステリーを再読することで、作者が序盤から中盤にかけて忍ばせていた高度な仕掛けにあらためて気づく。

劇場で感動した映画を家で視聴し直したら細部のこだわりやBGMの一捻りにようやく気づく、なんてのもいっしょだろう。

古典落語にも似ている。世にある古典落語がこの先増えることはない。だから聴く人はだれもが、話のスジはおおよそ知っている。知った上で聴く。噺家が変われば語りは変わるがそれだけの話ではない。「聴き直し」に落語の本質がある。体験済みのものを「再聴」する過程で立ち上がってくるものに別格の新しさがあるのだろうと思う。


再読やら再聴やらで、得られるとか気づくとか書いてしまったけれど、単に積み上げるのとは違う気もする。なんだろう、そうだな、単純な足し算ではなくて融合が起こる感覚。

フライパンの中で熱したパスタソースに、パスタの茹で汁を少し落として、ゆすって乳化させて、水分と油分を混ぜ合わせて「味」にしていく、そんなイメージに近い。



専門領域の研鑽を積む過程では、若手の勉強と中年の勉強とはあたかも初読と再読くらいに得られるものが変わる。若いころは座学といっても眠くなるばかりだ、それならば、まずはがんがん手技を身につけつつ、コツコツと体験をすればいいのかもしれない。体験が自らの中にたっぷりと蓄積されてからが勉強の本番だ。一度読んだはずの本が何倍にも明るく輝き、確認のために読んだ本から奥深い学びがやってくる日がくる。いつか? だいたい私くらいになったらだ。中堅以上になってからが座学の本番なのだ。

……なんて、こんなことを書くと、「またそうやって若手が疲れて勉強したくないとき用に、かっこうの言い訳を用意して人気取りをするんだから……」とか言われて叩かれる(経験談)。